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2011年5月 5日 (木曜日)

牛を巡る冒険

気が附けば一カ月半くらいブログを放置していたが、twitter をやっていると大体自分のブログの読まれ方も見当が附いてくるので、まあ、あんまり手を掛けても読まれないもんだな、と改めて実感すると、どうも労力を掛ける気力が湧かなかった(笑)。

震災以外で最近ホットな話題と謂えば勿論牛肉の生食による死亡事故の件で、腸管出血性大腸菌のリスクを巡る議論がtwitter でも盛んに交わされている。この問題については、食の安全について或る程度の知識をお持ちの方でも割合最近まで識らなかった方のほうが大部分で、勿論オレなんかはtwitter を始めてから生肉の危険性を訴えておられる方のツイートを拝読して「へぇ、そうなんだ」と思っていた程度である。

生肉を喰う食文化と謂うのは勿論大昔からあったわけで、欧米はもとより本邦でも鶏肉の刺身を日常的に喰う地域があるそうである。馬刺しなんてのも昔から食べられていたようだから、洋の東西を問わず禽獣の肉を生で喰うと謂う食習慣は程度の差こそあれ従来から存在したわけである。

では、何故今頃になって生肉による食中毒が問題になるのかと謂えば、腸管出血性大腸菌と謂う細菌が比較的近年(八四年以来)になって出現した新しい病原微生物だから、と謂うこともあるようだし、かなり最近になってユッケやレバ刺しがメディアの紹介や韓流ブームの影響で日本でも市民権を得て爆発的に流行したことで摂食頻度が飛躍的に増えたと謂う事情もあるようである。

病原微生物による食中毒と謂うのは確率的なリスクでもあるから、摂食頻度が増えれば重大な事故の頻度も増えるわけである。生肉を喰ったら必ず中たるかと謂えばそうでもないわけで、生肉が必ず汚染されていると限ったものでもないし、食べる人の肉体的な個人差もあれば大人と子供でもリスクの度合いが異なると謂うことである。成人が食べる分には多くの場合は中たっても吐き下しくらいで済む場合が多いけれど、一定頻度で死亡事故に至る。

この頻度は「運が悪かった」で無視出来る程度のものではない。フグのように食材固有の毒素に中毒したとか、腐敗した食材で腹をこわしたと謂うような場合とは違い、病原微生物による感染症であるから、最悪の場合集団感染で複数の死亡事故が連鎖する場合もあるわけで、本人が腹をこわす程度で済んでも糞便中に排出された菌で家族が感染するリスクもあるのだから、当人の自己責任で割り切れる問題でもない。

さらに、腸管出血性大腸菌は、たとえばサルモネラ菌なら症状を起こすのに一〇〇万個以上の菌が必要なのに、僅か数十個で症状を起こすそうであるから、細菌が数十個のレベルでは検出も滅菌も困難である。

腸管出血性大腸菌による食中毒は、九六年に岡山で発生したO157集団感染の事例で多くの人々に識られるに至り、このときは別段生で牛肉を喰ったわけではなく、原因物質は特定されていないようだが、学校給食で生肉が供されるはずはないから、結果的に滅菌が十分ではなかった為に集団感染が発生したわけで、あの当時大騒ぎして「牛肉ヤヴァイ」的な風潮が醸成されたにもかかわらず、十数年後の現在は加熱不足どころか完全に生の牛肉を日常的に喰う食習慣が定着すると謂うよくわからない成り行きになっているわけである。

その後九八年には厚労省が「生食用食肉等の安全性確保について」の通知で、生食用食肉の衛生基準を示しているそうだが、現状でこの基準に適合した生肉が流通しているのは馬肉・レバーだけだそうである。つまり、生で喰える牛肉は現在流通していないわけである。この辺はマスコミに報道でも触れられているから、今更オレが強調するまでもないだろう。

まあ、生肉食の危険性については、門外漢のオレが受け売りばかりしていても情報が劣化するばかりなので、小比良さんの「肉の生食関連エントリまとめ」から各エントリを読んで戴けばいいだろうし、今更オレが尻馬に乗って生肉食の危険性について木鐸を鳴らす必要も薄いだろう。今回のエントリのポイントはそこではない。

先日この小比良さんと他の方々がツイートしておられた会話を眺めていると、腸管出血性大腸菌を完全に滅菌する方法はないのか、と謂う話題が出た。その文脈で放射線照射ではどうかと謂う意見が出たのだが、小比良さんによると国内ではジャガイモの発芽防止以外の目的で放射線照射は行われていないし、海外からの輸入食材についても放射線照射したものは原則輸入していないそうである。

それを聞いてちょっと不思議に思ったので、「食材の放射線照射で何らかの健康被害があるのですか」と伺ったところ、「健康被害はないが忌避感情に配慮して認められていない」と謂うことであった。放射性物質が付着しているならともかく、死んだ動物の肉に放射線を照射したからと謂って何がどう変わるわけでもないのだから予期していた答えではあったが、要するに「何だか気持ち悪い」と謂う以上の理由はないわけである。

その後伺ったところでは、細菌もウィルスもγ線照射でほぼ滅菌出来ると謂うことであるから、「何だか気持ち悪い」と謂う理由で最も確実な滅菌法が忌避されていると謂うことになる。まあ、公平に謂えばγ線照射にはそれなりにコストが掛かるそうであるから、牛肉のような食材への適用がペイするのかどうかはわからない。

しかし、どうにも微妙な気分になってしまうのは、たとえば今回の事故を受けても、自己責任で喰えばいい的な議論も根強くあって、それはそうかもしれないが、前述の通り腸管出血性大腸菌には糞便を介して家族への感染のリスクもあるのだから、完全な自己責任の条件が成立するわけでもない。

とにかく国民の多くの人々は一皿三〇〇円くらいで一〇〇%安全なユッケを喰いたくて仕方がないようだが、厚労省の安全基準をクリアすれば今以上の食肉処理コストが掛かるわけだから当然そんな価格では提供出来ない。しかも、腸管出血性大腸菌が数十個のレベルで症状を起こすのであれば、厚労省の基準をクリアしたから一〇〇%安全だと謂う保証もないのである。

ゼロリスクと謂うことで謂えば、実はγ線照射が一番確実な滅菌法と謂うことになるだろうが、福島第一原子力発電所の事故で放射性物質に対して国民がナーバスになっている状況では、「じゃあ今後は食品への放射線照射を認めましょう」と謂う方向性には決してならないだろう。

冷静に考えれば、原発事故による放射性物質汚染と食品への放射線照射は、少なくとも科学的には全然関係ない問題でしかないのだが、いずれも国民の核アレルギーのような心性が根幹にあるのだとすれば、社会心理学的な観点では共通しているわけである。

そして、そのいずれもゼロリスク的な志向に基づくものであるにも関わらず、論理的に考えれば、食品への放射線照射を忌避する感情は明らかに何の根拠もない理由でゼロリスク的な安全性を損ねていると謂う点が不合理である辺りが面白いと感じたのでこう謂うエントリを書こうと思い立ったのだが、放射線照射の忌避以外にも牛肉の生食を巡る問題では不可解な矛盾がある。

つまり、基本的にゼロリスク志向であるはずの日本人が、今現在何故これほど頻繁に生肉を喰うようになったのか、と謂うことである。これは邪推であるが、牛肉と謂うのは米なんかと並んでかなり政治的な事情に左右される喰い物であるから、この現状には複雑で多様な要因が関係しているのではないかとオレ考えている。

たとえば、九十年代末に前述のO157の問題が起こった後、二〇〇〇年代に入ってからはBSE問題なんてのもあったわけで、今詳しく論じるだけの準備はないが、それ以外にもさまざまな生臭い問題が牛肉には附き纏うわけであるから、ほじくり出すと幾らでもドロドロした裏事情が出てくるのではないかと思う。

ちょっとだけ仄めかしておくと、どうやら今現在生肉食がこれだけ普及したのは、勿論O157問題以後に起こった文化的風潮の故であるが、おそらくそれはBSE問題以後でもあるだろう。高々四半世紀の間に、「牛肉はヤヴァイ」と謂う社会的風潮が確立されてもおかしくない事件が立て続けに起こっているにもかかわらず、何故か今現在は牛肉の生食が恰も当たり前であるかのように日常的に定着している。

これは窮めて不自然な事態であり、これまで散々言われてきたように日本人は基本的にゼロリスク志向であることは間違いないだろうから、「喰うと最悪死ぬ」とハッキリした事例が頻発したにもかかわらず、逆に状況としてはよりいっそう危険な方向に推移していると謂うのは窮めて奇異に感じられる。

さらに、行政の指導について考えてみても、たとえば屠畜や精肉の領域ではデリケートな社会問題が絡んでくるだろうし、料理店への指導についても別種のデリケートな問題が絡んでくるわけで、この辺は実態を視てみないとわからない。

そう謂う次第で、実はこの問題については途轍もなくややこしいいろんな問題が複雑に絡み合っているのではないかと考えていて、多寡が食中毒事件と単純に考えても全体的な問題の構造は浮かび上がって来ないのではないかと考えている。

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コメント

大腸菌類の場合は、肉の表面にしかいませんから、ガンマ線なんていう面倒な物を使わなくても、紫外線(殺菌灯)で殺菌できます。
殺菌できるのは、「表面」だけですから、なるべく比表面積の小さいブロックのほうが生産性が高くなります。

投稿: mimon | 2011年5月 6日 (金曜日) 午前 07時08分

私は、(牛、鶏、豚、馬に係わらず)生肉を食べることは平気ですが、「鶏は、公では、店で出してはいけない」らしいですが、店屋は法の網を潜り、平気で出し、且つ、客もそれを承知で、食べている例を知っています。

黒姫亭さんが仰る<屠畜や精肉の領域でのデリケートな社会問題>は、行政側も、見て見ぬ風潮があり、
事故が起こると、取締りを厳しくするが、世の中の騒ぎが収まると、緩め、且つ、食する客も、騒ぎを忘れ、生肉を食するようになる繰り返しのように思います。

魚を生で食べる習慣がある日本人には、致し方無いように思われます。

<食品への放射線照射を忌避する感情は明らかに何の根拠もない理由でゼロリスク的な安全性を損ねていると謂う不合理>は、明らかな矛盾と思います。

国民の理解を得る方法で、<食品への放射線照射>を実施する等、<ゼロリスク的な安全性>を維持するのが、
公の行政の在り方と思いますが、
日本の(保健等)行政のいい加減さを示しているのかも知れません・・・。

レジオネラ菌騒動も、保健所等の行政方針は、いい加減でした。


投稿: mohariza | 2011年5月 9日 (月曜日) 午前 01時23分

>mimonさん

お返事が大変遅れました。どうもGW前後はあんまり心理的に良い状態ではなかったものですから、twitter で莫迦話ばかりしていました(笑)。

>>殺菌できるのは、「表面」だけですから、なるべく比表面積の小さいブロックのほうが生産性が高くなります。

同じ理由で、どうも生食用の肉は組織の毀れたところから少し内側にも菌が繁殖している恐れがあるようなので、紫外線照射だけでは安全性は担保出来ないのではないかと思います。就中O111などの腸管出血性大腸菌は、症状を現す為には数十個細菌が存在すれば好いらしいので、表面だけの殺菌ではやはり危ないな、と思います。

投稿: 黒猫亭 | 2011年5月13日 (金曜日) 午前 08時37分

>moharizaさん

お返事が遅れましてすいません。

>>私は、(牛、鶏、豚、馬に係わらず)生肉を食べることは平気ですが、「鶏は、公では、店で出してはいけない」らしいですが、店屋は法の網を潜り、平気で出し、且つ、客もそれを承知で、食べている例を知っています。

九州などでは鶏の生食が食習慣として根付いているそうですから、地域の食文化として行政のほうでもあまり強く指導出来ないと謂う事情がありそうですね。昔から食べて来たのだから大丈夫だろう、と謂う感覚もありそうですし、それこそ死亡例でも出ない限り強制力のない通知程度では指導にも限界があったのかもしれません。

>>事故が起こると、取締りを厳しくするが、世の中の騒ぎが収まると、緩め、且つ、食する客も、騒ぎを忘れ、生肉を食するようになる繰り返しのように思います。

O157の集団感染の際に、あれほど牛肉の生食は危ないとか下手すりゃ生野菜だって危ないと謂う風潮になったにも関わらず、現在これほど生食が普及している現状を視ると、喉元過ぎれば、と謂うことが繰り返されるのかな、と思います。

本文でも触れましたが、とくに牛肉は政治的な事情に左右されやすい食品ですから、何か裏があるのかと勘繰りたくなるのも人情ですね。

>><食品への放射線照射を忌避する感情は明らかに何の根拠もない理由でゼロリスク的な安全性を損ねていると謂う不合理>は、明らかな矛盾と思います。

エントリを上げてから「食品の放射線照射には2−アルキルシクロブタノン類生成の問題があったけど、それは大略問題ないと謂う結論になったはず」と謂うご指摘を戴いたので、ちょっと調べてみたところ、戴いたご指摘の通りでした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E5%93%81%E7%85%A7%E5%B0%84

このウィキの記事で挙げられている分解生成物や誘導放射能の問題については、どうも未だに強硬に危険性を主張している人々がいるようなので、日本人の核アレルギーやゼロリスク志向には相当根深いものがあるようですね。

投稿: 黒猫亭 | 2011年5月13日 (金曜日) 午前 08時38分

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