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Act.2 なんかこう、刮目したぞオレは。

前回のコメントで「手堅くてコージーで作り物めいた非現実性」「冒険
しないオーソドックスさ」をこの番組の基本ラインと視たのは、まった
くオレの不明であった。

たしかにそうした方向性の作劇であり、作品イメージであることには間
違いないが、それ「だけ」ではない。今回のAct.2 に相対しては、オレ
としても大いに刮目せざるを得ない。

Act.1 の感想からスピンアウトして、宿命や使命の要素についてグダグ
ダ不安を漏らしてはみたが、今回のエピソードですでに実写版のスタン
スは決まった感があるね。今回、ストーリーのキモはまさにそこにあっ
て、前世からの宿命=使命と、「亜美ちゃんだから」という個人的な感
情を直接天秤に載せて、後者を選択するという作劇になっていた。

それが亜美ちゃんのセーラー戦士加入に関する問題だからこそ、よけい
に際立ったということもあって、コミックス版でも「母親が医者」とは
書いてあったが、「母親が有名な医者なので、そっち系目指してる子が
すり寄ってくる」とニュアンスを脚色し、それを伏線に絡めてドラマを
つくる知的な手際は相変わらずの小林節。

天才少女の亜美ちゃんに近附いてくるのは、何らかの目的で亜美ちゃん
を利用しようとする者ばかりで、彼女を一人の友人として扱ってくれる
者はいなかった。ルナの戦士探索とうさぎの接近が重なるのは物語の都
合というもので(笑)、亜美ちゃんにうさぎの好意を「セーラー戦士への
勧誘」と誤解させることで、「戦士だから」と「亜美ちゃんだから」を
直截対比させる構図を作っている。

田崎演出も、メガレンの「すごすぎ! いけてるスーパーみく」のエピ
ソードで見せたようなデリカシーを再現して、二人の少女の交流をきわ
めて美しく繊細に描いていた。短いシーンながら、うさぎと亜美ちゃん
が初めて会話を交わす一連は、亜美ちゃんの戸惑いとうさぎの天真爛漫
さを映像に語らせていて、本人たちの演技力を超えた効果を感じた。

うさぎが亜美ちゃんを戦士の仲間だと知って、それを亜美ちゃんに知ら
せることで彼女が痍附く場面の描き方は、小道具のプリンの扱いも含め
て、巧みというのは言い過ぎで凡庸と謂えば凡庸なんだが、脚本と演出
の輪郭がソリッドで非常に気持ちがいい。個人的にはプリンを小道具に
持ってきたのは、田崎監督のネタ出しじゃないかと思うんだが。

うさぎはAct.1 のラストでセーラー戦士になることを「ワクワク、ドキ
ドキ」と表現していて、女の子が憧れるような、日常からのちょっとし
た素敵な飛躍ととらえているだけに、亜美ちゃんが戦士の仲間だと知っ
ても屈託がない。

「いっしょに戦おう」と軽く言い放つのは、戦士としての自覚の欠如と
とってもいいし、こういう状況に置かれた少女の素直な感想ととっても
いい。それは、うさぎ本人にしてみれば、亜美ちゃん個人に対する好意
と何ら矛盾しない。

しかし、亜美ちゃんにしてみれば、うさぎは自分を「天才少女」「有名
医の娘」という属性を抜きにして、一人の友人として見てくれた初めて
の相手。そして、初めての会話では積極的に近附いてくるうさぎに亜美
ちゃんのほうで距離を置いていたという描写がある。今度こそは応じよ
うとしたタイミングでのこのセリフは、亜美ちゃんにとっては一種の皮
肉な裏切りだ。

屋上で独り呟く「慣れてるから」というセリフは、孤独に慣れていると
いうばかりではなく、小さな裏切りや軽い失望には慣れている、という
亜美ちゃんの来し方を簡潔に語って間然するところがない。ここまで輪
郭がクッキリしていれば、大人の視聴者ならうさぎと亜美ちゃんの両方
の視点を実感できる。うさぎの純粋な好意と亜美ちゃんの哀しみ、どこ
にも悪意がないだけに、すれ違いの哀しさが際立つ。

亜美ちゃんを演じるハマチこと浜千咲は、演技の勘がいい沢井美優に比
べて格段に芝居が劣る印象があるけど、それでもこの一連の流れが訴え
るすれ違いの情感は、万人が共有し得る明晰さがある。どこにでもある
ような少女の心のすれ違いの凡庸なドラマが、もの凄い明晰さでクッキ
リと語りきられている。こういう呼吸が気持ちいいんだよね。

そのすれ違いが解消されるキッカケに、文字どおりのクリフハンガー
持ってくるのも、凡庸と謂えば凡庸。「くだくだしい説明」はないが、
この場のセリフは明らかに「心情の説明」だし、クリフハンガーは説明
のために作為的に設定された危機的状況である。

ただ、提起された設問である「すれ違いの解消」そのものを全部説明で
解決しているわけではなくて、必要最低限のことを説明していて、そこ
に至るまでの気持ちの流れはストーリーそれ自体に語らせている。言わ
ぬが花の部分に、かっちりした余白を作っているんだよね。

この作品で語られている内容に、大人が考え込むような深いものは何も
ないけれど、シンプルな内実を非常にデリケートかつソリッドに表現し
ていて、ある意味、大人「も」観る子供番組のドラマ表現としては理想
的なスタイルではないかと思う。大人が観るドラマだって、ある意味で
は深いものは何もなく、どこにでもある凡庸な内実をいかに巧みに語る
かとういう「語りの形式」がキモだったりするわけだしな。

それから、実写ならではのうさぎのキャラクターもAct.1 に続いて明確
で、メイキングで田崎監督が「天真爛漫だけどバカじゃない」と表現し
ていたように、細かく神経を配るタイプではないが本当に大事な勘所は
押さえていてそれを頑固に貫くような意志の強いところも見せている。
コミックス版やアニメ版と比べて「強い」要素が際立っているね。

まあこれは、典型的な小林靖子的なヒロイン像なわけで、プリンセス・
セレニティとして覚醒した後のお姫様像から逆算した設計ではないとは
思うんだけど(多分小林靖子だったら、プリンセス・セレニティのキャ
ラは、コミックスやアニメよりももっとノブレス・オブリージュな凛々
しいイメージで設計すると思うので)。

なんかこう、アニメ版やコミックス版のパターンでは、一歩間違うと、
純粋な心で己を犠牲にしてほろほろ泣いてさえいれば、天が味方して凄
いパワーが炸裂してすべて解決してくれます、みたいな見え方にならな
いとも限らない。他人を思いやる心の美しさそれ自体が力となるとは信
じられなくなった年代の人間にしてみれば、ヒロインが「弱い」という
のはちょっと受け入れにくいところがあるんだよね。

もちろん、コミックス・アニメ双方のうさぎがただ単に「弱い」だけの
キャラとして描かれていたとは思わないんだが、守られ属性のキャラだ
けに、周囲の人々の強さに応える形でさらなる強さを発揮する、という
受身の呼吸にならざるを得ない。

まあ、女の子の読者・視聴者からしてみれば、そちらのほうがコージー
なんだろうけどね、大人の男性から見ると、そういう期待に応えること
は一種の駄菓子の甘さに感じられてしまうわけで。

個人的には、スーパーヒロインにはもっとグイグイ周りを引っ張ってい
くような強さがほしいので、強いヒロイン描写を得意とする小林靖子に
は、今後もこの方向性でうさぎを描いていってほしいところ。

今回の話のうさぎ像がいいと思ったのは、亜美ちゃんに対する分け隔て
ない好意の描かれ方も普通にいいんだが、それはコミックス・アニメに
共通したうさぎの美点。

とくに小林節ならではと感じたのは、「いやなものを無理にさせちゃダ
メ」と頑固に主張する(劇中で三回くらい繰り返しているので、三〇分
番組の感覚では十分以上に「頑固」だと思う)強さ、危機的状況のなか
でも、亜美ちゃんの自由意志尊重を自身の行動で実証する強さだと思う
んだな。

亜美ちゃんに比重のかかった話だから、彼女の言動に目が行きがちだけ
れど、それと併行して描かれるうさぎサイドの流れのなかでは、うさぎ
は常に亜美ちゃんを気遣い意志的に行動している。

Act.1 から通して観ると…いや、もうすでに特番から五、六回通して観
ているんだが(笑)、うさぎの行動原理が一貫して「身を挺して友人を守
ること」と規定されているんだね。

アニメ版やコミックス版でも、基本的にうさぎは友人知人を助けるため
にアクションを起こすんだけど、結局は頼りなくピンチに陥って泣きを
入れ、ルナやタキや新戦士の助力を得るという流れになっている。半人
前の正義の味方ごっこの延長というニュアンスは否めない。アニメ版無
印では、始終ルナに尻を叩かれて、正義の味方を演じているという印象
が強いしね。

一方実写版の描かれ方では、なんかこのヒトはたまたま正義の味方には
なったけど、それ以前から友人のためにはわが身を顧みず行動するヒト
だったんじゃないかと思わせる積極性と行動力がある。コミックスやア
ニメのルーティンとなっている「ここ一番のときは必ず他人の助力で危
地を脱する」というニュアンスがきれいになくなって、自力救済の側面
が強調されている。

亜美ちゃんが変身を決意するに至る現実的な事情が、「他者を犠牲にす
ることなく、自力で自身を救済するため」であるのと同じように、ムー
ンがマーキュリーに「いっしょにやろう」と呼び掛けるのは、二対一の
不利な状況を脱するためではなく、「いっしょに戦う」という新たな絆
を互いに確認するためだ。この二人は、二人が共に助けるとか助けられ
るという共依存関係を脱し、自力で戦いの場に立っていて、なおかつ強
い絆をつくり出している。

そして、実写版のうさぎはこれまで一度も泣いたことがない。「ドジ」
ではあるが「泣き虫」ではないんだよね。泣いたりオロオロしたりする
前に、まず身体が動くキャラとして描かれている。Act.1 で発表会会場
に駆け附ける際の描写の省略(すったもんだの段取り描写を飛ばして、
気が着くともう足場のうえで藻掻いている、というような)が、キャラ
描写として効いてくる。

紹介編であるAct.1、Act.2で泣き虫描写がないということは、この先も
コンセンサスを無視してアニメ版の先入観で書いてくるゲストライター
でもない限り、そういう描写はないということだろう。

ネットでは、Act.1 で泣き声超音波攻撃を出さなかったことを惜しむ感
想もあったが、従来のうさぎのキャラから泣き虫という性格を払拭する
のは、もしかしたら実写版スタッフの確信犯なのかもしれないね。

この泣き虫属性の排除が「等身大の女子中学生」を狙ったものなのか、
意図的なヒロイン像の造形なのかは、現段階で論じてもしょうがない問
題ではある。ただ、主要な狙いなのか副次的な効果なのかはともかく、
それによって、コミックス・アニメ双方のうさぎ像にあった「半人前の
ヒーロー(この場合、性別とは無関係にヒーローというタームを用いて
いる)」という性格が弱くなったのはたしかだろうな。

アニメ版のムーンのアクションシーンというと、オレが必ず思い出すの
は、三石琴乃の「ぎゃひー」みたいな悲鳴とともに「止め絵になって逃
げ惑うムーン」という情けない絵面なんだが、とくに無印初期の頃のう
さぎは、精神的にも肉体的にも無力な出来損ないのヒーローというのが
特徴だったと思う。

それを幼児性と表現しても構わないとは思うが、うさぎ像の変遷という
ことでいえば、従来のセラムン無印には「未熟な人間が、たまたまヒー
ローになったことをとおして成長していく物語」というビルドゥングロ
マンスの側面があったと思う。結果的にか当初からの狙いかはさておく
として、その視点では、「泣き虫」という属性は、出発点における人間
としての未熟さ・無力さの象徴となっていた。

危機的状況にあって「泣く」というのは最も無駄な行為なのであって、
幼児性という観点からいえば、人が泣くのは直截にはだれかの保護を求
めるためだ。それなのに、人々を「保護」すべき立場のヒーローがピン
チにあって「泣く」、しかも、主人公であるムーンがいちばん弱く、始
終だれかの「保護」を受けて強敵に辛勝する、というパロディ的なヒー
ロー像がセラムン初期のウリだった。「女の子戦隊」という番組の基本
コンセプト自体がパロディそのものだったしね。

そうしたパロディ的な出発点があったからこそ、成長物語としての側面
が出てきて、最終決戦の場で逃げも泣きもせずに気迫でラスボスを圧倒
するうさぎの姿を感動的なものにしていたのは否めない。

しかし、これは一種「他者を益する長所もない凡人が、周囲の人々の善
導で成長した」的な受け身の印象は免れないわけで、あんまりオレの好
みではない。オレ的には、ヒーローというのは、とくに変身ヒーローと
いうものは、登場した時点ですでに他者にポジティブな影響力を持つ傑
出した人物であってほしいわけだ。

それを発展途上の「じゅうよんさい、ちゅーにっ」の少女に求めるのか
という問題もあるし、昨今の流行りでいえば、一四才の少年少女を主人
公にした場合は、形はどうあれ、たいがいダメダメな出発点からのビル
ドゥングロマンスの形式を踏襲するものではある。エヴァンゲリオンの
影響なのか、ビルドゥングロマンスの形式で描かれていながら、主人公
がいっさい成長しない物語というのも流行りだしな(木亥火暴!!)。

しかし、近年の君塚良一脚本のドラマなんかを観ると、ビルドゥングロ
マンス的な物語形式と主人公のヒーロー性の折衷の試みが、成功を納め
ているように思う。たとえば「踊る大捜査線」や「さよなら小津先生」
の主人公は、刑事や教師として周囲の影響で成長していくキャラである
と同時に、自身が衆に秀でた特技を持ち、周囲にポジティブな影響力を
持つヒーローとして描かれていた。

たしかに一種の成長物語ではあるのだけれど、凡人の凡庸な成長を描く
のではなく、ヒーローがより良い人間や職業人となり、同時に周囲をよ
り良く変えていくプロセスを、物語性豊かに語っているわけだ。こうい
う双方向性は、現代の感覚として至極健全だと思う。

ドラマ自体つまらなかったし大してヒットもしなかったから、中山美穂
の「ホーム&アウェイ」なんてだれも覚えてないと思うが、こんな強引
なシチュエーションコメディでさえ、主人公は超絶的な味覚を持ち、旅
先でふれあった人々を期せずしてより良い方向へ導く影響力を持つ、一
種のヒーローだった。

君塚ドラマでは、豊かな物語性の追求とセットで、かなり先鋭に「秀で
た能力と影響力」というヒーロー像の復権を狙っているが、やはり虚構
性の高い物語の主人公は、凡庸な人物ではおもしろくないんだと思う。
凡庸な人間には、共感できても魅力は感じないし、凡庸な人間ならでは
の物語性の限界があるだろう。

話を戻すと、小林靖子的な限界突破は、凡人である主人公には能く為し
得るところではないと思う。本来的には、ヒーローとしての要件を満た
した人物だけが、物語世界内でヒーローを演じ得るのではないか、つま
り、ヒロイックな人物像とヒロイックな行動は本来一体不可分のもので
はないのか、オレは最近そういうふうに考えている。

だれもが自分の物語の主人公になれるというのは真実でも、世の中のす
べてのドラマが等身大になる必要なんてない、とくに特撮ヒーロー番組
は…というのがオレ個人のヒーロー観。

従来のうさぎは、マンガ・アニメの主役キャラとしては、幼女とヲタの
ツボをそれぞれ突いた造形だったと思うが、「半人前」である以上ヒー
ローそのものではなかった。シルバーミレニアムのクィーンとなった未
来像を先取りすることで、物語の中心人物としての要件は担保してはい
たが、千年の断絶を設けることで、シリーズが進んでもうさぎ自身は幼
児的で未熟なキャラを保っていた。

泣き虫の属性に象徴されるこうした性格は、何の取り柄もない少女が、
いつかだれかの影響で素晴らしい存在になれるかもしれない、劇的な機
会さえあれば自分もヒロインを演じることができるかもしれない、とい
う視聴者の期待には応えてくれるけれど、ヒロインの行動によって物語
的な興奮が生まれるわけではない。

物語という装置が、凡庸なわたしに対して非凡な周囲や事件が何かをし
てくれる、という期待を満たす段取りなのだとすれば、過度に主観的な
現実観への迎合であって、こんなにつまらないことはない。

それが女の子の持つ保守性に向けての対応なのだとすれば、少女向けの
物語は所詮男子には受け容れ難いものでしかないが、社会的な状況も変
わってきた現在、女の子の嗜好も徐々に変わってきたのではないかと期
待したいところだね。

素晴らしい事件や他のだれかが何かをしてくれるのを待つ主人公に自ら
を重ねるのではなく、自身の行動で自身と周囲を変えていく人物に憧れ
と共感を持つ、そのほうが現代女性として健全なんではないかと思う。
そういう意味で、この番組で「強いうさぎ像」が描かれていくことは、
新たな女児向け番組ジャンルの地平を拓く端緒となるかもしれない。

あえてレトリックを用いれば、実写版のうさぎはこれまで描かれたなか
で最も「漢らしいうさぎ」なんじゃないかと思う。沢井美優の見た目が
とても女の子っぽいので気附かないが、その行動だけを抜き出して考え
ると、「アタマが悪くてドジだが無類の侠気と行動力を持ち合わせてい
る男子学生」と表現して差し支えなかろうと思う。

…なんだ、それって伊達健太じゃねえか(木亥火暴!!)。

こういうヒロイン像が最も顕著に際立つのは、たとえばこの先ウラネプ
コンビが登場すると仮定した場合、土萌ほたる=サターンをめぐる絶対
的に相容れない窮極の選択を強いられる場面だろう。

そして、こうしたカルネアデスの舟板的な絶対の選択というテーマは、
小林靖子が好んで書くところではあるんだね。これまでの経験では、甘
いと言われようが非情な二者択一を軽々と飛越する第三の選択肢を提起
し、それを強い意志で実現してしまう、という行き方があった。

その試みは、メガレンの「激ヤバ! オレたち死ぬのか?」では上手く
捌かれていたものの、未来をかけた非情なオルタナティブをシリーズ全
体の主題に据えたタイムレンジャーのときは、あまり成功しているとは
思えなかったけどな。

まあ完全オリジナルの戦隊と違って、原作附きのセラムンならおおよそ
の筋立ては事前に検討して工夫を凝らせるので、どういうふうにうさぎ
のキャラを立たせてくれるか、非情なディレンマに対して第三の選択肢
を提起するのか、ギンガマンで長期的なシリーズ構成に成功した小林靖
子がこの難問をどう捌くか、その辺りにはかなり興味があるね。

実は今回のエピソードでもその萌芽はあって、「いやなものを〜」と主
張するうさぎに対して、ルナは「代わりはいないんだし」という身も蓋
もない鉄壁の必然性を剥き出しで持ち出している。戦士の資格や能力で
はなく、転生した戦士当人であるという当人性に代替はあり得ない。こ
れは不可避的な事情であって、本来否も応もないんだという機微は、よ
り露骨に語られているんだよね。

しかも、このテーゼは「転生した戦士当人であるから覚醒して当然」、
というような内的選択の問題としてではなく、「彼女の代わりはいない
んだから参戦してもらわないと困る」という関係性のなかの現実問題の
形で表現されていて、さらに生々しい言葉となっている。

結果的に亜美ちゃんが戦士の道を選んだことで本格的な葛藤には至らな
かったけれど、これだって回避不能の二者択一ではあったはず。未だに
転生云々の設定紹介がされていないから、初見のお子さまには気附かれ
ない問題ではあるけどね。

予定調和のメンバー集めに対して野暮な想定だとは思うが、もしも亜美
ちゃんがそのまま拒み続けていたら、そしてその意志をうさぎが尊重す
るのだとしたら、四守護神はその重要な一角を欠いた不利な形で最終決
戦までを戦い抜く必要があった。これは、亜美ちゃんが一旦戦士加入を
拒絶するという手続を踏ませた実写版ならではの設問となる。

一方で、今回の描写を見る限り、うさぎがこの先どんなに経験を積んで
成長しようとも、同じディレンマに対しては必ず同じ答で臨むであろう
ことも容易に想像が附く。ならば、この設問に対する解は今回の物語が
すでに素型として語っているということになるね。

そして、この方向性がウラネプとの対立にどうアダプテーションされる
かというヒントとなるのは、先に引いたルナの言い分だろう。彼女は飽
くまで現在の時制で戦士たちをとらえている。

これは、ルナがうさぎたちのように転生した存在ではなく、第一期シル
バーミレニアム滅亡の直接当事者であることにも関係があるのかもしれ
ないが、ルナは「前世から決まっているんだから遵え」というような言
い方はしていない。逆にいうと、ルナの視点では、戦士たちの覚醒はい
わゆる「前世からの宿命」ではなく、予期される計画でしかない。

四守護神とプリンセスの転生が予め定められており、ルナは再びの集結
を予期して現世での彼女たちナビゲートする役割だからこそ、再度の敵
の来襲に際してここで降りられては困る、という現実的な話をしている
にすぎない。

たしか今現在は記憶の一部を封印されているはずだが、ルナにとって、
うさぎや亜美ちゃんは昔知っていた人々当人でもあるし、別人でもある
という微妙な位置附け。逆説めくが、ある意味では宿命の不可避性とい
うニュアンスは、実はここにはないんだともいえる。前世からの宿縁と
か来し方そのものを、この現世にまで持ち越すというニュアンスは今の
ところない。

また、ネガティブなレゾンデートルとしての負の妄執というトミノ的な
宿命観でもない。トミノ作品では、自分が自分であること、その当人を
当人たらしめる当人性に拘り続ける限り、予め定められたカタストロフ
は避けられないというテーマを一貫して語り続けているが、小林作品で
はまさにその逆のテーマを語っている。

その当人がこれまで生きた証となる過去の重みを軽やかに振り捨ててで
も、自分がこれまでどおりの揺るぎない自分であり続けるという実感を
諦めてでも、現在の時制でより良い生き方を選択すべきだ、生まれ変わ
るべきだ、そしてそれはいつでも可能なんだと語られている。

今回の話でいえば、亜美ちゃんが戦士加入を承諾したのは、それが不可
避的な当人性だからではなく、その選択が今現在の亜美ちゃんにとって
より良く生きるためのものだったから、ということになる。

ここに光明があるのではないかとオレは思う。タイムレンジャーではタ
イムパラドックスの問題に足をとられ一時迷走したものの、こうした問
題に関して、常に小林靖子は現在の時制に立ち続けることで「未来は変
えられる」と訴えてきた。

過去がどうであれ、強い意志を持ってこの現在を十全に生きることで、
必ず未来は変えられるというのが、一貫した小林靖子のテーマだった。
不可避的な悲劇を避けるために、より良い選択肢を考え続けようと訴え
てきた。

ウラヌスとネプチューンが過去にどんな悔いを残していようとも、その
解消をどのような形で成就するかは、飽くまでこの現在の選択の問題で
はある。じっさい現在におけるウラネプの非情な行動は、飽くまで過去
世の因縁に基づいて現在のウラネプが選んだ選択肢なのである。

設定された具体的困難と、一見妥当なその解決法、それに対してより良
い別の選択肢を提起すること。それこそが、物語のもたらすサプライズ
なんだろうと思う。過去の作品では、きわめて無自覚に扱われていると
しか思えない「転生物」のつまらない呪縛を、実写版では木っ端微塵に
粉砕してもらいたいところだね。

そして、そうした期待の当否は、来週のレイちゃん登場編で早々に判断
できるかもしれないね。予告に出てくるセリフはコミックス版と対応す
るもので、レイちゃんがその異能ゆえに今現在周囲からいわれない差別
を受けているのは、過去世の因縁のためであったという「解釈」が陳べ
られている。

現世の苦境を肯定的に「解釈」するために過去世を持ち出すのは、転生
物の抱える構造的に不快な部分。これをどう扱うのか、やりっぱなしで
スルーするのか、それとも後々実写版的な方向性とすり合わせるのか、
そこに今のオレの興味は集中している。

現在の不幸を理由附けるためのネガティブな意味附けでなくても、前世
というフィクションを措定して現世を解釈するやり方には、必ず不快な
側面があると思う。オレの個人的なアレルギーだといわれればそれまで
だが、そういう論理というのは、新興宗教の教祖が必ず持ち出してくる
自己正当化でもあるんだよね。

しかし、もし現実に自分に異端の異能が具わっているとしても、それに
は理由なんかないというのが本当だと思う。今現在の自分がこのようで
ある理由を、過去世という具体的なストーリーによって解釈しようとす
るのは、唾棄すべき易道だとオレは思うんだな。

無根拠な現状を出発点として、この現在をどう生きるかによって、過去
は初めて自らの生き様で意味附けられるものだろう。現在を十全に生き
る前に心地よい意味性をもたらす過去を措定するのは、本末転倒のイカ
サマだ。

だから、転生がアリとされている物語内であっても、自分がこうである
のはこれこれという過去世の因縁のためだ、という筋道は描いてほしく
ない。もしもレイちゃんにとって、自身に具わる異能を受け容れる契機
が必要なのであれば、それは現在の時制において自身の能力を必要とし
ているだれかがいるから、ということで十分じゃないかと思うんだ。

普通に考えてみれば、たとえば今現在の自分がこのような自分であるの
は、これこれという理由があるからだ、決められた意味があるんだ、と
いう話になったらたまらなく不愉快じゃないか?

たとえば新興宗教の教祖というのは、自分は家庭的、健康的、経済的な
不幸に苛まれた人間で、それはこれこれという霊的な因縁があったから
だ、一種の試練だったのだ、それは崇高な使命を帯びた運命にあったか
らだ、というような理由附けを好んで行う。

それは必ず不健全な妄想となるし、論証不能の狂信的な自己正当化に陥
るものだ。なぜなら、そういう事柄に具体的な理由附けを求めること自
体が間違っているからだろう。

輪廻転生というのは宗教的な装置であって、そういう不健全な問いかけ
に解答を提供するフィクションなんだと思うが、これを現代の物語の要
素として扱う際には、ある程度のデリカシーがほしいとオレは思うんだ
な。「ぼく球」のヒットでソウルメイト探しが流行った例を挙げるまで
もなく、そうでなくても転生ものには狂信的なビリーバーが附きやすい
わけだから。

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