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2010年12月13日 (月曜日)

ホメオパシーに関する私的総括(1) 歴史的経緯

最近少しホメオパシーに対する言及が少なくなっていたが、少し思うところがあったので、この際これまで考えたことを総括してみようと思い立った。たださえ長いこれまでの関連エントリの「総括」であるからかなり長いエントリになるが、何回かに分けて随時更新していくので、ご興味があれば最後までお附き合い願いたい。

…と謂うか、分けてもうさぎ林檎さんについては、全文必読のうえ修正を要する不正確な記述あらば可及的速やかに具体的な補足情報を書き込むべきこと、以て厳に通達するものである。急急如律令(何様だよ式神遣いかよ(笑))。

さて、第一回目に採り上げるのは、まずオレのホメオパシー観のおさらいであるが、こと日本の事情においては「お医者さんごっこのニセ医療」と謂う表現に尽きるだろう。勿論、欧米諸国をはじめとする「ホメオパシー先進国」においてはまた事情が違うわけで、そこでは「科学の発達に伴って効果が否定された代替医療」である。

この違いは何処から来るのか、最初にそれを考えてみよう。

●「不幸」な歴史的経緯

合理的な推論によってホメオパシーの理論面に根拠がないことや実効があり得ないと推定されることはかなり以前から判明しているわけだが、その実効が完全に否定されたのは二〇〇五年にランセット誌に掲載されたメタアナリシス論文によると謂うことになるから、当たり前のことを確認するだけにしてはかなり時間が掛かっている。

そもそもホメオパシーの特殊な歴史性や社会的な事情がなかったら、最初からホメオパシーの実効を科学的に検証する必要すらなかったと謂えるだろう。それは「水からの伝言」が科学的に間違っていることを主張する為に敢えて実験を重ねて確認する必要がないのと同じことで、謂わば「門前払い」が可能なレベルである。

提唱者のハーネマンが生きた時代の科学知識では、分子レベルの物質の振る舞いについて詳しいことがわかっていなかったのであるから、この仮説にも考慮の余地があったわけであるが、現代の科学常識で謂えば、理論面に事実の裏附けがないことのみならず、レメディに元の物質がほぼ一分子も残っておらず、従ってただの砂糖玉に過ぎないことも判明しているのであるから、ただの砂糖玉に何らかの特殊な治療効果があると期待するだけナンセンスである。

これがたとえば二〇〇年前ではなくほんの二〇年くらい前に創案された新手の民間療法であれば、科学的検証すら行われずに「実効なし」として「ニセ医療」と認定することが可能だっただろう。しかし、ホメオパシーの特殊な事情とは、ホメオパシー理論の妥当性が科学的に検証される前にすでに新種の医療行為として広汎に普及し公式に認可されたと謂うことである。

この歴史的な経緯あるが故に、ホメオパシーは「二〇〇年の実績を持つ代替医療」と謂うことになり、多くの国々で保険適用を受ける公式の医療行為として認定されてしまったわけで、科学的にはその無根拠性が明々白々でありながら、実に二〇〇五年に至るまで一九五年もの長きに亘って完全決着が持ち越された次第である。

ハーネマンが提唱したホメオパシーの根幹理論とは「類似したものは類似したものを治す」と謂う「類似の法則」であるが、これが間違っているかどうかと謂う以前に、統計学の発達や微視的なレベルにおける物質の特性が解明されることで、そもそもレメディには「類似したもの」がほぼ一分子も残っていないのであるから、現代の科学常識に基づけばその理論を応用した治療技術としては成立し得ないことが判明してしまった。

これに反論する為にホメオパシーサイドが採用したのが、よく識られている通り「水が物質の特性を記憶する」「それは波動である」と謂う現代物理学の常識に真っ向から対立する超理論であるから、すでにその時点で真っ当な科学理論としてはアウトである。

ホメオパシーと謂う「医学」の体系は、簡単に言うと前述の「類似の法則」と謂う根幹理論と「希釈・振盪」と謂う手法のセットであり、この二つながら発案当時も根拠のない思い附きだったに過ぎない。しかし、多くの科学理論の出発点はえてしてこの種の直観的な空想に過ぎないのであるから、それ自体は別段問題ではない。

ただし「類似の法則」の理論的正当性にせよ「希釈・振盪」の手法的妥当性にせよ、それを証明するのは提唱者側の責任であって、提唱者側が証明しない限りそれは信用に値する科学理論ではあり得ない。オレの識る限り、そのどちらも提唱者側によって証明されたと謂う話は聞かないので、その一事を以てしてもホメオパシーを実効ある医療行為として信用すべき理由がない。

そして、「科学的に証明する」と謂うことと「言い張る」と謂うことは別次元の問題なのであり、提唱者側がギブアップしなくても黒白を附けることが可能だと謂うことは、オレのような素人が云々するより詳しい方に解説を一任したほうが無難なので、ちょうどpoohさんのところで紹介されたPseuDoctorさんのブログのエントリに支援リンクしてお茶を濁しておこう(笑)。

さらに、前述のように微視的な物質の特性が解明されてレメディが「類似の法則」を応用した治療技術たり得ないことが判明してしまったのであるから、ホメオパシーの理論は二〇〇年前にハーネマンが思い附いた無根拠な空想的仮説の段階に逆戻りしてしまったことになる。

前述の通り、新しい科学理論は提唱者側にその証明責任があるにもかかわらず、ホメオパシーサイドはハーネマンの理論をまったく証明出来ていないのだが、事実としてホメオパシーが代替医療として広汎に普及してしまったが故に、ホメオパシーの実効の有無をわざわざ検証すると謂う本来必要のない手間が掛けられたわけである。

これは直截に謂って、大変なリソースの無駄遣いである。

しかし、多くの国々でホメオパシーが保険適用を受けている以上、それ自体が莫大な公的リソースの無駄遣いなのであるから、その無駄遣いを阻止する為に一定のリソースの投入が必要とされるのもやむないことである。

そして、こと海外の事情に限れば、それはホメオパシーサイドの反社会的な悪意の故に起こったこととは謂えないだろう。それは単に不運な歴史的経緯の一つであるに過ぎないのだし、歴史の誤りを正す為には一定のコストが必要なものである。

もしもハーネマンの空想的仮説が見事鉱脈を掘り当てていれば、それは種痘と同様に多くの人々を救っていただろうが、単にハーネマンに学者として運がなかった…もっと謂えばホメオパシーを受け容れた国々に運がなかった(まあ、ホメオパシーが制度面で果たした役割を考慮すれば満更丸損とも言えないのであるが)と謂うだけのことである。

一方、どの事例を基点に採るかは解釈の分かれるところだが、日本にホメオパシーが持ち込まれたのは大凡九十年代後半と視て好いようである。関連団体が相次いで創設された九七、八年当時と謂えば、このブログの一般的な読者から視て「つい最近」である。

一九世紀初頭の人々がホメオパシーを支持したのは或る意味仕方がない。その当時世界が獲得していなかった知識に基づいて妥当性を判断することなんて誰にも出来ないのであるから、一九世紀人の迷妄を嗤う権利は二一世紀人にはない。

しかし、やがて二〇世紀も終わろうかと謂う頃合いになって、一九世紀の科学レベルから一歩も前進していないばかりか散々ケチが附いて根本的に疑問視されるに至った医学理論を支持し、二〇〇年に及ぶ歴史の誤りを新たに始めようと努めるのは愚か者のすることであり、選れて反社会的な行為である。

●ハーネマンの理論

では、ハーネマンの理論とは具体的にどんなものなのか、これを考えてみなければ始まらないだろう。余所様のブログのコメント欄に書かれた他人様のコメントを引く形で恐縮だが、オレの識り合いで「オルガノン」を全巻読破した茶人…もとい篤志な論者はうさぎ林檎さん唯一人を算えるのみなので(笑)、うさぎ林檎さんの纏めを紹介するのが最も効率的だろうと思う。

ハーネマンは人体をコントロールするものを”バイタルフォース”と考えました。
彼自身は、こんな風に記述しています。
「人間の物質的な体を制御する精神のようなダイナミック・エネルギー」
ただし、彼はこの存在を確かめたわけではありません。彼がそう考えた、というだけです。

そしてハーネマンはバイタルフォースを軸にレメディーによる治癒過程を大体こんな風に考えていました。

1)バイタルフォースが撹乱した状態を病気と呼ぶ
2)バイタルフォースが症状によって撹乱した状態を知らせる
3)症状の全体像にあった一つのレメディーを投与する
4)生命原理は、一つの状態でしか存在できない為に、二つの類似した病気は存在できない
5)病気よりも強めに作用するレメディーが感覚を占有するので、病気の感覚が消える
6)病気が消滅する
7)レメディーが作用する持続期間は短いためにバイタルフォースがレメディーの変化を消すことができる
8)治癒

ここからは、ハーネマンがホメオパシーを自己治癒力を高めるための治療方法であると考えたとは謂えないと思います。彼は、レメディーの作用で治療をした(と思っていた)のです。

(中略)

この治癒過程も(4)から(7)までが強引ですよね?ハーネマン自身もそう考えたのかもしれません。
これらの後の28節でこう書いています。
「それ(自然治癒の法則)がどのように起こるのかということを科学的に説明することはそれほど重要ではないし、それをすることはあまり価値のあることではないと思う。」

私自身は、ホメオパシーの最大の弱点はその原点そのものだと考えます。
「シミリア・シミリプス・クーレントウル(類似のものは類似のものによって治療されねばならない)」
これを”自然法則”であることが確立しない限り、その先の理論は一つも成立しないのですから。

…横着してかなり長く引用してしまったが(笑)、この一文はホメオパシーの理論面の考察において非常に重要な論点が簡潔に纏まっているので是非記憶しておいて戴きたい。

ご覧の通り、ハーネマンの理論はそのままではまったく通用しない。うさぎ林檎さんが挙げられた機序の1)〜8)まで須く客観的な根拠がない「オレ理論」である。うさぎ林檎さんは「(4)から(7)までが強引」と指摘されているが、オレに言わせればそもそも1)〜3)までも相当強引である。

ハーネマンが述べる「バイタルフォース」と疾病の関係性は、サラッと読めば「身体のバランスが崩れると『病気』になり、各種の『症状』が出る」と謂う一般論のようにも読めるが、おそらくそのような意味ではない。

ハーネマンが所与の前提に置いているのは「人体には肉体の状態をコントロールするバイタルフォースと謂うホリスティックなシステムが存在する」と謂うことで、「バイタルフォースが攪乱した状態を病気と呼ぶ」と謂う定義自体がホリスティックな概念だと謂うことになるだろう。

つまり「バイタルフォースと謂う特定の機序が攪乱した結果起こる『病気』がある」と指摘しているのではなく、「『病気』と謂うのはバイタルフォースが攪乱した状態のことである」と「定義」しているのである。

そして、バイタルフォースが攪乱された場合、バイタルフォースが「症状」と謂うサインを出す、これが「症状」の定義である。流石ドイツ語圏のお医者さんだけあってややこしい言い回しをするものだと感心するが(笑)、バイタルフォースと謂うホリスティックな人体の機序が攪乱されることが「病気」で、その機序が攪乱された場合に「症状」と謂うサインが表出する、と謂うことになるだろう。

であれば、ハーネマンの理論において「病気」と謂うのはバイタルフォースが攪乱された「特定の状態のパターン」であり、その状態の全体像に即した固有の「症状」が表出すると謂うことで、それが「特定の状態のパターン」だからこそ人体内で一時に二つの類似した「病気」は存在出来ないと謂うことになる。「或る特定のゲシュタルトは重複して同時に存在出来ない」と謂うほどの意味なのだろう。

通常医療が採用しているような実体論的な疾病観ではなく、ホリスティックな機序の不全の特定の全体像こそが「病気」なのであると謂う理論である。大腸に潰瘍が出来ているとか、肺に孔が空いているとか、心臓の弁膜に異常があることが「病気」なのではなくて、人体を包括的にコントロールする機序が乱れた場合の特定のパターンが「病気」なのであり、その特定のパターンに即した特定の外面的な表出が「症状」なのだと謂うことである。

また、掛かり受けが明確ではないので断言は出来ないが、「バイタルフォースが症状によって撹乱した状態を知らせる」と謂う表現であれば、「症状」と謂うのは身体のホリスティックなシステムが人間に「病気」の存在を識らせる為に表出するものだと謂う意味に読める。

通常医療では疾病によって惹き起こされる様々な不全や異常を纏めて「症状」と考えているわけであるが、ホメオパシーではバイタルフォースが「病気」の存在を識らせる為に出すサインが「症状」なのであると考えると謂うことになる。

だからホメオパシーでは「体の中で起きていること」を重視しないわけで、「症状」を視れば「病気」がわかると謂うことになる。ホメオパシーにおける「病気」と「症状」の定義が上記のようなものであれば、それは当然である。

つまりハーネマンは、二〇〇年前のレベルとは謂え人体についての解剖学的な知見を丸ごと無視して、「病気」とは人体を統合的に制御する機序の攪乱であり、「病気」がそれぞれ違うのはその全体像のパターンが違うからであって、従ってそれを識らせる為の表出である「症状」も違うのだと言っているのである。

「病気」が統合的な機序の取る状態の特定のパターンであれば、そのパターンに類似した状態を惹き起こす物質を元にしたレメディを与えれば、類似した二つの状態は共存出来ないので、レメディが振盪によって「病気」よりも強い力を与えられている以上「病気」のパターンを打ち消し、バイタルフォースの状態はレメディが与える影響のパターンに取って代わられる。

しかし、希釈することによって作用の持続時間が極短くなっているので、レメディが惹き起こす「病気と類似した状態」は短時間で消えバイタルフォースが常態に復し、その結果「病気」は治癒する。

オレの理解ではそう謂う意味になる。

この時点で一応注意を喚起しておくと、ハーネマンの理論は「病気」と「症状」をバイタルフォースに基づいて定義しているのであるから、これは「すべての『病気』」に当てはまるのであり、「そう謂う『病気』もある」と謂う意味ではない。

これを逆に謂えば、この定義に当てはまらないものは、少なくともホメオパシーの文脈上では「病気」ではない。従って、ハーネマンの理論は「あらゆる『病気』」を包括的に扱うものでなければならない。この問題については、後ほど然るべき時に詳述する。

ハーネマンは、人体内部の組織や体液などの物理的実体の特定の形状や構造や機能や機序にはまったく頓着しない。人体全体を統合的に制御している仮想的なシステムがありそれが乱れることこそが「病気」なのだと考えたわけで、この「バイタルフォース」が何であるかと謂う部分には、ホリスティックな概念ならいろいろなものが代入出来る。

たとえば、理論面だけを視るなら全体的な理論構造は漢方医学の陰陽五行説とも類似していると謂えるわけで、単に漢方薬には物質的な作用機序が確認されているけれどレメディはただの砂糖玉だと謂うだけの違いと謂う言い方も出来る(勿論その類似は表面的なものでしかないのだが)。そう謂う意味では、ホリスティック医学にとって多種多様な医療思想を継ぎ接ぎ出来るので非常に使い勝手が好い。

ハーネマンの理論はざっとそのようなもので、1)〜8)まですべてが一から十まで何の根拠もない思い附きである。単にハーネマンの時代に識られていた医学知識…と謂うよりハーネマン個人が持つ医学知識の範囲内では、そう謂うふうに考えればすべて辻褄が合うと謂うだけのことである。

ハーネマンの所謂「アロパシー」である通常医療ではそのように考えない。「病気」とは肉体内部の特定の臓器や機能と謂う物質的な「部分」の異常や不全であり、「症状」とはそれによって惹き起こされる種々様々な物質的な現象と考える。この考え方は物質的な次元に基盤を置く以上、様々な手段で確認することが出来るし、その医学理論や治療効果は実際に実験によって証明することが出来る。

しかし、ハーネマンの理論は「統合的なシステム」の「全体的な状態のパターン」を視る考え方なのであるから、それがどんなもので何処に局在するどのような状態のことを指すのかを物質レベルで具体的に記述しない限り確認も証明も反証も出来ない。

ただ単に漠然とそんなシステムが「ある」と想定するのがハーネマンの理論なのであるから、当然現在に至るもそれが何であるのか何処にあるのか本当に存在するのかと謂うことを誰も確認も証明も出来ていない。要するに、ハーネマンの支持者は、言葉通りの意味で何の理由もなくただ単にそれが「ある」と信じているのである。

●ホメオパシーは「間違っている」のか

ただし、オレの理解している限りでは、現時点においてもハーネマンの理論が間違っていると「証明」されたわけではなく、況や非科学的だと決め附ける理由もないわけで、それはレメディが単なる砂糖玉であることやホメオパシーの実効を主張する論文の妥当性が否定されたこととは何の関係もない。

つまり、「類似の法則」であれ他の何であれ、「ない」ことは証明出来ない。「たしかに『ある』のだけれど、『何らかの理由』によって確認出来ないだけ」と言い出したらキリがないからである。たとえば「カラスは本当は白いのだけれど、『何らかの理由』で黒く見えるだけ」と言い出したらキリがない。

勿論「『何らかの理由』って何だよ」と謂うことになるだろうが、そう謂う可能性は限りなく低いがゼロそのものではないわけである。しかし、それを言い出したら客観的に確からしいことは何一つなくなってしまうので、科学的検証の手続を踏む意味すらもなくなってしまう。

科学は「絶対」と謂う尺度で確からしさを判定する概念ではないので、あらゆる可能性が残されていることを否定しない。科学の規範においては、絶対を一〇〇と規定すればゼロ〜一〇〇までのグラデーションで確からしさを判定するものであり、ゼロと一〇〇そのものは存在しない。

科学的原理原則と雖も「絶対」と謂う尺度で正しいわけではなくその近似に過ぎないのであるが、一定の手続に耐え得る確からしさを持っていれば「正しい」と判定するのが科学の規範である。

であるから、或る理論が否定される場合、「ない」ことの証明は必要ない。「ある」ことの証明が成立しなければそれで「ない」と見做すことになっている。

たとえば最前のカラスの喩えで問答を想定すれば、「『何らかの理由』ちゅうのは何やねん」「それはな、カラスは全身から特殊な電磁波を出しとってやな、それが人間の目には黒ぅ見えるねん」「ほな、その『特殊な電磁波』ちゅうのは何であって、何処でそないなモンを発生させとるのや」「アホやなあ、それをこれからあんたと一緒に探すんやないかい」「んなアホな」…と謂うような上方落語のような蒟蒻問答を繰り返していると、何の見込みもない仮説に無限の労力を費やすことが出来る

であるから、「カラスは白い」と主張するなら「見掛け上黒く見える理由も込みで自力で理由を考えた上で証拠を添えて持ってこい」と謂うのが科学の手続である。その上で散々重箱の隅を突くような議論と追試を重ねて点検し、如何なる反証も否定的材料も見当たらないようであれば「正しい」と見做すと謂うことになっている。

このくらい厳格な手続に則って確認されているのであるから、これを「正しい」と考えても間違いはないだろうと謂うのが科学における「正しさ」の基準である。まあ、再現可能性とか反証可能性とか言い出すともっと長い話になるが、取り敢えずそんなところでお茶を濁しておこう(笑)。

であるから、科学の土俵では「これが『ある』ことを否定するなら、『ない』ことを証明しろ」と迫っても無意味で、「これが『ある』ことを主張するなら、『ある』ことを証明しろ」と謂うことになる。特定の法則が意味を持つのは、それが「ある」と証明されているからであって、「ない」と証明されていないからではない

であるから、「類似の法則」は現時点においても「ある」可能性を持っているし、単にそれが「何らかの理由」で確認出来ないだけかもしれないが、それでは意味のある法則性としての要件を満たさず、「ある」ことが証明されるまで「ない」と見做すのが科学的に妥当な姿勢であると謂うことである。

そして、現時点においても「類似の法則」が「ある」ことは誰も証明出来ていないのであるから、科学的な手続においては、その法則の存在を積極的に支持する事実が見当たらない以上、現時点において「ない」と見做すと謂うことである。

まして、ハーネマンの理論は科学的に確認可能な物質のレベルにおける記述の次元にまで具体化していないのであるから、そのレベルのままなら未来永劫恣意的な思い附きに基づくオカルト的な「オレ仮説」のままである。

ハーネマンの理論は、あるかないか証明されていない作用を引き出す為に、妥当かどうか証明されていない手法を施し、正しいのかどうか何の根拠もない空想でその作用機序を理論附けると謂うもので、単に自説内で論理的整合性があると謂うだけの仮説であるから、事実の裏附けがなければただの空想であるに過ぎない。

それはたとえばレメディにも謂えることで、「水が物質の特性を記憶する」「それは波動である」と謂う言い分にしても、それは別段「ない」ことが証明されているわけではないのであるから、厳密に謂えば「ある」可能性がないわけではない。

ただし、「水が物質の特性を記憶する」と謂う言明は、すでに「ある」ことが証明されている他の多くの物理法則や観測された事実とはまったく整合性がないし、波動理論で謂うところの「波動」が「ある」ことは科学的に一切証明されていないし、これからも証明されることはないだろう。

それはつまり、「水の記憶」だの「波動」だのが存在する為には、すでに証明済みの科学的原理原則と整合させる為に無限の「何らかの理由」の積み重ねが必要であろうと予想されるからで、それは科学的な観点においては「正しくない」と表現する。

未証明の理論において、証明済みの法則性に基づいて加えられた反論に対して、同じように未証明の理論を援用して反論しても科学的な意味はない。空想を空想で補強してもそれはやっぱり空想に過ぎないのであるから、科学的には何の意味もないのである。

かなりしつこいが(笑)、この辺で一旦現状を整理して考えてみよう。

ホメオパシーの理論においては、人間の肉体には「類似の法則」が存在し、その法則を応用して疾病を治療する手段として「類似した症状を惹き起こす物質」を極度に希釈・振盪したレメディを投与する、その結果人体のホリスティックな機序が整復され疾病は治癒する、これがホメオパシー理論の依拠するストーリーである。

これは「理論」と「手法」と「実効」に当たるが、その三つとも発案段階では根拠がなく、たまたまマラリアとその治療薬の間にそのような関係があったことがヒントになっていると謂うだけである。ホメオパシーサイドは、「理論」に基づいた「手法」による治療で「実効」があるから、従ってホメオパシーは正しいと謂う間接的な理路に則って正当性を主張している。

しかし、まず分子レベルの物質の特性が判明することで、レメディが「理論」を応用した「手段」としては成立し得ないことが判明した。しかし、それでも「実効」があるのであれば、確率はほぼゼロに均しいとは謂え、何らかの未知の機序に基づいてレメディが「類似の法則」に則った治療効果を発揮している可能性がないとは言えないことになるが、ランセット論文でその「実効」も否定されてしまった。

その場合、「理論」は「手法」と「実効」に依拠して間接的に妥当性を主張し得るに過ぎないのであるから、「手法」の妥当性も「実効」の存在も否定された現在、「理論」の妥当性を示唆する材料は何一つ存在しないし、見掛け上そのように見做し得る事実も発見されなかったと謂うことになる。

間接的な妥当性の根拠が完全否定された以上、理論の正当性を検証するには「バイタルフォース」云々と謂う漠然とした記述を具体的な物質性の次元に落とし込まない限り議論のしようがないわけであるが、それが何であるかをチラリとでも識っている人間はこの世には一人も存在しない。存在するとすれば、ホメオパシーの正当性を世界に向けて堂々と主張する為に是非とも名乗り出るべきだろうと思う。

これは科学的な基準で謂えば、ホメオパシーの理論が正しい可能性は、お不動さんの護符を煎じて服めば万病平癒すると謂う理論が正しい可能性とほぼイーブンになったと謂うことである。

その認識において、ホメオパシーがこの二〇〇年間何をしてきたのかを「外部」の視点から客観的に考えてみよう。

まず、いろいろな物質を健康な人間に投与して、それが惹き起こす症状をカテゴライズしていく。そのカテゴライズに基づいて、類似した症状に対してその物質を希釈・振盪したレメディを投与する。この場合、極端な希釈の過程で原物質がほぼ一分子も残らないのであるからそれは単なる砂糖玉であって、苦心してプルービングしても事実上まったくの無駄骨である。

ただの砂糖玉を与えられた患者は、当然何もしなかった場合と同様に疾病が進行してどんどん症状が悪化していき、それをホメオパシーでは「治癒の過程で一時的に症状が悪化して、それがどの程度どれだけ続くかわからない」と考えるのだが、それは実態論的に謂って「普通に疾病が進行すること」と見分けることが不可能である。

これがたとえば、「その疾病や想定し得る合併症では起こり得ない特殊な症状」が出ると謂うのであれば話はわかるし、それを見分けられると謂うのであれば理解可能であるが、どうやらそう謂うわけではなく「一時的に症状が悪化して、それがどの程度どれだけ続くかわからない」だけと謂うことらしい。ならば、それを強いて「好転反応」と謂う事新しい概念で括る必要はない。何ら治療を加えずに疾病を放置すれば、症状が悪化するのは窮めて当たり前のことである。

「そうではない、好転反応独自の症状と謂うのがあって、それは普通の症状の悪化とは明らかに異なるものなのだ」と謂うのであれば、それは臨床的なアプローチで簡単に検証出来ることであるから、積極的にそのように主張するべきである。ただ、これ以上無駄なリソースを投入するのも勿体ないので、出来ればメタアナリシスで弾かれないような手続に則ったマトモな論文をホメオパシー研究者が用意してくれれば有り難い。

そのようにして症状が悪化した末、何もしなくても治る病気は治り、治らない病気は治らない。つまり、その疾病が何もしなくても治るものなら「症状の悪化」が「一時的」なものになるのは当たり前の話で、プラセボ効果で多少は誤差が出るかもしれないが、その誤差を修正してやれば、要するに「何もしなくても起こるべきことが普通に起こるだけ」の話である。

それをホメオパシーでは「人間の自然な治癒力が病気を治療する」と表現するのであるが、それはその限りにおいては間違ったことは言っていない。単にホメオパシーの施術の関与はそれに一切関係がないと謂うだけのことである。ならば、「人によって好転反応がどの程度どれだけ続くかわからない」と謂うのは「何もしなくても治る病気がどの程度どれだけ悪化してから治るかは決まっていない」と謂っているだけのことである。

つまり、ホメオパシーとは何もしなくても病気が勝手に自然治癒するプロセスに合わせて尤もらしい身振りを演じているだけのことであり、その意味で雨乞いとまったく原理は変わらない。ランセット論文が明らかにしたのは、「人間が祈らなくても普通に降る確率で雨が降っただけだ」と謂う当たり前の事実である。

しかし、統計学や二重盲検等の科学の手法が確立されていない時代の研究には当然観測バイアスが存在するから、「ほっといても治る」事例を相当数観察すれば、それは見掛け上「効いた」と謂う結論を補強するので、「効いた」と謂う論文が山ほど書かれることになる。

極乱暴に謂えば、ランセット誌のメタアナリシス論文と謂うのは、その種の不備を抱える信頼出来ない論文を選り分け弾いていく作業で、信頼性を担保する条件を満たしていない論文を機械的に全部弾いてみたら、「効いた」と報告する論文は一つも残らなかったと結論附けているのであるから、論理的に謂ってホメオパシーの実効の存在は否定されたと謂うことになる。

考察の意味が成立するギリギリまで譲歩するなら、前述の通り「『ない』ことは証明出来ない」のであるから、もしかしてホメオパシーの効果はあるのだけれど科学的な手段では確認出来ないだけなのかもしれないと考えてみよう。そうすると、「ホメオパシーによって疾病が治癒する」と謂う「事実」は、現時点において客観的に確認のしようがないのであるから、「そう信じる」以外にないと謂うことになる。

だとすれば、ホメオパシーを受診すると謂う行為は、ホメオパシーが「効くと信じること」を必要とするのみならず「効いたと信じること」も必要とするわけで、ならばそれには徹頭徹尾「ホメオパシーを信じる」と謂う意味しかなく、実効があるかどうかと謂う観点の客観的事実性は一切関係ないと謂うことになる。

なるほど、これは完全に「信仰」である。医療行為において「治るかどうか」と謂う事実性さえも無視するのであれば、それは何を信じようが当人の「信仰の自由」である。ただし、そうだとすれば、ホメオパシーは「手かざし」や「シャクティパット」同様の宗教的ヒーリング行為だとちゃんと認めてもらわないと紛らわしくて困るのであるが。

とまれ、ホメオパシーの「研究」とは概ねそのような性格のものであり、今年で丸々二世紀にも及ぼうと謂う長い長い無駄に長い研究史を通じて、ホメオパシーが自説の正しさを科学的に証明したと謂う話は一向に聞こえてこない。

それでも未だ諦めない研究者が存在する限り、遠い遠い将来にはホメオパシーの正しさが科学的に証明される日が来るのかもしれないが、ひとまずそれは、一〇〇%に近似の窮めて高い確率で、今すでに存在するすべての人々の寿命の範囲内では考慮する必要がないし、地球や宇宙の寿命の範囲内においても考慮する必要はない。

●相互排除的関係の淵源

それでは、ここでホメオパシーと通常医療が相互排除的な関係にある現状に至るまでの歴史的な経緯について少し考えてみよう。

もしもハーネマンの提唱した「類似の法則」が正しければ、現在の通常医療はそれを織り込んだものとなっていたはずである。二〇〇年前の時点ではハーネマンの理論にも平等に正当性を証明する機会が与えられていたわけであるから、「もしも正しければ」ホメオパシーと通常医療は理論的に相互排除的関係にはなかったはずである。

注意が必要なのは、現代の通常医療が科学的に正しいことと「類似の法則」が科学的に正しいことは、理論的な観点で相互排除的な関係にないと謂うことである。

勿論ハーネマンの時代からホメオパシーとアロパシーと謂う対立概念があって、現代における通常医療に対するホメオパシーの敵対姿勢の淵源となっているとは謂えるだろうが、ホメオパシーとアロパシーは理論的な観点において相互排除的な関係にあるわけではない。

もしもホメオパシーが「効く」としても、それが直ちにアロパシーが「効かない」ことを意味するわけではない。漢方薬が「効く」としてもそれが通常医療の薬剤が「効かない」ことを意味するわけではないのと同じことである。ホメオパシーが正しければ、それはアロパシーよりも優れた医療だと謂う意味で対立的な概念なのである。

もしもハーネマンの理論が正しいことが証明されたとしても、それは通常医療の体系が間違っていることにそのまま直結するわけではないし、現状の医療体系とハーネマンの理論は或る程度の修正を施せば連結可能なはずである。

ハーネマンの謂う「バイタルフォース」に相当するホリスティックな肉体の機序は、現時点で確認する方法がないだけでたしかに実在するのかもしれないし、物質性の次元の現象は単にそのホリスティックな次元の現実の投影に過ぎないのかもしれない。それはそれで単にアスペクトの違いであって、通常医療とまったく無矛盾で接続可能である。

ハーネマンは、現代まで続く通常医療のアプローチとは別のアプローチに基づく医学理論を夢想しただけで、「それが正しければ」たしかにハーネマンのアプローチには通常医療のアプローチと対比して優れた部分があると謂う言い方は可能だろう。物質性の次元の現象を惹き起こす上位の次元の統合的法則性が存在するのであれば、部分に働き掛けて治療するより統合的な機序に働き掛けるほうが効率的であることは事実である。

ただし、その魅力的なアイディアの正当性は、二世紀にも亘る長い時間を与えられても未だ証明し得ず、その長い時間の間に発見された数多くの科学的事実はハーネマンの理論を否定こそすれ一切肯定しなかったと謂うだけである。

結局、ホメオパシーにおいては科学の手順に基づいて理論の正しさを証明する努力が何一つ実を結ばなかったわけで、それどころか科学の発達に伴って発見された不利な事実に対してさらに無根拠な空想を継ぎ接ぎすることで理論的整合性を保ってきたのであるから、謂ってみればそれは科学の発達に完全に背を向けた姿勢である。

何故現代のホメオパシーが通常医療と相互排除的関係にあるのかと謂えば、通常医療が採用したような科学的妥当性を検証する手続を、ホメオパシーサイドが一切踏んでいないからである。

通常医療が手探りで掘り進めていた鉱脈を全面放棄して「そんな所を幾ら掘ったってダメだ、俺はこっちのほうを掘るよ」と謂って何もない所を一から延々二〇〇年間掘り続けて、結局何一つ出て来なかったのであるから、客観的に謂えば現在のホメオパシーは有用な知識体系としては完全な無一物である。

ホメオパシーは、ハーネマン以後の二〇〇年間に蓄積された医学知識を無視しているだけではなく、二〇〇年前の時点で人類が蓄積してきた医学知識さえも全面放棄しているのであるから、ホメオパシーには普通一般の意味で少しでも役に立つ医学知識は一切存在しないのである。

とっくに放棄されて然るべき仮説の命脈を保つ為に、きっぱり科学に背を向け荒唐無稽な空想に空想を重ねて見苦しく足掻くことで、非科学的な「ニセ医療」となってしまったのであって、現時点におけるホメオパシーは空想のごった煮とも呼ぶべき奇怪な妄説の寄せ集めと成り果てている。

最早それは医学理論と似ても似つかない不気味な「オマジナイ」の集積となって、当然現代科学の常識と背馳する新種の妄説が猖獗を窮めることとなる。アロパシーに対するホメオパシーの優位と謂うのも、「もしもそれが正しければ」と謂う留保が附くにもかかわらず、ホメオパシーの正しさを証明する前に「アロパシーはダメだ」と通常医療を攻撃するのは、大事な手続をすっとばしていると謂うことになる。

繰り返すが、ハーネマンの時代の医学の水準で謂うなら、ホメオパシーで謂うところのアロパシーも未成熟だったのであるから問題は山積していたわけで、従来の医学の問題点を指摘して新学説を唱えるのは別段間違ったことではなかった。

ただ、「アロパシー」のほうが現代に至るまでに科学的な手続に則って実効ある新理論や新技術を倦まず弛まず積み重ね時には多くの犠牲を払いながら発達を遂げることで着実に問題性を克服してきた一方で、ホメオパシーのほうは空想に空想を積み重ねると謂うまったく役に立たない選択肢による自己防衛の道を選んだのであるから、現時点におけるホメオパシーは何の役にも立たないオマジナイの寄せ集めであるに過ぎない。

たしかに、ホメオパシーが「正しければ」それは優れた医療技術である。しかし、それは単に「どこそこの霊験灼かなお札を煎じて飲ませて病気が治るのであれば、それが最も優れた医療技術だ」と謂うのと同じ意味でしかない。

人間の肉体の現実が物質的な「部分」の複雑な構造と物質的相互作用に依拠していると考えるなら、疾病を治療する為には複雑で膨大な医学知識体系が積み重ねられる必要があるが、人間の肉体状況を神様が司っているのだと考えるなら、一心込めて神様に祈れば万病平癒ゆめ疑いなし、要するにそう謂う違いである。

結局現状におけるホメオパシーとは、「霊験灼かな神様」を「バイタルフォース」と言い換えただけの「エセ宗教」に過ぎない。無害で万能の理想的医学理論を空想するだけなら簡単だが、その正しさが証明されなければ画餅でしかない。

現代のホメオパシーが通常医療と相互排除的関係にあるのは、直接的にはアロパシーに対するホメオパシーの優位と謂うハーネマンの時代のお題目の影響だろうが、要するに現代におけるホメオパシーが「エセ宗教」のレベルに堕落したからである。

この現状においてもホメオパシーが正しいことを確信している人がいるとすれば、それは科学的に妥当だから正しいと考えているわけではない。それは単に何の理由もなく自分の願望に合致した「理」がこの世に存在すると信じているのである。

通常医療の実効性はひとえに科学的検証の手続の妥当性に依拠しているのだが、「アロパシー」に可能であった実効性を担保する手続が遂にホメオパシーには出来なかったのであるから、「アロパシー」の正しさを認めることはホメオパシーの否定に直結しホメオパシーが何一つ有用な知識を持ち合わせていないことを認めることになってしまう。

現代におけるホメオパシーがその正当性を主張するのであれば、「実効の有無」では勝負にならないから、否定出来ない実効を持つ通常医療の有害性を訴える以外の選択肢はなく、「通常医療は人間のホリスティックな健康を損なう有害な医療だ」と攻撃する以外にはなくなる。かくして両者は原理的には連結可能であるにもかかわらず相互排除的な関係にならざるを得なくなってしまったのであるとオレは考えている。

この場合重要なのは、何も通常医療の側が積極的にホメオパシーを排斥したわけではなく、謂うならば通常医療がパスした試験にホメオパシーが通らなかったと謂うだけのことで、その試験にパスすることを実効性の基準として認めるならホメオパシーが否定されてしまうことになるから、ホメオパシーのほうで試験の意義それ自体を否定していると謂うことである。

であるから、先般の日本学術会議の会長談話と謂うのは、試験の主宰者が「試験にパスしていない者をパスした者と同列に扱ってはいけない」と更めて意思表示したと謂う意味になるわけで、試験に合格した者が落第した者を排斥したわけではない。

以上のように考えるなら、ホメオパシーは本質的に通常医療と相容れない性格を持ち相互排除的な関係にあるわけで、これによって起こるのが「通常医療による治療機会を損なう」と謂う問題性である。

次はその問題を掘り下げて考えてみよう。

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コメント

こんばんは。

じゃあ、真名は大陰ってことでのうさぎ林檎です。
#式神扱いされるのに慣れてきたので、思わず調べてしまいました。

念のため「オルガノン」は1冊ですよ、その気になれば誰でも読めます。
その気になるのが普通は困難なわけですが(笑)。

200年前ですから「脳」についてほぼ全くわかっていなかったので「バイタルフォース」という想像上の概念が通用したのでしょう。また細菌・ウィルスも発見されていませんから、感染のメカニズムも知りません。だから病気がうつることも判ってない。
#潮の満ち引きとか磁石を持ちだしていて、エネルギーの移動のように考えている。
その無い無いずくしの中で必死に考えたことには敬意を表しますが、如何せん掘り当てたものは、残念ながら今となってはただの屑です。

黒猫亭さんも書かれているように、ハーネマンは現代の文脈の「病気」ではなく「真理」を定義していたのだと思います。
だから、彼にとって慢性病は3つしかありませんでした。
・スフィリス(梅毒)
・サイコーシス(淋病)
・ソーラ(疥癬≒癩病)
この3つのマヤズムの症状が様々な形で表出しているのを、慢性病としました。
ホメオパシー団体は、このマヤズムを「遺伝的傾向」と解釈するようですが、オルガノンの邦訳では「感染毒素」とされています。
言葉(マヤ)の語感に引きずられてその扱いが、"親の因果が子に報い"みたいなことになってますが、元はギリシャ語のmiasma(穢れ、汚れ)なので、私は「病原体」のような意味でハーネマンは使っていたのではないかと考えています。

また、好転反応は今のホメオパスが主張している内容は、オルガノンと大分変質しています。
ハーネマンは"homeopathic aggravation(ホメオパシー的悪化)"をあくまでも"軽い悪化"と定義しています。

157節「レメディーを服用した直後から一時間又は数時間続いて"軽い悪化"を引き起こすのはよくあることである」
158節「急性の病気が一回の投与によってほとんど治まることを教えてくれるすばらしい前ぶれ」
としていますが、これは続く
161節「本来の病気を少し悪化させたようにみえる一次作用の症状」
とあることで、ホメオパシー的悪化を同種であるレメディーがヒットした証拠と考えたためと考えられます。

ハーネマンが繰り返し強調している"homeopathic aggravation"は
「服用してから最初の一時間もしくは数時間で生じる」であり
「軽くて短時間ですむ」ものだけです。そして、
「治療を続けている期間中、本来の病気が明らかに悪化する現象は現れるはずもない」とも記述しています。
#過剰投与や選択ミスによる副作用まで心配してます。

今のホメオパシーは"homeopathic aggravation"を瞑眩を引き合いに出した好転反応と意識的に混同することで誤魔化しを行っているのでしょう。

そして何故日本で今さら、ホメオパシーを信じることができる人がいるについては、ニューエイジ的価値観の影響がどれほどであるのかも勘定に入れなくてはいけないのかもしれないと思っています。

と色々書いておけば、黒猫亭さんが上手く料理してくれるに違いない、と思っておこうっと(笑)。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年12月13日 (月曜日) 午後 08時27分

単なるヒヤカシですが、本文中の
> 一〇〇%に近似の窮めて高い確率で、
については、30Cのレメディになぞらえて、「十のマイナス六十乗程度の誤差の範囲で、」と書いて欲しかったです。

投稿: mimon | 2010年12月14日 (火曜日) 午前 03時58分

>うさぎ林檎さん

いやあ、流石にうさぎ林檎さんだけあって「欲しい所に球が来る」絶妙の補足で、この式神は使い勝手が好い…もとい「うさぎ林檎さんはありがたい」です(笑)。

poohさんのところで、友人をホメオパシーで亡くされた方の書き込みを拝読したことがきっかけでこれを書こうと思い立って、最初は一つのエントリに纏めようと一〇日以上も揉んでいたのですが、その間にどんどん長くなってしまいました(笑)。

最終的には幾つかのエントリに分割して随時更新することにしたのですが、中には論旨の展開上どうしても考察が必要でも情報不足で自信のない部分もあって、ボツにしようかと悩んだこともありました。まあ、自信のない部分についてはこの際他人様を頼る料簡で公開に踏み切りましたので、うさぎ林檎さんのフォローが頼りです。

>>念のため「オルガノン」は1冊ですよ

ああ、古臭い言語観で申し訳ありません。紛らわしい書き方でしたが、「巻」と謂うのは書物自体を指す言葉なので、「全巻」と謂うのは、複数の分冊なら勿論「1〜n巻まですべて」と謂う意味ですが、全一冊なら「最初から最後まで」と謂う意味になるんですよ。つまり、全一冊でも複数分冊でもどちらでも「最初から最後まで」と謂う意味になるのですね。

ただ、「堪能」は本来「かんのう」と読むべきですが、そう読んだら意味が通じないようなもので、広汎に意味が通じないのでは書き方として得策ではないですね。

>>200年前ですから「脳」についてほぼ全くわかっていなかったので「バイタルフォース」という想像上の概念が通用したのでしょう。また細菌・ウィルスも発見されていませんから、感染のメカニズムも知りません。だから病気がうつることも判ってない。

「オルガノン」が刊行された一八一〇年当時の感染症に関する科学知識が如何なるものだったのかと考えてみると、パスツールやコッホの仕事がその数十年後で、どらねこさんの記事でお馴染みのゼンメルワイスの仕事はこの二人の少し前に当たりますから、彼の悲劇的な運命は、細菌病原説の確立に僅かに先駆けていたことによるものでもあると考えられます。

一方、人から人に感染する伝染病が存在することは有史以前から直観的に識られていたわけで、ハンセン病差別なんてのはキリストの時代以前から存在しますから、おそらくそれはまず呪術的な触穢の感覚として捉えられたわけですね。

ですから、ゼンメルワイスが「屍体解剖と出産介助を同時に行う為に屍体の破片が手に附いて産褥熱が起こる」と考えたのも、背景となる知識にはミアズマ説対コンタギオン説の間の論争があったとは思うのですが、潜在的には「死穢」に類似した呪術的な発想に基づくものだったのかもしれません。

そして、ハーネマンのバイタルフォース理論が、そのままでは伝染病が感染するメカニズムを説明出来ないと謂うことはハーネマン自身も理解していたはずですね。

>>この3つのマヤズムの症状が様々な形で表出しているのを、慢性病としました。

ホメオパシーについて調べていくと、どうしてもこのマヤズムと謂うのが妙に唐突に感じられることは事実で、ハーネマン以後に結核と癌のマヤズムが追加されたことで余計にわかりにくくなっている嫌いがあるんじゃないかと思います。

マヤズムと謂うのは「ミアズマ(瘴気)説」のミアズマと同語源ですよね。そのミアズマと謂うのは普通は水に関係して発生する病因となるものを指すわけですが、それが現在のホメオパシーでは「遺伝的体質」みたいな意味で遣われていることで、非常に理解しにくい概念になっています。

まず、何故三つのマヤズムが「梅毒」「淋病」「疥癬(ハンセン病)」なのかがよくわからない。大本のミアズマの概念から謂えば、悪い水やそれが醸し出す悪い空気が媒介となって発生するようなタイプ、つまり居住エリアの衛生環境が悪いことで発生しやすい伝染病をイメージするのが普通ですが、この三つはそのようなイメージにはそぐわないものです。第一、何故性感染症と皮膚病なんでしょうか。

また、「慢性病」と謂う概念がホメオパシーによる即効的な治療効果が期待出来ない疾病と謂うふうに解釈すると、ホメオパシーのプラセボ効果で見かけ上の治療効果すら出ない当時の難治病と謂う共通項で括るならもっと相応しい疾病がありそうなもので、おそらく結核と癌が加えられた動機もそのようなものではないかと思います。

ただ、当時感染症に関する科学知識が確立されていなかったと謂う前提でハーネマンの理論について考察してみると、この三つの疾病に共通しているのは「直接接触」ではないかと考えられます。梅毒も淋病も性感染症であることは古来経験的に識られていたわけですから、性行為以上の濃厚接触と謂うのは直観的に想像出来ませんよね。

調べてみると、どうやら疥癬と性感染症はハーネマンの当時でも明らかに直接接触で感染することが識られていた代表的な伝染病だったようです。そうすると、ハーネマンは伝染病については「接触伝染説」を採用する立場だったと考えられますが、これはミアズマ説と対立するコンタギオン説に当たりますから、マヤズムがミアズマに由来することからすると逆のように見えますね。

ミアズマ説とコンタギオン説の間の論争は、レーウェンフックの業績によって細菌学が開拓されパスツールやコッホの業績を経て細菌説が正しいことが判明することで決着が附くわけですが、前述の通りハーネマンの時代はパスツールやコッホの数十年前ですから、コンタギオン説がやや優勢ながらミアズマ説を完全に斥ける為の決め手を欠き、その両者の間でまだ延々と論争が続いていたことになります。

とすると、どうもハーネマンの所謂マヤズムと謂う概念は、その両者の折衷案と謂うか第三解のような性格があるのかもしれないと考えられますね。コンタギオン説と謂うのは接触によって病気を媒介する生きた伝染性生物が存在すると謂う仮説ですが、ハーネマンはそのような生物の存在を想定せず、飽くまでバイタルフォースを根幹原理に据えて感染のメカニズムを考えるわけです。

ハーネマンの理論では、バイタルフォースと謂うオカルト的な生命原理が想定されていますが、性行為と謂うのは新たな生を生じる営みであり、生まれて来た子には男女の双方から形質が遺伝することはメンデル以前から経験的に識られていました。ですから、「オルガノン」に明示的に記述されているかどうかわかりませんが、その発想にオカルト的な傾向を持つハーネマンは、性行為において男女の生命原理の間に何らかの強い相互作用が起き、それによってバイタルフォースが攪乱されることが感染のメカニズムであると考えたのではないかと思います。

また、「疥癬≒癩病」と謂うのがどのように記述されているかにもよりますが、どうやら当時の医学知識では、梅毒とハンセン病の区別が附かなかったり、梅毒と同一であると謂う考えがあったり、性行為によって感染すると謂う考えもあったそうで、ハンセン病に関しては大した知識がなかったようですから、ハーネマンも性感染症と関連附けて考えたのかもしれません。

疥癬のほうも、患者との濃厚接触や寝具を通じてヒゼンダニが媒介されると謂うことですから、要するに売春宿が大きな感染基地となった可能性が高いわけで、性行為との連想が濃厚だったと謂うことが考えられます。

ですから、どうもハーネマンは感染症一般を性行為と関連附けて考えていたのではないかと思うのですが、その辺、原典ではどうなんでしょうかね。NATROM先生のように詳しい本職の方が纏めてくれると便利なんですけどね(笑)。

>>ハーネマンは"homeopathic aggravation(ホメオパシー的悪化)"をあくまでも"軽い悪化"と定義しています。

次に「好転反応」についてですが、そもそもハーネマンの理論に基づけば「それがどの程度どれだけ続くかわからない」と謂うことはないはずですよね。本文で引用したうさぎ林檎さんの纏めによれば、

>>レメディーが作用する持続期間は短いためにバイタルフォースがレメディーの変化を消すことができる

…とありますから、「一時的に症状が悪化する」にしてもそれは「持続期間は短い」はずなんですね。以前のエントリに戴いたコメントで挙げられた原典の引用では、

>>私たちは人為的に病気を生みだす効力のあるものをレメディーと呼ぶが
>>、それが作用する持続期間は短い。このおかげでレメディーの作用は、
>>自然の病気よりも強いにもかかわらず、自分より弱い自然の病気よりも
>>はるかに容易に、バイタルフォースによって打ち負かされる。

「自然の病気よりもはるかに容易に、バイタルフォースによって打ち負かされる」と謂うことなのですから、「服用した直後から一時間又は数時間続いて"軽い悪化"を引き起こす」と謂う程度のものでなければならないはずです。

おそらく「ホメオパシー的悪化」を記述したハーネマンの脳裡にあったイメージは、或る種の共鳴現象や干渉波のようなものだったのではないかと推測します。

ハーネマンは、

>>「二つの類似した病気は、同じ体に並存することも、二重の複雑化した病気を形成することもできない(44節)」

…と考えていたわけですが、「一瞬たりとも同時に存在することは出来ない」と考えていたのではなく、レメディが「病気」に取って代わるまでの一定時間の間「病気」が二重写しで存在して強化されたような状態にあると考え、その極短い間「症状」が悪化すると謂うイメージを描いていたのではないでしょうか。

ハーネマンの理論に則るなら、「人によっていつまでどの程度症状が悪化するかわからない」と謂うことはあり得ませんが、「極短い間症状が悪化する」と謂うことはその理論の範囲内で整合性のある説明です。

上記のように考えていくと、ハーネマンが自身の理論に一見反するように見える事実を整合させる為に設けた例外則のような部分…つまり元から「ゴミ捨て場」のような性格を持つ部分を、後代のホメオパシー研究家たちがさらに拡張して不都合な事実に辻褄を合わせる為の「便利なゴミ捨て場」として活用し、どんどん「ゴミ」を捨てていったことがわかります。

ハーネマンの原意図としては、「マヤズム」はそのままでは説明出来ない伝染病の感染メカニズムを説明する為に、また「ホメオパシー的悪化」は施術直後数時間の経過観察においても症状が軽快しないことを理論の範囲内で説明する為に、原理論の範囲内で整合性のある論理を敷衍しただけのことです。

しかし、後代の研究家によって修正が加えられることで、たとえば「マヤズム」はホメオパシーによってはかばかしい見かけ上の治療効果が得られない疾病の存在に辻褄を合わせる為の方便として、「ホメオパシー的悪化」はそもそもホメオパシーに治療効果が存在しないことを韜晦する方便として、拡大解釈に拡大解釈を重ねることですでにハーネマンの原意図とは無関係な意味を負わされていて、当然ハーネマンの原理論とは論理的整合性が喪われているわけですね。

伝染病である結核はともかく癌までマヤズムだと謂うのであれば、そもそもハーネマンの提唱した三つのマヤズムがなんで梅毒や淋病だったのかと謂う意味がまったくわからなくなるし、ホメオパシー的悪化がいつまで続くかわからないのであれば、ハーネマンの理論自体と論理的整合がありません。

単に、一九世紀後半に細菌病原説が証明されたことで、ハーネマンのマヤズムの理論がそのままでは意味を持たなくなってしまい、伝染病の病原理論としては間違っていたことを糊塗すると同時にそれを便利なゴミ捨て場として活用した、と謂うのが真相でしょう。そこで「遺伝的体質」とか「カルマ」などのワケのわからないガラクタを詰め込んでしまうから、さらにワケがわからなくなるわけです。

また、ホメオパシー的悪化を「いつまで続くかわからない」と言ってしまうから普通の症状の悪化と見分けが附かないものになるのだし、本来ハーネマンの理論が正しければレメディが直截かつ即効的な治療効果を持つはずなのに、レメディは自然治癒力を高める補助的なものだと謂う逸脱した解釈が派生する。

ですから、himajin774さんの手筋に乗って謂えば、少なくともハーネマンの原理論は最低限論理的整合性に配慮して自説の範囲内では無矛盾の理論体系として創案されているけれど、そのままではその後発見された科学的事実と整合性がないし、それを糊塗する為に修正に修正を加えた現代のホメオパシーは、出鱈目に建て増しした建物のようなもので、それ自体の理論体系の中に多くの矛盾を抱えていると謂うことになるでしょう。

>>そして何故日本で今さら、ホメオパシーを信じることができる人がいるについては、ニューエイジ的価値観の影響がどれほどであるのかも勘定に入れなくてはいけないのかもしれないと思っています。

それについては後段で詳しく論じるつもりですので、またそのときに突っ込んでお話を致しましょう。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月14日 (火曜日) 午後 12時33分

>mimon さん

いやあ、それほどの余裕はなかったですよ(笑)。

本文を読んで戴ければおわかりになると思いますが、今回はあんまりウケ狙いの要素は入れられませんでした。オレは一般に真面目なテーマでも或る程度ウケを狙ってネタを弄する悪い癖があるんですが、最初に取り掛かった段階ではそう謂うウケ狙いの言い回しを結構混ぜていて、もうちょっと楽しく読んで戴こうと考えていましたが、それではどうもいけません。

とにかく、引き籠もってネチネチいじっているとどんどん話が長くなるんで、そう謂うウケ狙いを考えているともっと長くなりますし、もっと面白くてわかりやすい喩え話も入れたいと謂うような欲が出てきますので、到底纏め切れません(笑)。

うさぎ林檎さんに申し上げたように、あんまり長くなりすぎて途中でボツにしようかと悩んだくらいですから、諧謔を弄する余裕がないことはご勘弁ください(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月14日 (火曜日) 午後 12時34分

>うさぎ林檎さん

あんまり長いお返事を書いたので忘れるところでしたが(笑)、一つ質問です。

poohさんのところでオレは「ハーネマンの理論に基づくなら、K2レメディは作れないはずだし、もしも作れるとしたらK2シロップの代わりに飲ませると謂う使い方にはならないはず」と申し上げましたが、この意見は正しいと思われますか。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月14日 (火曜日) 午後 03時03分

こんにちは。

いつもの如くどっさり(笑)のお返事なので、式神はオロオロしております。

まず、ご質問のK2レメディーの件です。この時代にビタミンという考えがあったかどうかを脇に置けば、レメディーを作ることは可能だと思います。ハーネマン存命中の間にもレメディーは数を増やしていますし、彼自身も治療に効果が上がらないのはレメディーが足りないためであり、さらにプルービングを重ねレメディーを増やすことが必須と考えていました。
なので作ることはあり得ると思います。

しかし、K2欠乏症に対してK2レメディーを使うことは無いと思います。プルービングを考えれば、それはありえないでしょう。
レメディーを服薬して変化の詳細なメモを取るのがプルービングです。レメディーには元物質が無いので仮定の話としても馬鹿馬鹿しいのですが、K2を摂取して、そこにK2欠乏と同じ症状が発生することは無いでしょう。
ジグソーパズルで謂えば、既にピースがある場所に全く同じ形のピースを入れようとするのがホメオパシーであって、空いている場所にピースを入れようとするものではありません。足りないものを補うという発想はホメオパシーの考え方では無いですね。

次に、ハーネマンは接触感染説を否定しています。病原物質の存在を認めていないようです。
「物質的なものが皮膚や傷口に触れ、感染によって病気が移った(本文ママ)としても、こうした物質から何らかの物体が、私達の体液の中に侵入したか吸収されたのだろう、ということを(現代の病理学書でよく主張されるように)証明できる人がいるのか」
と書いています。"決してありもしない病原物質"ともしています。ここから接触感染の知識はあっても、彼はこの説を認めていないことが読み取れると思います。マヤズムについても、ハーネマンは
「マヤズムはホメオパシーによってはじめて発見され、ホメオパシーに基づいて有効な治療法も準備された」
と書いているので、それは従来の意味とは違った独自の使い方なのかもしれません。

(彼にとって)十分な距離が離れていても感染するのだから、感染は距離の問題では無いと考えました。そして感染を「ダイナミックなエネルギーの作用」と表現しています。棒磁石が例に出して、
鉄の破片が磁石の極にくっつくのは"どのように起きているのかを見ることができない"、これは"非物質的な、目に見えない、精神のような、純粋で固有なエネルギー"が"ダイナミックに作用している"からである。
また、磁石と離れた位置にある鋼の針が磁石になるのは磁力の特性が、鋼の針に"(ダイナミックに)感染する"からである。としています。
そして、この理論を天然痘、麻疹の感染に応用しています。接触していない子供にうつるのは何故か?曰く"精神のように作用する力が、近くの子供に同じ天然痘あるいは麻疹の病気を伝えたのである"。

そして(あぁもう紙に戻りそう)、慢性病マヤズムが何故3つかですが、これは病で亡くなった人が大抵どれかに罹っていたからじゃないかと私は考えています。

………只今、慢性病論を読破すべく忍耐との戦いを繰り広げてます。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年12月14日 (火曜日) 午後 06時34分

>うさぎ林檎さん

毎度お手数をお掛けします(笑)。非常に満足の行くお返事を戴きましてありがとうございます。引き替えに、新しい効能書きをお返し致します(笑)。

>>しかし、K2欠乏症に対してK2レメディーを使うことは無いと思います。プルービングを考えれば、それはありえないでしょう。

急いで書いたので質問の仕方が悪かったですが、まさにうさぎ林檎さんが仰ったようなことが伺いたかったんです。

更めて正確に言うと「『K2シロップの代替物としての』K2レメディは作れないはずであるし、作れるとしたらK2シロップの代わりに飲ませると謂う使い方にはならないはずだ」とお伺いしたかったのですね。

前段を受けるなら、ハーネマンの理論ではホメオパシーに予防効果はないはずなのですから「ビタミンK欠乏性出血症を予防する」目的のレメディは作れないはずで、その意味で「K2レメディは作れないはず」と謂う言い方をしたわけですね。

後段を受けるなら、たしかにビタミンKを原物質としたレメディは幾らでも作れますから仰る通りで、その場合には「K2シロップの代わりに飲ませると謂う使い方にはならないはず」と謂う意味です。

ビタミンKを原物質としたレメディは、ハーネマンの理論通りならビタミンKの欠乏ではなく投与が惹き起こす症状に対するものでなければならないはずですね。これについてたしか由井寅子は「ビタミンKを摂取することの弊害」を楯にとって「実物を与えるのは良くない」と謂う理由でK2レメディを勧めていたかと思うのですが、上記の理由で原理的にK2シロップはレメディで代替出来ないはずなんですね。

もしもK2レメディがビタミンKを原物質とするレメディなら、「ビタミンK過剰症に対する治療効果」を持つレメディだと謂うことになりますから、ビタミンKの欠乏に備える目的で、ビタミンKを与えずに、ビタミンK過剰症に対する治療効果を持つはずのレメディを与える、と謂うのは論理的に矛盾しています。

一方、「ビタミンK欠乏性出血症に対する治療効果」を持つレメディなら「ビタミンK欠乏性出血症に類似の症状を惹き起こすもの」を原物質としたものでなければならないはずで、その場合K2シロップの代わりに飲ませるのではなく、ビタミンK欠乏症が起きてからその治療の為に与えると謂う使い方でなければならないはずです。

ですから、もし万が一K2シロップを代替し得るレメディが存在すると仮定すれば、それは「ビタミンK欠乏性出血症と類似の症状を惹き起こす」とプルービングされた物質を元にしたレメディで、なおかつレメディの投与にその予防効果がなければならないと謂うことになります。

だとすると、吉井寅子の依拠するプラクティカルホメオパシーはレメディに病気に対する予防効果があると主張していることになりますが、それはハーネマンの理論とは違うように思います。また、もしもK2レメディがビタミンKを原物質としたものであれば完全にハーネマンの理論とは逆ですよね。

>>ジグソーパズルで謂えば、既にピースがある場所に全く同じ形のピースを入れようとするのがホメオパシーであって、空いている場所にピースを入れようとするものではありません。足りないものを補うという発想はホメオパシーの考え方では無いですね。

そう謂うことになるわけで、poohさんのところで申し上げたように、比較的ハーネマンの原理論に忠実なクラシカル派のホメオパスは、「物質の不足はホメオパシーで対処可能なわけがない」と指摘しています。

>>次に、ハーネマンは接触感染説を否定しています。病原物質の存在を認めていないようです。

こちらのほうはどうもオレの見込み違いのようですね。ハーネマンが伝染病の感染機序をそんな凄い理論で考えているとは想定外でした(笑)。前回戴いたコメントでも、

>>潮の満ち引きとか磁石を持ちだしていて、エネルギーの移動のように考えている。

…と謂う示唆を戴いてはいるんですが、いずれの喩えにせよエネルギーが移動する際に極近接した直接接触を想定しているんではないかと想像したんですが、離れていても普通にエネルギーが移動すると考えているのであれば、単にわかりやすい比喩を用いて強弁しただけで一種神懸かりなロジックではありますね。

一個の肉体内部の現象と考えるならまだしも「未知の機序」として物質的な次元に具体化可能だろうと思うのですが、それが離れたところにいる他人のバイタルフォースに強い影響を与え得ると謂うことであれば、やはり普通に考えてオカルト的な発想ではないかと思います。

しかし、

>>「物質的なものが皮膚や傷口に触れ、感染によって病気が移った(本文ママ)としても、こうした物質から何らかの物体が、私達の体液の中に侵入したか吸収されたのだろう、ということを(現代の病理学書でよく主張されるように)証明できる人がいるのか」

…と謂う記述は凄いですね。今の感覚だと「物質的なもの」だからこそ観測技術さえ発達すれば証明乃至反証可能だろうと考えるのが常識で、逆に「精神のように作用する力が、近くの子供に同じ天然痘あるいは麻疹の病気を伝えたのである」なんてことをどうやって証明するんだ、と疑問に感じますが(笑)。

さて、病原説の観点における解釈が筋違いであれば、どう考えたものでしょう。

>>慢性病マヤズムが何故3つかですが、これは病で亡くなった人が大抵どれかに罹っていたからじゃないかと私は考えています。

そう謂うふうに考えることも可能ですが、ハーネマン当時、梅毒と淋病と疥癬がそんなに罹患率の高いポピュラーな病気だったのかと考えると、少し疑問に感じることも事実です。

うさぎ林檎さんが仰っているのは、マヤズムとされている病気で死亡する人が多かったと謂う意味ではなく、死亡した人がそのどれかに罹っている確率が高かったと謂う意味だと思うんですが、如何に一九世紀当時でも、この三つの病気がそんなに男女を問わず無闇に罹患者が多かったのかな、と思わないでもないです。

なので、ここはもう少し違う解釈で粘ってみましょう(笑)。道具立てからの類推でミアズマ説対コンタギオン説の間の論争や接触感染と謂う部分に着目したのが見当違いであれば、では何故性感染症と疥癬なのでしょうか。

うさぎ林檎さんの御意見を拝読してから少し調べてみましたが、どうやらハーネマンの時代のホメオパシーは、コレラ、チフス、黄熱病、猩紅熱などの伝染病に対して効果を挙げたと主張されていますね。主に伝染病を相手にしていたわけですから、その意味でもやはりマヤズムが感染機序の説明を意図したものだと謂う解釈では無理があります。

では、コレラやチフスなどの経口感染の伝染病とマヤズムとされる疾病にはどのような違いがあるのかと考えてみると、上記のような伝染病はたしかに重症例では致死率が高いですが、感染から自然治癒までのサイクルを持っていると謂う共通点があります。つまり、治る症例ならほっといても自然に治るんですね。

ところが、梅毒や淋病などの性感染症は放置していて自然治癒することはあり得ないとされています。ホメオパシーの性格から考えて、自然治癒する可能性のある病気なら見掛け上の治療効果が存在するように見えますが、梅毒や淋病はほっといても治らないので、ホメオパシーでは見かけ上の治療効果すら見られなかった、それで性感染症が特別扱いされるに至った、とも考えられますね。

NATROM先生のところから孫引きすると、

>>ハーネマンは長年にわたってホメオパシーの研究を進めるうちに、患者本人の状態に合せて薬を処方しても反応があったようにはみえないケース、あるいは回復し始めてもすぐに病状が逆戻りするケースがあることに気付いた。彼はこのようなケース全体を1つのグループとして研究対象とし、総体的、先天的でより高いレベルに属する問題が原因であるという結論に達して、これを「マヤズム」と名付けた。

…と謂うことですが、コレラやチフスや黄熱病なら一定の割合で自然治癒する症例もあるでしょうから、観測バイアスで「効果があった」と見做すことは可能でも、梅毒や淋病の場合は自然治癒することがあり得ないから「まったく効果がない」と謂う結論以外は出しようがない、そう謂う違いなのかもしれません。

また、疥癬は健康な青年なら半年くらいで自然治癒して再感染しても免疫で軽症化するようですが、ノルウェー疥癬のような桁違いに感染力が強い疥癬があったり、家族間で何度もピンポン感染したりしますし、何よりもとにかくヒゼンダニを駆虫しない限り症状は軽快しませんから、或る意味ではほっといても治りません。当然見掛け上の治療効果もありませんから、これも例外に加えられたのでしょう。

だとすると、やっぱりマヤズムは別の意味でハーネマン理論のゴミ捨て場だったと謂う言い方も出来ますね。

それと、どうやら欧米では日本との生活形態の違いから専ら疥癬は性感染症と見做されていたらしくて、大きく括るとやはり三大マヤズムはすべて性感染症と謂う括りになるみたいなんですね。なので、オレとしては、どうもやはりハーネマンが性感染症を一種特別視していたような気がして仕方がないんですよ。

ハーネマンが伝染病の感染機序を離れていてもバイタルフォースが影響を与えるのだと考えていたとすれば、性行為を通じて感染することが識られていた性感染症の場合はさらに強いバイタルフォースの相互作用があると考えたとしても自然です。

で、これまでのやりとりを通じてお察しのことと思いますが、オレはハーネマンが自身の思うところを正直に著書に記述しているとは考えていませんし、或る種医学理論としての表面的な体裁を整える為に、オカルティックな着想を強弁や比喩で韜晦している部分もあると考えています。そのような語られざるハーネマンの原意図のようなところを視ることで見えてくるものもあるんではないか、と考えています。

>>………只今、慢性病論を読破すべく忍耐との戦いを繰り広げてます。

その辺も含めて、うさぎ林檎さんの読解には期待していますので「慢性病論」の読破まで頑張ってください…やっぱり飽くまで他人頼みなんだな(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月15日 (水曜日) 午前 05時43分

おはようございます。

ハーネマンがこの時代に感染をそのように考えたのは、メスメリズム(動物磁気)が現役の時代だったことを考慮すると、必ずしも特異なことではないと思います。メスメリズムについてはオルガノンに第三版改定時に記述が始まり、最後の第六版ではかなり増筆されています。ハーネマンはわが意を得たりと思ったようです。
発想が「オカルト的」は、もっと仕方が無いですね。現代のようにあらゆるものが細分化されていない未分化な時代ですから。

えぇと、それでは私もマヤズムについては自説でもうちょっと粘ってみましょうか(笑)。

梅毒・淋病の治療には抗生物質の登場を待たなければなりませんが、死亡に至る道は急峻ではありません。スフィリス(梅毒)について現代では発症後の潜伏期間が長いことが判っています。
当時の梅毒の治療は表面に出た潰瘍や湿疹を焼灼したり水銀を塗布することですから、反って患者の寿命を縮めていました。ホメオパシー(何もしない)で時間を稼いでいる間に潜伏期間が始まったのではないでしょうか。梅毒の潜伏期は表面的な症状が一切消えてしまいますから、これを治癒したものとハーネマンが勘違いしたことは大いにあり得ます。
また平均寿命を考えると、その長い潜伏期間に別の理由で死亡することが多かったことがハーネマンの確信(思い込み)を強化したと思います。

しかし長生きした梅毒の人は、梅毒で死ぬわけです。それでハーネマンは再発(ではないんですけどね)に悩んで、慢性病論をオルガノンとは別途書きあげたわけですね。
…ということで、慢性病論をやっつけたいと思います(笑)。オルガノン同様に付箋、マーカーだらけにする予定(どうせ売り飛ばせないし)。

ハーネマンはソーラマヤズム(疥癬)を最も重要視していた、とかオルガノンには神への言葉が繰り返し出てくるなんて話もありますが、朝から燃え尽きてもなんですので(笑)、これくらいに致します。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年12月15日 (水曜日) 午前 10時32分

>うさぎ林檎さん

>>発想が「オカルト的」は、もっと仕方が無いですね。現代のようにあらゆるものが細分化されていない未分化な時代ですから。

仰るように、ハーネマンの生きた時代性を考えると、オカルティックな物の捉え方は現代のように科学と対立するような関係にはなかったわけで、強いて謂えば自然科学寄りの考え方とオカルト寄りの考え方の間にグラデーションがあったと謂うようなイメージになるでしょうか。

公平な言い方をすれば、当時の科学思想はまだまだオカルティズムと未分化な部分を残していたとしても、議論の積み重ねを背景に持つ有力な科学理論は、自然科学の要件の一つである「懐疑で鍛える」と謂うプロセスを経ているだけに実証の段階に至るまでの精度が確保されていたけれど、ハーネマンの理論はそうではなかったと謂う言い方になりますかね。

引き合いに出したミアズマ説対コンタギオン説の論争にしても、パスツールとコッホの業績によって決着が附くまでに一六世紀以来数百年掛かっていますから、たしかに不毛な堂々巡りや泥仕合的な論争もあったでしょうけれど、理論段階で多くの議論が重ねられて論点が整理されていたと謂う言い方は出来るでしょう。また、ミアズマ説にせよコンタギオン説にせよ病気の発生源を外因に求めていて、或る程度物質性の次元で論じられていた議論だと謂うことになります。

しかし、ハーネマンはそれまでの主流的な理論とは訣別して一からまったく別の理論を構築したわけで、それは上記の説と対比して一種逆行するような内因説であり、従来の議論の積み重ねを背景に創案されたものではなく、ハーネマン一個の頭脳から出てきた発想だと謂うことでオカルティックな性格がより色濃いものとなった、と謂う程度のことは言えそうですね。

おそらく個々の思想家なり科学者なりの物事の捉え方そのものはそれほど明瞭にオカルティズムと分岐していたわけではないとしても、一九世紀初頭までに整えられつつあった自然科学の妥当性を担保する仕組みが、紛れもなく一九世紀後半から二〇世紀に至る自然科学の形式的確立に繋がっているわけで、そのような知識の蓄積とは断絶したところで新奇なアイディアを発想したことがハーネマンの躓きだったのかもしれません。

また、この時代の科学知識のレベルがそのようなものだったとしても、或る種ルネサンス期からの流れとして、物事の確からしさの基盤を物質性の次元において検証しようと謂う考え方自体は確立されていたと思うのですが、いろいろ伺ったハーネマンの考え方はその流れに逆行して霊的な次元に依拠するものだった、と謂う部分がオカルティズムとしての色合いが濃い理由のように思われます。

つまり、この時代の人間の物の考え方として無理もない事情はあったとは言え、ハーネマンの学問を探求する志向に一種のアナクロニズム的な性格があったと謂う言い方は出来そうですね。その時代以前の科学的知見と断絶して見えるのは、そのようなアナクロニズム的な性格の然らしめるところ、と謂うくらいのことは言えそうです。

>>しかし長生きした梅毒の人は、梅毒で死ぬわけです。それでハーネマンは再発(ではないんですけどね)に悩んで、慢性病論をオルガノンとは別途書きあげたわけですね。

なるほど、その辺りが落とし所のようですね。いろいろ粘ってみましたが、徒に想像を逞しくしても本質を見失うでしょうから、大人しく「慢性病論」の読了を待つことにしましょうか(笑)。

おそらく梅毒に関しては三〜一〇年の長い潜伏期間を経て「再発」すると謂う特殊な事情があったのでしょうし、淋病や疥癬に関しては見かけ上の治療効果が出ない、それを「慢性病」と規定して追加の理論を考えたのがマヤズムだと謂うことになりますかね。

疥癬についても、肉眼では確認出来ないヒゼンダニが病原生物だと考えるのではなくバイタルフォースの機序だけで考えると、治療効果が出なかったり何度も再発したりすることは不可解に映るでしょうから、「どうやら病気の中には慢性化して再発を繰り返すグループがあるらしい」と謂う「観測事実」と整合を附ける為に理論的修正を試みたと謂うことですね。

その原理論が現在のホメオパシーが主張しているような「親の因果が子に報い」式の何でもアリにどのようにスライドしていくのか、この辺を楽しみにうさぎ林檎さんのお纏めを待たせて戴きます。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月15日 (水曜日) 午後 05時12分

kumicitさんのところでタイムリーなエントリが上がった。

http://transact.seesaa.net/article/173410878.html

なるほど、ハーネマンの理論には生気論と謂う背景があるのだなぁ。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月15日 (水曜日) 午後 06時30分

こんにちは。

確か、こちらにコメントするのは初めてだった気がします(あんまりそんな気もしないのですが)。
昨年から今年にかけては、Twitter始めたりブログ始めたりで、ただでさえ筆不精で遅筆なのに、色々と手が回らなくなっています。そんな中こちらにお邪魔したのは、ひとえに支援リンクを頂いた御礼を申し上げたかったからです。

現時点でGoogleのブログにはトラックバックという機能が用意されていませんので、有難くも言及してくださる皆さんには御不便をお掛けする事もあろうかと存じますが、今後とも宜しくお願い申し上げます。

まぁ、文章が固いのは、初めての御挨拶(しかも年末)という事で、何卒御寛恕の程を(笑)。

投稿: PseuDoctor | 2010年12月31日 (金曜日) 午後 01時24分

>PseuDoctorさん

>>確か、こちらにコメントするのは初めてだった気がします(あんまりそんな気もしないのですが)。

…えっ、そんな莫迦な、と思って検索してみたらホントに初めてなんですね(笑)。もしかしてコメントを虱潰しに調べて行ったらあるかもしれませんが、検索で出ないくらいですからホントにないんでしょうね。何だか、全然そんな気がしないですねぇ。

いや、なんか「支援リンク」とか恩着せがましい言い方しちゃったな、と反省したのですが、ブログを始められたのであれば是非皆さんにも読んで戴こうと思いまして。ブログ構築法も計画的で斬新ですし、すべての記事が書かれた暁には、そちらにリンクを張れば自然科学の基礎的仕様について説明出来てしまう場面も増えて、いろんな方が重宝するんじゃないでしょうか。

更新を急いでくれとは申しませんが(笑)、じっくり着実にエントリを重ねて行って戴ければ有り難いです。しかし、ぐぐるのブログにはTB機能が元からないんですね、そんな仕様になっていたとは(笑)。こちらこそ、おそらく今後は上記のような場面で便利に利用させて戴くようなリンクが増えると思いますから、よろしくお願い致します。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月31日 (金曜日) 午後 01時42分

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