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Act.13 七センチの爆弾

七センチの距離さえあれば、爆弾のような破壊力を繰り出せる…などと
戯れ言をいってみても、最近の若い人には何のことだかわからんのだろ
うと思いつつ、前回のイチゴショートに続く今週の「実験してみよう」
シリーズは、当然「一つの饅頭を二人で半分こ」だな(木亥火暴!!)。

このOA直後に入ったカラオケボックスのメニューに中華饅頭があった
ので、参加者の半数だけ注文して、半分こで喰ってみた。しかし、コン
ビニで売ってるような井村屋だの中村屋だのならともかく、ちゃんと蒸
籠で蒸すような本格的な中華饅頭だと、餡がしっかり固まっててうまく
半分に割れないことが判明した。

本格的中華饅頭の餡は、蒸すことによって焼売状に固まるので、これを
手で半分に割ろうとしても、どうしてもガワ半分の部分と餡全部+ガワ
半分の部分に泣き別れになってしまうのである。

これでは、餡の全部詰まった部分を渡すかガワだけの部分を渡すかで、
微妙な喰い物ギャグの世界が展開してしまう。どちらを渡すにしろ、ど
ちらかにわだかまりが残ってしまい、とてものこと舞原監督の言う「七
センチの距離」が詰まらない。

そこでオレたちの下した結論は、本編中の映像では遠目でわからなかっ
ただけで、あれはおそらく、肉まんより餡の柔らかい小倉あん饅頭だっ
たのではないか、というものだ。ちなみに、小倉あん饅頭とチロリアン
饅頭は、響きこそ似ているがまったくの別物である。

それならば、うさぎが饅頭を半分に割って差し出したときの地場衛の表
情が、心なしか迷惑げであったのも納得がいく。普通に考えてみれば、
高校生にもなる男の子が、磯で散々砂いじりをしたしょっぱい手で小倉
あん饅頭を半分に割ったものを、厨房の女の子から、さあ喰えとばかり
に差し出されて嬉しかろうはずがない。

たとえばこれが肉まんだったとしたら、「おう、オレちょうど腹ぁ減っ
てたんだ」とかぶり附く場面も、いくぶん自然である。しかし、ヤドカ
リだのホンダワラだのの臭いが染み附いた磯臭い手で割った、小倉あん
饅頭の半分こ…これはかなり微妙である。磯の香と塩味と、極端に甘い
ホットな小倉あんの取り合わせ…微妙と表現するにも微妙すぎる。

たとえていえば、おままごとに付き合わされた大っきい兄ちゃんが女の
子から泥団子を「はい、ごはん」と差し出されたときの心境に近かった
のだろう。その内心の葛藤を、うさぎの気持ちを酌んでグッと飲み込み
柄にもない甘いものを黙って喰って見せる衛の心意気…うん、これだ、
これが舞原監督の言う「七センチの距離」なんだよ(木亥火暴!!)。

よし、少なくとも、オレは納得した(木亥火暴!!)。

すっきりしたところで、小ネタはこのくらいで切り上げて、本編の話に
移ろうか。公式サイトの記述によると、舞原監督が「うさぎと衛が七セ
ンチ近附く話」と表現した今回のエピソードだが、一〇センチでも五セ
ンチでもなく七センチと表現する辺りが、イメージ主義の舞原演出の真
骨頂だ。これは当然、脚本のなかに「うさぎと衛、七センチ近附く」な
んて書いてあるわけがないんであって、演出上のキーワードだな。

以前、映像作家は文章家であることが一般的と書いたが、スタッフや演
者の間で意識を共有するために、こういうイメージを喚起するようなワ
ンフレーズを思い附くことも、演出技倆の範疇だろう。そういう意味で
は、映像作家は内輪の制作サイドに対しても表現行為を行う商売だ。

言葉を超えた映像それ自体が語る内実を表現するのが映像作品だといっ
ても、それを実現するためには、具体的にスタッフや演技者を動かすた
めの、緊密でレトリカルなコミュニケーションが必要だ。

ときにはコミュニケーションに意図的なブランクを設けて、一個人の意
図以上の効果を引き出すことも立派なコミュニケーションだろうし、具
体的なディスカッションによって、とことん細部を詰めるのももちろん
コミュニケーションだ。そして、今回の舞原監督の「七センチ」のよう
に、個々人のイメージを触発しつつも、ゆるやかな共有をもたらすよう
なワンフレーズを案出するのもコミュニケーションの技法だろう。

集団統率の側面を持つ職業では、常にコミュニケーションが重要な意味
を持つ。言葉の分野がなおざりにされて、言葉以上を目指す文芸分野が
成立するはずがない。映像作家というのは、手持ち主体のドキュメンタ
リー映画でもない限り、基本的に独りでは何もできない職業で、他人に
対して言葉で何を伝えられるかが重要な職能だ。ことさらに名文家であ
る必要はないだろうが、最低限、自身の意図を不特定多数に向けて言葉
で的確に表現する能力が必要なんだと思う。

…なんか、湿っぽい方向に話が及びそうだから、この話はこの辺にしと
こうな。まあ、みんな、だれの話をしようとしているのかわかってるだ
ろうし(木亥火暴!!)。

では、「七センチ」と表現されたその距離はいかに詰められたのか、そ
れを視ていくことにしよう。まず、「うさぎと衛が接近する」と一口で
いっても、事ははそれほど単純ではない。基本的に現段階では、うさぎ
と衛はそれぞれお互いに隠し事をしていて、片方だけがその真相を知っ
ており、仮面の関係では素顔の関係とは逆のベクトルで関係が成立して
いるというややこしい事情があるからだ。

まず、Act.1 で提起されたこの二人の関係を、始点として視てみよう。
初登場時の衛は、無愛想で口の悪い根性曲がりとして登場し、初っぱな
から強烈にうさぎと視聴者の反感を買っているが、衛のほうでもうさぎ
個人に興味を持った節はない。この男が満遍なくだれにもかれにも失礼
な奴
だというのは、今ではみんな知っている(木亥火暴!!)。

ところが、うさぎの初変身後に突如登場したタキシード仮面は、さした
る理由もなくセーラームーンを庇い、颯爽とした態度と物謂いでムーン
=うさぎの乙女心を鷲掴みにしている(笑)。もう、初めての瞬間から、
ムーン=うさぎは、タキシード仮面に恋心を抱いているといってもいい
だろう。

一方、タキシード仮面としての衛がムーンに惹かれる想いの真相は、こ
の時点ではまったく判然としていない。あえていえば、タキシード仮面
は過去世からの声に囚われた衛が演ずる地場衛とは別の人格だという表
現もできて、その別人格たるタキシード仮面が否応もなく現世の人格で
ある地場衛を引き摺っているという見方もできる。

意識に連続性が確保されているわけだから、病理的な意味での別人格で
はないが、タキシード仮面に変装した後の衛は、地場衛とはまったく違
う態度、物腰、そして何より感情でムーンに接しているといっていいだ
ろう。変身後の二人の関係は、一種の仮面劇と視ていいと思う。この時
点でムーン=うさぎが恋心を抱いているのは、地場衛が演じるタキシー
ド仮面という架空の人格なのだな。

こういうややこしい関係性があるので、仮面と素顔の間で同自性が確保
されている場合は「ムーン=うさぎ」「タキ=衛」という表記、役割的
な別人格として扱う場合は「ムーン」「うさぎ」「タキ」「衛」と個別
の表記にするのだが、まあ我慢して附いて来てくれ(木亥火暴!!)。

続くAct.2 以降の二人の関係は、この出発点から発展しており、素顔の
関係ではいがみ合い、仮面の関係では強い絆で惹かれ合うというコント
ラストで描かれている。これを前世の宿縁の強調と、反撥しつつも接近
するラブロマンスの同時進行と表現しても差し支えない。要は、シチュ
エーションコメディ的な関係性だということだ。

この均衡が破れるのは、初の接近編といってもいいAct.7 においてなの
だが、二人の関係性という面から視ていくと、このエピソードで押さえ
られているのは、うさぎの意識では「タキシード仮面でさえあれば、そ
の正体が元基でも構わない」というポイントだ。この辺の乙女心は、さ
すがの心にオバチャンを飼っている男にすら理解不能だ(木亥火暴!!)。

この辺は、うさぎの抱く恋心の稚なさと解釈してもいいだろうが、顔も
素性もわからない男に憧憬を抱くことはあり得ても、そこから遡って素
顔のその人がどんな人でも許容するというのは、まあ普通一般の恋愛と
比較するにはちょっと現実離れしすぎているかもしれない。

そして、この時点で考えねばならないのは、たとえばタキシード仮面の
正体が元基であっても構わないのなら、それが衛であっても構わなかっ
たのかということだな。結論からいうと、おそらくそうではなかっただ
ろう。

この時点で、タキ=衛の正体が判明してしまったなら、タキは衛として
ムーン=うさぎと接しないわけにはいかない。そして、うさぎの衛に対
する感情は、未だ反撥の域を出ていない。勢い、ムーンとタキもまた反
撥の間合いで対峙せざるを得なくなる。タキシード仮面は地場衛のつく
り上げたイリュージョンということになって、つまりタキシード仮面の
ペルソナとしてのリアリティが消失する。

それは、この時点ではまだ、タキシード仮面の正体が地場衛なのであっ
て、その逆ではないからだ。セーラー戦士たちは、現時点でも「選ばれ
た戦士」というポジションであり「変身」するわけだから、月野うさぎ
とセーラームーンという別々の立ち位置は成立するが、タキは地場衛と
いう人間が「変装」しているだけ
なので、正体がバレてしまえば、それ
はただの人間・地場衛だ。

月野うさぎとセーラームーンの二重性が自明であるムーン=うさぎが常
に連続した意識で描かれているのに対して、タキと衛のキャラに断絶が
あるのは、彼の場合の二重性は、意図的に演じられているものだからだ
な。そして、Act.7 の時点でムーン=うさぎが恋心を抱いているのは、
いってしまえば人間・地場衛が演じている怪盗タキシード仮面という仮
面=ペルソナそのものだということだ。

ムーン=うさぎの恋心を成立させている仮面劇が破れるのは、まだまだ
時期尚早ということだね。

そして、Act.7 のドタバタで描かれているのは、「タキなら正体がどん
な人でも好き」といううさぎの稚ない思い込みが「何か違う」という違
和感によって破れる過程と、タキに感じるときめきと衛に手を握られた
ときに感じるそれにパイプを通すこと。タキと衛それぞれに対する感情
の現状に依然落差はあっても、ときめきという実感に基づいて基調を整
えたということだな。

そして当然、衛がムーン=うさぎの正体を知るという大きな事件があっ
て、この時点で対等な立場での仮面劇という均衡が破綻する。タキ=衛
視点では、ついにムーン=うさぎの等式が固定し、タキとしての人格が
なぜ無条件にムーンに惹かれるのかを、衛が意識的に考え始める契機と
なった。なぜなら、この時点でもまだ、地場衛の意識では月野うさぎに
惹かれてはいないからだな。

架空の人格の「はず」のタキシード仮面は、明確な理由もなく出会った
その瞬間からセーラームーンに惹かれ、ムーン=うさぎはその架空の人
格である「はず」のタキシード仮面に一目惚れした。ここには、恋愛劇
にとって最も重要な接近のプロセスがまったく欠落している。

そして、月野うさぎと地場衛の関係性についても、Act.7 までは、ほと
んど接近らしい接近は描かれていないといっていい。ここまでに描かれ
ているのは、月野うさぎと地場衛が知り合いとなるための、リアルな意
味での「時間」だ。出会った翌週から、もう恋愛の間合いで接近のプロ
セスが始まる恋愛ドラマとはここが違う。

Act.7 までの流れのなかで描かれたうさぎと衛の関係をつぶさに視てい
くと、「いがみ合いながらも、内心で惹かれ合っていく」という描写は
まったくないことに気附くだろう。裏も表もなく、「偶然」鉢合わせし
てはその都度角突き合わせている、それだけなのだ。

だから、Act.7 のトリプルデートで衛を発見したうさぎが「ゲ〜ッ」と
なるのは、嘘も隠しもない本当の気持ちだと視るべきだ。この時点でう
さぎが恋しているのは、タキシード仮面だと思い込んでいる元基のほう
であって、衛が現れたのは純然たる不快事だったわけだ。この年頃の女
の子の考えなんて、それほど複雑精妙じゃないんだよ(木亥火暴!!)。

ぶっちゃけ序でに暴論を吐かせてもらうと、非常に直接的な意味でうさ
ぎが衛に惹かれ始めたきっかけは、手を握られてドキドキしちゃったこ
と、それ、そのものだといっていい(木亥火暴!!)。

だからって、女の子を落としたいときに無闇矢鱈に手を握ってはいけな
いよ(木亥火暴!!)。ちばまもるは、いつもきびしいくんれんをつんでい
るから、おんなのこのてをにぎってもおこられないんだ(木亥火暴!!)。

もっといえば、タキシード仮面に感じるはずのときめきを元基といても
感じなかったのに、大嫌いなはずの衛に手を握られて感じたからこそ、
それがうさぎの心に引っ懸かったわけだ。

うさぎの心のなかでは、タキシード仮面に感じる甘やかな感情と、衛に
対して感じる感情に橋渡しが為されてしまったわけで、タキ=衛の等式
が成立していない以上、それに明確な理由附けができないからこそ、衛
の存在が気になり始めるわけだな。

一方、衛のうさぎに対する感情の変化は、Act.7 についてのコメントで
若干触れたが、もう一度よく考えてみると、ムーンの正体が月野うさぎ
であることがわかったからといって、地場衛のうさぎに対する感情がそ
んなに大きく動いたかというと、そうでもないのではないかと思う。

あくまでこのエピソードでは、月野うさぎが地場衛に目を向けるきっか
けが描かれただけで、衛のほうではムーン=うさぎの等式が固まったと
いう認識レベルの問題にすぎなかったのかもしれない。

その前提に立って考えると、「あいつが…セーラームーン」と独語した
ときの回想が、Act.4 の飛行石シーン(笑)はツーショットだからまだし
も、Act.7 の元基とはしゃぐうさぎを視る衛視点の映像であるのは、惹
かれる気持ちの表現としては平仄が合わないような気がする。

普通なら、相手と二人きりの場面のみで構成されるべき回想が、他人と
デートしているうさぎを視る離れた視点のもの、それもついさっきの記
憶を主としたもので構成されている。深読みをすれば、飛行石シーンが
ツーショットであるのはさして重要ではなく、それが一種「銀水晶」の
存在を仄めかすものだから挿入されているという見方もできるだろう。

初見からこれが違和感となっていたのだが、考えてみれば、ムーンに対
する自分の気持ちも理解できていないのに、ムーン=うさぎと判明した
途端にいきなり気持ちが傾くというものでもない。

たしかに、うさぎに対する感情に若干の変化はあっただろうが、ゆえ知
らずムーンに惹かれているからといって、ムーン=うさぎと知ってムー
ンに対する感情をそっくりうさぎに振り向けるほど、素直な男ではない
だろう。第一、うさぎの場合と違ってその感情が好意なのか何なのかす
らわかっていないのだから。

初見からの違和感ということでいえば、ムーンが巻いてくれたうさぎの
ハンカチを解いてポケットに仕舞う衛の動作が、あまりにも無造作で素
気ないような気はしていたのだが、これもそう考えると視聴者に対する
一種のサインだということになるだろう。

そうだとすると、Act.9 のタキシード仮面の行動が軌道修正的に本来の
目的に特化したものであること、そしてAct.10の衛の態度が何の揺らぎ
もないポーカーフェイスであったことにも、一応の正当性はある。

Act.10で家出をしたうさぎがクラウンで衛と鉢合わせし、うさぎのほう
がハッと気後れして衛がいつもの仏頂面で応じる場面は、最初オレはリ
アクションが逆ではないかという気がしたんだが、よくよく考えてみる
とあれでよかったのだということになりはすまいか。

表面上、Act.7 でもたらされた最も大きな変化が、衛がムーンの正体を
知ったことであるゆえに、衛のほうにうさぎに対する態度の変化があっ
て然るべきと思いがちだが、ある意味、最初の混乱を乗り切ってしまえ
ば、こと衛の視点では何ほどの感情的な影響もない事件だったといえな
いこともないのだ。

あのセーラームーンが、日頃よく鉢合わせをする小生意気な子豚ちゃん
だった、それだけの驚きだ。オレはどうも、Act.7 までの接触で二人が
惹かれ合っている「はず」という、俗なラブコメ的予断で二人の関係を
視ていた嫌いがあったので、それがピンと来なかった。

実はうさぎと衛の気持ちのうえでは、Act.7 以前の関係は「たまたまよ
く顔を合わせる、ムカつく奴」という域を出ない、身も蓋もないもので
あったとしたら、そしてAct.7 の一件でうさぎは衛に惹かれ始めたが、
衛のほうではムーンの正体を知ってうさぎの見方が若干変わっただけだ
としたら、衛の態度が表面上まったく変わらず、うさぎのほうが衛を意
識して動揺するのは当たり前のことなのだ。

むしろ衛のほうは、ムーンの正体を知ってうさぎに対する態度を意識的
にこれまでよりもセーブしていたとしても不思議ではない。タキシード
仮面とセーラームーンとしてならAct.9 のように本音で話せるが、地場
衛と月野うさぎはこれまでどおりの関係でなくてはならない。衛の意識
のうえでは、この仮面劇を意識的にこれまでどおりに維持する積極的な
動機ができたというだけなのかもしれない。

Act.10のこの場面で、衛がまさに「仮面」のような無表情であって、う
さぎ主観の回想でうさぎの動揺が描かれて「何だろう? 何かダメ…
という未整理な内心が吐露されるのは、非常に正しいということだ。

この場面では、ムーン=うさぎと知る衛は意識的に無表情を装っている
し動揺すら感じないが、未だ知られざる理由で衛に惹かれ始めたうさぎ
は、自身の幼稚なワガママを衛に見透かされるのを懼れる気持ちになっ
ている。

次に「地場衛」が登場するのは、ようやく今回になってからで、今回が
本格的な接近編だということになる。中盤のすったもんだで、すっかり
接近が果たされていたような気になっていたが、実際にはじれったいく
らい丁寧に二人の心の在り様が描かれてきたので、お互いに視線が向き
合った恋愛の間合いで二人の接近が描かれるのは、実は今回が初めてだ
ということになる。

そして、今回のエピソードでまた一つオレの予断が明らかになった。つ
まり、うさぎと衛は、実はこれまでまったくお互いのことを知らなかっ
ということに、今さらながら気附かされた。ワンクール丸々の時間が
あったというのに、この二人は今までお互いがどんな人間なのか、まっ
たく知らなかったわけだ。

タキとは別人格の衛について、その同一性に気附いていないうさぎが、
彼の人柄をまったく知らないということはあるだろうが、ムーンに惹か
れるタキ=衛が、意識のうえで断絶のないムーン=うさぎの同一性を知
りながら、彼女の人柄を全然知らないということがあり得るのか。

しかし、これまで視てきたとおり、実はタキ=衛がムーンに惹かれる気
持ちには、現時点ではまったく根拠もプロセスもない。いうならば、相
手がどんな人柄であるかとは無関係なところで、宿命的に親和力が働い
ている
。しかも、二人の仮面劇においては、神話的な闘争のなかで救い
救われるという騎士道物語的な祝祭性が支配的で、人柄がどうとかいう
現実的な問題は縁遠い。

また、現時点でのうさぎは衛にときめきを感じているわけだが、それも
やはりタキ=衛の同一性に基づく実感的なものであり、遠因は無根拠な
タキへの一目惚れがベースとなっていて、うさぎがその同一性の真相を
知らない以上、やはり彼の人柄とは無関係の問題ではある。

うさぎと衛は、今回のエピソードに至るまで、お互いのことを「失礼で
無愛想な奴」「俗っぽくてうるさい女子中学生」程度にしか認識してい
なかったわけだ。そして、これまで描かれたエピソードのなかでは、た
とえば視聴者ならだれでも知っているようなうさぎの美点が衛の前で発
揮されたことは一度もない。

Act.12は…うーむ、一種の突発的な暴走だから、どちらかといえばタキ
がムーンのピンチを救ったパターンに近いだろうね。救った瞬間だけは
うさぎだった
わけだが(木亥火暴!!)。

さらに、今回の物語で衛がうさぎに惹かれ始めた理由として、うさぎの
シンに対する尽力の動機がタキとの相同性に基づくものだと、衛が認識
していたからと視るかどうかというのは、微妙な問題だと思う。本質的
なことをいえば、タキの境遇とシンのそれが似ているというのは、うさ
ぎにとっては行動の「動機」ではなく「きっかけ」にすぎない。

うさぎというキャラにはいろいろ鈍い部分もあり、円満な境遇で育った
ために、他人の欠落に対する想像力に欠けるところがある。シンの場合
でいえば、想いを寄せるタキと同じ境遇にあるということが、シンの気
持ちを思い遣る契機となっているわけで、タキと似ている「から」彼を
何とか助けたいと行動しているわけではない。

ここは人それぞれの見方だろうが、オレ的には、衛がムーン=うさぎの
同一性を知り、そのうえで自身の境遇を話したAct.12の伏線は、Act.13
でうさぎに惹かれる気持ちとはあまり呼応していないと視たい。

むしろ、相手がだれであれ懸命に人のためにできる限り尽くそうとする
うさぎ本来の美点を目の当たりにして、ミーハーで脳天気なお気楽厨房
と思っていた少女を見直し、あらためて惹かれるようになったというほ
うがしっくり来るような気がする。

シンの話を聞いて「タキシード仮面と同じ…」と呟くうさぎの内心を衛
が見抜いていたのだとすると、あまりにも衛という男があざとく見えて
しまうんだね(笑)。続く一連の筋立てを「こいつ、オレのことを想って
こんなに頑張って…」という意識で見ていたのだとすると、なんかいや
らしいでしょ?(木亥火暴!!)

恋愛の間合いで対峙する男女の一方が、あまりにも他方の気持ちを見抜
いていると、ちょっとあざとい話になっちゃうんだな。ここは、うさぎ
の行動のきっかけとしてAct.12の伏線が効いているだけで、衛の気持ち
の動きにまでその反映を見るのはちょっと行き過ぎかな、と。もう少し
衛という男は朴念仁寄りのキャラではないかと思う。

現にうさぎが「タキシード仮面と同じ…」と呟くのと、衛が「こいつも
オレと同じ…」と呟くのは、後先になっていて時差がある。衛の場合は
記憶を取り戻すことを懼れる気持ちまでワンセットで「同じ」と言って
いて、そこまで話が進んでから共感しているために時差があるので、微
妙に意味合いは違うけどね。

そして、シンのためにうさぎが張り切り、衛がお目附役として附いた時
点では、うさぎも衛もお互いを見ているわけではなくて、二人ともシン
のほうを向いている。おそらく衛の「おまえがあいつを困らせるんじゃ
ないかと思って」というのは、この時点では言葉どおりの意味だろう。

ある種、自分と同様の境遇のシンに対して、気楽な気持ちで子どもが介
入することに危惧と軽い苛立ちを覚えていたのではないかと思う。当初
は、うさぎが子どもっぽい思い附きで試行錯誤する様子を、遠くから無
関心そうに監視しているだけだ。そして、都会で自然を買おうとすれば
女子中学生の手に負えないだけの金がかかる。

結局子ども相応の小遣い銭からうさぎの手に入ったのは、一本の切り花
と絵葉書が二葉。しかし、衛はうさぎほど鈍い人間ではないし、うさぎ
と衛が知り合いになるために時間を設けてあるのだから、それこそ「満
更知らない仲でもない」程度の距離感で相手がわかる。うさぎがシンの
ために尽力する気持ちを、少なくとも興味本位や面白半分の軽い動機で
はないと見てとって、力を貸す気になった。

そして、この時点で衛が思い遣っているのは、うさぎであってシンでは
ない
。自身もさまざまに記憶を取り戻そうと試みた衛には、うさぎの尽
力がハナから徒労に終わることは目に見えている。衛はうさぎの心尽く
しが何某かシンの記憶を取り戻すよすがとなるとは、まったく信じてい
ないように思える。

「ダメでも気にするな」というのは、あくまで他人のために何かしてあ
げたいといううさぎの純粋な気持ちを信じて、その善意が現実の非情さ
に痍附くことを労っての言葉のように思える。

銀水晶探しを自身に課している衛にとって、他人の助力で喪われた記憶
が戻るということにはリアリティがない。むしろ、赤の他人のうさぎが
シンのために真心込めて奔走した事実を伝えることによって、シン自身
が自分の過去と向き合う勇気を持てるように励ますことが、彼にできる
最善だというスタンスだろう。いわば、これはきっかけづくりにすぎな
いということ。

うさぎより少し大人で、同じ悩みを抱えるがゆえにシンの境遇を理解し
やすい衛からすれば、見当外れでありながら、それゆえにいっそう純粋
さが際立つうさぎの子どもっぽい奮闘が、心底から愛おしいものに見え
ただろう。つまり、今回のうさぎの奔走は、ハナからムダになるような
幼稚なものにつくられている
ということだ。

また、うさぎの「とにかく何かしてあげたい」という善意に触発された
からこそ、本来ならうさぎに話したように「過去を思い出すのは簡単な
問題じゃない」というスタンスで、シンをそっとしておいてもよかった
のに、自分も同じ境遇であることを打ち明けて励ましている。

今回目指された「七センチ」の接近は、こういう間合いだった。

お互いがお互いを知ること、今まで知らなかったことに気附くこと。衛
はがさつで騒々しい子どもだと思っていたうさぎが、他人のために懸命
に奔走できる真っ直ぐな子だと知ったし、うさぎは失礼で無神経な男だ
と思っていた衛の思わぬ優しさと陰翳を知った。お互いの美点に気附い
たというよりも、より相互理解が進んだと視るべきだろう。

そして、このようにして七センチ距離が詰められた結果、一つの食べ物
を二人で分け合うまでの間柄に進んだ。食べ物を分かち合うということ
は、親密性の表現として非常にストレートな暗喩である。

同じものを二つ交々に食べるのではなく同じ一つのものを半分に分かっ
て食べるということは、より「同じものを食べている」という同時体験
のニュアンスが強くなる。そして、あらためていうまでもなく、物を食
べるという行為には、ときにはエロティックなニュアンスがある。

背後で修羅場が演じられているとはいえ、シンの家の門前で衛がうさぎ
を思い遣って嘘を吐き、そこへルナから急報が入って「じゃあ、私、急
ぐから…」とうさぎが去るこの場面、お互いの含羞の呼吸がいい。

別れ際にそれを惜しむ余韻が残るだけの関係に進んだことが、この芝居
でわかる。衛の「あ…ああ…」という戸惑いは、背後の騒動や負傷の痛
みに気を取られていたからというより、こういう間合いの芝居として視
たいね。

さて、こうして、うさ・まもの関係性を一渡り視てきた後は、各論のレ
ベルでもう少し。

上記のような流れは流れとして、物語の大筋の謎に関していえば、また
別の見方ができるだろう。たとえば、意図的にオミットして語ってきた
が、シンという男の謎について考えると、実はまた新たな見方が生まれ
てくる。

シンはなぜ、「花とか自然とか海とか」が好きなのか。コミックスやア
ニメをある程度観ている視聴者なら、それをいにしえの地球王国近衛の
四天王・クンツァイトの造形と絡めて解釈することも可能だろう。過去
作同様の成り行きとなるかどうかはさておき、シン=クンツァイトなら
ベリルの妖力が及ぶ前の人格と関係あることは間違いない。

…だとすると、ちょっと不思議に思わないか?

いったい、今回のエピソードのラストで、シンは「記憶を取り戻した」
のだろうか? こういう疑問が生じるのは、シンが記憶を取り戻すこと
を「そういうものが好きな自分でいられなくなるような気がして」懼れ
ていると語られているからなんだが、ダークキングダムの四天王として
覚醒することが彼にとって「記憶を取り戻す」ことになるのだろうか。

何かここに、ミスリードがあるような気がする。現にゾイサイトが何か
を「想い出した」からこそベリルが戦々恐々とするわけだし、ネフライ
トもまた何かを「想い出し」そうになった瞬間にベリルの妖術で記憶を
抑圧されている。つまり、四天王たちには「記憶の封印」という共通項
があるわけで、ダークキングダムの四天王として覚醒することは、いか
なる意味でも「記憶を取り戻した」ことにはならないということだ。

そして、これは過去作の設定だが、ダークキングダムの四天王というの
は、地球王国近衛の四天王たちを、ベリルが妖術によって召喚して宝石
を寄り代に転生させたもの、ということになっている。

だとすれば、地場衛=タキシード仮面=エンディミオン王子と、シン=
ダークキングダム四天王クンツァイト=地球王国四天王クンツァイトの
対応関係はどうなるのか。

つまり、衛が現世に転生したエンディミオン王子だとすれば、「喪われ
た記憶」という言葉には二重性があって、現世の地場衛としての来し方
の記憶という意味と、過去世のエンディミオン王子としての記憶の二つ
を指しているはずだ。

そして、本来四天王はベリルによってつくられた物だが、厳密な意味で
は衛やうさぎの「転生」とは別のあり方であるような気がする。つまり
四天王たちは記憶を抑圧され洗脳されているだけで、地球王国の四天王
当人たちというニュアンスがより強いと思うんだな。

実際にクンツァイト覚醒のシークェンスを視てみると、どうも記憶を取
り戻したというよりも、積極的にベリルの妖術が働いて洗脳が進んだよ
うに描かれている。つまり、シンにとって本来「記憶を取り戻す」とい
うことは、地球王国四天王のクンツァイトとしての記憶を指すのではな
いか。

ベリルの妖術によって苦悶するシンが、最後にうさぎのもたらした白い
花に手を伸ばして及ばず…という描き方の後、ダークキングダムのクン
ツァイトとして立つ彼は、その手で白い花弁を毟り落としながら傲然と
嗤っている。

地球王国四天王としてのクンツァイトの記憶は、結局蘇らなかったのだ
ろうか。ダークキングダムの邪悪なクンツァイトとして裏も表もなく悪
として覚醒したのだろうか。なんだかオレは、ここに仕掛けがあるよう
な気がしてならない
んだな。ベリルがクンツァイトを人間世界に放逐し
た理由、彼の起用を躊躇う理由、その辺りに鍵があるような気がする。

このクンツァイトの謎が謎として残されている限り、今回のエピソード
を固定的な視点で視ることは、それこそ予断を許さない。うさぎの努力
は本当に「ムダに終わるべく設定された幼稚なもの」として終わったの
だろうか。シンのために奔走する二人の行動は、結果として本当に二人
の接近を描くためのダシにすぎなかったのか。本当に二人の健闘も及ば
ず皮肉にもシンは邪悪な男として「記憶を取り戻して」しまったのか。

とりあえず、この辺については、現段階であれこれ考えても仕方がない
ことで、それこそ予断にすぎないだろう。

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