2010年6月17日 (木曜日)

あんまり本人乗り気じゃなかったのでは

山梨で甲羅に「カメデス」と落書きされた亀が見附かって、落書きを消す方針で県職員が保護しようとしていたのが、昨日警察官に保護されたそうな。結局無理に消さずに脱皮を待つことになり、県の水産技術センターに送られたそうだが、何だかこの話を聞いてかなり微妙な気分になった。

たしかに生き物に落書きをすると謂うのは、人間の倫理観では許し難い悪戯に感じられるのだが、たとえばこれが鳥や獣の場合なら、仲間から排斥されたり天敵に見附かりやすくなるとか獲物を捕らえにくくなると謂うような問題が考えられるが、亀の甲羅の落書きと謂うのは、多分当の亀にとっては何ら実害はないだろう。

まあ、オレは亀の生態に詳しくないから、思わぬ問題が生じる可能性もないではないだろうが、多分公園のお堀に住んでいる亀なんだから、甲羅の落書きが目立ってもそんなに実害はないのではないかと思う。

おそらく、当人視点における虐待に類する行為と謂うのは、人間に捕まってペンキで文字を書かれた際に不快を感じたくらいで、その後はいつも通り普通に暮らしていたのではないかと思う。これを再び人間が捕まえて落書きを消すと謂うのは、亀視点では落書きされた際と同じくらい不快だったりストレスがあったりするんではないかと謂う気がするし、脱皮すれば自然に消える可能性が高いと謂うのであれば、放置しておいても結果は変わらないと謂う言い方も出来る。

それをわざわざ捕獲して水産技術センターで保護することに、亀視点ではあんまり積極的な意義はなかったんじゃないかなんて思うのだが、どうだろうか。まあ、相手は爬虫類のことだから、公園のお堀でも水産技術センターでもそんなに気にしないとは思うのだが(笑)、亀視点においては一連の人間の努力は別段自身にとって何の意味も持たないような気がする。

おそらくこの一件は飽くまで人間視点における動物愛護の倫理の問題であって、当の亀にしてみれば大騒ぎせず抛っておいてくれたほうが面倒がなかったんじゃないか、なんて感じてしまうわけである。

動物愛護の倫理自体は当然間違ってはいないのだが、この場合は偶々人間が動物に対して行った「没義道」が動物自身にほぼ全く被害を及ぼさず、従ってその非道に憤った人間による「救済行動」も動物自身に何ら益するところがない、と謂う不可思議な状況が現出したわけである。

勿論、落書きをした犯人は相応の責任を取るべきだと思うし、亀の場合は問題がないと仮定しても、前述の通り相手が亀ではなく野生の哺乳類や鳥類だったとしたら相当の実害を被っただろうから、「これに類する行為」の再発を防ぐ努力も必要だろうと思う。しかし、今回の場合、たまたま相手が亀で、甲羅に落書きがあろうがなかろうがほぼ日常生活に何の影響もなさそうだったので、何とも微妙な気分になったわけである。

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2010年4月21日 (水曜日)

この際、是非とも絶滅してほしい莫迦のリスト

鹿やカモに面白半分でボウガンを撃つ莫迦。他人様の大事なペットの葬儀を請け負っておきながら数千円の経費を浮かす為に山の中に屍体を棄てる莫迦。公園で、鳩の足首を鋏で切ったり、人間を恐れずに擦り寄ってくる猫に薬品を掛けて火傷をさせる莫迦。

こんな莫迦な奴らは、この世に生きている他の生き物やそれを愛する人々に無用な苦痛を与えずに済むだけの余裕を持とうと思えば幾らでも持てる結構な世の中に生きていても、ほんの一瞬の慰みの為だけに平気で他者を痍附けられる人間なのだから、一人残らず絶滅してしまえばいい。

勿論、こう謂う愚劣な輩が引きも切らず出現することの原因の極々一端には、猫にガソリンを掛けて火を点けたとか火の見櫓から落としてみたとか犬の鼻面に山葵を塗ったとか面白可笑しく吹聴したり、はたまた愛猫に避妊手術を受けさせるのが厭だから生まれた子猫を崖から棄てたとか自分の喰う鶏くらい自分で殺せとか真顔で語れるような、どれだけ「莫迦」と謂う言葉の数を連ねても足りないくらい莫迦な物書きどもの影響も僅かとは言えあるわけである。

これはね、人間よりも動物が大事だからこんな感情を覚えるんじゃない。人間同士の間の心映えの好き嫌いの問題だから、これほど強い憎しみを覚えるんだよ。誰だって自分が生きるに値する人間だと思いたいから懸命に頑張ってやせ我慢を張りながら生きているのに、他人が大事に思うものを土足で踏みにじってせせら笑うような人間には生きる資格がないと思うことの何が間違っていると謂うのか。

それなりに多くの人々から尊敬を受け、それらの人々に対して一定の影響力を持っている人間には、自分の言葉が人類の尊い智恵の集積に僅かながら何かを加えるものであるのか、それとも単に汚らしい糞便を垂れ流しているのか、或いは危険極まりない放射性物質を撒き散らしているのか、それをよく考えて貰いたい。

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2010年4月12日 (月曜日)

オレの識る井上某

某井上姓の作家が亡くなったそうだが、オレは一つも作品を読んでいない。オレが彼について識っているのは、坂東眞砂子の子猫殺し事件に絡んでいろいろ検索しているときに遭遇した以下のような情報(ウィキの記述による)だけである。

『巷談辞典』(文春文庫、1984年)では動物愛護団体への批判と併せて自身の少年時代に行った猫にガソリンをかけて火をつける、猫を火の見櫓の天辺から落すなどの猟奇的な動物虐待の数々をジョークを交えて告白している。

これが本当のことかどうか、つまり彼が実際にそのような行為を行ったことがあるのかどうかは識らないし、物書きがエッセイに書いたことを真に受けてはいけないことくらいはわかっているが、こう謂うことを「ジョークを交えて告白」するような人間はどうしても好きになれない。

畢竟、坂東眞砂子と同じ人種である。

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2009年9月25日 (金曜日)

忘れてはいけないこと

みつどんさんのところにも書き込ませて戴いたのだが、最近余所事に気を取られていてあの一件の成り行きを見失っていた坂東眞砂子、つい最近も変名で新作を発表していると謂う情報を戴いたが、今年の二月にはこんな本を出しているそうな。

「子猫殺し」を語る——生き物の生と死を幻想から現実へ

やたら細々と商品の説明が書き込んであるが、

また、「子猫殺し」バッシングとはいったい何だったのか。

そして、佐藤対談では、「『子猫殺し』バッシングというファシズム」というテーマで、騒動の原因、愚行権、「猫とファシズム」などが議論される。

…とかあるんだが、ホントにわかんねー奴らだな。あのエッセイに書かれたことが事実なら、坂東眞砂子が居住しているタヒチの現地法でも違法行為だから叩かれたんであって、言論弾圧だとか謂えるのはあれがフィクションだった場合だけである。事実でないなら事実でないとハッキリ言えば話は簡単なのだが、事実でないと一度も言っていないのだから言論弾圧は通らないと謂うだけのことである。

ほとぼりが冷めた頃になって、こう謂う姑息な形で自己正当化を図ろうと謂うのも大した料簡だが、共著者の顔ぶれを視ると何となく納得が行くような気がする。勿論こんな本を一七八五円も出して買うつもりはないので、図書館にでもあれば読むかもしれないくらいのものだが、説明を見る限りやっぱり筋の悪い強弁が展開されているようにしか思えないから、まあ「みなさん、絶対買わないでください」と言う程度に留めておこうかと思う。

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2007年4月25日 (水曜日)

domestic violence

通常営業の当ブログは、ペットブログでも動物虐待ヲチブログでもないので、オレ個人の心象などここで語る必要もないかなと思ったのだが、いろいろ調べているうちに何だか気持ちが悪くなってきたので、やはり触れておくことにする。ちょっとわかりにくい話になると思うが、一応覚書程度に書き留めておきたいと思う。

他でもない、今回は今頃になって例のニーソ社員によるフェレット虐待事件に関する話を蒸し返させていただくので、あんな不愉快な事件のことなど想い出したくもないという方は読まずにスルーしていただきたい。ことに実際にフェレットを飼育しておられる方には不快感が強い話題だろうから、敢えて関心を持たれるほどの提言を含む内容ではないことをお断りしておく。

これは実際の事件についての、オレの不愉快な想像の話である。

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2007年3月14日 (水曜日)

獅子の瞋恚

昨夏、坂東眞砂子の犯罪行為に関連して「一万年の蜜月」というエントリーを書かせていただいたが、幸いにも好評を博して有意義なご意見や言及をいろいろいただいたし、未だに時々アクセスがある。あのエントリーで当ブログの存在を認識している読み手の方も多いようである。

あれから時々ネットを検索して続報を追っているのだが、以前TBをいただいた春霞さんのところで若干関連情報があった程度で、坂東眞砂子当人の去就についてはさっぱり情報がない状態である。まあ、他国の政府による外国人の訴追であるから、それほど短時間に決着が附くものでもあるまい。今後も執念深く経緯を見守るしかないだろう。

そういうわけで今回は坂東眞砂子問題の本題ではなく、「一万年の蜜月」に関連した話題である。概エントリーでは現在に至るまでのイエネコの歴史を語り、家畜としてのイエネコの起源である古代エジプト文明から語り起こしたわけだが、古代エジプト文明においてイエネコが神に擬せられたこと自体は軽く触れるに留めた。

その重要なインフラの防衛を任されたイエネコは、益獣として尊重され古代エジプトでは神にも擬せられたことは周知の通りである。

この時点では、まだ一般知識の範疇でしかその詳細を識らなかったのだが、先日ふとしたきっかけで古代エジプト神話を実際に調べてみたところ、この猫神様にはちょっと興味深い神話があることを識った。

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2006年9月27日 (水曜日)

こういうのはどうだろう

実を言えば、これまで何処か心の片隅で、何か無駄なことに膨大な手間を費やしているような気はしていた。問題を一挙に解決する何かストロングなツールが確実に存在するのに、それを決定的に忘れているという気がしてならなかったのである。

ところが今朝になって、「めざましテレビの毎日予約録画分を編集しているときに何故か唐突にその蟻走感の正体に思い至ったのである。この発見の重要さに比べれば、何故オレがわざわざ毎朝めざましテレビをアタマからお尻まで録画した上でチマチマ編集して相応に溜まったらDVDーRに灼くというシジフォス的功業に勤しんでいるのか、という些細な疑問などどうでもいい事柄だろう。

どっとはらい。


追記:すいません、さっきまとめサイトを覗いたら、思いっきりネタがかぶってました(笑)。

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2006年9月24日 (日曜日)

不買運動は「意味がない」のか

徹底的にヒット作に恵まれなかった今季のCXドラマシーン(「結婚できない男」は関テレ枠)を流石に哀れと思し召し、ついにTVのネ申所謂GOD)がお台場に降臨したのであろうか。

剰りにタイムリーすぎる内容に不謹慎ながら失笑を禁じ得なかった昨日のアレではあるのだが、その前日には日経資本のテレ東の深夜番組「ブログの女王」に、坂東眞砂子&ジャンクロードと仲良くスナップに収まっていたあのベテラン作家(勿論当人には何の関わりもない事柄ではあるが)がゲストとして登場し、挙げ句の果てに紹介されたブログのテーマが「安らかに眠る動物萌え」と来ては、すでに何らかの見えざる作為すら感じる今日この頃である。

前回のエントリーでは、この国には「物書きの違法行為」を巡る議論をまるでヒトゴトのように無責任に揶揄出来る超然とした物書きばかり存在するという失望が身に染みたわけだが、では今回は、そんな物書きたちほど不思議な人種ではない唯の凡人に何が出来るのかを考えてみよう。

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2006年9月20日 (水曜日)

不思議な人種

物書きというのは不思議な人種である。

今まで坂東眞砂子の博い意味での同業者の動向を見守ってきたが、その姿勢にはかなり強い疑問をひとしなみに感じた。今また産経新聞紙上における西部邁の論評を目にしたところであるが、この人は基本的に坂東眞砂子自身の弁明や他の文筆家の批判・擁護意見は疎か、大本となったコラムの原文すら一切読んでいないことは明らかであり、前段でそれを公言さえしている。

呉智英に触れたエントリーでも疑義を表したが、何故この種の言論人はきちんと前提を共有することもせずに思い附きのフィーリングで意見を言うのだろうか。それが毒にも薬にもならない誰かの日常に纏わる随想の類ならともかく、かなり大勢の人間が関心を寄せている問題に対して、おそらく担当編集者から掻い摘んだ状況説明を受けただけで名前を出して無責任な意見を言える弛緩せる言論姿勢が理解出来ない。

坂東眞砂子の所行に深刻なショックを受け、己が自身の問題性と受け取って発言した幾人かを除いて、この問題に言及した言論人は真剣味を欠く面白半分のスタンスで臨むばかりで、お猫様の殺害を天下の一大事と右往左往する愛猫家をからかってみせれば自身の見識が保証されるとでも思っているかのようである。

また、物書きという人種にとって、この一件における最重要事項は猫殺しでも動物愛護でもなく、前回陳べたような言論の自由を保証する根拠に纏わる違法性の問題だろうと思うのだが、未だかつてそれに触れた意見を目にしたことがない。

これまですべての物書きは、降って湧いたように落下傘方式で現れて、先行する議論と何ら前提を共有することなく旧態然とした「動物愛護家に対する嘲弄」の域を一歩も出ない雑駁なコメンタリーを寄せるのみで、坂東眞砂子の行為が言論の自由に対する深甚な脅威であることには何ら関心を持っていない。

まあ、坂東眞砂子も東野圭吾も中島梓も小説家だし、小説家というのは基本的に公的な場面における言論表明には向かない人種である。その意味では、小説家が見識を買われ社会的な問題にコメンタリーして恥をかいた事例には事欠かないのだから、ある意味では今回の一件も「小説家がまた無理して言論人ぶってやらかした」と視ることも出来なくはないだろう。

呉智英に至っては出来の悪い詭弁家だから、要するにこれも一種の裸踊りとして微笑ましく見守ればいい部類のファースでしかないという言い方も出来るだろう。しかし、西部邁といえば、その言論の内容については兎角の議論はあれども、正面切って言論が表看板の硬骨の人である。社会が関心を抱いている事柄に対して公に物を言うことで飯を喰っている人間である。

その人にしてこの体たらくなのか。

ひょっとして、この国の言論人はもうダメなのかもしれない。

言論の自由を有史以前から人類が獲得している無前提の権利とでも解して、先人の犠牲をまったく顧みないなら、こんな連中の語る言論には紙屑ほどの価値もない。もしも西部邁が小林多喜二にでも言及したら、思う様嗤ってやるがいい。多分彼はその人物が誰であり、どのように生きどのように死んだかなど一切識らないのである。

つくづく物書きというのは不思議な人種である。

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坂東眞砂子告訴へ

さすがにフランス語はまったく読めないので、翻訳エンジンや抄訳したブログが頼りではあるが、どうやらタヒチの現地当局が坂東眞砂子の告訴を決定したようだ。

この時点でコメンタリーすることはまだ時期尚早だとは思うが、批判の段階を超えて現実的な法執行の段階に進んだ意義は大きいと思う。何故なら、当ブログにおいては坂東眞砂子批判の重要な論点として、その行為の違法性、さらには違法行為の言論による正当化を一貫して挙げていたからである。

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