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Act.26 時の娘

Act.25のコメントがあれだけ膨大化したのは、佐藤ローテ二話分の筋立
ての回収のせいもあるのだが、うさぎと衛の恋を阻む最大の障碍であっ
た日下陽菜がここに来て予想外の修羅場を演じ、そこからの流れでうさ
ぎのプリンセスへの覚醒が描かれるという大一番であるがゆえ、という
側面もあった。

明けて今回のAct.26は、前半がこれまでの筋立ての説明編、後半が衛の
旅立ちを描くという構成で、セーラースタータンバリン投入、セラルナ
顔見せという小ネタもあるにはあるが、第一部終了に際してのエピロー
グという性格の落ち着いたエピソードだ。

そして、今回のエピソードを通じてあらためて強調されているのは、う
さぎと衛の恋の不可避性と、周囲の禁止というテーマである。この宿縁
について、ルナが語る記憶を逐次的に再録してみよう。

るかむかし、地球はひとつの国で、月には王国がありました。ふたつ
の国は光と緑にあふれた美しい国でした。そんななかで、地球の王子と
月のプリンセスは、恋におちました。

地球の王子と、月のプリンセス。ふたりはとってもふかく愛し合ってい
ましたが、じつはそれは、禁じられた恋だったために、わざわいがわざ
わいを呼び、月の王国と地球の王国は戦いを始め、ついには、大いなる
悪によって地球は滅亡し、月の王国もほろんでしまいました。

ヴィーナスが、「タキシード仮面にちかづくな」って言ったのは、正し
かったわ。プリンセスと王子の恋は不吉なのよ。前世で地球と月がほろ
んだのは、そのせいだって「言われてる」し。

…ここでなぜか、ルナの言葉は「伝聞」となる。まこちゃんならずとも
この部分の成り行きには、不審を持って然るべきだ。禁断の恋ゆえの王
国の滅亡という神話的類型は、ファンタジーに慣れた視聴者の耳にはあ
まりにも自然に響いてしまうので、これがただの「伝説」ならば「なる
ほどそうだったの」で済んでしまう話だ。

しかし、事実性のレベルで考えれば「なんでそんなことで星がほろぶの
」というのは、抱かれて当然の疑問である。ファンタジー的な約束事
では一見自然な流れに見えるが、個人のレベルの私的事情である「禁じ
られた恋」が「星の滅亡」という大状況の具体に降りてくるまでには、
眩暈がするほど大きなギャップがあって然るべきなのではないのか。

まこちゃんの提示する疑問は、その辺にギャップを感じる自然な感覚か
ら発するものであろう。なにしろルナが語っているのは、本来「伝説」
ではないはずなのだ。自身が身をもって体験した、惑星と衛星レベルの
大規模な二大国家滅亡の歴史的大悲劇
である…まあ、あのCGを視る限
り、そんな巨大王国には見えなかったが(木亥火暴!!)。

ルナの立場が伝説の伝承者というものであればともかく、彼女は実在し
た歴史の当事者の一人
であり、なおかつ転生者ではなくその場に居合わ
せた当人
である。自身が渦中にあった大状況を包括的に語ることと、そ
れを、語られるその都度情報自体としては劣化しバリアントを生起する
口碑として語ることは、自ずから別の行為である。

そういう意味では、ルナの言葉は、オレたちが期待した真相の開示とは
微妙にズレている。蘇った「記憶」を元に語られた言葉であれば、もっ
と色濃く当事者性が滲み出ていなくてはならない。

あの大悲劇に際してルナはどこにいたのか、どのような立場であったの
か、悲劇の二人に対しては、どのような位置で接していたのか、どこか
らどのようにこの事件を視ていたのか。こうしたことが、ルナの個人視
点で語られて然るべきだったのではないか。

しかし、実際にルナの口から語られたのは、たとえば、両王国滅亡の歴
史的記憶が活きていた大過去というものを想定した場合の、「伝説」の
レベルの言葉である。アルテミスが言うように、ルナの記憶がはっきり
と蘇ったのだとしたら、その言葉は「伝説」ではなく、「伝説」の元と
なった「事実」のヴィヴィッドな回想であるべきだろう。

ここの階層がズレているのが、まこちゃんの「どうしてそんなことで星
がほろぶのか」という疑問を惹起するわけだ。「伝説」というのは「事
実」そのままではなく、「事実」から生起した語りにすぎない。本来的
に「伝説」とは、「事実」の持つさまざまなレベルの具体的ディテール
が削ぎ落とされ、異化された要素が逆に附加され、相異なる意味性のア
マルガムとしてダイナミックに変遷していくテキストである。

たとえば「伝説」において「禁断の恋」と「星の滅亡」が因果関係で結
ばれている場合、それは一般的に何かの「象徴」である。歴史的事実の
なかに内在する何某かの内実を抽象して、時代時代の視点によって異な
る意味性を附与することで、不可逆的に変質していくテキストこそ「伝
説」だ。だからそもそも「伝説」から遡って「歴史的事実」の具体を復
元する作業は不可能である。

しかし、今回のルナの昔語りは、その歴史的事実を体験した当人が「伝
説」のスタイルによって当時の大状況を物語るという破調な形式となっ
ていて、「伝説」そのものでもない。

ここでルナの言葉が「伝説」の形式をとっている理由は、そのものズバ
リ、当事者性の払拭ではないかというのが、オレの見方だ。さらには、
それを語っているのが事件の当時リアルタイムで生きていた者であるか
らには、時間による変質を蒙ったバリアントという性格も無視していい
だろうと思う。

要するにルナの説明は、事態の真相を識らない当時の部外者が漠然と抱
いていたような見解にすぎない。つまり、「王子とプリンセスの恋は不
吉」というのは、何らかのレベルでその恋が当時「禁じられて」いたこ
とと、まさにその悲恋ゆえに滅亡が招来された事実の綜合として、事情
を識らない部外者が下した解釈だということになる。言ってみれば、情
報が制限されているゆえに派生した迷信の類だ。

そしてさらに、まこちゃんが問う「どうしてそんなことで星が」という
具体的な疑問に対しては、うさぎか衛の記憶が戻らない限り真相がわか
らない
という、さらに具体的で当事者性の色濃い条件附けが課されてい
る。「伝説」の形式による迷信のレベルから、歴史のレベルに具体化し
た途端、さらに大状況の渦中の特定人物の記憶にすべての謎が委ねられ
たわけで、事件の叙述レベルは目紛しく揺らいでいる

だとすれば、周囲がうさぎと衛の恋を禁止することには、何の根拠もな
ということになる。「不吉」「近附かないほうがいい」という曖昧な
言い方になっているのは、そのためだ。真相はわからないが、過去に似
たような状況で大きな悲劇が起こったらしい、だから同じようなことを
くり返さないほうが、差し当たり無難であろうという、消極的な理由で
あるにすぎない。

なぜなら、セーラームーンの世界には宗教的な超越者が想定されていな
いからだ。一般的に「伝説」のレベルで、禁断の恋と王国の滅亡という
二つの主題をつなぐのは、前回も触れた「超越存在との違約」という要
素であろうが、それは王族を一種の巫覡の長として、超越者との間に生
涯不婚の契約がなされているとか、両王国の血脈の交わりが禁じられて
いるとか、そういう類の超越者との間の「約束違反」の酬いとして滅亡
が招来されるというパターンである。

ところが、ルナの語りによれば、禁断の恋によって争いや災厄がもたら
されたのは事実でも、最終的に両王国を滅ぼしたのは「大いなる悪」で
あるとされている。これは少し神話類型としては符丁が合わない。普通
一般に、禁断の恋によって滅亡がもたらされる場合、滅亡を惹き起こす
力は
宗教的に尊崇される超越者そのものであるからだ。

禁忌というのは、共同体内の決め事であって、禁忌の侵犯に対して滅亡
が対置されている場合は、滅亡をもたらし得る大いなる力との間の取り
決めが想定されている。しかしこの場合、滅亡をもたらした「大いなる
悪」は、崇められる対象ではなく忌避さるべき敵である。

これを型通りの禁忌の文脈で解釈すると、地球と月の両王国は「大いな
る悪」との間に、両王国不通の誓言によって不可侵の契約を取り結んで
いたということになるが、現世におけるクイン・メタリアが、復活を阻
み倒すべき敵と位置附けられているからには、それはあり得ない。

だとすれば、セレニティとエンディミオンの悲恋が争いと災厄をもたら
したのは、じつは伝説や神話のレベルの事件ではなく、事実性や歴史性
のレベルの事件
だったということになる。それに関連して滅亡が惹起さ
れたのは、事実的なレベルで弱体化した両王国の隙を悪の力が衝いたか
らだということになる。

つまり、セレニティとエンディミオンの恋が禁じられていたのは、直接
滅亡と関連附けられた因縁に基づくものであるわけではない。何らかの
理由によって、両王国間の恋は禁じられていたものの、滅亡と対置され
るような禁忌として認識されたのは、滅亡それ自体についての蒙昧な解
釈のゆえ
であるということになる。そして、歴史のレベル、さらには事
実のレベルでそれを視た場合、王子とプリンセスの恋を禁じることには
何ら根拠がないということになる。

ルナの昔語りが、何とも言えず気持ちの悪い隔靴掻痒の物足りなさを覚
えさせるのは、伝説と歴史と事実のレベルが複雑に混在していて、さら
にはその結論としての恋愛の禁止が、じつは何の根拠もない迷信にすぎ
ない
ことが、きわめてわかりにくく語られているためだろう。

この気持ち悪さは、どこかクンツァイトの復讐劇に感じる矛盾と通底し
ている。真相が段階的に開示されたように見せながら、じつは肝心要の
鍵となる事実をいっさい語っていないがゆえに、整合的に事態を解釈で
きないという、同じような気持ち悪さが残されている。

物語はあと半年も残されているが、クンツァイトの謎も含めて、この部
分に対して整合的なケリを附けるつもりがあるのかどうか、その辺が気
になるところではある。

他方、うさぎを除くレイ・まこも「はっきりとはしないけど、なんとな
く」記憶が戻ったようなのだが、どの程度想い出したのかがさっぱりわ
からない。転生者に蘇る記憶というものが、どのレベルの意識をいうの
であるか、物語中で規定されていないのだから仕方がない。

転生者であるとはいえ、レイちゃんもまこちゃんも、月のプリンセス守
護の四戦士団というごくごくの側近であり、歴史の枢軸に近い位置にい
た人間のはずだ。

非常にアクチュアルな観点でいうなら、どうやらプリンセスの養育係的
なポジションにあったルナ、プリンセスの身辺にあって近衛の騎士とし
て補弼していた四守護神、これらの二者は、王国滅亡という歴史的大状
況にあって、接し得る情報の階層は同程度だったはずだ。

ならば、両王国滅亡譚をルナがレイ・まこに語るという構図そのものが
不自然
だということになる。日常的な顕意識のうえでは「全然」想い出
していないうさぎはともかく、銀水晶の光を浴びてルナの記憶の封印が
解かれ、レイ・まこもいくばくかの記憶を取り戻したのであれば、その
場に居合わせたうさぎ以外の者は、ある程度記憶を共有しているはずで
ある。

知っていることと知らないことに差異があるとすれば、それはその時点
における当事者としての視点の違い、さらには、現時点における認識に
差異があるとすれば、記憶の覚醒度合いの差、転生者と当人との意識の
差ということであろうか。

ここを決めかねているのか、というのが、今回のこのくだりを見ての感
想である。ことは、今在る人間がその当人として体験していない事柄に
ついての記憶の在り方、意識の在り方についての問題である。ここに拘
りが生じるというのも、十分に想像できる。

つまり、火野レイなり木野まことなりという現世の人格は、両王国滅亡
を直接体験した当事者ではなく、その転生者である。彼女たちが、たと
えば自身が体験した事柄であるかのようなリアリティで前世の記憶をも
持つとすれば、たとえば前世のセーラーマーズとしての意識と現世の火
野レイとしての意識が一本の連続上にあるということになり、火野レイ
はセーラーマーズの現世における仮の姿という解釈が可能となる。

ごくごく初期の頃のレビューでオレが示唆した、「転生ものの呪縛」と
いう要素が、いよいよ前面に浮上する頃合いだ。

転生というシステムがアリとされた世界観において、ならば転生者の現
世における人格とはどういうものなのか、人としての本質的な立ち位置
を奈辺に置くべきなのか、という疑問が、そろそろ正面きって採り上げ
られるべき頃合いとなった。

この場合、設定上の縛りとなるのは、セーラーヴィーナス=愛野美奈子
がすでに完全な覚醒を果たしているという既成事実である。つまり、こ
の物語においては、げんざい只今のセーラー戦士ではなく、前世のセー
ラー戦士と連続した意識と記憶を持つ状態が、完全な覚醒として規定さ
れている
のである。

ただし、これは後附けの説明でなんとでもニュアンスを変更できる部分
ではある。美奈子が前世のヴィーナスと連続した意識上で行動している
ように見えるのは、ルナ同様前世の一件の当事者であるアルテミスから
補足された情報に基づいて、意識的に前世の彼女に同化した行動をとっ
ているとも解釈できる。実際には同一上の意識というほどの連続性はな
かった、という形に持っていくことも可能である。

つまり、アイドルの道を選んだのと同様に、前世のヴィーナスとしての
役割をこの現世において引き受けただけ、という持って行き方もあり得
るだろう。そうだとすれば、「前世の記憶」という、一般的には意識の
連続を伴う要素について、恰も「いつか観た映画のような」記憶として
処理し、当人の意識をあくまで現世における人格に固定することも可能
である。

今回のレイ・まこのリアクションが「はっきりとはしないけど、なんと
なく」というものであったのは、その辺に対する留保であろう。その決
定がどのようなものとなるのかは、今後の物語の転び方次第であろうと
思う。

まずく転んで、どうしても前世の因縁をモチベーションとしてドラマを
構築しなければならない羽目になったとしたら
、次善として型通りの転
生者の覚醒が描かれる目も残っているだろうね。

この辺り、思い切った力技できちんと明示する必要があるだろうが、今
回は段階的にプリンセス覚醒から銀水晶発動を見せるのみに留め、その
辺りの描写は掻い撫でただけ、という印象だ。

そういうわけで、提示された「情報」としての前世譚を詳細に視てしま
えば、今回触れておくべき問題として残るのは、衛と陽菜との別れ、そ
してうさぎの決意という、三角関係の清算のみだろう。

くり返しになるが、陽菜は衛との別れを最初の最初から運命附けられた
人物である。彼女は、コミックスにもアニメにもない実写版オリジナル
のキャラクターであり、その存在理由は、うさぎと衛の宿世の恋に現世
における障碍を設けるという、それだけのものである。

うさぎと衛の性格的相性の問題や、銀水晶探しにまつわるセーラー戦士
対タキシード仮面という仮面の関係性、前世における滅亡の悲劇とそれ
に絡めて二人の関係を忌まわしいものとする周囲の無理解、多面的な意
味合いからの禁止のアクション…こうした数多くの障碍に、さらに現実
的な生活面からの障碍を附け加えようと考えた作者の意図は、今となっ
ては窺い知ることはできない。

衛くらいの年代の男性を過去なき男と設定する場合、それまでの生活を
支えてくれた後ろ盾があるだろう、そして、どこの馬の骨ともわからぬ
正体不明の男を、それなりに経済力を持つ人間が引き取る以上、履歴面
を抜きにした衛の個人的資質を評価しているという動機が想定されるだ
ろう、それならば、その人物に娘があったとして、自家の後事を託する
ために衛と娶せようとするだろう、こういう思考の流れは理解できる。

衛を引き取るのが経済力を持つ人間でなければならないのは、地場衛と
いうキャラクターが、型通りの「みなしご」ではなく、どこかリッチで
ファッショナブルな雰囲気を持つキャラクターであるという共通認識に
配慮したもの
だろう。普通に考えれば、本人に過去の記憶がなく身元も
判明していない人間が未成年であれば、行政が養育するか篤志の人物に
引き取られる以外に選択肢はない。

そして、陽菜の回想によれば、衛が日下家に引き取られたのは、幼児期
といってもいいくらいの少年時代である。つまり、日下家に引き取られ
た当時の地場衛は、普通一般にいえば身寄りのない孤児である。

こうした現実性に配慮した場合、リッチでファッショナブルという地場
衛のキャラクターに相応しい経済的なバックボーン、さらにはそうした
リッチな属性を獲得するに至る自然な履歴を用意するのは、ちょっと難
しい。ここはぜひとも金持ちに引き取られたことにしないと、表面だけ
ファッショナブルに繕っても、どこか東芝日曜劇場を思わせる所帯じみ
たキャラクター
になってしまう(笑)。

そして、金持ちというのは、それが純粋な厚意から出た行いであれ、何
の見返りもなく善行を施すものではない。「見返り」と一口に言っても
金銭的なそればかりを指すのではない、たとえば身元不詳の過去なき男
に見どころを感じて引き取るという「厚意」を想定した場合、それが自
家の繁栄という実際的な「幸福」の形で返ってくるべきだと考える、こ
れが金持ちの思考形態だろう。

何かに対して何らかの犠牲を払う以上、それにはそれなりの有形無形の
リターンがあるべきだと考え、まったくの無駄に終わる投機はしない。
少なくとも、小林靖子にとってリアルな金満家というのは、現実的な人
生における勝者を強烈に志向する人間であり、その種の考え方をするも
のだということだろうね。

さらに、その篤志の金満家に子どもがいないということにしてしまった
場合、地場衛は莫大な経済力に対するオールマイティを獲得してしまう
ので、ここにディフィシェンシーを設けるために、本来的な跡取りとな
るべき実子の存在を設ける。

しかし、その一方、昼メロ好みの「嵐が丘」的な「下男として育てられ
たみなしご」という立ち位置に据えてしまうのも、家族性の部分におい
て過度のディフィシェンシーやルサンチマンを抱えることとなって焦点
がズレてしまい、設定上好ましくない。

地場衛が日下家の家族の一員としてそれなりの愛情を享けて生い育つた
めには、衛と実子が対等であらねばならず、ならばいずれ衛と娶せるべ
き跡取り娘と設定してしまえば、自家の戸籍に入るという意味では実子
も同然なので、八方円満に相調和して無理がない。こういう構想上の彫
心鏤骨の過程は、十分に尊重できる。

なので、ネット上で言われているほどには、「陽菜イラネ」とオレは考
えない。これも一種のリアリティに対する誠意だと考えるのだが、肝心
要の跡取り娘の造形に関しては、作者のリアリティがネガティブに作用
したのだということ、これは前回くどいくらいに強調した部分だ。

たしかに日下陽菜のような来歴を想定する場合、円満具足な結構人であ
る「はずがない」、現実面の欠落を克服する過程において人間としての
円満な成長があるのであれば、「不幸にして」何ら現実面の欠落を抱え
ずに生い育った人間には、どこか人間性に未成長な欠落が残されている
べきだろう。

そういう意味では、日下陽菜の厚かましさともとれる鈍感さや、前回露
呈した自己中心的な我の強さは、この種の人間の欠落の在り方としてア
クチュアルではある。

ただそれは、必ずしもネガティブな形で物語上に顕れる必要はないので
あって、ある意味、陽菜と同種の人間的欠落は、何不自由のないプチブ
ル家庭に育ったうさぎにも想定されて然るべきであろう。そして、これ
までのうさぎの描き方において、そうした欠落は他者の痛みに対する想
像力の欠如という形でくり返し描かれてきたが、うさぎの本来的な資質
である天性の善良さと微妙なバランスを保っていたと思う。

それは、主役としての描写の量的な絶対値に負うところも大きいだろう
が、たとえば主役陣と比較して描写の量的絶対値が少ないダークキング
ダムサイドの人物に関しては、描写の密度を高めることで絶対量の不足
を補って餘りある強烈な印象を残している。研ぎ澄まされた彫琢の精髄
である鋭いセリフの数々で、ベリルや四天王のキャラクターは、少ない
描写の余白を読ませる効果的な描き方をされてきたと思う。

他方、日下陽菜に関しては、量的な面でも密度の面でもきわめて関心薄
く描かれていて、こうした描写の中途半端さが、彼女を画面に出すこと
で視聴者に苛立ちを覚えさせるのみに留まっていたと思う。それはそれ
で、全体における描写の重点やバランスというものがあるのだから、そ
ういうキャラクターであっても間違ってはいない。

ドラマにおいては、視聴者を苛立たせるためだけの人物というものにも
それ相応の存在理由がある。彼女は主役である男女の恋の障碍となるた
めだけに登場させられたキャラクターである。そういう分際というもの
がある。

その立ち位置においては、今回のクライマックスで描かれたように、最
初の最初から、彼女自身の意志で美しく身を引くという選択肢しか残さ
れていない。オレの感覚では、これは気の毒な役どころである。

いかに平素は苛立ちを煽る役柄であろうが、本質的に彼女は、主人公た
ちが幸福になるための犠牲として、苦痛を舐める役どころである。視聴
者は最終的にそこに気附き、痛みを分かち合うべきなのだ。陽菜の痛み
に共感し、うさぎたちの罪悪感を分かち持つべきなのだ。

うさぎと衛と日下陽菜の三者の関係性において、何が本当に辛いのかと
いえば、それはウザい女が愛しい男を独占していて恋が成就されないと
いう、見かけのうえでの不可能性が問題となるのではない。

メタフィクショナルな次元においては、物語の要請として主人公たちの
恋の成就はあらかじめ定められており、見かけ上どんな困難な障碍が設
けられていようとも、それはいずれ回復さるべき病的状態を現出するた
めの物語要素にすぎない。本質的にこの三者関係を呪縛しているのは、
あらかじめ成就が定められた恋愛において、それが可能なるがゆえにも
たらされるアンビバレンツであるべきだ。

自身の望みを叶えるためには、痍附けたくもない相手を痍附けずにはい
られないということ、だれかの不当な苦痛と引き替えでなければ願望が
充足されない
ということ、これが絶対的に関係者全員を苦しめるアンビ
バレンツであるべきなのだ。

こうした関係性において理想的な解決とは、真に愛し合う二者関係に対
して、そこから弾き出された存在が納得して身を引くことである。これ
は、恋愛という自由意志で成立する関係性の範疇の事柄でなければ成立
しない解法であって、法的に関係が規定された婚姻関係の絡む三角関係
においては、こうした理想的な解決がもたらされることは稀である。

二者関係から弾き出された存在が、自身の責任においてその苦痛の克服
を引き受けること。自身を弾き出した男女に対していっさい怨嗟の情を
含まずに、自身を取り巻く現実を受け容れること。愛されているのは自
分ではない他のだれかなのだという、辛い現実を受け容れようと努力す
ること。これは自己超克の試練であって型通りの不幸ではないし、だれ
かの幸福の犠牲になったわけではない。

物語のうえで、従来の二者関係に第三者が介入して新しい二者関係を構
築する際に、だれ一人不当に扱わないためには、こうした筋道を用意す
る必要があるだろう。そうでないとすれば、残された怨嗟や憎悪の情が
ダイナミックに衝き動かすドラマを用意して、そうしたネガティブな感
情が平穏な日常を破壊するカタルシスを用意する必要があるだろうし、
それはつまり昼メロやレディースコミックの世界である。

そして、この番組の先行きに関して、うさぎと衛と日下陽菜の三角関係
がもたらすネガティブな日常破壊のドラマを観たいと願う視聴者など、
おそらくただの一人もいないだろう。何度もくり返すが、この関係性に
おいては、最初の最初から落とし所は絶対的に決まっている

日下陽菜という気の毒な女性は、空港での別れの芝居を花道としてこの
物語から退場することが、最初から決まっている登場人物である。これ
までがどうであれ、この空港の場面での辛い「強がり」が彼女の真実と
して美しく描かれるべきだった。

そもそも「強がり」とは嘘である。しかし、別れに際して笑顔をつくり
このような美しい嘘で男を送り出すのは、あっぱれ見事な「女ぶり」の
見せ場なのである。自分以外のだれかを愛する愛しい男にだけは弱い涙
を見せたくないと、しゃんと伸ばした背筋で手を振り、精一杯強がって
みせるのは、立てた「女ぶり」のやせ我慢だ。

男ぶり、女ぶりとは、身ぶりの問題である。後生一生の退っ引きならな
い局面においてどう振る舞うか、ここに身ぶりの問題が立ち現れる。

そして、そうした局面において最重要なのは、畢竟するところ心の問題
ではなく身ぶりの問題
だといっていい。ここでは、身ぶりこそが真実な
のであって、身ぶりに隠された本音は、視聴者だれもが等しく分かち持
つありふれた共感要素でしかない。

物語の観点においては、絶体絶命の局面でどう振る舞うかが最重要なの
であって、どう思ったかなどは描かれる必要さえないといえるだろう。
どうせだれだって同じようなことしか思わないのだから、それは描写の
大前提となる出発点であって、最終目的では決してない。独自の美意識
に基づいた美しい身ぶりを演じ得る人物であること、物語の登場人物が
自身の真実として示すべきはそれしかない。

うさぎの一筋で純粋な想いが、結果的にだれかを痍附けずにおかないと
いうアンビバレンツを説得力を持って描くためには、日下陽菜の描写は
おろそかにしてよいことではなかった。だれ一人望まなかったのに、結
果として痍附けられた陽菜の気持ちが痛ましいものであることを示さず
して、この恋が成就してはならない。

そのためには、この空港の別れの場面で健気に立てた女ぶりこそが、日
下陽菜の最後の真実である必要があっただろう。最初から運命附けられ
た別れを美しく立派に演じ抜くこと、これは日下陽菜という劇中人物が
作者に要求し得る最大の権利
であったはずだ。

しかし、現実に描かれた物語では、オレは到底この場面の陽菜の哀しい
強がりを、彼女の真実として真に受けることはできない。彼女がプライ
ドの高い人物として描かれるためには、この時点で「気附く」のでは遅
すぎる。彼女が強がって主張する「プライド」は、前回の醜い修羅場に
おいて、自身の手によって泥にまみれ踏みにじられたばかりである。

ここの強がりは、強がりであることが視聴者にそこはかとなく感得され
ればいいのであって、前回の描写によって強がりであることが「裏附け
られる」必要などまったくない。不必要に強調された彼女の人間的欠落
は、本来的には「建前」の美しさを立てることによって、せめても人と
してのプライドを保ちつつ辛い現実に立ち向かおうとする彼女の決意を
嘘にしてしまったと思う。

なにせオレなんか、「日本にいないで」という陽菜の言葉を、自分と衛
がうまくいかないなら、せめてうさぎと衛を遠避けておきたいという、
あざとい計算じゃないかと一瞬疑ったくらいだ(木亥火暴!!)。小林靖子
がこのセリフに本気でそんな意味を込めたのだとしたら、それはいくら
なんでもやりすぎ
だが。

オレもまあ、本気でそう思ったわけじゃないが、それは、前回の描写の
せいで、そうした惨めったらしい未練を自身に禁じるほどの矜持が彼女
に残っているかどうかが曖昧になってしまったせいだと思う。少なくと
も「けっこうプライド高い」という言葉を聞いて、大部分の視聴者が失
笑した
ことは間違いないだろう。

そして、辛い現実に立ち向かおうと自身を鼓舞する人間から、プライド
まで剥ぎ取ってしまうのは過剰に残酷だ。愛しい男に対して、せめて醜
い内心を晒すまいと懸命に振る舞う女の強がりを嘘にしてしまうのは、
物語の語り口として不必要に残酷だ。

去りゆく男に弱い涙を見せまいと背中を向けて手を振る陽菜の内心が、
前回描かれたような生々しいものであることなど、大人ならだれにだっ
てわかることだ。だれだって、自分の愛した相手が他のだれかを愛して
いると知ったら、「はいそうですか」と簡単に納得するわけがない。

汚く泣いて縋っても、醜く情のしがらみに訴えてでも、愛しい人の心を
取り戻したいと願うのは人情だ。ただし、心にそう思うことと実際にそ
う振る舞うことは、絶対的に別問題
である。現実の振る舞いとして泣い
て縋ってしまったがゆえに、今この場で背中に隠した涙は嘘になってし
まったのだし、情のしがらみに訴えてしまったことで、衛の将来に対す
る思い遣りは嘘になってしまった。

Act.25の陽菜がらみの筋立てが丸ごと要らないと思うのは、たとえば、
ハンカチを見附けた場面以降の筋立てが丸ごとなかったと仮定して、こ
の空港の別れの場面で、背を向けて手を振る陽菜が劇しく泣いていれば
だれにだってあのくらいの内実は想像できるからだ。だれにだって想像
できることは、敢えて描写する必要はない
のだし、この場合は邪魔でし
かない。

陽菜がいつもどおりのノホホンとした態度でああいう強がりを言う、そ
こで視聴者は「こいつ、何考えてるのかホントわかんねぇ、やっぱ薄っ
ぺらなキャラだな」と不審に思う、しかし背を向けた陽菜がはらはらと
痛ましく泣いていれば、視聴者は驚きとともに一種の情感の罠にかかる
のである。

厚かましいくらい鈍感で視聴者を苛立たせる書き割りキャラだが、美し
い建前の許に身を引く際に涙を堪えきれなかった、その涙に対して視聴
者が痛ましさを禁じ得ないのであれば、陽菜を不当に追い詰めたのは
聴者も同罪
だ。同罪であるべきだ。そこで視聴者は、陽菜の辛さを分か
ち合うことで、衛の罪悪感をも分かち合うべきなのだ。本来そのように
ドラマは組み立てられるべきなのだ。

可愛げをそそる人物でなければ不当に扱っていいというものではない。
いじめても可愛らしく泣かない奴はいじめていいということではない。
邪魔な人物は邪魔だからといって悪者にしていいというものでもない。

日下陽菜がいかに鈍感で苛立たしい人物であったとしても、愛する男か
ら身を引く辛さはだれだって同じはずだ。愛し合う男女にとって、それ
がいかに自然な成り行きであっても、身を引かされる当人にとって、そ
れは絶対的に不当な現実である。

このような共感可能な辛さが不意に露呈され、否応なくそれに絡め取ら
れることで、視聴者はドラマの罠にかかるのだ。

陽菜が薄っぺらな描き方をされてきたという事実は、こういう形でしか
活かしようがなかったと思う。だれも関心を持たないような人物にも、
だれもが生きるような人生があるのだということ、そこで味わう辛さに
分け隔てはないのだということ、どうでもいいからといって不当に扱っ
ていいものではないのだということ。これを理解するよすがとして、ど
うでもいい書き割りキャラは活かされるべきだったろう。

この物語における日下陽菜は、最終的には、視聴者に受け容れられその
哀しみを共に哀しみ得る存在として、唐突に立ち現れるべきだった。そ
こをこそ到達点と設定してすべてを組み立てるべきであった。

彼女に運命附けられた辛さを十全に描くことで、うさぎと衛の関係もま
た活きていたはずだ。現状では全方位の禁止に晒されている二人の関係
だが、陽菜が納得して身を引くことによって、それだけのポジティブな
重みを獲得していたはずだ。

陽菜が辛い諦めを引き受けるに至ったうさぎと衛の関係が、おろそかに
禁じられていいものではない。陽菜が納得して身を引くことによって、
逆に陽菜はうさぎと衛の関係を劇中で唯一肯定し得る立場に立つ。視聴
者もまた、陽菜にあれだけの苦痛を舐めさせた二人の関係は何だったん
だと、二人の関係がいかに逆境に晒されても応援していく動機を持つ。

ひるがえって、第一部のラストでついにうさぎと衛が何ら確たる約束も
なく、旅立ちを見送ることもなくすれ違いのままに別れることとなった
のは、他にいろいろな思惑があるのだとしても、衛と陽菜との関係をう
まく着地させることに失敗したからだ
とオレは感じる。

たしかに、現状の組み立てでは、うさぎは衛を見送るわけにはいかない
だろうし、お互いの愛情を確認するわけにもいかないだろう。それは、
日下陽菜という人物に美しく身を引かせることに失敗しているからだ。

衛と陽菜の別れに際して、視聴者に「二人のこれまでの関係は終わった
が、新たな関係の構築が始まるのだ」というセリフどおりの嬉しい予感
を与えることに失敗したからこそ、うさぎは空港に駆け附けるわけには
いかなかったのだ。

日下陽菜は、今こそ辛いだろうけれど、やがて別の意味で衛と幸福な関
係を築き得るのだ、前世の宿命に裏附けられたうさぎとの関係とは別の
意味で、現世でこれまで積み重ねてきた陽菜との関係は、衛にとって真
実のものなのだと視聴者が信じられさえすれば、うさぎと衛の間に何ら
かの約束や通い合いが持たれてもよかっただろう。

去りゆく陽菜の背に向けて衛が叫ぶ「たいせつだと思ってる」という言
葉が、愛を得られなかった惨めな女に対するとどめの一撃にしか聞こえ
ないのは、やはり描かれている何かが決定的に間違っているのだ。

陽菜は、衛が自分を「たいせつ」に思う気持ちが、男女の愛ではなく、
肉親に対するそれのような感情であることを知っている。そしてそれが
今現在の自分が望むものと決定的にズレていることを哀しむと同時に、
その衛の気持ちが真実のものであり、今現在の自分の望みとは別の幸福
をもたらしてくれるであろうという予感にも縋っている。それが最後の
真実として感得可能な形で描かれるべきだった。

そこはバランスの問題だ。うさぎと衛が何らかの確かな希望を抱くため
には、そこから弾き出された日下陽菜もまたそれに見合うだけの嬉しい
希望を許されねばならない
。プライドを抛った哀願が皮肉に裏切られ、
約束されたはずの女ぶりを嘘にされた日下陽菜が、ボロボロに打ちのめ
されて去るのでは、いくらなんでも情感の天秤が傾きすぎている。

前回指摘した、物語における公平さの感覚、それが辛くも残されていた
というべきなのだろうが、衛と陽菜の関係が円満具足に着地し得なかっ
たからには、うさぎと衛もまた、ハッキリした言葉による約束や通い合
いで、互いの距離がもたらす孤独の辛さを和らげることは許されない。
うさぎは、約束や確認もなく遠国に旅立った人を想い続ける辛さを強い
られる。

物語としては、やはり失敗しているというべきなのだろう。

うさぎと衛の関係が、出発点のままにはあり得ないという視聴者の感覚
は、劇中でこの二人が成し遂げた具体的な何かによってもたらされるの
ではない、普通なら自然消滅してもしょうがないような成り行きとなっ
ているのに、それが前世から宿命附けられた恋だからこそ、どうせこの
先何とかなるんだろうという予定調和の感覚
を持つだけだ。

ベタだろうが何だろうが、男が遠地に旅立つからには、女に約束の言葉
を残すべき
である。約束もなしに女を待たせるのは、ドラマにおける恋
のプラトーではない。

空港で見送らないという落とし所へ持っていくのであれば、女の側に何
らかの確信を持たせるべきだ。この場合、ドラマが禁じるのは「空港で
見送る」というアクションであって、そこで交わされる通い合いを禁じ
ているわけではないからだ。

距離に隔てられた恋心が、ドラマとして必要なテンションを維持するた
めには、やはり言葉や約束や確信という「かたち」として残るものが必
要なのだとオレは思う。

そういう意味では、第一部のエピローグとされるこのエピソードの結末
は、どこか間違っている。何もかもがドローになったという、何とも煮
え切らない感覚を視聴者が覚えるのだ。今回は詳細に触れないが、少な
くとも第一部完結というのなら、亜美ちゃんの奪還と三角関係の決着を
対にして語るべきであっただろう。

亜美ちゃんも敵に奪われたまま、去りゆく陽菜の手当も為されず、うさ
ぎと衛の関係にもハッキリした通い合いがないままに第一部の幕が引か
れたというのであれば、やはりそれは、物語が動くだけ動いた挙げ句、
何の決着も附かずに持ち越されたという、一種のシリーズ構成上の失敗
だろうとは思う。

しかし、その一方でこの失敗は、ドラマづくりというダイナミックな営
為の実態をまざまざと体現した、豊穣な失敗である。凡百の成功より出
て意味のある幕引きであったことは、少なくともこの半年間、固唾を呑
んでこの物語を見つめ続けてきた人間にとって疑い得ない事実である。

ひとまず、小林靖子を肇めとするスタッフ諸氏には、おつかれさま。

そして、ドラマとそれに対して一方的に売り続けたオレの喧嘩は、これ
にて後半戦へともつれ込む(笑)。

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