« Act.28-5 あしたはばら色に輝いて | トップページ | Act.28-7 親方たちを軽蔑しないでください »

Act.28-6 故郷よ、また見る野山よ

真っ先に「おかえり」と言うのは、もちろんまこちゃんだ。

亜美ちゃんが初めてダーキュリーとしてオレたちの前に現れたAct.22
おいて、病床の亜美ちゃんを優しく労り、自ら台所に立って粥を拵えた
まこちゃんの姿を想い出そう。そして、ついに劇中では解き明かされる
ことのなかった、木馬遊園地の因縁を想おう。

あのとき、自分を保つギリギリの境界を彷徨う亜美ちゃんが、真心込め
て看病してくれるまこちゃんの優しい面輪に視たのは、おそらく母の俤
だったのだろう。

これは、亜美ちゃんの母親がまこちゃんに似ているといっているのでは
ない。事実として、それはまったく逆であろう。亜美ちゃんが同い年の
少女の温かい微笑みに視たのは、自分の母親がこうであったらという憧
れの姿であり、亜美ちゃんが正気を保っていたなら、それを心に思うこ
とすら到底自身に許すことなどできない小さな「わがまま」であったの
だと思う。

赤の他人を癒すために、自身の娘に癒えざる孤独を強いてしまう母親、
そしてその自覚あればこその辛さ、聡明な少女は、こうした大人の辛さ
を敏感に察してしまう。

痛いとき、辛いとき、苦しいとき、理の言葉ではなく温かな抱擁で癒し
てくれること。理も非もなく自分に味方して「大丈夫だよ」と労ってく
れること。夢のように愉しいひとときを、自分と共にすごしてくれるこ
と。母親の子として生まれた者ならだれにでも許される、母親に対する
こんな小さなわがままが、亜美ちゃんには許されない。

娘の辛さを思い遣る母親、さらにその母親の辛さを察する娘。亜美ちゃ
んが母親に対して抱いている屈折した感情は、こうした雁字搦めの母娘
労り合いのアンビバレンツに端を発している。

かつて亜美ちゃんがうさぎに自分だけを見つめてほしいと願った切ない
気持ち、物語の主題として、そうした亜美ちゃんの同性の友人に対する
独占欲を真っ向から扱ったAct.16の落とし所が、母親への想いであった
ことを想い出そう。少女たちの痛々しい視線のドラマが、「ママへ」と
一言添えられたカードによって浄く昇華された経緯を想い出そう。

そして、かつてまこちゃんについて展開した考察において、一般的な木
野まことの人物像の根底に母性的なエロティシズムが据えられていると
した指摘を思い起こしてほしい。母性の醸し出すエロティシズムは、あ
る種、性別を超えたエモーションなのだとオレは考える。

自分ではないだれかに、自分だけを見つめてほしいと願う狂おしい欲望
を、生の始原において実現するのは母親であり、一方ではその欲望を生
の始原において人に植え附けるのも母親である。

ここで一般論としてクリステヴァ母性棄却=アブジェクシオンのモデ
ルに立ち入るのは、いささか寄り道がすぎるだろうが、母親との温かい
肉体的接触や母子一体化した未分化な安らぎの記憶に欠ける亜美ちゃん
が、邪悪な妖術によって水野亜美としての自我を脅かされる朦朧の境地
において、優しく家庭的な同性の友の温もりに、母なるものへの憧れを
重ねたと視るのは、あながち見当外れではあるまい。

そしてこの場においてその解釈を試みるのは性急かもしれないが、まこ
ちゃんに遊園地へ行きたいとせがんだ亜美ちゃんは、おそらくは自分の
母親に対してそれを望んでいたのだろう。母親としてのまこちゃんが、
朦朧の境地において立ち現れた幻の姿にすぎないからこそ、亜美ちゃん
は可憐なわがままを思い切りぶつけることができたのだろう。

しかし、その連続上において亜美ちゃんはついに水野亜美としての自身
を手放し、邪法の術手の許に身を寄せ、悪い心に変えられた冷酷な復讐
者としてセーラー戦士たちと対峙するに至る。奪い去られた娘を追う幻
の母としてのまこちゃんは、峻烈な物語の強いるさだめのゆえに、亜美
ちゃんを奪い返すことなどかなわない。

ここに神話におけるデメテルの冥界行との類似を視るのは、もちろんオ
レの個人的な連想にすぎない。事実としてあるのは、間に合わなかった
木野まこと像確立の回収劇として、「間に合わなかった木野まこと」を
描くという、屈折した物語作法の実践であるにすぎない。

しかし、事実として語られてしまった物語において、まこちゃんは亜美
ちゃんの母性に対する憧れを象徴する存在として意味附けられたのだろ
うと思う。それは、亜美ちゃんが心の奥底に抱いていた母へのわがまま
を、それと知らずにまこちゃんが現実の母に代わって受け止めてしまっ
たからだ。

さらに、うさぎとレイちゃんという、亜美ちゃん籠絡に際してその場に
居合わせるべき筋合いを持つ者を遠ざける作劇の要請ゆえに、まこちゃ
んは無前提の想いだけを恃みにひたすらに友を追い、友を奪い返す切り
札を持たぬままに、冥王と争う嘆きの地母の役回りを強いられた。

Act.22において交々に語られる亜美ちゃんに対する悔恨、まこちゃんの
場合のそれは、不条理に強いられた役回りにまつわる、無前提の愛ゆえ
の悔恨だ。亜美ちゃんを喪った、今この場において生起した悔恨だ。

だから、家路に着いた亜美ちゃんを迎える場面において、家を象徴する
存在である母親に専ら帰属する言葉、「おかえり」の一言を言うのは、
まこちゃんだけに許された特権なのだ。

次いで亜美ちゃんに「待っていたわ」と呼びかけるのは、美奈子との苛
烈な因縁において亜美ちゃんに対する思い遣りを忘れたレイちゃんだ。

かつてうさぎを巡るレイ・まこの対立に関して、まこちゃんを母親に擬
した場合のレイちゃんの立ち位置を一種の父性として論じた筋道を想い
出してほしい。

レイちゃんは基本的に理の人であり、義の人である。

それは亜美ちゃんへの愛情にまつわる問題についても、優しい見守りと
いう以上の容喙を自らに禁じる節度として描かれてきた。美奈子との因
縁があれほどレイちゃんを惹き附けるのは、それが厳しい緊張を伴って
対峙する対等者同士の筋と義と自己超克にまつわる問題であるからだ。

Act.16において飛越を果たした局面でも、彼女は亜美ちゃんを労ったわ
けでも抱擁したわけでもない。理の言葉によって友の陥った迷妄を払う
という、祓えの呪法を行ったのだ。理によって立つ者は、抱擁や労りで
はなく言葉によって自他のあるべき姿を示し、その言葉が相手の自律に
基づく自由意志によって応えられることを待つのである。

そのエピソードにおいて、レイちゃんは力強い一言で亜美ちゃんのすべ
てに対するうけがいを約束した。だが、その直後のエピソードにおいて
レイちゃんは、未知の人物である愛野美奈子との因縁に絡め取られ、彼
女の苛烈な宿命と自身に課せられた使命へ急速に傾倒するに至り、あれ
ほど力強い言葉を果たすことができなかった。

だから、亜美ちゃんに対するレイちゃんの悔恨は、まこちゃんの場合よ
りももっと責任関係が明確であり、まこちゃんの場合ほどに無根拠な愛
に重きが置かれていない。レイちゃんの悔恨は、理を背景に持つ具体的
な言葉によって根拠附けられたストーリーを持っている。

最前、レイちゃんがヴィーナスとアルテミスへの協力要請を決意する場
面で、美奈子の秘密をあっさり明かすのは平仄が合っていると陳べたの
は、こうした筋道があるからだ。レイちゃんには、他者である亜美ちゃ
んに対して、已むに已まれぬ愛に基づく明確な責任関係がある。

それは互いに認め合う対等者である美奈子に対する共感よりも、自身に
課せられた使命よりも、美奈子の意志を気遣い彼女の身元を仲間に隠し
た節度よりも、もっともっと重いものであるべきだ。

愛する者に対して抱擁ではなく言葉によって酬いる者は、他の何を差し
措いてでも、自身の節を枉げてでも、一度口にしてしまった愛の約束に
殉じるべきだ。それは、一種父として認められる存在に求められる愛の
かたちであろうとオレは思う。

冥界に墜ちた水野亜美の奪還と帰宅に際して、偽りの物語において愛の
復讐の対象とされた月野うさぎが、絶対の赦しと愛に基づいて共に冥界
へ下ることで同行者となり、此岸において迎え入れる火野レイと木野ま
ことが、目指すべき家庭の象徴として仮想上の父母を演じている。

この四人が演じているのは、神話的な祝祭劇である。

悪魔に冥界へ奪い去られた少女が、愛する者の犠牲によって穢れを祓い
自らの足で帰宅するまでを描いた、平凡な帰還の物語である。

おそらく、水野亜美の欠落を巡る物語は、もうこれ以上描くことはでき
ないだろう。それがいかにフィクションとはいえ、人としての欠落が、
劇的なドラマによってこれほど徹底的な試しを受け、感動を伴って回復
されることなど、二度とは在り得ない。

これまでの物語に何かを附け足そうとするのは兎角亀毛蛇足である。

水野亜美は、今「普通の女の子」として屈託なく仲間たちと笑い合える
地点に辿り着いた。しかし、登場時における亜美ちゃんの立ち位置から
今の平凡な「普通の女の子」に至るまでの道のりの、何と遠く険しかっ
たことか、いくたび痍附き涙したことか。

彼女を包む辛く昏く深い夜は、今ようやく明けようとしている。夜明け
の月が微笑みかける。たいせつな仲間たちの許へ、たいせつな友を送り
届けた嬉しさに盈ちて。

長い荊の道のりをはだしで歩き、悪魔の虜となって心を変えられ、堂々
巡りの迷いの森を抜けて、血の滲む小さな素足で辿り着いたそこには、
優しい絆に結ばれた仲間たちが、愛おしい微笑みを湛えて待っている。

温かい手を差し伸べて、帰っておいでと誘いかける。かつて同じように
手を伸べてくれた大好きなうさぎは君の傍らで笑っている。いつまでも
待っていてくれる人がいるのだから、いつでも帰っていいんだよ。

ここからの出口は、ここへの入口。

迷いの果てに答えはない。答えは最初からそこにある。人が何かを思い
迷うのは、答えを探るためではない、迷うことそれ自体に意味がある。
気の済むだけ迷ったら、帰ってくればいいだけのことだ。君は、目の前
に差し出された優しい手を、しっかりつかめばそれでいい。その手の温
もりを信じればそれでいい。

ありがとう。ただいま。

これまでうさぎとの抱擁が度々描かれた亜美ちゃんだが、あれほど望ん
だ四人の仲間の結束が果たされた今、うさぎばかりではなく、レイちゃ
んとも、まこちゃんとも、帰還の嬉しさの直中で堅く抱きしめ合う。亜
美ちゃんが自らの足で辿り着いた家路だからこそ、仲間たちの腕のなか
に飛び込んでいくのは亜美ちゃんのほうなのである。

そして…主題歌の使い方はこうなんだよ、竹光(木亥火暴!!)。

フルサイズの主題歌と主要キャストのクレジットをこのクライマックス
に回すという荒技を駆使してまで、相抱擁する四人の友の至福の表情を
一秒でも長く映像に刻むこと。三〇分番組で語られる物語の限界を超え
てまで永遠を指向する映像。

ここは、現実的な製作の実態が透けて見える以上に、それが意味する語
り手の意志がまざまざと突出した名シーンといえるだろう。スローモー
ションから止め絵に至るこの抱擁シーンは、この一瞬を至福のうちに永
遠へ留めようと劇しく指向する映像のパトスだ。

…余談に渉るが、この透過光バシバシでタッチを活かしたイラスト効果
で終わるラストシーンは出崎アニメだな、美奈子が肩に生き物を載せて
るところを見ると「宝島」だ、うん、間違いない(木亥火暴!!)。

永遠に留め置かれた一瞬のなかで、至福の抱擁を交わす四人の姿を穏や
かに微笑んで見守る美奈子だが、彼女がこの温かい輪のなかに加わるの
はいつの日のことなのか。

光に包まれた四人と、それを見つめる美奈子の後ろ姿が止め絵になって
終わるのは、東映公式サイトによれば見詰めるヴィーナス、アルテミ
ス。セーラームーン達はいつまでも一つになっている。
」とある脚本の
ラストを忠実に映像化したものだが、分けても「見詰めるヴィーナス、
アルテミス
」の後ろ姿が醸し出す孤高のヒロイズムは格別だ。

互いの絆を確かめ合い、至福の抱擁を交わす仲間たちを、遠く離れた場
所から、何の邪気もなく微笑んで見つめることのできる、美奈子のスト
イックなヒロイズムはどうだ。

単にクラウンの仲間たちが互いに抱き合って水野亜美の帰還を喜び合う
のみであれば、オレはここまでの感動は覚えなかった。その温かいふれ
あいの輪から自ら望んで身を引き、遠く退いた地点から仲間たちの幸福
を見守る美奈子の孤高の後ろ姿が対置されていればこそ、言葉には言い
表せない劇しいヴィジュアルな感動がある。

この感動は、水野亜美の帰還の物語から綻び出ようとする新しい物語の
予感なのだと信じたい。水野亜美の荊の道のりが今家路へとつながった
からには、次に描かれるのは愛野美奈子の宿命への挑戦なのだと、オレ
は信じたい。

これまでのダーキュリーの悲劇によって描かれてきた物語のテーマは、
愛の絆の回復だった。その悲劇自体が仲間たちの心の乖離に回復をもた
らし、さらに、ドラマの最終的な目的は、その悲劇によって仲間たちと
の絆から欠け落ちた亜美ちゃんの帰還を円満具足に描くことで、喪われ
た関係性のまったき回復を実現することだ。永遠の一瞬のなかで一つの
輪として完結する絆を描くことだ。

光に包まれたこの輪を遠く離れて見つめる美奈子は、この絆から弾き出
されているのではない。自ら求めて身を引いているのである。その動機
が、自分に関わるだれをも哀しませたくないというものであったことも
すでに語られている。今の美奈子は、自身に課せられた宿命に殉じる覚
悟を決めている。

死の宿命が避け得ないものであるなら、愛の絆がもたらす慰藉は他者の
苦痛と引き替えのものだ。美奈子はそれを自身に許すことができない。

運命は変えられない。

美奈子が度々呟くこの言葉を、彼女自身の物語に引き寄せて考えれば、
死すべき自らのさだめを想う言葉に他ならない。この絶対の宿命には、
どう立ち向かうべきなのか。宿命を引き受けることとは、何かを諦める
ことなのか。

美奈子が自身に強いるようなストイシズムは、到底オレたちには受け容
れられるものではない。少女はそのように生きるべきではない。美奈子
は、自身がそのように雄々しく振る舞うことで、仲間たちがもっと深刻
な哀しみを覚えることに無自覚である。

水野亜美の帰還までを語り終えた物語が、次に語るべきは、この少女の
哀しい宿命への挑戦であってほしい。温かい絆から自ら望んで身を引く
孤高のヒロイズムなど、一人の少女に許してはならない。

いつか別の物語を論ずる場面で用いた結句を、この今にくり返そう。

こうして、終わった物語は新たな物語を紡ぎ出していく。

終わりは、新たな始まりなのだ。

|

« Act.28-5 あしたはばら色に輝いて | トップページ | Act.28-7 親方たちを軽蔑しないでください »