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Act.25-4 木馬が廻る

さて、衛と陽菜の関係を視てきた以上、物の順序として、うさぎと衛の
関係にも目を向けないわけにはいかないだろう。

先に触れたアバンの芝居場は、これまで複雑に錯綜していたすべての事
情が露見して、瑞々しい羞恥から逃げ去ろうとする少女を、男の手が力
強く引き留め、思わせぶりに言いかけて口を噤みそのまま立ち去る…と
いう王道中の王道パターンで視聴者のハートを鷲掴みにする。

前回も含めて、ここの芝居場の段取りは、互いに知っていることと知ら
ないことがややこしく錯綜していた男女が、その縺れ合った糸玉をてい
ねいに解きほぐしていくプロセス
を簡潔に描いていて快い。そして、的
確な段取りとして快い以上に、男女の間の事柄の決定的な場面が演じら
れる芝居として、節度のあるエロティシズムが快い。

たとえば、前回のスタジオの場面の告白は、セーラームーン対タキシー
ド仮面という仮面の関係性において、月野うさぎが地場衛に寄せる想い
をそれとは明かさずに語っている。

うさぎ視点では、セーラームーンとしての仮面を帯びた自分が想いを寄
せるだれかについて、それがだれであるかを知らない第三者のタキシー
ド仮面に吐露しているという形になる。もちろんこれは、セーラームー
ン=月野うさぎと知る衛の視点では、逆転してタキシード仮面対月野う
さぎの関係となっている。

しかし、タキシード仮面の正体が他ならぬ地場衛であると知れた後は、
うさぎ視点ではセーラームーン対地場衛の関係となり、衛視点ではうさ
ぎに先駆けて地場衛対月野うさぎの関係性の次元に降りてくる。ここま
でくれば、あと一息である。

うさぎは、セーラームーンとしての窶しに託した真情の吐露が、結果的
には当の本人を相手にした告白となっていた事実を悟ってしまい、羞恥
のあまり辛うじて残されたムーンの仮面をかき合わせてその場を逃げ去
ろうとするが、一足早く素顔の次元に踏み込んでいた衛が「うさぎ」と
呼びかけることで、ようやく両者平等に月野うさぎ対地場衛という、
べての窶しを抛った裸の地平
に着地する。

このようにていねいに段階を踏んだ正体開示のプロセスは、本質的にエ
ロティックな性格を孕んでいる。バタイユのエロティシズム論を引くま
でもなく、秘め隠した素肌が唐突に暴露される瞬間には、当然エロティ
シズムが発生する。それは実際の素肌ではなく、抽象的な意味合いにお
ける皮膚性や肉体性であっても同じことが成立するとオレは思う。

しかもそれが、初手から大胆に素肌を露出したコスチュームの女性ヒー
ローにまつわる正体開示であり、さらにはそれが、どうにもならない袋
小路の苦しい恋心がようやくにして淡く酬われるタイミングであること
で、二重三重にエロティックなニュアンスが加味される。

そもそもセーラー戦士のコスチュームは、ヒーロー番組における意匠面
のエロティシズムとしては、ほぼ限界に達している。これ以上だと下品
に渉るし、イメクラ的な性行為に直結した露骨な欲望の領域に踏み入っ
てしまう。

しかし、これ以上脱がせようも見せようもないコスチュームを前提とし
て物語を語る場面で、さらに「脱がせ」のエロティシズムがあり得ると
したら、今回のこのシーンは、ヒーロー番組屈指のエロティシズムを現
出しているといえるだろう。

ほぼ素顔をまんま晒していながら、しかも作劇上正体隠しにはとことん
無頓着でありながら、面と向かってはだれもセーラー戦士の正体に気附
かないという、きわめて東映特撮ライクな約束事を前提とした話ではあ
るのだが(笑)、エロティックなコスチュームの女性ヒーローに関して、
さらに表面上の意匠を超えたエロティシズムが成立するというのは、東
映特撮史上まことに希有な事態である。

たとえばそれを側面から盛り立てる要素としては、いつものように脚を
流して横座りしたムーンの女性的なたおやかなかたちであったり、膝頭
の曲線やストッキングのあえかな光沢であったり、ここ一番で妙に女性
的なリアリティが突出する沢井の切なそうな表情芝居や、上ずり裏返っ
たセリフ廻しであったり、名を呼んで引き留めるために少女の腕を掴ん
だ男の手の力強さであったりするのだろう。

たしかに、エロティシズムというものは、抽象的な観念のみでは生起し
ない。具体面における肉体性を伴ってこその扇情性ではある。その意味
では、健康的で外向的なバスケ少女の内面に潜む女性的な肉体性がヴィ
ジュアルに強調されているという具体的なディテールは無視できない。

しかし、この場のエロティシズムの核となっているのは、ていねいで段
階的な開示が醸し出すスリリングな脱衣のプロセスの暗喩、それに加え
て、月野うさぎという少女の素顔と彼女の抱える恋心が、すでに裸にさ
れていたという事実を、当の相手から唐突に暴露される瞬間の羞恥、こ
れである。

今まさに衣服を解かれて裸にされることよりも、自分がすでに裸にされ
ていたこと、裸の自分をすでに視られていたことを唐突に識らされる瞬
間の羞恥
のほうが、はるかにエロティックなものだ。

そして、こうしたエロティシズムは、演出や演技によって具体化される
過程で現出されたものではなく、そもそも脚本の構造に内在している要
素であると思う。このような淫靡な要素が、明晰で理知的な印象のある
小林靖子の作為から発するとは、ちょっとした驚きである。

ただ、この場面で唯一引っ懸かりを覚えたのは、衛の思わせぶりな一言
を受けたうさぎが、恋の希望にカラリと微笑む落とし所である。

たしかに、月野うさぎというキャラクター描写の振れ幅としては、この
ような「今泣いたカラスがもう笑った」的なヴィヴィッドな感情の動き
もアリだとは思う。しかし、常日頃の明朗なキャラクターが、衛を前に
すると恋する少女の初々しい惑いに揺れる辺りのギャップが、この場面
の瑞々しい情感を支えていたのだから、ここは笑わせないほうがよかっ
たのではないかと思う。

OP明け以降のうさぎの感情とのつながりからいっても、晴れやかに微
笑むほどの希望という描き方でないほうがよかったのではないか。むし
ろ、恋心の暴露がもたらす羞恥の混乱のただなかで、これまで一筋に見
つめ続けてきた相手が唐突に見つめ返してきた、ここはおののきの芝居
で受けるべきだったのではないだろうか。

恋は、心に秘めた片恋であるうちはそれほど怖いものではない。愛しい
人を狂おしく見つめる一方的な視線のみが、それを恋としてあらしめて
いる。求めて得られないうちは、恋とは怖いものではない。それは、そ
の恋を心の奥底の未決箱に埋めてしまうも、派手な花火を打ち上げて自
滅するも、未だ可能性としてはイーブンで、選択は自分自身のフリーハ
ンドに委ねられているからだ。

しかし、片恋であると思った気持ちが唐突に酬われてしまうこと、これ
怖いことだろう。もはやその気持ちは、自分一個の自由裁量にはなら
ない。自分が求めたからこそ相手が応えたのであり、絡み合ってしまっ
た互いの視線は、もはや自分一個の気まぐれで逸らすことは叶わない、
もはや自分の意志で後戻りすることは不可能である。

独占的な二者関係とは、言葉を換えればきわめて不自由な束縛しあう関
係性
である。束縛しないのであれば、それはすでに独占ではない。恋の
場面において、機を一にして男女の気持ちが惹かれ合う事態が稀である
ことを考えれば、昔の歌じゃないけれど、だれかを想う気持ちが応えら
れる瞬間とは、大きな自由を手放す瞬間でもある。求める気持ちに応え
る相手は、本質的に自分に対して束縛を要求する者である。

そんな面倒な理屈はどうあれ、一方的に追い求める相手が唐突に振り向
く瞬間、人はおののきを感じるものだと思う。下世話な喩えでいうなら
ば、声を嗄らして追い掛けていたひったくりが、突然クルリと振り向い
て向かってきたら怖いだろう(木亥火暴!!)。

…ああまた不適切な喩えを弄したために、かえって話がわかりにくなっ
てしまったな(木亥火暴!!)。

とにかくオレは、個人的な感覚として、この纏綿たる芝居場の落とし所
でカラリと微笑んだうさぎを憾むものである。

以前から疑問を呈していた監督ローテをまたがるアバンの問題があるの
で、ここはひょっとして佐藤監督の担当だったのかもしれないし、絵的
な面でも、抑えめではあるが前回ラストの逆光演出を受けている。たか
まる演出における芝居の解釈の問題として視るべきか、佐藤監督の感性
の問題として視るべきなのか迷うところではあるのだが、所詮それは、
オレ個人の嗜好の問題ではあるだろう。

さて、アバンのもたらした希望を受けて、うさぎの心が頂点目指して舞
い上がったからには、その対比において絶望のどん底に叩き込まないで
はおかないのが、この物語の情感の力学だ。

先に詳述した陽菜のくだりがあって、衛の真情を問い質そうとしたうさ
ぎは、予想以上の真相の衝撃に打ちのめされ、思わぬ嬉しさにまたして
も亜美ちゃんを忘れて己の恋に溺れそうになった気持ちを愧る。

前述のとおり、ここは陽菜を巡る描写の問題が尾を引いて、恋敵をも思
い遣るいつものうさぎの前向きさが、だれかを踏み台にして描かれた美
に見えてしまうのが残念ではある。

そして、衛の辛い立場を思い遣り、せめても見つめ返してくれた気持ち
をよすがに、妖魔との戦いの場に赴くうさぎを待ち受けるのは、うさぎ
をプリンセスと見抜いて復讐の炎を燃やすクンツァイトと、当然のよう
に悪美のダーキュリーだ。

今回はこのクライマックスまでいっさい出番がなく、唐突に出現した悪
美が、以前まで「月野さん」と呼んでいながら、Act.22以降のエピソー
ドで「う・さ・ぎ・ちゃん」と茶化すのは、ダイアログの芸が細かい。
おそらくこれは、銀水晶の光を受けて一瞬垣間見えた囚われの亜美ちゃ
んが、「うさぎちゃん」と名を呼んだことの悪意的なパロディだ。

これもまた悪意の描写ではあるが、悪美の悪意がうさぎを痍附ければ痍
附けるだけ、亜美ちゃんにまつわる問題は深みを増す。この悪意の描写
は不必要ではない。

プリンセス守護の三戦士があえなく氷結の憂き目に遭い、妖魔と復讐鬼
と造反の戦士に囲繞され孤立無援のムーンを襲うクンツァイトの必殺の
刃を、わが身をもって庇うのは、陽菜を欺き「これが最後」と覚悟を決
めた地場衛のタキシード仮面。復讐鬼の斬撃はかつての主君を深々と切
り裂いて、窶しの意匠を解除する。

セーラームーンとしての窶しのままに、恋する一人の少女である素顔の
月野うさぎとして、愛する一人の青年である素顔の地場衛をかき抱き、
初めて「まもる」と名を呼ぶうさぎだが、これは衛が初めて「うさぎ
と名を呼んだAct.15に対する待ちに待ったアンサーだ。

そういえば、あのエピソードでも不必要なまでに派手な背中落ちがあっ
たけれど、つくづく丈夫な地場衛は平然と腕の痍口に今回の騒擾の元に
なったハンカチを巻き、その場を歩いて後にした。しかし今回、末期の
息を励まして己の真情を語り終えた衛は、いつもの丈夫さを見せてはく
れず、愛する少女の腕のなかで息絶える。

アバンにおいて、月野うさぎと地場衛の素顔の地平上において見つめ合
うに至った二人は、一人が一人のために命を賭ける悲劇を体験すること
によって、さらに前世の二人としてあらためて覚醒しようとする。

この瞬間は、「うさぎ」という呼びかけに対して初めて「まもる」と呼
びかけた瞬間であり、互いに想い合う男女の気持ちが死を媒介にして初
めて結ばれた瞬間であり、はるか遠い過去に演じられた悲劇が再現され
た瞬間でもある。うさぎが初めて「まもる」と名を呼んだことが契機と
なり、「エンディミオン」という封じられた真名が口にされる。

こうした劇的な高まりが、うさぎの真の記憶を刺激して、いよいよプリ
ンセス・セレニティが劇的な姿を現す。

そして、プリンセス覚醒による銀水晶の発動に際して、クンツァイトが
咄嗟にダーキュリーをマントで庇うのも芸が細かい。ここにもAct.22
明確なエコーがあると思う。邪悪なるものに対して、銀水晶の力は危険
である。火事場の馬鹿力的な小規模な発動ですら、ダーキュリーを縛る
邪法を解消して真の亜美ちゃんの姿を垣間見せた。

未だ手駒として有用であるダーキュリーを手放すわけにはいかないクン
ツァイトが、銀水晶の力がダーキュリーに及ぶのを懼れるのは当然だ。

しかし、いよいよ出現したプリンセスの衣裳が、あまりにも清楚寄りの
デザイン
であったのは、ちょっと拍子抜けしないでもない(笑)。ここは
たしかに、未だ王女にすぎないセレニティの清楚さと、非日常性を強調
するデザイン性の兼ね合いの問題があっただろう。しかし、もう少し、
夢の世界の王女様らしい装飾性があってもよかったような気がする。

ただし、この場面のセレニティが絹の寝巻きを着た湯上がりのお姉さん
に見えないのは(見える人もいるかもしれんが(笑))、やはり沢井の表
情芝居の妙と、何よりも照明の力に負う部分が大きいだろう。松村カメ
ラマンの復帰以来、あまり意識することがなかった斗沢秀の仕事ぶりだ
が、このプリンセス出現の場面では、照明の素晴らしさが際立っている
と思う。

プリンセスをプリンセスとして見せるのは、衣裳のデザインとかメイク
とか、そういう装飾面の意匠だけの問題ではない。常に優しく静かな月
光に包まれているかのような光の戯れこそが、プリンセス・セレニティ
としての非日常性を支えている。白いシルク様の光沢地のドレスは、魔
法のような光を受けて豊かな表情を見せている。

まあ、デザイン面の喰い足りなさは喰い足りなさとして、ここぞの場面
でいい仕事をしてくれた斗沢あればこそ、この演出で見せられるなら、
オレはこのセレニティを真のプリンセスと認めよう…ちょっとガンダム
ZZのサラサとラサラ
に似てるけどな(木亥火暴!!)。

最後はちょっとした小ネタとなるが、選択肢の問題として過去世のプリ
ンセスとエンディミオンは、うさぎと衛とは別の役者が演じるという方
向性もあったのではないかと思う。現に以前の衛の夢の場面では、別の
女優が演じているのだから、あのエピソードの時点から今回までの間に
最終的な判断が下されたのだろうと思う。

まあ、前世と現世の役者が違うと、今回のクライマックスのような場面
では少し描き方に智恵が必要となるが、細かい整合性に拘るなら、前世
と現世の二人を同じ役者が演じることは、ストーリーに無視できない矛
盾をもたらしてしまう。

つまり、それぞれの転生者の前世と現世の姿がまったく同じだというこ
とになると、現世においてヴィーナスが演じる影武者に、少なくとも過
去世の記憶を持つベリル、クンツァイト、ゾイサイトが気附かないとい
うのはおかしい
ことになる。ベリルは役割上、過去世ですべての関係者
の顔を見知っていただろうし、四天王は四天王で、月王国の四守護神と
まったく面識がないというのは考えにくい。

そもそもの最初から、ヴィーナスが四守護神のリーダーであることはわ
かっていたはずだし、ヴィーナスがいかに陽動しても、前世においても
ヴィーナスが実はプリンセス・セレニティの仮の姿であったと考えると
は思えない。

まあ、過去世におけるセーラー戦士団が四守護神+ムーンの編成であっ
たかどうかという問題はあるが、前世ではセレニティがムーンに変身す
ることもなく、四天王たちにプリンセスと面識がなかったとしても、前
世ではいなかった新戦士のムーンに不審を抱くというのは、あってしか
るべき当然の疑いである。

ただまあ、これは細かく詰めていけばそういう矛盾もあるという話では
あるし、そこを整合させるか前世と現世で役者を替えることでややこし
い事態を招くかは、悩みどころではあっただろう。視聴者一般がそこま
で気にしないのであれば、それはそこまでの話である。

それから、亜美ちゃんがダークキングダム内で孤立するネフライトに心
ならずも同情を寄せる
のは、悪美を形づくる亜美ちゃんの疼きの表出と
して自然だが、よりにもよってその相手が口先野郎のネフライトかよ、
というツッコミは免れないなぁ(木亥火暴!!)。

前回は、見苦しい姿でベリルの前に逃げ戻った敗残者ネフライトだが、
佐藤演出では、この場面のネフライトに対して妙に同情的なものを感じ
たのはオレの錯覚か(笑)。

やっぱ、汚物大好きの竹光だけに、みっともなく汚れて屈辱にまみれた
男には思い入れでもあるんだろうか(木亥火暴!!)。そんな惨めな敗残者
に対して、コケットリーな美少女が素っ気ない優しさを見せるというノ
リにグッときちゃったりするんだろうか(木亥火暴!!)。

ああ、やだやだ、虫酸が走る(木亥火暴!!)。

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