« Act.11 to be continued | トップページ | Act.13 七センチの爆弾 »

Act.12 巨大なる伏線

またこのペースかよ     いろんな意味で(木亥火暴!!)。

なんかこう、他の戦士を丸め込んで味方に付ける手管がワンパターンだ
のう、月野うさぎ←ヨゴレた大人の見方(木亥火暴!!)。

しかし、今回のエピソードは特ヲタ・アニヲタにしてみると、とても懐
かしい感触だったねぇ、いろんな意味でな。ざっと見積もっても二〇年
以上前に感じたような感覚だよ(木亥火暴!!)。

時代的なことをいうと非常に微妙な感覚で、三〇分特撮シリーズという
大枠のフォーマットの草創期には、映画屋から流れた人脈や各テレビ局
の名物製作者などが「ムダなくらい本気」でドラマづくりに入れ込んで
いたが、おそらく巨大ヒーロー乱立時代や「東映プロデューサー列伝」
初期の時代になってから、一本一本のシリーズにそうそう手間をかけて
いられなくなった。

もちろんオレも一人の特ヲタだから、それらの作品群にも愛着はある、
十把一絡げに「粗製濫造」と斬って棄てているわけではないが、その当
時の特撮作品では、意余って力足らずの部分や、現実的な妥協の痕跡を
まざまざと視るような場面が常態だったわけだ。

そういう意味では、仮に七〇年代以降としておくが、古くからの特ヲタ
という人種のドラマの見方は、そのエピソードが本来目指していると思
われる理想型を措定して、足らざるものを無意識に補完する認識システ
ムのうえに成り立っていた(木亥火暴!!)。

今でも、オレら大人になってから特撮に戻ってきたような人間が、古株
の特ヲタプロパーとされるような人種と話をしていて「話がちっとも噛
み合わないなぁ」と思うのは、そういう補完システムの部分だな。

実際の絵面ではまったくそうなってないのに、勝手に脳内補完して、そ
れが目指しているのはこれだからそういうものと見做す、という前提で
ものをいう。池田憲章辺りの映像語りは、おおむねそういう認識システ
ムを、思い入れで芸の域に高めたものだと思う。昔は今のようにビデオ
で見返してつぶさに検証することもままならなかったわけだから、歴史
的な意味では、一概にそれを否定するわけではないんだけどな。

そして、今回のエピソードを観て感じたのは、そういう特撮番組の見方
が活きていた頃の感覚だな。とくに今回は、最近出来不出来とは別次元
混迷していた小林脚本も、アイドル脱走物のバリエーション…という
か、むしろパロディでメインのプロットをカッチリつくって、そのうえ
で各ルーティンの描写をタイトにこなしてソツがなかった。

そういう意味では理想型はハッキリしているわけで、それが肉附けされ
る過程で効果的に演出されていないという、まさしく脳内補完向けの出
来となっている。これが多分二〇年前につくられていたのなら、番組や
小松彩夏に思い入れを抱く特ヲタによって伝説化される過程で、理想型
の大傑作に補完されていたかもしれない(木亥火暴!!)。

今回のたかまる演出は、まあ前回ローテのときのように、人物造形をま
るっきり因果地平の彼方に飛ばしてしまうようなイデの無限力発動級
勘違いも目立たなかった代わりに、多分ネットの悪評で腰が退けたのだ
ろう、以前にも増して、どこもかしこもノッペリとメリハリなく演出す
るようになったみたいだ。

たとえていうならば、役者としての小松彩夏の棒読みと同レベルの棒読
み演出というところか。役者がセリフの自然な抑揚やそこに込められた
情感を、自身の肉声において生き生きと表現できないことを指して「棒
読み」というのなら、筋立ての自然なメリハリや、場面に込められた情
感を自身のフィルム上に生き生きと表現できないたかまる演出は、まさ
しく「棒読み演出」(木亥火暴!!)。

ただまあ、腰が退けて守りに入った分、前回ローテのように正面切って
演出が脚本を読み違えている部分も目立たないので、単に「小松彩夏が
棒読みなのがすべていけない」というふうに見えてしまうね。

もちろんそんなはずはないんであって、小松彩夏以上の棒読みを危惧さ
れた安座間美優も、優れた演出に恵まれて、発声の悪さや表情の堅さを
補う程度には芝居の呼吸や役柄をつかんできている。

ズブの素人を使うのは、この番組の大前提なのだから、素人が素人のま
までした、という事態において演出サイドが責任を取らないでどうする
んだ。ことにそれが伸びる素養を持った原石であったなら、それを上手
く光り物に化かせなかった演出者は、責任を問われて然るべきだ。

前回冒頭でオレは「オレら、ちょっといい夢見過ぎたのかもしれない」
と空嘯いたが、もちろんこれは皮肉であって、要するに、東映特撮とい
う組織のドラマづくりの技倆がどんなものなのか、すでに大人の視聴者
は知ってしまっているわけだ。どうしたってそのアベレージを前提とし
て各監督の技倆を判断せざるを得ない。

安座間を使って効果的な芝居を組み立てられた舞原監督は、優れた職業
演出者といえるだろうし、芝居ができなくて当たり前の女の子を見殺し
にすることなく、作品の完成度との整合をとっていた。本格的に演技す
るのはこのローテが初めての小松彩夏を、ただの演技の堅い素人に見せ
てしまうのは、演出者として作品にも役者にも愛がないねぇ。

仮に愛があるのだとすれば、その愛情を実践で表すことができないのは
男一匹、ちょっと不甲斐ないな(木亥火暴!!)。

たとえばこれが一本の映画だったら、小松彩夏がフォトジェニックな意
味で綺麗に撮れていること、それだけをとっても「監督・高丸雅隆(そ
んな名前だったんだよ、覚えてる?)」の作品の手柄として語られても
よかったと思う。

監督の組という人間同士のコネクションを基本単位として動く映画の世
界では、女房役となる撮影監督の手柄は、彼と組むことをよしとした監
督の手柄でもあるし、それ一本で完結する興行物であり映像作品である
劇場映画では、そういう建前が実態としても活きている。

しかし、東映特撮のシリーズ番組では、監督はローテーションだが撮影
監督は基本的にベタ附きで、シリーズ全体のルックを保ち、実質的にク
ルーを追い回す役どころなので、そこに演出上の知恵が感じられない映
像の美しさを、実態論として監督の手柄と見做すわけにはいかない。

映像それ自体については、撮影監督が圧倒的に影響力を持っているし、
その撮影監督について人事権を持っているのは企業サイドであって監督
サイドでないことが、建前上も実態上もハッキリしているからだ。

前回のコメントでもいったことだが、おそらくたかまると撮影監督の間
に良好なコミュニケーションが確立されているとは、実現された作品を
観る限り、ちょっと思えないんだな。

Act.7 からベテランの松村文雄に代わってファインダーを覗いている上
赤寿一は、金看板の田崎監督や技巧派で現場を知り尽くしている鈴村監
督の演出回では、監督と撮影監督の間のごく一般的なコミュニケーショ
ンで絵をつくっていたからこそ、田崎の絵、鈴村の絵というふうに監督
の持ち味を活かす形で自身の技倆を発揮できた。しかしAct.11では、だ
れの絵という持ち味も感じられないままに、ムダにカメラが動き回って
いる印象があった。

ここで上赤撮監のキャリアをネットで調べてみると、55Vとギンガと
ハリケンジャー、それと片平なぎさの火サスしか出てこなかった。その
うち、55Vとギンガでは「撮影」ではなく「計測」でクレジットされ
ているが、「計測」というのは要するに映画でいうファーストだろう。

二〇〇一年制作の火サスでは連名の二番手で「撮影」にクレジットされ
ているから多分B班のチーフ、ハリケンでようやく晴れてピンの撮監に
昇格していて、年代記的にはざっと平仄が合う…ざっと合ってりゃいい
んだよ←謎のマイブームフレーズ(木亥火暴!!)。

東映生え抜きと仮定して、追い回しから撮影監督に昇格するまでをざっ
と一〇年と見積もれば、精々いって三十代後半くらいの年代だ。東映の
撮影監督としては、まったくの新人と表現して差し支えないだろう。

そしてこれは、ごくごくの一般論になるんだが、監督に伍して演出上の
目配りができる程度に、撮影監督として十分な経験を積んでいるベテラ
ンでもない限り、無闇にカメラを動かしたがるのはあんまりいい傾向で
はない
とオレは考えている。

アメリカの有名な撮影監督のインタビュー集「マスターズ・オブ・ライ
」でも、カメラを動かすのを好むスタイルの人も、据えっぱなしを好
む人も、おしなべてカメラを動かすことに対しては、慎重な意見を陳べ
ている。つまり、必要さえあればカメラは何の制約もなく動くべきだけ
れど、とくに必要がない場合は動くべきではないというのが一致した見
解なんだな。

その発祥において映画は「活動写真」、つまり動く写真なのだから、照
明と構図という写真の二大要件にとって、撮影者の視点となる撮影機材
自体が動くことは、大きなハンディとなる。ではあるが、それと同時に
映画は写真が「動く」のだから、一方ではカメラを動かすことも映画な
らではの要件として期待される効果ではある。

フィルムと機材の技術的発達を受けて、現実的なハンディは大幅に埋め
られてきてはいるが、ハードでは埋められないソフトの部分では、やっ
ぱりカメラが動くことは大きな負担となる。

そういう意味では、カメラを動かすスタイルの撮監は、その嗜好の要求
する必然として常に知恵を働かせなければならない。ことに東映特撮に
おいては、アクティブなカメラワークはジャンルの求めるタッチとして
多かれ少なかれ撮監に求められる資質だろうから、撮影監督は始終知恵
を働かせていなくてはならない。

一般論からセラムンに戻ると、おそらく上赤撮監にとって、高丸雅隆の
ように「格好良ければいいので、おまかせします」と言って何も指示を
出さない監督は初めての経験だったろう←一〇〇%邪推(木亥火暴!!)。

なので、初回の絵面の決まらなさ加減は一種の戸惑いがあったのだろう
が、気のせいか今回のエピソードでは、絵のつくり方そのものについて
は、前回ほどぬえ的な印象は受けない。これも推測になるのだが、監督
が丸投げなのを肯定的に解釈して、番組ならではの映像のタッチは全面
的に撮監がクリエイトするようになったのではないだろうか。

ただまあ、それは手持ち撮影の頻出も含めて全面的に動きのカメラワー
クで見せ、カメラが動かない場合は画角やアングル、構図、果てはレン
ズに凝ったりカットを割って動きを出すという方向性なので、こういう
のが嫌いな人にとっては前回よりもガチャガチャした絵面に思えるかも
しれないね。

とにかく今回は、全面的に激しく絵が動いていて、カメラが動かない場
合はショットが激しく動いていて、長台詞の場面ではカットを割ってい
て、寸刻も絵が止まることはない。カメラもショットも止まっている場
合でも、カメラが傾いていたりして、とにかく撮監サイドが絵をコント
ロールしようとする意欲が明らかだ。

たとえば、美奈子とうさぎが観覧車に乗るシーンでは、その後の対岸の
芝居場の画面設計で、観覧車を効果的に入れ込んで画面を構成している
が、これがたかまるのアイディアだとはちょっと思えない(笑)。

おそらく、先週の撮影で懲りた上赤が、割本を元に自分でカッティング
を想定して絵をつくるように努めているんじゃないだろうか(笑)。しか
し、田崎、舞原、鈴村各監督の作品を観ればわかるとおり、いかに撮影
監督が美しく効果的に映像をとらえても、映像作品のチャームをつくる
のは監督の映像的アイディアに基づく演出だ。

撮影監督と満足なコミュニケーションがとれていない「棒読み演出」の
たかまるに、それを期待するのは酷というものだろう。今回のエピソー
ドでは、映された映像の美しさ以外に、チャームを感じることがなかっ
たな。

…はっ、そうか、そうなのか、今回のチャームは、実はあの縄跳びだっ
たのか? そういうつもりだったのか?(木亥火暴!!)

さて、心にもないたかまる論はこのくらいでうっちゃって、小林脚本の
ほうを視てみよう。冒頭の枕では一本のエピソードとして視た場合のソ
ツのなさを指摘したが、何度か繰り返して観るうちに、奇妙な違和感を
感じるようになった。

このローテの美奈子エピソード二本を通じて疑問に思うのは、この二話
の情動の組み立ては、どういう視聴者に向けて考えられているのかとい
うこと。これがだんだんわからなくなってきた。

オレは原作の設定をおおむね知っているから、美奈子の失望が「独りで
月のプリンセスのために影武者役を引き受けて頑張ってきたのに、実際
にプリンセスに会ってみると、こんなお気楽ヴァカだったなんて、自分
のこれまでの苦労は何だったんだろう」という筋道なのだと自然にわか
るけれど、知らない人にとっては、ひどくぎこちない不自然な展開に映
るだろう。

うさぎが憧れのアイドルのために張り切って空回りする気持ちは、これ
まで番組を観てきた視聴者ならだれにだってわかるけれど、それを受け
る美奈子の芝居が、事情をまったく知らない視聴者には、ただのイヤな
女の子にしか見えないのではないだろうか。

実写版でも、たしか「セーラームーンは他の三戦士のリーダー」という
セリフがあったような気がするんだが、表向きの筋道では「自分を護る
近衛の戦士のリーダーがこんなミーハーな厨房だった」というだけの話
なんで、先覚者の美奈子が使命の意義を見失うほど失望するのは、かな
り不自然に感じられる。

その失望は、今回のエピソードの出発点として設定されている美奈子の
心情面の課題なので、ここが自然に視聴者に受け容れられていないと、
美奈子視点のドラマ自体が成立しない。

この美奈子の失望は、これまで彼女がセーラーVとして、プリンセスの
影武者として、プリンセスのために犠牲を払って戦ってきたからこそ成
立する感情のはずで、「プリンセスであるヴィーナスのために近衛隊長
のムーンが戦う」という現時点の表向きの筋道にしたがうなら、ムーン
がどんなお気楽トンボでも、不安ならともかく、失望という感情には結
び附かない。

まあ、小林脚本にアリガチな混乱なんだが、この先の筋道をいっさい知
らない観客層に向けて書いた話だとすると、美奈子の心情がまったく伝
わらなくて当然なんだな。つまり、前回から今回に亘る美奈子とうさぎ
の心情芝居の部分は、ヴィーナスにまつわる設定を予め全部知っていな
いと、美奈子側の芝居が成立しないドラマ
のはず。

二週に亘る「もっと大事なことがあるんじゃない?」という問いかけも
本来的には一種のダブルミーニングで、現状の開示度ではプリンセス自
身が自分の臣下に「プリンセスを護る使命の自覚」を確認していると思
わせて、本当はプリンセスの影武者がプリンセス自身に「プリンセスと
しての使命の自覚」を確認しているわけだが、微妙すぎてあまり効いて
いないような気がする。

それに、アバンで美奈子視点の心情吐露を設けたのは、本編の心情芝居
の不可解さをなおさら煽るミスリードで、ここはちょっと問題なんでは
ないかと思う。

おそらく、前提として美奈子の心情が多少なりとも視聴者に受け容れら
れている必要があるので、あえて言葉で語らせたのだろうが、少なくと
もオレ個人は、いきなり視聴者にとって未知の人物である美奈子が自分
の気持ちを語り出したんで、かえって「あれっ?」と呆気にとられた。

現段階の美奈子は、他の四戦士とこの先の設定を知らない視聴者に対し
て隠し事をしているわけで、重大な隠し事をしている人間の視点で前回
の物語の心情芝居の部分の総括をするのは、物語の語り口として、アン
フェアなんではないかと思う。これはどう考えても、脚本がそうなって
いるはずだから、たかまるの責任だとは思えないんだな。

総じてこのローテの二話については、物語の受け手が何を知っていて、
劇中の人物がそれぞれ何を知っているかという、物語を語る場合の大本
になる弁別が、脚本段階から混乱していると思う。もっといえば、この
時点で本格登場した未知の人物の視点でストーリーを構成するのは、か
なり破調だと思う。

セラムンという物語構造が「御存知物」というほど内容を周知されてい
るならともかく、「今初めて語られる物語」という建前としては、二話
続けて結末から逆算しないと成立しない心情ドラマが語られるのは、一
般の視聴者にとって辛いだろう。

それから、「ひげ武者」のくだりは、この先の展開を考えると一種の伏
線になっているんだが、伏線というのは、それが張られた時点では、登
場人物も視聴者もその真意を知っている必要はない。

もっといえば、連続ドラマの場合は、伏線の意味合いをシリーズ構成者
だけが知っていて演技者や演出者が知らなくても、描写としては成立す
る。極端な場合は、その時点では伏線でも何でもなかった棄て描写が、
後々になって後附けで伏線として活きてくる場合もある。

しかし、この辺は浅学にして確たることがいえないのだが、伏線という
のは、「後になって考えてみると」結果的に伏線になっていたというよ
り、その時点で受け手に「おや?」と思わせておいて、後々の真相開示
へ興味をつなぐほうが本来の意義のような気がする。

その意味では、ひげ武者ヴィーナスでこの先も引っ張るんだったら、こ
の時点で「後になって考えてみると」式の伏線を張るのは早すぎたよう
な気がしないでもない。大人の視聴者ですらが、一カ月、二カ月先まで
ギャグに紛らわせた伏線を覚えているものでもないだろう。

まあこの部分は明らかに意図的な伏線となっているので、真相開示の後
にもう一度映像とセリフで再話されるだろうし、そのために「後で回想
されるために演じておかれるべき描写」という意味での伏線として描か
れているのだろうけどな。要するに、真相開示の場面の芝居から逆算し
てそこを効かせるために、そうなっていなかったら困るのでそうなって
いるという描写だ(笑)。

そして、その観点からこの二話のエピソードを考えてみると、これらの
エピソード全体が真相開示のための伏線となっていて、建前上の「今初
めて語られる物語」としては、うさぎたちはおろか視聴者も含めて、
奈子以外のだれもこの芝居の真の意味合いを知らない
という、畸型的な
エピソードとなっている。

その場凌ぎでもいいから美奈子と視聴者の間に心情の橋渡しをして、こ
のエピソード単体でドラマとして成立させるという、普通一般的なドラ
マづくりの作法にはウェイトが置かれていない。真相から逆算して、そ
うなっていなかったら矛盾するのでそうなっている、アリバイのドラマ
として、この二本のエピソードが組み立てられている。

これはやっぱり、三〇分一話完結のシリーズ番組として、どうなんだろ
うと思わないでもない。一年間の総体の構造のなかでしか解釈ができな
いドラマが、およそ一時間にも亘って繰り広げられるのは、一本ごとに
要求されるドラマのカタルシスを、あまりにも満たしていないのではな
いだろうか。

こうした構造面の問題がどう具体に降りてくるかというと、ドラマ内の
登場人物としての美奈子の言動は、すべてダブルミーニングに基づく表
面的なものに留まるということだ。

プリンセスの影武者という大ネタを隠しつつ、それでも最大公約数的に
破綻しないような言動をとっているわけだから、真相が開示されてこそ
効いてくる芝居の要素は意図的に弱められているわけだし、真相を隠し
たままでは不自然にしか見えないはずの筋道を、なんとかギリギリ整合
させているわけだから、そのままで観ると非常に薄っぺらなドラマにし
か見えてこない。

そして…これがいちばんの問題なんだが、こういう脚本を映像化したの
が、元々どんな濃厚な脚本を渡されても薄っぺらにしか演出できない
かまるだったということだ(木亥火暴!!)。

序盤のたかまる論では「まあ、いいんじゃね?」的にスルーしちゃった
んだが、こういう文脈で考えると、本来的にはそうではないんだが、構
造上どうしても表面的には薄っぺらにならざるを得ない心情芝居の部分
が、たかまるの薄っぺらな演出と相俟って、まったくドラマとして成立
しないエピソードとなってしまったきらいはあるだろう。

まあ、観覧車の中での「こんなに笑ったの、初めて」の部分はだれでも
「あのくらいのどこが『こんなに』なんだ」とツッコミを入れるだろう
からスルーするけど、オレ的にいちばん引っ懸かったのは、ペンキで服
が汚れた美奈子が、どんな気持ちでうさぎに洋服屋の場所を訊ねたかが
サッパリわからない部分だな。

そこがたとえば、そのままではとても街を歩けないくらい汚れていて、
ホントに困った表情だったら、そういう偶然がきっかけでうさぎのペー
スに巻き込まれたんだってわかるんだが、ブルゾンがちょっと汚れただ
けだから「脱いじゃえば済むじゃん」てなっちゃうんだよな。

たしかに時期的には冬場の、しかも海っぺりだから上着を脱いだら寒い
のはわかるんだが、あの時点の美奈子の気持ちとしては、少々寒いのく
らい我慢しても、この鬱陶しい女の子から早く逃げたい気持ちのほうが
大きかったと思うんだよな。

そもそもペンキで汚れたのすら、うさぎがマトリックスの予言者張りに
よけいな声をかけたからだし、オレが美奈子だったらもうこの時点でキ
レて暴れてるね(木亥火暴!!)。

それなのに、割と冷静に洋服屋を訊ねているから、うさぎ自体に興味を
持って附き合う気になったように見えてしまう。もちろん、前後の芝居
を視るとそういう流れにはなっていないんで、ここは窮余の一策として
嫌々うさぎに頼ったという形になってないとおかしいだろう。そうでな
いならないなりに、芝居の附け方で辻褄を合わせる必要があったはず。

ここが活きてこない原因を非常に具体的にいえば、この場面での洋服の
汚し方であったり、遡って美奈子の服装の選び方の問題だったりするん
じゃないかと思うんだな。たとえば、尾籠な話だが、女の子が出先で服
を汚して、着替えるか着替えないかの問題では、ボトムが汚れてるかど
うかってのは大きいよね。上着だったら、最低限脱いで手に持って帰れ
ばいいんだから。

だとすれば、脚本に「ペンキで汚れて着替えを買う」という流れがある
んだから、そもそもああいうこしらえはないだろう。「可愛ければいい
ので、任せます
(今回は邪推じゃなくてソースがある(笑))」と言われ
ただけのスタイリストさんが、そこまで考えて洋服を選ぶわけはないん
だから、監督がちゃんと意見を言わなきゃならなかったはずだ。

「ペンキが附いたら着替えなきゃならないような衣装」ってことでワン
ピースや白いパンツなど、この場面が効いてくるような服装をオファー
するのが、演出者の仕事だったはずだ。黒い光沢素材のスカートではペ
ンキが附いても目立たないし、そもそもボトムやインナーを汚してすら
いないのでは、着替える必然性が生じない。

洋服屋の場面では、舞原張りの早変わりのカッティングでモデルとして
の小松の見せ場を設けているが、ここでもオレは「ブルゾン一着買えば
いいじゃん」とツッコミまくった。いや、目立たないけどちゃんとここ
でスカートも着替えているから、冷やかしでいろんな衣装を引っ張り出
したわけではないんだがな(木亥火暴!!)。

話が逸れたが、美奈子が着替えたのは本当に困ったからであることを、
わかりやすく押さえておかないと、早変わりの場面で笑顔を浮かべてか
ら一瞬戸惑いの表情を浮かべる芝居が活きてこない。

たかまるにしては珍しく、観覧車の前でうさぎを見て浮かべる微笑とか
そういう表情芝居をワンカットずつ押さえているんだから、それが活き
るように全体の芝居を段取るべきだったろう。

たとえば、問題の「こんなに笑ったの、初めて」のセリフにしても、正
直な話、いくらはしのえみがコンコンしただけでも笑えるお年頃でも、
御馳走を後回しにする貧乏喰いでイチゴショートを喰っただけでそんな
に大笑いできるモンでもないだろう(木亥火暴!!)。

オレは実際にイチゴショートを買ってきて、イチゴを後回しにして喰っ
てみたが、たしかにそんなにおもしろくはなかった(木亥火暴!!)。

最前引き合いに出した舞原だったら、どうせオフのバラエティ描写でい
いんだから、洋服屋の早変わりの場面でもっとうさぎと美奈子を絡ませ
自然に大笑いしている美奈子の表情を押さえることで、一瞬の戸惑いの
芝居を活かし、「こんなに笑った」の「こんなに」の部分を膨らませて
辻褄を合わせていたところだろう。

…というわけで、結局叩かれるのはたかまるということで決着が附いて
しまったが、せめておまえの持ち味はそこじゃないのかと思う秘密基地
でのうさ・まこの追っかけっこが、グランセイザーのエピローグのサム
い団欒描写のようなヌルさだったり、「そうだね」と抜かれた亜美ちゃ
んのアップが無意味に意味ありげに見えるうえに、この世の物とも思え
ないくらいブサイコ
だったり、その気になってあげつらっていけばキリ
がない。

だからこそ、今回のローテでは意識的にたかまる叩きを控えてはいたの
だけれど、結局、このヒトは何がしたくて監督業をやっているのか、そ
のためにどんな勉強をしたのか、やっぱりオレにはまったく理解できな
いでつ(木亥火暴!!)。

|

« Act.11 to be continued | トップページ | Act.13 七センチの爆弾 »