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2010年12月18日 (土曜日)

ホメオパシーに関する私的総括(2) ホメオパシーなう

幸いなことに第一回目のエントリはさほど顰蹙を買うこともなくたくさんの方々に読んで戴けたようだが、やっぱりちょっと長すぎたと謂う反省はある(笑)。可能な限り準備稿を短く区切って割り振ったはずなのだが、公開する前になるべく正確を期すべく推敲を重ねているとどんどん補足的な記述が長くなる。

さらに、前回の経験で謂えば、コメント欄で戴いた情報によって準備稿の段階とは認識の違ってくる部分もあるわけで、可能な限りそれを織り込んで考察の精度をブラッシュアップしたいと謂う欲もあるから、どうも長文化の傾向は避けられそうもない。

今回のエントリも、準備稿を切り分けた際にはそんなに長くはなかったのだが、結果的にやっぱり長くなっていたらごめんなさいと予め言い訳をしておこう。どらねこさんのようにプリントアウトして読んでくださっている方が、A4一パック丸ごと使い切るような羽目になったらまことに申し訳ないので、精々気を附けますってば(笑)。

では、心置きなく言い訳したところで、前回の続きから始めることにしよう。

●「好転反応」が問題なのか

さて、ホメオパシーと通常医療の間に存在する問題としては、まずこのことを押さえておくべきだと思うのだが、ホメオパシーサイドで通常医療と連携する意志が「もしも」あったとしても、「本当にそんなことが可能なのか」と謂う疑問が考えられるだろう。

つまり、ホメオパシーサイドの主張では、疾病が治癒するプロセスにおいて体内の毒素が排泄されることで一時的に症状が悪化すると謂う、所謂「好転反応」が起こると唱えられているのであるが、これはどれだけ症状が悪化してもそれを治療効果の表れと見做すことが出来ると解釈可能である。

であれば、常識的に考えて効果があるはずがないニセ医療にとってはまことに都合の好い概念と謂うことになるわけで、治療効果が上がらないことに説明が附くと謂うばかりではなく、「悪化」している疾病を「治癒しつつある」と見做すのであるから、ときには命を落とすおそれすらある大変危険な概念であると謂うことになる。

なので、まずこの「好転反応」について考えてみることにしよう。

前回のコメント欄に戴いた「我が有能な式神(笑)」のコメントによれば、ハーネマンの理論で述べられていた「ホメオパシー的悪化」は、長くても数時間程度と謂う極短時間に留まると謂うことなので、現在謂われているような「好転反応」とはまったく性質の違うものである。

調べてみると、この「好転反応」と謂うニセ医療一般で共有されている「方言」としか言い様のない素性の定かならぬタームは、漢方で謂うところの「瞑眩」が発想のヒントになっているようである。

この「瞑眩」は「めんげん」乃至「めんけん」と訓み、四書五経の「尚書」にも「薬瞑眩せずんばその病癒えず」とあるから元々漢方に存在する概念ではあるようだが、治療効果の目安として「瞑眩」を重視したのは、本邦における漢方医家の中でも江戸時代に興った原点回帰的な「古方」一派に限られるようで、本国はおろか日本の漢方一般でも漢方薬の効果を「瞑眩」を基準に判断することはないようである。

寧ろ漢方一般において「瞑眩」は極稀に起こる例外的な現象で、漢方薬の種類と患者の肉体の間の相互作用として非常に稀にそう謂う現象が起こる「こともある」と謂う程度の扱いなのが普通のようである。従って、漢方薬一般が治療効果を現す場合に必ずこれが起こると考えている漢方医はいない。

寧ろ「瞑眩」と一般的な症状の悪化を見分けるのは非常に困難であり、勢い重要な症状の変化を見落とす危険があるので、症状が悪化した場合は「瞑眩」であると否とにかかわらずなるべく抑えるに越したことはない、と謂う解釈が主流であるらしい。

つまり、或る特定の漢方薬を投与すると人によって劇的に治療効果が表れる前に一時的に症状が悪化する「場合もある」と謂うことで、どんな薬がどんな場合に「瞑眩」を起こすのか、そしてその症状が「瞑眩」であるか否かと謂うのは、経験豊かな漢方医にしか判断出来ないし、それでも必ずしも確実な判断が出来るとは限らない。であれば、薬効の発現は必ずしも「瞑眩」を必須の要件としていないのであるから、普通の症状の悪化と同列に見做して構わないと謂うことである。

この「瞑眩」と謂う漢方の概念からヒントを得て、いつの間にかインチキ医療やトンチキ健康法の間で市民権を得たと推測されるのが「好転反応」と謂う素性の識れないタームで、そのような事情を考慮すれば「好転反応」と謂うタームを無造作に使う療法や健康法はまずインチキと判断して好いだろう。

翻ってホメオパシーを考えるなら、そもそもハーネマンの理論では「ホメオパシー的悪化」と謂う記述はあるが、「好転反応」なんて言葉は出て来ない。前述の通り、それは「一時間又は数時間」と謂う極短時間の間一時的に表れるものとされており、これに別種の理屈を附け加え「好転反応」と謂うタームを採用することで異化したのは後代の研究家(と謂うか、おそらく寅子)である。

うさぎ林檎さんが書き込んでくださった「オルガノン」の抜粋から判断すると、治癒のプロセスにおいて「ホメオパシー的悪化」が起こるとするハーネマンの理論が採用しているメカニズムは、当然ニセ医療で一般に流布しているような「好転反応」と謂う概念とは全然違う。

ハーネマンにとって「病気」と謂うのは、人体内部の物質的次元における現象一般をホリスティックに統括している霊的なシステムであるバイタルフォースの攪乱なのであるから、当然「ホメオパシー的悪化」もまたバイタルフォースを根幹に据えた理論で説明されている。

つまり、ハーネマンの理論においては、ホメオパシーによって「病気」が劇的に回復するメカニズムは、

私たちは人為的に病気を生みだす効力のあるものをレメディーと呼ぶが、それが作用する持続期間は短い。このおかげでレメディーの作用は、自然の病気よりも強いにもかかわらず、自分より弱い自然の病気よりもはるかに容易に、バイタルフォースによって打ち負かされる。

…と謂うふうに説明されていて、レメディとはバイタルフォースに対して「病気」よりも強い作用力を持っていながら持続時間は遙かに短いものと規定されている。オレの理解では、この「強い作用力」と「短い持続時間」と謂う一見矛盾する機能性をもたらす操作が「希釈・振盪」であって、振盪することで物質のエネルギーを励起して「強い作用力」を獲得すると同時に、極度に希釈することで「短い持続時間」を担保する。

この想定に基づくなら、ホメオパシーにおいて「希釈・振盪」の度合いを示す「ポーテンシー」と謂う尺度が高ければ高いほど「強い」レメディとされているのは、常識的な観点で解釈すると奇異に聞こえるが、上記の理路に照らせば容易に理解可能だろう。

ポーテンシーが高くなればなるほど作用力は強くなり、持続時間は短くなるわけであるから、ホメオパシーの文脈では「強い」レメディなのである。そして、この説明に則るなら、レメディはほぼ即効的な治療効果を現す必要があり、分けても高ポーテンシーのレメディなら瞬間的に効かねば理屈に合わない。

しかし、ハーネマンのバイタルフォース理論でも、レメディがもたらす強い霊的な作用力が「病気」を打ち消すまでに或る種の葛藤の段階があることまでは否定しない。

ハーネマンは「オルガノン」において「二つの類似した病気は、同じ体に並存することも、二重の複雑化した病気を形成することもできない」と記述しているが、「一瞬たりとも」並存出来ないとは述べていないので、「一時間又は数時間」程度ならレメディが治療効果を完遂するプロセスにおいて見掛け上「病気」が強化されたような状態に陥ることは説明可能である。

ただし、この理路も結局のところホメオパシーがまったく治療効果を現さないと謂う事実を理論と整合させる為の方便と謂う性格があることはたしかで、ハーネマンは主唱者としてバイタルフォース理論との整合性に拘ったが、後代の研究者はそれを科学的事実と整合させる為に拡大解釈する道を模索したと謂う違いがあるだけだろう。

そして、どうやら現代のホメオパシーでは「好転反応」をホメオパシー的悪化とは別の機序に求めているようで、日本ホメオパシー医学協会の解説によるなら、「好転反応」には一定の規則性がなければならないとしている。

慢性化した症状の場合、レメディーにより症状を増幅させ、治癒に至るプロセスにはある一定の法則がある。大まかにいうと、
①上から下
②中から外
③心から体
④重要な臓器から重要でない臓器
⑤病気が重くなったときと逆の過程へ(完治していなかった過去の重い病気の症状が戻ってくる)、がある。
こうした症状の移行は自己治癒力が発動している証と考えられます。このように、治癒へ向けて症状が移行することを好転反応といいます。
たとえば首にアトピー性皮膚炎による潰瘍ができた場合、かぶれの作用を持つツタウルシから作られたレメディーを与え同種の法則で首の部分を治癒すると、今度は手や足が荒れてきます。治癒の方向性の法則に該当することから、自己治癒力が発動したということになり、やがて最後には潰瘍もきれいになります。こうした経緯があることを知らない人は、レメディーを摂って悪化したと思い込んでしまうことがあります。

このような規則性の根拠を、日本ホメオパシー医学協会では「バイタルフォースと謂う気の流れ」と、「人間を構成する三層の構造」に求める。

逆療法では症状を病気と捉え、これを薬や手術によって抑え込むが、ホメオパシーでは症状を病気と考えなません。すべての症状は、バイタルフォースという気の流れが滞ることによって引き起こされると考えます。
ホメオパシーでは心と体に加え、魂も含めた三要素が密接な関係にあると考えています。魂はこの世で果たす役割を担う、その人本来の姿(個性)であり、不変のもので、これを真我といい、心は自我といいます。構造的には、真我の周囲に自我があり、自我の周囲に肉体があります。
バイタルフォースは真我、自我、肉体のすべてに流れています。真我は変わらないから、バイタルフォースも常に一定方向に流れています。

最も変化しやすいのは自我です。自我は様々な要因からどうしても真我、つまり本来の生き方から離れてしまうことがあります。悲しい、苦しい出来事に遭遇してその都度乗り越えられればいいが、人生には様々な要因から感情を抑制しなければならないケースも多くあります。すると自我にこだわりが生まれ、バイタルフォースが滞り、結果、肉体の症状となって現れるのです。これは治癒の方向性と関連があり、後述しますが、自我と肉体の関係に限っていえば、肉体に現れる症状はすべて自我の歪みが原因であります。
つまり、症状は生き方を本来あるべき姿に戻そうとするバイタルフォースの働きの現われであり、病気ではないのです。症状の原因であるバイタルフォースが歪んだ状態こそ病気と考えます。そして、レメディーを摂ることは、本来のあるべき姿に戻ることにもつながっているのです。

いろいろな分野から美味しいところを摘み食いでまぜこぜにした説明で、最早ハーネマンの理論の俤はない。ないのであるが、このような精神分析とオカルトをまぜこぜにしたような奇怪な解釈を導き出す性格が、医療を物質的な次元ではなく霊的な次元に基盤を置いて考えるハーネマンの理論自体に潜在することもまた事実である。

そして、引用文中で「レメディによって症状を増幅させる」と謂う意味の表現が使われていることには注意が必要である。日本ホメオパシー医学協会が説明しているホメオパシーの作用機序とは、

こうして作られたレメディーそのものには、何の効力もありません。砂糖以外の物質は何もないのだから、物質作用的な力はないのです。ただ、パターンのようなものが残っているため、体内の症状に共鳴し、自己治癒力の活動を発動させるきっかけを与えることができるのです。

…とされていて、レメディの作用を明確に「症状の悪化」と定義している。つまり、レメディが「症状」を悪化させることによって「自己治癒力の活動を発動させる」ことで「病気」が治癒するのだと説明しているのである。

これは非常に奇妙な説明に聞こえる。

少なくともこれは、これまで視てきたハーネマンの理論とはまったく異なる機序を語るものであり、ハーネマンはレメディの機能を、攪乱されて「病気」の状態にあるバイタルフォースに、「病気」と同種の「症状」をもたらす物質をぶつけることで「病気」を消滅させるものと考えたのであるが、この説明によれば単純に「症状を重くする」働きを持つと謂うことになる。

ホメオパシーによって「病気」が治癒するメカニズムにしてからが、ハーネマンの大本の理論とは本質的に異なる「症状の抑圧」と謂う機序で説明していて、「病気」をバイタルフォースの歪みと定義しているのはハーネマンと同様だが、「症状」と謂うのはバイタルフォースがその歪みを元に戻そうとする働きであり、「症状」を抑圧することで「病気」は慢性化し深刻化すると説明している。

レメディを投与することで「症状」を悪化させれば、「生き方を本来あるべき姿に戻そうとするバイタルフォースの働きの現われ」である「症状」を出し切ることになって、その結果バイタルフォースが整復されて「病気」が治癒する、そのような理論である。

つまり、少なくとも日本ホメオパシー医学協会の主張するホメオパシー理論に則るのであれば、ホメオパシーを施術することで「症状が悪化」するのは当たり前のことなのである。由井寅子式に謂えば「症状はありがたい」のであって、「生き方を本来あるべき姿に戻そうとするバイタルフォースの働き」を手助けすることがホメオパシーだと謂うことになる。

つまり、ホメオパシー…と謂うかトラコパシーにおいては、「好転反応」は治癒するプロセスで「一時的に症状が悪化」することではない。「症状が悪化」することは最初から織り込まれた治療原理なのであって、それが一定の規則性に則って転移することこそがこの文脈における「好転反応」なのである。

たとえば由井寅子は「好転反応であるか症状の悪化であるかは、経験を積んだホメオパスならわかる」と主張している。

これまで考えてきたことから謂えば、常識的に考えて「好転反応」と「症状の悪化」に実体的な違いはないし、由井寅子的文脈でも「好転反応」が「症状の悪化」であることを否定しない。由井寅子が主張しているのは、「一定の規則性に則った症状の悪化こそが好転反応である」と謂うことであるが、実体的には「症状の悪化」が前述のような規則性に則って現れることに科学的な意味はない。

そもそも由井寅子の理論に基づくなら、ホメオパシーを施術することで「症状」が悪化しても、「好転反応」と謂う概念を持ち出す必要すらない。それは、ホメオパシーにおいても一般的な考え方においても「当たり前に起こるべきことが起こっただけのこと」であるのは同じことで、単にホメオパシーではそれを「レメディが効いている証拠である」と意味附けていると謂うだけの違いである。

結論を言えば、日本ホメオパシー医学協会の理論においては、少なくともターム論的な観点で「好転反応」に重要な意味はない。その治療原理そのものが、一般的に謂う「好転反応」の概念をコアユニットにしたものなのであり、この理論における「好転反応」と謂うタームは「症状の転移の規則性」を指すのであるから、世間と同協会の間では語義の解釈がズレているのである。

●「治る」とはどう謂うことか

これは、前回指摘した「雨乞いの原理」との近似で謂えば、ハーネマンの理論よりさらに徹底していると謂えるだろう。ハーネマンの理論においては、曲がりなりにも医学理論の体裁を採っているのであるから、「このように施術すれば施術しない場合とは明確に異なるこのような反応が現れる」と謂う予言を行う必要がある。

それは客観的な観測事実との間に矛盾を生じる隙があると謂うことだが、曲がりなりにも科学的な理論であることを標榜するのであれば、観測事実によって補強されたり否定されたりするような余地がなければ意味がない。そのような「隙」がない理論と謂うのは、最初から証明も反証も出来ないのであるから、科学的理論の体を成していない。

しかし、由井寅子の理論に則るなら、普通に起こるべきことに理屈を附けただけで何ら通常と異なる現象を期待すべき理由がない。従って、上記の文脈における「隙」がないのであるから、謂わばこれは鉄壁の「雨乞い」である。

この間の事情を一旦整理して考えてみよう。

ハーネマンの理論においては、バイタルフォースの攪乱が「病気」であって、バイタルフォースが物質的な次元に影響を及ぼして「病気」の存在を識らせるのが「症状」であると定義されている。一方、由井寅子式のホメオパシーでは、「病気」の定義はほぼ同一であるが、「症状」とはバイタルフォースが自ら正常化する為の働きであるから抑制してはいけないものであると定義されている。

この「ありがたい」「症状」を無理に抑制すると、どんな「恐ろしいこと」が起こるのかと謂うと…

では、症状を出し切ることなく、抑圧したらどうなるのか。症状の抑圧は、本来自己治癒力により治るものを治さないばかりか、出るべくして出ようとした症状は行き場を失い、奥へと入り込み、バイタルフォースの滞りを一層深刻なものとしてしまうのです。すると、無感情、無感動、分裂傾向といった状態へと向かいます。そうして慢性化してしまった症状は、放っておいても治癒されることはありません。

そこで、レメディーによる症状の増幅による自己治癒力の喚起を促さねばなりません。ただし、慢性化した症状を根本から完全に治癒するには、まず抑制した要因から取り除く必要があります。
ホメオパシーでは、人間には五段の階層があると考ています。まず「根本体質層」があり、次に生きていく中で形成される「基本層」が上に来ます。この上に「病気層」が来て、「薬害層」がその上に来る。従って症状の抑制によって層が積み重なってしまった状態から、根本体質層まで治癒に導こうとしたら、薬害、病気、基本の各層を、上層から順を追って治癒しなければならず、薬害層を飛び越して病気層に働きかけることはできないのです。

こうなると完全な治癒には膨大な時間と労力を費やすことになります。だから症状の抑制は恐ろしいのです。そしてもうひとつ、根本体質層の下に位置する最下層に、人間が誰しも生まれ持っている病気の土壌「マヤズム」があります。

つまり、「症状」を緩和し物質的な次元に「病気」の原因を求め物質的な操作で治療すると謂う「アロパシー」の考え方は、「病気」を慢性化・深刻化させる有害な技術であり、通常医療で「病気」は治せないと批判する理論的根拠がここにある。

前回視てきたような歴史的な経緯に基づく相互排除性はこのようにして理論化されたわけで、さらに謂えば、この考え方では「症状」の消滅こそ「病気」の消滅の表出であると謂うハーネマンの考え方とは異なり「症状」が持続することを当然視する。

つまり、ハーネマンですら「病気」の問題性の本質は患者の苦患であり治療の目的とはその解消であると認識していたと考えられるのに、由井寅子は「生き方を本来あるべき姿に戻すこと」こそが「病気」の「治療」であり、バイタルフォースの目的だと定義しているのであるから、患者の「症状」がどれだけ悪化するかとかどれほどの苦痛を覚えるかと謂う観点において「治療」と謂う概念を考えているわけではない。

だとすれば、そもそも由井寅子の思想においては「病気」も「症状」も「健康」も一般に通用しているような意味合いとは根本的に異なるのであり、「本来あるべき生き方」と謂う、一般的に医療が扱うべき領域とは見做されていない価値的な部分に最終的な目的性を視ていると謂うことになる。

これは霊的な次元に基盤を置いて記述された理論であるから、一見して精神的な領域の問題性を扱っているように見えるが、逆に謂えば「本来あるべき姿」と謂う価値観の尺度において個々人が自由に考えるべき事柄を、常識的に考えるなら物質的次元に属する現象であるはずの「病気」を基準にして決定論的に考えていると謂うことで、その意味で「お水様に道徳を教わる」某エセ宗教と近似している。

であるから、もしもホメオパシーのクライアントがこのような由井寅子の思想を真に理解し共鳴しているのであれば、普通の意味における「症状」の解消や苦痛からの解放、延命などを目的として「治療」を考えているのではないと謂うことになる。

この文脈において「病気」を「治療」すると謂うことは、勿論最終的には「症状」が消滅することを目指すのではあるが、それはホメオパシーの施術によって「本来あるべき生き方」を回復した先にある最終的な到達点と規定されている。

であるから、その「治療」の過程で生じる「症状」は、バイタルフォースが「本来あるべき生き方」を回復する為の「ありがたい」働きであり、寧ろホメオパシーの施術はその「症状」を積極的に「悪化」させることでその働きを助けるものであるから、「本来あるべき生き方」の回復が得られるまでは、どんなに「症状」が辛く苦しくても甘んじて耐えるべきであるとされている。

昔ビートたけしが、当時流行し始めた健康ブームを揶揄して「健康の為なら死んでもいいような連中」と毒づいていたが、由井寅子式のホメオパシーにはそのような悪い冗談に酷似した「非常識な」性格がある。

この理論においては、「病気」と謂うのは痛いことや苦しいことではなく、魂の「本来あるべき姿」が心の歪みによって歪められていること自体であって、「症状」と謂うのは魂がそれを元通りに戻そうとする働きなのであるから、痛いことや苦しいことは我慢して「症状の悪化」に努めなさい、その結果「本来あるべき生き方」に戻ることが出来たら、そのとき初めて痛いことも苦しいこともなくなりますよ、と謂うことを主張しているのである。

なるほど、ホメオパシー信奉者とは話が通じないわけである。

われわれホメオパシー外部の人間は、どうしても「病気」や「症状」「治療」と謂う概念を常識的な文脈でイメージするが、ホメオパスや信奉者はまったく異なる概念でそれを捉えているのであり、謂ってみればそれは、霊的な機序や価値的概念を織り込んでいて、さらに客観的な肉体の状態ではなく魂の在り方を治癒の上位基準に据えているのであるから、言葉通りの意味で「宗教」と表現して差し支えない。

この理論では常識的な意味において疾病が治癒するなんて保証していないのだから、もしもホメオパシーを受診して一向に症状が改善しなくても、それどころか死んでしまったとしても、それは別段ホメオパシー自体の瑕疵ではないのである。

ホメオパシーが保証しているのは、レメディによって「症状を悪化」させることでバイタルフォースが「本来あるべき生き方」に戻る手助けをしますよ、と謂うことであるから、普通の意味で疾病が治癒しなくても死んでしまっても、それは徹頭徹尾クライアントの「自己責任」なのである。

ああ、やっと意味がわかって喉の閊えが取れたよ(笑)。

喉の閊えが降りたので前より一層大きな声で断言出来るようになったが、由井寅子式のホメオパシーがそのようなものであれば、それは当然通常医療と相互排除的関係にあるのが当たり前だし、「症状の悪化」もその連続上の死亡事例もハナから理論に織り込み済みなのであるから、日本のホメオパシーは反社会的で強烈な有害性を持っている。

現に「あかつき問題」においては、劇しい苦痛に苛まれ死にかけている患者の愁訴を聞いても、療術師は「凄い好転反応」だと考えていたと謂うではないか。今は一旦掲載が取り下げられて閲覧出来ない「憂慮する会」の資料を読まれた方はご存じだろうが、素人でも一見してそれが断末魔の苦悶であることが明白に諒解可能なレベルのものであったにもかかわらず、である。

これが「好転反応」であろうがなかろうが実は関係なかったのであって、レメディの投与で「症状が悪化」するのは、少なくとも日本で主流的な団体の認定ホメオパスであれば最初から当然視しているのであるから、それは「体力との兼ね合い」と謂うだけの問題になるわけである。

そして、この死亡した女性がこのようなホメオパシーの性格を正しく理解していたとするなら、痛いのも苦しいのも当たり前で、その結果死んでしまうかもしれないけれど、バイタルフォースを「本来あるべき生き方」に戻さない限りこの「病気」が完全に治ることはないと考えていたことになる。

で、それを選択するか否かはこの女性の「自己責任」と謂うロジックになるのであるから、施術者がまったく責任を感じていないのは一種当然と謂うことになる。まあ、取り下げられた資料の原文を読まれた方なら、実際に起こったことはとてもそんな事態ではなかったと謂う印象を持っておられるだろうが、おそらくホメオパス自身の認識はそんなところなのだろう。

そして、重要なことは、このようなホメオパシーの性格からして、クライアントがどんな状態になっても、ホメオパスが通常医療の受診を勧める「はずがない」と謂うことである。繰り返しになるが、「症状の悪化」を当然視して予め織り込んでいる思想に基づくならば、自分の手に負えない重症例と認識して患者を通常医療に委ねるべき場合の条件を客観的に明確に規定出来ない。

そして、ホメオパシーに基づくなら「アロパシー」の通常医療は「症状を抑制する」有害な医療技術なのであるから、一見して重症だからと謂って通常医療に委ねるべき理論的根拠が存在しない。レメディをコントロールしてクライアントの体力に合わせながら対処するのが最も安全な施術と謂うことになるのであるから、それこそ「病院に行くとショック死する」と考えるホメオパスも多いだろう。

つまり、「あかつき問題」の療術師がそう言ったのは、この療術師個人の発案に基づく脅し文句ではなくて、日本ホメオパシー医学協会式のホメオパシー…長くて面倒なので今後「トラコパシー」と呼ぶが(笑)、トラコパシーの理論に織り込まれた当然の危惧であって、この療術師がそう判断して患者を通常医療に委ねなかったからと謂って同協会がそれを批判出来た筋合いではないと謂うことになる。

これまで視てきたトラコパシーの理論構造においては、通常医療に基づく疾病治療の有害性をこれでもかとばかりに強調している。表向きに掲げている解説ですら読み取れるような強烈な対立姿勢を理論に組み込んでいるのであるから、実際のホメオパス教育においてどれだけ激しい通常医療攻撃が行われているかしれたものではない。

当該の療術師がホメオパスとして具体的にどのような教育を受けたかはわからないのであるから軽々には言えないことだが、個人的な感触としては、この療術師が「ホメオパシー施術中のクライアントが病院に行くとショック死する」と本気で信じていた可能性は高いと考える。

こんなに「症状が悪化」しているのに「症状」を通常医療で「抑制」したら「病気」が深刻化するかもしれない、死んでしまうかもしれない…少なくとも前述のような理論に基づくなら、そのように考える根拠はあるわけである。そして、ホメオパシーの治療が及ばず死んでしまうのは仕方のないことで、アロパシーの「有害な」技術に委ねるよりもまだしもマシである、このように考えるホメオパスもいるだろう。

つまり、命に関わるような重篤な疾病でホメオパシーの治療を受けた者は、自分から怖じ気づいて病院に駆け込むのでもない限り、ホメオパスのほうで「自分の手に負えないから病院に行け」と勧める保証はないから大変危険だと謂うことである。

まあ、多分大多数のホメオパスは本気でそう考えているんだろうし、本気でそれが最善の選択肢だと信じているんだろうともさ。

ただ、それは結局世間から視た場合、某宗団の信徒がシャクティパットで病気を治そうと試みてそのまま死亡した遺体を「生きている」と信じてミイラ化するまで放置した上に「死んだのは司法解剖したからだ」と主張した事件と、本質において変わりがない

宗教的盲信は、幼稚園レベルの常識にさえ蓋をして誰の目にも屍体と映るものを生者と誤認させる、それが奇怪なことだと謂うのであれば、誰の目にも死にかけている人を治りかけていると誤認することだって負けず劣らず奇怪であるし、普通の知能を具えた一個の職業者をそんな奇怪な事実誤認に駆り立て得るものなど、宗教的狂信があるのみだと解釈しても間違いはないはずである。

こんな狂信に基づく「医療行為」が、通常医療と適切な連携を取れるはずがない。

●治してはいけない

また、「あかつき問題」では療術師が「診療が出来ないので患者の体の中で起きていることがわからない」と謂う意味の釈明を述べているのだが、考えてみればこれは大変重要なことである。一旦引っ込められた資料からの引用なので、これを再掲するのはあまり適切ではないのかもしれないが、以前のエントリから一部引用すると、

「私は医師ではないので医学的所見は述べられない。検査をできるわけではないので、体の中で起きていることはわからない。私はただ、患者さんの望んだテルミーとホメオパシーの治療をしてさしあげるものなのだ」

…と謂うようなことを述べている。では、「医学的所見は述べられない」「体の中で起きていることはわからない」と謂うのであれば、全体、ホメオパスは如何なる根拠に基づいて患者の疾病を特定し適切な治療が可能なのだろうか。

勿論ホメオパシーにも診療技術はあるが、それは通常医療のそれと対比してひどく奇妙なものである。ウィキから引用すると、

ホメオパスは人が健康なら体も健康という基本的な考えの元に働きかけ、心理的、感情的、精神的な状態に適合したレメディーを処方する。このため、ホメオパスとのセッション(面会)では、十分な時間(2時間程度の事が多い)をかけ、患者の心理的、精神的な状態や、成長の過程、とくに過去の大きな問題についてのインタビューが持たれる。そうして基本的な人のタイプを見て、現在の問題を判断しレメディーが処方される。

つまり、ホメオパシーの診療においては、恰も精神分析のような患者の人格の特性やこれまでの来し方(思い切り遡ってカルマとかな(笑))を理解する為の対話が重視されるわけで、これに加えて患者自身が訴える愁訴や既往歴などがホメオパスの受け取る情報のすべてである。

だとすれば、「体の中で何が起きているか」と謂う部分について一切情報がないことになり、レメディ投与後の「症状の悪化」が当然視されているのであるから、「体の中で何が起きているか」を理解することは不可能である。これはこれで常識的に考えて重大な問題なのであるが、極控えめに言ってもこの手法では患者の自覚症状と愁訴がない限り疾病の存在を認識することが出来ない

であれば、自覚症状が出た時点ではすでに手遅れと謂う種類の疾病に対しては徹底して無力だと謂うことになる。普通に考えて、ホメオパシーの確信的な信奉者が「何だかわからない有害な電磁波」を大量に浴びる癌検診を定期的に受けているとは期待出来ないので、常識的に推測するなら、ホメオパシーの信奉者は進行性の致死的疾病の早期治療を受けられるはずがないと謂うことになる。まさしく「ホメオパシーが適切な治療機会を失わせる」と謂う問題性の核心事例がそこにあるわけである。

もっと謂えば、ホメオパシーにおいて癌は五大マヤズムの一つとされている慢性病であるが、トラコパシーにおいてマヤズムの定義は個々人が祖先から受け継いでいる体質のようなもので、マヤズム自体は治療出来ないことになっている。

バイタルフォースの滞りによる症状は種々様々だが、人には特定の型があり、その型によってどのような症状が出やすいかが分かるといったら驚かれるだろうか。
ホメオパシーでは、すべての人間には症状の原因となる病気の土壌であり、根本体質層を形作っている「マヤズム」があると考えます。これは人類の祖先から受け継がれている遺伝体質のようなものです。
マヤズムには疥癬、淋病、梅毒、結核、がんの五種類があるとされ、ひとりの人間が複数のマヤズムを持っているケースもあります。マヤズムは普段は活動せずに眠っているが、ストレスや病原菌や心理的なこだわりなどがきっかけとなって呼び覚まされてしまうことがあります。真我が不変であるのと同じように、マヤズムも治癒することはできない。悪さをしないように、寝かしつけるだけだ。いわば真我の裏の顔なのです。
このマヤズムは様々な体質的な症状もそうだが、行動についてもそれぞれ一定のパターンがあるという。

上記引用で「根本体質層」と呼ばれているものは、トラコパシーで謂う「人間の五段の階層」のうちで最も核心にあるものとされている。前掲の引用を再度引くと、

ホメオパシーでは、人間には五段の階層があると考ています。まず「根本体質層」があり、次に生きていく中で形成される「基本層」が上に来ます。この上に「病気層」が来て、「薬害層」がその上に来る。従って症状の抑制によって層が積み重なってしまった状態から、根本体質層まで治癒に導こうとしたら、薬害、病気、基本の各層を、上層から順を追って治癒しなければならず、薬害層を飛び越して病気層に働きかけることはできないのです。

こうなると完全な治癒には膨大な時間と労力を費やすことになります。だから症状の抑制は恐ろしいのです。そしてもうひとつ、根本体質層の下に位置する最下層に、人間が誰しも生まれ持っている病気の土壌「マヤズム」があります。

この説明だとマヤズムは「根本体質層」のさらに下に位置するものと謂うふうに記述されているが、まあそんな細かい矛盾には拘るだけ野暮である。

重要なことは、「マヤズムは真我の裏の顔」であり、癌に罹ると謂うことはマヤズムが「悪さをしている」と謂うことなのであるが、通常医療の癌治療はそのような事実を無視して癌と謂う「症状」を抑制することで癌を深刻化させる有害な技術であるとしているところである。

ならば、マヤズムを「寝かしつけ」癌の「症状を出し切る」ことで癌と謂う「病気」を「治療」出来るのはホメオパシー「だけ」だと謂うことになる。

簡単に言えば「癌と謂う『病気』を『治せる』のはホメオパシーだけで、通常医療はそれを深刻化させるばかりである」と言っているのである。しつこいようだが、この場合の「病気」も「治療」もトラコパシー独特の意味附けにおけるものであるから、常識的な文脈で判断してはいけない。

癌に罹りやすいのは個々人の根源的な体質なのだから、癌と謂う「症状」が出たからと謂って、それを通常医療によって抑制することは、バイタルフォースの「本来あるべき姿」のさらなる歪みをもたらし、その結果として「病気」が深刻化するだけである、そう謂う意味になる。

とりあえずこの段階で注意を喚起しておくべきことは、トラコパシーにおいては癌を含めて「病気」を「治せる」のはトラコパシーだけで、通常医療は「病気」を深刻化させているだけだと主張していると謂うことである。癌を治せるのは自分たちだけだと考えている医療思想の持ち主が、末期癌だからと謂って患者を通常医療の手に委ねるかどうかと謂うのは、考えるだけ馬鹿馬鹿しい話である。

常識的な感覚では、この文脈における「病気」が深刻化したからと謂って、だからどうだと謂う考え方もあるだろうが、バイタルフォースが「本来あるべき姿」から歪められてしまうと、さらにまたそれを正常化しようとして「症状」が現れ、その結果として新たなそしてもっと劇しい苦痛に晒されなければならず、終わりのない無間地獄のような苦痛を味わうことになる…そう謂う理論になっている。

うん、たしかに恐ろしい。ただ、恐ろしいのはトラコパシー的文脈における「病気」ではなく、そのような理論そのものである。

この理論が恐ろしいのは、ホメオパシーに実体的な意味で何ら治療効果がないことを正当化すると同時に「症状」のもたらす苦痛を必然として位置附け、実体的な意味で明瞭な実効を持つ通常医療を受診して普通一般の意味合いで疾病を治療するなら、後でその疾病が何倍にもなって重症化し、果てしなく続くと脅していると謂うところである。

つまり、この理論に基づくなら、普通一般の意味合いにおける疾病の治療は、根本的な「病気」の「治療」を阻害するものであって、バイタルフォースが「本来あるべき姿」に戻ろうとする「ありがたい」働きである「症状」の辛さを凌ぐ為の一時的な方便以上の意味はないと意味附けているのである。

トラコパシーの信奉者にとっては、通常医療による疾病の治療が「症状」からの一時的逃避や「病気」の「治療」の挫折を意味するものでしかないのであれば、確信的な信奉者であればあるほど「頑張って『病気』を『治そう』と努力する」のは当然で、どんなに辛くてもそれが「病気」を「治療」する為に必要な苦痛なのだと考える。

だとすれば、トラコパシーの理論構造と謂うのは、地獄で脅して辛い修行に自発的に努めさせ、金銭的な喜捨を行わせるような悪質な新宗教と何処も変わらないと謂うことになる。以前どらねこさんのところのコメント欄でトラコパシーと新宗教の類似を指摘させて戴いたことがあるのだが、その類似は表面的なものには留まらない。

トラコパシーには有害な新宗教としての要件が余すところなくすべて具わっている。

悪質である。

こと日本のトラコパシーに限って言えば、ただの砂糖玉だから物質的な意味で無害であるとか、プラセボ効果で心理的な慰藉があるとか、そんなことに頓着すべきではない。人は物質的な毒だけで死ぬのではない。人と人との間で起こる事柄で人が死ぬのは、主に有害な悪意の故である。

トラコパシーには、通常医療を「諸悪の根源」として理論化することで信奉者から実効的な疾病の治療手段を奪い、どれだけ疾病が悪化してもそれを必然視させることで何の意味もない「雨乞いの身振り」に依存するように仕向け、如何なる疾病であれそれを実体的な意味で放置し耐えることが正しいと理論附けることで、疾病に対処する人間の智恵を呪医の時代以前のレベルにまで退行せしめるものである。

これまでの考察の帰結として、そのように結論附ける以外にない。

われわれの…まあ少なくともオレ個人の価値観に照らして、こんな有害な施療で一円たりとも報酬を受け取ることは、重大な犯罪行為である。ましてや、全世界で主流的なクラシカルのホメオパシー理論にさえ背を向けてこのような奇怪で恣意的な独自の理論を主唱し、それがビジネスとして成立しているのだとすれば、それは単に悪質な新宗教と選ぶところがない社会悪である。

これだけ長々と書き連ねてきて、結局うさぎ林檎さんが常日頃仰っていることを跡付けただけのような気もするが(笑)、少なくとも国内における「認定ホメオパス」が通常医療と適切な連携を取ることは、原理的に不可能である。

彼らが学んだ「奇妙な」ホメオパシーの理論の根幹に強烈な通常医療攻撃が組み込まれている以上、ホメオパスにとって通常医療は「病気」を深刻化させるだけの有害な技術なのであり、おそらくその養成教育の実態において、たとえば「あかつき問題」の療術師が「施術中のクライアントが病院に行くとショック死する」と「誤解」してしまうような「紛らわしい」説明が為されている確率は高いだろう。

また、その理論の性格上、ホメオパシーを信奉するクライアントの心理として「可能な限り『症状』を抑圧せずに頑張って『病気』を『治療』しよう」と努めてしまう傾向を持つわけで、このようなホメオパスとクライアント双方の心理的な傾向の総合として、通常医療の観点でどれだけ疾病が重篤化しても「病院に行く」と謂う選択肢は到底選び得ないものとなる。

由井寅子会長が如何に表向き通常医療との好ましい連携を推奨していたとしても、その論調は「『病気』の『治療』が辛かったら、一時的に通常医療で『症状』を抑えて一休みしても好い」と謂うものでしかないのであるから、ホメオパスの心理としては「それではクライアントの『病気』が深刻化してしまう」と危惧するだろうし、信奉者の心理として「でも自分は頑張って『治療』したい」と考えるだろう。

トラコパシーの理論がこのようなものである限り、「通常医療との適切な連携」など虚しいお題目でしかない。

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コメント

サブタイトルの元ネタは勿論「地獄の黙示録」だが、もしかしたらツイッターとかはてブのリンクで、タイトルだけ見て間違ってホメオパシーに興味のある人が読まないかと謂う変な助平心もないではない(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月18日 (土曜日) 午後 08時15分

お陰さまで僕もだいぶホメオパシーについて理解が深まってきました(爆)。

たしかに、トラコパシーは徹頭徹尾宗教行為であって医療行為ではないですね。苦行によって悟りを開くっておまいらは修験道の行者か・・・。

現代医療による症状を抑えて苦痛を取り除き、延命する「治療行為」のどこが悪いんでしょうか?トラコパシー的考え方を適用したとしても、本来の自分を取り戻せなかろうが、苦痛を取り除いてQOLを高めた上で平均寿命まで生き延びられれば、そういうやり方になんの問題もないように思えますが・・・。少なくとも本人にしてみればそれが一番幸せな人生なんじゃないか。
10年ほど前にリンパ腫で父が亡くなった時、ホンマ後10年普通に暮らせて生きてくれたら、癌と付き合いながらでもええから、と真剣に思いましたから。結局2年持たなかったんですが、もし、トラコパシーなんかに引っかかってたら苦痛にもがき苦しんでしかも1年持たなかったかもしれません・・・。

結局、トラコパシーって自分の存在意義を保つために無理に無理を重ねてどっか違う方へ行っちゃって、もはや戻るに戻れない袋小路にはまってるんでしょうね。由井寅子氏自身が一番苦悩していて、「本来の自分」から離れた存在になっていたりして・・・(爆)

投稿: がん | 2010年12月18日 (土曜日) 午後 08時20分

>がんさん

>>現代医療による症状を抑えて苦痛を取り除き、延命する「治療行為」のどこが悪いんでしょうか?トラコパシー的考え方を適用したとしても、本来の自分を取り戻せなかろうが、苦痛を取り除いてQOLを高めた上で平均寿命まで生き延びられれば、そういうやり方になんの問題もないように思えますが・・・。少なくとも本人にしてみればそれが一番幸せな人生なんじゃないか。

人間てのは、生きていれば必ず何かしら病気になりますよね。その場合、普通なら本人が悪いから病気になったなんて話にはなるはずがないんですが、由井寅子式のホメオパシーの理論では、それは心の歪みが魂の本来あるべき姿まで歪めているからだと謂うことになるわけで、早い話が「おまえの生き方が間違っているから病気になるんだ」と謂う理屈ですね。

勿論トラコパシーの理論は科学的な根拠もなければ何の妥当性もない思い附きの空想に過ぎませんが、ただの思い附きの空想のくせに「病気になるのはおまえが間違っているからだ」とか決め附けて、「その間違いを正さない限り絶対病気は治らない」と脅すわけです。で、勿体振ってただの砂糖玉を与えて、「苦しいのも辛いのも我慢して症状を出し切らないと病気は治らない」と強弁するんですね。

それは結局、ホメオパシーに医療行為として何の実効もないことを正当化する為だけの理屈であって、その為だけに病人の苦しみを正当化するような理屈を考えて、その結果相手が死んでも「自己責任」と謂う理屈なんですね。

一種、商売の観点から視れば、ホメオパシーは新宗教みたいに身ぐるみ剥いでケツのケバまで抜くような阿漕な商売をしているわけではありませんが、万人が不安を感じている健康を楯にとって、他人様の生き方にまで口出しをして、その挙げ句に病人がマトモな医療サービスを受ける権利まで侵害しているわけですから、許し難い社会悪だと言えるでしょう。

>>結局、トラコパシーって自分の存在意義を保つために無理に無理を重ねてどっか違う方へ行っちゃって、もはや戻るに戻れない袋小路にはまってるんでしょうね。

まあ、あんな女の心情を忖度してやる義理なんかないですが、多分自分が注目されないと気が済まないタチの人物なんでしょう。インナーチャイルドとか真顔で言い出す人物を見ると、そんなこと言っていて恥ずかしくないのかとか思いますね。現在の自分の欠落を安直に幼時のトラウマのせいにする人物は要注意です。

由井寅子にとって、ホメオパシーの第一人者としての自分は、商売のタネと謂う以上に大勢の人々から注目と尊敬を受ける為の大事な鉱脈ですから、彼女自身が自分の理論の一番の信奉者なんでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月18日 (土曜日) 午後 08時55分

こんばんは。

働き者の式神、うさぎ林檎でございます。
#のりつっこみを楽しみにしている方がごく少数いるようですので頑張りました(イラナイイラナイ)。

『慢性病論』読み終わりました…ざっくり言えばかなり予想と違う内容でしたね。
結論…(性病以外の)慢性病の原因は全てソーラ(疥癬)です、以上お終い。
ではあんまりなので内容を紹介します。

まず、2段組み250頁弱のうち、スフィリス(梅毒)13頁、サイコーシス(淋病)4頁な上に、ソーラが潜んでいるとどっちも治療不可らしいので飛ばします。

まず、何故ソーラか?
「ソーラは、慢性病の中でも最も感染力のある、最も広まったもの」で、「今までずっと私は、そのような(性病以外の)慢性病の患者を調査し観察しながら、はじめからすでに次のことに気づいていた。すなわち、これまでプルービングされたレメディーを使い、ホメオパシーの方法に沿って治療してきたさまざまな症例において、治療の妨げになった要因は、ほとんどの場合、以前に発症したことのある疥癬の発疹以外に全くあり得ないように思われた。」からです。そして、
「疥癬に以前かかったことを打ち明けられたとしても、それからずっと患っていた無数のあらゆる慢性病は(まだ治療されていないなら)、バイタルフォースによって根絶することはできず、いつになってもソーラの病気と同じ経過をたどって進行し、よりいっそう悪化してしまう。ではソーラ説を疑う人たちは、私に向かって次のようなことを証明できたであろうか。つまり、少なくとも私の説とほとんど同じくらいの確からしさで、別の原因を提示できたのか。」
鼻息荒く、対案の提示を求めてます。

次に、慢性病とは何か?
「一言で言えばこれらは、人類が長期にわたって患っている病気」
具体的には、
「たとえば、腫瘍の病気、さまざまな部位の頑固な痛み、心気症のまたはヒステリー性の症状、痛風、肺結核、肺の化膿、恒常性または痙攣性の喘息、失明、難聴、麻痺、骨疽(カリエス)、潰瘍(癌腫)、痙攣、出血、精神および感情の病気、などである。」
なので、やはり(性病以外)全部のようです。

そして、慢性病はどう進行するのか?
第一段階:感染
 マヤズムは瞬時に感染し、それは必ず外部からである。
第二段階:潜伏期間
 感染したマヤズムが体内の全体に広がり、「内的な病気」が完成する。
第三段階:一次性症状の発現
 体表に「局所的な症状」がでる。ソーラであれば「疥癬の発疹」。
第四段階:症状の抑圧
 「一次性症状」をアロパシー的治療などによって意図的に除去する
 (自然に消える場合も含む)。このとき一見治ったように見えるマヤズム
 は体内深く潜伏し、依然として衰えていない。
第五段階:二次性症状の発現
 無数の慢性病が発症する。

それでは、ホメオパシーで慢性病は治療できるのか?
「性病以外の慢性的な症例を治療しようとする努力が何千回も失敗している」らしいのですが、
「数少ない性病は例外であるとしても、すべての慢性的な障害、すなわち、重症ならどんなものでも、またどれほどひどく重症のものであっても、すべての慢性病はことごとくもっぱらソーラに由来し、ソーラを徹底的に治療することによってのみ治療される。したがってたいていソーラに対するレメディーだけで治療することができる。」
でも、
「ただし、そのような治療ができるのも、もっぱら患者が、アロパシーの間違った処置によって重篤な医原性の病気を背負わされず、破壊もされず、さらにバイタルフォースがあまりに低下させられていない場合、あるいは外的な環境がきわめて好ましくないことから治療が不可能になっていない場合に限られる。」
そうです。"アロパシーの間違った処置"は、一番最初(感染)の小水疱を軟膏で治療してもダメらしいので、ほとんどの場合は絶望的でしょうね。

このことからどうして現代のホメオパシーが、何故"予防注射"をターゲットにするかの事情が透けてくる気がします。
現代の先進国で"ほとんどの人が"疥癬を患う経験は、ほぼ無さそうです。全ての病気原因にするのは難しいでしょう。

ところで、この本の巻末に翻訳者の「解説-誤読の受容史」があるのですが、興味深いことにこれが実に的確に本文をまとめているのです。

「テキストに関しては、『オルガノン』と異なり、信頼のできる校訂本はまだ出されていない。」
のでこの訳出はクラッセン、ヴィシュナー版を元にしているそうです。

「『慢性病論』は、マヤズムについての探求書ではなく、慢性病を治療する実践的な目的から、病気が段階を踏んで進行する経過について詳しく書かれたもの」
「マヤズムについての理解は、この書なしにあり得ないともいえるだろう」って、冒頭に書いてる監修者がいるんですけどね。

「専門家でなくても、『慢性病論』第一巻の疥癬、梅毒、淋病に関する記述に対して多くの問題点を見出すことができるだろう。」
「さて、ここでは最初に、マヤズムと「体質」(Konstitution)を結びつけた理解の仕方を紹介する。このような理解はハーネマンには見られず、後の時代に始まったことが指摘される。
(中略)
現代ホメオパシーでは、「体質」と「マヤズム」は同じ意味で使われることがほとんどである。
(中略)
ハーネマンに両概念の同一視は見られない。もし同一視する見方をハーネマンに帰している人がいるとすれば、『オルガノン』や『慢性病論』を読んだことが無いからであるとしか言えまい。」
ホメオパシー出版の人は校正したんでしょうかね?ノーチェック?

「ハーネマンの述べたマヤズムを、病気にかかりやすい遺伝的な傾向性としたり、あるいは特定の体質的な状態を結び付けたりすることは、明らかに不可能であると認めなければならない。」
……(もうダメ)ぶわははははははははははははははははははははは。

最後のところでは、由井氏を持ち上げてるんですけどね。

あ、忘れてた。プラクティカルが何故評価の分かれている『慢性病論』を持ち上げようとするかというと、"複数の数、複数の種類"のレメディー投与を認めている表現があるからなんです。
でも結局後の方では否定しているし、ノゾースの利用も認めていません。
例によってそこはスルー。

何かまだ書くのを忘れていることもある気がしますが、えぇとオシマイ。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年12月18日 (土曜日) 午後 10時33分

>うさぎ林檎さん

情報投下を手ぐすね引いてお待ちしておりました、ふっふっふ(笑)。

>>働き者の式神、うさぎ林檎でございます。

お疲れ様でございます。次にうさぎ林檎さんに言及する場合は「我が勤勉な式神」と呼称を改めて労をねぎらうことに致しましょう(笑)。

>>結論…(性病以外の)慢性病の原因は全てソーラ(疥癬)です、以上お終い。

以下のお纏めを拝読してオレが真っ先に連想したのは、「犯罪者の98%はパンを食べている」と謂うネタですね(笑)。

以前マヤズムについてのお考えを伺った際には「死亡事例の患者が三大マヤズムのいずれかに感染している場合が多かったのでは」と謂うご意見でしたから、当時の人々がそんなに高確率で性病に罹っているものかな?と疑問に思ったのですが、性病についての記述は附け足し程度のゴニョゴニョで疥癬が重視されるのであれば、当時の欧州の衛生事情や気候風土などを考えて十分にあり得る話ですね。

さらに、現在進行形で罹患している場合に加えて既往歴まで含めるのであれば、当時の西欧人の大半が疥癬に悩まされた経験を持っているわけで、西欧人の生活形態が如何に個人主義的であろうがパートナーとの肉体的接触はあるわけですから、少なくとも夫婦間でピンポン感染することは幾らでもあったはずですね。まあ、主要な感染源はやはり売春でしょうから、立派な紳士諸君がまず率先してヒゼンダニを家庭に持ち帰ったことになるわけですが。

これが性病となると、病気の種類によっては男女間で発症の頻度が異なる病気があったり、感受性の違いによって必ずしもパートナーも発症するとは限らないですが、疥癬は濃厚接触さえあれば性差や年齢には無関係に発症しますから、これが一九世紀当時相当ポピュラーな疾病であったことは疑いないでしょう。

で、疥癬の主要な症状の機序はダニの糞や組織に対するアレルギー反応ですから、大本のダニを駆虫しない限り根治はしないわけで、当時は硫黄泉の沐浴くらいしか有効な駆虫方法はなかったでしょう。水疱に対する対症療法では根治まで至らなかったのは仕方のないことで、況やホメオパシーで疥癬が治るはずがない。

それをハーネマンは、「ホメオパシーの施術以前にアロパシーの治療を受けているせいに違いない」と他人に責任をなすりつけたと謂うわけで、それはまあ、それだけポピュラーな疾病だったら普通はまずホメオパシー受診以前にアロパシーの治療を受けているのが当然ですよね。

で、当時の紳士淑女の大半が経験していた疾病で、さらにアロパシーの治療を受けた経験が高確率であるとすれば、それこそ「犯罪者の98%がパンを食べている」式の見掛け上の因果関係の典型例で、まあ一八世紀生まれの人間で今日の科学的な推論の手順を識らないのも当然なんだから、そう考えても一概には責められないと謂うだけの話ではあります。

それは同時に、そんなポピュラーな病気を難治性の理由に挙げるなんてのは、よっぽどホメオパシーに見掛け上の治療効果さえなかったと謂うことなんだろうな、とか思いますね(笑)。

>>ではソーラ説を疑う人たちは、私に向かって次のようなことを証明できたであろうか。つまり、少なくとも私の説とほとんど同じくらいの確からしさで、別の原因を提示できたのか。

何だか必要以上に大見得を切っていますが、これだけなら後代の「アロパシー」が必要にして十分なレベルで「別の原因を提示」していますから、話はそこでオシマイと謂うことになりますね。

ただ、そこでオシマイにならなかったからこそ、本文で述べたようなトラコパシーの理論が生まれてくるわけで…

>>第四段階:症状の抑圧
>> 「一次性症状」をアロパシー的治療などによって意図的に除去する
>> (自然に消える場合も含む)。このとき一見治ったように見えるマヤズム
>> は体内深く潜伏し、依然として衰えていない。
>>第五段階:二次性症状の発現
>> 無数の慢性病が発症する。

>>ただし、そのような治療ができるのも、もっぱら患者が、アロパシーの間違った処置によって重篤な医原性の病気を背負わされず、破壊もされず、さらにバイタルフォースがあまりに低下させられていない場合、あるいは外的な環境がきわめて好ましくないことから治療が不可能になっていない場合に限られる。

これらの記述に強い既視感を覚えるのは、機序を説明する理路としてはまるっきり文脈が違うんですが、トラコパシーの「病気」観や通常医療有害論に大きなヒントを与えたからではないかと思います。

引用箇所によれば、「アロパシーによって『症状』を除去するとマヤズムが体内深く潜伏し、無数の慢性病が発症する」そのように読めますね。さらに後段については、「アロパシーの間違った処置が加えられなければ、ホメオパシーで病気を治療することが可能だ」とも読めます。

>>このことからどうして現代のホメオパシーが、何故"予防注射"をターゲットにするかの事情が透けてくる気がします。

仰る通り、ハーネマンの段階ですでに「ホメオパシーで『病気』が治らないのはアロパシーの施術のせいだ、謂ってみれば医原病だ」と謂う趣旨の責任転嫁が行われているわけですね。これはトラコパシーの、

>>ホメオパシーでは、人間には五段の階層があると考ています。まず「根本体質層」があり、次に生きていく中で形成される「基本層」が上に来ます。この上に「病気層」が来て、「薬害層」がその上に来る。従って症状の抑制によって層が積み重なってしまった状態から、根本体質層まで治癒に導こうとしたら、薬害、病気、基本の各層を、上層から順を追って治癒しなければならず、薬害層を飛び越して病気層に働きかけることはできないのです。

…と謂う記述の遠い淵源と解することが出来るでしょう。

>>あ、忘れてた。プラクティカルが何故評価の分かれている『慢性病論』を持ち上げようとするかというと、"複数の数、複数の種類"のレメディー投与を認めている表現があるからなんです。

プラクティカルの主流的な理論は浅学にして存じませんが、本文で考察したようなトラコパシーにおいて「慢性病論」が重視されているのは、おそらく由井寅子がハーネマンの理論を拡張して恣意的に歪曲する際に、専ら「慢性病論」に軸足を置いていて都合の悪い記述は無視して美味しいところを継ぎ接ぎした結果、本文で述べたような奇怪な理論が出来上がったと謂うストーリーなのかな、と謂う感想を覚えました。

総合的な感想として、やはりハーネマンにも主唱者相応に現代のホメオパシーの現状について責任はあるのだし、現代のホメオパシーが抱えているような無責任性や自己正当化の保身の動機はあって、それは単に程度問題に過ぎないと感じます。ハーネマンも一個の人間に過ぎませんから、そこまで言うのは酷なのかもしれませんが。

ただし、そこには悪意や怯懦と謂うより、或る程度の「志」のようなものがあることは否めないわけで、そこに酌量の余地があると謂う言い方は出来ますが、由井寅子のような薄気味の悪い教祖体質の徒輩と雖も、ハーネマンの理論から完全に断絶して独立に悪辣な商売のネタを思い附いたわけではない、それはやはりハーネマンが遠い昔にその種を播いたことには違いない、と謂う印象を覚えました。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月19日 (日曜日) 午前 12時03分


こんばんは。

由井氏は、その活動を福岡で始めています。JosephYoikoさんに聞いたんですが、当時は「とらこ神仙の会」名乗っていたそうです。
#「オ○ム神仙の会」と似てますね。
そのままの名称でいてくれれば、フラグが立っていてよりわかりやすくて有り難かったんですけど、カジュアル化に成功したことで害悪が一気に広がってしまいました。

また由井氏の主張するマヤズムは意識的か無意識か無知かは不明ですが、「急性マヤズム」と「慢性マヤズム」を混同していますね。
これらは本来別のものの筈なのですが、トラコパシーでは何故か「慢性マヤズム」の治癒課程に「急性マヤズム」が必ずセットされています。この辺は黒猫亭さんがご指摘の通りですね。

『マヤズム』『慢性病論』、どちらもそうなんですが、一つの用語を表現するのにメタファーが多すぎるんです。
バイタルフォースにして、「精神のような」「半ば精神的な」エネルギーとしているわけで、これがオカルト的な意味で使ったのか、そうでないのか定義は判然としません。
マヤズムも「半ば精神的な病原寄生因子」「人体の寄生体」「この半ば精神的なマヤズム(ソーラ)は、敵意に満ちたおのれの生命を寄生生物のように入り込ませ」となっているので、何かの生命体のようなものを想定していたような風にも想像できますが、どうも曖昧です。

式神は、ちょっと(大分)教養が足りませんのでしかとは言いかねますが、こういったメタファーの多い表現はドイツ観念論の影響のようにも思えます。
そして、この詩的とも言える不安定な記述が後世の弟子(と名乗る人)達に、直接"霊的"と結び付けた解釈を可能にする土壌になっています。また他にもマヤズムをはっきりと「原罪」と結び付けた解釈もあるようです。
ハーネマンの論考は、科学よりも宗教の領域に足を踏み込ませやすい側面が強いのだと思います。
まぁ……結局は類感呪術ですから、仕方ないんですけどね。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年12月19日 (日曜日) 午後 05時41分

>うさぎ林檎さん

今回は日本ホメオパシー医学協会から大量の引用をしたのが敗因で大分長くなってしまいましたねぇ(笑)。しかし、この団体が主張している理論が世間一般の常識から逸脱した奇怪なものだと謂うことは、その理論を精査しなければわからないことですから、仕方がないと謂えば仕方がないですね。

>>由井氏は、その活動を福岡で始めています。JosephYoikoさんに聞いたんですが、当時は「とらこ神仙の会」名乗っていたそうです。

仰る通り、「日本ホメオパシー医学協会」よりはよっぽど本質を体現していますね。

いっそのこと、由井寅子は「医学」の看板を外して「寅子先生のスピリチュアルヒーリング」とでも名乗れば存続の道もありますかね(笑)。いや、やっぱり思想の根幹に強烈な通常医療否定がある限り、宗教やスピリチュアルを標榜したところで社会的な有害性は変わらないのか。

>>これらは本来別のものの筈なのですが、トラコパシーでは何故か「慢性マヤズム」の治癒課程に「急性マヤズム」が必ずセットされています。この辺は黒猫亭さんがご指摘の通りですね。

「慢性マヤズム」と「急性マヤズム」の定義がよくわからないので軽々には言えないですが、或る種トラコパシーの成立過程とは、ハーネマンの理論の恣意的曲解や意図的誤読に基づく拡大解釈と謂う手法に依拠しているように思います。

謂わば、「オルガノン」や「慢性病論」で論じられている部分を材料として切り出して自分の意味附けに基づいてパッチワークした、と謂うような印象ですね。

>>『マヤズム』『慢性病論』、どちらもそうなんですが、一つの用語を表現するのにメタファーが多すぎるんです。

科学的形式の整備されていない時代の話ですから、ハーネマン個人の責任に帰すのも公平ではないでしょうが、メタファーと謂うのはすでに妥当性が確立された理論を噛み砕いて説明する為に用いるもので、理論の記述そのものにメタファーが多用されているとそこに恣意的解釈を許容する隙が生まれますよね。

科学論文や法律の条文の言葉がギクシャクしているのは、可能な限り多義的な解釈を排する為の工夫ですから、テクストの解釈を可能な限り一元化すると謂うのは結構難しいことは難しいだろうと思います。

ネットを検索すると、たとえばkumicit さんのところでもマヤズムは伝染病の感染原理を記述するものだと謂う説明がされていますが、変なメタファーのせいで遺伝的体質と謂う解釈を許す部分もあるからこそ、「慢性病論」の後書きで「遺伝的体質と解釈するのは誤りだ」と謂う註釈が施されたりしているのでしょうね。

そもそも、ハーネマンの認識自体が実はかなりあやふやだったんじゃないか、煮詰めの及ばない部分や論理的に全体の理路と繋がりにくい部分を、曖昧なメタファーで何となく胡麻化しているんじゃないか、と謂うような疑いもありますし、多義的解釈を許すメタファーで表現すると謂うのは、隠秘学(オカルトのことですが「オカルト」と表現するとスピリチュアル一般をイメージする方もいるでしょうから)の常套的な記述スタイルでもありますね。

>>式神は、ちょっと(大分)教養が足りませんのでしかとは言いかねますが、こういったメタファーの多い表現はドイツ観念論の影響のようにも思えます。

時代的に考えてその可能性はありますが、オレのほうも大した教養があるわけではないので、よくわかりません。カント哲学なんかだと、そっち方面が得意な論者に一人心当たりがありますが(笑)、いろいろ昔の事情がありまして(笑)、その人は多分ここを覗いていないでしょう。その「事情」と謂うのは、普通にブログ内検索して戴けば諒解戴けると思うので説明致しませんが。

>>そして、この詩的とも言える不安定な記述が後世の弟子(と名乗る人)達に、直接"霊的"と結び付けた解釈を可能にする土壌になっています。また他にもマヤズムをはっきりと「原罪」と結び付けた解釈もあるようです。

この辺は、或る種ハーネマン自身の中でも揺らぎがあったんだろうな、と思います。

仰るようにハーネマンの思想にドイツ観念論の影響があったのであれば、やはりそれは宗教的な色合いの濃いものだったのでしょうし、哲学思想と違って医学の領域においては「神」や「霊」をそのまま名状するわけにも行かなかったでしょうから、そこを韜晦する為に晦渋なメタファーを弄した、と謂うことはありそうです。

ですから、そもそもハーネマンにしてからが、人間の肉体の現実は人間の中にある絶対者の反映である霊性が支配していて、物質的な次元の上位に霊性の次元が存在すると考えていたと謂うこともあるのではないかと思います。

先日のkumicit さんのエントリによれば、ハーネマンの理論の背景に生気論の伝統があるようですが、おそらく医学の領域において宗教や隠秘学と自然科学がハッキリ分岐したのは、生気論に対して機械論や唯物論が勝利を収めた時点だろうと考えられますし、その意味で生気論と謂うのはオカルトや観想の哲学と明瞭に分岐していなかったと謂うことなのだろうと思います。

もしもハーネマンが時代人としてドイツ観念論の影響を受けていたのだとすれば、やはり絶対者や霊的な存在を排して世界を捉える機械論や唯物論の立場は採り得なかったでしょうし、肉体の現実を霊性が支配しているのだとすれば、伝染病が感染するのは病原生物や病原物質が物質的に伝播するのだとする解釈に反撥があったでしょう。

ハーネマンのホメオパシーは、結局人間の肉体が物質性の次元において機械論的に運動しているのではなく、霊性の原理と謂うさらに上位の次元の原理で駆動しているのだと謂う解釈に則っているのでしょうが、哲学ならともかく医学のようなすでに自然科学の方向に一歩を踏み出している領域で「神」や「精霊」を持ち出すわけには行かなかったからこそ、それをメタファーで暗示するに留めた、そんなところでしょうか。

ただ、それって隠秘学の構造そのものなんですよね。

>>まぁ……結局は類感呪術ですから、仕方ないんですけどね。

結局、観想の哲学からは「人間の基本仕様」を超えた何物かは出て来ない理屈になりますから、一種医学に対して宗教的にアプローチしてみても類感呪術以上のものにはなりようがない、と謂うことですかね。

同時代の医学理論だって似たり寄ったりではあるんですが、やはり物質性の次元に基盤を置くか置かないか、それが分岐点と謂うことになるでしょうか。霊性の次元に基盤を置く限り、自然科学の方法では証明も反証も不可能ですから、結果論で言えば残念ながらハーネマンの理論は出発点からして成功の見込みはなかったと謂うことになります。

投稿: 黒猫亭 | 2010年12月20日 (月曜日) 午前 07時37分

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