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Act.28-3 主は汝の許へ来たりて

アバンを終えたら、やはりOPにも一言触れておかないわけにはいかな
いだろう。東映の公式サイトによれば、今回のOP映像は尺調整のため
の変則的なものとのことだが、巷では、第二部開始に当たって新キャラ
入れ込みのOPにリニューアル、という憶説も流れていたので、それが
これなの?という戸惑いを覚えた←おまえだけだろう(木亥火暴!!)。

それにしては従来のOP素材をいじっただけ、という構成は手抜きっぽ
いし、新キャラも入ってないから、変だとは思ったんだが、正直、セー
ラー戦士の、決してうまいとはいえない斉唱で歌われる主題歌のインパ
クトにはちょっと面喰らったので、「えー、これから毎週これかよ?」
と思ったことは事実。リアルタイムで効いている演出ではなかったって
ことだろうな。

むしろ、演出面での意図としては、OPを飛ばしたいくらいだったのか
もしれない。アバンからオフの番組タイトルと提供ロールだけを挟んで
本編を始め、二度目に流れる主題歌のバックにスタッフロールを流すと
いう劇場映画のようなやり方もあったのだろうが、おそらく現実的な事
情から、OPを飛ばすことはできなかったのかもしれない。

意外と特撮三〇分番組というのは、OPやEDのフォーマットを崩す演
出が嫌われるという話をどこかで聞いたことがある。世知辛い話だが、
番組フォーマットというのは要するにCMを入れるためのレイアウトな
のだし、CM枠は分単位で決められて切り売りされている。また、この
種の番組をほぼ一社独占でスポンサードしているバンダイには、商品プ
ロモ映像としての特撮番組に対する独自の要望があるだろう。

とまれ、せっかくのドラマに水を差すような現実的な憶測はこの辺で切
り上げよう。そういう次第で、リアルタイムで見たときはちょっと虚を
衝かれた感のある変則OPだが、ある意味、このエピソードを通して見
たあとでは、また違った趣があることに気附いた。

モノトーンの画面を後景に回し、窓を抜いてカラーの後景と同じ映像が
流れるという抑えた趣向の今回のOPは、尺も短いし、ストーリーとし
ては、五人の戦士が集合して主題歌を歌うというシンプルなもの。

本来のOPの流れでは、回転台に乗って回る四人を押さえた二カットに
おいて数フレーズしか重ねられない五人のユニゾンを、全面的にフィー
チャーして、うさぎを中心にして集まった仲間たちの多幸感あふれる斉
唱として組み立てている。

そのため、絵面としては多少地味で、楽曲としても小枝がピンで歌った
ほうが耳に快いのは当たり前だが、絶望的なアバンの直後に配された、
ラストにおける感動の控えめな予告としては的確なつくりだろう。

劈頭のフルムーンから「脚本 小林靖子」のクレジットまでが従来どお
りなのは、制作首脳と作家に対する「番組の看板」としての配慮なのか
もしれないが、続く映像が番組放映開始前の番宣でのみ使われた素材な
のは、懐かしく、また感慨深い。

あの頃は「五人の女の子が演じる戦隊もの」のイメージ映像として、ま
あこんなもんだろ的にとくに何を感じるでもなく見ていた映像だが、物
語がこのように異様な相貌を顕わし、水野亜美物語を中心として「五人
の女の子」の輪を巡る劇的なうねりを展開したあとで、さらにはそうし
た物語の帰趨を決する息詰まるエピソードの冒頭で、あらためてこの凡
庸なイメージカットを見せられると、一種奇妙な感慨がある。

それを語ることは、それを目論んだ演出者の意図の問題を出でて、遠く
この地点まで連れてこられたオレたち視聴者の気持ちを語ることになる
だろう。思えば遠くに来たものだ。五人の女の子が愉しげに語らい合い
ながら希望に向かって駆け出すこと、この凡庸な光景がこのドラマのな
かで実現されるのはいつのことだろう。

未だ物語は折り返しを迎えたにすぎず、すべてを終えた五人がこのよう
に睦み合う光景は視聴者に許されていないが、月野うさぎが水野亜美の
手に懸かって死ぬという衝撃の展開を受けて、そこからの回復の物語を
語り、少女たちの絆の温かさ、確からしさの描出を目指すこのエピソー
ドの着地点として、最もこれまでの劇的内容から遠く、意味附けのまっ
たく施されていない素材を持ち出した舞原の勘は、的外れなものではな
いと思う。

そして、そこからつながるのは、いつもOPで見慣れた、うさぎと四人
の仲間たちが背中合わせで輪をつくり回りながら主題歌を歌うという映
像だが、このエピソードを最後まで見てからあらためてこのOPを見る
と、それがあの感動のラストシーンの控えめななぞらえとして意味附け
られていたことに気附く。

あのラストシーンで感動的に流れた主題歌を、仲間たちが輪をつくって
共に歌うこと。遡って倒置されていることで、今はまだ伏せられている
が、これはラストシーンと対称をなしている。そういう目で子細に視る
ならば、うさぎのピンがフィーチャーされているのは、アリモノの素材
であるという都合上当たり前の話だが(笑)、編集面で有意にヴィーナス
が立てられているという事実にも気附くだろう。

この短いOPにおいては、絶対的な分量として各人の配分にさほどの違
いがあるわけではないが、回転台が回り込んでヴィーナスが背後に回っ
た瞬間に別窓で前面に回り込んでくる映像をつなぐことで、連続的に長
めに映っているという印象を狙っていること、さらにヴィーナスだけ後
景でアップが押さえられていること、こうした点から、エピソードの主
役であるマーキュリーよりもヴィーナスがフィーチャーされたつなぎで
あることがわかる。

そのために、回転台で回りながらのカメラ目線を外すキッカケがぎこち
ないという、元々の素材に顕れたNG的な要素ももれなくさらけ出され
ていたりするわけだが(笑)、それがかえって、多少不細工な細部に目を
つぶってでもヴィーナスを長めに画面に出す、という明確な編集上の意
志を垣間見せているのではないだろうか。

未だ「予告」の段階にすぎないOPを語る場面の節度として、これ以上
突っ込んだことは言わないが、ラストシーンの感動を絵的に支えている
のは、四人の輪を見守るヴィーナス=美奈子の存在である。

というか、このラストシーンは、余人ならぬ愛野美奈子が視ている光景
であることによって、また、愛野美奈子としての宿命を抱えたヴィーナ
スの後ろ姿によって完結するヴィジュアルなのである。

OP素材としては、主人公であるうさぎが輪から外れてピンで歌ってい
るけれど、ラストシーンで仲間たちの輪から外れているのは、愛野美奈
子=セーラーヴィーナスである。

そういう意味では、このOPがラストシーンのなぞらえであり控えめな
予告であるという性格は、ねちっこいまでに周到な対称として徹底され
ているといえるだろう。

そして、そうした演出上の意図が、視聴者に与える効果として成立して
いるかどうかという問題では、やはり冒頭で触れたようにリアルタイム
の効果としては効いていないと思う。そして、オレの基本的な考え方と
しては、原理的にリアルタイムで効くことが期待できない描写は、一般
的な鑑賞のレベルでは無視していい要素だと思う。

このOPの仕掛けは、おそらく送り手からのメッセージとして視聴者が
受け取るべき事柄ではないのかもしれない。作劇の試行錯誤のプロセス
においては、OPを飛ばすか飛ばさないかというオルタナティブも存在
したのだろう。

そして、結果として短い尺のOPを入れるということになった場合に、
それを最後まで観てからでないと気が附かないラストシーンのなぞらえ
として構成するというのは、視聴者に向けた仕掛けとして効くか効かな
いか微妙な線である。

一種、これはつくり手の側のこだわりの範疇の事柄、気持ちの問題とし
て受け取るべき事柄なのかもしれない。つまり、送り手の側では、効か
なくてもかまわないというスタンスで自身のこだわりを通している。

これは「2週間以上も自宅に帰れず、もう体はボロボロです。」と公式
サイトで語られた
舞原賢三の意気込みを示すものであろうし、オレがそ
れに触れたのは、今回のレビューではとにかく余さずすべてを語りたい
というオレの気持ちの問題だ。

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