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2010年9月17日 (金曜日)

滑稽な死に様

poohさんのところで、うさぎ林檎さんが紹介してくださったホメオパシーによる悲惨な被害の事例が、何だか筒井康隆的な痙攣的ブラックユーモアに通じるものがあると謂う話が出ているのだが、やっぱりこの現代においてホメオパシーを信奉すると謂うのは典型的な「愚行」に当たるわけで、愚行の酬いが悲惨であればあるほど極端な滑稽さが生起してくると謂うのは、倫理性の問題ではなく笑いのメカニズムの問題のように思う。

たとえば、誰でも一度は耳にしたジョークとして「周りから散々やめておけと止められたのにビールを呑みながらチーズフォンデュを喰って胃の中でチーズが固まって死んだアメリカ人の話」と謂う有名なネタがある(笑)。

まあ、幾ら何でも冷たい飲み物を呑んだくらいで胃の中でチーズが固まるなんてことはないから、これは単なる作り話であるが、このネタは「やめておけ」と止められているにも関わらずそれを敢えてしてしまうと謂う愚行性がキモであり、如何にも他人の助言を無視してそんな愚かな独善をやらかしそうな人種として「世界の田舎者であるアメリカ人」が挙げられている辺りがキモである。

常識的に考えて「やめておけ」と止められるのが当然の愚行を敢えて犯し、その酬いとして悲惨な結果が出来すると、誰でも痙攣的に笑ってしまう。これは笑いのメカニズムとしては一般的なものである。

勿論、ホメオパシーによる健康被害と謂うのは笑い事では決してない。あかつき問題だとて笑い事ではまったくない悲惨な事件であることは間違いないのだが、ホメオパシーが典型的な「愚行」であることも事実で、普通の常識を持っていれば「やめておけ」と謂う話になるのが当然であるにも関わらず、敢えて頑なに「いや、これは素晴らしいものなのだよ」と主張し実践するのは、普通の感覚では「愚行」である。

その「愚行」のもたらす酬いが悲惨であればあるほど「滑稽」な印象が強烈に生起してくると謂うのは笑いのメカニズムからして当然の反応で、前掲のアメリカ人のネタで謂えば、胃の中でチーズが固まって死ぬと謂うのはそれ自体滑稽であると同時に悲惨な事態であり、その頑なな愚かしさの酬いが「ちょっとヒドイ目に遭う」と謂うレベルではなく「死の尊厳を見出し得ない愚劣な死」である辺りが強烈に滑稽な印象を醸し出す。

一般的に、頑なな愚行に対して悲惨な酬いがあった場合、「それ見たことか」と溜飲を下げると謂うのは普通の感覚なのだし、その酬いが極端に悲惨であればあるほどサディスティックな満足感が伴うのも普通の感覚である。この笑いのメカニズムは、倫理性とはまったく無縁な領域において発生する即物的な感覚の機序である。

ただ、ビールとチーズで死んだアメリカ人のネタは作り話だが、ホメオパシーで死んだ人々の事例は作り話ではないし、人々がホメオパシーを信じる心性はこのネタのアメリカ人のような「個人の非常識な愚かさ」と同列ではない。それは一種の社会問題なのであるし、日本においてホメオパシーをビジネス化しようと目論む人々の欺罔性の問題なんかもあるわけだが、そのようなアスペクトとは別の切り口で視れば、ホメオパシーによって死ぬことが典型的な「滑稽な死に方」であることは間違いない

poohさんのところのコメント欄では、うさぎ林檎さんが「信号機が当たって死んだ気の毒な人の話」を挙げておられたが、広い世の中には「バナナの皮で滑って転んで後頭部を強打して死んだ気の毒な人」だって存在するはずである。

その場合、それは完全に不幸な事故であるから本人にそれほどの責任があるとも限らないが、この死に方が滑稽であることは一面の真実であって、故人に対する感情の如何に関わらず葬儀の席上で真顔を貫くのが困難であることは論を俟たないだろう。

であるから、人間はひょんな偶然から滑稽な死に方をしないとも限らないわけで、誰でも自分の死を他人から笑われるのは厭だから、せめて死ぬことが避けられないなら滑稽な死に方をしないように気を附けている部分はあるだろう。

特撮関係者には「泥酔して入浴し風呂場で転んでガラス戸を破って死んだ人」と謂う事例もあるわけで、この場合「泥酔して入浴する」と謂う部分に迂闊な部分があるので、その死を悼む人々ですらが何とも微妙な感覚を覚えたりするわけだが、やはり人間には他人様から笑われるような滑稽な死に方をしないように精々気を附けて生きるべきだと謂う弁えがあって然るべきではあるわけである。

以前古典落語の時代の生活ぶりを論じた際に、そのコメント欄で、

たとえば「らくだ」の主人公がフグを喰って中たるなんてのは、当時の感覚では莫迦な死に方だったのかな、と思わないでもありません。フグとかサバとか、中たると命取りと謂われているものをわざわざ喰って死ぬと「莫迦だなぁ」と謂う感覚があったのかなと思います。

…と謂うふうに語ったことがあるが、現代では人間が滅多なことで死なないから死が荘厳なものであるべきだと謂う感覚はあるが、昔のように死が日常的なものと謂う感覚であれば、「莫迦な死に方」をした人間を嘲笑うと謂う感覚はあっただろうし、せめて死ぬなら「莫迦な死に方」をしないように気を附ける、と謂うのは当たり前の弁えだったのかもしれない。

たとえばホメオパシーによる健康被害の悲惨な実例に伴う「極端に滑稽な印象」と謂うのは、つまるところ「ビールを呑みながらチーズフォンデュを喰って死んだアメリカ人の話」に通底する「莫迦な死に方」が可笑しいと謂うまったく同じメカニズムで生起する印象だろうと思う。

身も蓋もないことを謂ってしまえば、ホメオパシーを実践して死ぬのは窮めて愚かしい行為であり、当然「滑稽な死に方」なのであって、「滑稽な死に方」が他人を笑わせるのは或る種当然のことである。

これは別段、ホメオパシーを信奉する人々の自己責任論と謂う話ではないし、一歩踏み込んで、詐欺被害について「騙されるほうが悪い」と謂う話をしているわけでもない。そうではなく、ホメオパシーを実践して死ぬことは、ただ単に他人に騙され「気の毒な被害者」としての立場で死ぬことよりも恥ずかしい死に方だと謂う、剰り意識されていない「価値的な被害」の怖さを指摘しているのである。

ホメオパシーに類するものを信奉して、それが悲惨な結果を招いて死ぬことは、多分他人から視れば極端に滑稽な行為なのである。繰り返すが、現代においては人間が簡単に死んだりしないから、死は所与の前提として一律に荘厳でシリアスなテーマだと謂う思い込みがあるのだろうが、当然「滑稽な死に方」だってあるわけで、自身の死の荘厳やシリアスさは個人がその生き様において防衛すべき価値的概念である。

ホメオパシーを軽率に信奉するような行為は、多分死がもっと日常的だった時代の感覚なら窮めて愚昧な心性に基づくものであり、もしもそれで死んだとしたら、それは他人から嘲笑われるような滑稽な死に方だったはずである。これはもっと広く識られるべき側面なのかもしれないと思ったりする。

たとえば昭和大正明治やもっと遡って江戸時代には、迷信に類する愚昧が大手を振って罷り通っていたと考える人も多いだろうが、それはそうではない。一般庶民の科学開明度が未熟だった時代でも、人々は精一杯自分が「たしからしい」と信じられる情報を模索していたわけで、それは人間の生が今よりもっと不確かで不安なものであった時代性の故に、現代人よりももっと切実な情報ニーズだったはずである。

何をしたら死ぬのか、何をすれば死を免れることが出来るのか、これは「愚昧」な一般庶民にとっても切実な関心事だったはずで、常識的に謂って「やめとけ」と誰もが止めるような事柄を頑なに信奉してその結果死ぬなんてのは、昔の感覚では笑われてもしょうがない愚行だったわけである。

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コメント

本文では死んだ人間の側の愚行の観点からのみ論じているけれど、勿論あかつき問題の醸し出すブラックでヴィザールな滑稽さの印象は、施術者のいい加減さや職業的無能さと患者の残酷な苦悶の間の物凄いギャップがもたらす印象であると謂う側面はあるわけで、これに一番近い感覚の筒井作品と謂えば「問題外科」だろう。

そう謂う意味では、問題を被害を受ける側の愚行の観点からのみ視るのは片手落ちではあるのだが、いずれにせよ「それ見たことか」的な滑稽さと謂うのはこの種の事件において拭いがたい印象として生起するわけで、健康や医療に関係するニセ科学に対する傾倒が、本来厳粛なものであってほしい人間の死を笑い事にする可能性と謂うのは意識すべきだろうと思う。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月17日 (金曜日) 午前 08時00分

「問題外科」は笑えない、と云うか「笑わせない」スラップスティックの筆頭ですね(ぼくの既読のなかでは)。文芸だからこそのぎりぎりを意図的に狙った(そんでもってちょっと超えてみた)みたいな、読む側を試すような。

現実にこうやって試されるようなことが起きていると、正直どうやったら自分の発言の足場を確立できるのか困ってしまいます。元来感情に左右されやすい人間なので。

投稿: pooh | 2010年9月17日 (金曜日) 午後 12時40分

こんばんは。

ちょっと嘘ついていたので訂正します。
死んだのは"ヒーリングセラピスト"でマヌカハニーを塗れと謂ったのが"ホメオパス"でした。

忘却からの帰還様 ハチミツで死んだ代替医療師
>http://transact.seesaa.net/article/161506259.html

この52才のおっさん、電気プラグを踏んで2cmの潰瘍が出来た時に、糖尿病があったのでホメオパスに助言を求めました。その答えがマヌカハニーを塗れ。そして、

>彼の足は腫れて、指は変色していた。2日後に、彼の足の指は黒くなった。彼は2007年4月17日に、混合細菌感染による壊疽で死亡した。

わけです。

検視によれば"死亡する2時間前に医療に助けを求めていたら、生存できる確率が30%あった"そうです。
彼の母親は「息子を失ったことはあまりに悲しいことです。しかし、その死に方があまりに悲しいです。必要だったことが医者か救急車を呼んで抗生物質を使えば、息子が今日も生きていたはずだということを知って、私はおさまりがつきません。」と語っています。

私もそうです、それは哀しいほど滑稽な死に様です。
彼個人ではなく死に様でもなく、poohさんのところにも書きましたが、何かを大きく笑い飛ばしでもしないと本当にやってられない、と思うのです。

poohさんのところで紹介したサイトには様々な理由の、そんなやりきれない死が沢山のっています。
http://whatstheharm.net

投稿: うさぎ林檎 | 2010年9月17日 (金曜日) 午後 06時35分

>poohさん

>>「問題外科」は笑えない、と云うか「笑わせない」スラップスティックの筆頭ですね(ぼくの既読のなかでは)。文芸だからこそのぎりぎりを意図的に狙った(そんでもってちょっと超えてみた)みたいな、読む側を試すような。

筒井康隆のSF作家仲間には「腹を抱えて笑った」とか嘯く人もたくさんいたように思いますけれど、何と謂うかそれは一種「俺は堅気の素人衆じゃないぞ」的なバンカラ志向(なんてもう死語だな)みたいなもので、一般人として「こちら側」に踏み留まるのであれば、やっぱり笑うことを躊躇うべきだろうと思います。

筒井作品の常としてもうすでに実話ネタの原型を留めていないとしても、一応この作品は富士見産婦人科の事件を下敷きにしているわけですし、そう謂う実際の事件を元にして或る種無責任な作家的想像力を逞しくした成果としてこの作品がある、そう謂う事情を考慮しても、読後かなり厭な気分になると謂うのが普通の反応だろうと思いますね。

やっぱりですね、堅気の人間は堅気として振る舞うべきであって、堅気のくせに「俺は堅気じゃねーぞ」とか粋がっても仕方がないわけで。

>>現実にこうやって試されるようなことが起きていると、正直どうやったら自分の発言の足場を確立できるのか困ってしまいます。元来感情に左右されやすい人間なので。

実はこのエントリを書いた後ちょっと気が差してしまったんですが(笑)、普通のニセ科学は滅多に人を殺さない(少なくとも直接的には)けれど、健康や医療に関わるニセ科学はそれ自体が直接人を殺してしまう可能性が高いわけで、ホメオパシーが人を殺す可能性なんか誰でも簡単に予測出来るわけですよね。

医学についても人体についても正確なことを何も識らない「ニセ医療者」が効くはずがない「ニセ薬」を「何にでも効く」と言い張って処方しているわけですから、いつかは必ず人を殺してしまうのが当たり前で、そんなことは小学生でもわかる当たり前の理屈なんですね。敢えて「殺す」と謂うどぎつい表現を使いましたけれど、ホメオパシーと謂う「ごっこ遊び」の外側から眺めれば、こんなくだらなくて危険な遊戯はないし、そんなことは莫迦でもわかる理屈なんです。

ホメオパシーを施術する側もそれを信奉して受診する側も、自分一身についてのことに限るなら「愚昧な虚構を信じると謂う愚行」を犯す権利を持っているんですが、原理的に謂ってそれは必ず人命のリスクに直結しているわけですし、人一人が普通なら死なないはずの病気で死ぬ、しかも通常医療による苦痛を緩和する技術も得られない状況と謂うのは、とても苦しくて聞くのが耐え難いくらい残酷なことなのですが、どうもホメオパシーに関わる人々の愚かさはそのような非日常的な残酷さに対して剰りに無頓着なのではないか、鈍感なのではないか、そのような憤りを「殺した人」にも「殺された人」にも均しく覚えてしまいます。

その種の無頓着さや鈍感さって、やっぱり「滑稽」だからなんですね。で、その滑稽さが人間の生とか死とか、個々の人間がその生き様で以て防衛しなければならないような概念の価値を笑い事にしてしまう、そう謂う冒涜的な暴力性を感じるんですね。

ホメオパシーに纏わる死と謂うのは、特定人物の身に降り懸かった「滑稽な事態」に過ぎないと言えるんですが、その愚かな行為による愚かな死の滑稽を通じて、オレ自身も一人の人間として共有している普遍的な概念の価値を冒涜されたような、そう謂う甚だしい不愉快さを感じることは事実です。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月18日 (土曜日) 午後 12時51分

>うさぎ林檎さん

>>彼の母親は「息子を失ったことはあまりに悲しいことです。しかし、その死に方があまりに悲しいです。必要だったことが医者か救急車を呼んで抗生物質を使えば、息子が今日も生きていたはずだということを知って、私はおさまりがつきません。」と語っています。
>>
>>私もそうです、それは哀しいほど滑稽な死に様です。
>>彼個人ではなく死に様でもなく、poohさんのところにも書きましたが、何かを大きく笑い飛ばしでもしないと本当にやってられない、と思うのです。

この人物の母親は「ハチミツを塗れ」と助言したホメオパスに対して怒ると謂うわけにも行かないでしょうから、何に対して怒れば好いのかわからないでしょうね。そんなくだらないアドヴァイスを受け容れたのは死んだ当の本人なのですし、状況から考えて死ぬまで通常医療の助けを求めなかったのは「"内的存在"が医師に診せるなとか語りかけたから」で、助言したホメオパスではなく死亡したセラピスト本人の信念と謂うことになるでしょうから。

しかも、kumicit さんのところで詳しく本文を読むと、そもそもこの「傷口にハチミツを塗る」と謂う行為は、たとえば「頭痛がしたらこめかみに梅干しを貼る」「風邪を引いたら喉にネギを巻く」と謂うのと同列の「ホメオパシーですらない俗流民間療法」だと謂うのが、何ともコメントしずらい滑稽さを醸し出しています。

俗流民間療法にも害のないものや或る程度効くものもありますが、普通に考えてこのやり方では、悪化こそすれ絶対に好くなるはずがない、つまり「ただの迷信」に過ぎないと謂うのがまた何とも言えない部分です。

「ヘブライ語詠唱のヒーリングパワー」を主張するヒーリングセラピストとホメオパスと謂う「道具立て」で、「電源コンセントを踏んで出来た軽症」を治す為に「傷口にハチミツを塗ると謂う俗流民間療法」を実行して「普通なら死ぬはずがない軽症」をこじらせて死んだ、なんてのは、何かの悪い冗談だとしか思えません。

不謹慎な言い方をするなら、これは「命懸けの一発ギャグ」のように滑稽で、その滑稽さには「死ぬ」と謂う結末が「オチ」として機能しているような不快感がありますね。この場合、死ななかったらそれほど滑稽ではないわけで、つまらない軽症をこじらせて死んだから滑稽なんですね。で、多分人間は一般的に死ぬことそれ自体が滑稽だと謂う状況の在り方が不愉快なんですよ。

poohさんへのお返事でも述べたことですが、くだらない虚構を信じることも、その故にくだらない死に方をすることも、個人の自由の範疇ではあります。ただし、ちゃんとした一個の大人が自由意志に基づく行為でくだらない滑稽な死に方をすることは、生とか死とか、人間なら誰しも共有している普遍的なものの価値を無意味に貶める行為だと謂うことは間違いのないところでしょう。

で、おそらくわれわれのような平凡な堅気の人間は、人間の生とか死と謂うものの尊厳やシリアスさが、くだらない愚行によっていとも簡単に冒涜されてしまうような、その程度のたしからしさしか持っていないと謂う事実を受け容れて生きていくのは難しいのだと思います。

本来なら、それを笑い飛ばすことで「愚行」として切り捨てたい、普通ならそれが笑いのメカニズムと謂うことになるのでしょうけれど、poohさんが示唆しておられるように何かそれは滑稽でありながら笑わせない、笑うことを躊躇わせるような不気味で不快なしこりを持っています。つまり、それを笑いによって切り捨てることそれ自体が、人間の生や死の価値が所詮大俯瞰の観点では笑い事に過ぎないことを認めてしまうような不快感を伴ってしまうのではないかと思います。

普通の市井人は、それほど達観して生きていくことは難しい。だからこう謂う滑稽な事態を他人の愚行の自由として認めたくないのだし、こう謂う笑うべき事例を耳にすると堪らなく不愉快で憤ろしいのですね。

たとえば、ヘブライ語の詠唱には人を癒す力があると謂う信念と謂うのは、別段笑われるべき滑稽な愚昧じゃないですよね。それは個人の価値観と謂うものだし、個人の価値観は飽くまで相対的なものでしかないし、相対的な判断基準しかないのであれば個々に尊重さるべきものでしょう。

ただ、その個人の価値観の相対が自然科学の領域の客観的法則性の範疇にはみ出してしまうと、人間の自由意志も相対基準もへったくれもなくなってしまう、こう決まっているものはこうなんだ、と謂う以上でも以下でもないわけですね。

それが認められない人間と謂うのはかなりたくさんいるんだろうな、と思いますし、それは一種の人間的な倨傲なんでしょうけれど、それを一種の極端な人間主義と表現すれば何となく悲愴で格好良く聞こえますが、その倨傲や人間主義がもたらす結果と謂うのは大概こう謂う滑稽な事態だったりするわけで、自然科学の絶対的尺度は人間の個別の信念なんかに一歩たりとも譲歩してくれません。

極端な人間主義が行き着いた滑稽さの歴史的極北としては「動物裁判」なんてものがありますけれど、ホメオパシーに纏わる悲惨な死の事例が例外なく具えている或る種の滑稽さの印象と謂うのは、それと窮めて近縁のものなのかもしれません。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月18日 (土曜日) 午後 12時52分

あきらかに云えると思うんですけど。
あかつき事件(あ、別の連想につながりそう)にしてもK2シロップ事件にしても、ホメオパシー関係者は「ホメオパシーのせいで死んだわけじゃない」って主張をしたがりますよね。

この主張って考えてみると、要するに「ホメオパシーの有害無害はともかく、ホメオパスが死なせたことには変わりはない」って話になるんですよね。

投稿: pooh | 2010年9月18日 (土曜日) 午後 08時46分

>poohさん

>>この主張って考えてみると、要するに「ホメオパシーの有害無害はともかく、ホメオパスが死なせたことには変わりはない」って話になるんですよね。

そちらで採り上げておられるホメオパシー擁護のブログなんかにも共通する傾向なんですけど、何か問題が起こると「一部の不心得なホメオパス」のせいにして個別要件の問題にしたがるのがホメオパシー関係者のデフォルトの姿勢ですね。でも、実質的にはそれって何か意味のある抗弁なのかって話ですよね。

ホメオパシーが人を殺すかどうかって話は差し措いても全然構わないですが、「すべてのホメオパス」が原理的に人を殺す可能性を持っていると謂うことは断言出来るわけですから、結局問題の所在は全然変わらないのですね。で、事実として人を殺してしまったホメオパスは、結果論として「一部の不心得なホメオパス」と謂うことにされてしまうわけで。

これは全然面白くない冗談ですね。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月18日 (土曜日) 午後 09時13分

こんばんは。

ホメオパシーの理論そのものには、何の力もありません。だってレメディーは無毒なんですから。
でも今のホメオパシーは人を殺すシステムを内包している。人を殺しているのは勿論理論ではなくて人間、ホメオパス達です。

Kumicit様も書かれていますけど、オルガノンでは種痘接種をホメオパシー的医療だとハーネマンは認識しています。ハーネマンにとって種痘は"同種療法"でした。しかしそれがいつの間にか種痘接種もアロパシーとして敵視されるようになってしまいました。

分水嶺は100年ほど前だと思います。科学の進歩によって医学、医師たちからホメオパシーが完全に棄却され、その後医学の知識を持たないホメオパス達が"お医者さんごっこ"を始めた時から、黒猫亭さんが仰有るようにホメオパシーは潜在的な殺人者達を養成するシステムへと変貌を遂げたのだと思います。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年9月18日 (土曜日) 午後 10時13分

>うさぎ林檎さん

>>ホメオパシーの理論そのものには、何の力もありません。だってレメディーは無毒なんですから。

仰る通り、間違った医学理論には人を殺す力なんかありませんね。人を殺すのは飽くまで「間違っていることがすでに判明しているのに、その間違った理論を頑なに信奉して行使する人間」の行為ですから、ホメオパシーの擁護者が問題の所在を個別のホメオパスの行為の次元に納めたがるのは、一面では間違っていないわけで(笑)。

ハーネマンの提唱したホメオパシーの理論自体が人を殺すのではなく、二〇〇年の時間の流れがその理論的妥当性を完全に否定し去っているにもかかわらず、未だ頑なにその間違った理論を信奉する人々の非合理な心性やそれに基づく行為が人を殺すのであることは忘れられてはなりませんね。

たしかにホメオパシーの理論自体は単なる「間違った理論」だと謂うだけですし、レメディーは「ただの砂糖玉」ですから無害です。人を殺すのはその「間違った理論」を信奉して七転八倒の苦しみに悶える相手に「ただの砂糖玉」を与え、自分が何か大したことをしていると思い込みたがる個別の人間の愚劣な心性です。

ただし、ホメオパシー擁護者の主張と喰い違う部分と謂うのは、それは「一部の」ホメオパスだけに当てはまることではなく、「すべての」ホメオパス、それ以前にホメジャに代表されるような、この今になって今更日本にホメオパシーを普及させようなどと謂うアナクロニズムに毒された莫迦者全員に当てはまると謂うことでしょう。

欧米諸国にホメオパスの職業的集団や支持者のマッスが存在するのは、歴史的な経緯から考えて無理からぬ部分はありますし、その現状は一概に欺罔的悪意の所産と断言するわけにはいかない部分があります。しかし、今更日本にホメオパシーを持ち込んでわざわざ職業的ホメオパスやホメオパシー信奉者のマッスを作り出そうと目論むのは、潜在的殺人者と表現すべき社会悪以外の何物でもありません。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月18日 (土曜日) 午後 11時13分

ホメオパシー支持者のロジックでたまに見るのが、「原理的にはすべての通常医療の医師もひとを死なせる可能性があるわけだから同じだ」って代物だったりもするじゃないですか。
で、その自分のロジックにある倒錯に自分で気付けなくなっている状態のひととは、例えばもうぼくなんか対話不能なわけです。で、そのへんでだいたいあきらめる訳だったり。

投稿: pooh | 2010年9月19日 (日曜日) 午後 04時19分

>poohさん

>>「原理的にはすべての通常医療の医師もひとを死なせる可能性があるわけだから同じだ」

山口のK2シロップの事件やあかつき問題を巡る言説で、ホメオパシーを実践する立場や信奉者の立場からの擁護論のロジックの性格が大分見えてきたんですが、仰るような「味噌も糞も一緒」式の雑な詭弁なんかは如何にもアリガチですね。

たしかに通常医療の医師でも「誤診」や「医療過誤」を犯したり、治療が「手遅れ」になったり、最初から「医療の手に負えない」疾患もありますね。しかし、ホメオパシーの場合には、事実上診断が「間違って」いたとしても「誤診」や「医療過誤」ですらないのだし、どの時点で「治療」を開始したとしても「手遅れ」なのだし、最初の最初から如何なる疾患も「手に負えない」のですから、通常医療とホメオパシーの間には大きな違いがあります。

これ以上なくわかりやすい言い方をすれば、ホメオパスには病気が何であるのか診断する能力は原理的に存在しないのですから、最初から「誤診」や「医療過誤」を犯す資格「すらない」のだし、ホメオパシーの原理には病気を治療する力は一切ないのだから、「手遅れ」も「手に負えない」もない、ホメオパシーによって病気に対処しようとすること自体が完全に間違っていると謂うそれだけの話で、それを通常医療と同じだと表現するのはまさに味噌も糞も一緒式の幼稚な詭弁でしかありません。

通常医療の医師も当然「間違う」し、医学それ自体も「間違う」可能性はあるだろうけれど、それは概ね通常医療が「正しい」からその正しさに照らして個別の医師の診療行為や医学の理論が「間違う」と表現出来るのであって、たとえ医学が「間違って」いたとしても、それを修正する仕組みを具えていると謂うことですよね。

で、ホメオパシーはまさに医学が「間違い」を正す仕組みによって放棄したアイディアなのですから、その「間違っているから放棄されたアイディア」に則っている限り通常医療の医師と同格で「間違い」を云々するなんてのは噴飯物の倒錯でしかない。

ホメオパスが間違うのではなく、ホメオパシー自体が間違っているわけです。

>>で、その自分のロジックにある倒錯に自分で気付けなくなっている状態のひととは、例えばもうぼくなんか対話不能なわけです。で、そのへんでだいたいあきらめる訳だったり。

この本質的な違いがわからない、或いはわからない「フリをする」人間とはマトモに話し合っても無駄でしょうし、寧ろそう謂うロジックを弄する人間の欺罔が被害者を生まないように防衛しなければならないでしょう。

そちらでホメオパシー信奉者のブログについて少しお話をさせて戴いたことなんかにも通じるのですが、ホメオパシーの擁護論にアリガチな論点のすり替えや意図的な牽強付会、極端な一般化やアナロジーと謂うような幼稚な詭弁のロジックは、愚昧の域からすでに一種の「悪意」の域に踏み出していると思うのですね。

愚昧から発したただの強情も、他人に深刻な迷惑を掛けるなら「悪」になります。ましてや、自分の強情を通す為にあの手この手の詭弁を弄する場合は、立派な「悪意」と表現出来るだろうと思います。

何と謂うか、そう謂うロジックを振り翳す人間に対して何かをわからせようとしても意味はないのかもしれないと思いますし、そう謂う悪意的言説に対しては、イノセントな読み手を騙せないように手を打つと謂うのが適切な対応なのだろうと思います。

たとえば身内でもない限りは、そんな人間の愚昧や悪意自体を何とかする必要なんてないだろうと思います。それこそ、そんな愚劣な人間は自前の愚行権を行使して勝手に滅んでしまえば好いのだけれど、滅ぶ過程で他人を巻き添えにするなと謂うだけの話で。

事は人間の健康や命を巡る問題だと謂うのに、山口の事件やあかつき問題の事例を目の当たりにしてさえ目が覚めずに、ゴニョゴニョと一貫性のない寝言のような蒙昧な擁護論を弄することが出来る人間の愚かさと謂うのは、多分最早「悪」と表現しても差し支えないのではないかと思います。

おそらくpoohさんは、一連のホメオパシーを巡る事件に対して強い憤りを覚えておられるのではないかと思いますが、うさぎ林檎さんが粘り強く訴えてこられたように、ホメオパシーを巡る人間たちの心性の醜悪な鈍感さは、大方の人間の予想をはるかに超えてひどい。

たとえばこのエントリでオレが「滑稽さ」と謂うことを敢えて口にするのは、その非常識なまでの鈍感さや醜悪さがグロテスクな滑稽の印象をもたらすと謂うことで、たとえばそんな滑稽さに特化した筒井康隆のスラップスティックと謂うのは、無責任な作家的想像力と悪意的な創作の動機によって極端に誇張されたフィクションだろうと思っていたら、現実だってそんなに違わなかった、そしてそれが現実であったとしてもやっぱりグロテスクで滑稽だった、と謂う事実がかなり困ってしまうわけで。

どうもですね、ホメオパシーを巡る人間たちの心性が最早「悪」の領域に踏み込んでいるのだとしても、われわれが普通「悪」に対して期待するようなシリアスさとか威厳とか力強さのような印象とはまったく無縁の、卑小で醜悪で愚昧でグロテスクで滑稽なものでしかないと謂うのが腹立たしい限りです。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月22日 (水曜日) 午前 10時19分

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