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Act.10 月は無慈悲な夜の女王

…うさぎ、いくら何でも、その指はヤヴァイでしょ(木亥火暴!!)。

ひょっとして今時の女の子は、そういう下品な符丁を知らないのだらう
か? 意味のわからないヒトは、大泣きしているうさぎの手つきに注目
すべし。指一本ズレてるのがギリギリセーフだ(木亥火暴!!)。

しかしまぁ、思わせぶりな「プリンセスへのレクイエム」作曲が妖魔製
造のためだったとは。その辺のサボテンやオブジェにポンと石くっつけ
たらお手軽に妖魔が出来上がるジェダ・ネフに比べて、何と手間のかか
ることよ(木亥火暴!!)。

しかも、そんなに苦労して生み出した妖魔だけに、四戦士が束になって
かかっても手に負えない強力な武器を持っていると思ったら、ムーンが
ちょっと気張っただけで呆気なく消滅しちゃうし。この、妙な能力に特
化していて、強いんだか弱いんだかわからない辺りのブキミさが、ゾイ
サイト妖魔の特徴ってことか。

まあ特徴っつっても、話の流れ上、結果として圧倒的にジェダ妖魔の数
が多いわけで、妖魔がまったく出なかった二話を除く八話中、五体まで
がジェダ、二体がネフ、そして今週のがゾイということになる。今回の
闇次元生物みたいなのは、デザインラインにしてからが「白塗りに虫の
羽根」というゾイサイトっぽいものだからまだしも、ネフのがサボテン
兄弟にボヨンでは、ジェダ妖魔と明確なデザイン上の差別化が為されて
いない。

まあ、ジェダ妖魔もネフ妖魔も石の力で無生物を妖魔化したもので、選
んだ対象が違うだけで基本的に製造原理は同じだが、ゾイ妖魔は独特の
音楽魔術で生み出されたものだから、これだけデザインラインが違うと
いうことかもしれないね。

それから、仲間内の意見では、妖魔の音符攻撃が安い戦隊パロディビデ
オのように見えるという不満の声も挙がったが、たしかにこれは微妙な
ところだなぁ。

そもそも今回の妖魔の能力自体が戦隊的なんで、戦隊的な特撮にしたの
も無理からぬところではあるが、ビデオの質感の問題というのは見た目
の問題なので、気になるヒトは気になるのかもしれない。要するに、こ
ういう見え方でもいいんだが、月曜ドラマランドの安っすいクロマキー
合成を思い出させるのがいちばんまずい点だろう(木亥火暴!!)。

ライダー方面で似たようなエフェクトを考えてみると、顔のくどい社長
の薔薇吹雪くらいしか思い当たらない。薔薇社長変身のエピソードは鈴
村担当だったという縁もあるが、あっちは実体のあるものをまき散らす
んだから、音符が飛ぶのとは大分勝手が違う。

まあ、オレ的には実体的ではないものが飛び交うイメージとして、ああ
いう選択肢もアリだと思うのでそんなには気にならなかった。それより
も気になったのは、音楽攻撃と音符攻撃の見た目上の違いが強調されて
いなかったこと
かな。

要するに、音楽攻撃=心理攻撃もしくは聴覚攻撃で、音符攻撃=エネル
ギー弾でしょ? セーラー戦士のリアクションからすると、この二つは
別の技みたいなんだが、エフェクト的にはとくに差別化されてないのが
気になったな。つまり、飛び交う音符が妖魔の歌声のビジュアリックな
威力表現なのか、エネルギー弾の表現なのかが曖昧なので、殺陣の意味
がわかりにくくなっている
のね。

CGで弾着の表現があるということは、戦士たちの殺陣はエネルギー弾
としての音符を避けていたともとれるが、それにしては音符の動き方が
シャープではない。たとえばモスラの電磁鱗粉と同じような効き方なの
かとも思ったが、結局なんだかわからない。どうでもいいことといえば
そうなんだが、こういうエフェクト上の問題というのは、アクションが
活きるか死ぬかの問題でもあるので、気にはなった。

それから、セーラー戦士のリアクションといえば、音楽攻撃で苦しんで
いる仕草まで、スタントに振り附けているのは違うんじゃないかと思っ
たな。細かいことをいいだすと、戦闘中のリアクションまでコリオグラ
フィックな振り附けで見せるというのは、戦闘シーンの映像的な見せ方
の手法上の問題になるわけだが、オレのこれまでの理解では、映像上の
見せ方がコリオグラフィックなのではなく、劇中の戦士たちの戦闘スタ
イルがコリオグラフィックなんだ
と思う。

たとえばセラミュでは、戦闘シーンというのは全部殺陣ではなく音楽に
合わせた踊りの「振り附け」だ。踊りの振り附けに具体的な殺陣の意味
性が付与されているので、セラミュを知らない人はただの間つなぎの踊
りだと思ってぼーっと見ていると、その間に戦闘の趨勢が決していたり
話が進んでいたりするので戸惑うことになる(笑)。

とくに、広い舞台上を無慮十数人に及ぶ登場人物が右往左往する見せ場
になるので、ビデオ収録にも腕が要るし、生鑑賞でも視点移動がたいへ
んだ(笑)。まあ、筋運び上重要な踊りはセンターでピンスポが当たるか
ら、最低限真ん中の動きだけ視ていればいいんだけどね。

だから、セラミュの場合は戦闘の見せ方がコリオグラフィックなんだと
言えるが、実写番組のフォーマットとして、戦闘シーンを踊りとして演
出するのは無理がある。まあ、大昔に、朝っぱらからミュージカルを繰
り広げてコケた某番組
のこともあるしな(木亥火暴!!)。

だから実写版では、戦士たちの攻撃の趣向が新体操やジャズダンスのテ
イストなんであって、戦闘シーンの見せ方がそうなのではない。ゴーグ
ルVの戦闘法が、新体操にインスパイアされたものなのと同じことだと
思う。だから、戦士たちの意図的な攻撃フォーメーションから外れたリ
アクションまでそのノリで振り附けちゃうと、要するにアステカイザー
やアイゼンボーグみたいに「戦闘シーンではアニメになる」のと意味的
には同じことになっちゃうな。

しかしまあ、今週は満を持して放った妖魔が呆気なく消滅したり、ベリ
ル様の瞬間移動をサポートしたり、美奈子を危機に陥れたりと美味しい
場面独り占めのゾイサイトだが、前半の頑張りでポイント稼いだジェダ
が一休みした後は、ネフライトを飛び越えていきなりゾイサイトの時代
が来る
のか?(木亥火暴!!)

それに引き替え、無口なジェダ・ゾイに代わってペラペラと棒読みで説
明的なセリフを喋らされた挙げ句、姑息な告げ口野郎としてベリル様に
もファンにもそっぽを向かれるとは、毎週律儀に働いているにもかかわ
らず、なんと不憫な奴なんだろう、ネフライト(木亥火暴!!)。

あと気になったのは、子供会の場面で大勢の親御さんの後ろで平気で動
き回り喋りまくるルナ(木亥火暴!!)。

エリカとレイちゃんが話している場面でも、まったく気にする様子もな
く動き回っていたんで、子どもの前ではとくに取り繕う必要を感じてい
ないのかもしれないが、あんなに紙芝居そっちのけで大泣きの大騒ぎし
ていたんだから、親御さんがうるさがって振り返るかもしれないぢゃな
いか(木亥火暴!!)。

それから、これもやはり仲間内の意見として、愛野美奈子が一人で車道
側から車に乗り込むのはおかしくないか、普通マネジャーがドアを開け
てやるだろう、という声があったが、たしかにちょっと不自然な段取り
に見えるな。

これがスポーツカーや軽自動車だったら、中でモゾモゾ動くより回り込
んで乗ったほうが楽だが、ベンツみたいなでかい車だったら、歩道側か
ら乗り込んで奥に詰めるのが自然だろうし。

ただまあ、空港前の車寄せはたいがい一方通行だし、4ドアすべてから
の乗車が考えられているので、隣の車線まで十分な余地があるという見
方もできる。劇中でトラックが美奈子に迫る場面は、うまくつないで別
の場所で撮影しているわけだし、空港の車寄せだという見立てでいうと
普通はあり得ない逆走なので、じっさいには絵面で見るほど不自然な行
為ではないのかもしれない。

まあ、車でいうなら、一国のプリンセスがSPより先に報道陣の真っ直
中に降車してきて、剰えぶっ倒れても護衛が駆け附けないで取材陣のた
かるままになっているほうがよっぽど不自然だと思う(木亥火暴!!)。

しかも、玄関ホールからコンビニとタイヤ販売店が丸見えっつーのが、
国賓を迎えるにはあまりにも安いホテルだなぁ、と。クレジットで確認
したら、「第一ホテル光ケ丘」だそうな…道理で玄関前が殺風景なはず
だぜ、所もあろうに笹目通り沿いじゃねーか。ひょっとして日本政府か
ら冷遇されているのか、エストア国(木亥火暴!!)。

というわけで、ツッコミどころはいろいろあったんだが、本編それ自体
についていうと、けっこうオレは今回のエピソードを気に入っている。

いや、お話自体がおもしろかったかというと、平均以上に突き抜けてお
もしろかったわけではないと思う。前回のコメントで期待したような、
大イベント編というほどのワクワク感もなかったしね。

前回のコメントでいったことだが、技巧派でソツのない鈴村演出、良く
撮れてはいるし脚本の解釈にも危なげはないが、どうも今一つ突き抜け
たおもしろみがない、チャームがない
。しかし、オレが前回そういった
時点では、割と鈴村演出に好意的になっていたと思うんだな。

冒頭で論ったようなポイントは、レベルからいえば田崎演出のAct.8
同程度のもの、オレ個人の感覚では、許容範囲の埒内だと思うんだな。

まあ、ベースとなる脚本の難易度が一桁違うという留保は附くし、田崎
竜太ならば「何やってるんだ、金看板のタザキが」になるが、新人・鈴
村展弘だったらそこまで責めるのは酷だろうという、そういうバランス
のうえでの話ではあるが。

実際問題、明らかに「これはどうなんだ」と思えるのは、音符攻撃のわ
かりにくさとコリオグラフィックなリアクションの二問題、それに神社
の講堂で動き回るルナくらいのもの。

ことに後者は、語り口の嘘として許容範囲の事柄だと思うし、前者につ
いてもまあ、拘ればそういう指摘もあるね、くらいの事柄で、全般的に
いえばむしろAct.8 よりも危なげはない。

本筋に絡む大きな問題としては、他ならぬここの大家のぷらちゃんから
挙がった意見として、エピローグでいきなり大泣きするうさぎに戸惑っ
たという声があった。

たしかにオレも、初期話数に関するコメントで、実写版のうさぎのキャ
ラについて「泣き虫ではない強いうさぎ像」と指摘した手前、今回の大
泣き描写に「おやおや」と虚を突かれたことは事実だ。

ぷらちゃんの意見を掻い摘んでいうと、要するにあの場面でうさぎが泣
いたのは、ベリルやルナの言葉、そして「かぐや姫」というキーワード
によって前世の記憶が刺激され、月の王国のプリンセスとしての記憶が
無意識裡に作用して、「われ知らず」うさぎを泣かせたのではないか、
そうだとするとあのような子どもっぽい手放しの大泣きはおかしいので
はないか、というもの。翻って、これを演出上のミスではないかと指摘
していた。

これは脚本の意図の問題もあるから、とりあえず、順を追って考えてみ
ようか。まず、あの場面でうさぎであれだれであれ、だれかが泣く必要
があったかどうかを考えてみよう。

これは、あらためていうまでもなく、泣く「必要」などなかったんだと
思う。あの前後の場面だけ取り出して考えると、だれかが泣かないと作
劇上不自然だったかといえば、まったくそんなことはないんだな。

たとえばいつものうさぎなら、「月の王国とか言われても、な〜んか実
感湧かないよね」くらいのリアクションでもおかしくなかった…という
か、実写版のうさぎならそっちのほうが自然だったわけで、いきなり泣
き出したからこそ、この場面を巡る解釈の問題が生じたわけだ。

ここで子どもたちの間で共有されている「かぐや姫」の童話の物語構造
を考えると、これがキーイメージとして選択されている理由が、「月の
王女」という共通点によって、うさぎの前世の記憶を刺激するためだけ
のものとは、オレには思えないんだな。

竹取物語の幼児向けの再話である「かぐや姫」の物語は、一種の貴種流
離譚であって、月の王国の貴種であるかぐや姫がなぜか竹の節に潜んで
いて、正直者の翁と媼に福を授けた後、月からの使者によって連れ戻さ
れるという話だ。この物語をセーラームーンの前世譚である月の王国の
滅亡記と比べると、「かつて月に王国があり、主人公はその王女であっ
た」ということしか共通項がない。

しかしこれを、滅びた月の王国の王女が現世に転生したセーラームーン
=プリンセス・セレニティ=ネオクイーン・セレニティではなく、二一
世紀の日本人である月野うさぎの視点で視れば、月世界の王女としての
出自と正直者の翁と媼の育て児としてのアイデンティティの狭間で引き
裂かれるかぐや姫の境涯は、見事にうさぎの現状と重なるだろう。

普通一般に現代の子どもが「かぐや姫」の童話を読んで感じるのは、か
ぐや姫自身は翁と媼の許を去りたくなかっただろうということだ。これ
は、原典の竹取物語では曖昧な点だが、童話としてのかぐや姫ではいち
ばんに強調されるポイントだ。現代人の感覚からすれば、その出自がど
うであれ、翁と媼の愛し子として育ったかぐや姫にとっては、竹取の翁
の娘としての現状こそが真実の自身であって、月世界からの使者は残酷
な宿命の使徒としか思えない。

月野育子の娘として育ち、平凡な女子中学生としてこれまでを生きてき
た月野うさぎの真の出自は「月の王国の王女を護る四戦士」であった。
これはつまり、月野うさぎとしての円満な生活は偽りであって、宿命に
殉じるためにその「かりそめの姿」を振り捨てて生きなければならない
ことを意味する。

コミックスやアニメのセーラームーンで、最も曖昧にぼかされてきたポ
イントは、まさにこの部分ではなかったのか。たとえば、ダークキング
ダム編で、うさぎが衛と共にクインメタリアと戦っていたときに、月野
家の人々はいったいどこで何をしていたのか。

コミックスでもアニメでも、「月野うさぎ」を巡る物語でいちばん曖昧
に胡麻化されてきたのは、月野うさぎとして二〇世紀に生を享けた平凡
な少女としての現状と、滅びた月の王国の王女セレニティであり、三〇
世紀のシルバーミレニアムの女王ネオクイーンセレニティとなるべき貴
種としての出自との葛藤だ。

月の王女とかぐや姫の類似があまりにもベタであるがゆえに、ぷらちゃ
んもスルーしちゃったんだろうが、童話としての「かぐや姫」が最も読
者に訴えるのは、そのようなものとして生きる自分と、そうあるべき自
分との葛藤の結果、抗い得ない宿命として愛に満ちた現状を否定せざる
を得ない悲劇の物語だ。かぐや姫の童話は、セーラームーンという物語
構造が一貫して避けて通った問題を真正面から採り上げた物語
なのだ。

そして、現状で出揃っている四戦士中で、現世の生活が破綻して困るの
は、家庭的な面で欠落を抱えていないうさぎだけなんだな。それが各自
の抱える問題の真の解決となるかどうかはさておき、現在の生活がかり
そめのものであって、本当の自分は幻想的な物語の主人公であるという
のは、うさぎ以外の三人にとっては甘やかな「真実」の開示だろう。

そう考えていくと、あのときのうさぎの涙が幼児的なものであったのは
当たり前の話であって、われ知らず涙を流したのは、うさぎの「真実の
出自」としてのプリンセス・セレニティが、過去の悲劇を哀しむゆえで
はなく、竹取の翁と媼の間に育った「月野うさぎ」が真の出自の開示に
よって今現在の愛に満ちた生活が崩壊することに怯えたからだ。

…という解釈もできるんだよ。

現在という時制に最も重きを置く作家である小林靖子の認識として、プ
リンセス・セレニティ=月野うさぎ=ネオクイーン・セレニティという
連環のなかで、何がこの物語において主柱となるかは明らかだろう。前
世が滅びた月の王国の王女であろうが、未来がシルバーミレニアムの新
女王であろうが、月野うさぎとして現れた主人公は、あくまで二一世紀
の平凡人としての月野うさぎその人だ。

二一世紀の女子中学生である月野うさぎの視点では、先代クイーン・セ
レニティも遠いし未来の愛娘であるちびうさも遠い。彼女にとっての近
しい者は、月野家の父母であり弟であり、今現在の友だちと、エンディ
ミオンではない地場衛だろう。

ぷらちゃんの解釈だと、要するに前世の記憶を取り戻したうさぎは、数
千年前に滅びた月の王国の王女プリンセス・セレニティその人だという
ことになるし、その前提の意見だろう。だが、前世の記憶がよみがえっ
たとしても、月野うさぎは依然として月野うさぎであるという行き方も
十分以上に考えられる。

そうすると、この場面のうさぎの芝居を論ずるときに問題となるのは、
ここで泣いたのは、セレニティであるうさぎなのか、月野うさぎである
うさぎなのかということだ。前世の記憶が無意識にエコーしたにせよ、
かぐや姫の童話と家出中の身の上が今現在のうさぎの心に感応したにせ
よ、どちらの場合にもこの二者択一は成立し得る。

そして、オレがここでいいたいのは、ぷらちゃんの解釈とオレの解釈の
どちらが正しいか、ということではない。たぶん、第三者にとっては、
そのどちらも将来的には等分にあり得る選択肢なのだということだ。

だとすれば、この場面でこういう芝居を附けたことを「間違い」として
論じることは妥当ではない。むしろ、どちらとも解し得るような曖昧な
芝居を附けることは、この場面において最も現実的に適切な知恵ともい
える。

いくら小林靖子と鈴村展弘が事前にコミュニケーションをとれたとして
も、このような微妙な問題について、将来に亘る問題を論じ切れたとは
思えないし、じっさいには小林本人にすら具体的にどうなるかはわから
ないことだろう。

微妙な問題ではあるが、煎じ詰めれば、ぷらちゃんはセレニティとして
泣けといっているのであり、沢井美優は月野うさぎとして泣いたのであ
ると思う。オレ個人としては、コミックスやアニメの先行きを知ってい
る沢井がエンディミオンとの悲恋に殉じたセレニティとして泣けなかっ
たのであれば、事実として月野うさぎが泣いたのであると思う。

そのどちらにも等分に実現の可能性があることであれば、現実に実現し
たもののほうが正しいのであって、齟齬が生じるとすれば未来において
の話だと思う。とりあえず、現時点においては、オレは小林、鈴村、沢
井の間で、泣いたのが月野うさぎであることのコンセンサスはとれてい
ると思う。だから、何かが問題になるのだとすれば、この場面の芝居で
はなく、それを受けての将来的な展開の問題になるだろう。

そもそもこの問題が問題として浮上するかどうかは、実写版としての新
たな作品世界の伸張を俟って論じられるべきこと。それは、たとえ小林
靖子の脳裏にシリーズ全体の青図があるとしても、じっさいに書かれて
みるまでは断定できない性質の問題だし、現実問題として沢井が泣いた
時点では決まっていない未来に属する問題だと思う。なので、これを鈴
村演出の瑕瑾と断ずるのは、ちょっと適切ではないんではないかな。

演出論の問題でいえば、ここで沢井をセレニティとして泣かせてしまう
ことは、演出の側から脚本に対してアピールをすることになる。そこで
月野うさぎとして曖昧に泣かせてしまった鈴村は、ある意味小林脚本に
先行きのゲタを預けた形になるが、東映のシステムでは分を弁えた行為
といえるだろう。

これは逆にいうと、やっぱりぷらちゃんのいわんとするとおり、表現者
としての鈴村監督の関心は物語的な側面にはない
のだといえないことも
ない。小林靖子が強力な牽引力で語る物語を、映像として受肉させる作
業によって生起するテクニカルなボディ、映像それ自体に特化した関心
こそが鈴村監督の創作動機なのではないだろうか。

たとえば、いろいろなツッコミどころにもかかわらず、オレが今回のエ
ピソードをすべて許してしまうのは、アバンで前回までの粗筋を語り終
えた後の、一分かそこらの映像の具える、類稀な美しさのゆえだ。

厳密に数えても十カットかそこらしかない短いシーンだが、この場面の
アバンとしての美しさは言葉で説明ができない。有意のストーリーとし
ては、「夜半にかぐや姫の挿し絵を描いていた少女が、亡き母の面影を
偲んで月を眺める」というありふれたものだ。

そして、カットを構成するショットも、非常に端的で意味的な面では不
足も剰りもない。実際には、「亡き母」を意味する「布団の畳まれた病
室のベッド」は白く飛ばされていて、よく見てもわからない。

このショットが意味附けられるのは、中盤でレイちゃんがエリカの境遇
に自身を重ねるときの回想においてであり、アバンのこの場面において
は、かぐや姫の絵→白く飛ばされた部屋のなかにあるかぐや姫の絵本→
微笑みながら月を眺める少女という流れにしかすぎない。

そして、レイちゃんの眺める月が、OPの月面のズームアウトに重ね合
わされるとき、オレたちは鈴村展弘の訴える映像的な感動がどこにある
のかを知る。

小林靖子が理詰めで語る精緻な物語的感動ではない、美しい少女が演じ
る物語の、最も美しい瞬間を計算し尽くされた映像で語ること。今回の
鈴村エピソードは、そういう美しい瞬間を実現したのだから、後はもう
どうでもいいとすらいえるんだ、オレ的には(木亥火暴!!)。

意味性とは別の次元で、美しい少女が微笑んで見上げるあの月が、毎週
土曜日の朝にオレたちが主題歌とともに見ているあの月なのだと関連附
けたこのアバンは、オレには比類なく美しく見える。

オレが覚えるこの感覚は、もしかしたら、セーラームーンの火野レイと
いう人物固有の物語を十全に映像で語ることとは必ずしも関係がないこ
となのかもしれない。

亡き母が月に棲むことを想って、中学生にもなる女の子が微笑みながら
月を眺める心境を思い遣ることも、セーラー戦士の過去開示に火野レイ
の物語がどのような関連を持つかを考えることも、この際求められてい
ないのかもしれないのだ。

火野レイの死せる母親に対する想いに共感する以前に、そのような過去
を持つ火野レイが美しく微笑みながら月を見上げること、その月が毎週
見慣れたタイトルバックの月に重なること、この映像表現がただ美しく
愛おしい。

そして、今回のエピソードが語り終えられた時点では、アバンのあのと
きのようにレイちゃんが月を見上げることは、もう二度とない。月の王
国の秘密を知らされたうさぎがどんな気持ちで泣こうが喚こうが、それ
は大きな問題ではないんだ。

月は死せる母の棲む都と想っていたレイちゃんが、自分こそが月の都か
ら来た存在であることを知り、もはや微笑みつつ月を見上げなくなるこ
と、それこそがオレにとっては大きな問題なんだよ。

だからこそ、なおいっそうのこと、あの瞬間の映像の美しさが愛おしい
ものとなる。それに比べたら、後の問題はすべて「物語」にまつわる問
題であって、この問題とはいっさい関係がない。

だから、今回のエピソードに関しては、オレはもう何もいわないことに
しよう。

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