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Act.24 佐藤健光に告ぐ。

円楽 え〜、本日の大喜利、ハナは吉例の謎掛けからまいりましょう。
   お題は「佐藤監督」ということで一つ…あい、早いね、歌さん!

歌丸 え〜、佐藤監督とかけまして…

円楽 うん、佐藤監督とかけまして!

歌丸 「竹光」と解きます。

円楽 …つか、まんまじゃねぇか…うん! して、その心は?

歌丸 「真剣」ではありませんが、ときどき眩しく光ります。

円楽 うまいけど落ちてないっ! 山田君、全部取っちめぇ!

…いやもう、しょうむない笑点ネタにでも紛らわせない限り、この汚ら
しさには耐えられない(木亥火暴!!)。

「汚物大好き」の竹光イズム健在なり!

まあ、「汚物好き」と言っちゃうといろいろと差し障りがあるが(笑)、
このオッサンがゴチャゴチャした汚いものを殊更に画面に入れ込みたが
る嗜癖を持つ確信犯だということは、これでハッキリしただろう。

前回はいやな作業をまんまとぷらちゃんに圧し附けて、週末を有意義に
過ごさせてもらったが、さすがに三人ローテの一翼を担う監督の担当回
をこの先もボイコットし続けるわけにもいくまい。

ただ、一つの意志表示の記録として、この先もAct.23のレビュー自体を
補完するつもりはないし、詳細な批判にすら値しない作物だという見解
もこの先変わることはないだろう。

今後、「要素」のレベルであのエピソードで語られた内容をリファレン
スすることはあっても、作品として詳細に論じるつもりはない。はっき
りいってたかまる以下だ。雰囲気読めないのもたいがいにしろ。

そういうわけで、オレは怒っている。

最早今回のレビューは、通常のように個別エピソードの検証を目的とし
たものではない。佐藤健光という一人の監督の姿勢に対する疑問を表明
するためのテキストだ。このコンテンツを、ドラマの構造面に関するリ
ファレンスとしてアテにされている方は、今回ばかりはほとんど本筋に
触れないつもりなので、続きを読まれる必要はない。

前回ローテを除くたかまる作品の欠陥は、単に相手取る脚本のレベルに
見合わない読解力と稚拙な技倆のゆえに、脚本が十全に実現されざる原
テキストとして映像を突き破って屹立してしまった
という、一個の映像
作品としてテクニカルなレベルで破綻した事例であるにすぎない。

しかし、佐藤作品…少なくとも前回のエピソードに関しては、たかまる
と同列の杜撰な理解から出発しているのは同じでも、その貧しい理解に
見合った貧しい作物に強引に仕立て上げてしまうという、さらに悪質な
経緯に堕している。

おそらく高丸雅隆が今後さらにキャリアを積んで、現場に対する発言力
を強化し、自分の読解力と技倆の不足を糊塗する手業を身に着けたら、
佐藤健光になるのだろう。つまり、佐藤作品にたかまる作品よりも一日
の長があるとすれば、曲がりなりにも脚本を自分の作物として消化して
おり、小林靖子の作物ではなく佐藤健光の作物として成立させていると
いう、その一点に留まるだろう。

それが番組のファンにとって、初期のたかまるの悲劇よりもさらにいっ
そうタチの悪い障碍であることは、最早疑う余地はない。

こいつ、脚本の文脈で自分に理解できない部分や、他の監督ローテから
の引きの要素をバシバシ切っていると視た。前回のローテでは、作品に
関する不満の責を、一方的に新しい人材に問うのは不公平であろうとの
認識の下、あえて小林脚本の不調を論じてみた。しかし、今となっては
あれもしんじつ小林脚本の責任であったかどうかは大いに疑わしい

佐藤演出の本当のタチの悪さは、下手に手業の引き出しがあるだけに、
脚本の改変を視聴者に悟らせないくらい自然に丸められるというところ
にあるのかもしれないな。そうでなかったら、小林靖子が意識的に佐藤
ローテだけ手を抜いた脚本を書いているということになる。しかも、手
を抜いてヌルいホンを書いているというだけではなく、構造的に間違っ
たホンになっている。

佐藤健光が演出することを識って、意図的に脚本の密度をコントロール
したのだとしても、あの小林靖子がこの番組において、いかに棄て札と
はいえ間違った構造を潔しとするというのは頷けない。

たとえば前回のエピソードで何が間違っているのかは、だれだって一回
観りゃわかる。論じるまでもない。だから論じない。さらに、今回のエ
ピソードでも、佐藤演出の区々たる詳細を云々するのは逐一神経に障っ
て、正直もうウンザリだ。

手短にまとめさせてもらうと、劇伴の選曲センスはどう考えてもおかし
いし、芝居の附け方は場当たり的、シリーズの積み重ねをいっさい活か
していない。ヘリの爆音を緊迫感の表現として気が利いていると思うセ
ンスには、おまえは「家族ゲーム」を百万回観たのかとツッコミたい。

相も変わらず町場のロケは汚らしいし、科学館のスタジオや倉庫を戦闘
場面に選ぶセンス、さらには衛のシリアスな心情芝居の場面でマンショ
ン裏の小汚いゴミ集積場を映す嗜好に至っては、汚物いじりの幼児性
抜け切れていない。

この際、佐藤健光監督には、慎んで「弄便野郎」の尊称を奉らせていた
だこうか。

ゴチャゴチャと要素の未整理な猥雑さや画面ヅラの汚さが、映像面での
バイタリティやリアリティそのものであるとの、日本映画で育った戦後
世代の人間にアリガチな単純きわまりない思い込みが伺える。

おそらく、佐藤監督はこの番組の世界観の人工的な清潔さ、美しさ、汚
物を排除する潔癖さが気に入らないのだ。だから殊更に猥雑な町並みや
うねうねとコードの這うスタジオ、汚らしい空き箱や油染みた機械類の
積み重なった倉庫を映したがるのだろう。

佐藤作品の難点を世代論に絡めて語るには、フィルモグラフィーも含め
た佐藤監督の詳細な履歴調べの必要が出てくると思うが、残念ながら正
確な生年はネット検索ではヒットしなかった。

テレビドラマデータベースによる最古のヒットは一九八四年、月曜ドラ
マランド
の二時間枠である。その時点で一本だったということは、一般
的に視て三〇歳前後、白髪混じりの近影から察するに、最大限若く見積
もっても現在五〇歳前後、おそらくは五十代半ばというところだろう。

ただし、数年おきにCXとTBSを行ったり来たりしているから、局側
のディレクターではなく製作会社系の出自だろう。外部の製作会社だと
すると、会社の方針や状況によっては二十代でディレクターに昇格する
ことも少なくないだろうから、この推定には念のため下方に五歳程度の
幅をとるのが正確だろうとは思う。

このフィルモグラフィーからわかるのは、佐藤健光のデビューはまさに
日本がバブル期に差し掛かった時期であり、その当時映像文芸の送り手
の側に立っていたことと、また、当時主流であったトレンディ系のドラ
マも撮ってはいるが、どちらかというと泥臭いB級アイドルドラマや主
婦向け連ドラ、二時間サスペンスの作例が多いということだ。九〇年代
に入ってからは、それ一色になっている。

一方、話は大幅に横道に外れるが、おしなべて今映像の一線で働いてい
る中堅どころのクリエイターたちは、青春期にバブルを経験しており、
デジタル人種の先駆けとなった世代である。田崎や舞原の世代と佐藤の
世代の認識上のギャップは、そこにあるのかもしれない。

バブル時代全般の傾向をこの場で論じるのは荷が重いが、あの当時は、
一般的な傾向として、神経症的な極度の清潔志向や「五尺の糞袋」的な
リアルな肉体性の忌避という「汚物排除」の趨勢があったように記憶し
ている。

あの当時の日本は、世界一清潔な国だったのではないだろうか。普通の
人間世界の営みであれば、必ず世界の余剰として発生する汚い部分、醜
い部分、肉体性と共通するそうした生々しい細部を切り捨てる方向で突
出していたのが、あの当時の日本社会だったと思う。

実際、現在までに成し遂げられた日本社会の現状として、普通一般に日
本規模の国なら必ず都市部にあるスラム街がどこにもない。ターミナル
駅地下や公園のホームレスを一掃しようとする動きすら活発だ。貧民や
乞食や浮浪者のいない社会は、たしかに国際的に視て畸型的である。こ
うした日本社会の特殊性も、バブル期にその種が播かれている。

さらに清潔志向ということでいうなら、あの当時の若い世代は自分の肉
体から湧出する分泌物をもヒステリックに排除し、汗の臭気やフケや垢
を、まるでそれが外部からもたらされた穢れででもあるように、丹念に
己の肉体表層から拭い去っていた。

方や、町並みからは、金の力にものをいわせて、みすぼらしい陋屋は取
り払われ、でこぼこの砂利道は小ぎれいな化粧煉瓦の舗道に生まれ変わ
り、ごみごみした看板は撤去され、腐りかけて苔むした木の電柱はコン
クリートや合金に取って代わられ、美しいペンキで塗りつぶされた。

従来の文化的な文脈から断絶した「オシャレスポット」的な恥ずかしい
小区画があちこちで唐突に生み出され、日本全国津々浦々に水洗便所が
破竹の勢いで普及した。

汚いもの、みっともないもの、猥雑なもの、未整理な混乱、そうした世
界の余剰を切り捨て、シンプルで美しい世界の構築を目指すのが豊かさ
の証しであると、無邪気に信じられていた時代だったんだな。社会レベ
ルでも個人レベルでも、あの時代は泥臭い肉体性や余剰としてある混沌
を切り捨て、シンプルで洗練された美しい実体を目指そうとする、時代
の趨勢があったと思う。

今は必ずしもそうではない。一頃「汚ギャル」と呼ばれる不潔な少女た
ちが話題になったように、社会全般はもとより、若い世代にも不潔に対
するヒステリックな忌避感は抱かれていない。むしろ、身だしなみの観
点から大人の世代にそのだらしなさを顰蹙されるような、いつの時代の
若者世代にも視られるごく普通の状況になっている。

また、不景気で社会から活気が喪われた現状では、町並みの汚さを金力
にものを言わせて一掃しようという情熱も喪われた。小ぎれいなスポッ
トの創造も「日本は世界の一等国に変わるんだ」という晴れ晴れしい希
望が喪われ、せいぜい地域振興に益する名所を望むくらいが関の山だ。

この現状において、バブルの時代にすでに大人であった世代と、多感な
青春期を過ごした世代では、セラムン世界のとらえ方にギャップがある
のは、ある意味で無理もない事情だろう。

とくに神経質な人でもない限り、ある程度自分の部屋が散らかっている
のは居心地良く感じるものだと思うが、世界をその全体において包括的
にとらえたいという人間の本然に照らせば、場の猥雑さというのは精神
衛生にプラスだと思う。

小ぎれいに整理され徹底的に穢れが排除された空間というのは、全体的
な世界から切り取られた小部分でしかない。程度問題ではあるが、それ
に不安を感じるというのもまた、普通一般の人間の本然ではある。

それを確認するには、総合病院の病室やビジネスホテルの客室の殺風景
さに感じる居心地の悪さを想い出せばいい。人間には、今自分の置かれ
ている場が、全体的な世界につながらない切り取られた小部分でしかな
いことに対して、不安を感じるという本然がある。

こうした前提を踏まえて、たとえば日本映画の伝統的なドグマとして、
世界を部分ではなくその全体性においてとらえたいという指向があった
と思う。ごみごみした猥雑な町並みや陋屋のみすぼらしさ、裏町の未整
理な混沌、社会全体の近代化が切り捨てようとしている、そうした余剰
としての「汚いもの」を刻銘に映像にとらえるのが、世界の全体性に連
なる道であるとの共通理解があったように思う。

ことにそれは、日本映画が潰滅の危機に瀕したバブル期に、前述のよう
な社会趨勢に対する反撥・反動として強く意識されたことなんではない
かとオレは思う。この世代の映像人には、小ぎれいに整理された空間や
穢れを切り捨てた人工的な世界観は、忌避すべき畸型的なものにしか映
らないのではないだろうか。

あるがままの町並みから切り捨てられ、不自然な人工化によって排除さ
れた余剰は、二度とは元に戻らない。日本の近代化は、そのようにして
歴史の連続性から大事な細部を切り捨てることで、一路邁進してきた。

こうした考え方、感じ方は、たとえば押井守の近作にも視て取ることが
できるだろう。パトレイバーでは都市論として喪われゆく連続性の問題
を切り取り、攻殻機動隊以降は肉体性の喪失を俎上に載せる押井守は、
紛れもなく自らを旧時代人と規定しているかに見える。彼もまた、バブ
ル期を文芸の送り手である大人として過ごした世代の人間なのだ。

そのような欠落に対して映像の世界の人間ができる精一杯の営為とは、
近代化の流れが排除しようとしている余剰、汚くはあっても豊穣な混沌
を己の映像のうえに刻銘に遺すこと。人工化を押し進めることで次第に
貧しく偏跛な部分に切り取られていこうとする日本の社会を、その時代
における世界の全体性として揺るぎない映像に留めること。

これはこれで、時代の観念として間違ってはいないだろう。オレ個人の
感覚としても、バブル期の活気と財力が強力に押し進めてきた、文化の
マスプロダクト化やニヒリスティックな空洞化と社会の人工化の趨勢が
一旦終息し、時代の狂躁が緩やかに鎮静化するために、次の一〇年期が
まるまる浪費されたことを憾む気持ちはある。

長々と一般論に偏して語ってきたので、そろそろみんな飽きてる頃合い
かもしれないが(笑)、オレが言いたいのは、つまり佐藤演出における作
品世界の汚さは、人工的な美しい物語内世界に酔いしれる視聴者に対す
る、旧世代人からの一種の「お説教」なんじゃないかということだ。

全体的な世界とはそんな小ぎれいなもんじゃない、必ず余剰として汚い
分泌物が滲出するし、未整理な混沌も存在する。都市とは本来小ぎれい
で清潔でスタティックなものではなく、果てしなくスプロールしていく
小汚くごみごみしていて猥雑な活気を秘めたダイナミックな場である。

おそらく、こうした旧映像人的な感覚をごくごく大雑把に抱いているか
らこそ、カメラが街頭に出た途端に、自然に小汚い細部に目が向いてし
まうのではないだろうか。

自然な生活感と密着した猥雑なディテールこそが世界の実体なのであっ
て、オレたちがこの番組に視ている清潔で小ぎれいな世界は作り物にす
ぎない。こういう感覚それ自体は、ある程度理解できる。

子どもたちには、そういう不自然な作り物を見せたくない、大人の視聴
者たちには、人工的な美しい世界に酔いしれるのが不健全だと知らしめ
たい。最大限好意的に解釈すれば、ある種、無意識裡にこういう説教が
ましい内実が滲み出てしまうのが、佐藤作品の絵面の汚さの動機なので
はないか。しかしなぁ…

大きななお世話なんだよ、この大馬鹿野郎。

おまえには、視聴者に対してごたいそうな「お説教」をする資格など、
ありはしないんだ。

世界の全体性という観点に立てば、もちろん都市というものが猥雑でご
みごみしたバイタリティ溢れる場なのは当たり前だ。しかし、そうした
認識をこの番組に持ち込むことには、フィクションのリアリティレベル
に対する決定的な感性の鈍さがある。

まず、本来的な視聴者である未就学児童たちに対して、現実的な全体性
を具えた世界観を圧し附けることに、何の意味がある。子どもたちは、
そもそもの最初から猥雑な細部を具えた全体として世界を認識しなけれ
ばならないのか。

オレ個人の信念としては、それは大間違いだ。

たとえば、子どもというものは、最初の最初から、信頼もあれば裏切り
もあるという人間関係の生臭い実態を包括的に認識する必要はない。ま
ず、無前提に信頼し合うことの美しさや嬉しさを、実感として識るべき
なのだ。それがこの先の長い人生を生き抜くうえでの動機となる。

この番組が生々しい人間関係の機微を扱っていながら、最終的にはきれ
い事の美しい希望と感動を用意しているのは、そういうデリカシーに基
づくものだ。

小林靖子の作物が、一貫して「現在をより良く生きることで未来は変え
られる」と訴えているのは、世の中はそうしたもんだという認識ではな
く、そう意志して苦闘することこそが尊い人間の営みであるとの信念に
基づく主張だ。その苦闘が美しく酬われ得るものであることを、可能な
限りリアルな実感を伴って描くことに、すべての努力が注がれている。

これを、嘘や裏切りの渦巻く愛欲の情念ドラマを撮ってきた人間が、小
ぎれいな絵空事と嗤うのであれば、オレはそいつを軽蔑する。子どもに
は、懸命に努力すれば美しい心は酬われることもあるのだという、嬉し
さの実感をまず与えるべきだ。そうすればその実感が、現実に何度裏切
られようと、人を信じて直く生き抜いていくうえでの力となる。

同様に、子どもたちが、まず無前提に世界は心地よく美しいものである
という憧憬や希望を抱かずして、世界の醜い細部を識るのは不幸な事態
だといえる。町には汚い看板がある、商店街のシャッターには不細工な
落書きがある、至るところに犬の糞や酔漢の吐瀉物が落ちている。総体
として、町は汚くて不潔な場であるが、子どもたちだってそんなことは
とっくに識っているんだ。

しかし、この世のどこかには十番町のような心躍る美しい場所があり得
るのだと信じること、こういう世界に住めたらいいのにという憧れ、こ
うした子どもらしい感情のどこが間違っているというのか。

たしかにそれは、長じるに及んで異世界に対する不健全な憧れに変容し
ないとも限らないが、それは子どもたち本人の生き方の問題であって、
物語の送り手が先回りして決め附けることではない。

それよりも、子どもたちに向けて絵空事の美しい世界を語ることに腹を
括れない己の怯懦を愧るべきだ。大人となった自分が思い知ってしまっ
た世界の実相を、子どもたちの前で包んでおけない、成熟した大人とし
て子どもたちに対峙することのできない、己の未熟さを愧るべきだ。

美しい世界を望む子どもたちが、現実の汚さに接して戸惑う様子を下司
なニヤニヤ嗤いで期待する、己の心に潜む一片の卑しさを愧るべきだ。

子どもたちは、実人生の経験を通じて実感の伴った現実の総体を学んで
いくのであって、それは専ら物語に課せられた使命ではない。物語を通
じて包括的な現実を学んでいくのは大人に許された特権なのであって、
子どもたちは、実人生において目指すべき嬉しさや美しさや幸福の実感
を、現実に先駆けて擬似体験するためにこそ美しい物語に接するのだ。

子どもたちに必要なのは、これから自分たちが乗り出していく世界に内
在する美しさに対する憧れなのであって、目の前に表出している現実の
貧しさに対する幻滅ではない。大人たちは、自分一個の責任において、
自らの世代は未だ実現できなかったが、本来的に世界はこのように美し
くある可能性を秘めているという真実を、子どもたちに受け渡していく
義務がある。

すでに幻滅を体験している大人が、子どもたちに対して同じような幻滅
を圧し附けようとすること、これは一人の大人としていちばんやっては
ならない裏切りだ。

その意味において、子ども向けの物語というのは最初から嘘で固めた絵
空事だ。それは、大人たちがせめても浄い祈りを込めて紡ぎ出す美しい
嘘であるべきだ。絵空事を通じてしか語れない大切な真実を語るために
こそ、子どもたちに対して嘘と識りつつ絵空事を語るのが、子ども向け
の表現行為に関わる大人に課せられた責任というものだ。

竹光的な雑駁なリアリズムは、何も識らない子どもたちに嘘を吐くこと
の後ろめたさや、それが絵空事でしかないことを識る空しさに耐えられ
ない大人の責任回避にすぎないだろう。それをオレの感覚では「怯懦」
という。

作り物の美しい世界や美しい絵空事を語ることが「怖い」なら、子ども
相手の番組になど関わるべきではない。リアリティという言葉で自身の
クリエイターとしての、引いては一個の大人としての怯懦を糊塗するの
は、あまりに卑劣だ。

以前オレが田崎や舞原の姿勢面での資質を「真に受け方」と表現したの
は、そういう機微に基づくものだ。子どもに向けて語られる嘘っぱちの
絵空事に込められた真実を、大の大人が全力を傾注するに足るものであ
ると真に受けること、これはこうした作品に関わるためには最も大切な
資質である。現状の佐藤健光には、この最重要な資質が欠けている。

オレの感覚では、子どもたちに可能な限り美しい物語を見せようと努力
するクリエイターのほうが、子どもたちに現実の汚さを見せようとする
クリエイターよりも、腹の括り方や志の高さは断然上だ。

また、佐藤健光が小林靖子の原脚本の具える複雑怪奇なドラマ性を「子
どもには難しすぎる」と判断して枝葉を払ったのだと仮定すれば、これ
もまた根本的に間違っている。

そもそも子どもには「筋立て」や「見せ場」は理解できても「ドラマ」
は理解できないのだ。これは、オレが特ヲタとしてのすべての経験を通
じて得た実感だ。子どもがドラマによって心を動かされるとしたら、そ
れは大まかな「筋立て」が乏しい経験に基づく未熟な感性を刺激したた
めであって、その描写の具体的側面やドラマ全体の構造とは無関係だ。

つまり、「子どもにわかるように」ドラマを単純化しようとすることは
まるっきり無意味な営為なのだ。「筋立て」は多少単純にする必要があ
るだろうけれど、ダイアログやドラマの構造面を単純化することなど、
子どもたちの理解を助けるうえでは何の意味も持たない。

子どもたちは、自身の未熟な理解力に相応しい大まかな要素だけを抽出
して、その場その場で痙攣的に反応するのであって、大人がドラマを観
る場合とは根本的に理解のプロセスが違う。

その前提において、いやしくも一個の大人の映像作家が真摯な姿勢でド
ラマを創造する場合に、つくり手の内実に見合うだけの受け手を求める
ためには、何を拠り所とすればいいのか。これは、こうしたジャンルの
クリエイターたちが長い年月をかけて考え抜いてきた問題だろう。

そして、オレの個人的な見解として、近年のジャンル作品において目指
されている潜在的な視聴者層とは、子どもたちの親であり、非本来的な
視聴者層であるヲタであり、そして何より成長した後の子どもたち自身
なのだと考える。大人がドラマをつくる以上、ドラマのわかる大人の受
け手を前提にしてつくっているのは、当たり前のことなのだ。

田崎や舞原の世代の特ヲタは、長じた後にビデオで旧作を見返して、自
身が幼時に胸をときめかせた特撮番組の大多数が、貧弱な予算と乏しい
技術によってでっち上げられた「子ども騙し」の見世物であったことを
知って幻滅を経験しているはずだ。

会議室に缶詰にされて数時間で書き飛ばした脚本、塗りの剥げたブロッ
プをスプレー缶で塗り直した大雑把なディテール、ギャラの安い無名俳
優が演じる棒読み芝居。子どもの未熟な眼には映らなかった世知辛い裏
事情が、大人の眼にはありありと画面上に透けて見える。

その一方で、そうした限界の埒内にあって、当時の大人たちが全力を傾
注して子どもたちに発信したメッセージの込められた、不朽の佳作群が
あったこともオレたちは再確認している。たとえば「一一月の傑作群」
は大人となったオレたちを裏切らない。ピープロ作品の一部のエピソー
ドは、往時よりも出でて大人の胸を打つ。

ジャンルの未成熟さのために大多数の作品が大人の幻滅を誘う一方で、
大人になったことでようやく理解できるようになった優れた内実を具え
る作品も、少なからず存在する。オレがこの歳まで未だに特ヲタを続け
ているのは、それを再確認できた嬉しさを経験したからだ。

今現在のジャンルのクリエイターたちが拠り所とすべき立脚点があり得
るとしたら、ここだろう。

現在の想定視聴者層である子どもたちが大人になった暁に、子ども時代
に自身が胸をときめかせた作品が、そうした心地よい記憶を裏付けるに
足るだけの、素晴らしい内実を具えたものであったと、あらためて誇り
に思えること。理解力の乏しい幼児に向かって、大人たちがいかに真剣
に対峙してくれたのかを、大人になったその眼で再確認できること。

子どもたちを対象としたドラマづくりに求められるのは、未熟で個人差
の大きい理解力の最大公約数を想定して単純化することではない、こう
いう種類の誠意なのだとオレは考える。今現在の子どもたちに向けて、
今現在の子どもたちが到底理解できない精緻なドラマを描くことに心胆
を砕くのは、その子どもたちの未来に対する誠意なのだと考える。

わかりもしない門外漢が、子どもにわかるとかわからないとか、お手軽
に考えてくれるなよ。そんなよけいなことを考えるくらいなら、一個の
大人の映像作家として、子ども相手の番組だからこそ、その持てる全力
を尽くすべきだ。

さらに、大人の視聴者について考えるなら、大人たちにはこの番組が一
種の人工的なファンタジーであるという共通認識がある。美しく小ぎれ
いな世界ではあるが、この町並みは所詮作り物であるとの健全な認識が
共有されている。

小汚いママチャリの並んだダイエーの駐輪場やごみごみした倉庫は、現
実生活でいやというほど見ているのだから、せめて美しい少女たちが演
じる作り事のファンタジーでは、それに見合うだけのきれいな世界を見
たいというだけの話だ。

こうした動機の、どこが不健全であるか。

これを否定する観点に立てば、この世に美しいものなど存在しない。泰
西名画などはそうした美の抽象の骨頂だ。絶対音楽は雑多な周波数の音
素を美的な観点から抽象した人工的な規則性の戯れだ。「ヴィーナスの
誕生」に陰毛や陰裂が描かれていないからリアルではないなどという泥
臭い意見は、子どもでも薄っぺらな間違いだとわかる。

この番組におけるロマンチックでファンシーな町並みは、たとえばオレ
たちが現実に視ている吉祥寺や池袋、赤羽などの猥雑な町が、映像の魔
術による切り取りようによっては、これだけファンタジックに映るもの
であることの証しだ。猥雑で小汚い現実の町は、視る視点によって美し
い十番町に変わり得る、美を創造するのは現実を部分に切り取る人の視
点そのものである。これは文芸の創造原理そのものだ。

文芸は全体性を指向しつつも、その具体的プロセスとして全体から切り
取られた小部分であらざるを得ない。世界の全体性にまつわる文芸上の
問題にはこうしたデリケートなパラドックスがある。何にでも犬の糞と
酔漢の吐瀉物を附け足せばいいという雑駁なものでは、断じてない。

丹念なロケハンに基づいて、慎重にカメラアングルを決め、池袋や赤羽
を夢の十番町に見せる手際は、決して視聴者の不健全な欲求に迎合しよ
うとのさもしい動機に基づいたものではない。そう思ってるのは、竹光
一人くらいだろう。

この番組におけるドラマは、いかに生々しい人間関係の機微を扱ってい
ようとも、ファンタジックな設定によって先鋭に誇張された極端な内実
を語っている。それも一種の極度な抽象といえるし、小林靖子とその映
像面でのパートナーたちのコラボレーションによって、極度に抽象的な
美しい物語として成立している。

こうした抽象性の高い美しいドラマを効果的に支えるのが、現実的な生
活感を排して美しく切り取られた夢の十番町というファンタジックな世
界描写なのだ。竹光がこの番組に猥雑な町場のリアリティを持ち込んで
一種の造反を目論むのは、作品への徹底的な無理解に基づく幼稚ないや
がらせにすぎない。

可愛い女の子が夢のようにきれいなお洋服を着ていたら、泥団子を投げ
附けて汚してやらないと気の済まない駄々っ子と同列だ。可憐な美少女
に汚い指を突き附けて、「こいつだってくっさいウンコするんだぜ」と
得意げに嘯く馬鹿な餓鬼と同列だ。

どんなきれいなお洋服だって泥にまみれりゃ汚くなるし、どんな美しい
少女でも飯を喰ったら便所に行く。そんなのは当たり前だし、どんな馬
鹿でも識っている。そんな当たり前のことを、世界の真実ででもあるか
のように、説教がましく殊更に教えてもらう必要などはない。

ある少女を十全に描くためには、飯を喰って便所に行って尻をまくって
しゃがむところまで絵で押さえなければ絵空事だと思っているなら、そ
れはただのどあほうだ。

夢の十番町にはどこにも便所がない。便所を描く必要がない物語だから
だ。物語に必要なものなら何でもある十番町だが、物語を語るうえで必
要のないものは一切存在しない。当然ダイエーもないし、小汚い倉庫も
ない。こういう約束事のうえに成立しているのが、十番町のリアリティ
なのだ。

映像が語り得る真実は、全体を部分に切り取ることで喪われたりはしな
い。それで喪われるものであれば、すべての文芸は成立しない。

清潔で小ぎれいにこしらえられた人工的な世界だからこそ成立する豊か
な文芸的内実もある。それが嘘で固めた絵空事だなどとは、少なくとも
こんなどあほうには言わせない。その美しい絵空事に参加する以上は、
その作品のよって立つ暗黙の約束事に唾してみせるのは、汚らわしい裏
切りでしかなかろうぜ。

頼むから、あんたの大好きな嘘と裏切りや犬の糞と酔漢の吐瀉物がお似
合いの世界に帰ってくれ。

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