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Act.19-1 王様の馬も家来も総がかり

前回のエピソードについては、佐藤演出の違和感と小林脚本の不調が重
なって「ちょっと辛口」な論旨に終始したが、脚本が本来の調子を取り
戻した今回のエピソードでは、奇跡的にたかまる演出がドラマの出来を
妨げない程度のレベルをキープしていた。

…つか、やっぱこれは組のアンサンブルだな。

たかまるの本質である「丸投げ体質」(断言)が極度に発揮された結果
として、「何もしない」監督でも現状のチームなら脚本が優れてさえい
れば一定のレベルを確保できることが証明された(木亥火暴!!)。

その辺については、東映公式サイトに興味深い情報が載っている。

今回から上赤カメラマンに代わって、これまで彼の許で撮影助手を務め
ていた川口滋久に撮影がバトンタッチされたようで、川口にとってはこ
れがカメラマンデビュー。デビューに当たっては、上赤から川口へ厳し
い「特訓」を授けたようだし、新人とはいえ、これまで助手として番組
に就いてきて作品世界は熟知している。

また、それだけではなく、今回の撮影では、上赤はもとより今は新番組
のデカレンの撮影に入っている松村まで川口の初現場を見守っていたそ
うだし、さらには「エリート若手照明マン」の斗沢秀が現場復帰して、
特撮カットの画角の切り方まで指示していたらしい。まあ、外様監督が
増える流れのなかで、ベタ附きのスタッフに特撮に強い奴がいるのは心
強いけどな。

ちなみに、これまでは、クレジットが「撮影」となっていたので「撮影
監督」という呼び方をしてきたが、日本で純粋な意味での撮影監督シス
テムが成立しているはずはないし、公式サイトでは「カメラマン」とい
う呼称となっているので、今後はそちらにしたがうことにする。

日本式のカメラマンということになると、照明マンはカメラマンの下位
者ではなく同格の別セクションとなるので、そこの人材との関係性が重
要になってくる。今回の場合、サイトの書きぶりだと、将来を嘱望され
ている照明マンの斗沢も、これがデビューとなる川口カメラマンと同等
の発言力を持っているように思える。

照明マンが絵の切り方をカメラマンに指示するというのは、外部の人間
から視た場合、ちょっと不自然に思えるが、撮影と照明は切っても切れ
ない間柄だし、何よりも、こういう人間関係の釣り合いで現場の体制が
決まってしまう辺りが日本的な現場事情なんだろうな。

また、一般的に日本のメジャー製作会社においては、照明マンというの
はけっこう強面のセクションでとおっている。生意気な俳優の頭上から
ライトを落としてびびらせる、それがメジャー五社の間でちょっとずつ
落とし方が違うという、有名なジョークもあるくらいだ。

今回のエピソードの場合、カメラマン自身が番組のカラーを熟知してい
るうえに、現場には歴代カメラマンが二人も睨みを効かせており、番組
のカラーを知るばかりでなくカメラマンにアングルを提案するくらい現
場を仕切れる強面の照明マンが就いていたということになる。

これってスタッフィングとしては、ものすごい布陣だよな。東映サイド
のたかまるへの不信感が露骨に表れている「鉄壁のたかまるシフト」に
見えるのは、決して考えすぎではないだろう(木亥火暴!!)。

多分、上赤・松村両人は、直接川口個人の仕事ぶりが心配で立ち会った
のではなく、デビューがたかまるローテである新人カメラマンへの労り
と、作品レベルの防衛が主動機だったんだと思うぞ(木亥火暴!!)。

まあ、一本立ちの弟子を見守る筋道として、師匠筋のカメラマンが現場
で弟子の仕事に口出しをするわけはないんだが、外様監督のたかまるに
与える威圧感は相当のものがあっただろう。

顧みすれば、たかまるはこの両人とローテ一回ずつ組んでいるわけで、
両人にはたかまるのたかまるによるたかまるチックなアレの部分は身に
染みてわかっている(木亥火暴!!)。

あくまで邪推になるが、この両ローテともに、カメラマンとの協業はス
ムーズではなかっただろうし、ぶつかる場面も多々あっただろう。片や
パイロット監督の田崎とともに番組のルックを確立した大ベテラン、片
や中盤の力作群を意欲的なテクニックで支えてきた功労者、その二人が
自分たちの組織の新戦力となる若手の門出の場面で、一癖も二癖もある
無能監督に対して「下手打ったらただおかねぇぞ」という四つの眼で睨
みを効かせているのである。

これは、怖い(木亥火暴!!)。

表面的に笑っていたとしても、目が怖い(木亥火暴!!)。

まあ、そんな細かいことに神経が行き届くたかまるではないはずだが、
たかまるがどうでも、現場の若手スタッフには、両カメラマンの顔色が
怖かったはずだ。

現場でいちばん怖いのは、具体的に下っ端を追い回すカメラマンだし、
ついこの間までこの現場を仕切っていた、現カメラマンの師匠筋と大ベ
テランが、雁首揃えて無言で作業を見守っているのである。なまじいに
口出ししてくれればまだしも、黙って睨んでいられたのでは、下っ端が
必要以上に気を遣うしかない
じゃないか(木亥火暴!!)。

たかまるが引いたのかスタッフが気を回して立ち回ったのか、それは現
場を知る人間にしかわからないことだが、今回のエピソードに例によっ
て例の如しのたかまるチックな部分が見られなかったのは、こうした現
場の事情と無関係なはずはない。

たかまるを黙ってディレクターチェアに座らせておいて、奴には何を言
う隙も与えずに淡々と現場が進行していったのではないだろうか。現場
で交わされた言葉が常に「監督、これでOKですか?」という事後確認
の一言だけだったとしても、オレは驚かないぞ。

ただ、たとえば陽菜と衛に顔を合わせる場面でうさぎがお提げ髪を整え
たり、大地くんに誘われたひかりちゃんが頬の涙を両掌で拭ったりする
芝居を附けたのは、たかまるなんじゃないかと視てあげるのが、公平だ
ろうとは思う。ベタではあるが、そういう小芝居の部分に拘りがある監
督なんだろうとは思うな。

まあ、たとえ実際はそうじゃなくても、そう視てあげるのが公平で後味
も悪くないよね、というレベルの話だが。そのくらいの自分の意見を通
せなかったら、監督として現場の上座に座っている意味がまったくない
しな。強力なアンサンブルが脚本を的確に映像化していく過程で、ほん
のちょっぴり、たかまるが自分の趣味を通したというのが、実際のとこ
ろだったんではないだろうか。

つまり、これは八〇年代くらいに流行した異業種監督の現場に近い。た
とえば椎名桜子が「家族輪舞曲」の現場にほとんどいなかったというの
は、嘘か本当か知らないが巷間に流布した定説ではある。むしろド素人
のくせに「オレは監督様だぞ」という態度で一々見当違いな指示を出す
異業種監督の作品のほうが、素人考えの拙さもさりながら、現場の反感
と非協力によって惨憺たる結果に終わるものだ。

北野武辺りは頭が良いから、ブレーンに良い組を用意してもらって、現
場では差し出がましいことは言わず、要所要所でスタッフを唸らせる映
像的アイディアを提案することで、異業種監督という立ち位置から押し
も押されもせぬ専業監督となり得たのだろう。

極端なことをいえば、監督という専業職域がなくても映像作品は成立す
る。今回の現場で斗沢が画角の切り方に口を出したように、映画撮影の
実際においては、演出にも目の利くカメラマンが、役者に芝居を附けて
しまう場面も往々にしてあるものだ。「演出もできるのが当たり前」と
断言するカメラマンすらいる。

映像作品にまつわる職能集団の単位である「組」においては、何かをで
きる人間がその何かをやるのであって、照明マンだから、カメラマンだ
から、監督だからという職域の縛りは絶対強固なものではない。この辺
の棲み分けは普通一般の分業よりももっとダイナミックなものだろう。

そうした「組」の現実において、専業監督の専門的職能を奈辺に求める
かというのは非常に揺らぎの多い問題だ。つまり、実際問題として、映
画制作に関する最も高度な専門的職能を持つカメラマンが、撮影される
役者に対して演出まで附けられるとしたら、理論的には専業の映画監督
は組に必要不可欠な職掌ではない
とさえいえるのだ。

なぜなら、徹頭徹尾テクニカルな問題であるフィルムメイキング=映像
撮影の実際において、高度な技術的知識や精緻な専門的スキルが「必ず
しも要求されない」職域は、専業監督だけだからだ。そして、人間の職
業的営みである以上、「必ずしも要求されない」事項に対する個々人の
アティテュードは、単に職業的倫理観やスタイルの問題でしかないとさ
えいえる。

さらには、現場で下々の追い回しにまで具体的に指示出しをするのは、
実際には監督ではない。監督や会社によってスタイルは違うだろうが、
それぞれの職域の長が自身の下位者に指示を出し、階層にしたがって順
送りの上意下達で隅々に指示が回っていくのが常道である。

監督が現場で行う業務は、事前に自分が想い描いたとおりに撮影が進ん
でいるかどうか、これでOKなのか、NGだとすればどうするのかにつ
いて判断を下し、それぞれの職域の責任者に指示や相談を行うことだ。
こうした実際においては、監督という同じ名前で呼ばれる職域であろう
とも、丸投げから全面介入まで広い振れ幅があって当然だ。

だから映画監督という職業は、世間一般でそう思われているほどには、
多くの作業を行う必要のあるポジションではない。個々の職域の長たち
と諮って具体的に現場を仕切るのが一般的だというだけの話で、極端な
ことをいえば、優秀なカメラマンや優秀なテクニカルスタッフさえいれ
ば、一本の映像作品は成立する。

概念レベルでいえば、監督という職域に絶対的に求められる作業とは、
一本の映像作品に対して統一的な意味性に基づく一義的な視点を提供す
ることだ。これがたとえば小説という文芸ジャンルであれば、監督に当
たるのが作業者自身であるという自明性があるが、映像作品製作は多く
の人間の協業である。

多くの人間がてんでバラバラに抱いている作品に関する観念を統一し、
監督の個人名に象徴される一義的な視点に一本化するのが、監督に求め
られる絶対的な作業だろう。だから、具体的に現場で何をするのか、何
を分担するのか、というのは、その実践にまつわる決め事や手続の問題
にすぎないという言い方も可能なのだ。

無論、「監督」という呼称が語るとおり、職掌成立の淵源を遡れば、少
なくとも日本映画についていえば、その実践の部分、追い回しの現場作
業の部分が主であったという言い方もできるだろう。

映画監督というのは要するに映画製作に関する「現場監督」だ…いや、
だった。今や、なべおさみのキントトコントを知る人間も少ないだろう
が、映画俳優が現場の帝王だった時代には、まさしく映画監督の現場に
おけるポジションは一介の現場監督にすぎなかった。そのフィルムには
紛れようもなく一人の人間の視点が顕れていようとも、その権限が限定
されていることによって、その職域的特性は萌芽の段階に留まった。

さらに遡って、歌舞伎の御存知物に題材を採った芝居の映画化が一般的
であり、映画監督と役者に共有されている暗黙の共同イメージに基づい
てフィルムがつくられ、さらに実際の上映の場面で、映画の細部にまつ
わる最終的な意味性を個々のスター活弁が決定していた無声映画の時代
においては、映画は映画監督一個人の作物であるとすらいえなかった。

しかし、映画を監督名で選ぶのが一般化した現在、映画監督というのは
名前の持つクォリティ面への信頼性や文芸的な側面に関する嗜好、つま
ブランド力で勝負をする商売だ。

その在り方として、たとえば現場全体を熟知して具体的に仕切るやり方
もあるだろうが、大筋は組のアンサンブルで鳴らしておいて、要所要所
で自分のソロをとるというやり方もアリだ。最終的に作品の責任を負う
のが監督の個人名だというだけなのだから、自分の組がほぼ自分の手業
のとおりに動く自信があれば、本人が現場に出向く必要すらない。

実際、コダイを興してからの実相寺は現場に出ないことも多いらしいけ
れど、コダイで撮ると実相寺の絵になる。これが端的な例だろう。服部
光則をはじめとして、問わず語らずして最小限のコミュニケーションで
実相寺として撮れるテクニカルスタッフが集結しているのが、実相寺的
なるものを体現するコダイの強みだ。コダイが消滅すれば、真正に実相
寺的なるものもこの世から消滅する。

誤解を懼れずに繰り返すが、映画監督とは映画撮影の現場に絶対不可欠
な専業職域ではない。専業職域として絶対不可欠であることを、個々の
監督が常に現場での実践をとおして内外に証明し続ける義務を課せられ
たスリリングな職掌
なのだ。原理的には、それを実現するためにどのよ
うな方法・手段を用いてもかまわない。

そして、それを証明できなかった「監督という肩書を持つ職業人」は、
いともたやすく実質的な権力を簒奪されてしまう。「監督様」の肩書そ
れ自体が力を持つと勘違いして大失敗する異業種監督の事情は、素人の
哀しさで、こういう原理的な構造に無自覚であるゆえだ。

映画監督が現場の王様であることには、それなりの理由がある。しかし
王様の替わりを務めることができる人間など、有能な現場にはいくらで
もいるものだ。

たしかに映画監督は現場の王様だが、首を切られた王様もいる。

三谷幸喜脚本のテレビドラマ、「王様のレストラン」の名セリフを籍り
れば、そういうことになる。王制と一口に言っても、実質的権力が稠密
に集権した絶対専制君主制から、その権力が名ばかりの極端な立憲君主
制までの、無限階調の振れ幅があり得る。

王が政を執らなくても王制は成立するのだ。ご乱心の狂王が押し込めの
憂き目に遭い、名ばかりの王として祭り上げられながら、実際の政務を
有能な内閣と官僚が執るような事態は、どんな現場にでも起こり得る。

セラムンに話を戻すと、たかまるの名を目にすることなど、たかまるが
実際に手を動かすことに比べれば、何ほども耐えやすい(木亥火暴!!)。
まだ契約が残っているのだとすれば、大筋の撮影はスタッフたちに任せ
て、自分の拘りどころでのみ意見を出すという形にしてくれれば、オレ
だって個人的な怨嗟などないのだから、高丸雅隆が監督であっても何の
問題もない。

さっきの例でいえば、うさぎが髪を整える芝居はベタに過ぎてちょっと
クサかったが、ひかりちゃんが両手の掌でつるっと涙を拭う芝居は、ブ
サイコに撮れているにも関わらずいい芝居だと思った。専門家としての
見識を披瀝させていただくと、幼女の色気ってのは、こういう形の仕草
に表れるもんだと思う。

何の専門家なのかを問うのは、この際無意味だがな(木亥火暴!!)。

一般的に子どもに泣きの芝居をさせると、片手殴りにぐしぐしと拭うも
のだが、こういうさりげない拭い方には、子どもなりの女の気持ちの部
分や、気持ちを替えようとする間合いがリアルに滲み出てくるわけだ。

こういうジャンルの番組でそういう芝居にあうと、予期せざる驚きを覚
える。それがまた、「こういうジャンルの番組」の枠を突き抜けた独特
のリアリティを突き附けるこの番組のカラーにマッチして、プラスに働
いていると思う。

ミニマルな形ではあるが、こういう小ネタの部分も一種のチャームでは
ある。恐らくはたかまるのネタ出しであるにも関わらずチャームを感じ
られたというのは、本人の技倆やセンスはさておくとしても、現場の在
り方として、いい方向に向かっているのだと信じたい。

ともあれ、ベテランのはずの佐藤ローテの二話があれだけ違和感バリバ
リだったわけだから、わかっていない人間が積極的に何かをすることよ
りも、とりあえずこれまでの経験で番組のカラーを体感している人間が
消極的に関わることのほうが、結果的に被害が少ないという、あまりお
もしろくない結論に達してしまったわけだな(木亥火暴!!)。

さて、脚本の描き方もあるのだろうが、このひかりちゃん役の子役は、
顔立ちが平板で無表情な割には大人っぽい表情芝居をしていて、いわゆ
る「天才子役」的な芝居の型なのだが、幼女のくせにマセていて耳年増
という、一歩間違うと小憎らしいキャラを演じていても厭味がない。

…いや、マセガキにアレルギーのある向きには十分小憎らしいのだろう
けれど、少なくともオレは可愛いと思ったし、子どもなりの色気がある
と思った。近年の特撮番組に出たマセガキキャラとしては、いい柄の子
役を引き当てたといえるだろう。正直、井上特撮で好んで出すようなイ
ヤな感じのマセガキ
には食傷していたんでな(木亥火暴!!)。

まあ、これはホントに脚本段階での人物像がいいからなんだろうな。た
とえば、うさぎが手編みのマフラーのことを口にしたとき、いきなり手
編みを渡すのは重い女だと思われるというようなことを、「テレビで観
た」と正直に言っている辺りとかね。

小憎らしいマセガキなら、そういう世間知をあたかも自分の見識や経験
値であるかのように賢しらげに言うが、テレビで観て「よくわからない
けど、そういうものなんだ」と思ったと正直に表すのは、マセ方の表現
として抑制が効いている。

また、大地くんの自宅へ向かう道すがら、うさぎがひかりちゃんを陽菜
に負けないくらい可愛いと褒めると、ひかりちゃんのほうでも「陽菜さ
んに負けないくらい」可愛いとうさぎを褒め返す。

具体的なセリフもないし、それを押さえるカットもないわけだが、この
場面を視る限り、ひかりちゃんのほうでは、うさぎの衛に対する想いに
薄々気附いているような節がある。流れで褒め返したにしては、陽菜を
引き合いに出すのは少し意味深すぎるからな。ここには、同じ女をライ
バルとする女同士の共感のような機微
が流れている。

こうした脚本の機微を受けて、子役の柄に伴う厭味のない芝居で、そう
したデリケートな部分が表現されていると思う。これが見るからに糞生
意気で勝ち気そうなマセガキだったら、陽菜に対する分不相応な張り合
いというニュアンスが強調されすぎて、大地くんの自宅前で涙ぐんでし
まった場面に「ざまぁみろ」的なイヤなカタルシスが生じる。それは井
上敏樹的な雑駁な情感処理だ。

そうではなくて、元々控えめだが一途な少女が、強い想いを力にして勝
ち目のない相手に挑んだが、一歩を先んじられてショックを受け、せっ
かく奮い立たせた勇気が総崩れになるという成り行きに、素直にひかり
ちゃんの側に共感できるような芝居となっている。

そして、「天才子役さん」に場を浚われないように、というのでもない
だろうが、今回は現場のアンサンブルが勝っている撮影だっただけに、
個々の役者がこれまで掴んできた役柄がうまく機能していた。よしんば
たかまるが平板な解釈に基づいて浅い指示を出したのだとしても、現状
の彼女たちには、それを何倍にも膨らませて実践できる蓄積がある。

亜美ちゃんのハマチについては最早多言を費やす必要はないだろうし、
レイちゃんの北川景子なども、雑誌のインタビューで自ら語っていたこ
とによると、監督の附けた芝居に逆らうほどに役柄に入り込んでいる
けだし、主役の重責に応えて危なげのない沢井の芝居は、実写版セラム
ンでも「座長」の称号を与えたいくらいだ(木亥火暴!!)。

佐藤ローテへのコメントで難を言ったまこちゃんでさえ、キャラクター
としての統一性を確保しているのは安座間美優という少女の柄、つまり
個人の肉体性のみであって、「まこ美優」というか「美優まこ」という
人物が番組のなかに生きている。まず現実として物語中に存在している
キャラクターを、つくり手がどう動かしてよいやら決しかねているから
こそ、視聴者が苛立ちを感じるわけだ。

今回、芝居場としてちょっと…と思ったのは、大地くんの家から出てき
た陽菜と衛が立ち去る姿を見送ったうさぎの表情が、ちょっとあっさり
しすぎている
と感じるところだが、そもそも佐藤ローテで描かれた気持
ちの経緯が不明瞭だったのだから、沢井にも掴みきれなかったのかもし
れない。前回ラストの「人を好きになるのはいいこと」という、一種の
諦念の境地をよすがにするしかなかったのだろう。

「諦念」と表現はしたが、これが衛をスッパリ諦めるという気持ちでな
いのはもちろんだ。衛が振り向いてくれなくても仕方がない、この思い
が報われなくても好きになった気持ちは悪くはない、という観念レベル
の諦めであったろうと思う。

衛そのものを思い切れているのであれば、今回の話は事後処理の問題で
しかないが、今回の話はそのまったく逆である。だとすれば、自分が座
るべき場所だと思ったバイクのリアシートに、婚約者の美少女が「当た
り前のように」座る場面を見守る疼きは表現されているのだから、その
去り行く後ろ姿を見る芝居は、もう少し思い入れがあってもよかっただ
ろうと思う。

しかし、脚本の描き方が適切であるために、今回のうさぎの芝居は全体
に魅力的なものとなっている。たとえばアバンのラストで、編み上がっ
たマフラーを見て嬉しそうに微笑みながらも、柔らかく哀しみにフェー
ドしていくデリケートな表情の遷移は素晴らしい。

だれかを一途に想いながら一目一目編んできたマフラーが完成して、相
手にそれを渡す想像の嬉しさが、そのだれかの傍らのだれかにも想像が
及ぶことで、哀しみの感情にフェードする、そうした心の動きが手に取
るようにわかる。そういうことを表現している描写だとわかるのではな
く、この娘の心がそのように動いたことがまざまざと感じられる。

その芝居のバランスのうえでは、バイクを見守るうさぎの表情がこのく
らいあっさりしていても厭味がないような気もするし、一方では物足り
ないような気もする。今さらオレのような門外漢が詠嘆することでもな
いが、芝居の組み立てというのは本当に難しいものだ。

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