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Act.27-2 さだめは死

閑話休題、現場事情に関する部外者の憶説はこのくらいにして、そろそ
ろ実際の作品に目を向けるとしようか。先の宣言の流れからいうと、前
回ローテで言及したそばからベタベタの窓抜きNRとは、オレに喧嘩を
売ってるのか、舞原賢三?
…と、噛み癖の悪い狂犬のように一方的に力
み返ってみるとしようか。

しかしまあ、今後の窓抜きNRのお手本となるようなこれだけのハイレ
ベルで見せられたら納得せざるを得ないし、第二部の幕を開けるに際し
て、第一部を手短に総括するという、きわめて意味のある使い方、こう
いう喧嘩ならいつでも買うぞ
。とにかく、うさぎのナレーションのテン
ポにジャストフィットさせたつなぎのリズムが心地よい。

語り手のうさぎを最初から窓抜きで出すのではなく、まずフルフレーム
のバストショットで押さえておいて、「わたし月野うさぎと、亜美ちゃ
んと、レイちゃんと、それからまこちゃんが…
」というセリフのリズム
にしたがって、曼陀羅状に配された各戦士入れ込みの円形の窓がシュリ
ンクし、そこからの流れでうさぎを窓抜きに引いていく。

さらには、うさぎの視線をヴィーナス・プリンセスバージョンへ挙げさ
せ、そのきっかけでうさぎの窓もシュリンクして仕舞い込んでオフのナ
レーションに持っていき、最後に亜美ちゃんに言及することで前回の引
きにつなげて、語り手のうさぎが与り識らぬはずのセラルナ対ダーキュ
リーの邂逅戦につなぐ多層的な手順が、実もってていねいだ。

おまけに、このアバンの締め括りが猫ルナの額の三日月のアップで、そ
れがOPの満月に重なる手法は、以前鈴村がAct.10で用いたパターンと
同工異曲ではあるのだが、セラルナ登場をフィーチャーしたエピソード
の趣向としていかにも洒落ている。

前回も触れたように、アバンもやっつけの約束事とはとらえず、本編へ
と視聴者の興味をつなぐ重要な要素と認識してこれだけの手間を懸けて
いる舞原賢三の姿勢は、毎度のことながら称賛に値する。

さらに、どうも復帰以降はネガティブ評価を覚えがちだった松村カメラ
マンの絵づくりも、セラルナ対ダーキュリー、ルナ橋を歩くセラルナと
いう一連の新キャラクターお目見えシーンにおいては、効果的なフィル
ターワークで、変なカラーコーディネートのキャラクター(笑)を可能な
限りきれいに見せようと意識しているように感じられる。

パープルにイエローにネイビーという強い色同士のうるさい配色になっ
ているセラルナは、クラウンやトイザらスなどのポップな色調メインの
屋内シーンならさほど違和感は覚えないが、ビルの屋上やルナ橋という
地味な色調の場面ではどうにも浮いて見える。ここをフィルターで抑え
て全体の色調を調整するのは、たしかに的確な判断だ。

番組初期のルックを確立した松村カメラマン、ここへ来て番組のタッチ
に関する勘を取り戻したというところなのか、それともベテランカメラ
マンの的確な判断力が吉と出ているのか。少なくとも、前回の舞原ロー
テで覚えたような不満は今回は感じなかった。

スタッフの好調ぶりというつながりでいうならば、Act.25のプリンセス
出現シーン
で手腕を見せ附けた斗沢秀の照明も、クラウンでの「重大発
表」ギャグというどうでもいいお遊びの場面でも沢井の芝居と連動して
効果を挙げているし、トイザらスのセラルナや湖畔に佇むダーキュリー
という面倒くさい場面でも、存分に持てる力量を発揮している。

このエピソードにおいては、大筋においてテクニカルな死角はない。ラ
イダーとも戦隊とも異なる、これまでの東映特撮にはない新しいルック
の作品が、若手を中心とした現場によって的確に支えられているという
事実は、ジャンルの将来を明るいものにしているといえるだろう。

ただ一つだけ今回のエピソードのビジュアルな難点を挙げるとしたら、
またしても前回の舞原ローテと同様な指摘になるのだが、クライマック
スのムーン対ダーキュリーの戦闘場面のロケーションだ。粒状性の良い
エマルジョンのフィルム作品なら問題ないのだろうが、ビデオ作品とい
う性格を考えると、規則正しいストライプが走るようなテクスチャーを
持つ背景は避けたほうが無難だっただろう。

おそらく何らかの録音施設だと思うのだが、吸音のための壁一面のフィ
ンは、肉眼の見た目的にはおもしろかったのだろうが、ビデオで見ると
カメラが動く度にモアレを起こして、ちょっと見苦しい。

モアレが何らかの眩暈効果のようなものを醸し出していれば、意図的な
ロケーション設定だと思えるのだが、原理的に汚く潰れるだけなので、
ビデオ映像のデメリットが強調されただけに見える。ちなみに、オレの
ところのモニターは、この番組のために三月に買った新品の29型4:3の
三菱製で、ビデオ撮影作品を観るには比較的好適な環境だと思うが、普
通に縦縞が汚く潰れているだけに見えた。

ある意味、こうした具体面に対して先鋭な意識を持っているはずの舞原
ローテにおいて、二度もクライマックスのロケーション選定に失敗例が
あるというのは、ちょっと不思議な話である。前回の例がちょっとした
スタッフとの連携不足や現実的な現場事情によるものだとしても、モア
レというのは基本的知識の範疇の事柄のはず。

まあ、モアレが汚いものという意識で映像作品を見ているのは、オレの
ようにレビューを目的として意識的にあら探しをしている人間や、本職
の映像関係者くらいだろうから、大きな失敗ともいえないのだが、何と
なく「らしくない」のが釈然としないところだ。

…うーん、どうなんだろうなぁ、やっぱ意図的な狙いだったのかねぇ?
でもたしか、そもそもこの種の規則正しいパターンが画面全体に占める
割合って、例のポケモン事件以来規制されてるんじゃなかったかな?

それでは、そろそろこのローテの根幹をなす大ネタであると同時に、前
半を締め括る一大テーマである亜美ちゃん奪還に目を向けるとしよう。
亜美ちゃん奪還劇全体については、次回決着が附いてからあらためて総
括したいと思うが、今回のエピソードではついにダーキュリーが宿望を
果たし、セーラームーンを殺害するところで幕引きとなる。

まあ、そうはいってもこの番組のリアリティでは、これまで人が死ぬと
ころは一度も見せていないわけだし、まして主役であるムーンがあっさ
り死ぬはずがない
んであって、死んだように見えるのは見せかけにすぎ
ないとは思うんだが、劇的内実において描かれているのはダーキュリー
によるムーンの殺害だということだ。

たとえば男子向けの戦隊のリアリティならば、少なくともムーンが死線
を彷徨う重症を負うという程度には生々しく描かれていただろうし、あ
るいは、銀水晶という万能のアイテムを前提にするなら、実際に肉体的
には一度死んだことになっていたかもしれない。

いずれにせよ、ここで語られている劇的内実は、愛憎ただならぬ間柄の
親友の殺害という取り返しの附かない罪障と、そこからの再生の物語だ
ろうと思う。劇的な力学のレベルでは、今回のラストでムーンは、愛す
る者の手に懸かって一度死んだ
のだと解釈してよいだろう。

最初から順を追って視ていこう。アバンのセラルナとの邂逅戦以来、苦
悩するダーキュリーのようすが度々インサートされ、銀水晶の力によっ
て亜美ちゃんに懸かったクンツァイトの妖術が破れかけていることが、
くり返し描かれる。それは、蘇りかけたうさぎへの想いと、それを阻止
しようとする魔魅の綱引きの形で描かれている。

たとえばセラルナが去った後のビル屋上の苦悩の場面では、クラウン内
に独り取り残され、四人の友情を一心に想って手袋を編む不鮮明なかつ
ての自分の記憶の姿に悩まされ、自問するダーキュリーがふと見上げた
落日、その同じ夕陽をルナ橋を渡るうさぎが見上げるきっかけで、そこ
から亜美ちゃんが望んだ四人の姿、さらには微笑む亜美ちゃんの俤に想
いが及ぶ流れは、例によっての美しい対称をなしている。

また、湖畔に佇むダーキュリーの場面では、ルナの行方を気遣ううさぎ
が何心なく見上げた同じ月…否、その月を映して揺れる水面をダーキュ
リーが見つめるという心憎い描写によって、うさぎへと向かいかけてい
るダーキュリーの心中を描き、さらにクンツァイトがその水面の月を飛
礫で乱す
ことによって、想いの淵から引きずり出す。

見るな。おまえはすでに、闇の者だ」というクンツァイトの言葉は、
ダーキュリーが水面に映じた仄かな月の輝きを受けることすら許されな
い暗い闇の中の存在であり、最早後戻りできない地点に来てしまったこ
とのダメ押しだ。

うさぎと同じ月を見上げるという形なら、落日のシーンの反復にすぎな
いし、これまでにも似たような描写があったわけで凡手の誹りを免れな
いが、この場面の描写では、真っ向から美しい満月を見上げることがで
きないという、心利けた捻りが加えられている。蘇りかけた記憶に悩ま
されるダーキュリーは、水面に影を落とした千々に揺れる不鮮明なかた
としてしか月を視ることができない。

これは、クンツァイトがあらためて命ずるまでもなく、いにしえの王国
とそのプリンセス=うさぎの象徴である月を仰ぎ見ることを、内心ダー
キュリーが懼れていることの顕れだろう。水野亜美として抱いていたう
さぎへの愛情を想い出してしまうことは、ダーキュリーとしての自分の
存在の消滅に直結する。

なぜなら、ダーキュリーは真実をねじ枉げた偽りの「愛の復讐」をレゾ
ンデートルとする、水野亜美の虚像
にすぎないからである。ムーン=う
さぎに対する憎しみは、劇しく切ない愛とは裏腹の、水野亜美として抱
いてはならない盲目的な激情を真実の悪意的な歪曲によって解放した、
ネガティブな虚構にすぎないからである。

そして、こうしたダーキュリーの存在の欺瞞性は、ダーキュリーがうさ
ぎに策略を授けて呼び出す場面で、揺れ惑うダーキュリーを一喝するク
ンツァイトの言葉に顕れている。

戦え、今のおまえであり続けるために。

「今のおまえ」であり続けることが、本当にダーキュリーの望みである
のか、ここは問われてよい疑問だろう。水野亜美のダーキュリーとして
の意識の在り方は、実はよくわからない描き方をされているからだ。

アバンのうさぎの言葉では「悪い心に変えられた」というふうに表現さ
れているが、水野亜美の心が悪い心にねじ枉げられているのか、それと
も悪美=ダーキュリーに相当する第二人格を植え附けられたのか、ここ
が曖昧なままこれまで通されてきた。

一見してダーキュリーの言動は、水野亜美としての過去の記憶を持ち合
わせているように見えていたが、「わたしは、いったい、だれなの?」
という自問の言葉にあっては、それすら確かではないということになる
だろう。それが、ダーキュリーとしての意識から水野亜美に戻りかけて
いることに伴う混乱なのかどうかも定かではない。

これらの描写を綜合して考えると、ダーキュリー=悪美は、水野亜美と
しての記憶を完全に保持していたわけではなく、偽りの真実である「愛
の復讐」をひたすら実行すべく動機附けられていただけで、自分がだれ
であるか、なにゆえにそのような憎悪を抱いているのかについても頓着
することはなかった、ということになるだろうか。

たしかに、ここを分明に語ることにあまり意味はない。「悪い心に変え
られた」というのは、何かを説明する言葉ではなく、ダーキュリーの現
状を表現するだけの言葉である。一方では、Act.22の感動のラストにお
いては、ダーキュリー=悪美は水野亜美その人ではなく、偽りの姿であ
ることがハッキリと言明されている。物語に必要な説明は、これだけで
事足りているという言い方もできるだろう。

なぜなら、ダーキュリー=悪美の意識の在り方を掘り下げることは、
野亜美の在り方について視聴者の解釈を無用なダークサイドへミスリー
ドする結果になる
からだ。

ダーキュリーは意図的にそのように設計された人格ではない。たしかに
クンツァイトの妖術によって生み出された存在だが、今このようなもの
として在るダーキュリーは、目0指されてそうなったのではなく、結果と
してそのようなものとなったのだ。

それは言い方を変えれば、水野亜美の人格にダーキュリーを生み出すよ
うななにものかが潜んでいたということになるのだが、そこは限界のあ
る人間が責任を持つべき範疇の事柄ではない
だろう。ここに視聴者の関
心を向けることは、得策ではない。

ダーキュリーの在り方について最も重要なのは、悪意を抱く他者の作為
によって本来の人格がねじ枉げられていることだ。たとえばこれを、妖
術によって心の深奥に潜むダークサイドを解放した、という言い方もで
きるだろうが、それは大きなお世話様である。

人間が醜い真情を心の奥底に圧殺するには、それ相応の理由があるので
あって、それを決めるのはあくまで当人の自由意志だ。そして、人の本
来の人格というときに、自身の裡なる混沌のなかから何をもって自身の
真実と選び取るかという自由意志の介在なしに、おろそかに「本来の人
格」などという言葉が遣われてよいものではない。

クンツァイトの妖術が、水野亜美の心に潜む水野亜美固有の闇に働きか
けたのだとしたら、それは許されない行為であるし、その結果生起した
人格は、本来の水野亜美とは無関係である。それをして「おまえの本当
の姿はこれだ」と強弁するのであれば、望みもしない贈り物によって悪
魔はそういう詐術を遣う
ものだということだ。

「今のおまえであり続けるために戦え」というクンツァイトの言葉は、
悪魔の二枚舌による厚かましい欺瞞である。ダーキュリーは、そう思わ
されているだけで、今の自分であり続けることに執着してなどいないの
だから。この場合、うさぎの言う「いつまでも、あんな亜美ちゃんでい
ていいわけない
」という言葉のほうが真実だ。

そして、こうしたクンツァイトの悪魔性は、前回はダーキュリーを押し
退けて手ずから葬ろうとしたプリンセス=セーラームーンを、ダーキュ
リーに斃させる計画にシフトしたことにも顕れている。

憎しみの対象を自ら手に懸けることは、わが身の血讐の快感としてしか
跳ね返ってこないが、仇敵が愛する者の手に懸かって果てる場合は、よ
り深甚な苦痛を相手にもたらす。つまり、クンツァイトは自身の快味よ
りも敵の苦痛を選んだわけで、憎しみの成就に対してひねこびた徹底が
なされている。

今回のダーキュリー対ムーンの対決に関しては、銀水晶の影響で揺らぐ
ダーキュリーを逐一クンツァイトが引き戻すというくり返しで描かれて
おり、それはクライマックスにおけるふたたびの銀水晶発動に際して、
クンツァイトが再度妖術の花弁を飛ばすことで終局を迎える。

銀水晶の力とクンツァイトの妖術が正面から拮抗し、その結果として、
最後の妖術の後押しでダーキュリーは宿望のムーン殺害を果たし、しか
もその直後という最悪のタイミングで、銀水晶の癒しの力によって水野
亜美の記憶は目覚める。

氷の剣によって打ち砕かれたムーンライトスティック、硬直した指から
氷の剣を必死でもぎ離そうとする動作、高まる鼓動と収縮する瞳孔、こ
れらは、この結末が愛する者の「殺害」という生々しい事態を暗示して
いることの裏附けであろう。ここに血は一滴も描かれていないが、本来
これはおびただしい流血に彩られるべき凄惨な場面を志向する演出であ
ろうと思う。

死せるムーンを見下ろすダーキュリーの表情の絶妙の変化、また、水野
亜美としての記憶が蘇る際の回想の鮮やかさ
、これは特筆されていい。

回想シーンの描き方には常に意欲的な舞原演出だが、現在から過去に遡
りつつモノクロからカラーへと徐々に鮮明度を増し、カットのテンポが
上がっていくリズムの素晴らしさ、喪われた記憶の再来の表現としての
的確さはどうだ。初めて亜美ちゃんと言葉を交わした瞬間のうさぎの姿
が、テンポアップする回想の終端にリタルダンドの呼吸で鮮やかな色彩
を伴って立ち現れる瞬間の、劇的な感銘はどうだ。

愛する者の殺害という血の生々しさを伴う結末を、絶叫の余韻で引くこ
の呼吸は、視聴者にただ事ではない緊迫感をもたらす。さらには、決め
事のBGMを抜きにして直結されたモノクロームの予告は、意味ありげ
な亜美ちゃんの独白で極度のストレスを視聴者に与える。

ついに水野亜美を巡る物語は、最愛の友であるうさぎに「仮想上の」流
血と死をもたらしてしまった。くり返し強調するが、これはあくまで劇
的内実における仮想上の血であり死である。そうでなければ、水野亜美
は仲間たちの許へは二度と帰れない。血と、死と、次回描かれる再生は
あくまで目覚めた水野亜美の心象に映じた象徴でしかない。

水野亜美の奪還は、こうした皮肉な形で成就された。そのうえでさらに
設けられた絶望的なイニシエーションは、愛する仲間たちの許への水野
亜美の帰還の物語
となるはずである。

さて、これほど稠密に悲劇とそこからの再生を志向する筋立てにおいて
は、残された小ネタもそれほど多くのものではない。目に附くこととい
えば、竹光ローテから延々引っ張っているネフライトとダーキュリーの
関係くらいのものだろう。

自暴自棄のネフライトが最後に敢行したプリンセス抹殺の暴挙も破れ、
愛を乞うるベリルから「いずれ相応しい死に場所でも探してやらねば」
とまで突き放されたネフライトだが、このベリルの冷酷な言葉にあって
唇を噛む甘さを持っているのがジェダイトの可愛げだ(笑)。

さらに、暗所でいじけるネフライトにゾイサイトが接近し、「気が向い
たらいつでも来い」と誘うのは、なんだか荒れてる不良に体育会系のク
ラブの顧問が更正を持ち掛けるノリ
なんだが(木亥火暴!!)、その流れで
哀れみを示すダーキュリーの姿に回想が及び、一度は岩肌に叩き附けた
マントを頭からひっかぶるに至っては、母親に見捨てられたマザコン男
が初めて他の異性に興味を示すようなノリだ(笑)。

要するにネフライトは、無用にプライドは高いが、本質的に愛されたい
男なのだな。未だプライドが残されていた頃には、素直にダーキュリー
の憐憫を受ける気持ちにはなれなかったが、それが絶対的に快いもので
あったからこそ施しのマントを振り捨てることができなかった。

無根拠なプライドが粉みじんに打ち砕かれ、母とも恋人とも恋い慕うベ
リルに見捨てられ、らしくもない自嘲と自己憐憫に酔いしれる今、心に
縋るべき温もりは、かつてダーキュリーが投げ掛けたつれない憐憫の記
憶でしかない。

ここで描かれているのは、一種の棄児の乳離れだな(笑)。

ネフライトの心中では、一途に思い詰めていたベリルへの思慕が、ダー
キュリーへと傾いている。復讐を動機として動くクンツァイト、かつて
の主君に対する忠義を立てるゾイサイトに続いて、ネフライトもまた、
ベリルを絶対とする忠臣ではなくなった。

残るジェダイトも、ベリルの冷酷な言葉に接して、かつての仲間を想う
気持ちに揺れている。こうした甘さは、悪に徹しきれない人の良さとも
表現できる性情として、ジェダイトを特徴附けている。

こうしてダークキングダムは、徐々に崩壊への道を辿っている。ダーク
キングダムという邪悪な集団そのものは、もはや恐るべき敵ではない。

その一方で、災厄と破滅をもたらす大いなる力は、銀水晶の度重なる発
動を受けてどんどん強化されてもいる。大いなる悪=クイン・メタリア
は、銀水晶の力と相呼応している節がある。それはすなわち、銀水晶が
力を増すにしたがってメタリアの力も強力になり、正邪の戦いは激烈さ
を増していく
ということであり、さらには、完全復活を果たしたメタリ
アを封印し得るのは、完全なる銀水晶の力でしかない
ということだ。

しかし、銀水晶の力を今現在のうさぎたちよりも十全に駆使し得たはず
のいにしえの王国は、メタリアに抗し得ず破滅の道を辿っている。王子
とプリンセスも、大いなる破滅の際に共にあえなく斃れている。

いにしえの王国はなぜ破滅を喫したのか、銀水晶の純粋な巫女であるプ
リンセスはなぜメタリアに敗れたのか、現在のセーラー戦士が勝利し得
るとした場合、その違いはどこにあるのか。結局、謎はここに収斂せざ
るを得ないだろう。

いにしえの王国の滅亡の真相、そしてそれを明かすうさぎと衛の真の記
憶の覚醒、すべてはここにかかっている。

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