懺悔の値打ちもない
眉間に皺を寄せてお堅いことばかりぶっ通しで考えていると脳みそが煙を噴くので、この辺でちょっと不謹慎な悪ふざけも。
今季はちょっとした事情で生活が荒れていて、じっくり腰を据えて連ドラを観るような心理的余裕もなかったのであるが、唯一第一話から欠かさず観ているのがTBS日曜劇場の「獣医ドリトル」である。
次回予告であざとい釣りを仕込んで世のモフモフ愛好家をハラハラさせながらも、主人公ドリトルの卓越した手腕で殆ど動物を死なせず軟着陸させ、併せて人と動物の関わり合いに的確な認識に基づく問題提起を行うと謂う安定感のあるドラマ作りに、モフモフ愛好家の一人として好感を持った。
まあ原作も好いんだろうけど、やっぱり連ドラと謂うのは娯楽の為に毎週観るものなのであるから、こう謂うシリアスなテーマ性と娯楽性のバランスが採れた手堅い作りのドラマを視ると安心感を覚える。
今夜の最終回は、予告では人畜共通感染症に罹患した二〇頭にも及ぶイヌの大量殺処分をテーマに据えた重い話になりそうである。これはたとえば口蹄疫や鶏インフルエンザの問題なんかにも通じるようなシリアスな問題設定で、この重いテーマをこのドラマがどう捌いてみせるのかと謂う興味があるのは当然だが、オレが気になったのはそんなシリアスなテーマ性からすれば窮めてどうでも好いことである。
もうね、ホントに根が不真面目で申し訳ないんだが、「ブルセラ感染症」と謂うタームを耳にして、到底人前で口に出来ないくらいオゲレツな連想をしてしまったのは、多分オレだけじゃないはずである。
…なあ、ご同輩?
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コメント
本当に、本当に、誠心誠意、衷心込めて、満腔以て反省している。「ああ、こんなコトさえ言わなきゃ、オレだってもう少しマトモな人間に視てもらえるのに」と。
でもね、どうしても言わずにおれなかったんだ、だってオヤジだもの。
投稿: 黒猫亭 | 2010年12月19日 (日曜日) 午後 05時14分
いやいや、少なくとも僕は絶対このネタでは黒猫亭さんを責めることはありませんよ(木亥火暴!!)
投稿: がん | 2010年12月19日 (日曜日) 午後 06時24分
>がんさん
「やっぱり何か感染するんだろうなぁ」とか素で思ってしまったオレは、すでに負け組だと思います(木亥火暴!!)。
投稿: 黒猫亭 | 2010年12月20日 (月曜日) 午前 07時38分
あのビョーキの伝染性は低いのですが、重篤な依存症に陥りやすく、有効な治療法も発見されていません。それどころか、さまざまな合併症を引き起こす報告が多く寄せられている、「不治の病」なのです。
怖るべし、ブルセラ感染症。
投稿: mimon | 2010年12月21日 (火曜日) 午前 12時39分
>mimon さん
申し訳ありません、ブルセラ感染症が恐ろしい疾病で有効な治療法も発見されていないことはドラマでも説明されていて、ウィキの記事も読んではいたのですが、どうしても不謹慎なオヤジギャグの衝動を抑え切れませんでした(笑)。
そもそも「ブルセラ」と聞いてフーゾク用語を連想するのはオヤジだけだと謂うツッコミはどうぞしてご勘弁を(笑)。
ちなみに、ドラマのほうは次回予告の「大量殺処分」はやっぱり釣りで、間一髪で患畜の受け入れ先が決まると謂う予想通りのオチでした。まあ、脚本書いている橋本裕志が元々不快感の少ない作風の人ですから、幾ら最終回でも二〇頭ものイヌを主人公が殺処分するようなオチにはならないとは思いましたが。
結局、このドラマの中で死んだ動物は、主人公ドリトルの友人の花菱が過去に手術を失敗して死なせた自分の愛犬一頭だけでした。やっぱりこの種のドラマは動物好きの視聴者を当て込んでいるんでしょうから、動物が病気やケガをする描写も辛いんですけど、それを主人公が必ず治すと謂うお約束があるから安心して観ていられると謂うのはありますね。
投稿: 黒猫亭 | 2010年12月21日 (火曜日) 午前 01時09分
こんにちは。mimonさんあてのコメントを見て書き込みします。
>それを主人公が必ず治すと謂うお約束があるから安心して観ていられると謂うのはありますね。
視聴者に楽しんで貰いたいというコンセプトですからそれは当然なのですが、色々と思う処があって書いたのが下記エントリだったりします。
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20101204/1291476338
実は、黒猫亭さんがご覧のドラマですが、妻が小栗旬&井上真央の花男コンビが出演すると謂う事で毎回楽しみにしており、私もつきあって見させられてきました。
で、このドラマの原作も見たいとのことで、単行本も最新刊まで読みまして、読み終わった後に残ったモヤモヤ感を記事にしたわけです。
原作はドラマよりもリアル指向で、色々と論文も参照されているのだろうなぁと想像する描写が随所に見られましたが、最後に主人公が解決するという構成は同じものでした。
いや、それが悪いとかいちゃもんをつける気持ちはサラサラありません。猫がヒドイ目に遭うストーリーなんて絶対に手にしませんから。
でも、何となく残るモノがあるんですね。
その延長線上でニュースを取り扱っているようなフシが見えるからです。
黒猫亭さんはこのあたりをどのように考えますか、(興味の範囲でしたら)少し教えて頂ければ嬉しいです。
投稿: どらねこ | 2010年12月21日 (火曜日) 午後 12時56分
>どらねこさん
>>黒猫亭さんはこのあたりをどのように考えますか、(興味の範囲でしたら)少し教えて頂ければ嬉しいです。
「興味の範囲」どころか直球ド真ん中のテーマですので、喜んでお答え致します…でもまた目が痛くなっても識りませんよ(笑)。
何度も標榜している通りオレは元々特ヲタですので、この世の悪をヒーローがズバッと解決、みたいな構造の物語を浴びるように観てきたわけですが、やっぱりいい歳になってくると、中二病の某プロデューサーじゃないですが「正義」と謂うものについて大人として責任を持って考えなければいけなくなってきます。
「正義の味方」が悪を懲らすと謂う構造は、正義と悪と謂う観念を所与の前提として考えるわけですから、それ自体について思考停止を生むと謂う問題性があることは事実ですね。それは何も、正義の味方が悪の秘密結社の計画を阻むと謂うタイプの物語だけに限ったことではなくて、特定の問題を主人公が卓越した手腕で解決すると謂う構造についても同じことです。
現実の物事はそんなにスッパリ善悪に切り分けられるものではないですし、暴力闘争で敵を倒せばそれで解決すると謂うものではありません。優秀なプロフェッショナルの主人公が問題を解決すると謂う構造はそのバリエーションに過ぎないわけで、世の中の大半の問題は特定個人の優れた技術や超越的パワーで解決出来るものでもないですよね。人間同士の問題は大概双方に言い分があって双方に問題がある、簡単にどちらが間違っていると裁けるものでもありません。
正義は必ず勝つなんてのは、事実性の次元で謂えば嘘です。どらねこさんが書いておられるように、寧ろ中途半端な正義を振り翳すと寄って集って周囲から潰されるのがオチですし、九分九厘まで報われませんし、それ以前に正義感を動機として介入することが逆に事態の悪化をもたらすことも幾らでもあります。
ニセ科学批判の文脈でも、「善意は結果を免責しない」と屡々謂われますし「地獄への道筋は善意で舗装されている」とも謂われます。その意味で、善意や正義ほど厄介で扱いにくいものはありません。どらねこさんが挙げておられる熊森の問題なんかはその典型でしょうし、ニセ科学が蔓延するメカニズムそれ自体に善意が組み込まれています。
だったら、善意や正義なんてのは不必要なのかと謂えば、勿論そうではありません。
歴史を振り返れば、勿論いつの時代にも善意や正義は存在したでしょうが、荒廃した時代性においてはニヒリズムが支配する時期もあったでしょうし、互いに互いを攻撃し奪い合い出し抜かねば生きていけない時代もあったと思います。そのような時代性においては、平和な時代ほどには善意や正義など有り難みのある観念でもなかったでしょう。
しかし、多分人間と謂うのは善意や正義と謂う観念がなかったら生きていけないものなのだと思います。相対的な価値観の問題と謂うより、人間の集団内部で正しさの基準が担保されなければ、誰も他人に背中を預けて協力し合うことが出来ないのですから、近視眼的には損になることが多くても、総体として善意や正義と謂うのは社会を構成する上で欠くべからざる概念なんだと思います。
ところが、おそらく本質的に善意とか正義と謂うのは、それを実行する個々人にとってはあまり直接的な利益をもたらさないものなんですね。個々人の視点においては、逆に損をする場面のほうが多いものなんだと思います。
そりゃそうですよね、一生懸命コツコツ働いて社会的価値を生み出すよりも、誰かが生み出した価値を暴力で奪うほうが効率が良いのは当たり前ですし、他人の為に良かれと考えて骨を折る余裕があれば、その分のリソースを自分の為に廻したほうが効率が良いのは当然です。
それでも、そのようなフェアネスの基準が概ね共有されていない社会は、信頼感に基づくスムーズな協力関係やマンパワーの高度な集積に脆弱性を抱えているのだと思いますし、文明の発達に連れて人間の営みが分業化していくに従って、ますますフェアネスの重要性が増していきます。
この辺の事情はよく技術開発者さんが仰る巻狩りや村の勇者の喩え話と通じるところがありますが、善意や正義は元々集団全体の利益にとって重要な概念で、自然状態であれば個々人にはリスクに応じたメリットがない、ならばそれを集団内部で顕彰して一定のインセンティブを与える、そう謂う形で集団内部で利害を調整するようになったのだろうと考えています。
弱肉強食がこの世の理で強い者が弱い者を収奪するのが当たり前だと考えるなら、おそらく社会活動の安定的で高度な発展は望めないのだと思います。強奪や欺瞞が当たり前に横行すると、それに対処するコストが必要になりますし、強奪や欺瞞が社会から根絶されない限り、このコストは現時点でもゼロには出来ません。
しかし、そのコストを最小限に抑えるのが最も社会が円満かつ効率的に営まれる状態でしょうから、強奪や欺瞞からの防衛を権力が総攬して個々人の社会活動の安全公平を担保する、その為に社会的なコンセンサスとして善意や正義を顕彰し、悪意や欺瞞を忌避しようと謂う価値観が共有されるわけですね。
で、この辺までは社会的な観点における理屈の範疇の事柄です。
ならば、個人的な観点においても善意や正義はそのような社会的効率性を高める為の方便として認識されているかと謂えば、そうではないと思います。それは一種美的な価値観の満足を伴うもの、引いては人生の意義に関連した問題なんだろうと思うんですね。
それはつまり、個人レベルでは美的なものに対する憧憬のような感情を動機としているのだと思います。勿論、美的感覚と謂うのは文化依存的だったり個々人により振れ幅のある相対的な概念であり、多くの問題性を抱えていたり、多くの過ちを惹き起こしたりするものです。
オレはよく誰かを批判する際に「心映えが醜い」と謂う言い方をしますが、人の行いにおいて公に共有された美醜の感覚が欠落した人間のやることは信用出来ません。それはつまり、社会的なコンセンサスに背いても自身の利益を優先させる人間だと謂うことになるからで、これは同時に「世間の目を気にするべきだ」と謂う意味でもあります。
世間の偏見に対して自身の正義を貫くことは、それ自体は個人の生き様の問題ですからそれを以て非難する根拠には当たりませんが、正義や善意の尺度が存在しない、それを醜いことであるとは考えない、そう謂う人間はいずれ遠からず反社会的な行いに手を初め理不尽に他者を苦しめることになるでしょう。
長い前フリになりましたが、オレが映画やドラマやマンガや小説のような娯楽作品に求めるものとは、たとえば幼い子供に対してはそのような美的感覚を実感的に伝えることでしょうし、大人に対してはそれが報われることがなくても自身が美しいと憧れる行為を行おうと努めることには意味があるのだと実感させることだと思います。
つまり、正義は必ず悪に勝つとか、敏腕のプロが問題を解決するなんてのは、嘘で好いんです。大人なら、それが嘘だってことくらい呑み込むべきだと思うんです。虚構作品が受け手に与える感銘の効用と謂うのは、それが美しいこと、意味あることだと実感させることだと思うんですね。
併せて、たとえば嘘事の物語の中でさえ、善人が悪人を打倒し、無辜の人々が救われることを我が事のように共に喜べる感覚が自分の中にも確実に存在することを再確認する営みなのだと思います。肝心なのは、目の前に悪があればそれに憤り、自身が正しいと信じることは美しい行いなのだと謂う実感を得ることそれ自体であって、自分自身が物語の主人公のように正義を行い得ないとしても、自分が正義と信じることを強く肯定することが出来る、そう謂うことなのだと思います。
勿論、正義も善意も容易く独善に嵌り込んで悪と同じくらい理不尽に他者を苦しめるのかもしれませんが、おそらくそれは別の問題なんですね。
正義は行われなければならない、善意が存在しなければならない、問題は解決されねばならない、そのように努めることには意味がある、そう信じることがまず重要なのだと思いますし、その正義や善意が何をしでかすのか、と謂うのはその次のステップの問題なんだろうと思います。
たとえば、善意を動機として進んで社会悪を行う人々を説得し得る僅かな望みがあるとすれば、それはその当人が善を行っていると謂う認識を抱いていると謂う部分だろうと謂うことですね。最初からその当人が善も悪もなくただの個人的利害でそんなことをしているのであれば、説得の糸口すらありません。
どらねこさんが挙げられた熊森の例も、批判や説得の足掛かりはそれが善を標榜して行われていると謂う部分に根拠を置いています。これがもし、熊を保護することが私的利害に適うと謂うだけの動機でそれをしているのであれば、単にそれをどのように効果的に阻止するかと謂う実際的な問題になって、批判も説得も不可能です。言論は無意味になるのです。
虚構作品における現実的な問題提起と謂うのは、その作品自体が求める物語構造よりもよほど重要性は薄いものなのです。どれだけシリアスな問題提起であろうと、物語を構築する過程においては「題材」であり「情報」であるに過ぎませんし、多寡が嘘事の物語にそれ以上の役割を期待すべきではないと謂う言い方も出来るでしょう。
通俗娯楽物語と謂うのは、大概は主人公によって善や正義が行われ、卓抜した手腕で問題が解決されると謂う構造を要求するものであり、そこで扱われている題材や情報を得て受け手がどのように行動するのか、それをどのように解決しようと努めるのかと謂うことはメタ的な次元の問題になります。
少なくとも、たとえばマンガや小説を書いたからと謂って、そこで扱われている問題が解決することなど絶対にありません。ですから、マンガや小説においては主人公が嘘事の目配せを送りつつ物語内部のロジックで問題を解決するのです。
現実に問題を解決するのは、それを読んだ受け手のアクションであり、妥当な判断に基づいた正義や善を動機とする現実の行いのみです。逆に謂えば、マンガや小説の主人公が嘘っぱちの手段で問題を解決するのは、嘘事なりの節度でもあると謂えるでしょう。
長くなりましたが、オレの考えはそのようなものです。
投稿: 黒猫亭 | 2010年12月21日 (火曜日) 午後 02時34分
いやぁ、長文のお返事ありがとうございます。
もうちょっと自分の頭の中を整理して、お返事はエントリで行おうかなぁ、と思っております。
最後の件でちょっとだけ目が覚めたような気持ちです。
投稿: どらねこ | 2010年12月22日 (水曜日) 午後 01時07分
>どらねこさん
どうも「総括」を始めてから前以上に文章が長くなる傾向が出てきたようで、あちこちに迷惑をおかけしております(笑)。
フィクションにおける正義や善意の問題については、実写版セラムンのレビューを書いている頃からずっと考え続けているテーマなので、やっぱり今回もかなり長くなってしまいました。
ちょっとメタ的な言い方ですが、マンガや小説で現実的な問題提起が為される場合、たしかに作品内で一応の解決が示されることで受け手が「解決したような気になる」と謂う問題はあるんだと思いますが、さらに一歩踏み込んで、その解決は飽くまで虚構上のロジックで行うと謂うのが、現代的な作劇の作法なんだろうと思います。
まあ、例に引くのも今更アレですが(笑)、「美味しんぼ」なんかでも、とにかく問題の解決手法は「美味いものを喰わせて感動させる」と謂う嘘っぱちの約束事に限定されていますよね。
アレを読んだ人間は誰でも「こんな奴が美味いものを喰ったくらいで納得するかよ」とかツッコミを入れてしまいますが、フィクションの節度と謂うのはそう謂うものであるべきだと思うんですよ。
投稿: 黒猫亭 | 2010年12月22日 (水曜日) 午後 02時45分
色々と有り難うございます。
自分の中で他の方が述べてきたことがリンクしたような気がします。それを周回遅れとも謂うのですが。
>その解決は飽くまで虚構上のロジックで行うと謂うのが、現代的な作劇の作法なんだろうと思います。
それを現実に持ち込んで解決した気にさせるのが所謂ニセ科学と呼ばれる似非正義なのかなぁ、と。
虚構の中にあるロジックで解決するというのは、ニセ科学の中にある整合性で解決できるという気にさせる、という事に対応しますね。しかし、現実に虚構を持ち込んでも、真の解決には結びつかない、と。
ニセ科学批判を行う方にフィクションを楽しめるタイプのヒトが多いような気がするのですが、ここら辺も関係しているのかも知れませんね。
投稿: どらねこ | 2010年12月22日 (水曜日) 午後 11時14分
>どらねこさん
お返事が遅くなりました。何故か昨夜来モーレツなくさめの発作に襲われまして、マトモにキーボードも打てない状態だったので、公開承認するのが精一杯でございました。何故あんなにくさめが出たのか、今以てまったくワケがわかりません。
いや、そんなあなた、「変態のくせにくしゃみなんて(w」とか笑わないでください、変態だってくしゃみぐらいするんです、それを恰も変態だからくしゃみすらしちゃいけないみたいな言われ方をしたら、幾ら変態でも困ってしまいます(大笑)。
>>それを現実に持ち込んで解決した気にさせるのが所謂ニセ科学と呼ばれる似非正義なのかなぁ、と。
poohさんのところでよく話題に出る「ものがたり化」と謂うことですね。物語には人間に対する一定の訴求力があって、割と安っぽくて現実離れした設定でも物語としての構造がしっかりしていれば、人間はそれが嘘事だと認識しながらもその嘘に乗って恰も本当の現実であるかのように笑ったり泣いたり出来るものです。
物語と謂うのは所詮現実のまねびであり模倣による再現にすぎないわけですが、物語を受け取るコードが人間に具わっているわけで、それは或る程度文化依存的なものだろうと思います。すべての物語の淵源には神話があるのでしょうし、それがたとえばギリシア悲劇のような形に洗練されてくるわけで、現実を物語化することで「解決したような気になる」と謂うのは物語に具わっている根源的な機能ですね。
どらねこさんが指摘されている事柄は、物語の持つ負の側面だと思うのですが、物語が現実のまねびであると謂うことは、物語の構造と謂うのは人間が現実を理解する際に非常に便利だと謂うことでもあります。
poohさんが屡々言及される「ものがたり化」と謂うのは、このような現実を物語化して理解する人間の認識の機序のことで、ありのままの現実には物語の観点で不要な要素や相反する要素が渾然一体となっていて、一元的な視点から認識することは出来ないのですが、そこに物語と謂う枠組みを設けることでわかりやすくなります。
そして、物語の構造には受け手が期待する価値観に応えると謂う要件があるわけで、勧善懲悪なんかもそうですが、正義の味方が悪を懲らすと謂うのは受け手の期待の地平上のロジックですよね。模倣によって現実を再現すると謂う物語の性格は、ありのままの現実に対する人間の期待を反映しているわけで、或る種その期待に応えることが物語の使命でもあります。
自然科学はその辺素っ気なくて(笑)、ありのままの現実の規則性を可能な限り正確に記述することを目的として確立されたスタイルですから、人間の期待する価値観にそぐわない事実を突き附けられたりしますね。その辺りが、どうも人間の基本仕様に合致しない性格を持っているわけです。
その意味では、ニセ科学を一種の「自然科学の物語化」と見做すことも可能だろうと思います。水伝なんてのは典型的な例で、自然科学は「言葉の意味性が物質に影響を与えることなんてあり得ない」と素っ気なく言い切ってしまいますが、そう謂うありのままの現実を物語化して「結晶の形が変わる」と謂うふうに人間の価値観を織り込むことで受け手の期待に応えるわけです。
現実をありのままに記述するスタイルである自然科学をさらに物語化することで、自然科学がその素っ気ないスタイルに立脚して得ている本当らしさを剽窃し、併せて物語が持っている「受け手の期待に応える」と謂う機能を果たすわけですね。
そうすると、たとえば多くの人々が「水伝を信じているわけではないけれど、いい話だと思った」と口にするのは、この辺の人間の物語に対する曖昧で多重的な姿勢と関係してくる問題なのかな、と思います。人間の期待に沿って現実を物語化して提示することがニセ科学の訴求力であって、その意味でpoohさんがいつも仰っているように圧倒的にニセ科学批判は不利なんですよ。
人間が現実に対して期待することが本当であって欲しいと願うニーズに応じるのが物語の使命ですから、物語と謂うのは半ば嘘だとわかっていながら半ば本当らしさも感じるわけで、実は結構危ういバランスの上に成り立っているものです。これはたとえば、菊池さんが常日頃強調しておられる「SFにおける疑似科学と現実のニセ科学の相違」と謂う問題とも隣接しているのかな、と思います。
>>ニセ科学批判を行う方にフィクションを楽しめるタイプのヒトが多いような気がするのですが、ここら辺も関係しているのかも知れませんね。
仰るように、ニセ科学に対して懐疑的な姿勢を持つ論者の方々は、虚構と現実を截然と切り分ける姿勢をお持ちでしょうから、フィクションをフィクションと割り切って楽しむ術をご存じなのだと思います。それはつまり、現実が自分の期待通りであることなどまずないだろうと謂う厳しい現実観を受け容れていると謂うことなのだと思います。
では、何だか煮詰めが足りないように思いますが、「どらねこさんの目を痛くする」と謂う所期の目的は達成したでしょうから、この辺で切り上げます(大笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2010年12月23日 (木曜日) 午後 01時50分