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Act.27-1 愛はさだめ

レギュラー出演のアナウンスに接してDVDを取り寄せて以来の小池里
ファンであるオレは、なんとかセラルナに萌えようと、努力はしてい
るんだ。しかし、努力しても叶わないことというのもこの世の中には存
在する
ので、こればかりはやってみないとわからない(木亥火暴!!)。

小池里奈のセリフ廻しも、潘恵子のルナに意図的に似せようとしてはい
るようなのだが、どうも猫ルナの柄と、小池里奈の芝居の柄の平仄が微
妙に合わない感じがしてしょうがない。

慣れてくれば違和感を感じないのかもしれないが、これまでのルナの可
愛さというのは、小作りなオバチャンのマスコット的可愛さなんであっ
て、萌えを伴う少女のあどけない可愛さとは微妙に違うんだよな。

小池里奈の芝居の端々に滲み出る普通の少女らしいやんちゃな可愛さに
は、ビジュアルとしてたしかにグッと来る一方で、その正体が小作りな
柄のオバチャンであるという認識が、今のところちょっと萌えに歯止め
をかけている嫌いは否めない(木亥火暴!!)。

萌えというのは、事実性の次元において期せずして立ち現れるアクチュ
アルな情動であるが、物語性の次元におけるリアリティと整合していな
い場合は、ちょっと興醒めを覚えるということだな。

ひるがえってセラルナの場合を考えると、ルナ人間体を演じる小池里奈
は疑いようもなく事実一一歳の少女であって、小池里奈がコスプレして
いるという次元においては、萌え要素に欠けるわけではない。

その次元において問題となるのは、やっぱあの変な色のヅラは何なんだ
とか、あのカラーコーディネートはねぇだろうとか、デザインやテクス
チャーの面で小池里奈の健康的なスタイルの良さがあんまり引き立たな
い衣裳であるとか、そういうデザイン性のレベルの話でしかない。

萌えの観点において本質的な問題となるのは、素の小池里奈の次元から
一歩踏み込んだ役柄の次元において
である。小池里奈という一一歳の少
女が演じているのは、本来「セーラールナという新キャラクター」では
なく、「別の演者が演じるこれまでのルナ」であるべきで、「セーラー
ルナという新キャラクター」は、その結果として立ち現れてくるのでな
くてはならないだろう。

現実の少女としての小池里奈の肉体性は、あくまでルナというキャラク
ターを演じるうえで、期せずして抗いようもなく表出する事実としての
肉体性であるべきだろう。妙な言い方になるが、小池里奈という演者は
現実に少女としての肉体性を自明に具えているのだから、萌えに関して
はその事実だけで十分なのであって、殊更に少女としての可愛さを伴う
セリフや芝居を附けるのは、逆に興醒め
だということだな。

演者の肉体性が直截画面上に表出する実写作品の場合、このような仕掛
けでギャップを設けるためには、けっこういろいろと注意を払うべき繊
細な事柄があるということだろう。

これがアニメだったら、描きようでいくらでも猫ルナとイメージ的に共
通性のある顔立ちにできるし、同じ声優が少女萌えを掻き立てるあどけ
ない芝居を演じても、アニメにおいて声優がキャラクターに声をアテる
という行為は、事実性の次元において最初から嘘であると断っている様
式なので、萌えの観点ではまったく問題にならない。

実際、一人の声優がストイックな姉御キャラを演じたり、萌え爆発な幼
女キャラを演じたりするのは、見た目の柄によって役を限定されない声
優稼業においては一般的な事情である。現状で確立されているジャパニ
メーションとは、ハナからそういう仮構性の高いメディアなのだから、
少年少女役を実際の幼年者が演じることに拘ったアニメなど、テレビ黎
明期やスタジオジブリの一部の作品くらいである。

潘恵子自身のフィルモグラフィーの話になると、どちらかといえばガン
ダムのララァイセリナとか、聖闘士聖矢の城戸沙織など、お姫様声優
という固定イメージのほうが強いが、そういう役柄を演じられる雅味が
あるというだけで、女王陛下のプティアンジェふしぎな島のフローネ
のタイトルロールなど、萌え寄りの幼女キャラクターも演じている。

アニメ版のほうでも、セーラームーンS劇場版にルナ人間体が出てくる
ようだが、未見なので詳細なコメントは差し控える。ただ、この場合は
潘恵子自身が人間体の声も演じるわけだし、猫ルナの柄とギリギリ整合
しているハイティーン相当の少女に変身するのだから、まったく違和感
はないだろう。

猫ルナ自体のキャラクターについても、実際には「オバチャン」ではな
く「女の子」と規定されているし、潘恵子自身の言によれば、実写版の
ルナ役については、長期に渉るアニメシリーズを踏まえた母親的な演技
ではなく、友だちとして同じ立ち位置の演技を監督から要求されたとの
ことである。だから、おそらくセラルナがギリギリうさぎたちと同年代
の少女であれば、そんなに違和感は感じなかったかもしれない。

ただ、この番組のリアリティで、うさぎたちと同年代の少女があざとい
猫耳や尻尾を附けて萌え爆発な決めポーズを演じていいか
というと、そ
こは微妙なところだったろう(木亥火暴!!)。

この番組における女子中学生は、極度に先鋭なリアリティに基づく人間
ドラマを演じる世代なのであって、月野育子や古幡元基などのコメディ
リリーフ役は、この世代を外して設定されている。

セラルナのキャラクターが、ちびうさを出さずに幼女が自己投影可能な
ちびうさ的な立ち位置のキャラクターを出すための方便
であるという大
前提の事情を差し引いても、セラルナを同年代の少女として設定する目
はハナからなかったということだな。かといって、外部太陽系戦士のよ
うに年上の女性として設定することも、セラルナというキャラクターの
柄やあらゆる意味における重みとの兼ね合いから問題外だ(笑)。

ちびうさの代替としての意味からも、世代的な設定に関する考察からも
セラルナが一一歳の少女によって演じられているのは仕方ないとして、
ではなんでルナの人間体が稚ない少女でなくてはならないのか、そこに
趣向という以上の積極的な物語的意味附けがない

そして、オレがいっているのは、お景物以上の意味がないキャラクター
にオーバースペックともいえるような細かい設定をしろということでは
なくて、事実少女である演者から滲み出るあどけない少女性を、物語性
の観点からどう受け取っていいかわからない
という曖昧さが、結果とし
て萌えに歯止めをかけているということなんだな(木亥火暴!!)。

さらに、今回の本格登場編におけるセラルナは、見かけが変わっただけ
ではなく、物語内の成り行きとしてもこれまでのルナと立ち位置を変え
ていて、鬼軍曹的な教育係として気負っており、人間体に変身できたこ
とで無闇にはしゃいでいるという、二重三重に平素とはギャップのある
状態にある。

各戦士を訪れて戦士としての特徴を要約するのは、顔見せ的な意味合い
や第二部開始に当たってあらためて主要キャラを紹介するという意味も
あるのだろうが、別に猫ルナだった頃でもできたはずのことを、殊更に
人間体になってからやる必要はない。

教育係としての意識で現状の戦士たちの成長ぶりを視察する、あるいは
人間体となった嬉しさで戦士たちにそれを見せびらかしたい、という一
応の名目は立つのだが、物語上のちょっとしたシチュエーションギャグ
の仕掛けとして、一見して正体不明のキャラクターが各戦士の許に出没
しているという見かけ
になっていて、これらの事柄の綜合として強調さ
れているイメージ上のギャップが、セラルナと猫ルナのイメージ上の断
絶を際立たせている。

アバンで早々に正体バラしをしてしまったのは、ここをサプライズの仕
掛けとして伏せたまま引っ張ったら、よけいに断絶が際だってしまうの
で賢明な判断だったと思うが、どうしたってセリフや仕草にあどけなさ
が滲み出てしまう一一歳の少女が、ベテラン声優の演じるぬいぐるみの
猫と同一の役柄を演じることには無理があるので、イメージ上の橋渡し
のほうをもっと優先したほうがよかったのではないかと思う。

そして今回のオレの決めゼリフとしては、「萌えは後から附いてくる」
ということにしておこう(木亥火暴!!)。

もうセラルナに関しては、小池里奈に可愛い芝居をさせちゃダメ。小池
里奈個別の可愛さを抜きにして徹底的にルナとして演じさせることで、
何がどうあろうと事実として一一歳の少女である小池里奈の可愛さが、
自明性を伴って滲み出てくるものだろう。

そういう意味では、猫属性萌えや幼女萌えを意識したお遊戯的な変身バ
ンクやセラルナとしての動きの附け方も、ちょっとサービス過剰でいた
だけない。動作がコミカルにしつこいということもあるが、少女のおま
せなコケティッシュぶりが、どうにもルナっぽくない
からだ。

セラルナをルナと同一視した場合、ルナのキャラクターが「女の子」と
して規定されてはいる一方、内面においてはセーラー戦士たちをリード
する大人っぽい部分をも持っているわけだから、こういうあどけなさが
あざとく見えてしまうんだな。

また、この変身バンクに猫ルナを混ぜたのは、イメージを収斂させるた
めの仕掛けだろうが、じっさいこのバンクで動いているCGのルナは、
小池里奈の可愛さを引き出す動きのほうに引き寄せられて描かれている
ので、平素のルナらしい落ち着いたお茶目さとは違う。

まあ、猫属性少女定番の萌えポーズとして、ぬいぐるみにできない動作
をあえてやらせているわけだし、それをぬいぐるみのCGがマネしてい
わけだから、違和感があるのは当たり前なんだが、新しく混ざってく
る小池里奈にルナのほうを引き寄せて描いても、イメージを収斂させる
ことにはならないと思う。最初は人間体のほうを極力従来どおりのルナ
のイメージに引き寄せて描き、徐々に崩していくという組み立てのほう
がよかっただろう。

ただまぁ、おそらくセラルナの変身バンクもヴィーナス同様今後フルサ
イズで使われることはあるまいし、セラルナの出番自体も減っていくこ
とだろう。さらに、新キャラクターの顔見せとして、そのキャラクター
自体の魅力をまず初っぱなから最大限に前面に押し出すという方法論も
あながち間違っているとはいえない。

猫ルナと人間体のイメージ上の連続性も、反復して描かれればそれなり
に確立されてくることだろう。オレの見解は、あくまで顔見せ編におけ
る描写の在り方についての意見である。

それから、先ほどは当たり前のように「セラルナはちびうさの代替」と
コメントしたが、セラルナのデザインやキャラクターイメージがちびう
さのバリエーションであるという以上に、かなり初期の段階から、作者
はこの番組にちびうさを出したくないだろうという予想
を抱いていたた
めに、そう判断した次第である。

なぜなら、ちびうさというキャラクターは、転生という設定とならんで
セラムン世界を呪縛する「未来の先取り」という要素の象徴的存在だか
らである。ちびうさが存在する以上、うさぎと衛の恋の帰趨はハナから
決まっていることになる。

コミックスやアニメでは、うさぎと衛の恋にそれなりの決着が附いてか
らちびうさを出しているので、一応の名目は立つのだが、未来の世界に
クイーンとキングがいる以上、うさぎと衛の関係に自然な物語上の障碍
を設ける場合、「未来の世界が危機に晒されている」とか、ちょっと不
自然な状況を設定しなければならなくなる。

加えて、一〇〇〇年の断絶を設けているとはいえ、普通一般の感覚から
すれば、シルバーミレニアムというのは、大部分の大人にとって気持ち
悪い未来像である(木亥火暴!!)。ベタに考えても、うさぎと衛に統治さ
れる地球なんぞに住みたいと思う奴はいないだろう(木亥火暴!!)。

そもそも裏の主題歌である「セラヴィー」において、予定調和の小説や
映画はつまらない
と嘯いているのだから、予定調和そのものの象徴的存
在であるシルバーミレニアムなど出したいとは思わないだろう。

そして、この番組の構想においてうさぎと衛の恋を一年間のシリーズを
通して引っ張る計画だとすれば、その恋の結末を明かすちびうさは到底
出せるキャラクターではない。シルバーミレニアムにも言及せず、うさ
ぎと衛の恋の結末も伏せておくためには、どうでもちびうさを出すわけ
にはいかない。

それでもちびうさ的なキャラクターを出したいというのは、まあ普通に
考えたらお餅屋の万歳さんの意向なわけだが(木亥火暴!!)、それを裏附
けるかのように、ルナ持ちの変身携帯ルナティアLは一部新金型を使っ
た新造形で、もう一種同じ仕掛けで玩具を売ろうという魂胆らしい。

…それにしては、肝心の持ち道具がムーンとまったく同一の「ムーンラ
イトスティック」で、どうやらパッケージ変更だけで同一商品を売るつ
もりらしいというのが、商売の仕方として投げやりなんだか前向きなん
だかサッパリわからない(木亥火暴!!)。

察するに、新戦士を一人出して玩具を売るためのリスクは、携帯のフタ
の金型一個分しか払いたくないということらしい(木亥火暴!!)。そんな
モンは、たとえばデカレン七〇〇円ソフビの金型で、イエローとピンク
の胸の番号のモールドを変更するだけの手間とほぼいっしょだから、限
りなくゼロに近いということだろう(木亥火暴!!)。

こうした大人の事情も踏まえつつの新キャラクターなのは重々承知して
いるんだが、未来の実娘であり王位継承者であるちびムーンがムーン同
様ムーンライトスティックを持っているのは自然でも、一介の使用人に
すぎないセラルナが王族の持ち道具をまんま持ってるってのは納得いか
なかったりするんだな。

しかも、攻撃力の実態はハリセンレベルなんだぞ?(木亥火暴!!)

…つか、パチモンじゃん(木亥火暴!!)。

さて、前半こそのんびりしたセラルナ紹介編に終始した感があるAct.27
だが、打って換わって後半戦では、待望の亜美ちゃん奪還編へシフトす
る大ネタ
で、シリーズ前半を締め括る一大クライマックスへ突入する。

マスターズゴルフの休止を挟んで、公式には第二部の幕開けとされる今
回に至って、第一部の締め括りにあるべき亜美ちゃん奪還にようやくケ
リを附けるのはいかにも破調だが、これには、亜美ちゃんエピソードの
最終章をぜひとも舞原に任せたい
という強い希望でもあったものか。

しかし、シーズンビジネスが密接に絡むこの種の決定が、書き手も兼ね
たシリーズ構成者の一存に任されているとも考えにくい、少なくとも、
スポンサーサイドとネゴする立場の白倉も納得のうえでなければ、こう
いう破調の構成とはならないだろう。

さらに、ぜひとも舞原賢三に水野亜美物語の幕を引かせたいという制作
サイドの意向は、何をどう取り繕ったとしても、その裏に高丸・佐藤両
監督に対する深甚な不信があることを暴露する。

たしかに舞原賢三は、このドラマ全体の核となる亜美ちゃんを巡る物語
を一手専売で担当してきた感のある有能な監督だが、普通なら、だから
といってシリーズ全体の構成を崩してでも亜美ちゃん奪還編を舞原に…
という流れにはならないだろう。

時期的な問題として高丸雅隆担当回で第一部が完結してしまうという事
情があったとして、「だから」第二部劈頭の舞原賢三担当回に第一部の
実質的な締め括りを持ち越すという決定は、よほど特殊でネガティブな
事態であるといわねばならない。

顧みすれば、はっきりいって、前回の佐藤ローテの二話はこのタイミン
グでとくに描かれる必要もないヒマネタエピソードであって、Act.22
でに高められたテンションを、無用にクールダウンさせるものでしかな
かった。Act.24に至っては、ヒマネタどころか、エピソードの芯となる
ものがまったくない
。単にだらだらと段取りで筋立てが進められている
だけで、これが一本の独立したエピソードであるべき意味すら感じられ
なかった。

もっといえば、前回のレビューで指摘したように、Act.25で爆発した陽
菜絡みの修羅場の筋立ては丸ごと不必要である。この筋立てが不必要で
ある以上は、たかまるローテの二話は、本来一話で十分な内容を不必要
な筋立てを交えて二話に膨らませたもの
だという言い方もできる。だと
すれば、佐藤・高丸両監督の近作四話は、本来緊密に語れば二話で十分
な内容を水増ししたものとさえいえるのかもしれない。

ここを勘繰れば、制作首脳の意向としては、たかまるローテで描かれた
ようなエピソードを佐藤監督に渡すのもいやだったし、今回の舞原ロー
テで描かれるべき一大クライマックスを高丸雅隆に渡すのもいやだった
ので、わざとローテ調整用にヒマネタを挟み、中身を水増しして引き延
ばしたのでは…とさえ思えないだろうか。

現在、物語全体の高まりとは反比例して、この番組の演出面における人
材難は危機的な様相を呈している。ただでさえ、特撮三〇分番組が三人
二話のローテーションで回されている現状には無理があるのに、番組の
カラーを確立した田崎も、中盤を支えた鈴村も今はいない。舞原ローテ
の次はいきなり佐藤ローテであって、何とかレベルアップしたたかまる
ローテも、ここ一番の決め手に欠ける。

たとえばオレが、この三人の演出家の正規の打順でシリーズの流れを構
成するとすれば、うさ・まもや亜美ちゃん絡みの大ネタではないが、今
後の布石として押さえておかねばならないような脇筋を佐藤ローテに回
し、大筋の流れのタメとなるような無難な好編をたかまるローテに、そ
してそれらを受けたクライマックスを舞原ローテに回すというシステム
を構想する。

しかし、三人×二話のローテーションでこの構想を実行すると、約一カ
月半で序破急のリズムとなるのだが、これはスパンの長い一年のシリー
ズとしては、少し駆け足にすぎる
だろう。

さらに、第一部の終了に際して先に触れたような配慮が実際にあったの
だとしたら、こうした構想を分断するようなシリーズ上の節目が訪れた
場合、監督ローテーションの調整がまったく附かないというデメリット
もある…つか、そもそも番組専従の三人の監督とエピソードのマッチン
グを量る基準が、「全然ダメ」「ややまし」「とても良い」というスキ
ル面の可否の三段階評価でしかない状況というのはきわめて異常だ。

普通一般のこの種の番組は、スキル面ではまあまあ以上のレベルを確保
した監督陣を配し、そのセンスや持ち味のバリエーションでエピソード
とのマッチングを図るのが常道だろう。ところがこの番組では、「全然
ダメ」から「とても良い」へ向かう一方的な三段階の流れでしかそれを
図ることができない。この打順を適宜入れ替えることも困難だ。

公平にいうならば、高丸雅隆にせよ佐藤健光にせよ、この番組以外の場
面でさほど叩かれた経験もないわけだから、番組の性格との絶対的な相
性が良くないのだといえないこともない。スキル面云々という話になっ
てしまうのは、この番組の演出面に対する要求水準が高いために、他の
番組なら出ないボロが際立ってしまうせいで、ある意味、この番組に参
加したために叩かれるのは、一種の貧乏くじといえなくもない(笑)。

しかも、監督ローテーションを回していけるギリギリの頭数しかない現
状では、代替の人材を確保するまで、嫌気が差したからといって抜ける
わけにもいかない。もちろんこれは契約関係という現実的な現場事情を
抜きにいっているわけだが、フリーランサーサイドでもいやだから抜け
るというわけにもいかず、東映サイドのほうでも不評だから降ろすとい
うわけにもいかず、東映特撮枠が一枠増えたことによる影響は、予想外
に大きそうだ。

巷では鈴村復帰説も囁かれている現在、第二部の進行にしたがって大幅
なスタッフの流動があるのでは、と、希望的な意味合いも込めて予感し
ている次第である。

一方、もちろんこうしたオレの臆断は、制作の内幕を識らない一部外者
の下司の勘繰りにすぎないだろうし、実際にはこれほど単純な事情では
ないだろう。しかも、いかに微々たるアクセス数とはいえ、公に開かれ
たウェブサイトのコンテンツとしてこういう憶説を披瀝することは、巡
り巡ってあまり良い影響をもたらすともいえない。

しかし、オレは東映とも小林靖子とも無関係な一個人にすぎないし、こ
の番組に対するコミットの仕方は、型通りに「応援する」というファン
ダム的なスタンスではない。独立した個人の限界内で、オレは識りたい
ことを識ろうとするし、三〇分の映像のなかに込められた内実を可能な
限り突き詰めたい、その過程で考えたことを余さずこの場に書き綴って
いくつもりだ。

それが実際の番組づくりに影響を与えるなどと不遜なことを本気で考え
ているわけではないが、もし仮に万が一そうなったとしても、そういう
コミットの仕方なのだからしょうがない
と、あらかじめ腹を括っている
ということである。

それが番組の先行きに必ずしも良い影響をもたらさない可能性を持つ言
であったとしても、だからそれを控えるというのは、かえって不遜だ
ろう。物事はなるようにしかならないのだから、あり得ると想定される
すべての影響に配慮して存分に語ることなどできはしない。

つまり、この先この番組がどういう形をとろうとも、オレはそれに対し
ていっさい責任は感じないし、有り体にいえば無関係だと考えている。
当たり前のことだが、オレはオレの言説それ自体に対する責任しかとら
ないということだ。

弱小サイトの一コンテンツ担当者にしては自意識過剰と思われるかもし
れないが、ぼちぼちサイトのアクセスも増えてきたことだし、これはこ
の際、態度表明としてはっきりさせておこう。

今後、このコンテンツでこれこれのコメントが公開されたとして、たま
たま番組の成り行きがそれに沿った形となろうとも、それはおそらくオ
レの言説とはまったく無関係である「べき」だし、オレが関知し得る表
面的な事情としてそういう影響が顕れない限り、オレ個人としてはそれ
に対していっさい責任を持たない
ことを明言しておく。

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