ホメオパシーに関する私的総括(4) 許容は可能か
前回の総括から実に一月半も間隔が空いてしまったが、これはその後オレがTwitter を始めて、物珍しさからブログのほうがお留守になっていたせいであることは、改めて言うまでもないだろう(笑)。
今回は前回の予告通りホメオパシーの許容可能性を考察する次第であるが、無用な紛糾を招いてもいけないから最初に結論を述べておくと、オレはトラコパシーのみならずホメオパシー一般は複数の観点で許容不能だと考える。医療現場で用いられることは論外として、それ以外の場面でも社会に存在の余地はないだろう。
その第一の理由は、原理的に内在する強い有害性の故である。これはすでに国内で多数起こっている事例からすでに明らかであり、そしてそれらの事例を巡る数多の議論を踏まえて考えれば、ホメオパシーが許容不能であることは明らかな結論である。
であるから、以下に述べるのは、予め結論の決まった事柄について複数の観点からその理由を説明すると謂う、書く側にとっても読む側にとってもあまり気乗りのしない論旨であることを予めお断りしておく。
●プラセボとレメディ
これまで視てきたように、最初にハーネマンが「類似の法則」を着想した時点では、ホメオパシーにもそれほどの有害性はなかったかもしれない。当時はアロパシーにもそれなりの有害性があったわけで、「アロパシーかホメオパシーか」と謂う対比は、この時点では実質的に「有害な施術も含む未熟な医療か何もしない虚構か」と謂う対比にすぎなかったのである。
だとすれば、ハーネマンが「慢性病論」のマヤズム理論で述べた「アロパシーの施術はホメオパシーによる治療を阻害する」と謂う主張は、実質的には「有害な施術は何もしなければ治る病気を悪化させる」と読み替えられるわけで(笑)、一般論としては大変ごもっともである。
これは勿論、ハーネマンがそんな含意でそう主張したと謂う意味ではないから、ハーネマンの理論を正当化するものでは一切ない。当時のホメオパシーとアロパシーの実態をメタ的に視ればそうなると謂う話であるし、ぶっちゃけ皮肉である。
そしてこれは、社会的有害性と謂うのは当然その時々の社会状況や科学レベルに依拠して位置附けが変わってくる相対的な問題だと謂う意味でもある。
では現在においてその対比の意味合いはどのように変わったのか。ハーネマンに「アロパシー」と呼ばれた医療体系は長足の進歩を遂げ、「間違った有害な施術」の混入率はほぼ無視出来る程度(その大半がヒューマンエラーであるレベル)にまで低減されているが、ホメオパシーの本質は二〇〇年前と殆ど変わりはない。
であるから、「有害な施術も含む未熟な医療か何もしない虚構か」と謂う対比自体は変わらないが、アロパシーにおける「有害な施術」の混入率が無視出来る程度であれば、ホメオパシーには殆ど存在の余地はないと謂うことになる。
勿論、何にでも例外は存在する。前述の「有害な施術は何もしなければ治る病気を悪化させる」と謂う命題は、通常医療が有効に機能する範囲内においてはすでに意味を為さないが、そうでない場合には有効であり得る可能性があると謂うことになる。
前回の総括のコメント欄で述べたように、「病気」が患者の心の中にしか存在しない場合には、それは患者の主観においては現実の苦痛であっても、物質性の次元では実在しない「病気」と謂うことになって、通常医療の施術は一切出来ないことになる。
つまり、その施術に実効がある以上、実在しない「病気」に対して用いられることは有害でしかないのであるから、「何もしない」以外のことは出来ない。では、実在しないからこれは無視して好いのかと謂えば、患者の心の次元においてはそれは現実なのであるから、苦痛自体は存在する。この実在しない「病気」に起因する現実の苦痛に対して何も手当しなくても好いと謂うことにはならないから、「何かをする」必要自体は潜在的に存在するわけである。
であれば、「実在しない病気」と噛み合った施術とは「実在しない施術」と謂うことになるわけで、その意味で前回のコメント欄では「使い勝手の好い虚構」と謂うような話をした。ただ、実際の医療関係者の実感からすればこんな廻り諄い言い方をしなくても好いわけで、「必要以上に薬を要求する患者に対してプラセボを用いる」と謂う言い方のほうがしっくりくるだろう。
要するに患者を騙すわけであるから、これは社会的公平性の観点で問題がある。この辺に関してはTAKESAN さんのところの議論も踏まえているが、プラセボ使用が個々の医師の裁量に一任されている現状にはたしかに問題があるだろうし、何らかの客観的な基準が定められるべきだろう、もっと謂えば長期的には医療の現場から一切の虚偽が排除されることが望ましい、と謂うことは言うまでもない。
しかし、ホメオパシーの許容可能性とプラセボ使用の是非の問題は、同根の問題として論じるべきではないと考えるのがオレの立場である。前者は「あるべきではない有害なニセ医療」を巡る問題なのだし、後者は「あるべき理想的な医療行為」を巡る問題だからであって、この両者は判断基準が異なるのであるから、同じ問題として論じると必ず混乱を来す。
つまり、その対象が「あるべきではないものに該当する」ことと「あるべき望ましい姿から外れている」ことはまったく別の尺度に基づく判断になるのだから、同一の俎上で是非を論じることには土台無理がある。
ホメオパシーの許容可能性を巡る問題は、科学的に無根拠で通常医療忌避と謂う強い有害性を持つニセ医療でも、限定的な用法によって許容することが可能かと謂う観点の問題である。一方、プラセボ使用の是非の問題は、現に医療の現場で行われている治療行為に伴う「方便としての嘘」を排除するにはどうすれば好いのか、と謂う問題である。
この二つはまったく別の問題であり、この両者を接続するには「ホメオパシーはプラセボとして好適か否か」と謂うまた別の問題を論じた上で結論を出してからでなければ接続出来ない。
差し当たり本稿と関係しそうなのはこの論点なので、まずそれを潰しておこう。例の如く結論から先に言えば、ホメオパシーはプラセボとして好適ではない。
何故なら、医療現場におけるプラセボ使用の是非の問題は、医師の側がプラセボに何ら実態的な効果がないと謂う「科学的・医学的に妥当な」認識があることが絶対条件であるが、現実にはホメオパシーを支持する医師や医療関係者は、ほぼ全員ホメオパシーに「何らかの」実態的効果があることを信じているからである。
何故正規の医学教育を受け、平均的に謂えば科学的な思考の訓練を受けていると思われる高度専門職業者がホメオパシーのような荒唐無稽な世迷い言を信じられるのか、そのような疑問を抱かれる方も多いだろうが、たとえば嘗てオウム真理教に身を投じた人々に理系の専門教育を受けた所謂「インテリ」も多数存在した事例を視ても、それは十分にあり得る選択肢なのである。
科学は物質性の次元については窮めて厳格な妥当性の尺度を持っているが、物質的に記述出来ない霊性の次元の事柄については一切言及出来ない。ハーネマンの時代ならば科学が扱う対象については物質性と霊性の次元の区別が曖昧だったが、今日の自然科学は霊性の次元についてはほぼ言及することが出来ない。
そして、ハーネマンの理論が生気説に基づく霊的な次元に根拠を持っている以上、現在の科学が取り扱う対象ではないのだし、別の言い方をすれば、ホメオパシーは自然科学のレベルでは何ら根拠を持っていない。しかし、だからこそ、或る種の心性を持つ人々の間では高度な自然科学の知見と無矛盾で並立し得るのである。
それらの人々は、この世界には目で視て手で触れて実験によって確認出来る物質性の次元の上位に霊性の次元が存在することを抵抗なく受け容れており、自然科学が物質性の次元に依拠している以上、その上位に存在する霊性の次元の摂理は自然科学の原理原則とは無関係であると認識しているし、それは一面の事実でもある。
そして、たとえばトラコパシーにおいては、物質性の次元で現れる医学的現実の上位には霊性の次元の現実があって、「病気」の本質はその次元で起こる現実であると規定しているのであるから、ロジカルな意味では何の矛盾もない。単にその霊性の次元の現実として記述されている法則性には、如何なる意味でも信頼可能な客観的根拠がないと謂うだけのことである。
オレの認識では、自然科学とは、「わかる」と謂うことは如何なることであるかと定義した上で、「わかるもの」と「わからないもの」を厳密に選り分け、世代を超越した地道な積み重ねの営為によって「わかるもの」をこつこつと増やしていく作業である。
であるから、自然科学は史上最も厳密な基準で「わかるもの」を記述可能なツールであるが、それは別の言い方をすれば万有の一切を無限分割していく作業であり、いつまで経っても世界には「わからないもの」が残されていくと謂うことでもある。或る種の心性の持ち主にはこれが我慢ならない。
この種の心性の持ち主は、この世の「すべて」が「わかるもの」でないことに不満を抱くわけで、つまり自然科学が霊性の次元の現実を記述出来ないのであれば、そこにこそこの世の「すべて」を解き明かす鍵があると思い込む。
たとえば、むいみさんが書かれたこのエントリで紹介されている益川敏英のこの言葉には、端的にその間の機微が剔抉されている。
益川氏:人間というのは、あらゆる自然現象に対して、「これはどうしてなのだろう」「あれはなんだろう」と疑問を持ち、なんでも説明したがる生き物です。そして、答えがわからない時、「神がそういう性質を与えた」「神がそう決めた」ということにすれば、とりあえず問題は解決したように思えます。それが宗教です。
しかし、近代科学の考え方は、まったく違います。
答えがわからなければ、わからないままにしておけ。いつか、わかる時期が来るだろう。それまで気に留めたまま待とうじゃないか——というのが、近代科学の基本的な姿勢です。
自然科学が厳密に選り分けた「わからないもの」は、すべて「神」と謂う霊性の次元の摂理に直結可能なのであり、それによってこの世の「すべて」が解き明かされたかのような錯覚を得ることが出来るのである。
この「神への短絡」と謂うプロセスは、科学史のどの地点からでもどの時点からでも瞬時に成立可能である。「それが何故そのようになっているのか」と謂う疑問こそが自然科学を駆動するモチベーションであるが、いつ如何なる時点においてもその疑問に「それは神が定めたからである」と謂う万能の結論が直結可能である。そして、そのプロセスが成立した瞬間にそれは自然科学ではなくなってしまう。
随分遠くまで来てしまったが(笑)、このような万能のプロセスが存在する以上、自然科学や医学の高度な教育とホメオパシーの確信は無矛盾で並存可能である。寧ろこれは、現状の通常医療の限界を識り万能の医療を求める動機があるなら、ホメオパシーに類する霊的なオマジナイに接近する積極的な動機を持っていると謂う言い方も可能だろう。
勿論、大多数の医師はマトモだと信じたいところだが、帯津良一の日本ホメオパシー医学会なんてものがあったり、日本赤十字医療センター・集中治療科部長の種田益造がどうやら院内でホメオパシーを使用していたりすることから考えても、「マトモでない医師」が一定数存在することは事実であり、上記の考察に基づくならそれは何ら不自然なことではない。
仮にホメオパシーをプラセボとして用いると仮定した場合、当然患者に対して医師はホメオパシーが実効を持つものであるかの如く振る舞うことになるが、その場合、医師がホメオパシーに信頼性を付与すると謂う問題は措いても、その医師が上辺だけではなく本当にホメオパシーを確信している可能性が十分高いことになる。
その場合、それは最早プラセボとして使用しているとは言い難い。そして、それが現実には実効を持たない虚構に過ぎないと謂う認識がない場合、本職の医師であろうが妥当な医療行為が可能ではなくなってしまうと謂う大きな問題がある。
だとすれば、ホメオパシーをプラセボとして用いることには本質的な問題が内在することになるわけで、プラセボの使用において最低限求められる「それが偽薬であること」についての施術者の認識の有無に保証が得られないことになる。
したがって、ホメオパシーはプラセボとして好適ではないのだし、プラセボ使用の是非を巡る議論とホメオパシーの許容可能性を巡る議論は、この理路において断絶していると見做すのが妥当であると謂うのがオレの結論である。
一般的なプラセボとしての許容可能性の論点を潰した上で、次は極限定された場面でホメオパシーが許容し得るか否かを考えてみよう。
●「治らない」ならいいのか
ホメオパシーには「プラセボ以上の効果はない」のであるから、致死的なリスクのある疾病に用いられれば高確率で患者は死亡する。しかも通常医療が持ち合わせている程度の進行を抑止する技術も苦痛を緩和する技術もないのであるから、通常医療を受けた場合と比較して苦痛は窮めて大きいし、それどころかもっと早く命を落とす可能性も高いとも言えるだろう。
医療上の意味合いにおいて、通常医療を放棄してホメオパシーに身を委ねることには健康上のメリットは一切存在しない。患者が激しい苦痛や僅かな余命の短縮と引き替えに得られるのは「もしかしたら治るかもしれない」と謂う儚い希望だけである。そして、通常医療が完治を保証出来ない疾病の場合、それは個人の「生き方」や「死に方」の問題に直結するのであるから、個々人の価値観の問題になってくる。
患者の主観に則るなら、ホメオパシーを信じることで「もっと早く命を落とす」可能性は考慮に値しない。通常医療が匙を投げた疾病に対して「効くかもしれない」代替療法が逆に命を縮める可能性を考慮するなら、最初からそんなものに縋るわけがないからである。多くの患者は「もっと長く生きられる」「いや、完治すら可能だ」と信じたいから代替医療を信じるのであって、それは一種意志的信仰に近い心性である。
「もっと長く生きられる」「完治出来る」と謂う希望を信じる為に、そのよすがとしてその希望を確実に否定する通常医療「ではないもの」を意志的に信じるのである。であるから、それは別段ホメオパシーであることが必然なのではなく、通常医療以外の医療であれば何でも好いわけである。
複数の理由から、治せない場合には「治せない」と宣告し、余命が推定出来る場合には「これこれの期間で死ぬ」と宣告するのが通常医療の立場(本人に直接宣告するか否かは別として)であるから、確実な死と謂う逃れ難い運命を拒絶することは通常医療を拒絶することに直結する。
そして、一般的に生きとし生けるものが晒されている「いつ死ぬかわからない」と謂う不確定性を超えて「間違いなく何カ月か先に死ぬ」と謂う望まざる確定的な未来を目の当たりにしたとき、それが半年先であるか三カ月先であるかはあまり主観的な意味を持たないわけで、主観的に最も大きな要件は「死の確実性の回避」である。
死を宣告された人間は、一般的にその運命を回避したいと謂う強い願望を抱いているのであるが、通常医療は窮めて高い確率で患者の死を予言可能である。そして、逃れ難い死を目前にして代替医療に縋る患者の主観で謂えば、天秤に掛けられているのは「三カ月先の死」と「半年先の死」ではない。
普通一般に、人間は「明日死ぬかもしれない」可能性があるわけだが、日常的にそんなふうには考えていない。「明日死ぬかもしれない」と謂う不確定性は大きな確率で「多分明日死ぬことはない」と謂う期待を上回ることはないし、「明日死ぬことはない」のであれば、その「明日」が限りなく積み重なった先の「数十年先」も生きているだろうと謂う期待に敷衍可能である。いつかは死ぬのかもしれないが、多分それは具体的な想像力を超えたもっと先のことだろう、そう謂うふうに人間は日常的に考えている。
死を意識し始めるのは、普通の人間がどう頑張っても生きているはずがない年齢域が具体的な想像力の範疇に入ってきた段階であって、たとえば人間がおおよそ八〇歳前後で死ぬとして、六十代くらいになれば二〇年と謂う時間の長さが大体具体的に想像可能であるから、死が他人事ではなくなってくる。その年齢域に差し掛かると、そろそろ自分の死が現実的な想像力の及ぶところとなってきて、来るべき死に向けて自身の生活や心境を整理する必要を感じてくる。
ただまあ、これが四十代くらいになると四〇年と謂う時間は自分がこれまで生きてきた時間と概ね同じであるから、「そろそろ折り返しに来た」と謂う感覚はあっても、死が今日明日にも起こり得る現実的な可能性であると謂う認識は薄い。この辺は個々人の想像力に左右される部分ではあるが、長寿命化した現在においては結構な年齢まで死とは自分の具体的想像力を超えた曖昧模糊とした不確定な未来における可能性に過ぎない。
であるから、通常医療によって「半年先の死」と謂う確定的な運命を宣告された人間がその運命を拒絶すると謂うことは、「半年先の死と謂う確定的な未来」と「それ以外の不確定な未来」と謂う選択肢になるのであって、そもそも望まざる確定的な未来を拒絶する為の投機なのであるから、「三カ月先の死」と謂うもっと望まざる確定的な未来の可能性は最初から考慮に値しないのである。
そして、客観的な観点において「半年先に確実に死ぬ」人間が、「明日も明後日も数十年先も生きていられる」と謂う希望を抱いたまま「苦しみながら三カ月先に死ぬ」ことを、「半年先に確実に死ぬ」と認識したまま苦痛なく半年先に死ぬことに比べて幾らもマシであるかどうかは、客観的な事実関係の問題ではなく当人の価値観の問題である。
であるから、ターミナルケアに喰い込んだ代替医療の有害性は、個々人の価値観と謂う主観的要件に踏み込むことで一方的に断罪することが困難になる。たとえ本人が土壇場で後悔したとしても、その投機的な選択肢を選んだのは本人の自由意志だと謂うことにされてしまうからである。
ならば、ホメオパシーのような「効かない代替医療」は、こと通常医療が匙を投げた致死的な疾病のターミナルケアに限って謂えば許容されるべきなのか。
それは違う、と謂うのがオレの意見である。
●「何でもいい」なら選ぶべきではない
この場合、代替医療に求められるのは「確実な死を予言した通常医療ではないもの」と謂う要件でしかないのであるから、それを逆に謂うなら「通常医療でなければ何でも好い」のである。
そして、「通常医療でなければ何でも好い」のだとすれば、敢えて科学的観点で「効かないことが確実にわかっていて強い有害性を伴う代替医療」を選ぶべきではない。
何故なら、たとえばホメオパシーのような「効かない代替医療」は、「通常医療が治療不可能な疾病」に対して一種心理的に有効だと謂う事実と、「通常医療が治療可能な疾病」に対して窮めて有害であると謂う事実を分離して論じたり、一方を擁護すべき材料として他方を用いるべきではないからである。
つまり、「或る程度効く無害な代替医療」が他に存在するのであれば、「代替医療なら何でも好い」と謂う条件附けにおいて、効かないだけでなく別の観点において強い有害性を具える選択肢を選ぶべきではないと謂うことである。たとえばそれは漢方医療でも好いわけで、漢方医療が末期癌の治療や延命に対して無力であったとしても、漢方医療が妥当な範囲で普及すること自体には何ら有害性はない。
勿論、中には「漢方で末期癌が治せる」と嘯く輩も存在するだろうが、それは欺罔的悪意か熱狂的狂信のような有害性を持つ人間がたまたま漢方を選んだと謂うだけで、漢方それ自体に有害性があるわけではない。
この点において、欺罔的悪意か熱狂的狂信のような有害な要因がなければ支持し得ないホメオパシーとは本質的に異なっている。ホメオパシーの決定的な問題は、必ずそれらがセットになっていると謂う性格にあるのであるから。
最低限、「生き延びられると謂う希望」を抱いて苦しみながら死ぬことが肯定されるとして、それを個人の価値観の問題として許容するとしても、他に幾らでもマシな選択肢が存在する状況において、「効かないことが確定している有害な代替医療」を選択することは、それが通常医療で治療可能な疾病の治療機会を阻害すると謂う有害性に対して僅かながら荷担することになってしまう。
そしてこれは、別段患者の自己責任論を支持する意味で言っていることではなく、患者の自己責任と謂う施術者側の逃げ口上すらホメオパシーの有害性を擁護し得ないと謂う事実の指摘である。
ターミナルケアの観点でホメオパシーが何らかの心理的な貢献を果たし得る可能性があるとしても、別段それがホメオパシーでなければならない必然性などはないのであるから、「通常医療でなければ何でも好い」代替物にホメオパシーのような有害な迷信が充てられるべき正当性などカケラも存在しないと謂うことである。
たとえばそれは、常習的職業犯罪者がたまにボランティアで空き缶拾いをすることがあるからと謂って常習的職業犯罪者にも存在意義があると謂えるかどうか、と謂う話と同じことである。ボランティアの空き缶拾いは確かに善い行為だが、それは突き詰めて謂えば誰にでも出来ることで、善良な一般市民でも出来ることなのだから、それを以て別の観点における有害性を擁護し得る根拠とはならない、これは当たり前のことである。
また、この場合、患者の「自由意志」「自己責任」の扱いについても議論の余地があることはたしかである。たとえば「あなたは半年先に死ぬ」と宣告された人間の「自由意志」や「自己責任」について、常識的で冷静な判断に基づいたものであることを期待出来るか否かと謂うことである。
本人に余命宣告が為されない場合でも、そのことで逆に「自分に識らせないだけで実は末期癌なのではないか」と謂う疑心暗鬼に囚われるのが自然な人情であり、その意味で余命宣告された場合同様、「癌」と謂う病名の宣告によって動転した人間に冷静で常識的な判断能力を期待するのは酷である。
現代の公正性の概念から謂えば、大多数の人間が冷静ではいられないだろうと考えるのが妥当な状況において、平静な状況と同様に「自由意志」「自己責任」を取り扱うべきではないと謂うのが妥当な考え方だろう。一般的に「半年先に死ぬ」と謂う宣告を受けたり「数カ月先に死ぬかもしれない」と謂う疑心暗鬼に駆られて冷静で常識的な判断が可能な人間は極少数であり、大多数の人間が度を失って通常の判断能力を欠くのは当然である。
そのような常識的な判断能力を欠く相手に対して「必ず治る」「私が治してみせる」と請け合うこと、否、それを仄めかすことにすら大きな道義的責任が附随することもまた当然である。その場合、「ただし治らなくても自己責任で、私は責任を取りません」などと留保を附けることでその責任は回避し得ると謂う考え方が妥当かどうか、このことも考えてみる必要があるだろう。
そもそも公正な「自由意志」を期待出来ないと考えるのが当然の人間の「自己責任」を担保として「ダメ元」の投機を持ち掛けることが許されるかどうか、「ダメ」だった場合の責任を持ち掛けた側が一切負わずに済ませるのが妥当かどうか、これはデリケートな問題ではあるが、オレの感覚からすれば最初から結論は見えていると思う。
法律の規範で謂えば、「不公正な合意は無効」と謂うのが一般則であるから、この場合も立派に成り立つ要件である。だとすれば、ホメオパシーはターミナルケアの観点で考えても使い道のない虚構である。
俚諺に曰わく「溺れる者は藁をも掴む」「鰯の頭も信心から」と謂うが、藁しべにも鰯の頭にも人を助ける力などなくても基本的に人を殺す力もまた持ち合わせない。前段の考察と繋がってくる部分であるが、常識的で冷静な判断力を喪った人間が縋るものは、せめて無害なものでなければならない。
であるから、ホメオパシーがもたらすかもしれない偽りの「希望」など予め潰しておくに越したことはない。ホメオパシーには何の効果もない、それは相手が如何なる立場にあろうとも主張して構わないのだし、そんな空疎な希望の代替物などこの世には幾らでも他に存在する。
●「先進事例」は「お手本」ではない
さて、これまで考察してきた許容可能性の問題は、飽くまで「許容」し得るか否かと謂う観点の問題であって、社会にとってホメオパシーが積極的に必要であると謂う性格の議論ではないと謂うことには注意が必要である。
しかし、ホメオパシーを巡る議論においては、擁護者の間で常套的に「諸外国の先進事例」としてホメオパシーを擁護する意見が出されることが多いことは、皆さんも夙にご存じのことだろうと思う。先般ネットで話題になり、未だ進行中であるWEBRONZAを巡る議論で問題視されている岩澤里美の記事も基本的にその論調のものである。
そう謂う意味ではこれもまた許容可能性を巡る考察の俎上に上るわけであるが、ホメオパシーが世界中の多くの国や地域で受け容れられ、国家的な医療制度に組み込まれている場合も多いのであれば、もしかしてそれらの先進事例には視るべきものがあるのかもしれない、そのような可能性も考慮に値するだろう。
そうでなければ、多くの国や地域における多くの人々が長期に亘ってそんな何の役にも立たないものを支持しているはずがない、何かしら善用の途があるのではないか、これもまた或る観点においては尤もな考え方である。であるから、今度はその観点においてこの問題を考えてみようと思う。
少し前にkikulog でもNATROM先生が「フランスにおいてホメオパシーが比較的穏健に運用されている」と主張して物議を醸したことがあるが、これは普通に考えてNATROM先生のご意見のほうに分がないだろう。
これは最初に考察したホメオパシーのプラセボとしての使用に纏わる文脈で出たご意見であるが、前段で述べたようにプラセボは無害であること以外に有用性はないのであるから、たとえ割合は少なくとも一定頻度で有害事例が視られるのであれば、それは決して「穏健な運用」とは謂えないことになる。
オレの見聞の範囲では、フランスであろうが何処であろうが、ホメオパシーが受け容れられている社会には一定の割合で有害な事例が出来しているのであるから、その意味でNATROM先生のご意見は「比較的」と謂う相対尺度にしか妥当性はない。
繰り返すが、医療現場におけるプラセボ使用の問題は、プラセボが「効かない」ことが問題なのではなく「効かない」からこそ有用なのであり、ならば何処が何故問題なのかと謂えば、それは「医者が患者に嘘を吐く」ことが公平ではないからである。
前段をおさらいすると、プラセボ使用を許容する前提において、ホメオパシーが「効かない」こと自体は問題ではない。それが「嘘」であることを認識していない医師が一定数発生するから問題なのである。
プラセボが何らかの意味で「効く」と信じる正気の医師は誰一人いないだろうが、ホメオパシーが「効く」と信じる医師は一定数存在するのだし、それは決して無視出来ない事実である。そして、NATROM先生が種田医師について述べた所見の意味するところも突き詰めればそう謂うことだとオレは解釈している。
しかし、だとすれば日本に種田医師や帯津医師が存在するように、ホメオパシーが存在するところには原理的に必ず同種の医師が存在するはずなのだから、「比較的」と謂う相対尺度を外せば「穏健な運用」が為されている国などこの世には一つも存在しないと謂う結論でなければならない。
そして、プラセボの有用性が「無害性」と謂うただ一点にしかないのであれば、一例でも有害事例があれば無害性の担保は損なわれるのであるから、「穏健な運用」について相対尺度を採用すること自体最初から無意味なのである。
しかし、何もNATROM先生は消極的にであれホメオパシーを擁護する意図はなかったはずで、最初からホメオパシーのプラセボとしての使用は不適当であると断っている。彼が拘っていたのは医療現場におけるプラセボ使用の是非であって、これはそもそもホメオパシーとは分けて論じるべき事柄であることはすでに述べた。本来分けて論じるべき事柄を混同して論じるから変な論理展開になると謂う好例だと謂うのが、この一連の議論についてのオレの感想である。
たとえばニセ科学やニセ医療に批判的な論者の間でも、ホメオパシーに或る程度許容的なスタンスの意見が存在するわけであるが、これはたとえば日本の現状において今後ホメオパシーがもっと普及しても構わない、いや普及すべきだ、と謂う意味合いのスタンスではないと謂えるだろう。それは、すでに存在する職業的ホメオパシーに関して社会悪としての性格を捨てて平和共存する道を模索する性格の議論である。
現在、かくも多くの国と地域でホメオパシーが受け容れられているのは、それが無根拠であり有害ですらあることを合理的な推測によって決定することが困難であった時代に社会的に浸透し、比較的近年に至って、現代社会のテクノロジーに対する不信や反動によって「現代科学が捨て去ったもの」を再評価する気運に後押しされてそれが亡霊のように蘇ったからであって、ホメオパシーそれ自体に何らかの実体としての効用や有用性があるからではない。
諸外国におけるホメオパシーとは、結局は一九世紀の負の遺産でしかない。
グローバルな観点におけるホメオパシー問題の最も厄介な部分とは、そのような歴史的事情の故にすでにホメオパシーが広範囲に普及していて、欺罔的な悪意を持たない職業ホメオパスや被害者的な意味合いを持たないホメオパシーの支持者が一定程度存在すると謂うことで、謂わば世界的に最も普及した「迷信のオマジナイ」としての側面を有すると謂うことだろうと思う。
これを今更「ホメオパシーには科学的根拠が一切存在しない」として公式に完全排除するのであれば、大きな範囲で理不尽に職を喪う人々が存在すると謂うことであり、それまでホメオパシーを支持していた人々の間に混乱が生じ、ホメオパシーが担っていた医療制度上の役割を補填する為に大きな制度改革が必要になると謂う無視出来ない社会的影響がある、と謂うことである。
ホメオパシーの問題において「普及」が大きな要件となるのは、このような「ホメオパシー先進国」における「先進事例」が背景にあるからである。それらの「先進国」においてホメオパシーが一般に普及していることには無理からぬ歴史的事情があり、かつはホメオパシーが或る程度国家的な医療行政制度の一翼を担っていると謂う面倒な問題があるわけである。
それを今更「ホメオパシーを認めたのは間違いでした」と公表してホメオパシーを排除しようと思っても、あまりに影響が広汎に亘るので簡単には行かない、そう謂う種類の窮めて現実的な問題である。かつて無理からぬ経緯で間違ったことが起こり、それがすでにスタンダードとなった現状においては容易に修正すること困難だ、と謂う性格の問題なのである。
現実には、ホメオパシーが「穏健に運用」されている国や地域など、この世の何処にも存在しない。ホメオパシーの存在するところでは、必ず通常医療との軋轢が起こっており、無意味な死が積み重なっている。ホメオパシーの原理には、無意味に人を死なせる大きな可能性が内在しており、その可能性が実現するか否かは確率の問題でしかない。
一般的に「先進国」における「先進事例」と謂うのは、必ずしも「見習うべき理想的なお手本」と謂う意味ではない。先んじて過ちを犯した国家の事例に鑑みて、自国でその轍を踏まぬように学ぶこともまた「先進事例」の意義である。
日本ホメオパシー医学協会辺りが好んで言挙げする「先進国の事例」とは、結局このような「先達の犯した歴史的失敗の教訓」であるに過ぎない。それに学ぶと謂うことは、その愚に倣うことではなく、わが国が同じような過ちを犯さぬよう「先進事例」を踏まえて厳正に対処することでしかない。
これを逆に謂えば、そもそも歴史的にホメオパシーが「普及」していない国家であれば大した影響もなく排除が可能であり排除するのが当然であると謂うことであって、日本学術会議の会長談話にあったように、「幸いなことに」ホメオパシーが未だ定着していない日本の場合は「水際防衛」と謂う性格の問題となる。
であるから、こと日本の現状においては現時点においてホメオパシーを「普及」させようとする行為は明確な反社会的欺罔行為に当たると謂うことであり、それが間違っていると判断し得る情報が幾らでも入手可能であり幾らでも正道に引き返せる現状においてそれとは逆行する行為を行うこと、これが間違っていることは更めて言うまでもない。
こと日本においては、欧米諸国のように「ホメオパシーが間違っていることが科学的に証明される以前にすでに普及していた」わけではなく、「ホメオパシーが間違っていると容易に判断可能な時代になってから導入された」のであるから、わが国におけるホメオパシーは最初の最初から欺罔的なニセ医療であり、欧米諸国のように、すでに普及していた代替医療の妥当性が科学の発達に伴って否定されたわけではない。
例によって長くなってしまったが、これまで視てきたように、ホメオパシーには考え得る限りの複数の観点において許容の余地がない。
仮にホメオパシーが何らかの有用な役割を果たし得るとしても、そのメリットよりも遙かに大きな致死的デメリットが存在するのであり、しかもその役割は何もホメオパシーでなければ担えないものではない。であれば、論理的な帰結としてホメオパシーは速やかに社会から排除されねばならない。これが今回の結論である。
しかし、その一方で、たとえば久保田裕なんかは「排除の先に解決なし」なんて言ってくれちゃうわけだが(笑)、当然オレはWEBRONZAの有料購読者ではないので、具体的にどう謂うことを言っているのかはわからない。
まあ、大体推測出来ることは出来るのだが、「排除の先の解決」についてはかなり長期的な視野の問題も関連してくることであるから、一渡り現実的な問題を考えてみてもう少し後の考察で考えてみたい。
そう謂う次第で、次回は山口の事件やあかつき問題、日本学術会議の会長談話など、最近社会的な反響を呼んだ大きな事例について考えてみようと思う。
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コメント
こんばんは。
帯津系については余り言及してきませんでしたが、短期的にはトラコパシーが問題、長期的には帯津氏の全方位代替医療が問題だと考えています。
帯津医師が会長が勤めている「日本ホリスティック医学協会」は私の巡回先の一つでもあります。
http://www.holistic-medicine.or.jp/
ここの関西部公式ブログ「ホロスの風」に次のような記載がありました。
>2011年2月17日木曜日
>私の歴史(2)~心療内科から緩和ケアへ
http://kansai-holis.blogspot.com/2011/02/blog-post_17.html
>何冊か本を読んでいるうちに
>帯津先生とホスピス医の山崎章郎先生の対談本に出くわした。
>この本を読んで気づいたのは、
>帯津三敬病院の入院患者さんは、
>緩和ケア病棟に入院している患者さんとあまり変わらないということ
>だった。
>帯津三敬病院に入院している患者さんの8割はがん患者さんだ。
>末期患者も多く、実際3日に1人の割合で患者さんが亡くなるという。
>これはほとんど緩和ケア病棟と同じ状況だ。
>異なることと言えば、代替療法を駆使しているか否かという点だ。
筆者は関西支部長で彦根市立病院緩和ケア科部長・黒丸尊治医師です。
この内容が真であるなら入院患者の8割ががん患者、しかも末期の方が多いようです。最後の望みに縋ってやってくるのでしょうか。
"3日に1人の割合で患者さんが亡くなる"この数値が帯津三敬病院の規模に妥当なものか私には解りませんが、代替医療で治癒を目的にやってきた患者さん達にとっては妥当な数値ではないと思います。
以前NATROMさんのツイートに
"帯津三敬病院に入院するとホメオパシーは1週間1575円だそうだ。医療者なのにホメオパシーを使うなんて「それはひどい」ね。でも私のマイミクは「私は川越の帯津病院で死にたいと思う」と言って、死んでいった。"
"そのマイミクの言葉。「標準治療の医師を初め多くの医師は、患者から希望と命を奪う言葉しか持たない、悪い奴らだよ」「西洋医学の患者の心身は萎縮させられている。でも、ここ[帯津病院]では、最後まで前向き生きるのが前提さ!」"
"標準医療を提供する病院が救えなかった患者を、帯津三敬病院が救っているという事実もあるんだよ。患者は多様だから、選択肢も多様であるべきだ。"
とありました。"患者は多様だから、選択肢も多様"それには深く同意します。しかしその選択肢が帯津三敬病院であるのは不幸なことだと思います。そこにあるのはまやかしの希望と商売だけですから。
あともう一つ気になるのは政治的な動きですね。
>平成23年 『新 春 の 挨 拶』“統合医療飛躍の年”
http://imj.or.jp/pdf/IMJ_newsletter20110124-1.pdf
>昨年は、民主党の窓口である枝野幸男幹事長代理(現、内閣官房長官)
>と会談し、マニフェスト通り、統合医療を推進するとの言質を頂戴する
>に至りました。
>平成23年“統合医療推進の基本方針”
http://imj.or.jp/pdf/IMJ_newsletter20110124-2.pdf
こちらにも多数の議員名と省庁名があげられています。
>渥美理事長が鈴木 寛 文科副大臣と面談
http://imj.or.jp/pdf/IMJ_newsletter20110208-4.pdf
あの"マニフェストからこっそりホメオパシーを消した"鈴木文科副大臣は『国際統合医療センター』を作る気満々のようです。
社会からの排除……厄介なことは間違いないと思います。
投稿: うさぎ林檎 | 2011年3月 2日 (水曜日) 午後 11時14分
情報ありがとうございます。
>>帯津系については余り言及してきませんでしたが、短期的にはトラコパシーが問題、長期的には帯津氏の全方位代替医療が問題だと考えています。
仰るとおり、帯津良一にしてみれば、自分が何年も前から上手く「統合医療」に取り込もうとしていたホメオパシーを、由井寅子がカリスマ的な神懸かりで好き放題な新宗教紛いの荒稼ぎをしているのを苦々しく感じていたかもしれません。JPHMAのやり方では早晩社会と軋轢を起こすのは目に見えていたと思いますし。
NATROM先生があの文脈で帯津三敬病院の例を持ち出してきたと謂うのは、つまり帯津系の統合医療と謂うのは極端に拡張されたプラセボであると視ていると謂うことなのだろうと思います。それで救われている患者が一定数存在すると謂う事実は、現場の医師として無視して好いことではないとお考えなのかな、と。
で、たとえばガン告知の問題などでも、現在はきちんと告知して正面から現実に立ち向かわせるのが理想的とされているようですが、それがすべての患者に向いているわけではないし、すべての医師に向いているわけでもない。理想的な医療を掲げるのは簡単でも、その為には現実的に解決しなければならない問題が山積しているし、それを解決するのは容易ではない。そう謂うことなのかもしれません。
政治的な動きについては、本来日本学術会議の会長談話が一定の掣肘になっていないとおかしいのですけどね。「科学的な根拠のないものを医療の現場に持ち込むべきではない」と謂う意見は、ホメオパシーだけに限ったことではないはずで、この基準で足切りすると大多数の「代替医療」は篩い落とされるはずです。
それでも政府の然るべきポストにある人間が「統合医療」を推進する強い意志を持っているのだとすれば、都合の好い「あちらサイド」の意見ばかりではなく否定的な有識者の意見も検討する責任があるはずですが、その責任を果たす気がないとすればこれは大問題ですね。
帯津系の統合医療の問題は、お上の思惑と複雑に絡み合っているだけに、ネット言論だけでは対抗不能でしょう。この辺はマスコミの役割に期待したいところですが、現状で信頼出来そうなマスメディアは朝日アピタルのみと謂う状況ですから、アピタルが中核となって朝日全体を巻き込んでいくような仕掛けも必要なのかな、と思います。
あの「他人事感覚」のお父さんも、代替医療との共存までを模索しているわけではないと思いますが、代替医療と対決する意志があるとしても、長期的戦略があるんだかないんだかよくわからないですね。
え、WEBRONZA? そんなものはごにょごにょごにょ(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2011年3月 4日 (金曜日) 午前 06時15分
医師「キレイどころか、無数にありますよ!」
家族「帯津先生はCT画像を診ても、問題無いと言っていましたが!!?」
医師「帯津氏はガンを診る腕は無いですよ。プロなら、このCT画像を診て転移だと気づかないはずがない」
大分前のCT画像にも転移が認められ、完全に手遅れの状態で、かけこむこととなってしまった。
悔やむに悔やみきれない。
もっと早く気づき、強引にでも、専門医を探しておけばよかった。
自分を責め続けたが、やはり納得がいかない。
帯津氏に問い、どう返答が帰ってくるのか確かめたかった。
彼の本心、人間性を見たかったのかもしれない。
そして経緯を説明した手紙を出した。
こちらが何かを要求しているのではないか?面倒なことは御免だ。そう受け止められたのだろう。
当院に責任は無いことと、それについてのいくつかの理由をあげただけの返事が帰ってきた。
CT画像の見落としについては言及されず、私には落ち度が無いということだけ強調されていた。
何かしら人間らしい悼む言葉が欲しかったが、期待するだけ無駄だった。
しかし…
自分を頼ってきた患者がそういう結果になり何も感じなかったのだろうか?
CT画像の見落としは明白なのに、自分の腕に狂いは無いと思いこむ鈍い人間なのだろうか。
もやもやする思いが消えないので、書き込みはしたが、
このような人間について、あれこれ考えることはもう無意味なのかもしれない。
投稿: 匿名 | 2016年7月 7日 (木曜日) 午後 11時15分