« ホメオパシーに関する私的総括(4) 許容は可能か | トップページ | 地震 »

2011年3月 5日 (土曜日)

何が問題だったのか

最近ワイドショーなどで大々的に報じられている「京大入試問題ネット投稿事件」であるが、twitter で流れてくる意見を視ると、どうも直接当事者に対する社会的制裁が過剰である側面は否定出来ないと感じる。

この問題は、「ネットを利用したカンニング」と謂う手口の新しさと、大学当局が入学試験における未成年の学生の不正行為を刑事事件にしたと謂う部分で、かなり論点が多層化して複雑になっているとオレは考えている。

まず、直接当事者間の問題としては、別段何処もおかしなところはない。犯罪を構成するのは「カンニング行為」ではなく「カンニングを目的とした試験問題の漏出」なのであるし、それによって大学当局のみならず各大学が本来不必要な業務に追われたのであるから、これを偽計業務妨害の線で刑事事件として扱うこと自体は法的には何ら問題はないだろう。

それに関しては法学者の玉井克也氏によるツイートのまとめを参照して戴くとして、そう謂う意味では大学当局が訴状を用意して警察が動き、被疑者を確保したことだけを取り出して視れば、別段そこに不当な要素はない。

たしかに大学入試でネットを利用した不正が行われたと謂うことは嘆かわしい事実であるが、人間は不正をするものなのだし、だからこそ法律による取締がある。未成年だからと謂ってすべてが免責されるわけではないし、大学が教育機関だからと謂って一方的に学生に対して保護的な姿勢を取らなければならない筋合いもないだろう。

オレも一報に接した際に、知恵袋への投稿がケータイを介しているならスピード解決に至るだろうと予想していたし、実際短時日の間にケータイ契約者が特定され、捜査は被疑者の予備校生にまで辿り着いた。それ自体は極普通の捜査手順で特段の問題はない。

しかし、この件で最も問題なのは、直接当事者が構成する事件性の部分ではないと謂うのがオレの意見である。それよりもっと大きな問題なのは、被疑者が特定出来た段階で警察がマスコミに被疑者の個人情報をだだ流しにリークしたとしか考えられないと謂うことである。

常識的に考えて、被疑者の個人情報を知り得る立場にあるのは警察しか存在しないのであるから、警察以外の情報源は考えられない。そうでないなら、YAHOO!なりドコモなりが漏らしたのか。

いや、YAHOO!もドコモも、特定のIPアドレスやケータイ契約者と謂う断片的な情報しか知り得ないはずであるし、そもそも取材を受けたからと謂ってマスコミに個人情報を流出させるはずがない…と謂うか、そうだったらそれはそれで大問題であるが、マスコミは契約名義人の息子である予備校生を警察が追っていると謂うところまで識っていた。

これらの一連の情報を繋ぎ合わせて、しかも警察がその特定人物を被疑者として追っていることまで含めてマスコミ各社が識っていたのであれば、その情報の出所は他ならぬ警察だと考えるのが自然だろう。そうでないなら、厳格な守秘義務が存在するはずの私企業がマスコミに個人情報を流出させたとしか考えられないのであるから、警察はきちんとその旨公に釈明すべきである。

勿論そんなのは単に想定し得る可能性を考慮しただけの手続で、この場合警察がリークしたと謂う想定で鉄板のはずである。では、警察がリークしたと仮定して、それは何故だったのかと考えてみよう。

一つには、警察全体にあるサイバー犯罪に対する敵対感情が考えられる。たとえば改正児ポ法の問題でも、警察官僚出身の自民党議員が極端な警察権力の拡大を招きかねない法案の成立を強硬に主張していたわけだが、ボーダーレスかつ匿名性の高いサイバー犯罪に対して警察は危機感を持っているわけで、今回の件がネットを活用した一種のサイバー犯罪であることから、「いっちょこいつを懲らしめてやれ」「匿名ならバレないと思っていてもそうはいかないぞ」的な応罰感情が警察の側になかったとは思えない。

警察はこの件のように司法の裁きでは軽く済んだり訴追を免れそうな案件に関しては一種かなり荒っぽい手段を屡々採用する。警察が確実な捜査を行って一旦犯罪者と同定した個人が、何ら罰を受けることなくのうのうとそれまで通りの生活を送ることを許さないと謂う感情があるわけで、警察が被疑者の個人情報をマスコミにリークするのはおおむね報道による社会的制裁を狙う意図があると考えられる。今回の件でも、被疑者をマスコミの餌食に差し出すことで一罰百戒を狙うくらいのことはやりかねないだろう。

また、他方ではマスコミに情報をリークすることで報道合戦を過剰に煽り、社会的反響を大きくすることで「多寡がカンニングで未成年の学生を逮捕かよ」と謂う批判をかわし、「社会的反響の大きさを考慮して已むなく逮捕に踏み切った」と謂う筋書きを書いたと視ることも可能である。

言うまでもなくこれは無意味な演出で、筋から言えば「偽計業務妨害を構成するから刑事事件として扱った」で何処もおかしなところはない。堂々とその旨主張すれば好いだけの話で、マスコミを抱き込んで世論を誘導しようと薄汚い筋書きを書くから変なことになるのである。

そのくだらない作為の故に、マスコミのヒートアップした報道合戦に対する受け手の嫌悪感と、個人生活を根こそぎさらけ出された被疑者への同情から「情報漏出による偽計業務妨害」が「多寡が子供のカンニング」と視られ、「多寡がカンニングで逮捕なんておかしいだろう」と謂う情緒的反応が煽られた側面は否定出来ないだろう。そしてその不満は警察を素通りして、被害を受けた大学当局に向かう。

警察がマスコミを煽って仕組んだくだらない茶番劇の故に、別段何処にも非難される謂われのない刑事事件を巡って、「被害者」である京都大学が過剰なバッシングに晒されると謂う本末転倒の事態が招かれた。その一方で「加害者」である未成年の予備校生もマスコミによる根掘り葉掘りの取材合戦で個人生活を余すところなく晒され、不当な人権被害を被る羽目になった。

未成年者でも場合によっては刑事罰を受けると謂うことと、未成年の犯罪者の個人情報を公に晒して好いと謂うことは決してイコールではないはずである。

つまり、事件性を構成する双方の直接当事者は、警察とマスコミが介入することでどちらも不当な打撃を蒙ったわけで、結果的には警察の思惑でいいように利用されたと謂うことになりかねない。

繰り返すが、目的が「多寡がカンニング」でも、その行為が「偽計業務妨害」を構成すれば、立派に刑事事件を構成する。そのこと自体は不当でも何でもないし、被害当事者が教育機関であってもその事実に変わりはない。

この件で不当なことが起こったとすれば、幼稚で無思慮な行為が結果的に招いた未成年者の犯罪を恰好の見世物視して未成年の被疑者の個人生活を無神経に暴露し、その親族や係累に本来不必要な心理的苦痛を与えたマスコミのくだらない報道合戦と、個人情報を漏らすことでそれを煽った警察のやり口である。

この国の警察にもマスコミにも、人権意識なんか欠片もない。目先の利益や思惑で個人の人権や不当な被害なんか踏みにじっても構わないと考えている。この事件によって露呈した最も恐ろしい問題とは、そこにあるのではないかと謂うのがオレの意見である。

|

« ホメオパシーに関する私的総括(4) 許容は可能か | トップページ | 地震 »

コメント

誰もいないだろうと思ってtwitter 上で呟いたら速効で発見されてしまった(笑)。そこで戴いた情報によると、早くも府警は保身に趨っているもよい。以下コピペ。

http://www.mainichi.jp/select/jiken/news/20110305k0000m040101000c.html

入試ネット投稿:京都大への批判強まる

 入試問題投稿事件で逮捕された仙台市の予備校生(19)の“幼稚”ともいえるカンニングの手口が明らかになるにつれ、京都大への批判が強まっている。不正行為を防げなかったばかりか、声高に「被害者」の立場を強調したとの見方からだ。事件に関し、京大へ4日までに寄せられた電話は170件を超え、ほとんどが苦情や抗議。捜査を進める京都府警内部にも大学の対応を疑問視する声がある。

 京大広報課によると、電話は予備校生が警察に保護されたというニュースが流れ始めた3日午後から増え、同日夕までに約30件、4日は午後5時半までに144件に上った。

 うち十数本は激励だったが、その他は「監視が甘かったのではないか」「被害届を出して逮捕させたのは間違い」「カンニングで逮捕はやりすぎ」といった意見。「予備校生がかわいそう」という同情の声もあった。

 予備校生の出身地や通っていた予備校がある東北地方の市外局番からの電話も。ある職員は「今日はほとんど仕事にならなかった」とこぼした。

 一方、府警内部でも京大の対応に違和感を覚えるという声が出ている。監督の不備の可能性に目をつぶり、内部調査もしないまま警察に丸投げした形になったためだ。

 事件発覚から6日目の3日、初めて記者会見した松本紘学長は「監督はちゃんとやっている」と時に声を荒らげて強調。「(京大の監督の)範囲の外で起こるようなネット犯罪であれば、対策を取らなければいけない」とまで述べた。ところが、予備校生は府警の調べに、試験会場の自席に着き「机の下で携帯電話を操作した」と説明。会場の隅の席は試験監督から死角になるので何回もやったとも話し、一夜にして「監督は万全」との大学側主張に疑問符がついた。

 「試験監督の不手際を棚に上げ、すぐに警察に持ってくるのはどうか。自ら検証もせず、批判や追及を受けないよう逃げているだけのように思える」。府警幹部の一人はこうつぶやいた。【広瀬登、太田裕之、林哲平】

投稿: 黒猫亭 | 2011年3月 5日 (土曜日) 午前 05時19分

<警察全体にあるサイバー犯罪に対する敵対感情が考えられ、
ボーダーレスかつ匿名性の高いサイバー犯罪に対して警察は危機感を持って、
今回の件がネットを活用した一種のサイバー犯罪であることから、「いっちょこいつを懲らしめてやれ」「匿名ならバレないと思っていてもそうはいかないぞ」的な応罰感情が警察の側に>あった(と思われる)ことが、この騒動問題の本質と思います。
ネットには、匿名性は無く、いつでも、個人が特定されることを改めて社会に認識させ、警告を発し、日本は、「自由社会」では無いことを知らしめました。

そして、馬鹿なマスコミがその片棒となり、<個人情報を公に晒して好い>と警察と共謀した人権無視が堂々とまかり通ることも、今回の騒動での日本の問題と思います。

ネットでも危なかっしいのに、とても、Facebookなんかで、特定の個人名を晒す気は、益々無くなりました。

投稿: mohariza | 2011年3月 6日 (日曜日) 午後 03時35分

>moharizaさん

>>ネットには、匿名性は無く、いつでも、個人が特定されることを改めて社会に認識させ、警告を発し、日本は、「自由社会」では無いことを知らしめました。

まあ、そうは謂っても「個人を特定されない」ことに依拠する「自由」と謂うのは無責任と裏腹ですから、犯罪を犯した場合に個人が特定される仕組みは何処かで担保されていなければいけないわけです。

たとえば昔のパソコン通信と謂うのは、ニフティなりPCヴァンなりが課金制で会員を募って個人情報を管理し、表向きの会員相互の間の匿名性を担保していたわけで、それは完全な無名社会ではなかったわけです。

勿論会員の個人情報は厳格に管理されなければならないですから、他の会員には識りようがないのですが、或る特定個人に対して原則一対一対応のIDを与えることで、特定個人の同一性は保証されていたわけですね。まあ、例外的に複数のIDを取得していた会員もいましたから、自作自演に類する行為もないではなかったですが、IDが実質的に実名を代替していたと謂えます。

ネットには不特定多数に対して開かれていると謂う性格がありますから、そこで市井の個人が情報発信する場合には個人情報を保護する為の防衛策が必要で、ネットの文脈で謂う「匿名性」と謂うのは「個人が特定出来ない」と謂う意味ではなく、「不必要に個人情報を開示することなく特定個人の同一性を保証する仕組み」と謂うことでなければならないと思います。

その意味で2ちゃんねるのような「匿名掲示板」は、表面的な個人の同一性の保証を極端に軽視した仕組みではありますので、そのようなルールに則って機能している混沌とした言論空間だと謂う認識を共有していれば、まあ一定の楽しみ方が出来るツールではあります。

その一方で、「個人が特定されない」状況にある場合に人間がどれだけ無責任に振る舞えるかの見本市でもありますので、無礼講の乱痴気騒ぎの限度を踏み外すと社会常識の範疇を超えた犯罪的な情報発信が発生します。また、犯罪行為の事実それ自体が匿名性を恃んで開示されることもあります。

その場合、「ここはそう謂うルールなんだから」は当然通用しないわけで、その個人を特定して司法の裁きに委ねる必要が出てきますから、如何にネット上でも完全に個人の特定が不能な無制限の自由は許されないわけですね。だから、何処かで個人情報が管理されている必要があります。

翻って京大の件ですが、本文でも述べた通り、京大が通報を検討したことも、警察が偽計業務妨害の疑いで捜査を開始したことも、判断としては妥当だと思いますし、その過程でYAHOO!やドコモが個人情報を開示したことも妥当だろうと考えます。

しかし、その個人情報に基づいて被疑者を割り出した警察が、それをマスコミに洗いざらい(としか考えられない範囲で)ぶちまけ、報道機関に自粛を求めなかったことは明らかに人権侵害だと考えます。つまり、どんな犯罪の被疑者をどんな手段で割り出したかと謂うのは、実はこの件では問題ではないのです。

捜査によって明らかになった被疑者の個人情報を、警察やマスコミがどのように扱うかと謂う問題なのであって、ネットの匿名性の領域の問題ではなく、被疑者の報道についての一般的な人権侵害の問題だとオレは考えています。

マスコミでよく採り上げられる「多寡がカンニングで」と謂う論調は、その意味で噛み合った批判ではありません。被疑者の目的が「多寡がカンニング」であって、その手段が結果的に「偽計業務妨害と謂う犯罪行為」を構成したのですから、その犯罪に相応しい刑罰が与えられれば法的な秩序は保たれます。

であれば「多寡がカンニングで」と謂う言い方は、「多寡がカンニングでこれだけ被疑者のプライヴァシーを暴き立てる必要はあったのか」と謂う文脈に適用されるのが噛み合った批判と謂えるでしょう。

このエントリに戴いたブコメでは「社会的制裁を与件に組み込むこと自体が間違い」と謂うご指摘があり、或る程度尤もだと感じるところもありますが、今のところ、社会感情を刺激する凶悪犯罪に対しては、通常の法的な制裁だけでは不十分だと感じる人々が多いのであれば、そう謂う現状も已むを得ないところはあるとは思います。

しかし、それはつまり「報道で被疑者のプライヴァシーを暴露することが社会的制裁に当たるのは、それが社会感情を著しく刺激する凶悪犯罪である場合のみ」と謂う意味でもありますから、この件において「多寡がカンニング」「未成年の将来を考慮」と謂う尺度を勘案すべきは「社会的制裁の必要性の有無」であることがわかります。

未成年だろうが成人だろうが、犯罪を犯せば応分の法的制裁を加えられるのは当たり前の社会的コンセンサスです。その上で晒し者にして社会的制裁を加えるべきか否かと謂う部分で、行為の凶悪性が尺度として関わってくるわけですから、逮捕が不当か否かと謂う問題ではなく、報道が適正に行われたか否かと謂う問題において「多寡がカンニングで」と謂う事情が勘案されるべきなのです。

マスコミはこの間の事情をわざと捻れさせることで、恰も被疑者が晒し者にされたのは犯罪として訴追されたからだ、摘発されたからだ、と論理を短絡させています。それによって過熱報道で人権侵害を行った自らの責任を逃れようとしているのです。

今に至るまで、マスコミの内側からこの件に関する自己批判の声はついぞ上がってきていません。この件を扱う論調は、やれ教育が悪い、やれ社会が悪い、ネットの登場が若者を堕落させた、京大はたるんどる、警察はやりすぎだ、そんな他人事のような悲憤慷慨調の記事ばかりです。

繰り返しますが、この件で一番醜悪で不当な行為を行ったのは、マスコミです。一番間違ったことをしでかした連中が自らの過ちを顧みることを一切せず、大して間違ったことをしていない人々の瑕疵を論ったり、天下国家を憂うようなポーズを採ることは、さらに醜悪な茶番だと考えます。

投稿: 黒猫亭 | 2011年3月 9日 (水曜日) 午前 10時47分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 何が問題だったのか:

« ホメオパシーに関する私的総括(4) 許容は可能か | トップページ | 地震 »