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Act.28-2 白い手のイゾルデ

さて、前回のクライマックスで掻き立てられた極度の緊張とストレス、
これをおあずけにして読み手の興味をつなごうとするほど、オレはあざ
とくもないし、有り体にいえば辛抱強くもない。まず真っ先に、そこか
ら視ていくのが人の道というものだろう。

前回の引きで、ついにダーキュリーは「裏切られた愛の復讐」を果たし
セーラームーン=月野うさぎを殺害するに至った。その宿望が達成され
た瞬間に、うさぎたちを苦しめ続けたダーキュリーは消滅し、その偽り
の復讐の形見として、死せるムーンが水野亜美の眼前に取り残された。

アバンで描かれたそのつながりの一連は、一種、トランス状態で犯した
殺人の後の狂乱の芝居場を志向している。正気に戻った亜美ちゃんがお
そるおそる「…うさぎちゃん?」と呼びかける、夢から醒めたばかりの
人のような声音の弱々しさは、視聴者の裸の神経を掻きむしり、背筋に
粟が立つような緊迫感を醸し出す。

絶え入るような悲鳴から暗転して、演出者の底意地の悪い視線は、微動
だにしないムーンを膝に掻き抱き、虚ろな視線をあらぬ方へ投げて凝固
する亜美ちゃんを静かに回り込みながら、瞑目するムーン、二つに割れ
たムーンティアラ、粉々に砕かれたムーンライトスティックをインサー
トして、自らが手を下した行為の衝撃になす術もなく虚脱する少女の姿
を、無音の画面上に冷たく晒す。

そのゾッとするような静寂を破るクンツァイトの言葉や靴音は、残響を
強調して処理されており、無人のホールの生音を擬したリアリティを附
与すると同時に、どこか舞台劇を思わせる演劇的な効果をもたらし、さ
らには、正気附いた亜美ちゃんが無我夢中でムーンに這い寄る激しい息
遣いの残響を過剰に高めることによって、夢幻的なムードへとシフトし
ていく。

それこそ夢のなかの出来事のようにのろのろとムーンに近附き、自らの
手を虚ろに投げ出されたムーンの手へと伸ばしかけるもどかしい動作を
暴力的に薙ぎ払うかのように、広角の寄りでとらえられた亜美ちゃんの
眼前をサッとマントが横切り、息詰まる悲劇を演じた三人の演者が鮮や
かに舞台上から退場した瞬間に、「うさぎちゃん!」とルナがフレーム
インする劇的な呼吸も見事だ。

途方に暮れたルナが見下ろす打ち割られたムーンティアラからOPの満
月にカットする趣向は、Act.27を出でて有意に効いたつなぎの演出だ。
このアバンは、愉快なセラルナエピソードによって押し出された前回の
クライマックスの締め括りの芝居である。

そうした構造に即応して、今回のアバンの語りを担当するのはセーラー
ルナと猫ルナであり、お茶目なムードからタメも何もなく一転して、陰
惨な殺害劇のその後を語る。そして、本編開始早々に死んだはずのうさ
ぎは何事もなく蘇り、この劇的なアバンで描かれた悲劇をあっさりと夢
に帰してしまう。クライマックスで次回へ引き、アバンでそれを受ける
というこの番組のスタイルが、最大限に活かされた好例だ。

また、この一連において、最早ダーキュリーの呪縛から解き放たれ、水
野亜美として目覚めたはずの亜美ちゃんが、この場面を通してダーキュ
リーの窶しのままに留まるのは、普通に考えれば矛盾している。

一般的な特撮ものの作法から考えれば、ダーキュリーが消滅し水野亜美
に戻ったということを、ダーキュリーの窶しからマーキュリーのそれへ
の変化、もしくは変身の解除という形で表現するのがセオリーである。

アクチュアルな面から考えても、セーラー戦士はあのような衣裳に「変
装」しているのではなく、ああいう姿の戦士に「変身」しているはずな
のだから、ダーキュリーの衣裳と内実は本来セットであって、ダーキュ
リーの存在が消滅したのであれば、ダーキュリーとしてのコスチューム
も解除されるべきだ。

しかし、ここをダーキュリーのコスチュームのままで通したのは、森の
彷徨の場面で投げ捨てたジュエリースターブレスレットが黒いままであ
るというアリバイも押さえられてはいるが、むしろ意図的な演出ではな
いかとオレは考える。

邪悪なダーキュリーがその手でつくった罪は、たとえ彼女が消滅したと
しても、その肉体を共有する水野亜美の手を穢すのだ。

その取り返しの附かなさ、不条理さの表現として、ダーキュリーの存在
が消え失せても、その邪悪な復讐者としての禍々しい姿は水野亜美をと
らえて離さないのである。強張った指から離れようとしない氷の剣と同
様に、底意地悪く罪障の記憶を強調しながら水野亜美に纏い附くのだ。

別の言い方をするなら、うさぎを憎み、セーラームーンを殺害したダー
キュリー=悪美と、セーラーマーキュリー=水野亜美は、どうしたって
同一人物の独り芝居でしかないということを、この場面を演出した者が
強調しているということだ。

ムーンを殺害した後のダーキュリーが、たとえばモーフィングや閃光を
放ってマーキュリーの姿に変わっていたとしたら、ダーキュリーとマー
キュリーを規定する個別の特殊事情が強調され、視聴者は「これはダー
キュリーの仕業であって、亜美ちゃんのせいじゃないんだ」という当た
り前の事実を意識してしまう。

コスチュームを変化させるというアクションによって、視聴者の気分が
仕切り直されてしまい、愛する友を己が手に懸けてしまったという亜美
ちゃんの衝撃との間に距離ができてしまう。その姿が変わることで、本
来それは亜美ちゃんが責任を感じるべき事柄ではないという事実が、劇
的な意味合いにおいて不必要にくっきりと強調されてしまうのだ。

前回指摘したような、悪美と亜美ちゃんの関係性、「仮想上の死」とい
う概念、その文脈でいうならば、これもまた亜美ちゃんの心象風景の表
現にすぎない。ダーキュリーと水野亜美の同一性は、亜美ちゃんの受け
た衝撃を表現する、この場面の劇的効果の意味合いにおいてのみ強調さ
れているということだ。

Act.22のレビューで語ったように、オレはダーキュリーの邪悪な内実を
亜美ちゃんの「心の奥底に秘め隠された真情」というふうにはとらえて
いない。そのようなとらえ方は、已むに已まれぬ疚しさを抱えて取り残
された三人の友が、あらためて亜美ちゃんの気持ちに思いを致し、自分
たちの立ち位置を確認するための契機にすぎないと考えている。

Act.22においてハッキリ宣言された、ダーキュリーが邪悪な妖術のもた
らす偽りの影であり、亜美ちゃんの真の気持ちを体現した存在ではない
という結論は、この今においても堅持されねばならない。

その意味では、亜美ちゃんの罪悪感は、ダーキュリーの邪悪さそれ自体
を自身の責任と感じているのではないと考える。というか、そこを強調
して描くことは最早無意味である。今回劇中で描かれた内容を視ても、
亜美ちゃんの言う「私がやったんだ」という言葉は、自身の裡なる醜い
心根が友を痍附けたのだ、というニュアンスでは描かれていない。それ
は、かのAct.16の無用なくり返しにすぎないだろう。

森の場面で語られる「もうダメかも…」という絶望に苛まれながらも、
四人の仲間が再び心を一つにする未来の温もりに憧れ、その祈りを込め
て一心に手袋を編み続けた自分が、皮肉にも仲間たちを痍附け、最愛の
友であるうさぎの命を奪う結果となろうとは。この場面において、亜美
ちゃんが感じる衝撃として描かれているのは、ダーキュリー絡みのエピ
ソードに纏わるいっさいの結末のみを圧し附けられた不条理さだ。

忘れてはならないのは、この場面の亜美ちゃんは、ダーキュリーから水
野亜美として覚醒した瞬間に、最早息の通わぬ友の冷たい屍をいきなり
己が手に圧し附けられたのだということだ。彼女には、少なくとも木馬
遊園地で失神して以来の記憶はない。そこからここまでの間に繰り広げ
られた辛い事件の結末が、目覚めた瞬間にそこにあるのである。

そして、底意地の悪い演出者は、惨酷な血を幻視する凄惨な死の領する
惨劇の巷にいきなり放り出された亜美ちゃんに、邪悪なダーキュリーの
見かけをそのままに纏い附かせ、「この屍を見るのだ、これは、冷たく
鋭い氷の剣を翳し、邪悪な黒衣を得意げに纏うおまえ自身がやったこと
なのだ」と、視聴者と水野亜美自身に強調してみせる。

優れた演出者に必要なのは、ときとして、このように暴力的なまでの皮
肉な底意地の悪さを発揮できる資質であったりするのだろう。Act. 5
レビューで指摘したように、こういう場面で舞原賢三は人物に寄り添っ
て労るようなスタンスには立たない。本編開始早々に撤回される「友の
殺害」という「悪夢」を、夢みる者である水野亜美の感じる悪夢のリア
リティにおいて生々しく強調してみせる。

Act. 5とのつながりでいうならば、ダーキュリー登場編においては「滑
稽ではなく決まっている」と評したダーキュリーのメイクではあるが、
ダーキュリーとしての力み返った表情が消え失せ、そのままの拵えで演
じられる衝撃に動転した水野亜美としての演技は、どこか浮いていて滑
稽でさえある。

ここを冷たく突き放し誇張して描く演出者の目は、ものの五分の後に覆
される衝撃的な悪夢を、過剰なまでのリアリティで視聴者に突き附けて
くる。シリーズ前半のクライマックスをかたちづくるダーキュリー絡み
の物語、その終焉に際して描かれた屈指の劇的名場面といえるだろう。

さて、ひたすらに裏切りの復讐を望み、悪夢の次元でとはいえ、ついに
はその歪んだ宿望を果たしたダーキュリー=悪美とは、どのような存在
だったのか。ダーキュリー消滅に際してそれを考えるのも無駄ではある
まいと思う。

無論、ダーキュリーが創造されるに至った意図のレベルの問題において
は、それはさほど入り組んだ筋道ではないだろう。

これまでの物語を通じて、わが身一心の問題を克服し、仲間たちの絆に
思いを致せるようにまで成長した亜美ちゃんが、その想いのゆえに苦悩
を味わい、さらには敵に回ることによって、それまで物語の主体として
描かれてきた人物を客体として位置附け、仲間たちの亜美ちゃんに対す
る想いのドラマをかたちづくるための作劇の方便である。

オレがここで考えたいと思っているのは、これまでのドラマが描かれる
ことによって、非意図的に生成されたダーキュリーの在り方である。つ
まり、作者がどう考えていたとか、どういう狙いで描かれたのかという
次元の問題ではないので、いわゆる正解のある設問ではない。これを、
オレ個人の思い込みだと判断されるのは、読み手の自由だ。

ダーキュリーとは、結局何だったのか。結論から先に提示するいつもの
スタイルに即していえば、それは水野亜美に纏わるこれまでの成長のド
ラマをすべてなかったこととして、それでいて月野うさぎに対する劇し
い想いだけは抱いているという、在り得ざる水野亜美の姿ということに
なるのではないか。

非常に卑近なアナロジーでいえば、ダーキュリーは月野うさぎの魅力に
憑かれ附き纏う同性のストーカーだ(木亥火暴!!)。

ダーキュリーの悪意と憎悪は、一方的で独占的な劇しい愛情が受け容れ
られなかったという、在りもしない事実に対する歪んだ復讐の情熱では
ないかとオレは考える。

まかり間違えば、水野亜美もそうなっていたのかもしれない。これまで
彼女に関して描かれてきた、うさぎとの対立と宥和のドラマにおいて、
痍附き涙する度に亜美ちゃんは必死で何かをつかみ、うさぎへの想いを
頼りに人としての成長を果たしてきた。それは、まさに人間ドラマその
ものである。

しかし、そうしたドラマを許されなかった多くの人々が、現実に生きて
いる。瞬く星を鏤めた夜空の高みにあって、優しく微笑み冴え冴えと鮮
やかに輝くあの月のように、いくら手を伸ばしても決して届かぬ美しい
人に対する愛情は、いつかは劇しい憎しみに変わる。

それが愛であるうちはいかに歪んだ形ではあれ応え得るのだとしても、
頑なな憎悪に変じた後にその凍り附いた心を溶かす術は最早ない。もし
もこのドラマで描かれたダーキュリー絡みの一連に、一点の憾みを覚え
るとしたら、うさぎの愛がついにダーキュリーとしての頑なな心をほぐ
すまでには至らず、裏切りの復讐が成就されてしまったことだろう。

今回のアバンまでに描かれた一連によって、ダーキュリーの歪んだ一方
的な復讐は成就され、その結末を水野亜美に圧し附けることによって、
うさぎとの健全な愛情を育むに至った他ならぬ水野亜美自身に対しても
復讐を果たしている。この盲目的なまでのネガティブな悪意は、どこか
ら生まれるのであろうか。

うさぎはダーキュリーに対して終始「亜美ちゃん」と呼びかけるが、そ
れは考えるまでもなく当たり前のことである。しかし、この錯綜した事
情においては、それではダーキュリーの憎しみそれ自体を昇華すること
はできないのだ。

ダーキュリーは、在り得たかもしれない水野亜美なのだろうが、水野亜
美その人の今現在の人格とは完全に無縁である。それは何度も強調した
とおりだが、ダーキュリーが水野亜美から生み出され、肉体を共有して
いる他者である以上、ダーキュリーとして呪縛されている水野亜美と直
截向き合おうとするうさぎのスタンスでは、結果として生み出された奇
怪な妖怪であるダーキュリー自身と向き合うことはできない。

つまり、ダーキュリーの抱くいびつな憎悪に対抗するためには、それを
全否定する必要があるのだ。ダーキュリーの裡に囚われた水野亜美に呼
びかけ、水野亜美を呼び戻すことによって、ダーキュリーの消滅を図ら
ねばならない。

しかし、逆説めくがダーキュリーは紛れもなく「もう一人の水野亜美」
でもあるのだ。ダーキュリーが執念を燃やす、偽りの事実に基づく裏切
りの復讐は、どこか全否定できないものがある。

先ほどのストーカーの喩えでいえば、普通一般に人間は赤の他人が勝手
に抱く恋愛妄想に責任をとらねばならない筋合いなどいっさいない。そ
んなことは不可能だし、有り体にいえば関係ないとさえいえるだろう。

しかし、現実のレベルとは違う次元でいえば、人間は自らが関わるすべ
てに対して原理的には責任があるのだと思う。ただ、限界のある人間に
はそのすべての責任に応えることは不可能だし、それが不可能であるが
ゆえに免責されているというだけのことなのだと思う。

原理的な意味合いにおいては、責任能力と責任関係は絶対的に整合して
いないというのがオレの考え方で、それはAct.22のレビューにおいて、
自身のアティテュードが、より良い亜美ちゃんの立ち位置を護るため
に十全であったとうさぎが思えない限り、亜美ちゃんを取り戻したいと
欲する限り、人と人の間には絶対的な責任関係が生じるのだ
」と表現し
たとおりである。

非常にデリケートな筋道なので、この表現で理解していただけるかどう
かは自信はないが、これは現実生活においてストーカーにも誠意をもっ
て接するべきだといっているのではない(笑)。

現実に生きる人間が、無数のダーキュリー的なる他者の一方的な愛憎に
晒されているのだとして、それに応え得る術はない。現実的な意味合い
における不利益行為は全面的に拒絶し得るし、対抗的に憎悪を抱くこと
は許されるのだとしても、原理的なレベルにおいてその愛憎それ自体を
全否定し、なかったことにすることはできないのだと思う。

ストーカーが一方的な愛憎を抱くのは、本人が「悪い」とか「間違って
いる」からではなく、人間存在を囲繞する関係性の罠が、期せずしてそ
のような不条理な関係性を生成してしまうのである。さらに、そこで問
題となるのは、相互的な意味での関係の不可能性である。

ダーキュリー的なるものに働きかけて、何某かの有意な相互的関係性を
構築することはできないのだ。ダーキュリーが想いを遂げるか、それを
退けるか、行為としての次元でせめぎ合うほかに、この関係を解消し得
る術はない。それは、ダーキュリーとうさぎが同じ世界を共有していな
いからであって、ダーキュリーは在り得ざる因縁に基づいて劇しい憎悪
を抱いているからである。

これは妖術によって生み出された特殊な存在にだけ当てはまる事柄では
なく、他者と共有不能な世界認識に基づいて一方的に激情を抱く、いわ
ゆるストーカー一般に当てはまる事柄だろうと思う。ダーキュリーは、
うさぎと水野亜美の間で持たれた物語とは違う物語を頑なに狂信し、存
在しない物語に基づいてその復讐を果たそうとする怪物だ。

さらに、前回のダーキュリーの揺らぎが、ダーキュリーそれ自体として
の揺らぎではなく、水野亜美の人格が表出しかけたことによる統一性の
混乱にすぎず、ムーンを手に懸けたダーキュリーが誇らかに嗤いながら
消滅したからには、ダーキュリーとして生み出された存在に対して、う
さぎはまったくの無力であったということになる。

この物語の結末は、ダーキュリー的なるものに抗し得る力がどこにもな
いことを結果的として裏附けてしまった。悪夢のなかの存在であるダー
キュリーは、悪夢の次元でその憎悪を成就し、それは再び卑近な喩えを
弄すれば、ストーカー殺人のような事態であろう。

在り得ざる物語に基づく愛はやがて憎しみに変わり、その偏跛な憎しみ
は、かつて愛した者を滅ぼさずには完結しない。

人は常に一方的な暴力に晒されている。そして、この物語ではそれをも
たらす者にクンツァイトという復讐者を充てている。しかし、現実にお
いては、邪悪な妖術などなくとも、たやすくこの妖怪は生み出される。

かつて欧州に出現した妖怪は世界を変えてしまったが、この今に現れる
妖怪は、プライヴェートな恣意に基づいてねじまげられた世界に閉じこ
もり、死によってしか完結しない危険な愛の夢を始めようとする。

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