いくつ 峠を 越えた
今月の診察で再度血液検査をして、高血圧や高脂血症が改善されていれば概ね一段落と謂うことで、これまであれこれ無茶をしてきたわけだが(笑)、検査の結果、高血圧も高脂血症も糖尿病も大丈夫と謂うことで、皮下脂肪が目立って落ちないせいで全体的な体脂肪率は依然高いものの、曲がりなりにも当初の目標の体重を実現したので、目出度く死の四重奏を脱却したと言えるだろう。
そう謂う次第で、今回は何とか目標を達成したと謂う自慢話である(笑)…いいじゃないか、こんなオレがたまに自慢話の一つや二つしたって(笑)。
正直に報告するなら、目標域の体重が持続したのはほんの二日くらいの話で(笑)、その後はどれだけ過酷に運動しても水を飲むだけで一キロくらいは反撥する、と謂う底打ちの状態に陥ってしまった。
やっぱり三カ月で安定的に一〇キロ体重を落とすと謂うのは、激しい運動と平行して定常的に絶食でもしない限りかなり難しい。たとえば、修験道の荒修行のように殆ど飲まず食わずで険しい山野を駆け巡るとか、アラスカやシベリアで過酷な強制労働に従事するとかな(笑)。オレの場合、自分に可能な運動量は現状でほぼ手一杯で、ならば残る方策は健康を損ねてでも食事量を限界以下まで減らすしかないところまで来てしまった。
健康な人間が美容上の目的でダイエットに挑むとか、身体頑健なアスリートが是が非でも減量を完遂しなければならないと謂う状況なら、多少無理をしてでも数字を落とすことが可能だろうが、ハッキリ言ってオレは「予後観察中の病人」である(笑)。流石に普通に考えて健康を損ねるのが当然のレベルの無理も出来まいと謂うことで、この辺で手を打つことにした。
であるから、まあ、二日くらい安定的に目標の体重を持続させたのだから、一応は目標達成と見做そう、と謂うボクシングの減量式の「見做し達成」である(笑)。そもそも、三カ月で一〇キロ落とすと謂う計画の「三カ月」と謂う時間設定そのものに絶対的必然性などないのであるし、検査結果で高脂血症が解消されていたのだからよしとしよう。
そう謂うギリギリ徳俵を踏む形ではあるが、「三カ月で禁煙を達成し体重を一〇キロ落とす」と謂う所期の目標は、何とか二つながらに達成したと謂えるだろう。人間、自分の身一つのことなら本気でやれば必ず何とかなるものである。
一国の総理大臣になれとか数億の現金を用意しろとか言われても、自分以外の複雑な要素が関係してくることだから困っちゃうが(笑)、禁煙もダイエットも自分の行動次第で必ず実現可能なことなんだから、自分の意志決定でどうにでもなると謂うことである。
それはまあ、人によっては節制や運動でカロリーを消費しにくい体質とか禁煙の障害になるような性格的・遺伝的な問題があったりするのだろうが、それは課題を抽出して解決の方図を模索すれば必ず解消可能な具体的細部の問題に過ぎない。個々人の具える個別の条件附けに伴って問題の所在や形が違うのは当然だが、そのような個々の問題性を妥当に抽出しそれを如何に解決するかを考え工夫することが重要である。
結局オレが三カ月かけてやりたかったのは、「楽に痩せたい」「楽に禁煙したい」と謂う世間的によくある心性を拒絶して、原理的に実現可能なことは努力によって必ず実現出来ると謂うことを自他に証明してみせると謂うことだったのだろうと思う。煙草をやめたいと思ってもやめられないなんてことはないんだし、痩せようと思っても痩せられないなんてこともない、しかし、楽をしてそれを達成しようと思うのは間違いである。
それは単に、その目的を実現する為にどれだけリソースを割くことが出来るのか、それによってどのようなメリットが得られるのか、そしてそれは引き合う算盤勘定なのか、と謂う問題にすぎないのである。オレは禁煙とダイエットを後半生の生き残りを賭けた絶対目標に掲げたのであるから、コスト対効果比を計算せず持てるリソースをすべて注ぐことが出来るわけで、だとすれば必ず目標は達成出来るはずなのである。
ダイエットに関しては、体質的に若干アドバンテージがあるから最初から実感的な成算はあったのだが、禁煙に関しては達成しているイメージを皆目実感出来なかったにもかかわらず、三カ月後に自分が禁煙しているだろうと謂う事実関係に関する予想をまったく疑わなかったと謂うのは、そう謂う意味である。
つまり、今は全然実感的なイメージがないけれど、おそらく三カ月の間に何らかの方策を案出することによってその課題を解消し目標を達成しているだろう、と謂う予想だけは物凄く確固たる確信としてあったのである。出来ている感覚が実感的にイメージ出来ないのは、まだ一度も禁煙を持続したことがないんだから当たり前で、無制限にリソースを投入可能な以上「失敗する原理的理由が存在しない」のだから成功するのは当たり前だ、と謂う理路である。
ましてやダイエットなんてのは、普通のペースで体重を落とすことが原理的に可能なのは当たり前と謂うも愚かで、食事を制限して一定の運動を継続しているのに痩せない人間と謂うのはまず以て存在しないはずである。それでも痩せないとしたら、それは摂取カロリーと消費カロリーの計算が間違っているからで、思うように効果が出なければ段階的に前者を減らし後者を増やしてやれば、いずれは必ず体重が落ちる理屈である。
で、人間と謂うものが健康を保ちながらどのくらい体重を落とすことが出来るかと謂う数値的な基準としてBMIなんてものが設定されているわけで、この基準で謂うとオレは一〇キロ体重を落としてもまだ健康に痩せることが出来るわけだから(笑)、そのくらい体重を落とすことが可能なのは当たり前で、「三カ月」と謂う日限の切り方が課題要件であるに過ぎない。
これが「半年」とか「一年」ならもっと着実に体重を落とすことが出来るのは当然であるから、「三カ月で一〇キロ」と謂う辺りがタイムスパンとして出来るか出来ないかギリギリのラインで、博奕としては面白かろう、努力目標として或る程度のシビアさを具えているだろう、と謂うだけの話である。
その一方、前回は正常値だった尿酸値が何故かいきなり高くなっていて、無印だった痛風のリスクが浮上したのには頭を抱えてしまった。これは多分、夏場の常でビールの飲み過ぎだろうと思うのだが(笑)、前回は正常値だったのだからそんなに心配はないだろう、食事の内容に気を附ければ薬を出すまでもないだろう、と謂う見立てではあった。
まあ、オレは元々酒はビール一本槍だし魚介類の中ではイカも魚卵も貝類も大好物なので、ちょっと量的バランスが崩れたら痛風のリスクは高いわけで、そう謂えば前回の血液検査で尿酸値が正常だったのを好いことに退院以来ビールはガンガン呑んでいたし、副食を肉から魚介類にコンバートする目的でイカや貝類を喰う頻度が高くなっていた。
ダイエット的な観点では白身魚をメインに据えるのが好いのだろうが、何せ魚肉は切り身でも畜肉に比べて価格が高いし日持ちもしないので、横着して練り物とかボイルしたイカや貝類なんかでカロリーを抑えていたのだが、あちらを立てれば何とやらで尿酸値のほうがトレードオフになったと謂うことだろう。
さなきだに連日糞暑い昼日中に汗の小一升も掻きながら何時間もガシガシ歩き回っているのだから、その後のキンキンに冷えたビールが滅法界に美味い(笑)。ダイエットで食餌制限をしているうえに煙草もやめてしまったのであるから、酒でも呑まないと間が保たないと謂うこともあって、明らかに従来より酒量が増えていると謂う自覚はあった。
オレみたいに間食の習慣がまったくなかった人間でも、休日の自由な時間には酒でも呑まないことには間が保たない。さらに煙草をやめてしまうと尚更手持ち無沙汰で、それで酒量が増えた嫌いはあるかもしれない。これは、禁煙したのが八月初旬の夏の真っ盛りと謂うことで、関係あるのかどうかハッキリしたことはわからないが。
この三カ月の短い間に、食餌制限だの過酷な運動だの節煙・禁煙だのと謂ういろんな無茶をやらかしてきたわけだが、一つだけ言えることは、複数の無茶を同時に徹底するのはかなり難しいと謂うことである(笑)。
喰いたいものを我慢すると謂う無茶と体力の限界まで運動すると謂う無茶は何とか両立し得るけれど、そこに節煙・禁煙と謂う無茶を乗っけるのは結構難しい。既報の通り、職場の夏期休業を機に禁煙に踏み切った際には多少食餌制限と運動のほうは疎かにしたわけだが、逆に謂えば禁煙のほうに片が附けば残る課題はダイエット一本に絞り込めるわけだから、多正面闘争を避け個別撃破を徹底すると謂う考えである。
段階的禁煙法はいざ禁煙に踏み切った際の確実性を高める為の計画であるから、禁煙が成功すれば「煙草を吸いたい」と謂う欲求の持続からはフリーになるので、それ以前の節煙の段階よりも精神的に楽になるはずだし、禁煙を達成した後の実感で謂えばそれは事実その通りである。
喫煙と謂う欲求の解消手段が残されていながらそれを我慢するのは結構なストレスであるから、いっそキッパリやめてしまったほうが心理的に楽だとは謂えるのだが、そんなに簡単に「キッパリ」やめられたら誰も苦労しないのである(笑)。
「いっそキッパリやめてしまう」為にその準備段階として「我慢する」訓練を継続するわけであるから、禁煙に踏み切っても成算が持てるだけの段階まではやっぱり苦しいストレスが続くのである。そうでなければ「今日からキッパリやめます」「やっぱり無理でした」と謂う挫折体験を繰り返しながら長い年月を掛けるしかない。
オレの場合、三カ月計画は急ぎすぎだったかもしれないが、挫折体験の繰り返しで長年月を掛けられるほどの余裕もなかったのであるから、禁煙に関してはいずれにしても確実性と迅速性の両立が必要だったのである。
オレは禁煙治療は受診しなかったのだが、多分現代医療の協力を得ると謂うのが一番賢い選択肢なのであって、では何故それを選ばなかったのかと謂えば、単なる意地尽くだとしか言い様がない(笑)。禁煙補助剤などの助けを得るにしても、或る程度は自分の問題解決能力や意志の力で何とかしたいと謂う気持ちがあったからである。
ただ、やっぱりいろんな無茶は同時には出来ないわけで(笑)、禁煙に踏み切るならそれに集中して他のことは後回しにせざるを得ないのだが、それはダイエットでも同じことで、たとえば食事を制限して摂取カロリーに見合った運動を継続すると謂うやり方であれば、世間でそのように目されているほどビールはダイエットの障害にはならない。
前述の通り、ウォーキングから戻るといつもビールを一リットルくらい呑んでいたのだが、それでも確実に体重を落とせていたのだから、酒を呑むと肥ると謂うのはそんなに根拠のある話ではないと思うし、その一方で酒を呑んでも肥らないと謂うわけでもないと謂うくらいのバランスだろうと感じている。つまり、肥るとか肥らないとか謂うレベルの体重の増減に関しては、酒のカロリーなどそんなに主要な決定的要素ではない。
実感的に謂えば、運動でリカバリー出来ないくらい摂取カロリーが無闇に大きいのはやはり脂っこい炭水化物、就中ラーメンと炒飯である。禁煙中にストレスを喰い物で発散する為に何度かラーメンを喰いに行ったのだが、一般的なとんこつ魚介系ラーメン一杯喰った分のリバウンドを運動によって消化するのは物凄く大変である(笑)。同様に、いつも喰っている程度の量の飯でも炒飯に調理したら体重の増え方が全然違うので、ラーメン+炒飯の組み合わせは黄金のメタボアイテムである。
おそらく、たまにラーメンを喰いながらゆっくり減量するのが不可能だと謂うことでもなければ、食餌制限のある人が或る程度食事の内容を遣り繰りしてたまにラーメンを喰うと謂うこと自体が間違っていると謂うことでもないと思うのだが、少なくとも三カ月で一〇キロ落とそうと謂う困難なペースで考えるなら、ラーメンだの炒飯だのを喰っていたらとてもじゃないが実現は難しい(笑)。
これまで報告した通りのオレの運動量で謂えば、ラーメン一食分のリバウンドをリカバリーする為には休日二日分の運動量が必要で、継続的にラーメンを喰い続けるのであれば、体重が増えることはあっても絶対に減ることはない(笑)。
ラーメンを常食しているひえたろうさん辺りはどうなんだか識らないが(笑)、多分、本人基準で確実にどんどん体重が増えていっているはずで、もしも減っていたらそれは身体機能の何処かが病的に悪いと謂うことであるから、病院に行って精密検査を受診したほうが好いだろう。
とまれ、この禁煙時の食餌制限の乱れさえなかったら、多分もっと効果的にダイエット出来ていただろうと謂う反省はあるのだが、そんな鱈のレバーなんて考えるだけ無意味な話で、禁煙に集中するプロセスでそのストレスを別の何かで発散出来なかったら成功なんかするはずはないのであるから、そこはトレードオフになる。
同様に、なんで苦労して長時間ウォーキングをした後にビールをガブ呑みするような無意味なロスを自らに許すのかと謂えば、鋼鉄の意志を持つハードボイルドヒーローでもない普通の男が無謀な目的を達成する為には、辛いストイシズムに徹するばかりでは絶対に持たないからである。
散々汗を流した後のビールが美味ければ、それは汗を流す為のモチベーションになり得るわけであるから、それで少しばかり減量にロスが出るとしても、それに見合うだけのメリットがある。最初からそのロスをなくして最大限の効果を得ようと考えるのは、おそらくあまり正しい考え方ではない。
それが問題となるのは、たとえば今回のように尿酸値の高騰と謂う別の課題の出来が判明してからの話であって(笑)、その時々の認識においてビールを呑むことのメリットとデメリットを妥当に計算することが重要である。或る局面において課題であり得る事柄が別の局面においては課題とはなり得ないことなど幾らでもあるのだし、その逆もまた然りである。
一見無謀な目標を達成する為にオレが持っているアドバンテージと謂えば、自分に何が出来て何が出来ないかを経験的に識っていて、その為に何をしたら好いかを試行錯誤して案出することが出来ると謂う能力だろうと思うのだが、大前提としてオレは肉体的には凡人かそれよりちょっと劣る資質の持ち主だし、衆に選れた意志力の持ち主でもないと謂う自己認識がある。
ちょっとくらい辛いことは普通に我慢出来るだろうが、物凄く辛いことを幾つも同時に我慢することなんて続かないのが当たり前と謂う前提なのだから、ちょっとずつ辛いことの総量が個人の限界ギリギリの辛さになるような全体的な遣り繰りで何とか賄うと謂うのが基本方針である。で、人間は努力すれば限界をちょっとだけ超えることは可能だと謂うのがオレの信念だが、限界を大幅に超えれば一気に総崩れになるわけだから、そこはギリギリのバランスを保たねばならない。
今回は最初に公言した目標を達成出来たわけであるから「成功の秘訣を得々と語る」的な鼻持ちならない自慢たらしさは多少大目にみて戴きたいのだが(笑)、具体的な話はこれまでに散々したから抽象的なことを語ると、或る一定のタイムスパンを設定してプロセスを計画し、その中で自分の個別の問題性を抽出し、それを解決する為の具体的方法を試行錯誤によって決定していくことが重要だろうと思う。
それこそ後知恵の自慢話になるが(笑)、たとえばオレの禁煙法に成功に結び附く何らかの取り柄があったとすれば、それは禁煙と謂う一般的にはオールオアナッシングな試みを一定のスパンの間のプロセスに分解したところだろうと思う。
禁煙は普通、一旦始めたら持続するか挫折するかのどちらかの結果しかないが、オレのやり方には「訓練」とか「試行錯誤」とか「進捗状況」と謂う概念が存在するわけで、少しくらいの失敗や後退や見込み違いを消化可能で、試行錯誤による改善を許容する柔軟性と振れ幅があるところが取り柄だろうと思う。
気合い一発の短期決戦が好きな人には向かないが、オレは逆に一瞬で勝負が決まるような投機性の高い試みは確実性がなくて嫌いなので、特定の時間的スパンの中で計画されたプロセスを努力と改善によって確実に進捗させると謂う形式が好きだし、結果を確実に求めるならそのほうがマシなやり方だろうと考えている。
人間にはここ一番の勝負どきと謂うのがあるのだろうけれど、たとえ勝負に敗れても死なない限り人生は続いていくのだから、一瞬の勝負のセンセーションに燃えるだけでは意味がない。以前、何とかマゲさんだかマゲ何とかさんだかに語ったことであるが、オレが求めるのは「禁煙の達成と謂う結果としての事実」であって、「禁煙を達成出来た自分はエライと謂う満足感」ではない。
であるから、自分の意志力に自負や自信を持つ人なら絶対選ばないような惰弱な選択肢を選ぶことも出来るのだし、そのような人なら払うに値するとは考えないコストを払うことも可能なのであって、畢竟するところ「どんなに意志薄弱なダメ人間でも達成可能な方法」を模索するわけであるから、確実性のレベルが違う(笑)。
繰り返しになるが、オレは別段自分の意志力なんか信用していないし、その面で衆に選れた資質があるなどとはまったく考えていないからこそ、そんな自分でも達成可能な工夫を常に考えて出来る限りの努力をするのである。
勿論、オレよりも意志の弱い人だって存在するだろうが、そんな人ならオレとはまた別の工夫を模索して自分に出来る程度の努力をすれば好いと謂うだけの話であって、最低限これこれこれだけの資質がなければ禁煙やダイエットが出来ない、なんてことだけは絶対にない。
つまり、冒頭で語った「原理的に実現可能なことは努力によって必ず実現出来ると謂うことを自他に証明してみせると謂うこと」とは、「こんなオレでも必要に迫られれば禁煙やダイエットが可能なのだと謂うことを証明する」と謂うことに外ならない。それは「禁煙やダイエットが出来たオレはエライと謂うことを証明する」ことでは毛頭ないのだし、「楽をしようと謂う小狡いことさえ考えなければ、それは誰にでも可能なのだと謂うことを証明する」と謂うことである。
苦労してでも目標を達成しよう、その為に出来る限りの努力をしようと考えるなら、現代の科学技術は努力を効率化する知識・情報やグッズの形でその試みを効果的にサポートしてくれるが、努力もしないで楽に目標を達成しようと考えるなら、そんな虫の好い願いを叶える万能の科学技術力なんてまだ人類は獲得していないのである。
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コメント
こんにちは、最近実はホメオパスなのでは疑惑を囁かれているうさぎ林檎でございます(心底イヤ)。
死期が近づいた人の文章のようなフシもありますケド、多分気のせいですね(笑)。
そして、結文でいきなりステージが上がっていますが、この夏はビールが美味しかったと謂う結論でもおK?
投稿: うさぎ林檎 | 2010年9月13日 (月曜日) 午前 10時54分
>うさぎ林檎さん
>>最近実はホメオパスなのでは疑惑を囁かれているうさぎ林檎でございます(心底イヤ)。
…あれ? 違うんですか?(笑)
まあ、事実関係の観点ではホメオパスでないにせよ、一般的なホメオパスと同程度かそれ以上にホメオパシーを深く深くさらに深く学んでおられることは衆目の一致するところでしょうから、そのうちホメジャから名誉ホメオパスの称号と市民の鍵が贈られることは間違いのないところでしょう。
>>死期が近づいた人の文章のようなフシもありますケド、多分気のせいですね(笑)。
これこれ、うさぎ林檎さんらしくもない、相手がオレだから好いけれど…と謂うかオレ以外のヒトにそんなことは言わないでしょうが(笑)、そんなことを言って偶々相手がその直後にポックリ死んでしまったら大変寝覚めが悪いでしょうに(笑)。
まあ、ロケーション的に志木は大変近いところにありますが(笑)、死期についてはオレも来年五十路ですし、一〇年前から比べれば一〇年死期が近附いたと謂う言い方は出来るわけで、そうは言ってもまだまだ大人しく墓の下に入って差し上げるつもりなどありませんから安心してください、少なくとも、もう暫くは正露丸の効能書きよりも長い文章が読めますよ(笑)。
>>そして、結文でいきなりステージが上がっていますが、この夏はビールが美味しかったと謂う結論でもおK?
お恥ずかしい次第ですが、この過酷な夏に過酷な荒修行で過酷な目標を達成出来たことで、誰にともなく「文句あっかこの野郎」的に息巻きたいくらいテンションが上がりまくりまして、振り上げた拳の下ろしどころを完全に見失いました(木亥火暴!!)。
何と謂うか、そのくらい自分が卒中で倒れたことが腹立たしかったのですよ。
それはともかく、今年の夏は厭がらせのように糞暑かったので、たしかにビールが殊の外美味かったですねぇ。分けても、炎天下を歩き廻って手拭いを絞れるくらい大汗を掻いた後に呑むビールは本当に格別の味わいですよ。「砂が水を吸うように」と謂う喩えが大袈裟に感じないくらい、喉元から身体中にすうっとビールが染み込んでいきます。
ただ、正確に言うなら今年の夏に「ビール」を呑んだ経験は算えるほどしかなくて、専ら「クリアアサヒ」と謂う「ビールみたいな味のする水のような発泡酒」ばっかり呑んでいたのですが(笑)。
一〇年前までは「ヱビスにあらざればビールにあらず」くらい贅沢な嗜好だったんですが、ここ数年の貧乏暮らしで生活レベルが地を這う如くに下落してしまいまして、最近は収入も安定してきたので、たまにヱビスビールを買って呑むんですが、口がクリアアサヒの水みたいな薄味に馴染んでしまって、ヱビスではちょっとしつこいように感じてしまいます。もう、舌の先まですっかり貧乏が染みついているのですなぁ。
投稿: 黒猫亭 | 2010年9月14日 (火曜日) 午後 09時44分
こんにちは。
そうかぁ、、、エビスですかぁ。
私も以前はエビスでした。
貧乏なくせにエビスで、夫とお互い決して譲り合わずケンカ(?)しながら飲んでいました。
この頃はそのエビスからも遠ざかりました、、、
さて今回も黒猫さんの迫力ある文章、読ませて頂いてあなたの「生きるためのエネルギー」を身近に感じましたよ♪
実はこの6月、母を亡くしました。
90歳を越え、大往生だったのですが、やはり遺されたものは寂しい。
それは何気ない日常のふとした時に心にしみてくるそんな静かな寂しさです。
死と生をどう受け入れていくか、どのように心を整えていくか、、、
人はいつもそんな岐路で己を試されているのだと思うことしきりです。
実家は浄土真宗なので、このごろ親鸞について、歎異抄についてかなり読み込んでいます。
「悪人」である自己から親鸞のいうところの他力にまでなかなか生りきれない自分といものとの葛藤です。
が、
これはこれで楽しいものです。
母が遺したのは「後ろ姿」ですねぇ、、、
黒猫さんもご自分のお体はもとよりご両親もどうぞお大事になさってね!
では、落ち着いたらまた京極談義など。
「この世に不思議なことはなにもないのだよ、、、」
チャリンと。
投稿: せとともこ | 2010年9月16日 (木曜日) 午後 12時06分
>せとともこさん
>>そうかぁ、、、エビスですかぁ。
嗜好品に関しては若い頃から「これ」と謂う一本に絞り込んでしまう質で、煙草はロングピース一本槍だし、ビールはヱビス一本槍と決めていました。少し前までは、烏龍茶はアサヒのペットボトルに限っていましたし、試行錯誤の結果「これ」と決めた銘柄がこの世で一番美味いと確信していますから、それ以外のものにシフトするのは結構抵抗がありますね。
一般名詞としての「煙草」とか「ビール」とか「烏龍茶」ではなく、それぞれが特定銘柄に結び附いて固有名詞化する質なのですね。煙草に関しては極若い頃にロンピーに決めて以来四半世紀以上の長きに亘る附き合いでしたが、一〇月の値上げを待たずこの夏に円満な訣別を果たしたと謂う次第で(笑)、煙草自体をやめてしまうまで別の銘柄に変えようなどと思いもしませんでしたが、ビールと烏龍茶については、定職を喪い貧乏して都落ちをする前後に大分グレードを落とした経験があります。
一度贅沢の味を覚えると生活レベルは仲々落とすことが出来ないなんて謂いますが、結局背に腹は変えられないのですからレベルを落とす以外にはないわけでして、ビールに関してはいろいろと試した結果、殆ど余計な味がしないことが逆に好くて「第三のビール」カテゴリーである「クリアアサヒ」にグレードを落としましたし、烏龍茶に関しては茉莉花茶の茶葉を買ってきて冷茶を自製すると謂う地味な習慣に落ち着きました。
いずれもグレードを落とした当座は相当辛かったんですが、人間、何にでもいずれは慣れるものだとつくづく思います(笑)。
ただ、今回の検査結果を受けて尿酸値の高騰による通風の発症が新たなリスクとして浮上してきましたので、これまで親しんできた「第三のビール」相当の「クリアアサヒ」からグレードが一つ上昇して、プリン体九九%オフが目当てで「発泡酒」である麒麟麦酒の「淡麗W」に鞍替えしました(笑)。
これがまた、きめ細かい泡が出来るのが唯一の取り柄で、何だか妙に甘ったるいバニラエッセンスのような独特の風味が強い発泡酒でして、低価格の「第三のビール」カテゴリーでプリン体カットの「アサヒオフ」も同様に甘ったるいお菓子のような風味がするので、似たような手法でプリン体をカットしているのかもしれません。
>>実はこの6月、母を亡くしました。
>>90歳を越え、大往生だったのですが、やはり遺されたものは寂しい。
ご愁傷様でした。なんだかこの言葉も、最近は皮肉な意味合いで使われることが多いので、本来の意味で口にするのを躊躇ってしまいますが。ウチの田舎のほうの感覚だと、七〇とか八〇過ぎた人が亡くなっても「悲しい」と謂う印象はないんですが、いつも一緒にいた人が亡くなると、幾つで亡くなっても「寂しい」と謂う感覚はあるのかもしれませんね。
>>実家は浄土真宗なので、このごろ親鸞について、歎異抄についてかなり読み込んでいます。
ウチの実家も北陸なので真宗ですが、今のところまだあんまり仏いじりに関心が湧かないのは、何となく「まだちゃんと自分の人生を生きてねーな」と謂う心残りがあるからかもしれませんね。この歳になっても独身で女房子供もいないですし、死に方よりも生き方のほうに対する関心のほうがまだ強いと謂う感じですかね。
>>黒猫さんもご自分のお体はもとよりご両親もどうぞお大事になさってね!
ウチの親もすでに七十代半ばですから、そろそろ滅んでいく年代ではありますね。先日検査結果の報告がてら電話で話をしましたが、恥ずかしながら、まだこの人たちが明日死ぬかもしれないと謂う実感はありませんでした。
両親とはこれまで結構心理的な距離を持って生きてきましたから、いざ亡くなってもそんなに悲しいと謂う気はしないでしょうし、多分他人の世話が必要になったときのことは自分たちで考えていて、オレたち子供の世代の助けはアテにしていないんだろうとは思うんですが、もう結構な高齢だと謂うのに、両親の今後のことはまだ全然考えていないですね。
どう謂うものか、自分の生まれた家の肉親との関係と謂うのはかなり薄く生きてきましたね、これまで。肉親に対する愛情に近い感情と謂うのは、猫を飼って初めて実感したくらいですから、多分親が死ぬより猫が死ぬほうが辛いだろうと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2010年9月16日 (木曜日) 午後 06時22分