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Act.18 もっとがっかりだわっ!

どうもオレは、佐藤演出とは肌合いが合わないらしい。

明るい場面でハイキー気味に白く飛ばした映像が印象的な佐藤監督の絵
づくりだが、そのメリハリのためか暗い場面では若干ローキー気味で、
陰翳部の黒味を強調するような絵が目立つ。それが、どうにもこの作品
の世界観に合っていないように感じるし、十代の少女の美しい瞬間を切
り取るやり方としてベストであるとはとうてい思えない。

美奈子はファッションリーダー的なアイドルという設定なので、他の少
女たちとは違って、普段から少し派手なメイクをしている。そして、前
回のたかまるローテのときもそうだったんだが、撮りようによっては、
ローティーンの少女が派手なメイクをしている絵面が、どうにも汚く見
える
瞬間がある。

こういう機微については、佐藤監督のローキー気味の絵づくりがマイナ
スに働いたきらいがあったんではないかという気がする。ことにクロー
ズアップでは、陰翳を強調するような絵作りは、ファンデーションの粒
子感などメイクそれ自体の質感を際立たせ、稚ない顔立ちに人工的に色
を乗せていることの不自然さが印象附けられてしまう。

こういう照明の当て方は、大人の女性ならそれなりの雰囲気になるのだ
ろうが、少女の場合は「ねずみっ子ドラマ」のような畸型的な印象を与
えると思う…つか、「ねずみっ子」だれも知らんのか? ほら、宮澤寿
梨がメジャーデビューした生ダラの企画ユニットだよ(木亥火暴!!)。

また前回は、ロケーション撮影のセンスを除けば、芝居の呼吸について
そんなに不満を感じることはなかったんだが、今回については、脚本の
智慧のなさも手伝って、どこも演出上のチャームを感じるような部分は
なかった。

なによりも、前回期待したレイちゃんと美奈子のぶつかり合いが、単純
な幼児レベルの厭味の応酬
で、しかも肩を怒らせムダに大声を張り上げ
て罵り合うような芝居になっているのが耐え難かった。総じて、前回の
エピソードで「ここだけは拾い所」と思っていた部分が、脚本・演出含
めてほぼ全滅という印象を覚えた。

前回見直した美奈子の芝居も、今回は力点の置き所を見出せないかのよ
うないつもの曖昧さに逆戻り。東北人ならではの滑舌の悪さは相変わら
ずなので、単に腹から声が出るようになったことだけが、それなりに進
歩として残った程度。

公平な言い方をすれば、今回のローテは、小林靖子にとっても佐藤健光
監督にとっても不運な巡り合わせだったと思う。

外様の佐藤監督にしてみれば、初めてこの番組とがっぷり四つに組む今
回のローテで、「ライダーより難しいってことはあるめぇ」と踏んだベ
テランフリーランサーの度肝を抜くくらい、与えられた脚本が突き抜け
た出来であったら、自ずから居住まいを正していたのではないか。

しかし、どうにもこのローテの二話は、脚本が弱い。

ことに今回のエピソードでは、いつもなら調子の悪いときでも感じられ
るような、小林靖子ならではの智慧がいっさい感じられなかった。セリ
フはほぼ言葉どおりの内容を語っているにすぎず、全体の構成も、緊密
な意味連鎖によって1+1を3にも4にも膨らませるいつもの小林節の
片鱗も見られなかった。

たとえば、舞原賢三が外様監督でありながら田崎去りし後のセラムンを
背負って立つ守護神として在るのは、彼が初めて手にした脚本がAct.5
だったからなのかもしれない。あの脚本を前にして、襟を正さない演出
家は素人だ。だから、Act.3 の脚本を渡されて、のめのめとあの程度の
作物を残した高丸雅隆は(以下略)。

そして、セラムンにおける舞原賢三は、オレたちが円谷映像の諸作品や
スーパー戦隊の演出を通じて知っている舞原賢三とはまるで別人だ。そ
のエピソードを舞原賢三が演出しているというだけで、一定レベル以上
の感動が約束されている。

そして、舞原賢三は、元からこういう監督だったのではなく、こういう
監督になった
のだ。非礼を承知でいえば、フリーランサーとしての処世
のなかで、対価に見合うアウトプットレベルとしてキープしていた一線
が、軽く底上げされてしまったのだ。舞原賢三の持つ潜在力のすべてが
この番組では余すところなく発揮されている。

すでに職業人としての手業のスタイルを確立していた舞原賢三というフ
リーランサーをして、まったく違う人間にしてしまうほどに、智慧ある
物語の持つ人を打つ力は強い。

その意味で、今回ローテの脚本は、アギトの番外編や龍騎で何度も組ん
だ相手とはいえ、ライダーのような意図的に大味に仕立てられた単純な
ドラマを小林靖子の持ち味と解している相手に対して、別人のように精
緻なドラマを紡ぎ出す「本気モードの小林靖子」を印象附けるには隙が
ありすぎたと思う。

番組の映像的な基調を理解しないガサツなオサーン的センスはさておく
として、芝居の演出に関しては豊富な経験を持つ職業監督を本気にさせ
られなかったという意味では、小林脚本にも大きな責任がある。今回の
ローテの二話では、ライダーの一エピソードと選ぶところのない大味な
語り口
に堕している。

説明のための説明をルナやアルテミスにベラベラ喋らせる芸のなさにも
ゲンナリだが、先ほども触れたレイ・美奈対決の子どもの喧嘩が、二者
間の立ち位置の違いを効果的に剔抉する芝居場として描けていたら、後
半の子どもっぽい張り合いにも相応の意味が出てきていたはず。ここが
ただの口先の厭味にしかなっていないから、徹頭徹尾この二人の対立は
子どもっぽい反感に基づくじゃれ合いと規定されてしまった。

はっきりいって、レイちゃんと美奈子は、亜美ちゃんとなるちゃんより
も作品世界のなかで背負っているものが重いはずなのに、亜美・なるの
対立よりもレイ・美奈の対立のほうがチンケな小娘の口喧嘩にすぎない
というのは、どう考えても納得の行くものではない。

プリンセスなのに、随分子どもっぽい張り合い方をするのね」「負け
ず嫌いなの
」という遣り合いに至っては、あいたたたた、である。

そのまんまじゃん(木亥火暴!!)

裏も表もなく、ホントに子どもっぽい遣り取りに堕している。どれだけ
注意深くこの二人の会話に耳を済ませても、幼稚な反撥に基づく口喧嘩
以上の意味性が立ち上がってこない。

理詰めの鎧の下に熱い情熱を隠し持つ炎の戦士であるレイちゃんが、プ
リンセスの理不尽な叱責に返した一言が「おもり」という言葉に込めた
嘲笑だというのが、あまりにも底が浅い。美奈子がレイちゃんに張り合
うのが、その嘲笑に腹を立てたからだというのが負けずに浅い。

お互いの立ち位置が絶対的に相容れないから対立しているのではなく、
単にふとしたきっかけで、小娘同士の気持ちの反りが合わなくなったか
ら対立しているだけだ。美奈子がヴィーナスに変身したのも、マーズが
妖魔を追わなかったのも、ともに互いを助けるためであることが唯一の
救いではあるが、それを踏まえたとしても、ここの芝居場の段取りは決
定的に間違っている。

ヴィーナスとマーズの姿に窶し使命を巡って相争う以上、ここで対立し
ているのは、中2の小娘同士ではなく、プリンセスの影武者と戦士団中
の実力者でなくてはならないはず
ではないのか。四戦士のなかで最も強
力なリーダーシップをとれるレイちゃんと、五人のなかで最も戦いの全
貌を知り得る立場で命を削って戦う美奈子の、ある意味頂上対決となる
ダイアログがこれかよ、という失望が拭い去れない。

「プリンセス」「マーズ」と呼び合うヴィーナスVSマーズの対立が、
週をまたいだだけで、いつの間にか火野レイと愛野美奈子という二人の
等身大の少女の対立にすり替わっている
。ここには、決定的なつくり手
の「勘違い」がある。

「あと半年…か」というセリフが暗示するシリアスな宿命を背負う美奈
子と、周囲の迫害と戦いつつも理を通すことに賭けてきたレイちゃん、
この二人がヴィーナスとマーズの役割上において対立するからには、お
互いの個人的事情を知らないことで成立する、相容れない劇的な立ち位
置の違いがあるはずだ。この二人がぶつかり合うことで生起する、劇的
なドラマがあり得たはずだ。

それが、子どもの口喧嘩なのかよ。

こういう「おまえの母ちゃん出ベソ」レベルの罵り合いは、それこそラ
イダーでお腹一杯だ。

クライマックスの共闘で二人の間に何某かの理解が成立したのだとして
も、対立自体に何らの意味性もないのであれば、「なかよくなって、よ
かったね」という、みみっちい対価しか得られない。

自分を見捨ててでも妖魔を倒すべきという苛烈なヴィーナスの主張と、
見捨てられずにその場に留まったマーズの対立を描くのでも、美奈子の
抱える事情とレイちゃんが経験した仲間との交流との間に、まったく有
機的な意味連鎖を設けずに、「他人となかよくなると辛い思いをさせて
しまうから」という意味附けによって口先だけの主張としてしまったこ
とで、全体のドラマが薄っぺらなものとなったきらいは否めない。

ヴィーナスがどんな苛烈な言辞を弄しても、その意味附けのゆえに、単
なる「憎まれ口」としてしか響いてこない。しかし、ヴィーナス=美奈
子が抱えると推定される事情を考えると、ヴィーナスの主張が苛烈であ
ることには、彼女の立ち位置ならではの譲れない真実があるはずだ。

それが全部「泣いた赤鬼」レベルの「憎まれ口」だとしてしまうのであ
れば、小林靖子の作物としてこんなにもったいないことはない。どうし
て他の四戦士役者…なかんずく浜千咲辺りと比べて、女優・小松彩夏は
こうも運が悪いのか。

前回のエピソードの端々で発揮された、小松の芝居の「真実らしさ」を
視る限り、彼女にもヴィーナス=美奈子としての人生を劇的に生き得る
チャンスは等分にあったはずなのに。

娯楽番組としての完成度を抜きにいえば、Act.1516が小林靖子の目指
すリアリティの極北を一瞬垣間見せる域に達していたからには、そこで
力尽きたのだという見方もできる…にしても、惜しい。

今回の二エピソードに潜在するテーマは、一人の少女の友情に纏わる成
長物語よりも、ある意味では重いものであったはずだ。それは、作家の
興味の在処としてこれよりもあれに入れ込めたから、というには、客観
的なシリーズ構成上の軽重が決しすぎている。

ここまでのエピソード群を独力で構築してきた小林靖子の力量には敬服
するが、それでもこのローテの二話が空前絶後の低調ぶりだったという
印象は拭えない。番組の世界観を理解していない佐藤監督に対しても、
不親切な邂逅となったのではなかったか。

果たされた宿題かと思わせたまこちゃんの態度も「まったく意外すぎだ
よ、嫌ってると思ってたのに」という智慧のないセリフによって台無し
になっている…つか、気附けよ(木亥火暴!!)。

たしかにまこちゃんは、これまでの扱われ方の不遇さもあって、うさぎ
と衛が直接相対している場面に遭遇する機会がほとんどなかった。しか
し、その少ない機会の一つである登場編直後のAct.7 で見せた勘の鋭い
ところからすれば、日頃うさぎが口にする衛に関する噂話の口調から、
薄々うさぎの気持ちに…そうだな、本人がそれと意識する以前から感附
いていても不思議はない。

たとえばまこちゃんにとって馴染みの薄い相手である衛を好きだという
のが「意外だ」というのは不自然でなくても、そのあとに「嫌ってると
思ってたのに」と続けている以上、「嫌ってる」と判断するからには、
衛についての話をうさぎ自身の口から頻繁に聞いているはずだと考えら
れるだろう。

とすれば、ここ数話の流れのなかで、タキとの絡みについては「禁止」
の件があるから黙っていただろうし、Act.13の衛との「デート」につい
ても差し障りがあるから内緒にしていたとしても、うさぎの性格からし
て衛の話が普段の会話の端々に出ただろうと考えるのが自然だし、その
口調は最初の頃のものとは大分違ったニュアンスになっていたはずだ。

あるいは、ギリギリここ数話の接近を受けて衛の話をしないようになっ
ていたとしても、今まで散々悪口を言っていた衛の話をまったくしなく
なったのは不自然だ。いずれにせよ、衛に関してうさぎの言動に不審な
点が出てくるわけだ。

こういうふうに具体的に想定すると、「またおまえの妄想か」というこ
とになるが、大雑把にいって、脇の甘いうさぎの性格なら、男を好きに
なったらアカラサマに態度に表れるだろうと考えるのが自然だし、まこ
ちゃんならそれに気附くだろうと考えるのもまた自然だ。

いや、最低限、気附かなくたっていいんだけれど、その「まこちゃんは
気附かなった」とする選択が自然なものと受け入れ得るか、そうでなけ
ればならない他の要素との関連性はあるのか、最終的には、まこちゃん
を描写するうえでプラスなのかマイナスなのか、という話だ。

それが、オレの感覚ではすべて「NO」だということなんだな。この選
択は、それ単体としては消極的な意味に留まるとはいえ、あらゆる意味
で間違った選択だったと思う。大局的な見地では、まこちゃんの人物像
を揺らがせる大きな要素としてマイナスに機能するのだから。

しかも、タキへの接近を「禁止」した理由附けとして、せっかく「哀し
い思いをするから」という「まこちゃんらしさ」を用意したのに、軽率
に衛への接近を焚き附けるという流れによって、その智慧もまた台無し
になっている。

たとえば「とにかく泥棒ってのがだめなんだ」というセリフが効いてく
るのは、まこちゃんに、泥棒相手の恋愛がどんな結末を招くか、どのよ
うな結果に終わるかをまざまざと実感し得る想像力や類似の経験がある
ことが前提となるのであって、だれでも言いそうな単なる一般論にすぎ
ないのなら、薄っぺらなお節介にしかならない。

まこちゃんはお節介ではあっても、これほど度々強調して他人への禁止
の容喙を繰り返すからには、薄っぺらな意味でだけはなかったはずだ。
だとすれば、彼女がいるとわかっている相手に対して、「どの程度の間
柄かわからない」時点でぶつかってみろと焚き附けるのは、この種の想
像力や経験が欠落した、それこそ薄っぺらなお節介としか思えない。

その場では焚き附けることなく黙っていて、あとで衛と陽菜の身辺を調
査して、その結果如何で考えるというのならまだ話はわかるのだが、最
初に背中を押しておいて、いざ調査してみたら全然無理筋だったんで言
いあぐねてしまう、という筋道なのが、どうにも薄っぺらに見える。

もの凄くリアルなことをいえば、たとえば衛と陽菜の間にすでに子ども
が生まれていたとしたら、いったいどうするつもりだったんだ。そこま
では行かなくとも、この二人が今現在生活を共にしているとしたらどう
するんだ。泥棒でさえなければ、片恋をしても痍附かないなんてことは
あり得ないんだ。

番組の基調を無視した極端なたとえだと思われるかもしれないが、「オ
レは陽菜を裏切れない」というくらい、露骨に男女の愛欲の三角関係
してこの三者関係を規定してしまった以上、ステディな女性がいる男性
に同じ土俵で勝負を挑む場合、どんなに生臭い現実に打ちのめされても
文句は言えないものだ。

そして男と女の関係を規定する現実的な事情に対して、親掛かりの女子
中学生が、その関係を変更し得るような実効的なアクションをとること
など、まずもって不可能だ。

考えてもみろ、親の金で親の家の子として飯を喰わせてもらっている女
子中学生が、たとえば今現在同棲している男女を別れさせて、男を横取
りできると思うか。たとえばこの二人の間に子どもがいたとしたら、そ
の子どもを女に圧し附けて、別れた男と幸せな恋をすることが、本当に
できると思うのか。

こういう事情のゆえに恋が破れることが、たとえば相手が泥棒だから最
終的に官憲に捕らわれることで悲劇的な結末を迎えるという想像より、
どの程度マシだというのか。断るまでもないが、上記の例は、衛と陽菜
の年頃の男女の現実にはいくらもある、ありふれた想像にすぎない。

現今のリアリティでいえば、高校生にもなる男女の間で「婚約者みたい
なもの」と規定されている関係、それは、親公認で性的な交渉が視野に
入ってしまう
ということだ。この生臭い男女関係の最中に、こういうリ
アリティレベルの作品において、中学生の少女が「好きだ」という気持
ちだけをよすがに割り込むことがいかに難しいか、それは今さらくだく
だしく説明するまでもないだろう。

それこそ、高校生の男が義務教育の女子中学生を相手にガチの恋愛をす
ることの生臭さが前面に出てしまう。

泥棒への恋が招く悲劇的結末に想像が及ぶのであれば、それ以前にこう
いうごく当たり前の男女の機微に想像が及んで然るべきだ。なぜなら、
まこちゃんがこういう生臭い性的な問題に関して疎いとはとうてい思え
ないからだな。

たとえ、恋する気持ちが初心な少女のナイーヴな妄想を許容するとして
も、失恋に至るプロセスは現実そのものでなければならない。まこちゃ
んの男女の機微に聡い部分が、豊富な失恋経験に培われた洞察力の賜物
であるとするならば、本来そこに性的な問題への想像力の欠如など入り
込む余地などはない。

性的な問題も含めた身も蓋もない生臭い現実に打ちのめされた経験を抜
きに、この種の洞察力が獲得できるものではないからだ。それが表面化
しないのは、単に作品のカラーやリアリティのレベルとして、それをあ
からさまに語ることが憚られるという実際的な作劇の都合でしかない。

だから、泥棒相手の恋は「禁止」するけれど、彼女のいる相手への片恋
なら無条件に応援するというのは、人物描写として非常に矛盾した話
んだな。女児を相手の朝方の番組だから、正面切って言わないだけの話
で、泥棒相手の恋が辛い結末を迎えると想像できる少女が、彼女のいる
年上の男性への片恋を無責任に煽れるはずがないんだ。

他の部分でいかに鈍いところを見せようと、昼メロ演出で情念ドロドロ
の男女の愛欲の機微を描いてきた佐藤監督が、そこの矛盾に気附かない
わけがない。「所詮女児向け番組なんてこの程度の語り口」という認識
につながったとしても、あながち責めるわけにもいくまい。

蒸し返しになるけれど、こうしたまこちゃん描写の腰の決まらなさ加減
の原因は、Act.9 でまこちゃんを便利に使ってタキへの接近を禁止させ
てしまったこと、すべてはそこに尽きるんだな。

Act.9 の作劇において、レイちゃんと亜美ちゃんの交流を織り交ぜ、そ
のツケを負う形でまこちゃんがうさぎを叱る羽目になった。さらにその
ツケがまこちゃんの人物造形に回っているわけで、レイ・亜美の交流は
布石としてAct.16のドラマに活きているわけだが、まこちゃんにとって
は気の毒な成り行きだったとしか言い様がない。

なんとか挽回しようとしたのが前回の「哀しい思いをするから」という
セリフだったのに、衛への接近を焚き附けるというアクションが、その
方向性とはまったく逆なのが矛盾として表れてしまうわけだ。

たしかに、衛への接近を応援すること自体は、気持ちの問題を第一に考
えるまこちゃん本来の人物像と矛盾しないと思う。しかし、それは直前
の「哀しい思いをするから」という「泥棒は泥棒」への手当とは正面か
らコンフリクトしてしまう。

つまり、「哀しい思いをするから」という軌道修正自体が、本来的に目
指されるべきまこちゃん像とは相容れない、場当たり的な辻褄合わせに
すぎないという意味になってしまうんだな。

要するに、「その場でレイちゃんと同格でうさぎを叱れるのがまこちゃ
んしかいなかったから禁止させた」という、本来的な人物像を歪めかね
ない場当たり的な作劇処理のツケを、やっぱり本来的な人物像を歪めか
ねない場当たり的なセリフで処理してしまったということになる。

オレの意見としては、泥棒であることと彼女がいることは、まこちゃん
的な恋愛観においては、恋愛の障碍として等価だと思うんだ。相手が犯
罪者だから諦めるというのと、すでに恋人がいるから諦めるというのと
では、気持ちの大切さには何の変わりもない。

この両者の間に何かの違いがあるとしたら、相手に恋人がいてふられる
のは気持ちが痍附くだけだが、相手が犯罪者であった場合は、失恋しよ
うが得恋しようが現実的な不都合があって、辛い思いをするのがわかり
きっているということだ。

もちろん、現実的なことをいえば、社会倫理の観点も含めてこの両者の
違いは大きなものだ。だから、「哀しい思いをするから」という理由で
まこちゃんがタキへの接近を止めるだけなら話はわかる。

しかし、まこちゃんが「後悔しないように」というような意味合いで恋
人がいることがわかっている相手への片恋を応援するのは、現実的な問
題ではなく気持ちの問題を重く視ていることになる。そして、気持ちの
次元で軽重が意味附けられている以上、泥棒と彼女持ちの間には、恋愛
の障碍としては何の差異もないはずだ。

犯罪者だと現実的な不都合がシャレにならなすぎだとか、彼女といって
もどの程度の仲だかわかんねーから、ひょっとして横取りできるんじゃ
ねーか、という「程度問題」になるのであれば、まこちゃんの物事の判
断基準が曖昧に過ぎ、場当たり的な現実感覚に基づいて動くというだけ
で、物語の登場人物としての行動原理が確立していない。

また、考え方の筋道としても、それこそ生臭すぎる。横取りできるかで
きないか、犯罪者の恋人として後ろ指をさされるか否か、そんなことを
プライオリティとするのは、さすがに下世話にすぎるだろう。それでは
まるで、Act.8 のコメントで、レイちゃんのキャラ類型に関して「口う
るさい教育ママ」と表現したキャラこそが、実写版のまこちゃんなのだ
ということになってしまう。

引いては、まこちゃんの言う「後悔しないように」というのは、現実的
な女子中学生の日常のレベルを超えない範疇でしか、意味を持たない言
葉なのかということにもなる。「中学生らしい節度」が大枠として程度
の問題を規定するのなら、それもまた口うるさい教育ママの論理だ。

泥棒を愛する気持ちを諦めても、同じくらい「後悔」はするのだし、実
際に添い遂げられなくても構わないから、気持ちに嘘を吐くなと言うの
なら、相手が泥棒だからといって、それが何ほどの障碍だというのか。
犯罪者相手の恋愛に、彼女持ちに対する横恋慕以上の光明がないとする
のは、さすがにいろんな意味でまずいだろう。

もちろん、小林靖子がこのディレンマを解消できずに困っているのは、
わかりきった話だ。

しかし、Act.8 のコメントで言明したように、オレは小林靖子の目指す
地平を基点にして、そのレベルでしか意見を言わないんだ。この番組に
ついてのコメンタリーはそうするのだと決めたんだから仕方がない。そ
う決めておきながら、彼女が困ってるときだけ、井上や武上のレベルで
物を言ったんでは意味がないだろう(木亥火暴!!)。

たとえばオレは、Act.1516のレベルを達成したうえで、娯楽作品とし
ての結構をぶち毀して「失敗」する分には、積極的に評価したい。あれ
が結果的に鈴村さよならローテになるのだとしても、小林靖子も鈴村展
弘もギリギリの仕事をしたと思う。あのローテの二話は、もう、良いと
か悪いとか、そういう単純な二分法で評価すべきではない
だろう。

しかし、今回のローテにおけるまこちゃんの扱いは、ポジティブな方向
で智慧が機能していない
。そこがいちばんの問題点だと思う。

今回ローテでこういう方向性の手当が為されたということは、小林靖子
自身の認識としてもAct.9 のまこちゃんのアティテュードを「失敗」と
視ていると思うが、そのフォローとして、たとえばAct.9 の失敗を失敗
のままに放置して、本来的なまこちゃん像の描写に専念するか、人物像
を軌道修正してでも整合性に拘るかの選択肢があったと思う。

そこは、智慧の範疇の事柄だ。

しかし、今回ローテの二話の描き方では、そのどちらを選択するのでも
なく、二者択一の間で揺れてどちらの方向性の芽も潰してしまった。

一旦は軌道修正しかけていながら、その方向性とは矛盾する人物像とし
て描写を受けているので、過去の失敗があらためて再現され、強調され
たような違和感を感じる。

小林靖子の宿題は、さらに増えたんだと思うんだな。

こういうふうに、エピソード構成要素としての重要性のバランスを無視
してまで、まこちゃんの人物描写に拘るのは、過去の宿題のフォローと
そのぶち壊しが、ローテの二話で立て続けに起こったというのが、今回
の脚本の調子の悪さを示す端的な例だと思ったからだ。

いったい小林靖子は木野まことという人物をどういうふうに描きたいの
か、引いてはどのような人物として視ているのか、これが連続する二本
のストーリーのなかで劇しく矛盾していると思えたんだな。

今回のレイ・美奈対決が、子どもの喧嘩レベルに堕してしまっているの
は、ストーリー構成上の失敗か、ダイアログの失敗であって、一本のエ
ピソードを仕立てるうえでの作為上の失敗だ。それでこの二人の人物像
が根本から揺らぐまでのことではない。しかし、まこちゃんの人物像の
この揺らぎは、これまでのシリーズの連続上で視た場合、異様に突出し
て気持ちが悪い
んだな。

レイちゃんはこういうことをしない人間だとか、美奈子はこうだろうと
いうのは、けっこうオレは自信を持って断言できるんだが、まこちゃん
がどういう行動原理に則って動く人間で、どういうことを禁忌とする人
間なのか、未だにオレにはサッパリ掴めない。掴めたと思ったら、あっ
さり裏切られたり、受け流されたりのくり返しで、ちょっとウンザリし
ている部分もある。

ここに意識的でないとしたら、まさしく木野まことというキャラクター
は小林靖子の盲点なのだろうし、亜美ちゃんに続いてレイちゃんのキャ
ラクターまで飛躍的に発展し、美奈子の人物像もなんとか回収の目途が
立ってきた現状で、いちばんの問題点となるのは、まこちゃんの描き方
だろうと思う。

だから、なんでもいいから、いい加減、作者の旗幟を鮮明にしてほしい
んだな。まったく本筋から外れたまこちゃんの描き方について、ここま
で長々と語ってきたのは、オレがそこに苛立っているからだ。

今の時点では、美奈子ならともかく、まこちゃんの人物像を謎のままに
放置する作劇上の必要などないのだし、亜美ちゃんやレイちゃんと比較
して、まこちゃんはまだ、自身のドラマを紡ぎ出す出発点にすら立って
いないというのが、オレの感じ方だ。

まあ、そんなことはオレがくどくどというまでもなく、小林靖子本人が
いちばん感じているはずだし、期待を裏切らない律儀ぶりには定評のあ
る彼女が、この失地をどう挽回してくれるのか。

それが実現したとして、ここまでのことを言ったオレが土下座して謝り
たくなるような智慧をその暁に見せてくれたとしたら、これに優る喜び
はない。他者に対する批判が見当違いであったことを、驚きとともに思
い知らせてほしいと、オレは心待ちにしているんだ。

智慧ある物語の持つ人を打つ力は、それほど強いんだ。

そういうわけだから、今回のエピソードに関して、せっかくの五戦士揃
い踏みの名乗りがクレーン撮影なのはどうなんだとか、三戦士の同時攻
撃の狙いが外れたのはどういう意味なんだとか、陽菜のセリフのリズム
だけ妙にイマドキの女の子なのはどうなんだとか、「人を好きになるこ
とって、いいことなんだよね」とか、そんなことは全部どうでもいい。

そんな細々したことを逐一指摘して検証するには、今回の作物はお粗末
にすぎ、個々の要素はまったく噛み合っていない。このローテの二エピ
ソードを活かすには、ここで描かれた内容を要素のレベルにバラして、
今後のエピソードでケツを持っていく
しかない。

今後のエピソードでそれらの要素があらためて活きてくるようなら、そ
のときあらためてじっくり触れることにさせていただく。

——疲れているのだとしたら、ゆっくり休んでくれ。

そう伝えたいところだ。

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