« ささやかな幸福 | トップページ | twitterを始めた »

2011年1月11日 (火曜日)

ホメオパシーに関する私的総括(3) 非実在医学理論問題

総括を始めて間もなく山口の訴訟が和解に至ると謂う大きな動きがあって、当面はそちらのほうに注力していたのだが、正月気分も三連休でオシマイなので、そろそろ続きを再開しよう。

ホメオパシー自体に関しては、日本独自の奇怪な新宗教であるトラコパシーの総括まで辿り着いたので一段落であるが、では、代替医療一般の観点で視た場合、ホメオパシーにはどんな問題があるのか、今回はこれを総括してみよう。

●通常医療との本質的差違

以前poohさんのところでも申し上げたことだが、ホメオパシーのような理論の常識的に最も重大な問題点とは、医学的に考えて原因も治療法もまったく異なるはずの膨大な疾病にすべて同一の理論と手法で対処していると謂う部分である。

これは少しわかりにくい部分だが、たとえば通常医療における投薬とホメオパシーにおけるレメディの処方は、一見して異なる体系に基づいた同種の行為に見えるが、実は本質的にまったく異なっている(勿論それは、レメディが「ただの砂糖玉」だと謂う事実をオミットして謂えば、の話である(笑))。

つまり、これが通常医療の「アロパシー」たる所以なのであるが(笑)、通常医療の投薬では、肉体の内部で起きている疾病と謂う現象を精査解明し、それに対して特定の部位に特定の機序で作用する薬剤を投与することで治療効果を挙げるわけであるが、ホメオパシーの場合はそもそも個別の疾病と謂う現象を精査するようなアプローチを行わないし、レメディは個別の部位に個別の機序で作用するわけではない。

ホメオパシーが採用しているのは「類似した症状を惹き起こすものが類似した症状を治療する」と謂う統合的な概念であって、個別の疾病と謂う肉体内部の現象を医学的に解明することに意味はないのであるし、個別のレメディが個別の機序で個別の部位の個別の症状に作用した結果治癒すると謂う概念ではない。

個別のレメディは「類似した症状」と謂う基準でカテゴライズされているだけで、作用機序はすべて「類似の法則」と謂う同一のものであり、個々の症状が治癒する機序もすべてまったく同一である。

少なくとも、科学的に実効が確認されている医療技術においてこのような性格を具えるものは一つも存在しないのであるから、その意味で通常医療の投薬とホメオパシーのレメディ投与の本質は決定的に異なるものである。

或る特定の物質が或る特定の症状を惹き起こす物質的機序は、それが類似した症状を治療する機序とは断絶しているわけで、であるからホメオパシーが「医学理論」である限り、特定の症状が発症する機序や特定の物質が特定の症状を惹き起こす機序を解明する必要がない。それはレメディが効く理由とは一切関係ないからである。

たとえば、ホメオパシーは通常医療と相互排除的関係にありながら通常医療の疾病概念をそのまま無批判に借用していると謂う指摘があるが、まあ、ホメオパシーの歴史性を考えれば、通常医療から二〇〇年前に分岐している謂わば分家筋のようなものなのであるから、疾病概念を借用することくらいはそんなに目くじらを立てなくてもよかろうと謂う言い方も出来る(笑)。

ただ、一口に「疾病概念」と謂っても、ホメオパシーが注目するのは、極端なことを謂えば病名と症状だけである。現代医学において肝心要の「肉体内部でどのような物質的現象が起こっているのか」と謂う部分はホメオパシーとは一切関係がない。

肉体の中で起こっていることで重要なのは「バイタルフォースの攪乱」と謂う霊的な次元の現象であって、それが物質の次元で具体的にどんな現象に反映されているかと謂うことはどうでも好いのである。

この事情はトラコパシーになるともっと徹底している。通常医療において「病気」と定義されている現象は、トラコパシーにおいては「症状」と定義される。前回視てきたように、トラコパシーにおいて「病気」とは心の歪みによって魂のあるべき姿が歪められていることであって、「症状」とはその歪みを元に戻そうとする魂の働きである。その意味でトラコパシーにおいては「病気」と謂うのはたった一つしか存在しないことになるのである。

そして、ハーネマンの理論においては疾病を治療する原理は「類似の法則」と謂うただ一つの機序であり、トラコパシーにおいても「症状の悪化」によって魂の働きを助けると謂う、やはりただ一つの機序である。

この両者ともにマヤズムと謂う概念を設けていて、ハーネマンの理論においては特定の感染症の難治性を理論附けて慢性病の発生機序を説明する…早い話がホメオパシーが効かない場合の責任転嫁の理論武装と謂う性格を持ち、トラコパシーにおいては遺伝的人格的な「根源体質」であり特定の「症状」を発症しやすい肉体的傾向と意味附けられ、これ自体は「体質」であるから治癒の対象ではないと定義する。

これに細々とした理屈が附くと謂うだけで、ホメオパシーにおける大枠の理論構造と謂うのは、これだけで「すべて」である。いや、待っていてもこれ以上何も出ませんよ、ホントにこれだけしかないんだから。ホメオパシーと謂う「医学理論」とは、これだけ識っていればすべての疾病を治療出来ると考えるものなのである。

それ以外にホメオパスが学ぶべきことはすべて「理論」ではなく、具体的な「症状」に対応するレメディの分類と謂うことになるから、正味な話が、レメディとそれに対応する「症状」を網羅したカタログが一つあればそれで十分事が足りると謂うことになる。

重要なことは、ホメオパシーには、それ自体の体系の中に個別の疾病の機序を病理学的に解明したりカテゴライズする・すべきとするような理論的基盤を持たないと謂うことである。極論すれば、ホメオパシーの理論にとってそれがどんな疾病であるのかと謂うことが意味を持たない以上、ホメオパシーは原理的に疾病の種類を選ばない

前回のエントリやコメント欄をご覧戴けばわかる通り、ハーネマンにとってマヤズムに起因する慢性病は原理的には殆ど「ソーラ(疥癬)」のレメディで治療可能なものであり、それが効果を挙げない理由をアロパシーに責任転嫁しているだけである。

これがトラコパシーになると、ハーネマンの理論を継ぎ接ぎして「症状の抑圧」と謂う一般則に敷衍されていて、「症状」さえ抑圧しなければ「病気」は治ると謂う根幹理論に組み込んでいるのであるから、ハーネマンの理論よりもさらに「個別の疾病を分類する」と謂う概念から断絶している。

その意味で、ホメオパシーにおいて必要なのは通常医療における病名と症状だけと謂うことになるわけで、たとえば「癌と謂う病名」とその「具体的な症状」についての情報は借用するが、治療において行っている施術は常に同一である。病名や症状についての情報が必要なのは、単にレメディを分類・選択し施術する場合に便利だからである。

ホメオパシーに内在するこのような本質的な単純さは、通常医療と比較するのがいっそ馬鹿馬鹿しいくらいである。

通常医療は、夥しい数の疾病を分類し、その疾病一つひとつの発症や感染の機序と治療法を研究するのであるから、その知識体系は膨大なものとなり、夥しく分岐してただ一人の人間がすべての疾病を相手取ることは不可能である。これは現代の科学一般が辿った道筋であり、人間の頭脳が有限の器に過ぎない以上、人類が共有する知識の蓄積の膨大化は個別の学問領域の果てしない細分化と分業化を促す。

しかし、ホメオパシーは本質的に「現代の学問」ではなく、二〇〇年前に着想されたアイディアの亡霊である。それ故に、現代の知的領域全般が具えている複雑さとは相容れない驚くべき単純さを持っているのである。

その事実は、日本におけるホメオパス養成カリキュラムが、週二日四年間で学習可能であることを視れば明らかである。

たしかに四年間と謂う就学期間は職業教育としては長いと謂えるだろう。しかし、人体におけるすべての疾病を治療可能な統合的医療技術が四年間の土日だけで学習可能なのであるから、通常医療の医師養成カリキュラムとは比較にならない。

細かいことを謂えば、養成学校に通って受ける授業が週二日でそれ以外に自宅学習も含むらしいのであるが、授業が土日に設定されていることを考えれば働きながら通うことを想定していると推測されるので、自宅学習で平日一日丸々潰れると謂うレベルではないだろう。そのくらいの自宅学習なら専門学校生だってやっていることであるから、単純計算で謂えば、二年制の専門学校の半分程度の時間しか掛からないことになる。

たとえば、先般poohさんのブログで紹介されたホメオパスのブログのエントリを読む限り、どうもそのホメオパスは「悪性新生物」と謂う術語を「悪質な新種の生物」と謂う意味に解しているとしか思えないのだが、端的に謂って一般的なホメオパスは普通一般的な意味における医学については徹底して素人なのだと考えられる。

何故なら、前述の養成カリキュラムでは、合理的に推測して通常医療の知識を十分に教育する機能がないと考えられるからである。そもそも、JPHMA会長の由井寅子にしてからが、その経歴を視る限り専門的な通常医療の教育を受けた形跡はない。つまり、普通の意味における医学についてはまるっきり素人である。

その意味でホメオパスが持つ通常医療の医学知識はホメオパシー教育によるものではなく、個々人の知的バックグラウンドに依拠すると謂うことになり、たとえば助産師であれば看護師資格と助産師資格を得る為の専門教育の範囲内でしか医学知識を持っていないし、これが公許の医療技術者ではないホメオパスとなれば、一般人に毛の生えた程度か同等の知識しか持っていないことになる。

しかし、上記のような理路に照らして謂えば、ホメオパシーの施術には通常医療の医学知識は一切必要ないのであるから、別段ホメオパスは困らないのである。ホメオパシーは、ホメオパシーだけを識っていればそれで十分施術可能なのであって、通常医療の医学常識で治療可能性を量ってもホメオパシーにおいて意味はないのである。

「悪性新生物」を「悪質な新種の生物」だと考えていても、その「症状」と「同じような症状を惹き起こすもの」さえ正確に特定出来れば、必ず「病気」は治癒するはずなのであるから、ホメオパスにとって通常医療の知識の欠如は何ら問題ではないのである。

さらに、トラコパシーに限って謂えば、通常医療とは「別の」アプローチに基づく医学理論だと謂うだけではなく、通常医療では「病気」は治せないしそれどころか悪化すると断言しているのであるから、そんな有害な知識は必要ないのである。

結論としては、ホメオパスとしての資格は「ホメオパシーを習得している」と謂う以上のことを保証しない。そして、その「ホメオパシー」と謂う概念には、普通一般的な意味合いにおける医学知識は含まれない。

ホメオパスと謂うのは、通常医療の観点で謂えば「まったくの素人」なのである。

その例外であるのは、通常医療の医師や医療技術者でありながらホメオパスの資格をも併せ持つ場合だけであるが、では何故この二つの相互排除的な医学理論が同一人物の中で同居し得るのか、今度はこれを考えてみよう。

正確に謂えば、ホメオパシーが通常医療を「否定」しているとか、通常医療と「相互排除的な関係にある」と謂っても、それは現代医学の観点における知見を丸ごと「否定」しているわけではない。

或る意味では、ホメオパシーは通常医療や現代医学の枠組みにおける理論構造を肯定してさえいるのだが、それでは「病気」の「治療」にはならない、寧ろ悪化させるだけだと主張しているのである。そもそも通常医療の依拠する物質性の次元と、ホメオパシーの依拠する霊性の次元では、まったく議論が噛み合わないのであるから、物質性の次元で通常医療の理論が正しいことを認めることには何の不都合もない。

単に、その物質性の次元の上位に位置する霊性の次元では、通常医療が「病気」と定義しているものは「症状」に過ぎないし「治癒」と定義しているのはその抑圧に過ぎないのであり、「症状」を抑圧することで真の「病気」は悪化するのだし、その「病気」を「治療」可能なのはホメオパシーだけである、と謂う意味で通常医療と対立しているだけなのである。

であるから、通常医療がその規範の文脈で謂えば「疾病」を「治療」出来ること…つまり、ホメオパシーの定義で「症状」とされるものを「抑圧」し得ること自体は何ら否定されていない。それが「病気」の「治療」において有害でありすべての「病気」は通常医療の施術によって起こると理論附けているから対立関係にあるのである。

つまり、ホメオパシーにおける通常医療忌避の志向は、通常医療の理論的妥当性を科学的な意味で否定する性格のものではなくメタ的な性格を持つものであり、通常医療の知識の上位にホメオパシーの知識が位置するわけである。

たとえば、山口の事件の助産師は「ビタミンKを与えればビタミンK欠乏性出血症を予防出来ること」は識っていたが、それは「症状」の「抑圧」だから「子供の健康には有害な処置」であると考え、「有害ではない形で子供の健康を実現する手段」としてレメディを与えたと謂うことになる。

その意味で謂えば、ホメオパシーは「雨乞いの呪術」としては実に巧妙な構造を持っていて、決して現代科学の土俵において正面から現代医学とは勝負しない。現代科学の規範の内部で確立されている知見はすべて正しいとしても、その上位に位置する霊性の次元においては間違っていると謂うメタ的な批判の構造を持っているのである。

卑近な喩えで謂えば、「おまえの言っていることは正しいが、それは屁理屈だ」と謂う種類のメタ的否定なのである。

だとすれば、相応の医学教育を受けた医療技術者や、それどころか現役の医師ですらもがホメオパシーを信奉し得ることには何の不思議もない。ホメオパシーの理論は、彼らが学んだ医学知識がそれ自体の体系の中で間違っているなどとは一言も言っていないのであり、人体の物質性の次元の上位に位置する霊性の次元の原理がより正しい真理であると主張していて、その上位原理においては物質性の次元の治療技術は有害だと規定しているのであるから、この理路は同一人物の中で無矛盾で成立し得るのである。

この前提に立つなら、仮に通常医療や現代科学がその次元においてすべて正しいと仮定しても、そんな知識は必要ないのだし、その施術は有害だと謂うことになる。だからこそ、ホメオパシーの文脈では、普通一般に謂う医学知識はまったく必要ないのだし、その意味でホメオパスは須く通常医療の素人である。

では、このような性格を持つ代替医療の療術者はホメオパスだけなのだろうか、次にそれを考えてみよう。

●漢方医療との比較

本邦における代表的な代替医療と謂えば真っ先に漢方医療が挙げられる。そこでまず漢方医療について考えてみることにしよう。

調べてみて改めて識ったのだが、日本には「漢方医」と謂う国家資格そのものが存在しない。法的に謂えば、通常医療の医師免許を持つ医師が漢方医療を施術する場合にのみそのように呼び得ると謂うだけで、純粋な「漢方医」は日本には存在しない。

(注)オレの認識不足で、実際には日本東洋医学会認定の「漢方専門医」と謂う制度が存在し、その意味における「漢方医」は存在するようである。通常医療の病院でもこの専門医による「漢方外来」が存在すると謂うことで、詳細については本稿末に追記を上げたので、そちらを一読して戴きたい。また、以下の記述もその補足に基づいてお読み戴ければ幸いである。

誤解されがちであるが、「漢方」とわざわざ断るのは「蘭法」の対義語だからで、その語の成り立ちを考えれば明らかなように、本場の中国の伝統医療は「漢方医学」ではなく「中医学」である。「漢方医学」と謂うのは、日本において独特の発達を遂げた中国発祥の医学の謂いであって、江戸期に「蘭法医学」が導入されたことで便宜上「漢方医学」と謂う呼称が生じただけで、それ以前は単に「医者」であり「医術」であった。

日本に蘭学が興る前は、実学一般が大陸乃至半島起源であるのは極普通のことであるから、医学もその例に漏れなかったと謂うだけのことである。しかし、明治以来通常医療の医師免許を取得した者以外は「医師」を名乗れなくなったので、法的には「漢方医」と謂う日本の伝統医療の職業医師は絶滅したと謂っても好いだろう。

ただし、ややこしいことに「漢方医学」が本邦において主流的になる以前、平安期頃までは日本古来の伝統医療が存在し、「漢方医学」の興隆に伴って一時期廃れたのであるが、江戸時代中期の国学の台頭によって見直され、これを「和方医学」と称したと謂うことである。であるから、順序として「蘭方医学」に対して「漢方医学」と謂う呼称が生まれ、その二者との差別上「和方医学」と謂う呼称が発生したと謂う経緯になる。

とりあえず、本稿の論旨においては、「漢方医学」と謂うのは、古代から近世に至るまで本邦において主流医療の位置附けにあった中国起源の医学体系である、と理解しておけばほぼ不便はない。現在、主に「漢方医療」に類する行為を行っている公許の資格職は薬剤師と鍼灸師であり、これらは国家資格である。

さて、この漢方医学であるが、よく識られている通りその理論体系は、起源を春秋戦国時代以前の神話的古代にまで遡る陰陽五行思想に則っている。つまり、ぶっちゃけて謂えば、科学的には完全なる虚構である。その意味で、古代ギリシアにまで遡る生気論を背景に持つハーネマンのバイタルフォース理論とおっつかっつのフィクションである。

さらに、その具体的理論においても「気の流れ」と謂う概念でバイタルフォースのような「生気」を想定しており、人体内部の物質的現象については無視しているわけであるから、一見して漢方医学とホメオパシーは類似した性格を持っているように見える。

しかし、そのような類似にもかかわらず、漢方薬は効くがレメディは効かない。漢方医療と一口に言っても、漢方薬を処方する生薬方と、物理的な治療技術である鍼灸に大別され、鍼灸の治療効果は実のところ確認されていないが、少なくとも現在の漢方薬に関しては確実に効く。さらに謂えば、陰陽五行思想や気血水理論のような虚構の理論で駆動していながら、漢方医療は独特の実効を持つ診療技術を具えている。

この違いは何処から出てくるのかと謂えば、漢方医学は生薬方の領域で物質性の次元に足場を持っているからである。ホメオパシーの場合、医学理論がフィクションであるばかりでなく、その治療技術であるレメディもまた高度な希釈・振盪によって原物質を一切含まない為に、物質性の次元とは完全な断絶がある。そこが決定的に違うのである。

もしもハーネマンの理論が希釈・振盪と謂う操作を必要としないものであったなら、少なくとも漢方医学の西洋風パスティーシュくらいにはなれていたかもしれないが、残念ながら物質性の次元と完全に切れてしまうことで、幾ら研究を重ねても何もないところをどれだけ掘っても何も出ないと謂うしょっぱい結果になったのである。

まず、大前提として漢方薬には物質的な実効が存在する。勿論、中にはまったく何の効果もないとか、それどころか有害無益なものも存在するが、近代以降の研究でそれらの不良な漢方薬は篩に掛けられ放棄されている。そして、それぞれの漢方薬の効果や適用すべき症状は経験則によって知識が蓄積され、分類整理されている。

また、漢方医療で特徴的なのは前述した診療技術…と謂うかそれが限定的には有効であると謂う事実である。一口に四診と謂って五感を駆使した四種類の基準に基づく診察を行い、あらゆる外面的な情報を把握し、家族歴や既往歴、愁訴などを細かく聴き取る。

そして、それらの情報を総合して、陰陽五行思想に基づいて分類された疾病概念に照らし合わせ、患者の病像を推定し、それに基づいて治療方針を決定し施薬を行う。この施薬で患者の肉体にどう謂う影響が出るかを比較的長期的なスパンで観察し、患者の症状や体質と施薬が合わないようなら、その時点で得られた情報を元にして改めて推定を修正し、別の方針を立て、以下治療効果が顕れるまでこの微調整を繰り返す。

ここまでの説明で、ホメオパシーに詳しい方なら、その理論構造や診療技術がホメオパシーのそれと酷似していることに改めて驚かれるだろう。

それはそうである。基本的にホメオパシーと漢方医療は細かい差違を抜きにすれば非常に似通った生気論的で統合医療的な理論構造を持っているし、現代の通常医療のような体内の物質的現象を精査する手段を持たない時代の診療技術なんてのは、患者を細かく観察して試行錯誤を重ねる以外にはないのだから概ね似たような形になるものである。

前述の通り、ホメオパシーと漢方医学の本質的な差違は「漢方薬は効くがレメディは効かない」と謂う、その一点に収斂する。しかし、いずれの医学理論も現代科学の観点で謂えば虚構であることには違いがないはずである。であれば、ホメオパシーの診療技術に実効がないことは簡単に理解出来るが、何故漢方医学の診療技術は或る程度実効を持つことが出来るのだろうか。

それはつまり、漢方医学における陰陽五行説と謂うのは、実質的には単なる分類手法上の記号的概念に過ぎないからだ、と謂うのがオレの意見である。飽くまで軸足は漢方薬の持つ実効性に置いているのであって、陰陽五行思想や気血水理論と謂うのは疾病と薬剤を分類する為に実装された分類記号の体系としての性格を持っているのではないかとオレは考えている。

診療において重要なのは、患者の病像の妥当な推定と、その治療に用いる漢方薬の組み合わせであり、漢方薬の薬効が概して通常医療のそれと比べて一般に穏やかで副作用も少ないことを利用して、試行錯誤を繰り返しながら最適な薬剤を決定する手順として上記のような診療技術が機能しているわけである。

であれば、実際には陰陽五行思想のような根幹理論は、疾病と薬剤を妥当に分類し関連附けることが出来れば実質的な機能を果たし得るので、説明原理自体は虚構であってもまったく問題はないと謂うことになる。

その虚構は、薬剤と症状の相互関係の実態に即して付会されているのであるから、喩えて謂うなら、「雨が降るのは雲の中で水蒸気が氷結して落下してくるのだ」と説明しようが「雲の彼方に龍神がいて神通力で雨を降らせているのだ」と説明しようが、地上に雨が降ることに違いはないのと同じことである。

ここまで語れば、ほぼ同じ理論構造を持ちながらホメオパシーが「プチ漢方」になり損ねた理由も自ずと明らかで、実効ある薬剤と謂う物質性の次元の軸足を持たなかったホメオパシーにはプラセボ効果と確証バイアスしかないのであるから、四〇〇〇年どころか一〇〇万年繰り返しても妥当な経験則が積み上がるわけがない。

また、時計を現代に戻して考えれば、現在生薬方を担当している専門職は漢方を研究した医師か薬剤師のどちらかなのであるから、いずれも高度専門職として科学的な専門教育を受けている。であるから、現在普通一般に生薬方に携わっている職業者は陰陽五行思想に基づいて漢方薬の作用機序を考えているわけではない

漢方薬と謂ったって通常医療の薬剤と本質的な違いがあるわけではなく、化学合成物ではなく生薬由来で不純物を含み、それらの独自の組み合わせに基づいていると謂うくらいの違いしかない。漢方薬の作用機序は基本的に現代科学で記述可能であるし、現在漢方薬を扱っている職業者は通常医療の薬学とまったく同じ道具立てで漢方薬の作用機序を考えている。薬剤の性格がちょっと違うと謂うだけのことであるから、当然通常医療と接続可能である。

まあ、どんなことにも例外はあるから、かなりアタマのネジが緩んでいる人間が紛れ込んでいないとは断言出来ないが(笑)、マトモな専門家なら普通の科学的常識を持ち合わせていると考えるのが妥当である。

そして、そのようなマトモな専門家なら、誰一人として漢方医療で万病が治療出来ると考えているようなおっちょこちょいはいないだろう。そもそも本邦の歴史においては、漢方医学の限界を超克する形で蘭方医学が導入され、近代の訪れと共に欧化政策の一環として「西洋医学」が主流医療の位置附けに納まったのであるから、漢方医療に現代の通常医療を上回る万能性があると考えるべき合理的な理由がない。

ただ、鍼灸に関しては実効のエビデンスが殆ど確認されていないと謂うことで、ホメオパシーのように「真っ黒」ではないが、治療効果があるとしても限局的なものに留まるのではないかと謂う観測が主流的なようである。

歴史的に、江戸期に盲人の専管職とされ「医術」と分岐したこともあってかなり特殊な位置附けになるが、少なくともエビデンス的に「真っ黒」ではなく限局的とは謂え実効がある「かもしれない」と考えられている状況なのであるから、現時点において「鍼灸は効く」と考える人がいるのであれば、別段鍼灸を排斥すべき理由はない。

現時点の社会的認知から考えて、鍼灸の支持者が医療忌避に趨ると考えるべき理由もないし、将来的に否定的なエビデンスが得られれば自然に廃れるだろうし、それなりの実効があると確認されれば現状のように通常医療と棲み分けたまま存続する、それだけのことである。

また、生薬方や鍼灸と並んで日本の代表的な代替医療に柔道整体と謂うのがあるが、これは単に骨折や脱臼等の外傷に対して通常医療の整形外科術とまったく同様の治療を非観血的手段において施療するものなのであるから、理屈の上から謂っても通常医療と相互排除的な関係にはなり得ない。しかもその起源から考えて適用範囲は骨や関節の外傷に限られているのであるから、何ら原理的な危険性はない。

さて、このように漢方医療や柔道整体を駆け足で上っ面だけ眺めた程度で何か纏まったことが言えるものでもないが、何となくヒントめいたものが得られたと謂うことくらいは言えるだろう。

●代替医療とは何か

これまで視てきたように、漢方医療は別段迷信ではないしオマジナイでもない。通常医療に比べて限定的ではあるが、具体的な実効を具える医療技術の体系であり、単に精度的な面で蘭方医学とは次元が違っていた為に、主流医療としての位置附けを奪われただけである。柔道整体だって、武術の実践の中で殺法と表裏の関係にある活法として経験則的に編み出された骨格の外傷の治療技術である。

他の国の伝統医療はどうだか詳しいことは識らないし、これ以上細々と能書きを並べ立てたら幾ら辛抱強い読者でも辟易すると思うのだが(笑)、どんな文化圏でも疾病や外傷に対抗する為の伝統的技術体系は存在するはずで、場合によってはそれが呪術以上のものではないこともあるだろうが、特定文化圏における最先進国が経験則的に編み出した原始的な医療技術の伝統はあるはずである。

そうでなければ、近代以前の人類は「まったく実効のない」妄想的技術によって疾病や外傷に対処してきたことになり、科学の進歩によって「妄想が現実になった」と謂うことになるが、当然そんなことはないのである。

個々の文化圏における伝統医療は、単に現代医療に比べてその効力の範囲が極めて限定的であり、検証手段に経験則以外の手法を持たなかった為に精度面で問題があり、プラセボ以上の効果がない施術や、逆に治癒に悪影響をもたらす施術も含んでいたと謂う違いがあるだけである。

そして、歴史的な観点においては、本邦において蘭方医学が漢方医学に取って代わったように、独立した体系相互間ではより優れた効果を示す方法が採択され、従来主流的であった体系の権威は失権する、そのようなダイナミズムで主流医学が推移してきたと考えて好いだろう。

旧来の伝統医療と新しい医療技術体系は競合的関係にあり、基本的に目覚ましい実効を示す体系のほうが勝って、主流医学の位置附けに取って代わる。和方に対して漢方が勝利を収め、その後蘭方に取って代わられた歴史がそれを物語っている。

そしてそのようなダイナミズムの現時点における頂点に通常医療が位置するわけであるが、通常医療が現代医学と謂う自然科学に基づく普遍的な妥当性の根拠を持っている限り、これは揺らがないだろう。現時点における通常医療は、すでに「並列的な選択肢の中で最も優れたもの」と謂うだけではなく、人間が疾病や外傷に対処する場面における基本的枠組みとして機能している。

つまり、通常医療と伝統医療の本質的違いとは、通常医療が依拠している現代医学=自然科学が客観的妥当性を担保し検証の精度を保証していることにあるのであって、この一点によって通常医療は伝統医療とは次元を画する位置附けに立っているのである。この意味で、通常医療と他の医療体系は並列的な関係にはない。

すべての医療行為に実効があるか否か、それがどのような機序によって何に対してどの程度影響を与えるのか、これを必要にして十分に検証し得る機能を具えている規範は、現時点では現代医学しかない。であるから、どんな医療体系の施術であれ、その実効が確認されると謂うことは、通常医療のサブカテゴリーに組み込まれると謂う意味になるのである。

たとえば、これまでの考察から結論附けるなら、実は「漢方医学」と謂うものは現時点で実践的な医学体系として現存していないと謂って好い。現存しているのは「漢方薬」と謂う薬剤のサブカテゴリーのみであって、これは現代医学や現代薬学において実効が確認されたものであるから、実質的に通常医療の薬剤と本質的な差違はない。

通常医療が主流医療の位置附けに置かれた明治期以降の漢方研究において、現代医学の観点で多くのコストを費やして検証された「漢方薬」が「漢方医学」のレガシーとして現存していると謂う表現のほうが正確だろう。

自然物由来の毒物が現実に生物を殺す以上、少なくとも生薬方の薬剤に薬学的実効が存在することは現代薬学の常識に照らして当然なのであり、限定的なレベルにおいて治療実績を挙げていたと見積もるのが妥当なのであるから、その薬学的実効が治療目的に照らして的確に用いられていたかと謂う観点における検証作業にはコストを費やすべき根拠とメリットがあったわけである。

一方、現代医学の規範に照らして黒白の附かなかった部分、つまり漢方医療における物理的治療術であった鍼灸マッサージのほうは、「医療行為とは別のもの」としてカテゴライズされ、実質的に医療行為に類する施術を必要とする都合上、法的な特例として扱われることで存続しているわけである。

その意味で、本邦における通常医療と漢方医療の関係性を、単純に「主流医療と民間療法」と謂う対比で捉えるのは間違いだと謂えるだろう。

そもそも漢方医療は厳密に謂えば「民間療法」ではなく「伝統医学」であって、その両者の間に原理的な区別はないが、後者には一種のスケールメリットが存在すると謂えるだろう。

つまり、前者は無根拠な個人の経験的実感が、たとえば宗教のような文化依存的な要因によって何らかの形で共同体内部に普及した結果、一種の「迷信」や「デマ」として広まると謂う伝播の形態が想定出来るが、後者の場合は社会全体に「学」として共有されることで、経験則の精度が格段に高くなると謂うメリットがあるだろう。

その意味で、固有の文化圏における伝統医学を現代医学の観点で検証し、実効の確認されたものをレガシーとして通常医療に組み込むと謂う作業は、何処の文化圏でも一定の見込みのある投機だと謂えるだろう。

ただし、通常医療がこれだけ成功を収めた現在において、今更伝統医療を通常医療と並列的に扱うべき医学的な意味は一切存在しないだろう。つまり、大前提として伝統医療に可能なことは通常医療にも可能であり、その逆は成立しない。

この前提に立って考えるなら、たとえば現在の時制において通常医療と漢方医療を併置して後者を選択すると謂うことには、精々近世レベルの医療水準を選択すると謂う意味しかない。それはすなわち、近世の時代性において手に負えなかった疾病に漢方医療では対処不能だと謂うことである。

もしも漢方医療に存続の余地があるのだとすれば、その適用対象は近世レベルの医療水準で対処可能な疾病に限定されることになるのであるが、その診療技術に通常医療のそれが具えているような必要にして十分な精度が保証されていない以上、漢方医学の規範の埒内においてその弁別を見極めることは不可能である。

であれば、現実的に可能な存続の在り方と謂うのは、通常医療の監督下において漢方医療で十分対処可能と判断された疾病の患者を漢方医療に廻すと謂う在り方しかないわけで、それは単に社会的リソース配分の問題に過ぎなくなる。

原理的に謂って「漢方医療に任せたほうが治療効果が高い」と謂うようなことはないわけであるから、通常医療に対する一極集中を回避する社会的なソリューションとしてよりコストの低い医療技術を活用すると謂う意味しかないと謂うことになる。

つまり、漢方医療を「代替医療」とか「補完医療」と呼称する場合は、その「代替」とか「補完」と謂う言葉は、医学的な意味合いではなく社会的な意味合いしかないと謂うことである。

前述の通り、現在「代替医療」「補完医療」の候補と目されている療法の中で最も見込みのありそうなものは「民間療法」ではなく「伝統医学」と謂うことになるが、その最も見込みの高い伝統医学にしてからが、医学的な意味で通常医療と「代替」可能であるとか通常医療の欠落を「補完」すると謂うことにはならず、社会において通常医療の医療サービスが占めている「役割」を「代替」なり「補完」なりすると謂う辺りのところが精々である。

現今の議論では、この弁別が混同されている…と謂うより代替医療サイドで意図的に混用していると謂う言い方が妥当だろうが、医学的レベルの問題と社会的レベルの問題を意図的にすり替えて、通常医療の医学的な意味における限界を「代替」「補完」するのが代替医療だと謂うレトリックが弄されている。

●代替医療は「実在しない」

以上のような考察から得られる結論とは、現代医学とは異質な代替医療の理論体系と謂うものには今更考慮の余地はないと謂うことである。

たとえば、漢方薬が薬学的実効を持つと謂う事実と漢方医学の理論体系とはまったく関係がない。たとえば、漢方医療の物理的療法である鍼灸マッサージは治療的実効が確認されていない為に「医療行為」としては扱われていない。たとえば、柔道整体は通常医療の整形外科術を非観血的な手法で行うものでしかない。

現代医学の規範に則って検証した結果、実効を確認された技術が理論とは無関係に採用されているだけのことで、漢方医学の根幹理論そのものは単に放棄された古代の遺物でしかない。中国四〇〇〇年の歴史が現代に遺したものは、「効く薬」であってそれが効く原理ではない。

漢方医学乃至中医学と並列的に扱われる伝統医学にアーユルヴェーダがあるが、この根幹理論も漢方医学の陰陽五行説と似通った生気説的構造に則ったフィクションである。ざっくり調べた限りでは、限定的な実効を具える施術も含まれているのではないかと思えるが、それはアーユルヴェーダの根幹理論とはまったく関係がない

これらの伝統医学は、古来伝承されてきた個別の療法を経験則的に検証し、見込みのありそうな技術を疾病と関連附けて分類整理し、それらの蓄積された知見や技術を実践的に活用する為に体系化したフィクションであると見做して好いだろう。

つまり、特定文化圏における伝統医学と謂うのは、個々の文化圏における個別の民間療法の集合体であり、それを大規模な経験則的検証によって篩い分け、当時の精度なりに実効が確認されたものを採用し、それらの断片を体系化する為に文化圏毎に採用されている主流的な思想と整合させた「説話」を編み出したものと謂えるだろう。

であるから、これらの伝統医学には、経験則なりの精度で時代の検証を経た「使える技術」が含まれていることは事実であるが、それを体系化した理論構造自体は単に便宜的な分類概念として機能していただけのフィクションである。

これらは要するに、古代人が空から雨が降ることを不思議に思い、その疑問に答える為に「雲の彼方に龍神がいるのだ」と謂うフィクションを措定したのとまったく事情は変わらない。おそらく、理論が先にあったのではなく、自然発生的に「効く技術」が発見され、それらの技術を体系化し「効く理由」を説明する為の「説話」として理論構造が後附けで生まれたと謂うのが真相だろう。

これはつまり、理論からの演繹によって生み出された技術には効く保証などまったくない…と謂うか、寧ろ効くほうがおかしいと謂うことになる。順序が完全に逆なのであって、効く技術がまず存在して、その後附けの説明原理が理論なのであるから、説明原理から還元した技術はまず以て効かないのが当たり前である。

であれば、ホメオパシーが何故効かないのかと謂う設問の解は、敢えてそれを問うのが愚かなくらい自明であって、生気論的伝統に立つホメオパシーの根幹理論はこれらの虚構的理論とほぼまったく同一の理論構造を持っているのであるが、「効く技術」の説明としてではなくこの理論から出発して「効くと考えられる技術」を創出しているのであるから、普通に考えてその技術が効くはずはないのである。

現代医学の観点において伝統医学を検証すると謂うことは、古代から人間が経験則に基づいて検証し「効く」と見做した伝統的技術の断片を、改めて現代科学の精度で洗い直し取捨選択する作業と謂うことになるわけで、そこで重視されているのは個別の治療技術であって、その説明原理ではない。

漢方・中医学の陰陽五行説にせよアーユルヴェーダのヒンドゥー思想にせよ、それ自体には何ら考慮すべき医学的意味などはない。現代医学が研究対象としているのは個別の技術の実効であり、特定の伝統医学の技術に実効が確認されたとしても、それはその伝統医学と現代医学が並列的関係にあることを意味するのではなく、歴史的過去においてその伝統医学が経験則的に行った検証作業を現代医学がやり直すことで、歴史的遺産を自らの体系に繰り込んでいるだけのことである。

つまり、厳密に言うなら「代替医療」などと謂うものは実在しない。われわれが依拠している医学理論とは須く現代医学なのであって、それ以外のものではあり得ない。漢方薬を採用するとしても、それは漢方医学の理論を採用しているわけではなく、その理論によって体系化された個別の技術を現代医学が再包摂しただけのことであるから、実質的には漢方医学は絶滅したと謂って好い。

これはあらゆる「代替医療」に共通する事実であり、仮にその代替医療の個別の技術が科学的検証によって実効を確認されたとしても、その際に適用される理論体系は現代医学なのであるから、それに反する理論体系自体は放棄されるのである。

われわれが必要としているのは個別の実効ある医療技術のみであって、それを説話的に整合化する為の後附けのフィクションなどは必要ない。その位置に立てる理論体系は現代医学のみなのであるから、厳密に言えば「代替医療」などと謂う医学理論体系は実在しないのである。

その意味で、現代医学がホメオパシーに冷淡であったとしてもそれは当たり前のことであって、ホメオパシーは「効く技術」を体系化した理論ではなく、出発点に理論があってその演繹から技術を創出しているのであるから、その理論に現代科学の観点で見込みがないのであれば最初の最初から「効く技術」を内包していると視るべき理由がない。

もしもホメオパシーが実際に「効く」のであれば、それはハーネマンの理論が正しいからではなく、単なる「偶然」である。見込みのない理論から「偶然に」効く技術が創出された極僅かな可能性を検証する為に相応のリソースを振り向けるのは誰だっていやだから、マトモな研究者が誰一人ホメオパシー研究に魅力を感じないのは当然である。

さらに、ホメオパシーが「効く」と主張している治療技術のレメディが原物質を一分子も含まないただの砂糖玉に過ぎないことが判明した時点では、現代科学の常識においてそれが「効かない」と視るべき積極的な根拠が得られたのであるから、さらに天文学的レベルでその「偶然」が起こった確率は低くなる。

ハーネマンの理論は、この二〇〇年間の間に生み出された通常医療の夥しい知見の集積とは比較にならないほどちっぽけで単純なものに過ぎないが、そのちっぽけで単純な理論は通常医療を完全否定していて、さらにその理論に則った治療技術はレメディ投与と謂う絶望的にちっぽけで単純な「たった一つのやり方」でしかない。

そして、ホメオパスと謂うのは、実効を持つことが限りなくゼロに近い確率しかない技術を習得したと謂う制度的保証しかない「専門」職であって、通常医療を完全否定しているのであるから、たとえ通常医療の教育を受けた者であろうと、ホメオパシーを信奉している限りは、実質的には通常医療の医学知識を持っていないのと同じことである。

冒頭で視てきたように、現代のホメオパシーはそんなことを一切意に介さない。

たとえば、われわれの住む世界の現実においては、漢方薬は効くがレメディは効かないのだし、それは現代科学と謂う同一の規範に基づく違いであるが、ホメオパシーの規範においてはまったく違う世界が見えている。

漢方薬が効くのとは別種の次元でレメディは効くのであり、それは霊性の次元の現実であるから物質性の次元の法則性には左右されない。であるから、ホメオパシーが波動だの物質の記憶だのと言い出すのは「こじつけの言い訳」と謂う以前に理の当然なのであり、ホメオパシーが霊性の次元の法則性に則っている以上は、それを記述出来るのは霊性の次元の原理だけなのである。

そして、科学者だって宗教の信仰者になり得るのであれば、原理的に通常医療の知識とホメオパシー信奉はまったく無矛盾で両立し得るのである。

そう謂う次第で、今回は山口訴訟の和解とそれに纏わる議論を踏まえて準備稿にかなり手を入れた関係で、今一つ論旨を絞りきれなかった憾みがあり、散漫な内容になったと謂う反省があるのだが、ひとまずホメオパシー自体に関する考察はこのくらいで切り上げて、次回はホメオパシーの許容可能性について考察してみたいと思う。

〈2011.01.13追記〉

その後いろいろ調べてみて、漢方医療についてのオレの認識には多分に誤りがあることが判明したので、謹んでお詫びするとともに本文の記述を以下の通り訂正・註釈させて戴く。そうすると、本文の論旨全体にも影響が出てくるのであるが、今後の戒めとして逐一修正することはせずにそのままにしておこうと思う。

>>調べてみて改めて識ったのだが、日本には「漢方医」と謂う国家資格そのものが存在しない。法的に謂えば、通常医療の医師免許を持つ医師が漢方医療を施術する場合にのみそのように呼び得ると謂うだけで、純粋な「漢方医」は日本には存在しない。

>>たとえば、これまでの考察から結論附けるなら、実は「漢方医学」と謂うものは現時点で実践的な医学体系として現存していないと謂って好い。

これは誤りであり、単に「漢方医」と謂う公許制度がないと謂うだけのことで、「通常医療の医師免許を持つ医師が漢方医療を施術する」と謂う意味での「漢方医」については、日本東洋医学会が学会内制度として「漢方専門医」を認定するシステムを制定していると謂うことである。

これらの認定医が「漢方医」として開業したり、大病院の「漢方外来」で漢方医療を施術していると謂うことで、現在学会で認定されている「漢方専門医」は二四二〇名と謂うことであるから、これは決して少ない数とは謂えないだろう。日本東洋医学会のサイトの「1−1 基本概念 漢方薬治療は医療行為」を視ると、

>>漢方治療は日本の伝統文化であると同時に、欠くことの出来ない医療行為そのものです。日本では多くの医師がその専門性を生かして漢方薬を現代医学的に用いようとしています。その一方、伝統的な漢方医学の考え方に基づいて漢方薬の運用についても、すべての医学部での講義が開始されました。その理由の一つに医薬品である漢方薬には有益な面がある一方、副作用等の危険性や漢方的に誤った診断を下したため不利益な事象が発生する誤治の問題が存在するのです。そのようなことを回避するため、治療中に医師の管理が必要となります。漢方薬の効能を十分発揮去れ、安全に使用されるためにはきちんと漢方を修得した医師の治療をおすすめします。(原文ママ)

…となっているのであるが、そこで説明されている診察法は本文で記述したような漢方の診療技術そのものであるから、要するに「漢方専門医」は現代医学の基礎知識を持っていると謂うだけで、日本古来の漢方医とほぼ同内容の施術をしているわけである。

日本東洋医学会認定漢方専門医は、実効の有無を捨象してホメオパスに喩えるなら帯津系のJPSH認定ホメオパスと同じような資格になるわけで、通常医療の医師資格はあるが、実際の医療行為としては漢方医療を行っていると謂うことになる。

現実的なことを考えれば、医師免許を取得してから日本東洋医学会で認定を受ける為の研修を受けた上でさらに鍼灸マッサージの資格を取得するのはコストが掛かりすぎるから、漢方専門医は専ら漢方薬治療を行うものだと解釈出来るが、そのような熱心な医師がいないとは限らないし、同一人物が鍼灸師を兼ねる必要はないから漢方外来や開業医院で鍼灸師を雇えば済むことである。

>>であるから、現在普通一般に生薬方に携わっている職業者は陰陽五行思想に基づいて漢方薬の作用機序を考えているわけではない。

従ってこの部分についても少し補足する必要が出てくるわけで、おそらく個々の漢方専門医は、薬学的な作用機序については科学的な理解をしているだろうが、医学体系としては陰陽五行思想に則った漢方医学の理論に依拠していることになる。

そして、経験則に依拠した精度的に劣る診療技術と説話的な虚構の医学理論を採用している以上、通常医療の観点における診察の精度は個々人の知識や技倆に左右されるわけで、通常医療との接続の好適性にも疑問が残る。

>>漢方医療と一口に言っても、漢方薬を処方する生薬方と、物理的な治療技術である鍼灸に大別され、鍼灸の治療効果は実のところ確認されていないが、少なくとも現在の漢方薬に関しては確実に効く

>>現存しているのは「漢方薬」と謂う薬剤のサブカテゴリーのみであって、これは現代医学や現代薬学において実効が確認されたものであるから、実質的に通常医療の薬剤と本質的な差違はない。

さらに、この部分の記述も誤りで、漢方薬は前出の日本東洋医学会の圧力で七六年に無審査で保険適用を受けていると謂うことであるから、二重盲検による臨床データを一切提出していないわけである。個別に論文等でエビデンスが確認されている薬剤もあるのかもしれないが、制度上は「効くものもあるだろうが効かないものもあるだろう」と謂う以上のことは言えないことになる。

大きな誤りとしては以上のようなものであるが、この誤認識から漢方医療に対して過剰に好意的な記述に傾いたことは事実であり、事実誤認はもとよりその点に関しても全面的に意見を撤回乃至留保する。その旨、改めてお詫びをする次第である。

その意味で、この訂正によってニュアンスの変わってくる記述もあるが、前述の通りそれは逐一修正しないことにさせて戴き、また、大枠の論旨に関しては、幾分割り引かれる形にはなるが、大きな矛盾はないと考える。

それ以外にも何か誤りがあるのであれば、遠慮なくご指摘を乞うものである。

|

« ささやかな幸福 | トップページ | twitterを始めた »

コメント

とくにトラコパシーは、「日本独自の奇怪な新宗教」というわけではないですよ。
海外においてもトラコパシー同様の通常医療否定型のホメパチは存在します。

海外でもホメパチによる犠牲者が出ています。最近も、いまだにマラリア予防にレメディを処方するホメオパスがいることをBBCが問題にしてます。
http://www.quackometer.net/blog/2011/01/in-five-years-the-society-of-homeopaths-have-learnt-nothing.html

投稿: ながぴい | 2011年1月11日 (火曜日) 午後 10時22分

>ながぴいさん

>>とくにトラコパシーは、「日本独自の奇怪な新宗教」というわけではないですよ。
>>海外においてもトラコパシー同様の通常医療否定型のホメパチは存在します。

ああ、ちょっと書き方が紛らわしかったかもしれませんね。総括も三回目になると長すぎて全貌が鳥瞰しづらくなっていますが(笑)、霊性の次元を重視することと、ホメオパシー的治療を阻害するアロパシーを忌避すると謂う性格は、ほぼホメオパシー全般に共通する特徴ですね。

kumicit さんのところも拝読していますから、ご紹介の記事についても聞き及んではいますが、マラリアに対してレメディを使用すると謂うのは、ハーネマンがホメオパシーを主唱するきっかけとなったのがマラリアとキニーネの関係であることを思えば原典の解釈としてオーソドックスですよね。

ですから、霊性の重視や通常医療拒否を直接指して「日本独自の奇怪な新宗教」と表現しているわけではないんです。クラシカルだろうがプラクティカルだろうが、ホメオパシーはいつでも通常医療に対して対立的な立場に立ち得る原理的可能性を内包していると謂うのが、これまでの総括で視てきた結論です。

トラコパシーを「日本独自の奇怪な新宗教」と表現した理由は、前回の総括で視てきたように、ハーネマンの理論にニューエイジ思想を振り掛けて由井寅子個人の痙攣的思い附きや呪術的思考をまぜこぜにしたような独特の原典解釈と、JPHMA式のホメオパシーのカリスマ型新宗教と酷似した構造の故です。

普通一般のホメオパシーは、通常医療とほぼ同じ意味で「病気」と「治療」と謂う概念を捉えていて、ハーネマンも普通の意味で「ホメオパシーには病気に対する治療効果がある」と主張しているんですが、トラコパシーにおいては普通の意味では病気は治らないんです。寧ろレメディは普通の意味では病気を悪化させるものであって、それによって真の「病気」を治すのだと主張しているんですね。

で、その「真の病気」ってのは何かと謂うと、魂が歪んでいる状態のことで、魂がその目的を果たせない状態だとか前世のカルマがどうしたとかインチャがどうのこうのと謂うような、常識的に考えて日本独自と視られるトンデモアイテムのてんこ盛りになっているんですよ。

ですから、トラコパシーにおいて「病気を治す」と謂うのは、「魂が在るべき姿を取り戻す」と謂うような宗教的概念を指すわけで、たとえばアトピーの痒みが納まるとか癌の病巣が消失するとか、そう謂う意味ではないんです。普通の言葉で言えば、病気が悪化しきらないと真の病気は治らないし、真の病気が治らない限り普通の意味における病気も治らないと謂う、やっぱり宗教紛いの循環的な主張をしているんです。

どうやら、こんな変な理論解釈のホメオパシーはトラコパシーだけみたいですよ。

投稿: 黒猫亭 | 2011年1月12日 (水曜日) 午前 05時43分

凡庸な意見だが、ホメオパシー問題には社会経済問題としての側面も確実にあるんだろうなとか思ったり。民主党政権が代替医療や統合医療に寛容…と謂うか積極的に活用していこうと謂う姿勢なのであれば、代替医療分野とは謂わば今後成長が見込める新規のサービス業種と謂うことになるわけで、この就職難の時代にはホメオパスが将来的に有望な資格職として魅力的に映る人々も一定数いるのだろうな、と。

ホメオパス養成教育に掛かる金銭的・時間的コストは決して低いものではないから、今更ホメオパシーにみた夢や投資の回収を諦めるのは抵抗があるのだろうと思う。一旦これに賭けてみると決めた以上、四年もの時間と多額のカネを無意味な御伽噺の為にドブに捨てたとは誰も思いたくはないよな。

そう謂う意味でホメオパス志望者のホメオパシー盲信には、自分の人生設計や先行きの展望を防衛したいと謂う性格も強いのだろうし、その分だけ切実で厄介だとも謂えるだろう。そうは謂っても、社会的モラルに問題のある事業領域ってのは遅かれ早かれ世間から叩かれる宿命にあるわけだから、自分自身が人を死なせてからではもう後戻り出来ないんだけどね。

投稿: 黒猫亭 | 2011年1月12日 (水曜日) 午後 07時37分

こんにちは。

諸処の事情でちょっとばかし疲弊しているうさぎ林檎でございます。

ハーネマンは症状の抑圧をアロパシーの治療を批難することと同義に使っただけで、"症状はありがたい"などとは書いていません。
"症状を出し切る"ためにレメディーを使うというデトックス発想は、まさしく瀉血と一緒です。
トラコパシーは、他のホメオパシーと比べてもデトックスに大きく舵を切っています。そのことでより危険な道に足を踏み入れているとは言えそうです。
#祖父母・父母、三代にわたるマヤズムとかわけわからんです。

ところで、世界の伝統医学はこんな分類になるようです。
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/trad_medicines/tradmed_of_the_world.htm
日本:漢方(針灸などを含む)
韓国:韓医学
中国:中医学、チベット医学
インドとその周辺:アユルベーダ、アラビア医学、ヨーガ
ミャンマー:ビルマ伝統医学
インドネシア:ジャムゥー
アラブ諸国:アラビア医学(ユナニ医学)
欧州:ホメオパシー、アロマテラピー、自然療法など
アメリカ:インディアン伝統医学、カイロプラクティック
ここには
>伝統医学のすぐれた部分の西洋医学へ統合が試みられている
とあります。
どの伝統医学もどれ程通常医療に取りこぼされた未知なる要素が残っているのかには疑問を感じますが、効果があるものは取り入れられていくでしょうね、医学は貪欲なものでしょうから。

しかし伝統とする国の国力もあってアーユルヴェーダやユナニ医学がWHO内で発言力を高めているのは気になるところです。
http://ghe.med.hokudai.ac.jp/Others/whohealth.html

ただ伝統医学の場合はKumicit様が指摘されておられたように、貧困と深く結びついていますので、切り分けて考えていかなければならない面もある難しい問題だと思います。
勿論、現代日本におけるセレブな代替医療は問題外ですけどね。

投稿: うさぎ林檎 | 2011年1月12日 (水曜日) 午後 09時14分

うさぎ林檎さんが少し触れられた、瀉血との関係で言いますと、あんな「百害あって一利なし」みたいなものよりは、「何もしないほうがマシ」というホメオパシーが19世紀のヨーロッパに広まったのですよね。
そのころの日本には、「何もしないよりマシ」な漢方というものがありましたから、ホメオパシーなんて入り込みませんでしたし、もっとマシな現代医学が導入されたら、ホメオパシーが入ってくる余地はないのです。

投稿: mimon | 2011年1月12日 (水曜日) 午後 10時56分

>うさぎ林檎さん

>>諸処の事情でちょっとばかし疲弊しているうさぎ林檎でございます。

咳喘息でしたっけ、お大事になさってください。正月にも熱発して寝込んだばかりですし、無理は禁物ですよ。その割にはこき使ってますが(笑)。

>>"症状を出し切る"ためにレメディーを使うというデトックス発想は、まさしく瀉血と一緒です。

何度も書いていることですが、ハーネマンの理論とトラコパシーってまったく違うことを言っているんですよね。ハーネマンは一種の霊的エネルギーみたいなイメージでバイタルフォースを捉えていて、病気をもたらしているバイタルフォースの状態に対して同種の症状を惹き起こす物質をぶつけると、その物質の影響のほうが病気に打ち勝ちその後速やかにその影響が消失することで病気は治ると言っているんですが、トラコパシーではその根幹理論をまったく採用していないですよね。

その症状と同種の症状を引き起こす物質から作られたレメディは、単にその相乗効果で症状を悪化させて、それによって症状を出し切ることで病気は治るんだと言っているわけで、ハーネマンの理論とは全然逆のことを言っています。

つまり、「ハーネマンの理論:レメディ投与→症状消失」なのが「トラコパシー:レメディ投与→症状悪化」と謂うふうに完全に逆転しているわけで、こっちのほうが晦渋なハーネマン理論より直観的にわかりやすいことはたしかです。

このような、ハーネマンの理論と根本から対立するような解釈が、由井寅子独自の解釈なのか、彼女が学んだホメオパシーの個別の流派に淵源があるのかはわかりませんが、普通に考えてこれはホメオパシーとしてもかなり特殊なものではないかと思いますし、そこに日本的心霊観をふんだんに盛り込んでいるわけですから、最早ホメオパシーとは似て非なる日本独特の心霊療法みたいなものだと謂って好いでしょう。

そもそもレメディの位置附けからして全然違うわけで、以前「ハーネマンの理論に基づくならビタミンKの代替物としてのレメディは作れないはずだ」と言いましたが、考えてみればトラコパシーにおけるレメディってのは、原物質とまったく同じ症状を起こすものでしかないわけですから、ビタミンKのレメディはトラコパシーにおいてはビタミンKと同じものなわけですね。

で、普通に考えて「症状を悪化させるだけなら病気は治らないじゃないか」と謂うことになるのを「排毒」と謂う考え方で整合させているわけで、「排毒」と謂う考え方自体は各文化圏の伝統医学では一般的なものですね。病気を引き起こしている物質や生気のようなものを体外に排出すると謂うのは、直観的にわかりやすい…と謂うか身体の中にある病気を外に出すと謂うイメージは呪術的な感受性に訴えるものだろうと思います。

その意味で、ハーネマンの理論が曲がりなりにも当時のレベルで科学的な医学理論たり得たとしても、トラコパシーはそれを呪術のレベルに逆行させたものと謂えそうです。

>>トラコパシーは、他のホメオパシーと比べてもデトックスに大きく舵を切っています。そのことでより危険な道に足を踏み入れているとは言えそうです。
>>#祖父母・父母、三代にわたるマヤズムとかわけわからんです。

よく指摘されているように、これはアヤシゲな占い師や新宗教が「先祖供養」を名目に高額の物品を売り附けるのと似たような商売で「先祖の祟り」や「水子の悪霊」を「病気」と言い換えただけとも謂えますね。代替医療のように装っているだけで、その本質はやはり呪術的思考に訴求する新宗教なのだろうと思います。「因果」や「カルマ」がどうこうとか言うてますしね。

>>どの伝統医学もどれ程通常医療に取りこぼされた未知なる要素が残っているのかには疑問を感じますが、効果があるものは取り入れられていくでしょうね、医学は貪欲なものでしょうから。

漢方医学については、オレの認識に甘いところがあったようで、本文で述べたような大枠の事情とは別に、日本の伝統医学である漢方医療をそのまま実践している漢方専門医が存在するようです。これについては、後ほど補足の追記を上げます。

ハッキリ言えることは、明治期の欧化政策で現代科学に依拠している通常医療以外の専門家を公的資格として医師と認めなかったことが結果的に良かったと謂うことで、中国のように政治的な理由から通常医療と中医学を並列的に扱っていたら、今頃えらいことになっていたと謂うことでしょう。つまり、そのまんまで使える伝統医学なんてものはこの世に存在しないと謂うことです。

その意味で、代替医療としてアーユルヴェーダとかユナニ医学を本邦でもそのまんま認めてどうするんだと謂う話になるわけで、中には限定的に実効のある技術も多少は含まれているかもしれないけれど、体系として包括的に扱うのであれば、到底現代の基準で実用になるものではないはずですね。

じゃあ、それらの伝統医学に含まれているかもしれない有用な技術を篩い分ける為に国費を投じて相応のリソースを振り向けるのかと謂えば、予算不足の折柄そんな無駄遣いは勘弁してくださいとしか謂えないでしょう。それではそもそも代替医療を活用する社会的な旨味が薄いことになります。

それと、さらに調べてみると漢方薬は日本東洋医学会の圧力と謂う政治的な理由で二重盲検の臨床データを要求されないまま無審査で保険適用を受けるに至ったそうなので、正確に謂えば未だ十分な科学的検証を経ているとは謂えないわけで、今後EBMの流れが進行して審査が厳格化すれば、「やっぱりダメなんじゃん」と謂うものもゾロゾロ出てくることが予想されます。

そう謂う意味では、仰る通り伝統医学から採用し得るレガシーは極々限定的なものに留まるでしょうし、現状では諸外国におけるホメオパシーと本邦における漢方医学は似たような位置附けになると謂うことで、本文では、

>>その意味で、固有の文化圏における伝統医学を現代医学の観点で検証し、実効の確認されたものをレガシーとして通常医療に組み込むと謂う作業は、何処の文化圏でも一定の見込みのある投機だと謂えるだろう。

…と書きましたが、さらに踏み込んで考えれば、このコスト収支は政治的な観点の基準も込みなんだろうと謂うことかもしれません。西欧以外のローカリティにおいてはやはり通常医療は「西洋医学」として輸入されたものと謂う性格がありますから、民族主義的な観点で伝統医学を尊重すると謂う側面もあるでしょう。

本邦における漢方研究も、動機面においてはその種の民族主義的な色彩が多分にあったように思いますし、だったら食養思想やマクロビなんかとも動機面で共通性があると謂うことになりますね。

>>ただ伝統医学の場合はKumicit様が指摘されておられたように、貧困と深く結びついていますので、切り分けて考えていかなければならない面もある難しい問題だと思います。

仰るように、たとえばインドでホメオパシーやアーユルヴェーダが盛んなのは、貧困問題や出身カーストによる差別の問題による部分が大きく、通常医療が贅沢品で貧困層向けの低コストの医療サービスが必要とされるからだ、と謂う性格は無視出来ませんね。

日本においても、政権サイドが導入に意欲的な代替医療なんてのは、蓋を開けてみれば「貧乏人は唾でも附けとけ」的なオマジナイみたいな位置附けにならないか、と謂うのが危惧されるところで、あんまりポジティブな意味を見出しにくいですね。

実際、一番見込みがありそうな漢方薬にしてからが、食品に含まれる有効成分よりは幾分強い薬効はあるにせよ、プラセボとしての心理効果のほうが寧ろ強いんじゃないかと思われる節がありますし、代替医療に国費を費やすくらいなら通常医療の充実に注力したほうがナンボかマシでしょう。

代替医療に何らかの有益な社会的役割があり得るとすれば、心気症と通常医療忌避の傾向を併せ持つ患者の受け皿として、と謂うことが考えられますね。この通常医療忌避と謂う傾向は、ホメオパシーの文脈では勿論ホメオパシーサイドが煽っている側面は強いのですが、動機自体は普遍的に存在するものだと思います。

総括の終盤でその部分にも触れる予定ですが、確実な実効を持つ通常医療はそれ故に人を死なせる可能性を多分に内包しているわけで、人間が行うことである以上は不正や事故は附き物ですし、確実に効く薬は必ずそれが体質的に合わない人間を一定数死なせることになるわけで、それが薬害として大きく報じられたりしますよね。

また、医者だってただの人間ですから不正やミスを犯しますので、医療過誤も大きく報じられ、これらの総合として「通常医療は危険だ」と謂う漠然とした印象を醸し出すわけですが、それは実効がある技術を人間が行使している以上は仕方のない現実です。その前提で考えるなら、決してリスクはゼロにはならないのですから。

ただ、それを「仕方のないこと」と受け容れられる人間ばかりではないから、通常医療を危険視して忌避に趨ったり、何処かに安全で人を死なせない理想的な医療技術があるのではないかと謂う幻想が生じるわけですが、まあ常識的に考えて、一〇〇%安全で人を死なせない医療技術がもしあるとしたら、それは実効がないと謂うこととイコールでしょう。

また、大昔から人間は「気の病」と謂うものを持っているわけで、肉体内部の物質的現象ではなく精神的な原因で病的状態に陥ることが多々あったわけですが、物質性の次元の医学では「何処も悪くない」としか言い様がないわけですよね。「何処も悪くない」以上は無闇に投薬や施術をするわけにはいかないですから、門前払いと謂うことになるわけですが、患者からすればその苦痛は現実に存在するわけです。

この場合、「有効な治療を受けている」と謂う暗示が強力に作用することが考えられますから、治療の有用性から考えればプラセボ使用が効果を発揮するでしょう。たとえば漢方医療などは、その意味で「それなりに実効がある」治療を害にならない範囲で施術してくれるわけですから、治療上の有用性はプラセボ効果のほうにあるとしても或る程度の実効も具えているから嘘にはならない、と謂うことが考えられます。

NATROM先生が考えておられるプラセボ使用と謂うのはおそらくそのような意味で、物質性の次元に原因のない患者の苦痛を解消するには、現時点では「有効な治療を受けていると患者に思い込ませる」以外の有効な対処法がないですよね。

本格的な精神疾患なら薬物治療と謂うことも考えられるでしょうが、心気症的な苦痛は普通一般の心理作用で容易に生じ得るものですから、「普通一般の心理作用」に対して安易に精神疾患の薬剤を使用することは倫理上避けられねばならないでしょう。

また、思い込みが昂じて実際に肉体に不具合が現れればその部分に対して対症療法的な治療が可能ですが、出来ればそれ以前に何かしらの対処をすれば患者の健康上さらに良いことは当然ですし、患者が治療に満足しなければまた何かしらの不具合を生じる可能性もありますよね。

その意味で、治療者が軽い嘘で患者を騙すことはリスク・ベネフィット比で許容可能な場合もあるのではないか、そう謂う意味だろうと思います。勿論、騙す以外に有効な対処法があるのであれば、社会的公平性の観点で問題のある手法を使う必要はありませんが、当面そのような打開策はない、そう謂うことではないかと思います。

漢方医療やホメオパシーのような代替医療は、通常医療の観点で肉体的異常がないとしても、たとえば「気の乱れ」と謂うような虚構的な概念で患者の妄想を定義附け肯定してくれた上でその虚構的概念に則って有効な治療を施してくれるわけですから、患者の精神内部に存在する「病気」に対しては、その一連の虚構の手続が有益な「治療効果」を上げるわけですね。

ですから、虚構的医学理論と謂うものが「物語」として人間の健康に益する限定的な場面と謂うのは想定可能です。実体のない病気に対して実体的な治療法で対処することは出来ませんから、必要なのは「使い勝手の好い虚構」なんですね。

その場合、物質性の次元で「効かない」こと自体は問題ないのですが、もしもその愁訴が物質性の次元に属する原因によるものだった場合、当然虚構原理では治療不可能ですから、通常医療のコントロールが及ばない場合がまずいわけです。ですから、問題となるのは通常医療との接続の好適性でしょう。

実体的な疾病なら通常医療が対処すれば好いけれど、それが「気の病」なら虚構で対処する、その棲み分けがキッチリ出来て、それを通常医療の医師が自在にコントロール可能であればこれほど便利なものはないのですが、それほど簡単ではないところに多くの問題があるわけですね。虚構が機能する以上、それはその虚構を信じると謂うことですから、それは常に通常医療を完全忌避する傾向と裏腹のものです。

TAKESAN さんのところで議論されているような、医学と医療行為の間の乖離と謂う問題は、人間が精神性と物質性の両方の次元に属する存在であり、人間の健康に精神性の次元の現実が密接に関与している以上、スッパリそれを割り切ると謂うわけにはいかないんですね。

現時点では、通常医療の医師にはそのような実体のない「気の病」をどうすることも出来ないでしょうし、そのような医師がエビデンスに基づかない代替医療や限定的にしか検証されていない漢方医療を積極的に否定しないのは、通常医療が扱うわけにはいかない虚構原理としてそれらの代替医療が機能していると謂う認識なのかな、と思います。

投稿: 黒猫亭 | 2011年1月13日 (木曜日) 午前 11時03分

>mimon さん

>>うさぎ林檎さんが少し触れられた、瀉血との関係で言いますと、あんな「百害あって一利なし」みたいなものよりは、「何もしないほうがマシ」というホメオパシーが19世紀のヨーロッパに広まったのですよね。

仰る通り、瀉血のような明らかに治療上有用ではない施術を含んでいたから、相対的に何もしないホメオパシーにも見かけ上治療効果があるように見えたのでしょうね。ただうさぎ林檎さんに申し上げたように、この「排毒」と謂う考え方は「身体の中にある悪いものを出す」と謂うイメージが普遍的な呪術的感受性に訴求するようで、何処の文化圏にも大概存在したみたいですね。漢方医学にも排毒と謂う考え方があります。

余談ですが、坂口安吾の「安吾捕物」と謂う捕物帳には勝海舟が登場して、探偵役の結城新十郎と推理合戦を行うんですが、その際に「頭をすっきりさせる為」に文机から小刀を取り出して指先と後頭部から瀉血するんですね(笑)。

この捕物帳は全体に不快感の強い話が多いんですが、探偵役の一人が毎回瀉血すると謂う描写もかなり不快感を覚えました。まあ、その当時の開化人の海舟にしてからが瀉血みたいな中世からの迷信を得たり顔で習慣にしていたと謂う描写ですから、一九世紀の科学常識なんてそんなもんでしたろう。

>>そのころの日本には、「何もしないよりマシ」な漢方というものがありましたから、ホメオパシーなんて入り込みませんでしたし、もっとマシな現代医学が導入されたら、ホメオパシーが入ってくる余地はないのです。

歴史的に考えると、何処も入り込む隙がなかったはずなんですよね。それがなんで今頃持ち込まれたのかと謂えば、やっぱり通常医療忌避の風潮が先んじて存在したからだろうと思います。

江戸時代くらいまでの時代性では、一般庶民が医師による医療サービスを受けることは稀だったでしょうし、医療水準が低かったので医療サービスを受けられた場合でも「治れば儲け物」くらいの感覚だったのが、その後持ち込まれた通常医療が目覚ましい発展を遂げ保険制度も充実した結果、「治るのが当たり前」「死ぬのは何かミスがあったから」と謂う認識に変わってきたわけですね。

そうすると、薬害や医療過誤の報道が過剰に重く受け取られて「通常医療は危険だ」と謂う認識になる。そうすると、それが近代化に対する反動と相俟って「より自然で安全な医療技術」と謂うニーズに結び附くわけで、結局「人間の自然治癒力」を掲げて「何もしない」ホメオパシーの出番が今頃廻ってきたと謂うことでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2011年1月13日 (木曜日) 午前 11時04分

はじめまして。

現在鍼灸師の資格を持っているものです。

大変興味深く読ませていただきました。

私自身鍼灸あんま指圧マッサージ師の免許をもっていますが、指圧マッサージのほうではずっと仕事をしていましたが、鍼灸師の免許は何年もペーパー状態でした。

この度ひょんなことから漢方も含めて鍼灸を勉強しなおすことになり、改めてこの記事を読んで色々思うところがありました。

確かに「必ずしも効くとは限らない」という点において私も同意します。

そして東洋医学の理論が現代医学の理論からずれていることも同意します。

ただ、漢方を処方するに当たって一部の症状は西洋医学的なカテゴリー分類よりは、より細かく症状を細分化した漢方のカテゴライズの方法のほうが事故が少ないというのも事実であると思います。

たとえば風邪の症状ですが、風邪で一般的に有名なのは葛根湯ですが、これは風邪のひき始めでなおかつ「悪寒があって首肩の関節痛がある、熱はまだそんなに高くない、もしくは出ていない」時には効果がありますが、熱がすでに出てしまって結構体温が上がってしまったら逆効果になります。

この時のポイントは「悪寒、関節痛」であって、もしこれに「のどが痛い、悪寒が少ない」であれば違う薬になります。さらに「高熱がでた」「咳が出る」という他の要因が加わればさらに違う薬になります。

これが急性から慢性に移行すれば全く違った薬になります。

これに対して西洋の薬は「のどが痛い」「熱が出た」「咳」がどのステージにいようと同じ薬です。

西洋の薬を処方する分にはこのカテゴライズで全然構わないのですが、漢方でこのカテゴライズをすると、本来なら解熱するものをどんどん体を温める作用の薬を投与してしまうことによって症状を悪化させてしまうということになります。

要は同じ対症療法(風邪に関しては西洋医学でも完全な対抗薬はありませんから。あくまで対症療法ですので)でもカテゴライズの違いを無視して処方すると事故になるケースもある、ということです。

カテゴライズの細分化のレベルが西洋医学と一致していてなおかつ臨床上その効果も実証されているものはそれでいいかと思います。

ただ、違うレベルのものをもし採用したいのであれば、若干話が違ってくるのではないかと思います。

その場合あえてそれを採用するならば、原典側のカテゴライズの細分化レベルと照らし合わせてどうか、一応それだけ細分化したということは何らかの理由があるのでしょうから、そこを一回は照らし合わせたうえでどうなの、ということが必要になってくるのではないでしょうか。

投稿: さかい | 2011年2月19日 (土曜日) 午後 05時51分

読み直してちょっと文がおかしい、と思ったところがあったので一部訂正します。

>西洋医学的なカテゴリー分類よりは、より細かく症状を細分化した漢方のカテゴライズの方法のほうが事故が少ないというのも事実

これは「場合によって」「事故が少なくなる」です。

はたして全部正しいのか、という点に関してはそうであるものもあるしそうでないものもあるでしょう、これはブログ主さんと同意です。

ただ、おなじ病気でも病状に対してのカテゴライズが西洋医学より漢方のほうが細かくなっている場合は、西洋医学サイドからのカテゴライズだけで処理しようとするとおかしなことになる場合がある、ということです。


投稿: さかい | 2011年2月19日 (土曜日) 午後 11時07分

>さかいさん

ご意見ありがとうございます。

>>ただ、漢方を処方するに当たって一部の症状は西洋医学的なカテゴリー分類よりは、より細かく症状を細分化した漢方のカテゴライズの方法のほうが事故が少ないというのも事実であると思います。

率直に申し上げて、後段の「事故が少ない」と謂うことに関しては、補足説明を考慮に入れても複数の理由から疑問に感じます。

さかいさんが仰るように、こと問診に限って謂えば漢方の診療では通常医療のそれよりも患者の愁訴を細かく分類していることは事実だと思いますが、オレの調べた範囲ではそれは漢方と通常医療の疾病概念の違いに基づくものだと理解しています。

つまり、通常医療では肉体内部の物理的現象としての疾病があって、それが原因で現れるさまざまな不全を症状と位置附けていますが、漢方医療の場合は症状と疾病を劃然と別概念として階層分けしていないと思います。

たしかに、さかいさんの挙げられた風邪の例で謂えば、漢方医療も通常医療も対症療法と謂うことになりますが、それは単に現時点で対症療法以外の治療法がないと謂う理由に基づくものです。通常医療においては、根治の手段があれば根治療法を採用することが可能ですが、原理的に症状と疾病が概念として区分されていない漢方医療においてはこれは不可能ですし、そもそもそう謂う概念に基づく医療ではないと理解しています。

さらに、漢方医療では通常医療ほどさまざまな検査手段が存在しませんから、主に問診や触診によって症状の全体像を把握することで治療方針を決定するわけですね。ですから、問診の内容が通常医療に比べて詳細に亘ることはたしかに事実でしょう。

しかし、これを逆に言うと肉体の表面に表れている現象や患者の愁訴以外に病像の概念を持たないと謂うことになりますから、通常医療では肉体内部の現実に基づいた膨大な疾病概念が確立されているのに対して、症状の順列組み合わせで疾病を概念化している漢方医療が格別優れていると謂う言い方は出来ないでしょう。

それと、実際には通常医療の診療でも、

>>これに対して西洋の薬は「のどが痛い」「熱が出た」「咳」がどのステージにいようと同じ薬です。

…と謂うことはないだろうと思いますよ。一口に喉の痛み・熱発・咳を主症状とすると謂ってもさまざまな疾病の可能性があるわけで、それがどの疾病に当たるのかと謂うことは、マトモな医者ならあり得る可能性をすべて考慮に入れて、最も蓋然性の高い結論を出しているはずです。その意味では、「同じ症状だから同じ薬」と謂うのは厳密には誤りだと思います。

それは、さかいさんが通常医療の疾病概念を漢方医療の疾病概念からの類推で考えておられるからそう謂う印象を持たれたのだろうと思います。繰り返しになりますが、漢方医療と通常医療では、疾病概念が根本から違いますので、漢方医療の基準で通常医療と漢方医療の問診法を単純比較しても意味はありません。

ただ、さかいさんが仰っているのはそう謂うことではなくて、人それぞれ症状の全体像が違うのだから、それに合わせて細かく薬の組み合わせを変えていくべきだろう、と謂う意味ではないかと思います。

漢方医療において症状を細かく視ていくのは、前述のように肉体内部における或る特定の物質的現象のパターンを疾病と視る通常医療とは異なる疾病観に基づくもので、症状の総体は人それぞれ違うのだから、通常医療のように誰にでも共通する特定の疾病があると謂う考え方をしないわけですよね。

それがオーダーメイドの医療と謂うイメージに繋がるのでしょうが、肉体内部の物質的現象に基盤を置くなら、或る特定の疾病の個々人による振れ幅はそれほど大きなものではないでしょう。そう謂う意味では、漢方医療が患者の症状を細かく視ていってさまざまな薬の組み合わせでそれに対処するからと謂って、それを理由に通常医療よりも事故が少ないとか効果が高いと謂うことはないだろうと思います。

もしも事実として漢方医療が通常医療より事故が少ないとしたら、それは漢方薬の薬効が緩やかである、言い方を変えれば通常医療の薬よりも個々の薬の薬効が弱いことに基づくものでしょうが、これは別の言い方をすれば漢方医療で治せない疾病のほうが多いと謂うことではないかと思います。

ですから、本職の方に対して面と向かってこう謂うことを申し上げるのも心苦しいのですが、漢方医療と通常医療は対等の選択肢となり得るものではないし、通常医療と比較して漢方医療のここが優れている、と謂うような対比もあまり説得力のあるものではないだろうと謂うのがオレの考えです。

それと、漢方医療の将来を考えていくうえで無視出来ないのがEBMの流れです。

昨今、政府が代替医療を積極的に活用していこうと謂う流れがあるのは、経済活動の不振や医療行政の問題などを代替医療の活用で便宜的に解消しよう、つまり医療の水準を便宜的に階層分けして、高コストの医療と低コストの医療を並存させることで現今の社会的な状況に対応しようと謂う下心があるわけですが、医療の全体的傾向としてはエビデンス主義が推進されていくことでしょう。

つまり、科学的な検証を経て実効を確認されたもの以外は医療に適用すべきではないと謂う流れが全体的な趨勢と謂うことになりますから、いずれは代替医療の大部分が医療の現場から排除されていくでしょう。

その場合、漢方医療は他の代替医療よりも有利ではありますが、本文に追記したような事情で、政治的な理由から漢方薬が丸ごと無審査で保険適用を受けたと謂う芳しくない過去があります。これがEBMの流れでやはり実効を確認された薬以外は医療に供してはならないと謂うことになって、漢方薬の実効が洗い直されるとしたら、普通に考えてかなり選択肢が狭められることは事実だろうと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2011年2月20日 (日曜日) 午前 08時13分

ありがとうございます。

実は投稿した後自分の文章を読んで「これってすごい東洋医学ラブな人は意見のように見える」と思って補足をいれましたが、よくよく黒猫亭さんの文章(コメントへの返答、補足も含め)を読んでみたら趣旨から若干ずれていた上にしかもどうにもこの流れでは誤解を生みそうな文章構成になってしまいました。

>ただ、さかいさんが仰っているのはそう謂うことではなくて、人それぞれ症状の全体像が違うのだから、それに合わせて細かく薬の組み合わせを変えていくべきだろう、と謂う意味ではないかと思います。

これに関してはそうだと思います。

コメントを続けるに当たって少し自分の今現在の状況をお話ししたほうがいいような気がするのでちょっと説明しますが、今は実はアメリカにいます(両方の鍼灸の免許を持っています)。

こちらは実は漢方も医師の管轄下でなく鍼灸師の管轄下です。

で、資格を取るにあたって改めて勉強しなおした訳ですが、実は日本では東洋医学の理論をほとんど使って仕事をしていません、さらに言うならば指圧マッサージの仕事のほうを長くしていましたが、西洋の解剖学に基づいた方法を採用していました。

なぜかと言えば、読み物をしては面白いけれど実戦で使う上で東洋医学はぴんとこなかったからです。

ただ10年たって改めて勉強しなおしたときに概念として考えるとどうもつじつまが合わないが、ある症状に対しての対応方を言葉の発達が未熟ゆえに自然から言葉を借りたのではないか、という仮定のもとに勉強してみると腑に落ちることもあったという感じです。

しかし、いまだに「そんなわけないだろ」と思うこともありますし、そもそも鍼灸自体ある意味で「錬金術」なのではないかとも思っております。

要は異物=鍼が体に入る事によって白血球が集まってそのことによって免疫力が高まる、ということではないかと思うのですが、その鍼を受け入れさせるということは他の要因:お灸であっためて気持ちいい、マッサージで気持ちいい、鍼を痛く刺さないで心地よい響きを与えてあげる、事によって「受け入れやすい下地を作る」のではないかと思います。

では漢方はどうかといえば、鍼灸よりはその要素は若干少ないとは思いますが(ものによっては実証されているものもあるので)、正直言って漢方が他のものより優れているとは私自身あまり思っておりません。

>そう謂う意味では、漢方医療が患者の症状を細かく視ていってさまざまな薬の組み合わせでそれに対処するからと謂って、それを理由に通常医療よりも事故が少ないとか効果が高いと謂うことはないだろうと思います。

>それと、漢方医療の将来を考えていくうえで無視出来ないのがEBMの流れです。

EBMは確かに今後必要になってくるだろうと思います。

先の文章でお伝えしたかったことは「漢方は細かく見るから事故が少ない」ということではありません。

ただ、もしその検証をする際にどちらの診断方法で臨床実験を行うのか、という点に対しては非常に興味い深いです。

黒猫亭さんがおっしゃるように根本的な治療概念が違うので、EBM自体難しいといえば難しいのですが、どちらの理論をベースにした症状を基にするかで違った結果がでてくるものもあるかもしれない、ということです。

どちらか一方、というものではなく、両方の診断方法を検証してもし漢方のほうがその症状に対してもう少し細かい分類法があるのであれば、そちらの分類法を基にした臨床試験もしてみることは必要ではないかと思います。

そうであれば、本当に必要なものは残っていくでしょうし、そうでないものは淘汰されていくでしょう。

確かに、漢方はマイルドでありますが、要は効いているんだかいないんだかわからない、というのは事実であり、だから幕末でコレラがはやった時に無力だった訳で、なんでも漢方が優れている、ということは私自身思っておりません。

私自身、代規医療というカテゴリーの中に存在しなおかつ今漢方を処方できる立場にいるものとして、ホメオパシーというのは非常に興味深いかつ反面教師の部分があります。

鍼灸というものをもう一度選択しなおし深く掘り下げていってみたとき、「そうかもしれない、そうでないかもしれない」という感想がどうしてもぬぐいきれないのは事実です。

私自身が限りなくグレーであるということは否めない、という観点から仕事をしているのですが、だからこそどの時点までは自分が責任を持って当たらないといけないか、それから先はほかの機関に明け渡さないといけないかの見極めを自分がしっかりできないといけないと思うのです。

長文になってしまって申し訳ありません。


投稿: さかい | 2011年2月21日 (月曜日) 午前 03時53分

>さかいさん

かなりネガティブな意見を申し上げてすいません。普通なら、社会的に受け容れられている職業の根本的な意義を貶めるようなことは申し上げたくないのですが、本文との関係で立ち入った言い方になってしまうことをお許し戴ければ幸いです。

本文のほうでも補足記事を入れていますが、この記事を書く為にいろいろ調べてみるまでは、鍼灸按摩までを含めた漢方医療一般には限定的にデータの裏附けを持つ治療効果があるような印象を持っていたのですが、前回申し上げたように漢方薬一般が丸ごと無審査で保険適用対象とされたような政治的事情があり、鍼灸の効果についても曖昧な研究結果しかないと謂う現状では、「治療効果」と謂う意味ではかなり割り引いて考えなければならないと認識を改めた次第です。

勿論、漢方薬の有効成分には一定の薬理作用があることは論を俟ちませんが、それがどの程度の強度で、特定の疾病に対してどの程度の治療効果を持つのか、と謂う制度的保証がないことになるわけですから、たとえば特定のハーブによって惹き起こされる生理作用とどのくらい違うのか、と謂う疑問があり得るわけですね。

実際、たとえば「医食同源」と謂う考え方は、薬効と特定の食品の持つ生理作用を厳密に区別していないと謂うことになり、「薬」と「身体に良い食べ物」を概念的に区別していないと謂うことになります。これは公平な言い方をすれば、「治療」と謂う概念そのものが違うと謂うことで、どちらかと謂うと「養生」を助けると謂うニュアンスで考えているのだろうと思います。

まあ、ホメオパシーを論じる文脈で「自然な免疫力」と謂う言葉を遣うと途端に胡散臭くなるので(笑)、「自然治癒を助ける」と謂う言い方をしておきますが、基本的に自然治癒する可能性のある疾病の緩解を助けると謂う考え方なのだろうと思います。ですから、当然自然治癒する可能性のない疾病に対しては無力なのだろうと。

これはこれで、大人しく養生していれば治る可能性のある疾病については、まったく無意味と謂うことにはなりませんよね。ただこれも、「理屈から考えれば身体に悪いわけがないんだから効くはずだ」と謂う程度の保証しかないのでは、「医療」としては不十分な根拠しかないと謂うことになるでしょう。

また、漢方薬の薬効がどの程度のものかを医学的に明らかにするには、個々の薬剤を平準化する必要がありますから、その場合は患者の症状に合わせて細かく処方の組み合わせを変えると謂う性格が犠牲になるのではないかと思います。

ただ、有り体に言えば、薬の成分の組み合わせが決まっていないのであれば厳密に薬効を確認することは出来ませんし、成分の組み合わせが変わればその都度全体的な薬学的作用機序も変わってくるわけで、生薬方の考え方がマクロな観点の薬理作用の足し算に基づいている限りは、患者の症状に合わせて細かく処方の組み合わせを変えるやり方の現実的な意味もそんなにないのではないかと考えています。

>>しかし、いまだに「そんなわけないだろ」と思うこともありますし、そもそも鍼灸自体ある意味で「錬金術」なのではないかとも思っております。

漢方医療と一口に言っても、ご存じの通り生薬方と指圧・鍼灸を含めた全体が治療体系を構成しているわけで、漢方医療の原理原則に則るなら一体不可分のものと謂うことになりますが、これらを一体不可分の体系として構成する漢方医療の理論が「そんなわけないだろ」と謂う虚構的なものですから、個別の薬剤や療法を現代科学の規範で再解釈して個々に臨床的な有効性を視ていく必要があるでしょう。

本文のほうで補足した通り、指圧マッサージや鍼灸については、表向き医学的治療効果と謂う部分は有耶無耶にして、慣習的に支持していた層が多いと謂う理由で疲労回復やリラクゼーション的なサービスとして位置附け、その過程で医療行為に類する行為を特例として許容する、と謂う何とも曖昧な形で法制度化されたわけですね。

調べてみると、鍼灸には限定的な鎮痛効果が認められると謂うことで、WHO草案では四九もの疾患が鍼灸の適応対象とされていますが、どうもこれはこれで国際政治の生臭い舞台裏の事情があるようで、おそらくNIH合意声明書で「有望」とされている辺りの疼痛や悪心の緩和に見込みがあるかな、と謂う程度でしょう。

またネガティブなことばかり言っているようですが、要するに生薬方にしろ鍼灸按摩にしろ、その原理や理論は虚構だとしても、実態的には限定的な有効性があるだろうと謂うことで、現時点で確認されている範囲で妥当に有効性を見積もるなら、将来的にも漢方医療には存続の余地が十分にあるはずだし、漢方医療のサービスには社会的な価値があるだろうと謂うことです。

ただ、陰陽二元論的な根本原理の虚構性を華麗にスルーして、通常医療と同レベルの医療行為だと主張することには無理があるだろうし、通常医療のレベルの治療効果を謳うことも難しいだろうとオレは考えています。

>>黒猫亭さんがおっしゃるように根本的な治療概念が違うので、EBM自体難しいといえば難しいのですが、どちらの理論をベースにした症状を基にするかで違った結果がでてくるものもあるかもしれない、ということです。

この辺は素人なのでよくわかりませんが、漢方医療の疾病観や治療観に基づいて検証するとすれば、たとえば生薬方なら自然治癒をどの程度補助する効果があるのか、と謂うような性格の検証になるのかな、と思いますし、鍼灸なら有望視されている疼痛緩和の効果がプラセボ効果以上のものであることやその程度を確認する、と謂うことになるのかなと思います。

そのような検証を踏まえて、効果の確認された使途と範囲に対してのみ運用すると謂う形に落ち着くのが、おそらくあるべき将来的な姿と謂うことになると思います。いずれにせよ、虚構の理論に則っている以上、漢方医療もまたそのままの姿で存続するのでは単なる骨董的な歴史の遺物でしかないでしょうし、現状と同レベルで効能を謳うことは不可能でしょう。

本文で触れたトラコパシーと漢方医療に共通した問題性があるとすれば、これまで述べたように疾病概念や治療と謂う概念が通常医療とは根本的に異なるのに、曖昧に通常医療のレベルの概念と混用していると謂うところだろうと思います。

その上で、さらにホメオパシーには物質性の次元と断絶していることで漢方医療が備えているような物質性の次元の効能が一切存在しないことが判明している、ここが根本的に異なる部分だろうと謂うのがオレの結論です。

たしかに漢方医療には、経験則に基づく限定的な効能はあると思うのですが、理論基盤が虚構であることの最大のネックは、「理論からの還元が利かない」と謂うことだろうと謂うのがオレの考えです。つまり、特定の現象を説明するだけならそれは虚構でも構わないのですが、その説明が虚構である限り還元的ではないと謂うことは動かせないのですね。

たとえば、「雨が降る」と謂う現象を説明するだけなら「雲の彼方に龍神がいて降らせているのだ」でも構わないのですが、この理路を逆に辿って「雲の彼方の龍神に働き掛ければ雨が降る」とはならないわけです。

たとえば、それを飲めばたちどころに下痢がピタリと停まる漢方薬が存在すると仮定しますと、それが確実な事実ならその作用機序を説明する理路が虚構でも何の不都合もないわけです。この場合重要なのは、特定の薬が特定の症状に対して確実な効能を持っていると謂う事実です。

しかし、虚構の理論を基盤にする学の体系で問題になるのは、程度の差こそあれその虚構の理論からの演繹に基づく応用が存在すると謂うことです。ですから、虚構の理論に則っている薬学体系は、現実的には特定の症状に対して一対一対応で確実に効く特定の薬のカタログとしてしか意味がないと謂うことになります。

その意味では、たとえば生薬方にせよ鍼灸按摩にせよ、その診療法には虚構の理論からの還元と謂う性格が渾然一体となって混在しているわけですから、無視出来ない範囲で虚構性と不確実性を抱えていると謂うことになります。

この問題をどうするのかと謂うことでは幾つかの選択肢がありますが、最もシビアな選択肢としては、旧い理論を完全に捨てて、漢方薬と謂う薬剤、鍼灸と謂う物理的刺激の手法をベースにして、臨床的な検証の裏附けに基づくまったく新しい施療の体系を構築すると謂うことが考えられるでしょう。

それよりも幾らかマイルドな選択肢としては、漢方医療の理論体系を一種の「使い勝手の好い虚構」と位置附けて、通常医療の補助的サービスとして一種のプラセボ的な運用を為されると謂うことも考えられますが、医療現場からのプラセボ排除の趨勢が進めばこれは過渡的なものに留まるでしょう。

いずれにせよ、現状において漢方医療が代替医療と謂う位置附けであり得るのは、医療の現場でそこまで極端にEBMが進んでいないからであって、EBMの観点ではいずれ漢方医療は虚構的な理論を捨てずに存続することは難しくなってくるだろうとオレは考えています。

実際には、本文で触れたような業界団体の強固な抵抗もあるでしょうし、社会的状況との兼ね合いだとは思いますが。

投稿: 黒猫亭 | 2011年2月21日 (月曜日) 午前 07時16分

コメントに対しての再度のお返事ありがとうございます。

>かなりネガティブな意見を申し上げてすいません。普通なら、社会的に受け容れられている職業の根本的な意義を貶めるようなことは申し上げたくないのですが、本文との関係で立ち入った言い方になってしまうことをお許し戴ければ幸いです。

いえいえ、お気になさらずに。

私自身黒猫亭さんの2番目のコメントに関しては本当にそうだと思います。

ただ、最初のメールは自分でもこれは誤解される書き方をしたなぁ、と思ったらやっぱりそうだったので書き直しただけです。

私自身今日本における代規医療の将来で一番憂う点は「医療保険で賄われない部分を代規医療が賄うのはよしとしても、消費者が過剰な期待を代規医療にする」ということでしょうか。

実際今アメリカで働いてみて思うことは、こちらはこちらは医療保険は民間の物で任意で入るものであり、その人が選んだ保険によって内容が違います。

鍼灸も人によってはカバーされます。

なので、被保険者が治療を選択する際に一般医療と代規医療は同レベルで選択肢に入ります。

これはいいかえれば一般医療のおこぼれに当たる部分を代規医療が必要以上に誇示する必要がなく、もちろんそうでないとんでもさんがいることは確かですが、自分にできないことはできないと言って明け渡す部分に対するプレッシャーが少ないということも言えるかと思います。

日本はそれに対して優れた医療保険があるゆえに、まず人はそこに行きます、なぜなら値段が安いからです(代規医療は大概は保険治療外ですから)。

それはいいのです、問題はそこから漏れた人たち:何らかの形で一般医療が当てはまらない人たちが過剰に代規医療に信頼を置く点です。

そうなってくるとどうなるか、治療者は治療ができるだけでなく、栄養士、心理療法士、催眠術師、美容コンサルタント、物理療法師、と餅は餅屋以上のことを要求されることが多くなってきます。

本当に黒猫亭さんが申し上げたような妥当な点で仕事をしようとしている誠実な方々は仕事がしづらくなってくるかと思います。

おそらくホメオパシーの一連の騒動のバックグラウンドにはそういったことがあるのではないかと思っています。

過剰な期待が消費者=患者側にあるので、そこにつけこんで過剰に耳触りのいいことをしゃべるのではないかと。

これは患者が悪いと言っているのではないし、まして一般医学が悪いと言っているのではありません、これは治療家サイドの問題です。

むしろそういった治療師は研究熱心だったりとかします、だから逆に困るのです。

もしくはそうしたほうが金がもうかるからというのもあるでしょうが。

投稿: さかい | 2011年2月21日 (月曜日) 午後 04時08分

>さかいさん

>>私自身今日本における代規医療の将来で一番憂う点は「医療保険で賄われない部分を代規医療が賄うのはよしとしても、消費者が過剰な期待を代規医療にする」ということでしょうか。

この辺は代替医療を推進しようとしている政権サイドからしてそう仕向けている嫌いはありますね。ニセ医療の問題を考えていて得たオレの結論は、「通常医療を代替し得ると謂う意味での『代替医療』など存在しない」と謂うものですが、どうも政策としての代替医療の扱いは、その辺を曖昧に胡麻化して代替医療にお墨付きを与えるものになりそうな予感がします。

鍼灸指圧マッサージを含めた漢方医療は、代替医療の中でもまだ有望な部類だとは思いますが、これも基本的には自然治癒する疾患や心気症的な疾患、肉体疲労や疼痛の軽減などにしか有効ではないと思いますし、自然科学をベースに置いていない代替医療の信頼性にはおしなべて低い限界があるのが当然だろうと考えます。

その上で、ハイコストな通常医療に対してローコストな代替医療と謂う階層分けで、高度な医療リソースを割くだけのメリットがない軽微な疾患を代替医療に振り分け、通常医療に対する一極集中を避けると謂う、一種過渡的な医療政策上の狙いがあると思うのですが、お上のお偉いさんたち自身がその辺を曖昧に考えていて、かなり中枢にいる政治家にも弁別が出来ていない嫌いがあると思います。

>>これはいいかえれば一般医療のおこぼれに当たる部分を代規医療が必要以上に誇示する必要がなく、もちろんそうでないとんでもさんがいることは確かですが、自分にできないことはできないと言って明け渡す部分に対するプレッシャーが少ないということも言えるかと思います。

アメリカの事情では、医療サービスも国家的な福利厚生の一環と謂うより自由競争のビジネスとしての側面があると謂うことですかね。さらに、日本よりも係争リスクが高いでしょうから、代替医療といえども出来ないことを出来ると謂って出来なかった場合のリスクが通常医療と同等に高いと謂うことなのかもしれません。

その辺の事情は、日本では通常医療に対する期待が大きい分医療訴訟なども増えてきましたが、代替医療の場合は正規の医療行為として認められていない分、医療効果を信頼した消費者の自己責任に帰せられて、代替医療の係争リスクが圧倒的に低いと謂う固有の事情があると思います。

つまり、これはたとえばホメオパシーに顕著な傾向ですが、通常医療より優れた医療効果を主張しながら、通常医療の専門家が負っているような厳しい責任をまったく負わないと謂う一方的で虫の好い立場に立っています。

>>それはいいのです、問題はそこから漏れた人たち:何らかの形で一般医療が当てはまらない人たちが過剰に代規医療に信頼を置く点です。

代替医療に趨る人にも二種類あって、切実なのは「通常医療に失望した人々」の受け皿として代替医療が入り込むと謂うパターンですね。これはつまり、末期癌のように「治らない」と宣告された人々や、心気症的な実体のない疾患で「病気ではありません」と門前払いを喰った人々だろうと考えられます。

「治らない」「治せない」と謂う受け容れがたい宣告をされたことで通常医療に失望した人々が、「治ります」「治せます」と請け合った代替医療に趨ると謂うパターンがまず考えられます。これは、謂ってみれば通常医療に対する信頼が「裏切られた」と感じた反動で代替医療に手を出してしまうわけですね。

もう一つは、最初に通常医療に対する恐怖や不信感を植え付けられたことで代替医療に趨ると謂うパターンで、こちらはマスメディアを通じた広範囲な煽動が可能なうえに、窮めてカジュアルに代替医療に接近すると謂う意味で危険性があります。

通常医療には確実な治療効果がありますから、些細なミスや不正によっていとも簡単に人命が失われますし、それ以前に効く薬は一定の割合で人を殺す可能性をゼロには出来ません。そのリスクを過剰に煽り立てれば、通常医療は怖いものだ危険なものだと謂う医療不信のムードが醸成されます。日本の場合その背景には、医療を含む公共的なサービスには所与の前提として絶対的な安全が保証されているべきである、と謂うゼロリスク志向があります。

その不信感に附け込んで、万能性と安全性を謳い文句にして代替医療が入り込むと謂う形になるわけですが、いずれの場合も代替医療は通常医療と相補的な形ではなくアンチの立場で入り込むわけですから、通常医療の全否定とセットになっている可能性が高いわけですね。結果なのか原因なのかはすでに不分明ですが、それが故に代替医療は通常医療が担っていたものすべてを肩代わりするか、それどころか通常医療よりも優れた医療サービスであることを謳うのが一般的です。

本来、代替医療に存続の余地があるとすれば、前述のような自然治癒する疾患や実体のない疾患について、通常医療を選択する場合に附随するリスクを避ける、別の観点で謂えば医療のリソースをローコストなもので代替すると謂う観点であれば、比較的穏健な形で共存が可能でしょう。

前回申し上げたように、漢方医療には通常医療ほど確実な治療効果はない半面、通常医療が織り込んでいるようなリスクも相対的に軽微なものとなるわけで、「自然治癒を助ける」と謂う性格相応の低いリスクに留まるわけですから、自然治癒するような疾患や物質的実体があるのかないのか判然としないような疾患について高いリスクを背負い込むのは採算が合わないと謂う考え方は合理的な判断と謂えるでしょう。

勿論漢方薬にも副作用がありますし誤治もありますからまったくのノーリスクではないですが、そもそもゼロリスクであると謂うことはまったく効かないと謂うこととイコールですから、リスク評価と謂う発想がなければ代替医療には選択肢としての意味がありません。何処かにゼロリスクで万能な理想的な医療があり得ると謂う幻想が代替医療を危険なものにしているわけですね。

つまり「結果に見合わないリスクやコスト」を忌避すると謂う意味であれば、代替医療にも存続の余地があるはずですが、日本のような妥当なリスク評価と謂う発想のない文化的土壌では、代替医療は通常医療のすべてを簒奪する形でしか存在し得ないと謂う問題があります。

投稿: 黒猫亭 | 2011年2月23日 (水曜日) 午前 09時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/50557311

この記事へのトラックバック一覧です: ホメオパシーに関する私的総括(3) 非実在医学理論問題:

» webronzaはホメオパシー擁護記事掲載問題をこのままスルーするつもりなのか? [志紀島啓 blog]
朝日新聞社にはかつて「論座」という総合オピニオン誌があったのだが、今は廃刊となっている。しかし、web上では今尚続いている。 http://webronza.asahi.com/ このwebronzaにおいて、奇妙な記 ... [続きを読む]

受信: 2011年2月 8日 (火曜日) 午後 03時38分

« ささやかな幸福 | トップページ | twitterを始めた »