どうもいつもの順序から考えて、逆に、逆に、と書き進めているような気がして仕方がないのだが(笑)、ここで漸く本来の主役である諸葛亮と周瑜、そして劉備と宿将たちの話題へと転ずることにしよう。
男たちについて語るのが後回しになったのは、Part II におけるドラマ的感銘の主役は女たちであって、周瑜・諸葛亮対曹操の謀略戦の部分は一種の知的活劇のご馳走として描かれており、心理ドラマは裏面に廻されているからである。この「ご馳走」と謂うのはオレが屡々用いる言い廻しだが、これはつまり、観てそのまま楽しむべき娯楽要素の謂いであるから、これを語ることはドラマ論ではなく技術論になる。
後段で更めて詳述するが、Part II においては、男たちは終始その本心を隠して行動しており、リアルタイムの心情を見えているそのままには受け取れない形になっている。後半の山場で一応の絵解きは為されるが、細かく考えていくと説明されていないことも多く、心情ドラマとしては後から遡って解釈する形になり、その解釈に振れ幅があるのでリアルタイムのドラマ効果が効いていない部分がある。
これ自体は別段瑕疵とすべきポイントではなく、今回は女たちのドラマ的重要性が前面に出ている関係上、男たちのドラマは後景に退くのがバランスと謂うもので、具体的な闘争のプロセスを演じる役回りに徹して、謀略劇のサスペンスを活劇的な娯楽として提供するのが妥当だろう。
勿論、劇中で描かれている「敵に矢を借る計」と蔡瑁・張允謀殺は、赤壁のエピソード中最も有名なくだりであるから、演義を読んだことがなくてもかなり多くの人があらましを識っていて、今更そのネタ自体に新鮮な興味を感じることはない。この映画独自の面白みと謂うのは、やはり演義との絶妙な距離感と再構築の妙にある。
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