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2011年10月 7日 (金曜日)

「エア御用」考

近頃twitter界隈で御用wikiに関する話題が活発に交わされているので、この際纏まった意見を言おうかと思ったが、あんまりtwitterにばかり書いていても流れてしまうので、久しぶりにブログで書こうかと思い立った。最初はTWのつもりだったので、ちょっと日頃と文体が違うし内容も粗いが、まあ短時間で書いたものだからこんなもので(笑)。

さて、たとえば「エア御用」と謂うタームの元になった言葉の「御用学者」がなんでいかんのかと謂うと、言説それ自体と謂うより「権力の走狗となって御用を務める姿勢」が非難に値するわけだよね。

学問の観点で是々非々で判断するなら、学問的意見、とくに自然科学的知見なんてのは、人間の都合とはまったく関係ないものなのだから、時によってそれがお上に有利だったり不利だったりするわけで、その言説がお上に有利か不利かと謂う基準で御用学者かそうでないかを判断することは出来ない。

御用学者は「常にお上に有利なこと言う」わけだが、たまたま或る学者の意見がお上に都合が良かったからと言って、その学者が御用学者であるかないかは決定されない。これは普通の論理的な階層概念だよね。

だから、特定人物を「御用学者」と名指しするなら事実関係の根拠を挙げろと迫ることが出来るわけで、「偶然に」お上に有利なことを言う学者を「御用学者」呼ばわりするのは、その間の弁別の非対称性がわかっていないだけの話。

これが「エア御用」となると、もうちょっと話が変わってくる。エア御用の定義は「権力の走狗となって御用を務めているわけでもない姿勢」でお上に有利なことを言う学者だと謂うことらしいが、これは実質的には弁別基準として機能していない。

「御用学者」は「お上の御用を務めている」のだから、その学者と政府との利害関係と発言傾向の総合で或る程度「御用じゃないのか?」くらいの憶測は言い得るわけだが、「エア御用」だと「政府との利害は関係ない」と謂うことなんだから、事実関係の拠り所がなく全体的な発言傾向しか基準がない。

この場合、「御用学者」と同様に「常にお上に有利なこと言う」のが必須条件だとしたら、まあ今現在「エア御用」呼ばわりされている学者は、おおむね政府に不利な意見も半々以上で言っているのだから、政府に有利な意見と不利な意見の割合を挙げればアッサリ反証は終わり。しかし、それではあの方々は納得しないわけだよね。そうすると、政府と利害関係はないわけだから「常に」である必要はないと謂うことになるのかな?

しかし、前述の通り常識的に考えれば学問的に偏りのない意見は、お上に有利であるか不利であるかと謂う基準とはまったく因果的な関係がないと考えるのが妥当だろう。まったく因果関係がないのだから、お上に有利なことを言う場合もあれば不利なことを言う場合もある。そうすると、明確に「御用でもエア御用でもない」と言い得る学問的な立場は「常にお上に不利なことを言う」と謂う姿勢しか残らない。

少しでもお上に有利なことを言えば「エア御用」と呼んで構わないなら、原理的には「常にお上に有利なことを言う学者」か「常にお上に不利なことを言う学者」以外のすべての学者を「エア御用」と呼ぶことが出来るわけ。しかし、本来学問的意見の偏向と謂う観点で謂うなら、定義して特定されねばならないのは「常に特定の傾向を採る学者」でなければならないだろう。

つまり、「常にお上に有利なことを言う学者」も「常にお上に不利なことを言う学者」も偏向と謂う意味では両方偏っているんだよ。だから「学者の偏向した見解は信頼性に劣る」と謂う意味では、「御用学者」の意見も「反権力の学者」の意見も両方客観的な信頼性には欠けるわけ。

そうすると、御用wiki的な定義で謂えばどちらでもない「普通の学者」は全部「エア御用」に分類可能なんだから、こんな定義には「便利なレッテル」として以外の意味はまったくないと謂うことになる。

「常にお上に(有利・不利)な意見しか言わない学者」以外の普通の学者は全部その定義に該当するなら、「それ以外の全部」なんてのは弁別的な定義として機能していないのだし、それでも特定の学者を「エア御用」扱いするのであれば、それを決定する基準は「自分にとって邪魔な意見」と謂う恣意的なものしかないでしょ、と謂う話だよね。

だから、オレの意見としては、学者の是々非々の意見に文句があるなら言説自体に対して是々非々で意見を言えば好いのだし、何にでも貼れるゴミみたいなレッテルを貼っても罵倒にしかならないから、くだらない罵倒として扱われるのが厭なら、そんなくだらないオモチャは捨てろと謂うことだね。

そして、オレは御用wikiと謂う「意見発信の行為」は、そこが完全に失敗していると考える。たしかに彼らには御用学者やエア御用と名指しした学者たちに対して怒りを覚えているのだろうし、その発露として2ちゃん的な柄の悪い言葉遣いで「御用学者」と謂う古臭い侮蔑表現を使ったのだろう。

しかし、それは結果的に「御用学者」の語義としての「権力との癒着」と謂う「立証責任を求められる」誹謗中傷にしかならないことは事実で、さらにはその「権力との癒着」と謂う定義に彼ら自身が振り回されたから「エア御用」なんて循環論法の珍定義を編み出さざるを得なくなった。

この定義が、御用学者を御用学者たらしめていた「権力との癒着」と謂う客観的要件を除外してしまったが故に、「それ以外の全部」になってしまって客観的弁別基準として何ら機能していないと謂うことはすでに述べた通り。

これは窮めて馬鹿馬鹿しい話で、自分とは対立的な意見を言う学者の姿勢に反撥したのであれば、その学者の意見や姿勢が間違っていることだけを指摘すればいい。御用呼ばわりして個人攻撃の罵倒を繰り返すから、それは「無根拠で得手勝手な悪口を幾ら言ってもいい場所」から持ち出せないアンダーグラウンドな落書きとしてしか世間から認識されないのだよ。

明るい場所で意見表明をしたいなら、それ相応の作法やルールと謂うものがある。近頃世間では或る程度ネットに寛容になったから、2ちゃんのようなアンダーグラウンドな場で得手勝手な悪口を言ったところでとやかくやと野暮なことは言われないが、それを人目に触れるところに出したいなら、少なくとも客観的立証を求められる誹謗中傷をするのは餓鬼のやることだよ。

彼らが自身とは意見の異なる特定の学者を批判したいと謂うのなら、大いに活発にやればいい。ここは建前上「自由の国」だからね。ただ、世間で相手にされる意見と謂うのは、立証責任の求められる事柄にキチンと根拠を添えた場合だけだし、根拠が示せないならアンダーグラウンドの悪口として仲間内で盛り上がっていればいい。どちらも許されるのが今の日本だ。

しかし、自身の心証しか根拠がないのに「権力との癒着」と謂う事実性を騒ぎ立てても、世間からは卑怯な濡れ衣を着せる行為だとしか思われないし、それは主張の内容や思想的妥当性とは関係のない社会のルールと謂うものだよ。2ちゃんでそれが或る程度許容されているのは、そこが嘘や出鱈目の悪口を言い合うオゲレツな場だと世間が認識しているからでね。

だからまあ、最善の解決と謂うのは、御用wiki側が「御用」と謂う立証責任を求められる分類基準を捨てることだと思うけどね。そんな無責任な誣告を行っている限り、世間からはまともな意見表明としては相手にされないよ。

そもそも彼らは、そこで名の挙げられている学者諸氏に対して「権力と癒着しているから」怒りを覚えているわけではないだろう。だったら、ちゃんと事実性の根拠を挙げてから批判するのが筋だが、単にその学者たちの意見や姿勢に対する反撥を動機としていて、その反撥の表現として「御用」と謂う侮蔑表現を用いているから、順序が逆になるんだよ。

御用wikiが何故失敗しているかと言えば、まさに「御用」wikiと名乗っちゃったからだと謂うのがオレの意見だから、それに代わる適当な名称や分類概念を考案すれば、それはそれでいいのじゃないかな。別にオレがそれを提案する義理はないから何も言わないが(笑)、彼らが特定の学者の何に怒りや反撥を覚えているのかをキチンと熟考すれば、それこそが個別の学者を選定した分類概念であるはずなのだから、自ずと答えが出ることだろうと思う。

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コメント

最近「御用市民」と云うことばまで見かけました。なんかほんとに分断以外の機能を持たない語法ですよね。

こう、空疎な用語のもとに心性の共有を築こう、と云う営為は、せいぜい行ってもあまり意味のない無限の分断を生むのが関の山、と云う気がします。まぁそう云うことがしたいひとたちがしているのだから、そんなもんだ、としか云えないわけですけど。
ただ、そのような営為に対して、例えば科学技術社会論をテーマとする学者がどのように向き合うべきか、と云うのは、ひとつあるようには思います。自分のところに書きましたが、おそらく彼らは現時点でどのような基準に基づいて直接対話をなすべきか、と云うようなことを考えるような学術的なアスペクトを持っていない。それでも、このような営為をどう評価し、導くか、と云うのは本業の分野内できっちりやらなければいけないことなんじゃないかな、みたいには思うんですよね。

投稿: pooh | 2011年10月 8日 (土曜日) 午後 12時36分

>poohさん

近頃ツイッターにばかりかまけてご無沙汰しております(笑)。

>>最近「御用市民」と云うことばまで見かけました。なんかほんとに分断以外の機能を持たない語法ですよね。

仰る通りです。ツイッターでの反応やはてなのブコメを見る限り、本質を外した批判しか戴いていないので、このエントリのキモである「分類概念として機能しない定義には便利なレッテルと謂う以外の意味があるのか」と謂う問い掛けに対する明確な反論は目にしたことがありません。

「いやいやこの言葉は役に立った」と謂うのであれば、それは便利なレッテル貼りは自分たちにとって邪魔な人間を名指しして攻撃するのには「役に立つ」からね、と謂う薄ら笑いを禁じ得ません。科学哲学の話に持ち込んでいる人もいるようですが、ここではそんな話はしていませんしね。科学自体の権力との親近性を指摘するなら、やはり科学者は全部御用学者だと謂うことになって、やはり「御用」だの「エア御用」だのは分類概念として意味を為さなくなります。

poohさんの「分断」と謂う言葉を籍りれば、「何にでも恣意的に貼れるレッテルには敵味方の恣意的分断以外の機能がない」と謂うことを問題にしているわけですが、その本題については誰も反論してくれませんね。そして、市民の意見表明において「敵・味方の恣意的分断」の便利さを無反省にツールとして使用するとどんな危険なことになるかと謂う話はツイッターで散々繰り返しています。

「あいつはアカだ」「あいつは反革命分子だ」と謂うような、分類概念として機能しない何にでも貼れるレッテルが、過去にどんな弊害をもたらしたかの反省がないのであれば、それが同じ末路を辿るのは知れているでしょう。

>>ただ、そのような営為に対して、例えば科学技術社会論をテーマとする学者がどのように向き合うべきか、と云うのは、ひとつあるようには思います。

これにも同意します。やはり以前ツイッターで語ったことなのですが、「政府や東電は嘘を吐いていたのだから信用出来ない」と謂う前提が一つあって、その前提から「政府や東電と同じようなことを言う奴は信用出来ない」と謂う次のステップが導き出されてきますよね。そしてさらに「政府や東電とまったく違うことを言う人は信用出来る」と謂う結論が出てくるわけで、これが現今の「御用学者」を巡る図式だと考えています。

これについては、科学技術社会論の平川秀幸さんが『もうダマされないための「科学」講義』でも、イギリスのBSE問題や日本の九五年問題のような過去の事例を引いて同様の「信頼の危機」の問題を論じていますよね。BSE問題とGM種子の問題を関連附けて「未知のリスクがあるかもしれない」と謂う科学への不信を指摘しています。

この「未知のリスク」云々と謂う部分はそのまま「放射線被曝のリスクにだって未知の部分があるではないか」と謂う意見に重なるわけで、BSEやGM種子の問題ではそこから「理解から対話へ」「欠如モデルから双方向モデルへ」と謂う動きがありトランスサイエンス・コミュニケーションと謂う考え方が出て来たと語られているわけで、これを専門に扱う立場が科学技術社会論の平川さんや春日匠さんと謂うことになります。

御用wikiの見方を巡って菊池さんや黒木さんと春日さんの間で長い討論があったことはご存じだと思いますが、あの討論のキモは春日さんがSTSの立場で御用wikiのようなものを「市民の意見表明」と認めるのか、と謂う部分だったとオレは考えています。それは逆に言えば科学者サイドからの科学技術社会論への期待が根底にあり、春日さんたちにはそれ相応の社会的責任があると謂うことでしょう。

今たとえば菊池さんたち自然科学者には、市民の側から期待がありそれに伴う責任があると謂う文脈で、市民と専門家は立場が非対称なのだから、たとえば御用wikiで多少誹謗中傷されてもそんなのは堪えるべきだと謂うようなお話も出ましたが、その同じ論理が平川さんや春日さんにも適用されると謂うことなのですよね。

以前どらねこさんのところの鼎談でオレは、「社会的リソースを持っている者にはそれに相応の社会的責任が伴う」と言いましたが、それは自然科学者だけに当てはまることではなく社会学者にも適用されるのだし、もっと言えば個々の「市民」に対しても持てる社会的リソースや専門性に応じて社会的責任が問われる。社会学者もまた他人事では通らないと謂うことですね。

昨日のツイッターのホットな話題としては、どうやら菊池さんと御用wikiの人々との対話を春日さんがコーディネートしてくれるそうで、やっと重い腰を上げたかと謂うのがオレの印象です。現今の状況が窮めてトランスサイエンス的な問題性を抱えている、この状況においてはトランスサイエンス・コミュニケーションが大きな役割を果たすだろう、と平川さんは著書で明言しているにもかかわらず、その専門家である科学技術社会論の学究は何らアクションを起こしていなかった。これがその第一歩となるのではないかと謂う期待は当然あります。

投稿: 黒猫亭 | 2011年10月 9日 (日曜日) 午前 10時42分

なんか、ちょっと循環した構造があるんですよね。権力に近いことを示唆することによって権威を否定し(ているようなニュアンスを出し)、権威を否定することによってそこから生じうる権力への寄与を否定しようとしている、みたいな。じつは円環をなしていて、おかげでどこにも行かない。
本来の目的は(権力の源泉となりうる)権威を否定することにあるんでしょうけど、権威を否定するためにはその機能や役割について検討する必要があって。そこを迂回しようとした結果として、どの角度からも権威そのものに対する評価にはタッチしていない。レッテルひとつでお手軽に済ませようとしたけれど、結果としてレッテルとしても意味のないものになっている、みたいな状況なんですけど、まぁたぶんそれで充分、満足、と云うことなんでしょう。

平川さんや春日さんの立ち位置とは、この「権威構造の自然科学への一極集中的状況を打破することを目的とする」と云う面で、おそらく重なる部分があるんだと思います。なので、ネガティブな評価をするのが難しい。社会科学には自然科学ほど明解な権威のメカニズムがありませんから、なおさらなんだろうな、みたいに思います。

ただ、自然科学の権威のメカニズムと云うのは、それが有用たらんとするために必須のものなんですよね。そこにポリティカルなものが紛れ込んでいるんじゃないのか、と云うのが主要な問題点であって、そこの議論は本来権威のメカニズムそのものの是非とは別だろう、と思うんです。そこを切り離さないで、混濁させたまま論じるための用語が例えば「エア御用」であって(なにしろ切り離すためには、理解と検討の努力が必要になるわけですから、それをオミットするためには混濁させておく必要があるわけです)。
立ち位置上親和的にならざるを得ないのかもしれないけど、アカデミシャンがそう云うものを一定以上に真剣に受け入れてしまうのはどうなのかなぁ、みたいに思うわけです。

> 社会学者もまた他人事では通らないと謂うことですね。

なんか、「双方向モデルが樹立できれば目標達成で、それがうまく機能しなかったらそこに参加した自然科学者と市民の問題だ」みたいなスタンスをお持ちである可能性もあるよなぁ、なんて危惧があります。せっかく努力して権威構造を突き崩してやったのに、みたいな。

> この状況においてはトランスサイエンス・コミュニケーションが大きな役割を果たすだろう、と平川さんは著書で明言しているにもかかわらず、その専門家である科学技術社会論の学究は何らアクションを起こしていなかった。これがその第一歩となるのではないかと謂う期待は当然あります。

仮にうまく行かなかった場合には、うまく行かなかった理由を論文にして終わり、なんじゃないかって気もしますけどね。結局のところアウトリーチしていない(専門職としてその必要がある、みたいな意識も持っていない)ように、かぎかっこを外したトランスサイエンス・コミュニケーションそのものを自分たちの任であるとは認識していないように、いまのところぼくには見えているので。

投稿: pooh | 2011年10月 9日 (日曜日) 午後 09時17分

>poohさん

>>なんか、ちょっと循環した構造があるんですよね。

折角慎重な書き方をしておられるので、あまりぶっちゃけた喩えを出すと台無しになるかもしれませんが(笑)、物凄く卑近な喩えで言うと「A子とB夫はアヤシイぞ」と囃し立てることによって本当にA子とB夫が接近することを牽制する、みたいなわかりやすい戦略なんだと思うんですよね(爆)。で、こう謂うセコい牽制や妨害をする奴は恋愛の当事者としてはハナから相手にされない、と(笑)。

>>レッテルひとつでお手軽に済ませようとしたけれど、結果としてレッテルとしても意味のないものになっている、みたいな状況なんですけど、まぁたぶんそれで充分、満足、と云うことなんでしょう。

結局は「御用」「エア御用」と謂うレッテル頼みの批判的言論は、ノイズとしてしか機能していないのですよね。市民の立場を標榜していながら、安易なレッテルの分断機能を利用してしまうことで、市民の良識を信用しない姿勢を露呈してしまう。そう謂う意味では、オレはまったくこの辺の言論を公論とは視ていないし、差し当たって見るべき実害はないと思います。

基本的に、ネットを利用して言論を発する限り、小手先の小細工を使う言論はそれだけで信用を失墜すると考えています。どらねこさんのところの鼎談で「ネットのローカルルールは最早ツイッターの時代では意味を持たない」と謂うような話をしましたが、それとは別に、ネットと謂うメディア固有の特質としてどうしても「公共性」の性格を迂回することは不可能乃至困難であるとは言えると思います。

一過性の観点では、アジテーションやデマゴーグの道具としてネットは使いやすいツールで効果を大きくすることが出来ますが、テキスト情報としての記録性や参照容易性の故に、「アジテーションを行った」と謂う事実までが不特定多数の前に可視化されてしまう部分があります。たとえば、震災直後のデマについて、グーグルのタイムライン検索でデマ源が特定されたりしましたよね。

だから、アジやデマを行うのに便利な道具なのだけれど、そのデメリットもメリットに相関して大きくなる。そう謂う認識がなければ足許を掬われますね。実害が殆どなくて抛っておいても自滅するものは抛っておけばいい。そんな認識ですね。

2ちゃんのヲチスレの特徴として、「ヲチ対象が言及すると勢い附く」と謂うのがありますけど、今回菊池さんが御用wikiに言及した動機のウェイトは完全に科学技術社会論のほうにありますからね(笑)。まあ、抛っておいてもいいものなら必要があれば言及しても構わない、その程度のバランスで、本来は御用定義自体はどうでもいいものです。

本題はやはり、平川さんや春日さんの科学技術社会論ですね。

>>平川さんや春日さんの立ち位置とは、この「権威構造の自然科学への一極集中的状況を打破することを目的とする」と云う面で、おそらく重なる部分があるんだと思います。

この辺、随分前にツイッターで語ったのですが、思想的動機が先にあってその学問を志向したのか、学問の要請によって思想的動機が規定されるのか、と考えると、多分両方なんだろうなとか思ったりするわけです(笑)。

春日さん辺りだと素直なのか底意があるのか、ご自分についての討論で明確に「思想的前提」とか「社会運動」とか言っちゃうわけですね。であれば、たとえば自然科学者のように諮問する相手としての専門家ではなく、社会にコミットして社会を変えようとしている運動家的な側面も強いのだろうな、と。すると、必然的に社会の中で或る特定の政治的立場を採らざるを得ないと謂うことなんだろうな、と。

>>ただ、自然科学の権威のメカニズムと云うのは、それが有用たらんとするために必須のものなんですよね。そこにポリティカルなものが紛れ込んでいるんじゃないのか、と云うのが主要な問題点であって、

自然科学の「権威」と謂うときには、人文学的な意味での「見識」とか、社会学的な意味での「権力」とは性格が違って、人間の恣意性を離れた客観的な世界についての知の信頼性を担保すると謂う意味だろうと思います。

昨日少し平川さんの著作を読んだ人と話をしてみたのですが、震災前に発行された「科学は誰のものか」と謂う著作では、たしかに自然科学の「権威」に現実の「権力」が影響を及ぼすことの危険性にウェイトを置いた書き方だったらしいのですが、近著の「もうダマ」では別のところにウェイトが掛かっています。

英国のBSE問題やGMO問題について、そこで強調されているのは「科学の不確実性に対する不信」であって、権威と権力の危険な蜜月関係についての言及は完全に切り捨てられていたりするわけですね。そして、「科学ではまだわかっていない未知のリスクがあり得る」と謂う意見が註釈抜きで不自然に強調されていて、それに震災後の執筆と謂う要件を勘案すれば、或る特定の政治的意図を読むことも可能です。

>>仮にうまく行かなかった場合には、うまく行かなかった理由を論文にして終わり、なんじゃないかって気もしますけどね。

前掲の「もうダマ」の記事を読んで多くの人が疑問を感じた部分ですね。「トランスサイエンス・コミュニケーションが重要だと言ってるけど、じゃあ誰がそれをやるの?」と謂うのが物凄く引っかかる書き方になっている。少なくとも科学技術社会論の研究者がそれをする主体なのだと謂う意味のことは何も書いていない。書き方としては、それをやる人が出て来なきゃいけないのに出て来ないのは問題だ、みたいな絶妙の他人事感覚の書き方になっています。

違うんなら違うとハッキリ言ってくれるといいんですけどね(笑)。例の菊池さんと春日さんの討論を読む限り、外野からは不自然に見えるほど腰が重い。本来自分たちがやる義理のないことを圧し附けられたと思っているような節があります。

でもまあ、菊池・御用wiki対談をコーディネートすること自体はいいんじゃないかと思いますけどね。菊池さんも「STSは平時の学問らしい」と言ってましたから、本当はこう謂う危機的状況では全然役に立たないのかもしれない。それは実際にやってみればわかることなので、役に立たなかったら「ああ、役に立たないのだなぁ」と謂うことがハッキリします。それで平川さんや春日さんが主体的実践例の一つとして論文が書けるなら誰も損しませんしね(笑)。

そう謂えば、社会学者については先日も「火事の研究者が研究の為に放火する」ような話が出ましたが、それよりはずっと穏当で迷惑の掛からない実験だろうと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2011年10月10日 (月曜日) 午前 11時13分

>>それよりはずっと穏当で迷惑の掛からない実験だろうと思います。

平川さんが今後の論文でしれっと「動物愛護法改正のパブコメ騒動」を事例として混ぜてたらいろいろハッキリしちゃうなぁ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2011年10月10日 (月曜日) 午前 11時23分

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