所謂一つの「贅沢病」
ひえたろうさんのところの「貴族な人々」と謂うエントリを拝読して、朝日新聞がやらかした件を識った。当該エントリに掲げられたリンク先でも指摘されていることであるが、朝日新聞は先般のホメオパシー報道で株を上げた矢先でもあり、つくづく新聞報道と謂うのは看板だけですべての内容の信頼性を判断するのは危険で、個々の発信者の見識に左右されるものだと謂う感想を覚えた。
この件についてはpoohさんも「ひとのわざ」と謂うエントリを上げて批判しておられるが、ひえたろうさんがリンクされた先も含めて、基本的に皆さんは朝日新聞の報道姿勢に対しては批判的だが、この記事で紹介された「自然派志向」の家族に対しては批判的な意図はないようである。
皆さんがこの家族を批判することに慎重なのは、このような生活を送る自由は誰にでもあるのだし、法に触れない限り一般人の一般の暮らしが社会から非難さるべき謂われはないからで、他人の生活を無関係な他者が批判することで不合理なバッシングに繋がることを危惧しておられるのだろう。大して褒められたことではない生き方でもマスコミによって晒し者にされて世間から無遠慮に叩かれることのほうがよほど不条理である。
そう謂う斟酌を抜きに言えば、多分この件に注目している人々は誰一人としてこの家族の生き方に引っ懸かりを覚えない人などいないだろうと思う。
まあ、こう謂う状況において乱暴なことを口にするのが当ブログの役割だと勝手に任じているので(笑)、この際ぶっちゃけてしまうが、オレはどうもこう謂う「自然派」のライフスタイルそのものに胡散臭さを感じていて、ひえたろうさんも冒頭にクルマのマクラを振ったりエントリのタイトルに「貴族」と謂う語を充てておられる以上、そう謂う感覚は若干共有されているのではないかと思う。
この場合の「貴族」と謂うのは、つまり「エコ貴族」とか「環境貴族」とか謂うようなニュアンスだろうが、それはたとえば「買ってはいけない」とか「美味しんぼ」に通じるような「自分だけは現代社会の穢れとは無縁でいたい」と願う心性であり、そのような志向を満たす為には一般的な収入レベルを超えたコストが掛かると謂うことである。
つまり「自然派」が称揚するような「真正な」農法は、現在我々が生きているような社会のインフラとしては極度に生産性が低いのだから、必然的にカネが掛かる。食品添加物や農薬を使用しない食物は、その生産性や流通効率の低さから主要な食糧供給のインフラたり得ないのであるから、要するに「自然な生活」とは貧乏人から視れば物凄い贅沢品なのである。
食品添加物や農薬の使用にヒステリックな警鐘を鳴らす人々は、その最も根本的な問題の解決については何のアイディアもないのであるから、要するに自分たちが散々毒物扱いしているものを貧乏人が喰っていることに対して何の解法も持ち合わせていないわけで、自分たちが豊かな収入を背景に「真正な」食物のみを口にしていると謂う自己満足を得ているだけと断言して差し支えない。
つまり、これらの主張は畢竟「貧乏人は毒を喰え」と謂う意味にしかならないし、しかもその「毒」と謂うのはこれらの人々の脳内にしか存在しない架空の毒である。
これらの人々が声高に叫ぶリスクが本当に存在するなら、それは社会全体が解決策を模索すべき一大問題であるが、基本的に現状の日本の体制において法に則った生産活動が為される限り、明確な健康被害が想定される食品添加物や農薬など一切存在しない(勿論、例外的な違法行為や脱法行為は常に少数例存在するが)のであるから、これらの主張はほぼすべて事実無根のデマであると断言して差し支えない。
慣行農法に則った大量生産の農産物に価値的な瑕瑾があるとすれば、それは「大量生産なりの安物」であると謂うことしかない。その瑕瑾は、たとえばユニクロの衣料品を機能面から視て必要十分だと感じる価値観で謂えば何の問題もないレベルのものである。
有機農法だの無農薬栽培だのと謂ったところで、その価値的なアドバンテージとは、有機農法や無農薬栽培と謂う農法の安全性の観点における利点ではなく、慣行農法よりも無意味に非効率的な農法であるだけに、よほどマンパワーを投入して丁寧に栽培された高級品だと謂う意味でしかない。つまりは単なる贅沢品である。
残念ながら、現代社会に蔓延る「自然食志向」や「食の安全・安心」に対する極端にヒステリックな関心の趨勢を視るに、この種の無根拠なデマは或る程度の「成果」を挙げたとしか謂えないわけであるが、食の分野で猛威を揮った「自然派志向」が次なるターゲットに見定めたものこそ「出産」や「医療」の分野なのだと謂うことなのだろう。
食の領域一つとっても、この種の蒙昧な迷信が、それこそ「食の安全・安心」に対してどれだけ破壊的な影響を与えたのかは更めて指摘するまでもないが、さらにそれがエスカレートして、直接人々の健康に結び附く医療や出産の領域にまで影響が及んできているわけであるから、病膏肓に入るとはこのことである。
これはまさに「病」と表現するのが妥当なくらい不合理な趨勢で、「現代病」と謂うのであればこの過剰な「自然派志向」こそが「現代病」の最たるものだろう。
前置きはこのくらいにして本題に入ると、オレがこの家族のライフスタイルに感じる不快感と謂うのは、この人々は人間の社会活動に対してどの程度関与しているのか、と謂う疑問から発しているのだろうと思う。
記事によれば「朝来市和田山町の山あいにある朝日地区で、農業や養蜂などを営みながら自給自足の生活を実践している。」「大森家の田畑は農薬や化学肥料を使わず、耕しもしない自然農法。煮炊き、風呂、暖房の燃料はまき、食事は玄米に菜食が中心だ。できるだけ自然の恵みをそのまま生かす生活だ。」とあるが、これはおそらく普通一般に謂う「農家」とはまた全然別の家計手段と謂うことになるのではないかと思う。
山間部で農薬も化学肥料も使わず耕しもしないと謂う手法でどれだけの収量が見込めるのかと考えるだけ馬鹿馬鹿しい話で、識り合いのがんさん辺りなら詳しいのだが、素人が考えても、こんな手法で一般的な意味で謂う「農家」の家計が成立するはずがない。
普通一般に謂う「農家」と謂うのは、自分たちが消費する以上の農作物を栽培してそれを売却することによって収入手段を得ることを謂うのであるが、こんな手法では自前で消費する分を賄うのがやっとのことだろう。
山間部と謂うことをヒントに考えて、精々付加価値込みで「養蜂」のほうの収入が大きいんだろうな、と推測出来る程度で、記事中の「自給自足」と謂う表現が激しくアヤシイわけであるが、こんな「お百姓ごっこ」を「農業」だと謂われたら苦労して経営を遣り繰りしている普通の農家の人々は鼻で笑うか怒り出すのではないか。
この件についてひえたろうさんは、
「農薬や化学肥料を使わず、耕しもしない自然農法」だそうだが、そんなもん「自然」農法なのかな? 「農法」ってのは農業の方法ってことでしょ。つまり植えて収穫して食べると。狩りじゃないんだから、そうなる。
農業ってのは人間が食うためにやることであって、そのために作る畑を耕さなかったなんていうのは人類の歴史の中でどれくらいの期間だったんだろう?こういう言い方をしては何だが、人類はそんなにヴァカだったんだろうか? なにがどう「自然」農法なんだろう? 不自然きわまりないと思うのだけれど。
…と謂うふうに、原理的な矛盾点を指摘しておられるが、農業が人間による自然改変の最たるもので「緑豊かな田園地帯」ほど人工的なものはないと謂うようなことは、オレも以前のエントリで指摘していることで、まったく異論はない。
附け加えることがあるとすれば、たとえば日本の中世くらいまでの時代性では、まだギリギリ農業は開拓・開墾とセットのもので、原始林や荒地を斬り拓き人里の橋頭堡を築くフロンティアの産業だったのであるから、大自然と共に在り自然環境と戦う産業だったわけで、その意味で最も自然と密接な産業であったとは謂えるだろう。
その意味で、人間の自然に対する対抗力がもっと貧弱だった時代には、自然環境に対する無意味な衝突を避けると謂う節度があったと謂うことくらいは謂えるのではないかと思う。それをして「自然と共存する暮らし」と表現することは、まあそれほど間違ったことではないだろう。人間の力と自然の力が拮抗していた時代性においては無意味な衝突を避けることで人為と自然環境が平和共存していた、比喩的な意味でこう表現することは可能である。
ただ、いずれにせよ農業は宿命的に自然環境を破壊して自らに都合好く作り替えることを本然としており、その本然を直視せずに「出来る限り環境改変を避ける」と謂う理由で耕しもしないのであれば、それは定住農耕の本質を否定することであり、狩猟採取時代と何ら変わらない食糧調達手段と謂うことであるから、気まぐれな自然環境の変化に翻弄される暮らしと謂えるだろう。それは一種、定住農耕から始まった人類文明の歴史全体を否定することでもある。
よく口にされる「大地の恵み」を「殆ど人為を介さずに得られるもの」と謂う意味で考えているなら、自然環境は気まぐれに過ぎるのである。それでやっていけるものであれば、誰も手の懸かる農耕なんか始めなかったはずである。当たり前のことだが、自然環境と謂うのは人間を養う為に存在するものではないし、「大地の恵み」は人間に食糧を供給する為に存在するのではない。
しかし、別の意味でオレが気になったのは、普通一般に謂う「農業」と謂うのは「農作物を栽培してその売却益で生計を立てる」ことのはずであるのに、この家族はそう謂う観点において「農家」たり得ているのか、と謂う疑問である。
つまり、殆ど現代農法らしい農法を行わず、狩猟採集時代さながらの収量の作物で本当に現代人として必須の生活レベルを維持出来るだけの家計手段となり得ているのかと謂う疑問であるし、引いてはそのような生産活動が社会活動とどれだけコミットしているのかと謂う疑問である。
単に自分たちの口にする分の農作物が得られて、少しだけ金銭的な収入があるような生産活動を「農業」とは謂わないし、そんなあやふやな家計手段に基づく家庭を「農家」とは謂わない。何より、社会に食糧を供給すると謂う産業の要件を満たしていないのであるから、この家族は殆ど社会参加をせずに暮らしていると謂うことになる。
一方、オレの推測通り、養蜂で得られる蜂蜜が主要な収入源だとしたら、一嗜好品に過ぎない「甘味料」の生産に特化した生産活動だと謂うことで、基本的に平野部で広大な耕作地を必要とする農業としては例外的に集約的な分野だと謂うことになり、誰が考えても世間一般の「農家」がみんなそんな生活をしていたら日本の社会活動は成り立たないだろう。
前者のような生活形態ならば、端的に言ってそれは単なる「世捨て人」である。
前述の通り、単に人間には世捨て人になる自由も許されているのであるから、別段この家族のこの生き方を殊更に批判するには当たらないと謂うだけの話で、生臭いことを謂えばこの家族が現在そのような生活を送っていることには、記事に現れない現実的な事情もあるはずで、結構尽くめの「自然と一体化した暮らし」と謂うだけのことではないはずである。
だからこそ、畢竟するところ、こう謂う特定の家族の特定の暮らしぶりを恰も理想的な大自然と共に在る生活であると謂うストーリーに則って紹介する朝日新聞の報道姿勢が批判の対象になるわけで、一家五人がこう謂う暮らしを営んでいると謂う生の現実を赤の他人が軽々に論評して好いはずのものではない。
一見して単なる自然派志向の酔狂沙汰にしか見えないが、この家族に本当に他の選択肢が存在してその選択肢の中から自由意志で選び取られた現状なのかどうかは、こんな記事を読んだだけではわからない。普通にこの記事の情報だけから判断すれば、子供の教育費にも事欠くような極貧しい暮らしぶりを想定せざるを得ないだろうし、そうではないとすれば、それは収入手段が他に存在すると謂う意味でしかない。
そして、オレが重要だと思うのは、このような生活が本当に自由意志によって選び取られた納得づくのものだとしても、この家族の「農業」は一般の人間の社会活動に殆どコミットしていないと謂うことである。「自給自足」と謂えば聞こえは好いが、食糧を自給自足すると謂うことは社会活動に積極的に関与しないと謂うことである。
現代社会における社会活動は、労働の完全な分業によって成立しているわけで、誰もが自前で消費する食糧を自前で調達していたら、それ以外の社会活動を行う余裕がないのは当然のことである。たとえば芸能人が歌舞音曲を専ら事として生計を営むことが出来るのは、彼らが必要とする食糧を別の人間が生産しているからであって、歌舞音曲を演じることで得た収入をその食糧の購買に充てることが出来るからである。
その間の事情は芸能人でなくても同じことで、自給自足が人間の本然だと謂うのであれば、人間は自分の食糧を調達する以外のことは何も出来なくなるのが当然である。そして、たとえば農業と謂うのは農法の発達に伴って栽培者一個のみならず他者に廻す分の食糧も生産可能になったから成立した家計手段であって、社会全体の食糧調達を専ら分業することで成立しているのが農業だと表現しても好い。
その観点においては収量の拡大、つまり自給自足を超えた収量の確保と謂うのは必須の要件であって、自分たちの食い扶持が自前で確保出来れば好いと謂うのは、早い話が社会活動とは何の関係もない活動だと表現出来るわけで、それは方丈の隠居の裏手で猫の額ほどの荒れ地を耕して僅かばかりの菜を確保する世捨て人と意味的には変わらない。
繰り返すが、世捨て人になる自由は誰にでも許されているのだし、その過程で法を犯したり他人に迷惑を掛けなければ、それは他人から無碍に批判さるべき行いではないとは謂え、社会の側が積極的に支持すべき生き様でもない。社会に対して胸を張って世捨て人になろうとするのであれば、たとえば出家でもして社会全体の精神的慰藉の為に貢献するのが社会にコミットする生き方と謂うものである。
単に俗塵を離れて大自然の中で暮らしたいと謂うだけなら、それは一個人の自由な嗜好と謂うに過ぎず、別段他人がそれを称揚すべき筋合いの生き方ではない。ああこの人は社会とかどうでも好くて、自分の好きなように生きたいのね、と謂うだけの話である。
一方、もしも養蜂業が主要な収入源で、それ以外の農産物は自前で消費する程度のレベルだとすれば「農薬や化学肥料を使わず、耕しもしない自然農法」を殊更に強調するのは理路が繋がらないわけで、詰まるところこの報道は「誤誘導と謂う名の嘘」である。
さらに謂えば、もしもこの家族の主要な収入手段が養蜂業のほうであれば、それはそれで「甘味料を供給する」と謂う意味で社会の分業の一端を担っているわけだが、それはつまり蜂蜜のようななくても困らない嗜好品の甘味料をふんだんに消費する食生活を背景にしているわけで、どう考えても「山の中で不自然なことをしない自給自足の百姓の暮らし」とは相容れない。
普通一般の都市部の生活形態に対比してこう謂う暮らしを礼賛することは、この家族の家計が普通一般の都市部の生活形態を前提にした収入手段で成り立っているのであるから、結局は「浮き世の莫迦は起きて働け」みたいな意味にならないのか、この記事の採用したストーリーのその辺の鈍感さがイラッとすることは事実である。
つまりですね。
この家族の収入手段が「農薬や化学肥料を使わず、耕しもしない自然農法」に依拠しているのであれば、それは単なる貧しい世捨て人の生活に過ぎないのだし、社会活動にコミットしていない以上、社会にコミットしている人々がそれを肯定する義理はないのだし、養蜂業に依拠しているのであれば、逆に「農薬や化学肥料を使わず、耕しもしない自然農法」と謂うのは裏の空き地の家庭菜園でどう謂うふうにして自分たちの食い扶持を栽培しているかと謂う個人の酔狂の範疇の事柄でしかないと謂うことである。
この二つは完全に別の事柄であって、間違いなく謂えることは「農薬や化学肥料を使わず、耕しもしない自然農法」によって家計手段となり得る産業としての農業が成立するはずがないと謂うことである。であるから、この二つを曖昧に混同して伝える報道には嘘があると謂うことだし、その種の嘘は報道に附き物だと謂うことである。
農業についてはこのくらいにして、本題中の本題である「自然な出産」について考えるなら、そもそもこの母親が何故無介助出産を選択したのかについて、この記事を読んだ限りでは納得可能な理路がまったくと謂って好いほど存在しないことがわかる。
記事中で述べられている理由とは、単に「毎月の妊婦検診などで自分の思いとは違う出産になった」と謂う理由のみであり、それが自身や胎児の命を危険に晒すことを肯定し得るだけの理由であるとは普通は考えられないだろう。
当たり前のことだが、オレは女性ではないし増してや妊娠出産の経験もないので「自分の思いとは違う出産」と謂う感覚は実感的にわからないのだが、妊娠出産のような母子の生命や健康のリスクが伴う事柄について「自分の思い」のようなあやふやな要件を最優先出来る心性と謂うのがまず理解出来ない。
屡々「妊娠は病気ではない」と謂うことが謂われるが、それは単に字義通りの意味であるに過ぎず、妊婦の母体の状況は普通に謂って通常とは違う病的状態であることに違いはない。「自然の営み」と謂うことで謂うなら、たとえばひえたろうさんのところで挙げられているデータのような妊産婦や新生児の死亡のリスクはその「自然な営み」の摂理の中に予め織り込まれている。
「自然の営み」と謂うものは得てして個々の人間の都合なんか斟酌してくれない冷酷なものであって、まさに吉村医院の吉村医師が口にするように「死すべき命は死なせる」のが「自然の営み」に織り込まれた冷酷な摂理である。
それで好いのか。誰もが好くないと思うからこそ、医療はその摂理から漏れ出る「少数の犠牲」を救うべく発達してきたのであり、以前のエントリで語ったように、人類文明とは基本的に例外的な少数の弱者を救済する為に発達してきたのである。肉体機能の面で相対的に脆弱な人類が種として採択した繁殖戦略とは、そのようにして他の種であれば捨て去られるべき少数の弱者をも救済し、マンパワーとして活かすことで成り立っていると謂うのが以前のエントリの結論である。
普通に謂って、子供を死なせたり自分が死にたくなかったら、それ相応のコストを払うのが当たり前の話であって、「自然な営み」に織り込まれた「少数の犠牲」に自分だけはならないと謂う無根拠な思い込み以外にそれを拒む理由はない。
紙幅の制限がある新聞記事ではサッパリ伝わらないのだが、「毎月の妊婦検診」と謂うのはそれほど妊婦にストレスを強いる行為なのか、直観的に不本意な処遇なのか、その辺がまったく理解出来ない。普通に考えて、新しい命を体内に宿したのなら、その命を育む為に或る程度のストレスや苦痛を引き受けるのはそれこそ当然のことではないかと謂うのがオレの感じ方であるが、これはオレが妊娠出産を担当しない性である以上は断言出来ることではない。
ただ、普通に得られる情報から考えて「毎月の妊婦検診」がそれほど苦痛だともストレスだとも思えないし、それを拒絶する為に敢えて母子の生命や健康を危険に晒す意味があるとはまったく思えない。
この母親が、たとえば吉村医師のように「死すべき命は死なせるべきだ」と謂う極端な思想の持ち主であれば、肯定はしないが理解は出来る。すべてを自然に任せて、たとえ母子の生命が危険に晒されてもそれは自然の摂理であるから引き受けると謂うのであれば、生まれてくる命は母親一個の所有物ではないのだからその意味では不当な姿勢だと思うが、そう望む母親の心理については納得は出来なくても或る程度は理解出来る。
しかしこの母親は、「家で産みたい人が家で産むことができ、何かあったらサポートできるような環境があったらいいな」と謂うような甘っちょろい寝言を語っているのであるから、それは詰まるところ「医者なんてのは自分が困った時だけ助けてくれれば好いのであって、困っていない時に指図がましいことを謂うな」と言っているだけの我儘に過ぎない。
これはつまり、何処も具合が悪くなければ医者の健康上のアドヴァイスなんか聞きもしないけれど、一旦病気で倒れたら医者に向かって命乞いをする病人と何ら変わりのない身勝手な姿勢である。結局この母親の言い分と謂うのは、「健康面の生活指導なんか受けたくないし、生活習慣を改める気もさらさらないけど、病気を治せ」と言っているのとまったく同じことである。
言うまでもないことだが、「毎月の妊婦検診」と謂うのは「何かあったらサポート」する為の必須の手順であって、ホントにヤヴァい状態になった時にだけお医者さんに行けば何とかしてもらえるなんてのは、単なる莫迦の考えることである。
現に「自然な出産派」の代表的施設である吉村医院では、まさにそのようなことをして周辺の産婦人科医療に無意味なコストを圧し附けていて、それが問題点として指摘されているではないか。通常医療による出産なんて無用だが、本当にヤヴァい状態になったら通常医療に圧し附ける・泣き附く、それは単なる子供の我儘である。大人の忠告に耳を貸さず散々得手勝手に振る舞っておいて、いざ自分の手に負えないほどの大事になったら大人に泣き附く子供と同じである。
確率的には少ないとは謂え、それなりに普遍的な割合で存在するヤヴァい可能性が実現しないように努めるのが通常医療の考え方であり、そのような致死的な状況について吉村医院に象徴されるような「自然な出産」と謂う考え方は原理的に無力である。
だからこそ「死なせろ」なんて無責任なことが言えるわけで、剰えその言葉通り死なせる責任を取るのがイヤだから、「通常医療との連携」の美名の下にヤヴァい患者を周辺の産婦人科に圧し附けると謂う醜悪な「ただ乗り行為」が出来るのである。この辺の、尤もらしいご大層な思想を語りながら、その思想に殉じるだけの覚悟もない幼稚な身勝手さは、吐き気を催すほど心映えが醜い。
妊産婦に「何かあった」場合、その時だけ医者が診れば何とか出来るなんてのは徹頭徹尾幼稚な考えであって、「何かあった」時に一人でも多くの母子を救済出来るようにする為に「毎月の妊婦検診」があるのである。不吉な白羽の矢が誰の戸前に立つかわかりはしないのだから、「少数の犠牲」が「少数」であることなど、いざ自分がその犠牲に選ばれた時点では意味を持たないだろう。
それに対して、「何でもない時は煩瑣く指図するな」「何かあった時だけ助けてくれれば好いんだ」なんてのはマトモな社会人の考えることではない。これが出産と謂う女性の天然自然の営みであるから何となく尤もらしく聞こえるが、たとえば仕事を覚える過程において、ズブの素人の「私に指図がましいことを言うな」「私が困った時だけ助けてくれれば好いんだ」なんて主張が通りますか、と謂う話である。
つまり、「家で産みたい人が家で産むことができ、何かあったらサポートできるような環境があったらいいな」と謂うような意見を聞いて無意識に苛立つのは、結局はそれが単なる虫の好い我儘に過ぎないからである。たとえばそれは、今日明日にでも喫緊の手術が必要な大病で術後厳重な監視が必要な病気の患者が、「痛い思いもせずストレスもなく自宅でゆっくり病気を治したい」と言っているのと変わりはない。
それはねぇ、昔はそんな病人でも他に選択肢がないから自宅で療養したわけですよ。そして、その当然の結果としてみんな為す術もなく藻掻き苦しみながら死んでいったわけですよ。それが「自然の営み」と謂うことでしょう。
それはたしかに、「痛い思いもせずストレスもなく自宅でゆっくり」子供が産めたらそれに越したことはないけれど、それに通常医療が提供しているような確度で安全を確保するなら、具体的に謂えば医師が常駐する場に妊産婦を集積するのではなく、点在する個々の妊産婦に医師が附き沿う形になるわけで、それにどのくらいのコストが掛かるのか、そのコストを誰が払うのかと謂う話になって、つまるところその希望はコストに還元して謂うなら単なる「贅沢」である。
たしかに妊娠出産は太古の昔から女性が連綿として行ってきた天然自然の営みであるのだが、その過程でどれだけの命が喪われてきたかについては更めて指摘するまでもないことで、ほんの一〇〇年くらい前までは、妊娠出産とは女性が命懸けで取り組む一大事業だったのである。そのような命懸けの覚悟もないくせに、妊婦検診が煩わしいとか自分の思いとは違ったとか甘っちょろい寝言を言うなと謂う話である。
畢竟するところ「家で産みたい人が家で産むことができ、何かあったらサポートできるような環境があったらいいな」と謂うような安直な希望は、どうせ妊娠出産で人間が死ぬことなんか他人事と謂う鈍感な想像力を露呈するわけで、何故妊産婦が「毎月の妊婦検診」なんて面倒くさいことをしなければならないかと謂うと、それは自分や子供を死なせない為に必要な行為だからである。
人二人までの命が掛かった事柄について、どれほど大変だかは識らないが「毎月の妊婦検診」が何ほどの負担だと謂うのか、どれほど不本意だと謂うのか、どんなに自分の思いと違ったと謂うのか、そこがカケラたりとも理解出来ない。もしもオレが女性に生まれていたとしても、こんな我儘が理解出来るとは到底思えない。
私は私で勝手に出産したいから、何かあったら本職の医者が飛んでこい、必ず命を助けろなんてのは、「虫が好い」のを通り越して莫迦の戯言である。こんな莫迦がいるから産婦人科医はリスキーだとして誰も担い手がいなくなる。結局はくだらない我儘を通すことで自分の首を絞めているのであり、もっと謂えば未来の妊産婦を苦境に追い込んでいるのである。
オレは徹底的な非当事者の独身男性であるからあんまり妊娠出産に纏わる価値的概念について識ったふうな口は利きたくないが、妊娠出産に対してイベント的な経験の付加価値を求める風潮については無性に腹立たしいものを感じることは事実である。医学がこれほど発達した現在においても、妊娠出産には少なからぬ生命のリスクが存在するのだし、自分や子供の命が掛かっている事柄について、そのイベントに付加価値を求めようと謂う料簡が醜悪なほど暢気たらしくて不愉快である。
それはつまり、妊娠出産と謂う人生の一大イベントに精神的な満足を得ようとする娯楽志向と言い換えても好いだろうが、それは自分や、ましてや生まれてくる子供の命を天秤に載せても釣り合うほどの価値なのか、そんな当たり前の判断すら出来ない阿呆ばかりなのか、考えれば考えるほど腹が立ってくる。
洒落にならないシリアスな事柄に対して娯楽性を求めると謂う鈍感さは、窮めて筒井康隆的な不謹慎なブラックユーモアに近いセンスだとさえ感じる。何と謂うか、面白半分で戦争見物にツアー旅行するような鈍感さであると感じるのである。
ほんの一〇〇年ほど前まで自宅出産が当たり前だったのは、それが自然な形だからではなくそれ以外の選択肢がなかったからである。そうでなかったら、当時自宅出産と同じくらい当たり前だった死産や産死や産褥死のリスクなど誰が望むものか。誰だって母子共に健康で安全に出産したいと望むのは当然で、その為には通常医療の手助けが必要だと謂うのはそれこそ当たり前の話である。
もっと謂えば、たとえばK2シロップの件なんかが象徴的であるが、周産期医療が救済してきた母子の将来的なQOLは決して無視して好いものではないはずである。母子を取り巻くリスクは生命に関するものだけではなく、あらゆる意味における母子の将来的な健康や生活の価値もまたリスクに晒されているわけで、そう謂う窮めて重要なものが天秤の一方に載っている事柄について、「大事にしなければならない思い」と謂うものが、誰の、誰に対する「思い」であるべきなのか、それは更めて議論すべき事柄では決してないはずである。
少なくとも、母親一個の「イヤだ」とか「そっちのほうがいい」と謂うようなふんわりした情緒的な動機に根を持つ「思い」なんてのは、他人が大事にすべき筋合いの事柄ではないと思うがどうだろうか。
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コメント
こんにちは。
あちこちに書き込んでいて、もうお前は黙っとけ状態のうさぎ林檎でございます。いつも通りの蟻の這い出る隙間もない、完膚なきまでというお話で釣り込まれるように読ませて頂きました。
私は法律を無視すれば、"妊娠状態"は個人ではないと思います。+1の命が必ずそこにある以上、たとえ自分の身で守り育てている母親であっても、妊娠出産に関わる問題は母親個人の問題ではない筈です。
人間は進化していませんですから、妊娠出産のリスクは相変わらずソコにあります、自然なお産で母子が命を失っていた時代と同様に。それが周産期医療が発達し、自分の生活を犠牲にしてまで最後の砦を守っている人達のお陰で、"妊娠は病気じゃない"を自分に都合よく考えられる程度に安全が保たれている。だから"方法"なんて贅沢なことに拘っていられるんですよね。
私は最近不本意ながら、時間に余裕が大アリなのでミクシィに引きこもり日記をポツポツ書いてます。この件タイトルを「好きにしてくれ、でも美談じゃないから」にしてしまいました。
投稿: うさぎ林檎 | 2010年11月21日 (日曜日) 午後 05時31分
いろんなひとにいろんな美意識があっていいとは思うんですけど、傾いてみせるのはその傾いてみせる意味、と云うのを充分に自覚してはじめて社会的な意義が生じるわけで、それができなければなんと云うか、恥の感覚を理解できない単なる知性の欠如を晒している以上のものにはならないわけです。
そこでおのれの真性性みたいなものを主張する、と云うのは、どう控えめに云っても勘違いした開き直り以上のものにはならない、みたいに思います。
投稿: pooh | 2010年11月21日 (日曜日) 午後 07時09分
中央日報によりますと、
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=101674
その旦那さんは、アース農場の次男ですね。
多角経営しているというか、観光農場みたいな所のようです。
新聞社にも、話題づくりのために、自分で売り込んだ可能性があります。
そんなのに釣られる朝日にも問題があることは、確かですが。
投稿: mimon | 2010年11月21日 (日曜日) 午後 08時02分
こんばんは
mimonさんの情報を元に調べてみましたがこの一家については所謂「農家」と言えるとは流石に思えません。
父親は元々政治活動家の方のようです。
「自給自足の山里から―家族みんなで縄文百姓」
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980231270
生活スタイルはテレビでも取り上げられていて既に「有名人」です。朝日の記者もそれを前提に取材したのでしょう。
フジテレビ系ザ・ ノンフィクションというドキュメンタリー番組で「われら百姓家族」と題するシリーズ物で1998年頃から取材が始まり7回ほど放送された様です。
フジテレビ
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/thenonfx/300/hyaku.html
われら百姓家族google検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%89%E7%99%BE%E5%A7%93%E5%AE%B6%E6%97%8F&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&ie=UTF-8&oe=UTF-8&sourceid=ie7&rlz=1I7GGLT_ja&redir_esc=&ei=GBrpTIs9iK5w2pKY4Qo
特に父親については世捨て人というより「活動家」乃至は自分たちのプライバシーを「物語」としてマスコミに演出して販売する「芸能人」(まともな「芸能人」の方申し訳ありません)、講演会も行い多くの「研修生」を受け入れる私塾の経営者(有料でしょうね)といった印象すら受けます。基本的に「あちらの世界の人」と見てよいと思います。
まともな農家や「百姓」の方に失礼です。少なくとも成人の家族については多少の批判を受けても止むを得ない印象さえ持ちます(朝日新聞、フジテレビも含め)。
投稿: 摂津国人 | 2010年11月21日 (日曜日) 午後 11時06分
なんと、この家族についてもいろいろ出てきてるみたいですね。イノセントに考えすぎましたか。
うーん、参ったなあ…。(^^;
こういう方向に行ってしまった「活動家」としては、太田某などを想起しますが…。
…いずれにせよ↑のうさぎ林檎さんの意見はほんと、前面同意でございます。
投稿: ひえたろう | 2010年11月22日 (月曜日) 午前 01時05分
>うさぎ林檎さん
>>私は法律を無視すれば、"妊娠状態"は個人ではないと思います。+1の命が必ずそこにある以上、たとえ自分の身で守り育てている母親であっても、妊娠出産に関わる問題は母親個人の問題ではない筈です。
どうしても妊産婦や乳幼児の母親は、我が子を自分の肉体の一部のように思い込みがちなものではあって、それはついこの間まで実際に自分の肉体の一部であった以上は感覚的に仕方ないところはあるだろうと思うんですが、そう謂う感覚的な問題とは別に社会的な責任関係の問題ってありますよね。
妊娠出産と謂う窮めて肉体的な営みによって新たな命とコミットしている母親がどうしてもその種の感覚的なバイアスからフリーではない以上、そうではない周囲の人間がきちんと配慮する必要はあるだろうと思います。
>>それが周産期医療が発達し、自分の生活を犠牲にしてまで最後の砦を守っている人達のお陰で、"妊娠は病気じゃない"を自分に都合よく考えられる程度に安全が保たれている。だから"方法"なんて贅沢なことに拘っていられるんですよね。
無介助出産は母親だけではなく胎児の生命にもリスクが多い上に、周産期に医療によるスクリーニングや適切な医療上のケアを受けていないのですから、無事に生まれたとしても健康上の懸念がありますよね。
ちょっと準備不足であんまり突っ込んで書いていないですが、オレが気になったのはやはり新生児の将来的な障害の問題ですね。極初期の段階で適切な医療処置を施すことで回避出来る障害はたくさんあるはずなんです。たしかに、「大多数の例」ではそう謂う懸念はないんですけど、本文で書いたように、白羽の矢と謂うのは何処の戸前に立つかわからないから怖いのだし、自分がその立場に立たされた場合には確率なんて何の意味も持たないわけですから。
デリケートな問題なので慎重な言い方になりますが、避け得ない障害を子供の個性として扱うことは正しくても、通常医療を受診することで回避可能な障害を親の一存でなるがままに放置して好いのか、正しいのか、子供の一生に亘る生活の価値を、他に選択肢が存在するのに親の一存で決定して好いのか、そこが物凄く気になります。
この母親の選択にしても、そこまで想像が行き着いた上での決定だったのか、それとも何も考えずにふんわりしたイメージの選好だけを動機としているのか、その辺も考えどころではありますね。
まあ、mimon さんや摂津国人さんが紹介してくださった情報でこの人々のバックボーンは粗方透けて見えてきましたが、結局この家族はふんわりした嗜好に則って生きているわけで、責任関係とか自身の選好がもたらす結果とか、そんなことは思考停止して上っ面のイメージの好悪だけを基準にして生きているんだろうな、としか思えませんね。
多分、考えても容易に結論が出ない難しいことを考えるのは他人の責任で、自分たちはこうしたいとかああしたいとか注文を出すだけの立場だと思っているんでしょう。社会参加と謂う意識や責任感がカケラでもあれば、こんな阿呆らしい自己満足的な暮らしなんか真顔で出来ませんよ。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月22日 (月曜日) 午前 10時32分
>poohさん
>>いろんなひとにいろんな美意識があっていいとは思うんですけど、傾いてみせるのはその傾いてみせる意味、と云うのを充分に自覚してはじめて社会的な意義が生じるわけで、それができなければなんと云うか、恥の感覚を理解できない単なる知性の欠如を晒している以上のものにはならないわけです。
こう謂う人々を見て率直に感じる感想と謂うのは「ああ、無責任な莫迦なんだな」と謂うことです。この人たちは、自分たち以外の多くの他者が構成する社会に対して何ほどのコミットをしているつもりなんでしょうかね。
気に入らないから社会からドロップアウトする、そして社会の側に属していてもそのドロップアウトに対してシンパシーを抱く人々からの「善意のご喜捨」でちょっとした生活上の余裕を得る、そしてこの家族の営みの意義とは自分たちの家族集団が社会のシステムに依拠しなくても喰っていかれると謂う安心感と無意味な誇りだけ、と謂うのが、この上なく醜悪に感じます。
摂津国人さんが紹介してくださったリンクを辿ると、まさにこの家族集団の家長は他人に依拠せずに何でも自分自身の手で行うことで生きていけると謂うことを誇っているのですね。これはやっぱり、端的に謂って社会に対するコミットを拒絶していると謂うことでしょう。
>>そこでおのれの真性性みたいなものを主張する、と云うのは、どう控えめに云っても勘違いした開き直り以上のものにはならない、みたいに思います。
mimon さんが紹介してくださった記事を読むに、この家族がそもそもこう謂うライフスタイルを選択する契機となったのは、普通の農業経営に失敗したことですよね。普通に農業をやろうとしたら失敗して、離農するふんぎりが附かなかったので最低限自分たち家族がかつかつ喰っていけるだけの自給自足のライフスタイルに切り替えたと謂うことですよね。観光農場みたいな側面もあると謂うことは、そう謂う自分たちの生活ぶりを見世物にして付加価値的な収入を得ていると謂うことですよね。
それはそれで構わないと謂うか、個々人の生き方に過ぎないと謂うか、それ以外の選択肢なんかなかったわけですから批判する筋合いのことではないですが、それを正当化する為につまんない無理筋の理屈を附けるのは人として恥ずかしい行為です。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月22日 (月曜日) 午前 10時33分
>mimon さん
貴重な情報を有り難うございます。なんかこの記事で大分具体的な背景が透けて見えてきたと謂うことはありますね。
>>その旦那さんは、アース農場の次男ですね。
>>多角経営しているというか、観光農場みたいな所のようです。
>>新聞社にも、話題づくりのために、自分で売り込んだ可能性があります。
ああ、ひどいなぁ。ホントにひどいなぁ。
「なんでまた中央日報?」と謂う疑問はありつつも、記事を読むと、やっぱり社会活動にコミットしていなくて、やっぱり文明否定で、やっぱり産業としては成立していなくて、やっぱり農業だけでは窮めて貧しい暮らしぶりなわけですね。
まあ、子供たちの世代の最終学歴が「農業が忙しくて」中卒だと謂うのは、他人がとやかく言うことではないでしょうけどね。人によっては「もっと子供たちに将来の選択肢を与えるべきでは」と謂う感想を抱く方も多いでしょうけれど、子供の未来が親の生業や信念に左右されるのは或る意味では仕方のない話ではありますし、親の思想や活動を批判することは出来ても他人が否定することは出来ません。
それなりに子の世代も納得して親の思想に附き合っていると謂うのであれば、子供に対する親の姿勢と謂う観点で批判することにも大した意味はないわけで、まあこう謂う家族集団なんだと思うしかないですね。摂津国人さんが紹介してくださったリンクを辿ると、どうやら三男坊は一時期グレて農場経営に参加していないみたいですが、親の生業を拒絶して自分の価値観で将来を決定する以上、親の力が及ばない困難があるのもまた仕方のない話ではあります。
ちなみに、次男の嫁の年齢表記から考えると、この記事は二年前のもののようですね。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月22日 (月曜日) 午前 10時33分
>摂津国人さん
情報有り難うございます。
>>父親は元々政治活動家の方のようです。
念の為に書籍の著者紹介を転載しましょう。
>>1942年、中国東北部(旧満洲)に生まれる。妹を背負った母の手に引かれて、4歳のとき引き揚げる。父は現地召集され、戦死する。岡山朝日高校卒業後、大阪市立大学に入学。卒業後、国鉄(現JR)労働組合書記。ベトナム反戦、70年安保闘争で、逮捕・拘置され、10年間、裁判に付される。部落解放同盟支部専従役員を経て、印刷、医療、配送等の労働に就く。1981年から百姓志願し、84年に、家族で兵庫県の山村のブラクに移住する。87年、平家落人伝承の山村(和田山町朝日)に移り、あ〜す農場を開く。93年以降、男手ひとつで6人の子どもを育て、育てられ、現在に至る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
まあ、これは「政治活動家」と表現するしかないですね。引き揚げ者、国鉄労組のカツドウカ、アンポ、カイドウ…われわれ以上の世代には懐かしいフレーズが満載で、「そう謂う種類の人」と謂う認識になりますから、こう謂う言い方もアレですが、朝日新聞と相性が好いのかもしれません(笑)。
>> 生活スタイルはテレビでも取り上げられていて既に「有名人」です。朝日の記者もそれを前提に取材したのでしょう。
>> フジテレビ系ザ・ノンフィクションというドキュメンタリー番組で「われら百姓家族」と題するシリーズ物で1998年頃から取材が始まり7回ほど放送された様です。
オレは基本的にドキュメンタリー番組が大嫌いなので、「NONFIX」も「ザ・ノンフィクション」も観ていないんですが、要するに「貧乏大家族」なんかと同じノリで有名人と謂うわけですね。それに旧世代のカツドウカの思想がバックボーンとしてあると謂う構図ですか。
もういい加減にしろって感じですね。水力発電とか微妙なことを言っている時点でこの親の思想の浮薄さが透けてみえますし、コマーシャリズムに乗っかっているんだか批判しているんだか理路がサッパリ見えてこない辺り、何と謂うか、浮薄な思想と生業と現実事情がグダグダに絡み合っていて、何だか物凄く不潔に感じます。この番組を制作した込山正徳と謂うディレクターのブログから引用しますと、
>>「われら百姓家族」という番組では、取材を受ける本人たちが自らを「百姓」と言っていた。
>>「百姓」は米、野菜を育て、牛、ブタ、鶏を飼い、炭焼きをして、大工仕事もこなすなど、「百の仕事」をやってのける誇り高い人間なのだ、と宣言していた。
>>「都市で、給料を貰って食料を買い生活しているサラリーマンよりも、よほど優れているのだ」と自信を持っていた。
>>そこまで本人たちが「百姓」にこだわっているのだから、その言葉を規制することに意味はない、とテレビ局のプロデューサーも判断し「われら百姓家族」というタイトルになった。
歴史的用語を勝手に意味附けてスローガン化したり、敢えて差別用語を逆手に取ってみせる辺りが如何にもカツドウカ上がりって感じですが、まあ歴史的に「百姓」にはそんな意味はありませんね。「百の仕事」と謂う意味で謂うなら、ここで百姓に対置されている都会のサラリーマンだって立派な百姓です。
このコメンタリーなんかに典型的ですが、やっぱりこの連中は自分たちの生活を何でも自分たち自身の手で出来ることが優れたことであると謂う「変な」価値観の持ち主のようで、「都市で、給料を貰って食料を買い生活しているサラリーマンよりも、よほど優れているのだ」だそうですよ、笑わせますね。
>> まともな農家や「百姓」の方に失礼です。少なくとも成人の家族については多少の批判を受けても止むを得ない印象さえ持ちます(朝日新聞、フジテレビも含め)。
まあ、こんな連中だとわかったのだから、もう手心を加える必要はありませんね。
本題のほうの無介助出産にしても、或る種この農場が農場研修を通じて情報発信源になる可能性もあるわけで、一種有害情報に踊らされる側であると同時に強力に発信する側になり得る強い可能性を持っていると謂うことでしょう。
農村体験に来た人々に「この子は自宅出産で生まれたんですよ」「へえー」みたいな流れで話して聞かせれば、最初から「自然と一体化した」農村の暮らしに憧れを持つ人々なのですから、宣伝効果抜群でしょう。マクロビの伝播なんかと同じで、この種の施設が野良妊婦の量産基地化するのは目に見えていますね。
いずれにせよ、一般的に謂う「農業」や「農家」とはまったく無関係な気持ちの悪いコミューンみたいなものだと謂うことは理解しました。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月22日 (月曜日) 午前 10時33分
>ひえたろうさん
>>なんと、この家族についてもいろいろ出てきてるみたいですね。イノセントに考えすぎましたか。
いや、表向き「一般人」と謂う扱いで報道されているんですから、個人の暮らしぶりを批判することに慎重になるのは当然の手続ですよ。朝日新聞の記事だけ読んでもこんな裏事情は読み取れませんしね。
ただまあ、そう謂う事情が判明してみれば、ここまでマスコミに露出してふんわりしたイメージ戦略で自分たちの存在意義や正当性を主張している連中なのですから、言論で対抗すると謂うのが噛み合った作法なんじゃないかと謂うふうに思います。
ちなみに、無介助出産をした嫁さんは、「農村体験をしにきた女子大生」で現時点から謂えば七年前に結婚したそうですから、まあ、何と謂うか最初から「そう謂う人」だったと謂う言い方も出来ますね。この辺の結婚のすったもんだもドキュメンタリー番組で公開しているようです。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月22日 (月曜日) 午前 10時34分
一つ触れるのを忘れた。
>>「自給自足の山里から—家族みんなで縄文百姓」
「百姓」のみならず「縄文百姓」と謂うのも歴史的文脈から乖離したキバツなネーミングのスローガンだなぁ、と。本文で「狩猟採取時代さながらの収量で」みたいな話をしたけれど、まさに縄文時代の狩猟採取のライフスタイルが真正な生き方だと思っているんだな。もしかしたら「ヤマト史観」とか言い出す人なんだろうか。
まあ、ここまでふんわりしていると、「縄文」と「百姓」には意味的にまったく関連がないとか、どうしたって噛み合う組み合わせではないとか、それどころか縄文時代に所謂百姓なんかいなかった、みたいな話をしても虚しいだろう。
このヒトは言葉と謂うものを完全にスローガン的にしか捉えていないようだから。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月22日 (月曜日) 午前 11時11分
こんばんは、
子供が親に反発するのは,自立のための健全な反応ですが,引きこもって,親に寄生しながら,親に暴力をふるうという病的なものを連想しました。
「ベガーズ イン スペイン」も、恩恵を与えてくれるものに恐怖を感じ攻撃してしまうような話でしたね。
投稿: zorori | 2010年11月22日 (月曜日) 午後 10時02分
摂津国人さんのご紹介先をざっと拝見して、お祖父さんの大森昌也さんは、マスコミの露出度も高く、有料の講演会に招かれたりして、農業収入なんかよりも、評論家か思想家か教祖様みたいなのが本業なのだろうなと、感じました。
私は、悪いほうに想像が向いてしまいまして、もし、お父さんのげんさんが同じような職業にあこがれて、目立つことを「企てた」のだとして、その手段が危険な「無介助分娩」だったのでしたら、母子保護法違反の可能性があります。
お母さんの梨沙子さんも納得づくのようですから、愚行権の範囲内ではあるのでしょうが、それをマスコミが無節操に実名入りで取り上げることは、公序良俗に反するのではないでしょうか。
なにしろ、記者やデスクには、無介助分娩というのは、反社会的とまではいいませんが、非人道的行為であるということを自覚して欲しいと思います。
投稿: mimon | 2010年11月23日 (火曜日) 午前 02時24分
>zororiさん
>>子供が親に反発するのは,自立のための健全な反応ですが,引きこもって,親に寄生しながら,親に暴力をふるうという病的なものを連想しました。
なまじいに特定の家族集団の話だったので、一瞬この家族の実際の親子関係のことかいなと解釈して「ん?」と思ってしまいましたが(笑)、この家族集団全体についての比喩的表現で、社会が親、この家族集団が子に擬えられているわけですね。
仰る通り、この家族集団は「自給自足」と謂う名目で自分たちだけの殻に籠もって社会活動に一切コミットせず、その実はTV出演や講演や農村研修と謂う形で社会活動の余慶を蒙らないと生きていけないわけで、そのくせ都会のサラリーマンなんかを自前で何もしていないと謂う理由で見下しているわけですね。
まあ、ここの家長のやっていることを視ると、思想的に大した一貫性があるとは思えませんので、単にこの世代のカツドウカの考えそうな「エコ」活動として、世間のやることに文句を言っていればいい的な考え方なのかもしれませんね。その意味で、南海の観光地に住んで自前で鶏を捌いて喰っていると謂う理由で威張っている某作家なんかと料簡の上では大した違いはないと思います。
農業については本で学んだとか言っていますし、ボランティアの協力で水力発電を導入するまで普通に買電して照明に充てたりTVを観ていたそうですので、文明の恩恵にはしっかり与っているみたいですよ(笑)。そもそも「縄文百姓」とか言っておいて電気って何よと謂う話で、文明否定の割には普通一般の社会人よりよっぽど文明にぶら下がって生きているようなものだと思いますが。
まあ、マトモに一貫性を探すだけ莫迦らしいレベルだと謂えそうです。
>>「ベガーズ イン スペイン」も、恩恵を与えてくれるものに恐怖を感じ攻撃してしまうような話でしたね。
SFから離れて随分経っていますので、全然識りませんでした(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月23日 (火曜日) 午前 05時28分
>mimon さん
>>摂津国人さんのご紹介先をざっと拝見して、お祖父さんの大森昌也さんは、マスコミの露出度も高く、有料の講演会に招かれたりして、農業収入なんかよりも、評論家か思想家か教祖様みたいなのが本業なのだろうなと、感じました。
オレなんかは、「世捨て人なら世捨て人らしく黙っとけ」とか思うんですがね。農業を通じて社会活動にコミットするのではなく、自分たちの暮らしぶりをネタにしてふんわりした「自然崇拝」を商売にしているだけじゃないかと思いますが、まあ逆説的に謂えばそれも社会に対するコミットの在り方かもしれませんね。
この間の理路を整理して考えると、非常に不潔な商売だと思いますけれど。
>>私は、悪いほうに想像が向いてしまいまして、もし、お父さんのげんさんが同じような職業にあこがれて、目立つことを「企てた」のだとして、その手段が危険な「無介助分娩」だったのでしたら、母子保護法違反の可能性があります。
朝日新聞の記事では、奥さんのほうの発意によるもので旦那さんは腰が退けていたような書きぶりでしたが、まあそれ以上のことはわかりません。元の記事がもう参照出来ないようなので、「助産院は安全?」さんの書き起こしから引用すると、
>>夫のげんさんは「適切な出産方法を選ばずに最悪の結果になれば罪に問われるのかなと思ったこともあるが、出産に向けてきちんと準備をしているので大丈夫と思えるようになった。信じてあげることが大事です」と言い、家族の理解と協力の大切さを強調する。
…とありますので、このニュアンスだと奥さんが言い出したことに家族が理解を示して協力した、と謂うふうに読めますね。まあ、法律違反が絡む事柄ですから、疑うだけの根拠がなければ、疑わしきは白と謂うふうに解するのが妥当ではあるでしょう。
ただ、短く編集された言葉でその通りに言った保証はないと謂う留保を置いた上で言うなら、「適切な出産方法を選ばずに最悪の結果になれば罪に問われる」けれど「出産に向けてきちんと準備をしているので大丈夫」と謂う掛かり受けなら、畢竟するところそれは「最悪の結果」にならないだろうから大丈夫と信じると謂う結果オーライ的な理路だと謂うことになりますね。
で、それには何の根拠もないし、謂わば博奕です。三人目だし、多分大丈夫だろうと謂う予測にはそれ相応の成算はありますが、飽くまで「成算」であって「保証」ではありませんから、それはつまり「最悪の結果」を織り込んだ投機だと謂うことです。
>>お母さんの梨沙子さんも納得づくのようですから、愚行権の範囲内ではあるのでしょうが、それをマスコミが無節操に実名入りで取り上げることは、公序良俗に反するのではないでしょうか。
仰る通り「結果的に」「最悪の結果」にならなかった以上、何らかの罪に問うことは微妙でしょうが、謂ってみればこれは「違法行為」ではないとしても「脱法行為」ではあるでしょう。法によって処罰の対象となる行為ではなくても、法の精神が期待する公序良俗に即した行いからは外れているわけですから、社会通念から謂えば顰蹙される行いのはずです。
たしかに明確な第三者被害があったわけではないですし、法的な意味では不当に利益を得ようとしたわけでもないですから、愚行権の範疇と謂う解釈も可能でしょうが、母親一個人の所有物ではない胎児の生命を一定の危険に晒した(前述の障害の問題なんかを含めて謂えば未だにリスクは潜在しています)と謂う意味で、これを肯定的に紹介することには公序良俗上の問題があると謂うご意見に賛成です。
>>なにしろ、記者やデスクには、無介助分娩というのは、反社会的とまではいいませんが、非人道的行為であるということを自覚して欲しいと思います。
個人的な感覚ですが、こと今回の事例に限って謂えば、非人道的行為であることはもとより、反社会性に大きく踏み出した行為であると感じます。その印象は、この家族集団の通常の社会活動に対する攻撃的な姿勢によっても補強されるものですが、この種のライフスタイルそれ自体にこの種の非人道性を必然的に導き出すような浮薄な反社会性が織り込まれていると考えるからですね。
公器の報道の姿勢としては、愚行権の取扱と謂うことについては個人の自由として認めながらも報道の見識として反社会的行為は批判的に論評するのが順当でしょうし、こと無介助分娩の問題に関して謂えば、妊娠出産における胎児や新生児の独立した人権の問題が絡んできますので、母親個人の自由裁量で選択の自由が許された愚行の範疇から逸脱しているのではないか、と謂うのがオレの感じ方です。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月23日 (火曜日) 午前 05時29分
>記者やデスクには、……
>非人道的行為であるということを自覚して欲しいと思います。
>公器の報道の姿勢
http://d.hatena.ne.jp/teru0702/20101119/1290148317
↑こちらのブログで、朝日新聞の医療サイト「アピタル」からの事情説明を読んで、大きい組織に所属する誠実な人は大変だなぁと。
でもこのブログの結論通り「それだけではジャーナリズムに対して誠実であるとは言えない」のも事実ですね。いやマジで大変だなぁ。
投稿: Leo16 | 2010年11月23日 (火曜日) 午後 12時44分
>Leo16 さん
情報ありがとうございます。
>>でもこのブログの結論通り「それだけではジャーナリズムに対して誠実であるとは言えない」のも事実ですね。いやマジで大変だなぁ。
まあ、こう謂う視点も重要なんだと思いますが、たしかにこのネット時代の時制においては誠実なジャーナリズムたらんとすることは大変だろうと思います。
で、今回オレが朝日新聞の姿勢については主要な批判対象としていないのは、一つには他の皆さんがまずそこに重点を置いて批判しておられると謂うこと、いま一つはオレ個人がその観点の批判に情熱を持てないと謂うことがありまして、最終的にはこれまでに書いたエントリからの流れで、寧ろ報道されている家族の在り方や安直な「自然崇拝」のほうに大きな批判的関心を覚えたと謂うことがあります。
何故朝日新聞の報道姿勢を批判することに情熱を持てなかったかと言いますと、本文でも触れた通り、朝日新聞は先般のホメオパシーの問題で非常に誠実で有益な追跡報道を行っていると謂う実績がありますよね。
で、一口に「朝日新聞」と括ってみても、個々の記者によって見識も誠意も業務姿勢も違うだろうし、新聞報道と謂うのはその種の揺らぎを予め織り込んだ器であって、大新聞の看板が信頼を保証すると謂う考え方それ自体が今時剰り妥当ではないだろうと謂う思いがあるからです。
勿論、大多数の新聞購読者は特定の看板が保証する総合的な信頼性に依拠して情報の確度を判断しているわけですから、事実において新聞の看板には自社の発信するすべての情報の精度を保証する大きな責任があります。ただ、現実問題として個々の記者が大企業に帰属する個々人でしかない以上、それは「べき論」では正しくても実践論として困難があるだろうと謂うことは想像に難くないわけですね。
で、だからと謂ってそれで大新聞の看板に期待される責任が幾らも免責されるわけではありませんから、一つの看板の下に発信された情報については看板を掲げた組織全体が責任を感じるべきではありますし、もっと謂えば新聞社の財産とはその看板に不特定多数の人々が寄せる不確かな信頼しかないと謂う言い方が出来ます。
ですから、「情熱が持てない」と謂うオレ個人の立ち位置上の言い方になりますが、大袈裟に謂えばオレ個人の言論のスタンスとして「正当な要望を突き附ける」と謂う行為には関心が薄いと謂うことがあります。特定の問題領域を切り取って考察し、それに対して提言をする、そう謂う言論に関心が特化しているわけですが、たとえばこの種の問題と謂うのは「そうあるべきだがそう出来ない事情」と謂うのは、ハナから判明していると謂うことが言えますね。
それはつまり、大新聞の地方局が地方向けの紙面においてこの種の迂闊な情報を発信するのは、単なる「油断」と謂う以上のものではないし、個別の記者の不見識に原因があるのだし、さらにはそれを看過したデスクの不見識に帰せられるわけで、畢竟するところそれは特定組織の具体的なガバナンスの問題にならざるを得ないわけです。卑俗な言い方をすれば、朝日新聞の神戸総局がこう謂うポカをやらかしたのは、単に社内のガバナンスが緩かったから、つまり脇が甘かったとか隙があったからです。
その問題を指摘することはたしかに重要なんですが、結局はその主張は「これからは気を引き締めてこう謂うユルい情報を発信するな」「キチンと自社の発信する情報の精度を統括しろ」と謂う「お説教」以上にはならないんだろうな、と謂う気がするわけで、それを受けて朝日新聞に出来るのは、全社的に今以上に個々の記者の書く記事に対してデスクに相当する上長が多方面からのチェックを掛けると謂う以上のものにはならないわけですね。
たとえばそれを企業活動におけるトラブルやミスと謂うふうに一般化して考えると、責任者が始末書を書き、今後同様のトラブルが起こらないように予防策を講じ、社内体制をこのように改めましたと謂うレジュメを提出する、そう謂う成り行きになりますね。
しつこいようですが、それはそれで必要な手続です。その報道が何故間違っているかと謂う観点で論陣を張ることも必要な手続ではあります。ただ、ウチのスタイルでそれをやると、「わかり切ったことに多言を費やしてくどくど説教を垂れる」と謂う形になってしまうわけで(笑)、まあそれをオレがやるのは自他にとって穣りがないだろうと謂うことで情熱が持てないんですね。
で、もっと謂えばこの問題はそれを報道する姿勢も問題だけれど、報道されている事実のほうにそもそももっと大きな倫理上の問題があるわけで、オレはそれを菊地さんが仰るように「個人の自由」だとは思えないのですね。
ただし、当初そう視られていたようにこれがマスコミや世間の好奇の視線に対して自衛の力を持たない極一般的な家族の行為であれば、世間のバッシングと謂うのは「必ず」行きすぎるわけですから、それを巡る言論も慎重にならざるを得ないとは考えます。
しかし、ここのコメント欄に寄せられた情報で判明したのは、この家族が一種自分たちが実践しているライフスタイルを積極的にマスコミに露出して情報発信することで幾許かの収入を確保しつつ一種「社会にコミットしている」思想的な集団であると謂う事実ですから、社会に対して公に発信された思想に対しては真っ向から言論で対抗するのが噛み合った筋道と謂うことになるでしょう。これはもう匿名性によって保護されるべき無名の一般家庭の問題ではなく半公人の活動である、従って一切の斟酌抜きでそれを批判するべきだろう、そう謂う流れになります。
得られた情報で判断するなら、マスコミに対する露出もさりながら、この農場は農村体験なども受け容れていると謂うことですから、たとえばマクロビ農場なんかと同様に直接的接触を通じて有害情報の発信基地となり得る危険を持っています。
問題領域が、たとえば有機農法や娯楽的な自給自足のノウハウだけならまだしも、これが無介助出産と謂うことになれば、それには大きな倫理的責任が伴います。上のほうで触れたように、大自然に囲まれ自給自足の暮らしを営む幸福な一家と謂うイメージ戦略に載せて、そのようなロケーションの醸し出す非日常の雰囲気の中で無介助出産の素晴らしさを訴えられたら、「私も同じように」と思う人は少ない数ではないはずですね。
そう謂う「事実」を無批判に影響力の大きいメディアに載せてしまうマスコミにもたしかに大きな責任がありますが、まず批判の本丸はその「事実」を構成するこの家族集団それ自体の在り方だろう、オレはそう考えます。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月23日 (火曜日) 午後 01時59分
こんばんは。
まぁ、どう考えても「自然」の線引きが恣意的に過ぎて嫌悪感を覚えますね。こういった自然農法で商品としての品質に耐えうるものができるはずもなく、買うとしたら同じく「自然」志向の人がありもしない「安全・安心品質」を信じて商品の質には目をつぶってくれると言う場合でしょうね。自然農法などについては、自分のブログでさんざん論じてきたので繰り返しませんが、とむざうさんやコメントを寄せていらっしゃる皆さんのおっしゃるとおり自然な農作物などあるはずがなく、「自然」と「農法」がすでに矛盾している事に気づいてない時点でこの人達はかなり痛いとしか言いようがないです。
また、この人達の詳しい経営規模を知らないので軽々にものは言えませんが、先ほども触れたように商品価値に乏しい事に加え、どう考えても収量性が上がるとは思えない農法で生計が成り立つはずがない事は私には容易に想像がつきますので、とむざうさんの予想通り養蜂がその生計の柱になっている事は間違いないでしょう。
多分、この養蜂については採蜜だけではなく、園芸農家への受粉用の貸し出しも行っているのではないでしょうか。現金収入としてはその方が効率が良いし、そうでなくては家族の生計を支えられるとは思えません。となれば、飼われているミツバチは「セイヨウミツバチ」である可能性が高く、なおさら自然とは乖離していきますよね。まぁ、これも想像でしかないわけですけど。
皆さんの意見の繰り返しになりますが、こういう恣意的な自然志向をもって他者を批判するというのはやめて頂きたいものですね。
投稿: がん | 2010年11月23日 (火曜日) 午後 07時45分
追加です。夫の父親の出版物は「六人の子どもと山村に生きる 」(麦秋社)が1997年ですからこれが取材につながったのでしょう。
あと「究極の自給自足」として朝日新聞2006年12月31日の全国版の特集記事に既に紹介もされていたようです。
テレビでは他に「自給自足物語 密着12年!三姉妹自給自足 額に汗する乙女たちの絆 」としてテレビ東京で紹介(過去にも)。(フジテレビと同じ製作会社なのかもしれません)
>第1回(1998年6月14日)から登場している一家。第5回(2000年4月2日)第10回(2003年2月9日)、第19回(2007年6月10日)、と家族の成長を取材してきました。今回は美しくたくましく成長した、3姉妹に密着します。昭英が訪ねる。
日曜ビッグバラエティ 2010年7月18日(日)http://www.tv-tokyo.co.jp/sun/backnumber/310.html
この「自給自足物語」シリーズは名物企画のようですが…。
関西ローカルの朝日放送(テレビ)クイズ紳助くん 2010年5月10日 「なにわ突撃隊が自給自足大家族に学ぶ!」
http://l-mode.asahi.co.jp/shinsuke/backnumber/20100510.html
別に父親の発言です。研究誌「アジア新時代と日本」第79号2010/1/5 『「限界集落」よ、「縄文百姓」で蘇れ』
http://www.asiasinjidai.jp/index79.html#3
他にも「あ~す農場」「あーす農場」「アース農場」や父親の名前で検索すると「活動」が山のように出てきます。キツイです。
現在は家族をネパール、フィリピン、キューバに行かせメキシコで研修させる経済力は有るようです。
ちなみに昨日11月23日は大阪・十三で講演会があったようです。 http://www.slowmovement.jp/event/detail.php?eid=349&page=0
中央日報にも書かれている関係の深い(研修指導者)神戸の財団法人PHD協会。公共性が認められているのか自治体・医師会等も含む錚々たる理事会・評議員会が存在します。
http://www.phd-kobe.org/index.html http://www.phd-kobe.org/gaiyou.html
一部では自宅出産を進める助産院を容認していて有機農法なども推進しているようです。
ブログより「ウルミラさん、北九州での助産・研修終了です! 2010-10-11 」
>北九州・澁谷助産院
>助産師がドクターのアシスタントになってしまっている現状など、
>近代の助産の問題点などを教えてくれました。
>ちなみに日本での自宅出産を辞めさせたのはGHQ、マッカーサーだそうです。
>日本人の結束を崩すのが狙いだったとか。余程脅威だったようです。
http://ameblo.jp/phd-kobe/entry-10674666435.html
「ウルミラさん、岡山での助産(古賀直子さん)研修、前半修了です」
http://ameblo.jp/phd-kobe/entry-10653718961.html
EM菌(肥料用ですが)も「逆子を元に戻す姿勢ややり方」も胎盤食もありました。海外からの研修生に何を教えているのやら…。
「ひさびさ研修生3人勢ぞろいで研修ふりかえり 2010-10-16 」
http://ameblo.jp/phd-kobe/entry-10678573329.html
投稿: 摂津国人 | 2010年11月24日 (水曜日) 午前 12時45分
>がんさん
農業ネタと謂うことで、召喚したみたいになってすいません(笑)。
>>まぁ、どう考えても「自然」の線引きが恣意的に過ぎて嫌悪感を覚えますね。こういった自然農法で商品としての品質に耐えうるものができるはずもなく、買うとしたら同じく「自然」志向の人がありもしない「安全・安心品質」を信じて商品の質には目をつぶってくれると言う場合でしょうね。
まあ、普通に考えて農協が引き取るとは思えないので、通信販売みたいなことでもないと商売にならないでしょうね。摂津国人さんが紹介してくださった研究誌「アジア新時代と日本」第79号のインタビューから引用すると、
>>—自給自足とはいえ、現金も必要だったはずです。現金収入はどうされたのですか。
>> 「最初の頃は月に2、3万円の生活やった。秋になったら村の人たちから食糧の不足分は貰った。食べるもんは自給やし、あまったら販売して何とかなる。自家製のパンとか山菜、蜂蜜、卵、野菜、米とか直販で販売している。最低の現金はなんとかなるものさ。5万円あれば、車のガソリン代や電気代は賄えた」
…と謂うような生活だそうです。まあ、仰る通り支持者からのカンパみたいなものなんでしょうね。基本的に貨幣経済に批判的なスタンスのようなので、殆ど農業によって現金収入を得ることは考えていないようですね。
>>また、この人達の詳しい経営規模を知らないので軽々にものは言えませんが、先ほども触れたように商品価値に乏しい事に加え、どう考えても収量性が上がるとは思えない農法で生計が成り立つはずがない事は私には容易に想像がつきますので、とむざうさんの予想通り養蜂がその生計の柱になっている事は間違いないでしょう。
どうも同じ資料を視ると、やっぱり産業の体を成していないようです。
>>—移住した頃、村の様子はどうでしたか。
>> 「移住した頃は、13軒が米つくりをしていた。ほとんど60歳以上だった。そしていま、ほとんどの人が亡くなり、米つくりしているのは一軒のみ。子供たちの成長とともに譲り受けたり、小作したりして、今34枚の水田と27枚の畑、合わせて61枚、一町歩余りを三家族、ユキトでやっている」(註;三家族とは、大森さんの「あーす農場」と、げんさんの「あさって農場」、ケンタさんの「くまたろ農場」だ)。
>>—機械もできるだけ使わない農法を実践されている。
>> 「機械を入れてやる気はない。メンテナンスも石油もいるし、トラクターを入れてやれば機械が主人公になってしまうからね。昔ながらのやり方で不耕起だ。いまや近代的農業はすべて機械任せのスリッパ農法で、何町歩も耕すやり方やけど、でも耕したらあかん。畝をつくったらそのままで、僕は耕さない。手でやって大変なときは機械でやることもあるけど生態系をつぶすから。肥料もあまり入れない。バイオガスで生まれた液肥を使うくらいけど、生産量は落ちないね」
…と謂うような現状のようですね。まあこの規模がどの程度のものなのかは素人なのでわかりませんが、三家族が殆ど機械を入れずにやっていける程度と謂うことになるのでしょう。文中の「ケンタさん」と謂うのは三男のことですから、結局彼も父親の活動に加わって生活しているようですね。
で、結局この家族の思想と謂うのは、人間の組織の規模を極端に小さくしろと謂う主張らしいので、家族内で完結するような単位の集団が緩く連携しているのが理想的なクニだと謂うことのようです。つまり、この人々の謂う「百姓」とは「農業」ではなく自分たちの家族集団が食糧を得る為の手段だと謂うことになるでしょう。
そう謂う意味では、普通一般に謂う「農業」とはまるで意味が違いますし、収量の問題は喰っていけるかいけないかの問題だと謂うことになりますから、謂ってみれば農業と謂う産業それ自体を否定しているわけですね。
まあ、素人が考えても、こう謂う農法で曲がりなりにも家族が喰っていけるだけの収量が得られると謂うのは、「運が良かった」としか言い様がないわけで、全国何処に行っても同じことが通用すると謂うのは大変おめでたい考え方だと思います。
そもそも一家が移住した時点ですでに農業が成立していた地域の休閑地を譲り受けているわけですから、オレが何となくイメージしていたように山間部の荒れ地を一から開墾したわけでもないですし、謂ってみればこう謂う変なやり方でも家族が喰っていけるだけの農産物を収穫することが可能だと謂うだけの話ではあります。
収量の問題で謂えば、普通一般の農家は自分たちの家族が喰っていける分だけと謂うレベルで考えてはいませんから、そもそも基準がまったく違いますね。逆に謂えば上記の引用で挙げられているだけの規模の農場をただ三家族が喰っていく為「だけ」に活用していると謂うことですから、謂ってみれば物凄く「贅沢」な話ではあります。
当たり前の話ですが、この家族が譲り受けた「農地」だって元から「農地」だったわけではありません。原始林だか草原だか荒れ地だか、いずれにせよその環境を改変し継続的に手入れすることで「農地」が維持されていたわけですね。まあ、普通に考えてそう謂う継続的な人為のお陰で、現在この家族が不耕起農法でも一定の収量を得られるだけの現状があるわけで。
また、この農場には杉林があってそれを木材として利用しているようですが、当然杉林と謂うのは木材供給の目的で人為的に植林されたもので、この家長はその種の植林計画も批判しているにも関わらず、やっぱり普通に木材として利用しているわけですね。
この家族をモデルケースにして、大多数の人々が自給自足の暮らしを営むなら、日本中のすべての土地を人為的に改造して農地や伐採林に転換してもまだまだ全然足りないわけです。
そろそろ結論めいたことを言っても好いと思いますが(笑)、結局この家族の主張と謂うのは、突き詰めると「人間が多すぎる」と謂うことにならざるを得ないんですね。三家族一〇人内外の人間がただ喰っていく「だけ」で狭い国土の中でこれだけの面積の土地を必要とするのですから、仮にこの家族の主張を受け容れるとして、前述の通り日本全土をあーす農場化したとしても、日本全国の一億五千万人の国民が全員こんな暮らしが出来るわけではありません。
で、ただ単に生きていくだけでこの家族と同様の労働量をこなす必要があるわけですから、病気識らずで身体頑健でないとただ単に生きていくことすら出来ませんね。ここの家長がそもそも移住を決意した理由は長男の健康問題だったそうですから、個人体験の過度な一般化で、山の中で労働して過ごせば自然に身体頑健になるとか思っているのかもしれませんけれど、どんな暮らしや環境であるかに無関係な健康上の問題を抱えている人なんて今時掃いて捨てるくらい生きているわけで、転地療法がかなり有効な小児喘息が治った程度で「自然環境には人間を健康にする力がある」と主張することも出来ないでしょう。
もしもこの長男の病気が小児喘息のようなものではなく、定期的な医療の受診がなければ命に関わるような重度の疾患だったら、多分この家長は移住なんかそもそも思い附きもしなかったでしょうね。この家族のライフスタイルには、そう謂う肉体的に脆弱な人間が生きられる余地がありません。明確な病気を抱えていなくても、激しい肉体労働に耐えられない人もたくさんいます。
そのようにして「もしも」を重ねていって、一般的に存在する人間の生活上の困難を想定していけば、このようなライフスタイルで生存可能なのは物凄く「運の良い」人間だと謂うことがわかるはずです。
たとえばひえたろうさんが「貴族」と謂う言葉を遣われたように、この種の思想には必然的に一握りの人間だけの都合しか考えていない鈍感な独善性が潜んでいます。現状のこの家族が運良く全員このような暮らしぶりに適応出来たとして、これから生まれてくる子供が、たとえば重度の腎臓疾患を抱えていたとしたら、それでもこんな暮らしを続けることが可能でしょうか。それとも「自然」に任せて「死すべき命は死なせる」のでしょうか。これから生まれてくる子供だけの話ではなく、すでに生まれた子供が、たとえばフェニルケトン尿症で障害を抱えたりしたら、この母親はどうするのでしょう。
オレがこの種の思想に対して批判的な情熱を持つ動機は、結局そこなんですね。医療の助けが得られなかったら安全に出産出来ない母親や、生まれても無事に育つことすら出来ない子供、育ったとしても重労働に耐えられない病弱な人々、重度の障害で労働に従事することすら出来ない人々、その種の弱者に自分だけはならないと謂う無根拠な思い込みや想像力の欠如、そして冷酷な無関心が耐え難いほど不愉快に感じるのですね。
この種の人々は、実際に我が子がただ生きているだけでも先端医療の力を必要とするほどの重度の障害を抱えて生まれでもしない限り、そんな可能性は完全に頭の中から排除して生きていられるほど鈍感で想像力がないのでしょうか。今現在そう謂う現実を生きている人々のことなんか考えたこともないのでしょうか。
高々空気の好いところに転地したお陰で息子の小児喘息が治ったからと謂って、それだけが世界の真実だと謂う顔をしていられる神経は到底理解出来ません。
社会のシステムが分業で成り立っているのは、自ら重労働に就いて暮らしの糧を得られるだけの資質のない人間でも生きていけるようにする為で、そんな人間でも別種の労働や社会参加を通じて他者に貢献することが出来るようにすることで社会は発達してきたわけで、何度も繰り返し語っているように、人類文明は「結果的に」弱者を救済する方向性で発達してきたわけです。
そして、そのようなシステムは、食糧生産を分業化することがまず出発点ですから、その意味で農業は重要な産業なのであって、自分たち一個の暮らしの糧さえ得られれば好いと謂うのなら、それは社会全体から考えて何の意義もない活動です。この家長が都会で働くサラリーマンよりも自分たちのほうが優れていると謂うような発言をしたことが象徴的ですが、彼らはその種の社会の意義をまるで理解していない。
肉体的な重労働によって自らの食糧を得たり自身の生活に必要なあらゆる作業が出来ない人間は、それが可能な人間より劣った人間だと謂う意味のことを言っている。分業によって社会に貢献している人々よりも、肉体労働によって自分一個の暮らし全体を賄える人間のほうが優れていると言っているわけです。
別段オレは自分一個の暮らしを賄うだけの肉体的・知的能力があること自体に意味はないとも思いませんが、ただ単に社会活動と謂う観点から考えれば意味がないし、それが社会活動に参加している人々よりも優れていると謂う主張には意味がないと考えます。
謂ってみれば、ホットドッグ早食いと同レベルで「オレには出来ない、凄いなぁ」と謂うだけの話であって、彼らが自給自足の生活をしていることは、徹頭徹尾オレが今生きていられることと関係がないし、彼らからは何の恩恵も被っていません。
農業が社会にとって重要なのは、自ら食糧を生み出さず別種の領域に労力を振り向けている人々に食糧を供給するからであって、農産物を栽培して食糧を調達する行為そのものが有意義だからではありません。誰もがそんなことをしていたら、人間は自分の食糧を自力で調達すること以外何も出来なかったから農業が重要なんです。
そう謂う意味では、オレが今口にしていないし将来的に口にする可能性のない農産物を生産している農家だって、回り回ってオレの今の生活に恩恵を施しているわけで、そう謂う意味で農業は社会にとって重要なのです。
この家族が幾許か恩恵を被っている電気も医療もバイオ何たらも、人類社会に自前の食糧調達以外のことをする余力が生まれたからこそ生み出された成果であって、芸術だって同様です。そのような文明の歴史性の意義を否定するなら、完全にそれら文明の恩恵と絶縁してから主張するのが筋でしょう。
もっと謂えば、前述の通り彼らの素人農法が何とか自給自足を成立させられたのは、慣行農法や植林政策を始めとする「不自然な」人為の余慶であって、一から荒れ地を開墾して非効率的な農法で試行錯誤を繰り返していたら、いつまで経っても自前の食い扶持すら確保出来なかったでしょう。
まあ、「本職の」お百姓さんから視れば、「われわれこそが本当の百姓だ」とか言い張られても迷惑な話でしかありません。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月24日 (水曜日) 午後 01時40分
>摂津国人さん
重ねて情報ありがとうございます。コメントを戴く前にオレも少し検索を掛けてみたのですが、まあ出るわ出るわの情報の洪水で、何だか混乱してしまいました(笑)。
一渡りリンク先を読んでみましたが、これだけメディアに露出しているのですから、相当な有名人と謂うことになりますね。やはり、「自給自足」と謂うライフスタイルは現代人にとって一定の魅力があると謂うことでしょう。
がんさんへのお返事と繋がりますが、社会システムにおける分業と謂うのは、詰まるところ社会制度と謂う概念に対する信頼を必要とすると謂うことなんですね。特定の社会制度や政治政策ではなく「社会制度と謂う概念」と謂うことになるでしょうが、人間は基本的に自分でやっていないことに対して一〇〇%の信頼を置けないのが当然で、それはそれで一種健全な不安と謂うことになるでしょう。
われわれが食料調達に専従することなく、それとは別種の領域に対して労力を投入出来るのは、食糧供給を社会と謂うシステムが保証してくれていると信頼するからで、社会秩序が安定していない国家では、それこそ明日の食糧が供給される保証がないと謂う不安に日々晒されているわけで、そのような社会状況において国民が安心して社会活動に取り組むことは出来ませんから、必然的に国力は疲弊しますよね。
いつでも食糧が購買可能だと謂う安心感は、その供給を支える社会制度に対する信頼に依拠しているわけですが、社会制度と謂うのはコンクリートな形では目に見えません。人間と謂うのは目に見えない概念を一〇〇%信頼出来ませんから、どんな人間でも自分が自前で食糧を調達してないことに対して、必ず幾許かの潜在的な不安や疑義を抱えているものだと思います。
その意味で、「自給自足」と謂うのは自分たちの家族集団内でサイクルが閉じているわけですし、目に見える形で食糧が供給されるので安心感があります。そして、そのようにして自力で食糧を調達するのが動物の本然ですから、この現代の社会制度下において自給自足が可能だと謂う事実は、一種の「御伽噺」として作用します。
自給自足の生活は人間の動物的な本然に照らして正しい在り方と謂えるわけで、それをイメージ的に表現するなら「動物的な強さ」と表現することが可能でしょう。現代人は或る種自分が動物的な本然から乖離していると謂う不安を持っているわけですから、その喪われた動物的な本然がこの現在においても回復可能だと謂うストーリーに強い憧れを抱く人々がいても不思議ではありません。
それは一種「純粋に正しく生きたい」と望む気持ちの表れでもありますから、無碍に否定したものでもないでしょうが、では「動物」と謂う一般論を離れた「人間」としての本然とか、「自然な在り方」とは何なのかと謂う問いに対しては、誰一人具体的な答えを持っていないわけですね。
この家族の「自給自足」の在り方がすでに文明の余慶に与っていると謂うことはすでに指摘しましたし、「縄文」百姓と謂う造語にも嘘があります。現代文明の発祥の基点を定住農耕に求めるなら、この家族は定住農耕している時点ですでに文明的な生活をしているわけで、その文明はこの現代の社会制度に一本道で繋がっています。
「縄文」と謂うキーワードが示唆する狩猟採取と謂うのは、牧畜や養殖や栽培と謂った定住型の計画的生産活動ではなく、基本的に食糧のありそうな場所に人間が移動しながらそこに予め存在する食糧を調達する行為で、これは一般的な動物の食料調達手段と地続きですから、火や道具の使用と謂った文明の要件を抜きに謂えば、最も動物的な人間の生活形態だと表現することは可能です。
そして、動物だってこの種の食料調達を通じて環境改変を行うわけで、そのサイクルに生態系のダイナミズムがあるわけですが、まあ、恣意的な線引きで、ここまでは他の動物だってやっていることなんだから人間に限ったことではないとしても、定住農耕に踏み込むとそう謂う言い分も立たなくなります。
結局この家族のライフスタイルの意味とは、社会制度に依拠しなくても取り敢えず生きていけている、と謂うだけのことしかありませんし、それは畢竟するところ社会制度に対する不信の表れであるに過ぎません。そんなものに頼らなくても生きていけると謂う自負や安心感は、たしかに社会活動に参加している人々から視れば憧れを抱いても不思議ではありません。
しかし、社会活動に参加しないと謂うことは、結局他者に対して何ら貢献しないと謂うことでもあって、誰でも抱いているような幾許かの直観的不安を動機とした社会との絶縁乃至逃避と謂う以上の意味はないでしょう。
であれば、実感的に一〇〇%信頼出来るものではない社会制度と謂う概念を意志的に信頼することで自前の食料調達以外の領域に労力を投入し、社会の中で共に生きる他者の生に対して幾許かの貢献を果たしている人々が、何故そんな自分たちだけで自足することしか考えていない人々を評価する必要があるのかと謂うことになります。
どうやらこの家族は自分たちのライフスタイルを広めることで世界を変えようと考えているらしいのですが(笑)、そうなったら人間は食糧以外の何物を生み出すことも出来なくなって、しまいにはその食糧にさえ事欠くようになるでしょうね。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月24日 (水曜日) 午後 01時40分
こんばんは。
家業は大家族。カツドウカ崩れのルサンチマンオヤジは、マスコミ相手に得意顔で蝿の王を絶賛上演中……で、いいですか?
この人達がやっているのは、自分のことだけを考えるってだけのことですよね。小さな王国で満足する(というかそれしか出来なかった)、それは全然ご勝手にと思います。
足るを知ること探ることは、これから重要な意味を持つでしょうが、その為に参考になるケースとは思えません。
投稿: うさぎ林檎 | 2010年11月24日 (水曜日) 午後 08時28分
>がんさんへのお返事と繋がりますが、社会システムにおける分業と謂うのは、詰まるところ社会制度と謂う概念に対する信頼を必要とすると謂うことなんですね。特定の社会制度や政治政策ではなく「社会制度と謂う概念」と謂うことになるでしょうが、人間は基本的に自分でやっていないことに対して一〇〇%の信頼を置けないのが当然で、それはそれで一種健全な不安と謂うことになるでしょう。
少し、話が飛躍しますが、農水省の食料自給率政策は、食料安全保障の目的の為としては、逆効果ではないかという気がしていました。国内の商取り引きも国際的な貿易も、一方的な関係ではなくて、持ちつ持たれつの関係ですから、食料輸出国も輸出出来なければ困るわけですね。当然、密接な交易関係にある相手と有事になる事態は避けたいわけで、むしろ危険なのは、孤立した国であろうと思うわけです。
安全のためにも、人も国も(国際)社会と関わりを持ち、役割分担した方が良いような気がします。分業には信頼が必要ですし、分業によって信頼が増すということかと思います。
投稿: zorori | 2010年11月24日 (水曜日) 午後 09時59分
>うさぎ林檎さん
>>家業は大家族。カツドウカ崩れのルサンチマンオヤジは、マスコミ相手に得意顔で蝿の王を絶賛上演中……で、いいですか?
一つだけ註釈すると、この家長の最終目的は世界を変えることのようですので、どうやら自分のことを「カクメイカ」だと考えているようです。摂津国人さんが紹介してくださったリンク先でも「革命」と謂う言葉を遣っています。
自身の信念に基づいて世界を正しく変えようと謂う革命の情熱それ自体は嘲笑うべき事柄ではないですが、大した考えもなしにチンケな泥船をこさえて人類救済の箱船だと言い張られても、誰もそんなものに乗らないと謂う話ですね。
>>この人達がやっているのは、自分のことだけを考えるってだけのことですよね。小さな王国で満足する(というかそれしか出来なかった)、それは全然ご勝手にと思います。
普通の場合、「職業」と謂うのは、何をして収入を得ているのかを表す概念であると同時に、何によって社会参加しているのかを表す概念でもありますよね。社会の分業の中で何を専ら手懸けることで他者に貢献しているのか、そう謂う概念です。
ですから、自分たちのことを何でも自力でやるのであれば「職業」と謂う概念が成立しませんし、「職業」と謂う概念が成立しないくらいですから、当然そのスキルの次元を表す「プロ・アマ」と謂う概念も成立しません。社会性が家族集団の内部で閉じていますから、自分たちの家族以外には誰にも貢献していないわけですね。
>>足るを知ること探ることは、これから重要な意味を持つでしょうが、その為に参考になるケースとは思えません。
将来的に循環型の社会を目指し、一方で環境負荷を低レベルに抑えるのであれば、物質の一方的消費を前提にした経済システムを見直す必要があるでしょうし、それは消費者側の視点から視れば継続的に喚起される欲望で経済を廻していく姿勢から脱却すると謂うことになるでしょうが、この家族の生活はそのモデルケースとはなり得ないですね。
この家族集団の自給自足は、自分たちの活動で作り出せないものは購入したり物々交換したり善意の寄附で貰ったりしているんですね。で、その外部から得たものがどう謂う成り立ちのものなのかは全然考えていません。
たとえば水力発電機なんてものがどんなインフラで作られたかなんてことは考えていないし、照明器具やTVやパソコン(所持しているし当然ネットにも繋がっているらしいです)の成り立ちも考えていないし、自動車やガソリンなんてものも所与の前提として必要なものだと謂う認識で生活しているわけです。
みんながみんなこの家族集団のような生活を営むと仮定した場合に、たとえば最低限の衣類や機械や燃料などをどのように生産するのか、生産するシステムを維持するのか、誰がそれを担うのか、それは全然考えていないわけですね。これは生産活動だけのことではなく、食料調達以外のありとあらゆる領域について言えることです。
つまり、この家族の「自給自足」のシステムにはたくさん穴が空いていて、その穴は外から持ち込まれたもので塞がれているのだし、それらのものの成り立ちや素性については何も考えていないわけですね。現代社会がこの程度に文明化しているから、この家族はこんなスタイルで生きていけるわけです。
循環型社会とか環境負荷なんてのは、基本的に全体的な社会システムや経済の問題になるのだし、当然そのシステムにこんなボコボコ穴が空いていたら、それを埋めるものが外から得られるわけではありません。循環型社会と謂うのは外部からの収奪を織り込まずに内部で循環するから循環型なんです。
この人々は飽くまで自分たちの周囲のことしか考えていないわけで、それ以外のことは誰か他の人が考えれば好いと考えているのでしょう。残念ながら、それを考える能力や資質がある人はそもそもそんなことは考慮に値しないと判断するでしょうから、誰もそんなことは考えないわけですが。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月25日 (木曜日) 午後 12時07分
>zororiさん
>>少し、話が飛躍しますが、農水省の食料自給率政策は、食料安全保障の目的の為としては、逆効果ではないかという気がしていました。
この辺、マクロなシステムの問題なので軽々に言えないところではありますね。食糧自給の問題を考える場合、普通「有事」と謂うのはまず第一に戦争を想定していると謂えますけれど、日本の場合は寧ろ自国が戦争当事国になる可能性より、輸入先の政治事情なんかを専ら考える必要があるかもしれません。
>>国内の商取り引きも国際的な貿易も、一方的な関係ではなくて、持ちつ持たれつの関係ですから、食料輸出国も輸出出来なければ困るわけですね。当然、密接な交易関係にある相手と有事になる事態は避けたいわけで、むしろ危険なのは、孤立した国であろうと思うわけです。
そうは謂っても、これは食糧ではないですが、先般の尖閣ビデオ問題なんかでは中国との関係悪化でレアメタルの禁輸措置の問題なんかが生じたわけで、中国からすれば日本はレアメタルの主要な輸出先の一つのはずですが、平気でそんな指し手を打ってくるわけですね。
勿論、それが甚大な経済的影響を及ぼすと謂うことであれば、禁輸の長期化を阻む背景的圧力にはなるはずですし、永久的な輸出停止と謂うことにはなりにくいと謂うことは言えるでしょうが、輸出に頼ると謂うことは外交的な弱みを作ると謂うことでもありますし、経済とは別の規範に基づいて国家間の関係が緊張した場合に、日本の場合はいきなり戦争状態に突入するなんて事態は考えにくいですから、一時的にもせよ禁輸措置なんかを打たれる可能性は高いわけですね。
そうすると、一時的にもせよ輸入品の欠乏状態が起こって社会が混乱するわけで、こと食糧に関しては可能な限りその混乱を小規模に抑える備えを講じておくべきではないのか、と謂うふうにも考えられますね。
>>安全のためにも、人も国も(国際)社会と関わりを持ち、役割分担した方が良いような気がします。分業には信頼が必要ですし、分業によって信頼が増すということかと思います。
原理的にはそうなんだろうと思います。最低限アジアの中でEUのような経済共同体が成立すればまた事情も違うかもしれませんが、難しい問題が山積していて、それは基本的に経済合理性とはまた別の価値観の問題ですから、現実的にはどうすれば好いのかは軽々に言えないところがありますね。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月25日 (木曜日) 午後 12時08分
自給自足と言ったって、着る物や最低限の燃料は他人に依存せざるをえない感じですよね。それで「縄文」って騙されるほうもどうかしてると思うw
王国ごっこはともかく、今回の記事のキモは「無知から来る自然出産礼賛」で、他所への迷惑のかけ方がちょっと段違いだと思います。「私らしいお産」へのねじくれた想念も気色悪いですが、医療介入で無事に産み、生まれた全ての母子に失礼です。農業と異なり、「やればできることをやらなかった」という安易な非難が、お産の現場では簡単に口にされてしまう。「私はできた」幻想が強いんですな。「無事だった」という個人の経験が全てになっちゃう。それが無神経な発言に繋がる。苦にしなくても良い事で悩んでいる人も多いというのに、一体何様なんだ、と腹が立ちます。
全ての妊婦さんに無事赤ちゃんを抱かせたい、そう願って奮闘する医療従事者も、彼らには意味など一つもない存在なのか。その傲慢さはいったい何処から生まれたのか。「自然に謙虚」なんて単なるポーズであって、他人のことなど一かけらも思いやれない人たちなのだなあとしか思えません。
件の記事を書いた記者は、ちゃんと事の次第を理解できただろうか。
新聞記者だって、「自給自足農業の世界」では存在などできない職業なのに、それを侮蔑する生き方を賞賛しちゃうなんて、本当に阿呆じゃないかと思います。
投稿: shof | 2010年11月25日 (木曜日) 午後 12時46分
追加です。
当たり前すぎることなんですが、件のお母さんの言は、出産における不幸な転帰を実際ご存知な方々には「言葉の暴力」以外の何ものでもないと思います。
「自己管理ができるから」「自然出産が可能」
は、
「自己管理ができなかったから」「不幸な転帰」
に容易に裏返る。個人の努力や願いが届かない領域があるという厳しい自然への認識も、それを知恵と知識で打開し助けようとした先人の血の出るような努力も、土足で踏みつけているという意識は、この「幸運だった人」にはないのでしょうね。
無神経って怖いです。
投稿: shof | 2010年11月25日 (木曜日) 午後 01時30分
>shofさん
>>自給自足と言ったって、着る物や最低限の燃料は他人に依存せざるをえない感じですよね。それで「縄文」って騙されるほうもどうかしてると思うw
いろいろリンク先を覗いてみると、結構文明的な暮らしをしているんですね。水力発電にしても、それまで買電していたのが不満で自力で電力を確保したいと謂う動機で導入したそうですが、まあ現状でも買電と自家発電の割合は半々だそうです。何と謂うか、窮めて中途半端な意地でしかないですね。
要するに、すべてを自力で賄っていると謂う満足感を得ることが主目的で、誰もがそう謂うライフスタイルをすべきだと謂う話にはならないと思うんですが、そこの理路がふんわりと曖昧になっていて、自給自足の家族集団が緩く連携している国家が理想だなんて話にすり替わっているわけです。
じゃあ、たとえばこの家族が自力で作り出せないものや、自力ではどうにもならない専門技術は誰が創案したり製造したり維持したり供給したりするのか、そう謂うことをまるで考えていないとしか思えないんですね。
たとえば例の母親が「家で産みたい人が家で産むことができ、何かあったらサポートできるような環境があったらいいな」と言っていますけれど、この「サポート」とは通常医療の医者を想定しているわけですよね。で、医者なんて商売が、全員自給自足の暮らしを営む社会で存在の余地があるかどうか、そう謂うことはまるで考えないわけです。
これ一つとってみても、この家族集団のライフスタイルがスタンダードになり得ないことは莫迦が考えてもわかることで、もしもこのライフスタイルがスタンダードなものになったら、この家族集団が出来ること以上のことは誰にも出来なくなる、当然外部からの供給に依拠しているものは期待出来なくなるわけで、そもそもこの家族集団のような生活それ自体が成り立たなくなります。
それこそ考えるだけ馬鹿馬鹿しいレベルの愚考ですね。
>>王国ごっこはともかく、今回の記事のキモは「無知から来る自然出産礼賛」で、他所への迷惑のかけ方がちょっと段違いだと思います。「私らしいお産」へのねじくれた想念も気色悪いですが、医療介入で無事に産み、生まれた全ての母子に失礼です。
何だかその件に関しては、文脈を読まずに片言隻句を捉えたわけのわからない批判を受けているみたいなんですが(笑)、まあ相手の書いたものをちゃんと読みもしない無責任な批判には対応するだけ無意味なので無視することとして(笑)。
この母親の始末の負えないところと謂うのは、最初に産院で妊娠の確認だけはしているわけですから、そこで通院や入院の段取りの話は出たはずですよね。それを断っているわけですから、その段階で無介助出産のリスクについて説明は受けたはずなんですね。
それだけならその場で適当なことを言って「他の病院や助産院で産む」と嘘を言ったのかもしれないと考えられますが、朝日新聞の元記事でも、
>>母子保健を担当する朝来市の担当者は、妊娠中の適切な健康管理や異常分娩(ぶんべん)のリスクに備えるためにも、産科での受診や妊婦検診は欠かせないとしている。大森さん夫婦にも受診を勧めていたが、自宅出産の意思が固いことから様子を見守っていたという。
…とありますから、担当者から十分な説明は受けていたはずです。また、市の担当者が出てきたと謂うことは、最初の産院で母親が無介助出産の意志を表明していて、産院から市当局に連絡が行ったと謂う経路が考えられますね。なので、情報がなかったとか無知だったと謂う言い訳は成立しないんですよ。
この母親は、どう謂う理由からかは識りませんが、無介助出産には母子にとって大きなリスクがあることを再三に亘って説明されたにもかかわらず、「固い意志」で無介助出産に拘泥して、結果オーライで「体重を増やさないなど妊娠中の自己管理さえできれば家族だけで産める」と言い張っているわけですが、医学的に謂ってその主張には何の根拠もないわけですね。
医学的に根拠のある定説としては、「体重を増やさないなど妊娠中の自己管理」をしていても無介助出産には大きなリスクがある、です。何度も強調しているように、新生児の障害を看過するリスクもまた大きいですよね。そして、無介助出産には、子供と謂う両親に一義的な保護責任のある他者に対する大きなリスクがあるわけで、それは母親一個人の自由裁量で犯して好いリスクではありません。
オレはそれが母親一個の「個人の自由」に委ねられた行為だとは考えませんし、子供の人権に対する責任放棄だと考えます。どう謂うふうに産みたいのか、それはたしかに産む人間の「個人の自由」の範疇ですが、自由とは社会的概念であり責任と表裏一体の概念であって、求められる社会的責任を果たしてこその自由のはずですね。
自由の行使を動機として責任を放棄するなら、それは自由でも何でもない、履き違えた我儘であり、もっと謂えば単なる脱法行為に過ぎないと謂うことです。
出産には、生まれてくる子供と謂う母親とは独立した個人の人権が絡んできますし、産む意志は両親の決定に基づくものですから、その人権の保護には両親に一義的な責任が伴います。それが社会的責任と謂うもので、その責任を果たす限りにおいては、どのような産み方をしようが、それは「個人の自由」と謂うことになります。
しかし、このケースのように、十分な説明を受けているにもかかわらず新生児に生命やQOLのリスクが伴う出産法を選択することには、社会的な観点で如何なる正当性もありません。
>>全ての妊婦さんに無事赤ちゃんを抱かせたい、そう願って奮闘する医療従事者も、彼らには意味など一つもない存在なのか。その傲慢さはいったい何処から生まれたのか。
従来の周産期医療に何かしらの問題があったとしても、それは周産期医療自体の否定には直結しませんよね。それは単に医療改革の問題であって、医療の現状に対して批判や提言を行って改善を求めていくのが妥当な対処と謂うことになります。
また、周産期医療の問題点を女性性に絡めて論じる向きもありますが、オレの識る限りでは、それは現代医療全体の患者との関係性の問題に一元化される問題だと理解しています。
たとえば末期癌の患者に対するターミナルケアの問題や、訴訟リスクの存在する治療を回避する姿勢、病院経営の実情に発する入院患者の管理の問題や、インフォームドコンセントなんかの問題と同次元で、その種の現代医療が抱える「冷たい医療」「傲慢な医療」と謂う印象が、たとえば代替療法が猖獗を極める一因となっているのと同一の問題性でしょう。
それは現代医療の改革の問題であって周産期医療個別の問題ではない、そのようにオレは理解していますし、まして無介助出産に解法を求めるのは、たとえば通常医療に対する不満からホメオパシーのような「疑似医療」に趨るのと同じことで、正当化され得る事柄ではありません。
それは「病気を治療する」と謂う医療の本質から逸脱してホメオパシーに解法を求めてその結果通常医療で十分に治療可能な疾病の故に悶死に至ると謂うブラックジョークのような「あかつき問題」なんかと同じことです。
「新たな個人を生み出す」と謂う出産の本質から逸脱して、母親一個人の思想や嗜好を主張することで新生児に重大なリスクをもたらすと謂う人権危害を加えるような本末転倒の事態は決して正当化され得る行いではありません。
たとえばホメオパシーの問題でも、ホメオパシーの支持者が頑なにそれを信奉することで結果的に命を落とすのは、それは突き詰めて謂えば反社会的行為ではあっても愚行権の範疇です。その事実が周知されることで、ホメオパシーには致死的なリスクがあるのだと謂う理解が広汎に得られるのであれば、冷たい言い方をすれば「死にたい奴は勝手に死ね、ただし他人を巻き込むな」と突き放すことが可能です。
この件でも、母親一個人の命だけが掛かっているのであれば、まあ思想に殉じて命を落とすことも彼女の勝手でしょう。繰り返しますが、無介助出産なんて暴挙に踏み切る以上は周囲の人間も可能な限り説得したはずで、情報がなかったとか無知だったなんて言い訳は通用しませんから、その結果彼女が死んでもそれは当人の自由です。単に自殺行為をした人間が社会から顰蹙されるように顰蹙されると謂うだけでしょう。
しかし、これが妊娠出産と謂うことになれば、生命のリスクはこの母親だけのものではなく、母親とは別人格であり、何者にも犯されない人権を保証された胎児=新生児の生命が掛かってきます。そして、子供の生命は母親一個の所有物ではないのだから母親一個人の自由裁量で生命のリスクを犯すことは許されない、それだけの話なんですね。
生まれた子供は、何もこのような思想を抱く母親から生まれたいと思って生まれてきたわけではないのだし、それ以前に生まれようと意志して生まれたわけでもありません。この子供が世界に生み出されるに当たっては、この両親がそれを決定したからこの子供の生命があるわけで、そう意志決定した以上、自分一個の自由裁量で扱うわけにはいかない他者の命を預かる社会的責任を受け容れる義務があるはずです。
この母親の言い分からすれば、医者と謂うのは困ったときに呼べば助けに来てくれる便利な存在だとしか考えていないようですので、毎月の妊娠検診や病院で出産することもすべて含めて母子の生命や健康を保護する為の全体的なプロセスの一環だと謂う理解がないのでしょう。
それは「無知」と表現するより「愚昧」と表現したほうがしっくりきます。
>>新聞記者だって、「自給自足農業の世界」では存在などできない職業なのに、それを侮蔑する生き方を賞賛しちゃうなんて、本当に阿呆じゃないかと思います。
想像を逞しくすれば、多分地方紙の新聞記者、それも生活面の担当者と謂うのは地域社会の一員でもあって、世間とのしがらみもそれ相応にあるのかもしれませんね。生活面で地域の出来事を紹介すると謂う性格から考えると、世間で評判になっている名物家族と謂うのは恰好のネタでしょうし、「近所のちょっといい話」として肯定的に紹介する前提で取材を行っているから、最初から悪い書き方はしない約束だったと謂うことなんではないですかね。
これまでに判明したことから判断すると、この家族集団は全国的に支持者が存在するわけですから、或る程度世論として肯定されていると謂う判断もあったでしょうし、近所の噂話的なスタンスでついつい脇が甘くなった、そんなところでしょう。
どうもオレは朝日新聞の姿勢に関しては「所詮新聞なんてそんなもの」と謂う感じ方があるせいか、批判的情熱を持てない部分があります。勿論、擁護したり肯定したりするわけではないですが、莫迦な記事も載るのが新聞だ、みたいな感じ方があるんですね。
寧ろこの件では、どらねこさんのところのエントリで紹介されているように、ネットの批判に対して朝日新聞の医療部門が敏感に反応し、神戸総局に迅速な通達を行った結果としてネット上から記事が削除されたことのほうが重要かな、と思います。
朝日新聞の肩を持つわけではありませんが、大新聞にも…と謂うか新聞一般には莫迦な記事が日常的に載るわけですが、その種のいい加減な情報発信に対して適切な自浄作用が働くかどうか、そこが看板の値打ちの一部なんではないかとも思います。莫迦をしでかす可能性は誰にでもありますが、大事なのはその後始末だと謂われる所以です。
今や新聞社もネットを競合メディアと見做して対立姿勢で臨むばかりではなく、新聞社それ自体の中にもネット部門が無視出来ない勢力として確立されているわけですから、後はネットで発信された不特定多数からの批判に対してどのような姿勢で臨むのかと謂う問題になりますね。
くだらない対決姿勢の故に所詮素人の戯れ言と黙殺すると謂うのなら、それはすでに公器としての公正性に欠ける私企業の恣意的情報発信と謂うだけですが、ネット上の批判に対してもきちんと裏付けを取り、反省すべき点は反省すると謂うのであれば、それが今後新聞社の発信する情報の精度を上げていくことになるでしょう。
メディアと謂う権力を総攬していると謂う傲りに胡座を掻くのではなく、ネットと謂う情報経路が登場したことで逆に新聞社の公器性を高め情報の精度を改善していく必要があると認識しているのであれば、それは発展的な姿勢だと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月25日 (木曜日) 午後 03時22分
>shofさん
入れ違いになりましたが、こちらにも。
>>当たり前すぎることなんですが、件のお母さんの言は、出産における不幸な転帰を実際ご存知な方々には「言葉の暴力」以外の何ものでもないと思います。
これはこの母親だけではなく、この家族集団全体に謂えることですね。
他者に対する想像力が決定的に欠けていると思いますし、想像力がないから当然無神経ですね。何度も繰り返し語っていますが、こう謂う自給自足の家族が緩く連携しているのが理想の国だなんて思想は、こう謂う重労働に耐えられない人間は生きる余地がないと言っているのも同然ですし、突き詰めて言えば「人間が多すぎる」と謂う主張になると謂うことは、「人間を減らせ」と言っているのも同然で、その減らすべき人間は当然こう謂う暮らしに耐えられない弱者と謂うことになるでしょう。
この家族がこのような暮らしに耐えられるだけの体力や健康に恵まれたのは、単に運が良かっただけの話なんですが、運が良かった人ってのは大概自分の運を必然と主張したがる傾向がありますね。まあ、大概の場合「人間が多すぎるんだ」と文句を言う者は、「自分以外の人間」を減らせと思っているわけで、自分が率先して減ってやろうとする人はまずいませんね。
>>「自己管理ができるから」「自然出産が可能」
>>は、
>>「自己管理ができなかったから」「不幸な転帰」
>>に容易に裏返る。
これって結局、「頑張った人は報われる」「報われないのは頑張っていないから」と同じ理屈ですね。結果から遡って手段を正当化すると謂う、アリガチな詭弁です。結局こう謂う連中は自分の身に不幸が及ばない限り懲りないわけですし、どうせ不幸な事態に陥ってもまた何かしら自分に都合の好い理屈を考え出すのでしょう。
>>個人の努力や願いが届かない領域があるという厳しい自然への認識も、それを知恵と知識で打開し助けようとした先人の血の出るような努力も、土足で踏みつけているという意識は、この「幸運だった人」にはないのでしょうね。
単に自分が幸運だっただけ、と気附けるだけの想像力がないのですから、自分の発言が他者を傷附けていると謂う自覚なんかさらさらないでしょうね。結局は「厳しい自己管理が出来て他人の助けを得ずに出産出来た自分は偉い」と謂うだけの話にしかなりませんね。「他人にはお勧め出来ない」ってのが何だか笑えます。
それも、たまたま今回は運が良くて結果オーライだっただけで、次があったとしたら次も上手くいくなんて保証は一切ない、と謂うのは誰が視ても明らかなんですが、それでも多分次の子を同じように産むんでしょうね。市当局には「見守る」なんて生温い姿勢ではなく、もっと危機感を持って対応してほしいものです。
投稿: 黒猫亭 | 2010年11月25日 (木曜日) 午後 03時54分
拝読致しました。
非常に示唆に富んだ内容で勉強になりました。
所謂自然派は、現代の科学技術的なものに知的に追いつけず劣等感があること(知性に自信のある人ほど陥りやすい)、それを超越するための思い切った転向がアンチ文明であること、などは常々ぼんやりと考えていましたが、それを裏付ける事柄が出て来たのが興味深かったです。
アメリカのアーミッシュなども文明否定の共同体ですが、あれはやはり超大国の中であるからこそ成立しうる暮らしで、豊かな社会での上澄みであることは言を待ちません。
今、私がこういうカルト的な医療に関する言論で感じている問題点は、それを批難する医療者側にも曰く言い難い自然への憧憬があるということです。
ですから、「自然でない」という言葉に対する反論が曖昧になりつつある。
「自然に任せてはおけないから医療があるのだ」という点はもっと明確にあるべきです。
また、自己管理の点に於いても医療者の過度な思い入れがあることが感じられるときもあります。
管理しきれない領域があることは認めても、それでも現実とは相容れないほどのコントロールが可能であるという意識です。
これらを鑑みるに、過剰なコントロール願望はカルト医療をする側にも批判する側にもあり、実は共通の急所ではないかと睨んでいます。
投稿: 月餅 | 2011年2月13日 (日曜日) 午前 10時07分
>月餅さん
ちょっと圧し附けたような形になってすいませんでした。ご丁寧な感想ありがとうございます。
>>所謂自然派は、現代の科学技術的なものに知的に追いつけず劣等感があること(知性に自信のある人ほど陥りやすい)、それを超越するための思い切った転向がアンチ文明であること、などは常々ぼんやりと考えていましたが、それを裏付ける事柄が出て来たのが興味深かったです。
仰っていることと噛み合っているかどうかわかりませんが、現代社会はかなり複雑な分業で成り立っていますので、そのすべてについて十分なレベルで理解することは出来ませんし、その複雑な分業の中で自分が選び取った領域について十分に精通するだけでもかなり大変なことです。
ですから、自分が生きている社会の全貌をパノラミックに展望すると謂う視点を持つことは難しいですし、個々の分業を分担することが自分の生の意義を正当化し得ると謂う実感はなかなか持つことが出来ません。大昔のように、狩猟に出掛けて自分の食糧を調達してくる、ダメだったら飢え死にするだけなのだから、食糧が得られて生きていられるならそれは誰からもとやかく言われる筋合いのないことだ、と謂うような簡単な仕組みにはなっていないわけですね。
また、そのような複雑化した社会では、自分が辛うじて実感的に理解出来ている小さな領域以外の事柄については疑心暗鬼を抱えて生きて行かざるを得ないわけで、それが人為である限り悪意ある人々に欺かれる可能性が附き纏います。通常医療不信と謂うのはその最たるもので、医師と患者の立場の非対称性と謂うことがよく言われますが、自身の肉体の健康と謂う誰にとっても最も切実な関心事に対して、医師でない限り誰も納得して主体的な立場に立ち自己決定し得ないと謂う不満を抱えているわけですね。
翻って考えると、本文で触れた一家はかなり有名人みたいなんですけど、ここまでのやりとりで明らかになったように、物凄く「わかりやすい」暮らしを現実に演じてみせて一種それを見世物にしている側面はあるわけです。で、それが所詮パフォーマンスにすぎないことは、彼らの言う「自給自足」が結局は閉じたシステムではなく外部の社会の生産性に依拠していることで明らかです。
それでも、その単純で「わかりやすい」小世界は、そうでない社会に住む者にとっては魅力的に映ります。自分の食い扶持を自分で生産し消費する、それは自然の持つ生産性に担保されていて、複雑で膨大なシステムなんか人間の生に必要ではないんだ、自分一身の問題はすべて自身が納得して自己決定可能なんだ、こう謂う生活モデルが実在すると謂うのは、そうでない生を生きる者たちにとって魅力的な「物語」となり得ますね。
本文で触れた自宅出産の事例も、結局はこのパフォーマンスの延長上で、自分に理解出来ないような複雑怪奇な医学の知識なんかなくても、女は自然に子供を産むように出来ているんだ、その肉体の自明性が安全な出産を担保してくれていて、よっぽど不測の事態が起こったときにだけ医療が介入すれば好いのだ、こう謂う考え方が透けて見えますが、結局「不測の事態」における医療の介入を期待しているのですから、要は他の事柄と同様外部の社会システムにフリーライドしているのですね。
映画「玄牝」を巡って、吉村医院がご大層な高説を掲げて帝王切開を否定しておきながら、自分のコミューンで手に負えなくなった事例を外部の産院に丸投げしていることが批判されていますけれど、本来吉村医師の思想を徹底するなら、そのような思想に基づくコミューン内部に母子共に一定数の犠牲者を抱えるのでなければおかしいですよね。
本来自然は人間の都合を何ら担保してくれないのが当たり前で、農業だってそのような自然の摂理に挑戦して開拓された人間の技術です。出産だって、人間の肉体のシステムがすべての事例において安全を担保してくれるわけではなく、運が悪い場合は母親や子供の生命健康に被害が及ぶのが当たり前で、そのレベルの「歩留まり」を許容するのでなければ「自然な摂理」を受け容れることは出来ないはずですね。
>>今、私がこういうカルト的な医療に関する言論で感じている問題点は、それを批難する医療者側にも曰く言い難い自然への憧憬があるということです。
>>ですから、「自然でない」という言葉に対する反論が曖昧になりつつある。
>>「自然に任せてはおけないから医療があるのだ」という点はもっと明確にあるべきです。
少し理解出来ないのはこの部分のご指摘で、ご紹介戴いたミクシの日記を拝読すると医療関係者の方の書き込みも多いようなのですが、本当に医療者の内部にそのような意見乃至感触があるのかな、と疑問に思わないでもありません。
少なくともオレの知り得る限りのニセ医療批判の言論では、「自然への憧憬」と謂う要素は薄いと思いますし、まさしく月餅さんが仰るように「自然に任せておけないから医療があるのだ」と謂う理路に則った批判が主流であると考えています。だとすると、月餅さんが指摘されているのは、ネット界隈で「ニセ科学批判クラスタ」的に括られている批判の言論のことではなく、「医療者」に重点が掛かるのかな、と思うのですが、だとすると通常医療の医師などにもそのような憧憬があると謂うことなのでしょうか。
>>これらを鑑みるに、過剰なコントロール願望はカルト医療をする側にも批判する側にもあり、実は共通の急所ではないかと睨んでいます。
そうすると、この部分も「医療者側には」と謂う部分に重点が掛かるのかな、と思いますが、ネットで医師の肩書きを明示して論じておられる方々のご意見を見ても、そう謂う性格が突出して感じられることはなかったと思います。
オレは、むしろ一部の患者の側に「自身の肉体の問題に関して主体的な立場に立って自己決定したい」と謂う願望があるのかな、と考えています。どうしても医師と患者の間には知識の非対称がありますから、医療行為においては医師の側が主体となるような性格は否めないわけで、インフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンなんてのはこの文脈で出てきた事柄だろうと思います。
それは社会的公平性の観点の問題で、自身の肉体の問題に関して特定の個別の医師の善し悪しに全面的に左右される博奕のような部分を補って、患者が納得して自己決定の主体となれるように補正する動きだと思います。ですから、おそらく月餅さんが仰るような問題は、医師の側に過剰なコントロール願望があると謂うより、医療行為においてはどうしても医師の側にしか重大な決定が為し得ないと謂う現実において、如何に第一の当事者である患者の側の自己決定権を担保するか、と謂う問題であるように思います。
で、多分カルト医療と表現されたようなニセ医療の側はそのレベルにすら立っていないのが問題なんだろうな、と思いますし、その意味で通常医療とニセ医療は相対化して等価で論じることは出来ないと思います。
ニセ医療の「インフォームド・コンセント」はまやかしの誤情報だし、システム的にそのニセ医療を相対的に評価し得る「セカンド・オピニオン」を遮断する方向に患者を誘導しているわけで、要するに患者の側に「自分が主体となって自分の肉体に関する問題について自己決定している」と謂う錯覚を与えることだけに特化しているわけですね。
その意味で、たとえばホメの支持者がおおむね「ホメオパシーを勉強する」方向に誘導されるのは、複雑怪奇で十分には理解出来ない本物の医学知識の代わりに、ちょっとだけ「勉強」すれば誰にでも「理解」出来る単純な御伽噺を提供することで、医療者と患者が対等の基盤に立っているように錯覚させる詐術でしょう。
投稿: 黒猫亭 | 2011年2月14日 (月曜日) 午前 11時43分