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Act.25-1 恐ろしき錯視

どうも、たかまるショックを遙かに凌駕する竹光ショックのせいで、妙
なトラウマができてしまったようだ。

クライマックスで、辛い愛の断念の芝居を演じるうさぎが、健気に微笑
みをこしらえて「早く逃げて!」と駆け出した瞬間、思わず知らず不快
な記憶が蘇って、主題歌のメロオケが華々しくバーンとかかってしまう
んじゃないかと冷や冷やしてしまったぜ(木亥火暴!!)。

初期の頃は竹光同様劇判の選曲センスを疑われたたかまるだが、今現在
はスタッフが羽交い締めにして行動を掣肘しているせいか、こういう部
分でも危なげがない。逆にいうと、初期の頃は相当突っ張って他人の言
に耳を傾けなかったんだろうな。

前回ローテの出来の良さで想定した「たかまるシフト」がしんじつ存在
し機能しているかどうかは、このローテの出来如何にかかっているわけ
だが、少なくとも今回に限っては、さしたる破綻も視られなかったよう
に思う。

たとえばアバンの部分でも、前回からの引きのパートは全面的に劇判を
差し替え
、下品な竹光イズムの悪印象を払拭して、シリアスな芝居とし
て見せることに成功している。

互いに惹かれ合いながらも、ジークフリートとジークリンデのように世
界が武器を構えて仲を堰いている男と女が、初めて正体を明かして真情
をぶつけ合うシリアスな芝居場のバックに、主題歌のメロオケというの
は、いくらなんでもあり得ない選択肢だろう。この場では、やはり今回
のように重い苦悩を漂わせる大島ミチルの重厚な劇判が相応しい。

たしかに、こういうヒロイックな作品において、物語の盛り上がりが最
高潮に達したタイミングで主題歌のメロオケを聞かせられると、条件反
射的に高揚するという観客心理もわかる。

しかし、たとえばいかに細野晴臣の手がけたイメージソングが、それ単
体では楽曲として優れていても、それが「風の谷のナウシカ」のクライ
マックスで、しかもデビュー直後の安田成美のフニャフニャにふやけた
ボーカルを伴って劇場内に鳴り響いていたら、あれだけの感動を実現で
きたかどうか、あらためて考えてみるがいいだろう(木亥火暴!!)。

決着するところ、主題歌で高揚する心理というのは、パブロフの犬的な
条件反射
以外の何ものでもないのだ。人間にだって条件反射というもの
はある。まったくオチてないストーリーでも、ジャジャジャ〜ンと終劇
の音楽が流れたら終わった気がするのと同じことだ。

主題歌のメロオケに催す高揚は、この芝居場の意図する感銘とは決定的
にズレている。たとえていえば、モグラ獣人が死に花を咲かせる泣かせ
どころのバックに、最盛期の子門真人が気持ちよさそうにシャウトする
「アマゾン ダダダッ!」が延々流れていたらどうだ(木亥火暴!!)。

しっかりせよと抱き起こすアマゾンの腕のなかで、瀕死のモグラ獣人の
槐柳二声が「チュチュ〜ン」と哀しげに鳴いてる場面に、子門真人の熱
烈シャウト…高揚はするだろうけど、ここで盛り上がってしまったら最
早オレは人間ではないと感じるシチュエーションだ(木亥火暴!!)。

勢いとノリで見せるデカレンセイザーならそういう強引さもまた魅力
の一つに映ったかもしれないが、この番組においては、物語の要請に対
して最低限的確であること
が求められている。さらには、的確である以
上の創意が求められている。この場面において、「ジャンと鳴らせばバ
ンと盛り上がる」式の的確以下の雑駁な手業を晒すのでは、すでにして
お話にならない。

いわばこの番組においては、作劇の基礎力が厳しく求められているので
あって、脚本家の良きパートナーであるためには、脚本が不調な場面で
もそれを映像・演出の手腕で補い、ネガティブ要素をも脚本家とは別個
の一人の作家として再解釈し、ポジティブに再構築し得るだけの作劇面
の底力が必要とされるのだ。

あのイケイケのバブルの時期に、大衆受けを狙う泥臭いジャンルで育っ
た佐藤監督は、こうした地道な作劇の基礎力よりも、即効性でウケを取
れる具体的な手癖を多く覚えてしまったのかもしれないね。こういう感
性は、むしろ大映テレビを根っこに持つ今井詔二の体質に相応しい。

…だから、竹光はもうライダーに行け(木亥火暴!!)。

つか、鈴村と竹光をトレードしろ(木亥火暴!!)。

いろいろ言うには言ったが、作劇の基礎を危なげなくこなし、「それ以
上の創意」を提供できる力量を示した時点で、オレはセラムンにおける
鈴村演出を大いに買っている
。映像人としての鈴村の拘りを実現できる
現場は、この番組以外にはこの地上にないとさえ思っている。いわんや
それが、番組の基本的なナラティブからして大味な平成ライダーなどで
あろうはずがない。

一人の企業人である以上、いろいろ社内の事情もあるのだろうが、ライ
ダーの金看板に拘るよりも、ジャンルの愛好者たちに不朽の代表作を強
烈に印象附けたほうが、長い目で見て己がためじゃないのか
、鈴村よ。

看板番組で十人並みの作品を残した監督の一人として記憶されるより、
傍流であろうが映像人として全力を尽くせる作品で、田崎や舞原に立派
に伍して「あの鈴村」と鮮烈な記憶を残すほうが、男一匹、かっこよく
なおかつお得な選択ではないのか、鈴村展弘監督よ。

「ヲタクの目など気にしない」などとつれなく突っ撥ねてくれるなよ。
大人の映像人の真摯な営為を、リアルタイムで正当に評価し得るのは、
所詮大人の視聴者でしかない
のだから。今現在の子どもたちが、立派な
大人になるまでに、ジャンル作品の素晴らしさを語り継いでいくのは、
オレたち大人の特ヲタなのだから。

ライダーの現場にいる限り、鈴村は田崎に勝てないし、それは単に東映
内部のハイエラルキーの埒内で田崎にはかなりのことができるけれど、
新人・鈴村にはそれほどのフリーハンドが与えられないというだけのこ
とだろうよ。そして、田崎竜太がセラムンからライダーへ忙しく渡り歩
くのは、彼の立場上仕方のない話だが、鈴村展弘はそうではないのでは
ないか。

さらに、平成ライダーの基調となる大味なナラティブの許では、鈴村は
竹光とさえまともな勝負ができないだろう。鈴村演出をして鈴村演出た
らしめているような拘りが、あのナラティブでは物語を語るうえでなん
ら有意に作用しないのだから、勝負にすらならないのだ。竹光の雑駁な
汚物リアリズムも、鈴村展弘の緻密な拘りも、みなひとしなみに大味な
物語のお景物としてオマケの華を添えるのみ
だ。

一方、たださえ監督が三人しかいないセラムンの現場では、「それ以上
の創意」を提供できる人材が舞原一人のみ、「必要最低限の的確さ」を
確保できるスタッフ集団に支えられた監督が一人、残る一人が、経歴と
しては申し分ないが基礎の面では「的確以下」ではなんとも心細い限り
である。個別の番組で田崎竜太を確保することが難しいのであれば、鈴
村展弘レベルの人材がぜひとももう一人欲しいんだよ。

…まあ、帰ってきたら帰ってきたで、また容赦なくツッコミ入れるつも
だけどな(木亥火暴!!)。

そういう意味では、形ばかりの王様のたかまるローテでは、番組生え抜
きのスタッフが目を光らせている以上、最低限の的確さは確保されてい
るが、「それ以上の創意」の部分では、やはり田崎や舞原、鈴村たちの
残した佳作群には、一歩も二歩も譲らざるを得ない。

今回のエピソードでも、原脚本の持つ内実を損ねない程度のレベルは確
保されているが、脚本の余白を豊かな創意で埋め、足らざるを補い過剰
を刈り込み全体の色味を調整する、「もう一人の作家」の目
を感じさせ
るまでの演出とは感じられなかった。

具体的な面に目を向けても、たとえば仲間内では、取り乱して走り去っ
た陽菜を追う衛とうさぎが鉢合わせするシーンのつながりがおかしい、
倒れている陽菜との位置関係も何か変なのでは、という意見があった。
自然なつがなりの感覚で見ると、ここの鉢合わせからすれ違いに至る場
面に、なんとなくぎこちない違和感を覚えるのはたしかである。

しかし、前後をつぶさに視てみると、ここはこれで間違ってはいない
だな。つか、なまじいに辻褄を合わせたために絵面が変になってしまっ
たということなんだろう。つながっていないというより、つながりを考
えたために、変な絵面になってしまったんだな。

つまり、陽菜を追う衛がうさぎと正面から鉢合わせするということは、
普通に考えたら、陽菜が逃げた方向からうさぎが走ってきたということ
になるわけで、うさぎと衛が鉢合わせする以上、それ以前にうさぎと陽
菜がすれ違っていないとおかしいわけだ。

しかし、うさぎと陽菜には面識があるのだから、取り乱している陽菜が
周囲を見ていないのはしょうがないとして、自分のほうに向かって走っ
てくる陽菜にうさぎが気附かないというのはおかしい。だから陽菜とう
さぎはすれ違わなかったけれど、うさぎと衛とは鉢合わせした、という
条件を満たすためには、うさぎと衛が出会したちょうどその地点から鍵
の手に曲がった場所に陽菜が倒れている
という位置関係になるわけだ。

なので、位置関係としては間違っていない…というより、ああいう位置
関係にならざるを得ない。しかし、うさぎと衛が行き会ったあとに、衛
がうさぎの脇をすり抜けて陽菜に駆け寄る、という芝居を附ける場合、
本当ならうさぎの背後に陽菜を置いて、うさぎの前で立ち止まると見せ
た衛が、そのまま行き過ぎてうさぎの奥手の陽菜に駆け寄るような動線
にしないと、見た目がマヌケになってしまう。すれ違いというのは、本
来あくまで一本の動線上で完結すべき事柄
だからな。

要するに、あそこがマヌケに見えるのは、前後の事情から丁字路の交点
で行き違いの芝居を設けざるを得なかったために、本来なら縦の奥行き
の一本の動線上で完結すべき動作が、鍵の手に曲がるという横の動線を
形成してしまったためなんだな。

これをたかまるの失態だというのは、ちょっと気の毒な気がする(笑)。
従来のたかまるだったら、多分そのまま背後に陽菜を置いて「なんでう
さぎは陽菜に気附かなかったんだ」と突っ込まれるというパターンだっ
たのではないだろうか。

竹光ショックの反動でたかまるを庇うわけではないが、ここの動線が無
矛盾であるだけ、スタッフの掣肘だろうが何だろうが、見た目優先で、
しかもその見た目がダメダメだった以前のたかまるイズムよりは、少し
はマシになっている
と思いたいんだな。

しかし、背中から斬られて仮面が両断されるというのは、これはやはり
動作の附け方が間違っているだろう。同じように割って入るのでも、ク
ンツァイトの斬撃の前にステッキを構えて正面から立ちはだかるような
動作であれば、シルクハットと仮面を除いて素顔の地場衛として芝居場
を設ける段取り
に持っていくには自然だったろう。ついでにステッキま
で両断されていれば申し分はない。理由はあとで説明する。

まあ、あくまで比較の問題にはなるが、前回のエピソードのクライマッ
クスで、タキシード仮面=地場衛の正体露見のくだりに不満を覚えたオ
レには、ここで痍附いたタキが「素顔の地場衛」として芝居を演じるた
めにはシルクハットが邪魔だと感じる感じ方は、仮面だけを取り除かせ
た雑駁な竹光イズムよりマシだと思った。

前回ラストの芝居場でも、いきなり仮面に手を伸ばすのではなくシルク
ハットを脱がせてから仮面を…という手順を踏ませていたら、タキシー
ド仮面の扮装を解除して愛しい人の俤を探り当てるという芝居が、動作
のリズムを伴って情感を高めていたことだろう。それ以前に竹光には、
日本人の顔立ちにそのままシルクハットは乗らないという、当たり前の
感覚をぜひ身に着けてほしい(木亥火暴!!)。

タキの全体のコスチュームデザイン上、赤影もどきの仮面という目許隠
しのアイテムがあってこそ、なんとかその珍妙さが緩和されていたので
あるから、帽子を載せたまま仮面を除けば、単に変なナリをした日本人
の相貌
が顕れるのは当たり前のことだ(木亥火暴!!)。

たしかに、大前提の美的感覚として、昼日中に見るタキシード仮面の風
体は、すでにそれだけで滑稽である。タキシードがソアレであるという
TPOの問題以前に、それを「ヒーローの装束」とあらしめるために、
二十代の若者にわざわざ大時代なシルクハットを載せステッキを持たせ
ているからだ。

これがタキシードだけなら、現在でもフォーマルな場面で着用されてい
る衣裳だからさほど異様ではないが、さすがにシルクハットとステッキ
は今時の風俗ではない。仮面とマントはヒーローに共通する窶しの意匠
であって、これをファッションとしての「風俗」と解するべきではない
だろうから、つまりタキシード一式を貸衣装の類ではなく「タキシード
仮面の装束」として日常から異化しているのは、シルクハットとステッ
キというアイテム
だといっていい。

この風体自体がすでに滑稽であるのに、たかだか帽子一つ分の滑稽さの
加減乗除を云々するのはトリビアルに過ぎるかもしれないが、大人の目
から見て異様な風体の男女がシリアスなラブシーンを演ずるという大前
提がある以上、こういう類のトリビアリズムが大いに意味を持つ。

特撮ヒーロー番組においては、「大前提として滑稽である」から「滑稽
でもかまわない」ではない。大前提としての滑稽さが、局面局面の芝居
場のシリアスさを損なわないように気遣う、トリビアルなデリカシー

重要なのだ。

そして、この局面において「素顔の地場衛」という場合、仮面とシルク
ハットはセットであると考えるべきだろう。見た目の滑稽さを回避する
健全な美意識と、装束の成り立ちの両面から考えれば、どうしたってそ
うあるべきだ。

たとえば「バットマン・リターンズ」を例にとるなら、キャットウーマ
ンの前でバットマンがブルース・ウェインの素顔を晒す場面では、ワン
ピースになっているバットスーツの首から上をすべて破り取るという形
になっている。かなりの荒技であるが、さすがアニメ屋出身のアメヲタ
の総大将ティム・バートン、主人公の正体開示において、絵的に必要と
されているのが何か
を見誤っていない。

ラテックス素材のバットスーツの首回りが破れ、そこから唐突に露出し
ているブルース・ウェイン=マイケル・キートンの素顔。それと対峙す
るのは、綻びかけたパッチワークのマスクから金色の蓬髪がまろび出た
キャットウーマン。

すでに綻びかけていながらも、素顔のブルースに「いっしょに帰ろう
と口説かれてもマスクを脱がなかったキャットウーマンだが、愛の復讐
の対象である宿敵マックス・シュレックの冷酷な言葉にあっては一息に
毟り取り、そこから呆気なく顕れるのは憎しみに歪んだセリーナ・カイ
ルを演じるミッシェル・ファイファーの疲れ切った素顔だ。

これなどは、仮面劇における正体開示が物語のクライマックスを緊密に
構成する、いわばお手本のような名シーンだろう。これを絵的に支持す
るのは、たとえば後頭部から前顎にかけて破り取られたバットスーツか
ら唐突に生えているかに見えるブルース・ウェインの日常的な素顔であ
り、キャットスーツと一体化したように歪んだセリーナ・カイルの狂気
の相貌との対比だ。

ヒーローとしての窶しから「素顔を晒す」という最重要な場面において
は、やはり帽子一つ分のトリビアルを論ずべき美学が重要になってくる
のだ。日本人の顔立ちには、そのままではシルクハットが乗らないとい
う見場の問題と、そこから派生する仮面とシルクハットがセットであろ
うという装束の成り立ちの問題、そこまでを考えるべきだったろう。

仮面のヒーローの素顔というのは、窶しの装束の全体性を破綻させなが
ら、日常性を伴って唐突に露出しなければならない
レスキュー・ポリ
スシリーズ
恒例のマスクオフを想定すればわかりやすいだろう。下世話
な喩えでいえば下手糞なアイコラのように(笑)、日常性と祝祭性のキメ
ラとしての突出した異様さを醸し出しているべきだ。

最大限好意的に解釈して、今回のクライマックスで完全に衛の素顔を顕
わすために、前回のヒキではタメを設けたのだ、仮面だけを除き一瞬垣
間見せるのみに留めたのだ、という見方もできるが、後述するような理
由でこの場面の衛は完全に素顔を晒しているべきだったとオレは思う。

今回のクライマックスとの対比でいうなら、アバンでタキが真情を明か
しかけて言葉を飲み込む場面では、手ずから再び仮面を着用し、タキと
しての窶しに戻りマントを翻して立ち去っているが、この動作に帽子が
一つ加わってもリズムは破れない。この芝居場の結末で、衛はタキシー
ド仮面としての窶しに戻る。段取りとしてはそれが最重要なことで、帽
子の足し算引き算でラストの段取りとの対比が生まれるのではない。

そして、今回のクライマックスの素顔の露見では、帽子が床に転がり仮
面が真っ二つに両断され、息絶えなんとする衛にはもはや破れた窶しを
取り繕うだけの余力は残されていないし、そのつもりもない。これだけ
で、すでに対比としての効果は十分だろう。

つまり、クンツァイトの斬撃に衛が斃れる場面の段取りとして最重要な
のは、帽子が吹っ飛び仮面が両断され、不可逆的にタキの窶しが破れる
こと
であって、衛がどこをどう斬られたかということではない。そこか
ら逆算して動作を附けるべきだっただろう。

先に「ステッキまで両断されていれば申し分はない」といったのは、帽
子と仮面とステッキという、タキシードの装束を日常から異化し地場衛
をタキシード仮面とあらしめていた窶しのアイテムを、他ならぬうさぎ
を庇うために破られる、その最期に臨んで不可逆的に素顔の地場衛に戻
る、そういう呼吸が一挙動で完遂されるからだ。

さらに、この三つのアイテムを除いたタキシードとマントの姿で横たわ
る衛のシルエットは、セレニティ覚醒に至って一瞬だけオーバーラップ
するエンディミオン王子のシルエットに相同である。非命に斃れた地場
衛の姿が、過去に演じられた悲劇の姿と相同であること、これがうさぎ
の「まもる」という呼びかけから連続して「エンディミオン」という呼
びかけを引き出すのは、自然な呼吸である。

先ほど触れたうさぎとのすれ違いもそうだったが、動作として不自然な
部分はあっても、肝心要の部分が特撮ヒーローアクション番組の感覚と
して自然である以上、たかまる個人が、というよりやはり現場のスタッ
フの意見が相当に反映され、たかまるローテにおいては最低限の的確さ
が確保されていると視るべきだろうと思う。

おそらく佐藤健光は、一個の映画監督としての経験も手業も、高丸雅隆
を大きく凌いでいるのだろうが、ことこの番組に関していえば、見当外
れの無用な「創意」を持ち込むばかりか的確ですらない時点で、若輩の
監督を擁する「現場」にさえ、はるかに遠く及ばないのである。

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