« Act.29-30 またおまえは騙されたわけだが | トップページ | Act.32-1 不実はさいなむ »

Act.31 藪の中

木野まことの人物像確立を目指したAct.21のレビューで「今はまだおあ
ずけ
」と惜しんだまこちゃんの窓抜きNRだが、それ以来のまこちゃん
主役エピソードである今回に至ってようやく実現をみたことになる。

案の定、普段でも「味のある棒読み」と評するのが精々好意的な安座間
のセリフ廻しだが、ことにこうした段取りのセリフにおいてはボソボソ
した独特の間が絶妙の味を醸し出している(木亥火暴!!)。

それと、クラスで孤立したうさぎの救い手として美奈子が美味しいとこ
ろをさらうAct.30を振り返るアバンのBGMとしては、美奈子の変身バ
ンクの劇判という選曲は間違っていないし、有り体にいえば個人的にこ
の楽曲が好きなので、美奈子のテーマとして久しぶりに使われたのが嬉
しい。

華やかさと愛らしさ、可愛いらしいわがままさまでをイメージさせるこ
の楽曲は、美奈子個人の人物像の素描というより、アニメ的なアイドル
らしさを表現していて、ある意味美奈子のテーマとしては相応しいよう
な気がする。かつてMAは好きな作業」「選曲には自信ありと放言
して失笑を買った高丸監督だが、心を入れ替えて素材を吟味する気持ち
になったのか、ここのところはその過去の発言に愧る選曲はしていない
ように思う。

しかしそんな細々したことよりも、このアバンが始まるや否やオレの目
を引いたのは、窓に抜かれたまこちゃんのショットのなんともいえない
軟らかさ
である。

基本的にアバンのNRは、クラウンのセット内で撮影されているので、
たとえばAct.27のうさぎのように、ポップなコントラストで見せるのが
パターンだろう。しかし、今回のアバンのまこちゃんは、暖色系の中間
色の階調だけで描かれたモノトーン
として撮られている。

これは窓の外のダイジェスト映像と見比べると、かなり目立つルックの
違いである。同じ制服姿ということで、松村カメラマンのAct.21の撮り
方と見比べてみると、当たり前のことではあるが、まこちゃんの制服姿
を同系色の階調という意識では撮っていない。髪色と肌色と制服の濃色
は、すべて違う色味であることを際立たせる方向で撮られている。

実際、この衣裳を着けた安座間美優を間近に見る機会があるとしたら、
同じアースカラーで統一的にコーディネートされた木野まことの制服姿
も、髪の染め色と素肌の色味、自然な唇の光沢、角襟のベージュと生地
の温かな白さ、脚部の素肌のハッとする白さとハイソックスの蛍光的な
白さ、こうした豊かな色彩のバリエーションに彩られているはずだ。

それはモノクロームの階調としての色彩感ではなく、色彩の微妙なニュ
アンスの差異のバラエティ
として、人間の肉眼に訴えるコントラストで
あるはずだ。

松村カメラマンが画面に映し出そうとしている木野まことの制服姿は、
たとえばイヌイットが雪の白さを無限の色彩として感得し得るような感
覚に近い、同系色の色彩的表情を別個の要素に分解してコントラストを
際立たせる方向で表現されている。

ある意味、それがこの番組の基本的なルックであることは間違いない。
画面内に原色やパステルカラーをふんだんに配し、その美しい色味をそ
の色としてくっきりとコントラスト高く表すのが、一貫した特徴である
といえるだろう。竹光お得意の極端なロウキーやハレーションという演
出者の好みはあるにせよ、監督やカメラマンが変わっても、色彩のコン
トラストを立たせて硬く締めるという基調は変わらなかった。

しかし、今回ふたたびファインダーを覗く川口カメラマンの場合、前回
担当したAct.1920のレビューで「軟調」と表現したような、独特の軟
らかさを指向しているように見える。

諸先輩がむしろ硬く色彩のコントラストの効いた明暗のフラットな画面
を指向しているにもかかわらず、輪郭のエッジを軟らかく滲ませ、色彩
のコントラストを落とし、ハイライトから光が拡散して回り込むような
画面づくり
を指向している。

竹光のハレーションと似ているが、前景と後景の明暗のコントラストを
硬く際立たせるのではなく、後景の光が前景に回り込むような、軟らか
い空気感を醸し出している。

これを一口に「軟調」と表現するのは、正確ではないだろう。それは、
やはりフィルムの世界の用語だろうし、主にモノクローム作品を対象と
して明暗のコントラストについて表現するタームである。一般に、光と
影の強いコントラストで劇画的な画面を指向するのが硬調、無限階調で
色彩感豊かな表現を指向するのが軟調とされている。

黒澤作品でいえば、「用心棒」は硬調だろうし「椿三十郎」は軟調だろ
うと思う。誤解を懼れずにさらに噛み砕いていえば、白黒が硬調でグレ
イスケールが軟調ということになるだろうか。もっと噛み砕いていえば
ぱっと見の画面に明らかに白い部分と明らかに黒い部分があるのが硬調
で、全体に鼠色で強い白も強い黒も目立たないのが軟調
だ。

これに色彩という複雑な要素が加わると、画面から受ける「硬い」「軟
らかい」という印象を決定附ける要素はかなり複雑なものとなる。さら
に、フィルムとビデオというメディアの違い、もっといえば、フィルム
素材をテレシネした映像をビデオモニターで見る場合とビデオ撮影の作
品との違い、いろんな要素が関係してくる。

これまでこのレビューでは、半可通の誹りを懼れずに、結構踏み込んだ
技術論も試みてはいるが、正直なところ川口カメラマンの担当回に特徴
的なこの独特の調子について、読み物としてどこまでをどう表現するか
というのは悩みどころ
ではある。そして、こういう場面でこういうこと
を口にするのは言い訳めいているが、もちろんオレは、専門的に映像を
学んだ人間ではないし、現場の経験もない一介の素人である。

ここでこういう留保を附けるのは、たとえば連続テレビドラマにおいて
こういう「画面の調子」というレベルの要素を決定する役割を、本当に
個別のカメラマンが担っているのか、そこが今ひとつわからないという
こともあるからだ。つまり、こういう現場においては、「組」というの
は番組の「組」であって、個別の監督やカメラマンの「組」ではない。

だから、普通なら連続テレビドラマのルックというのは、監督やカメラ
マンが変わっても、当初の方向性をおおむね外れるものではない。たと
えば、個々のカメラマンによって端的に違ってくる部分とは、画角の切
り方やカメラの動かし方であって、画面の調子それ自体が変わってくる
ということはあまりない
ものだ。

なぜなら、連続テレビドラマの現場においては、組が効率的かつ自律的
に動くことによってスムーズな分業が成立し、個別の監督やカメラマン
の負担が軽減されているという事情がある。一本一本のエピソードで、
すべての映像的な細部を最初からセッティングしていたら、一本の番組
としてのルックの統一感に欠けるだろうし、年五〇本のエピソードを数
人の監督の持ち回りで製作することは不可能だ。

なので、組が同じである以上、たとえカメラマンが代わったとしても、
普通に撮ったら、同じような調子になるのが当たり前なのである。その
意味では、たとえば上赤と松村のカメラワークの違いというのは、まだ
理解の埒内に納まる。要は現場においてショットを見つめる視点の違い
であったり、もっと即物的にいえば、道具の選び方やカメラの据え方、
振り方の違いであるという言い方もできる。

だから松村や上赤の担当回において調子の違う絵面が顕れるとしたら、
それは竹光のハレーションであったり、舞原の回想演出であったり、つ
まりは監督の駆使する手法の一つとして調子を変えた映像が選択された
だけ
ということになる。

しかしなぜか川口カメラマンの担当回においては、画面の全体的な調子
が明確な統一性を持って変わっている。これは、川口担当回だけの特徴
である以上、川口個人の持ち味であると解釈するよりないのだが、だと
すれば本当に一カメラマンの裁量でそこまでの全体的な映像表現の方向
性を決定できるのか、そこのところがわからないのである。

カメラの据え方振り方だけで、映像の全体的な調子が決まるものではな
いことは明らかだ。カメラ本体の足し算引き算、レンズやフィルターの
チョイスだけではまだ足りない。

番組の組が普通の段取りで動けば自ずから決まってしまうセッティング
を、統一的な設計に基づいて全面的に変えない限り映像の全体的な調子
というのは変わらない。ことにビデオ撮影作品においては、撮影時点に
おける色彩の要素を決定するのは、どうやらカメラマンではなくエンジ
ニアらしいので、話はもっと複雑になる。

この複雑な問題を、どのレベルまでこの場で推定すべきなのか、それを
どこまでこの場で披瀝すべきなのか、ここをどうにも考えあぐねてしま
うんだな。当然、こうした問題は批評の範疇の事柄ではなく、ジャーナ
リスティックな問題
となってくる。どう撮ったのか、どういう事情だっ
たのかを、当事者に聞くのがいちばんだが、それはオレのレビューに課
せられた課題ではない。

たとえば、仮説の一つとしては斗沢黒幕説なんてのもある(笑)。撮影時
における映像の調子を決定附けるのは、主に光の当て方であって、ある
調子を指向する照明において撮られた素材を、後処理で違う調子に変え
ようとするのは困難だし、有り体にいえばそれはナンセンスである。

そういう意味では、こうした問題においてキーマンとなるのが照明マン
であるのは間違いないし、映画の現場でフィルムでということになれば
照明マンとの密接なコミュニケーションでルックを決めるものだ。この
番組でいえば、川口の独特の調子の実現に照明の斗沢秀が深く関与して
いることは間違いない。

ただし、川口が自分の指向を斗沢に持ち掛けたのか、斗沢が川口の出世
に便乗して腹案を実現したのか、それは非常にジャーナリスティックな
問題となる。そして、特撮ジャーナリズムにおいては、こうした現場の
問題を取材し、記録として残すような慣習はない。

このレビューを開始して以来、オレが度々衝き当たるのは、このような
ジャーナリズムの限界だ。特撮ジャーナリズムは、パッケージ商品段階
の作品しか相手にしていないが、そんなのは、オレたちにだってできる
ことだ。そうではなく、現場に入り込めるメリットを活かして、それら
がつくり出される工程を専門的知識に基づいて報じてほしい

特撮ジャーナリズムには、カメラマンやスクリプターやエディターたち
に取材して、テクニカルな問題を報じようとする動きはない。それを一
口で言うなら、そうしたニーズに基づくマーケットの拡がりがないから
だ。特撮ファンがそうした細目を知ろうとはしないからだ。

狭い特撮ジャーナリズムの世界では、情報は制作サイドから下しおかれ
るもの
であり、一方的に流される情報である以上、流す側に不利な情報
や売上に結び附かない情報は回ってこない。そんな情報を公開した者に
は、今後情報が回ってこなくなる。一般映画のジャンルで、わずかなが
らそうした情報が記録として残るのは、それを知りたいと望むシネフィ
ルが一定数存在するために、市場として成立するからだ。

あえて広言するならば、特撮ファンがテレビ特撮を立派な映像文芸作品
ジャンルの一つと目するならば、映像文芸作品一般を論じる際に必須の
情報に対してもニーズを示してほしい。

東映特撮作品に関しても、監督や脚本担当者の文芸面のコメンタリー、
特撮マンのテクノロジーレクチャーやプロデューサーの語る美談回顧ば
かりではなく、普通に映像作品を支えている現場の人間の証言にも興味
を示してほしい。ニーズのあるところには市場が拓けるのだから。

閑話休題。オレ個人としては今回の調子の問題に関して、斗沢黒幕説を
採りたくないんだが、それは、普通一般に謂うカメラマンとしてのオペ
レーションに関しては、現時点の川口には目立った特長がないからだ。

川口の門出に際して特訓を授けた上赤のオペレーションのように、カメ
ラの据え振りでグイグイ視聴者を引っ張るような迫力はない。なんとな
くゆったりと穏やかにカメラが動いているのだし、衒ったところも鋭い
ところも目立たない。

カメラの動きが意味性を指向して一種の演出効果を実現しているという
こともない。川口のカメラは、いちがいに回り込みを多用しながら流れ
るように動いているというただそれだけである。ゆったりと回り込み、
ゆったりと寄る、その動き自体に深い意味性はない。

カメラワークという観点でそれなりの華を見せるのは、クライマックス
の森での戦闘場面のみで、それまではタメにタメて地味なカメラワーク
に徹している。

これをデメリットと視るか視ないかという点に関しては、調子の問題を
ヌキにしては語れない
とオレは思うんだな。

なんとなくゆったりと穏やかに…あえてネガティブに表現すれば曖昧で
もっさりしたオペレーションが肯定されるとすれば、川口の関心がカメ
ラの動きではなくカメラが写し取るショットそれ自体にあるのだと解釈
する場合だろう。

これは、カメラワーク主体でものを考えるカラーフィルム時代のカメラ
マンというより、やはり、映画が「シャシン」と呼ばれていた頃のモノ
クロ時代のカメラマンの感覚に近い。

このように軟らかい調子で撮られた美しいショットを穏やかに愛撫する
ような感覚で、息を凝らしてショットを見つめる視点に徹して、積極的
な意味性や存在感を主張せずにカメラが動いているのだとすれば、それ
はそれで一つの個性である。

そのように視るとすれば、撮られたものがこのような調子であるのは、
やはり川口の意志に基づくものであってほしい。川口の特質を肯定的に
とらえ得るとしたら、それはオペレーションの問題ではなく、一種映像
作品におけるフォトジェニックな関心
にあるのだろうし、そうであって
ほしいという期待がある。

組によって確保された番組のルックを前提として、オペレーションの腕
前で見せるのではなく、さらに一歩を踏み込んで、そのルックの延長上
で独自のフォトジェニックな調子を模索する。こういう種類のカメラマ
ンであるのなら、カメラの据え振りに華がなくても、それは必然であっ
て欠落ではない。

川口担当回における調子の問題を、新人カメラマン川口のデビューに際
してやり手の斗沢が附け込んだだけと視るのでは、川口はただの凡庸な
オペレーターだということになってしまう。本当のところはどうなのか
という問題はさておいて、その解釈はつまらない。

実際、まこちゃんと元基のデートという脇筋中の脇筋にすぎない今回の
エピソードではあるが、まこちゃんの撮り方のフォトジェニックな美し
さは特筆に値する
だろう。今回のエピソードにおいては、まこちゃんが
映るカットはすべて「女優のアップ」という先鋭な意識において美しく
切り取られている。

まこちゃんの美しい表情をとらえているというだけではなく、撮られた
ショットがすべて画として瑞々しい美しさを具えている。OPが明けて
まこちゃんがクラウンに入店してくる瞬間から、すべてのカットが木野
まことを演じる安座間美優の、これまで知られていないキュートな表情
を押さえていて、元基の負傷を聞いてしかめた顔や、いやいや芋を喰う
仏頂面でさえ愛らしい。

そういう意味で、今回のエピソードではまこちゃんが映っているカット
はすべて御馳走となっている。木野まことなり安座間美優なりのファン
ならずとも、このように愛らしく撮られた少女の映像を前にしては刮目
せざるを得ないだろう。

恒例の七変化で見せるフェミニンな佇まいもさりながら、元基とのデー
トで見せる一つひとつの表情が、未だかつて視聴者が見たことのない、
まこちゃんの美しい少女としてのひとときを鮮やかに写し取っていて、
溜息が出る。

たとえば映画観賞後のテラスの場面、驚いたり微笑んだり戸惑ったりす
る瞬間に、まこちゃんがこのような表情を浮かべる少女であることを、
オレたちは今の今まで知らなかったのではないか。

そしてこのデートのクライマックスとなる河原の告白シーンでは、あえ
て曇り待ちをしたとはちょっと思えない
が(笑)、曇天の河原という不利
なロケーションにおいても、この不器用なカップルの心象風景として、
さほど不自然な絵面ではないと思わせるセンスがある。

かつて、Act.19で素晴らしいラブシーンを実現し、和事に強いところを
見せ附けた川口は、この河原の場面でもすれ違う二人の情感を空が白く
飛んだ淋しげな風景のなかに滲ませて、危なげなく表現している。

これを、たとえば安座間の表情芝居の部分を高丸監督の手腕、新緑の優
しい色彩のなかに白い素肌が溶け込むような穏やかな光の戯れを斗沢の
手腕とのみ視て、川口の領域をオペレーションだけに限定して視るなら
川口担当回に特徴的なこうした特質は、前回ローテ同様、高丸・斗沢・
川口のセットでたまたま実現されたもので、別段に川口個人の資質では
ないということになる。

しかし、オレはそれがどれだけ本当らしい見方であったとしても、そう
いう見解には与しない。それはつまらないものの見方だからだ。川口が
撮影を担当することで、たとえば今回のような美しい少女のフォトジェ
ニックなドラマが実現するのであれば、そうした特質は川口という新し
い人材への期待として解釈したい。

そして、こうした美少女の瑞々しい映像に彩られた物語は、河原に自然
発生妖魔が出現した瞬間から、一カメラマンの能く為し得るコントロー
ルの限界
に衝き当たる。

セーラー戦士たちの戦闘シーンは、バンク映像とCG合成という現場の
撮影とは断絶したプロセスが介在するため、撮影時の企図が一貫した調
子としては見えにくくなってしまっている
。さらには、このような番組
であることに伴って生起する種々の不利な事情が、撮影者の緻密な計算
を画餅に帰してしまっている。

それでも、変身以降のまこちゃんの森での戦闘場面の撮影が、どのよう
な映像を目指しているのかはわかるし、それをわかろうとするのでなけ
れば、ことさらに川口の撮影を取り沙汰する意味がない。

残念ながら、まこちゃんの森での戦闘をこのような企図において撮ろう
とした撮影者の目論見は、結果としては失敗していると言わざるを得な
いだろう。

オレはそれを惜しいと思うし、オレがここで触れなければ、ただに現場
の自己満足に終わってしまうのかと思えば、これまで以上に面倒くさい
作業ではあるが、不幸にして大多数の視聴者の意識に上ることもなく失
敗に終わった企みを、ここで後附けていこうと思う。

順を追って視ていこう。互いの傷心に決着したデートの余韻も覚めやら
ぬまま、河原に自然発生妖魔が出現することで、まこちゃんはテレティ
アを通じて「みんな!」と仲間を呼び変身する。ここで注目すべきなの
は、インサートされる三戦士+ルナのカットが、ローポジのアオリで、
太陽を入れ込んだ絵になっていることだ。

この太陽入れ込みのアオリというアングルは、その後の森でのまこちゃ
んの戦闘場面でも頻出するアングルである。そして、この森の場面の撮
影において、撮影者の念頭に何があったかといえば、それが黒澤の「
生門
」であったろうことは想像に難くない。

黒澤の「羅生門」は枠物語としての羅生門外の場面を劇しい驟雨の薄闇
に潰し、そこで語られる物語では森を主要な舞台に据え、強烈な太陽光
と木々の葉末の戯れによる鮮烈な光と影の映像を基調としている。

この作品の撮影において伝説的に語られている挿話は、当時はほとんど
なかった太陽入れ込みのアングルと、ドリーレールを敷けないくらいに
木々が稠密に密生した森の中を三船敏郎が疾走する場面の撮影である。

野上照代の「天気待ち」という本には、当時映画の現場では、専門家の
カメラマンでさえ、太陽をまともに撮ったらフィルムが灼けると懼れて
いた、という証言がある。この作品のギラギラするような暑苦しさは、
木々の梢越しに太陽を見上げるような大胆なアングルや、その強烈な太
陽光線が落とす影を強調して撮影することで醸し出されている。

また、三船敏郎演じる多襄丸が森の中を疾走する場面では、カメラを中
心に三船が円を描いてグルグル走り、カメラが三六〇度パンでそれをと
らえ、パンニングを直線の動きらしく見せるために、助監督が笹の枝を
持ってサッとカメラの前をよぎらせているというのは有名なエピソード
である。

しかし、野上の同書によれば、このエピソードの要諦となるのは、巷間
伝えられているように、撮影の実際上の不都合を克服するために三六〇
度パンが選ばれたのではなく、ドリーで移動するよりもパンするほうが
スピード感が出る
、という黒澤の拘りによってパンニングの手法が選択
されたという事実である。

これは、考えてみれば当たり前のことで、カメラ自体がレール上を移動
するよりも、固定されたカメラを振るほうが速い動きをとらえられる。
そして黒澤は、当時の三船という役者の得難い持ち味を、その類稀なス
ピード
にあると評している。三船のスピーディな疾走は、それを上回る
スピーディなカメラによってとらえられねばならない。

さらに黒澤の性格を考えれば、いかに稠密な森であれ、ここは絶対移動
が必要と彼が確信したならば、道なき深い森を斬り拓いてでも必要なだ
けレールを敷いて移動撮影を敢行したことだろう。レールが敷けないか
らパンニングを選ぶというのは、要するに次善の選択に過ぎないわけで
ちょっと黒澤らしくない発想である。

ただ、カメラマンである宮川一夫自身の証言によれば、これは宮川一夫
が稲垣浩監督から教わった手法で、要するに宮川の提案によるものだと
いうことになる。いずれにせよ、移動ショットよりもスピーディな効果
が得られることが、パンを選択する決め手となったということだろう。

森での戦闘場面は、よく見るとこうした「羅生門」撮影時のエピソード
に通底する要素が多々意識的に採り入れられていることに気附く。その
きっかけとなるのが、テレティアの一報に応じて三戦士たちが駆け出す
カットにおける太陽入れ込みのアングルなのだ。

ここの二カットでは、両方ともカメラがローポジションに構え、一方で
は固定アングルで煽り、一方では三戦士に附けて煽ることによってレイ
ちゃんの肩越しに太陽を入れ込んでいる。そして、他方まこちゃんの森
での戦闘においても、妖魔に投げ飛ばされるカットや妖魔を見上げる主
観カットにおいて、太陽入れ込みのアングルが多用される

太陽入れ込みのアングルで見せたかったのは、本当は森の場面のほう
のだが、あえてもう一方の三戦士たちの場面から採り入れることで、森
の場面だけ浮かないように配慮しているということだろう。

そして、まこちゃんの覚醒以降の撮影では、わざとカメラは逆光に構え
普通の撮影なら避けるべきハレーションを、意図的に回り込みのアクセ
ントに据えて、光と影の戯れを強調する。こういう場合、普通の撮影で
は前後のつながりがおかしくならない範囲で役者の立ち位置を調整し、
順光もしくは半逆光の位置にカメラを置いて、光学系中の乱反射、いわ
ゆるハレーションを排除するものだ。

カメラにおける光学系は、表面と奥行きを具える物理的実体であるレン
ズと鏡筒で構成されているため、ある程度の角度を持って直接光が入射
すると必ず乱反射を起こす。レンズや鏡筒の表面で反射した不要な光線
が雑然と影響し合って白色光となり、ショットを白く霞ませてしまうの
がハレーションと呼ばれる現象だ。

本来この意図せざる乱反射をハレーションと呼ぶのであって、竹光のい
わゆるハレーション演出は、光軸の真正面に光源を置いているため、比
較的乱反射は低いレベルで抑えられ、後景と前景の明暗差のコントラス
トだけが効いてくる手法である。つまり、目立ったハレーションは起こ
してはいないんだから、これをハレーションと呼ぶのはちょっと違うん
じゃないかと思うんだが、まあどうせ竹光のことだから、呼びたいよう
に呼ばせておくさ
(木亥火暴!!)。

どうしても逆光の位置に構えざるを得ない場合は、庇状の長い仕切板を
見切れ寸前までレンズ上に被せ、光学系に直接光が入らないように配慮
する。もちろんこれは、光学系と光源との位置関係が決まっていないと
できない芸当なので固定アングルが基本、光源との相対角度が大きく変
化する回り込みなど避けるのが普通である。

だから、オレたち一般視聴者は、移動ショットでハレーションを交えた
映像など日頃目にする機会はない
。撮影の現場においては、それはNG
ということになるからだ。しかし、今回の森の場面では、まこちゃんの
長台詞はわざと逆光の範囲内でゆっくりと回り込み、チラチラとハレー
ションを起こして、まこちゃんに降り注ぐ光そのものを表現している。

また、立木の落とす影が普通に撮った場合以上に強調されていることも
間違いないだろう。まこちゃんが地にまろぶカットでは、立木の影がま
こちゃんの上に落ちる位置と時を選んでいる

さらに、まこちゃんが妖魔を追って疾走する場面では、意図的に前景に
立木を挟むことによって、多襄丸の疾走と似たような効果を醸し出して
いる。ここは基本的に手持ちで撮影しているようだが、足許を見下ろす
アングルの一瞬のカットでは、足の運びや影の角度の変化が円形運動を
示唆しているように見える。

こうした全体を視る限り、撮影者の念頭にあったのが「羅生門」である
ことは疑えないと思うが、にも関わらず、この場面の映像は、ちっとも
「羅生門」に似ていない。なぜなら「羅生門」に触発されることとそれ
を模倣することはまったく別
であるうえに、この映画は硬調好みの黒澤
の作品のなかでも窮め附けの硬調で撮影されているからだ。

宮川が言うには、現在オレたちが観られる今のプリントは、ポジが良く
なっているので、本来黒く沈めたつもりのグレイまで出てしまっている
そうである。また、当初は黒と白を強烈に出すためにハイコントラスト
フィルムを使うつもりだったのだが、なかったので別のものを使ったと
いうことだ。

これは、前半で長々と指摘した今回の調子とはまったく正反対の指向で
あり、役者の額にプツプツと玉の汗が滲むようなギラギラした暑苦しさ
をねらった調子である。

一方、この戦闘場面が目指すのは、最終的にまこちゃんの覚醒に力を籍
す森という場の優しさであり包容力であり、つまり「羅生門」における
苛立ちや憎悪や欲望の爆発をもたらし、日常の静穏を剥ぎ取る荒々しい
自然としての不快な場である森の描写とはまったく異なるものだ。

だから、この戦闘場面は単に「羅生門」を模したものではないし、意図
的に似せた構図もないうえに、正反対の調子においてトリビュートを捧
げるというポジティブな意味づけが為されている。

その意味では、森の戦闘場面だけを視れば、撮影者の企図は美しく実現
されてはいるのだが、この企図全体を失敗だと視るのは、そのような企
図が三〇分特撮シリーズの実際において、十全な映像の言葉として実現
するのは奇跡に近い
からである。そのゆえに、河原での変身以降の全体
の映像は、本来ならそうあるべき理想の姿からはほど遠いものとして実
現せざるを得なかった。

ここが失敗しているのはいったい何故か、それを端的に言ってしまえば
今回の撮影全般で天気待ちができなかったからだ。さらに言うならば、
ここの映像設計がこのようなものであることは、この番組の立ち位置か
らすればオーバースペックであることは間違いない。そのためだけにス
ケジュールをやりくりしてまでただただ天気待ちをすることなど、絶対
にあり得ないからだ。

森の場面だけがねらいどおりのピーカンであったのは、せめても晴日を
選んだものか、それとも単なる僥倖なのかは、繰り返しになるが部外者
であるオレなどの知るところではない。

先にも触れたが、河原の告白の場面は意図的に曇り待ちをしたとは思え
ず、前後のつながりを考えれば、ここは晴れているべきだった。さらに
三戦士+ルナが雑魚妖魔に足止めを喰う場面も、つながり上やはり晴れ
ているべきだった

ここが晴れてさえいれば、ひょっとして三戦士たちの戦闘場面は、現状
のようなクレーンショットや俯瞰ショットがメインではなく、足許から
のパンアップや仰角を多用したものになっていたのかもしれない。

二つの別々の場面は、眩しい太陽を仰ぎ見るアングルの多用で美しい対
称を形成していたのかもしれない。そこで天気待ちできなかった以上、
森の場面だけが晴れているのは、どうしたって不自然なのである。

さらに森の戦闘場面の撮影企図を妨げているのは、そこからの筋立て上
のつながりで、ナイトシーンを挟んでしまうことである。

河原からつながる一連がすべて晴れていたら、ここで一旦暗転して、さ
らに昼間に戻っても、効果的なコントラストとして機能していたかもし
れない。しかし、河原の場面以降の一連の映像をつながりにおいて視る
ならば、曇りと晴れと夜間という明度のコントラストレベルの違う映像
がグチャグチャと入り交じってつながれている
ことになる。

さらには、そこにバンク映像とCG合成という、まったく調子の違う映
像が目紛しくインサートされる。これでは、せっかく森の場面を美しく
撮ったところで、視聴者が感得可能な映像効果として十全に機能するも
のではない。森の戦闘場面は、ただそれ自体として美しい映像であるに
留まっている。

もちろん、番組の分際というものを考えれば、それは必要にして十分だ
ろう。だが、事実として一本のエピソードを理想的な調子で統一しよう
とする撮影者の執念深い企図は、ここで挫折している。

ここが晴れていなければならない以上、どのように巧みにリカバリーし
たところで、前半の美しい映像ですら曇天の不利な条件を押して探り出
した次善の営為であることが、結果的に後附けられてしまう。

それは、諄くも繰り返すとおり、三〇分特撮シリーズというメディアの
抱える、一カメラマンの能く為し得るコントロールの限界だ。

そして、後述するとおり、このエピソード自体、この妖魔出現の場面を
境にして構造的に別の意味性を指向する話になっていて、元基とのデー
トを核とするエピソードの根幹と、独力の戦闘に際して発動したジュピ
ターの覚醒は、意味的に整合しない構造になってしまっている。

期せずしてそうした構造上の不整合が撮影企図の蹉跌と連動して、今回
のエピソードの着地点の、なんともいえない歯切れの悪さを相乗的に強
調している。

まこちゃん主役のエピソードとしては、舞原のAct.21とは別の方向性で
佳作たり得ている今回のエピソードだが、脚本のネックにテクニカルな
ボディが連動した偶然
が少々惜しまれる点だろうと思う。

さて、撮影に関する憶測はこの辺で切り上げて、そろそろ本編を視てい
こうか。先にも少し触れたが、今回のエピソードは、構造的にちょっと
ねじれがあって、戦士としての覚醒の話と元基とのデートの話が、筋道
的にうまく一本につながっていないような印象を受ける。

それはつまり、まこちゃんの抱える問題を包括的に定義づける概念が、
今ひとつピンと来ないということだろう。そもそもまこちゃんの抱える
課題とは何なのかが、視聴者に共有されていない。この件については、
以前いくつかのエピソードで散々論じたとおりで、少なくともこの件に
関しては、これまでそこから一歩も進んでいない

そうした曖昧な事情を受けて、たとえば、まこちゃんが戦士として覚醒
しようと焦っているという前提で、覚醒を促すために「何でもやってみ
る」という苦しい言い訳のもとに、芋を喰わせたりデートをさせたり、
およそまとまりのない試行錯誤が描かれる。

結末から逆算する形で、強いてまこちゃんの課題を探るとしたら、それ
は「みんなと同じではない」ということだけだ。しかし「みんなと同じ
ではない」というのは、至極大括りな意味での結果であるに過ぎず、克
服すべき課題と目せるような具体的障碍ではない。だから、具体的な課
題が何であるかが見出せないままに、芋を喰ったりデートしたりする羽
目となるわけだ。

それと、これは個人的な引っ懸かりになるんだが、覚醒の遅れ→苦手の
克服→芋を喰うという流れと、元基の負傷→カレーの差し入れ→お礼の
映画→苦手の克服→デートという流れが、苦手と芋という中途半端な共
通項
によって、妙な絡まり合いを見せているのが気持ち悪い(笑)。

ホントにどうでもいいことなんだが、オレ的にはどうもこの芋を喰う一
くさりに、気持ちの悪いシンクロニシティとして抵抗を覚えるんだな。

そもそもカレーに芋というのは、大多数の日本人にとっては等号で結び
得る強力タッグだ(木亥火暴!!)。

それなのに、カレーを差し入れてあげるという会話の直後に芋が苦手と
いう暴露があって、苦手の克服というワンシーンがつながり、さらには
まこちゃんがカレーをつくる風景が描かれる。そのうえご丁寧なことに
月野家の夕食が芋尽くしであるというワンシーンまでが挿入され、芋と
カレーを巡るイメージ連鎖
は、さしたる意味づけも施されないままに、
混迷の度合いを深めている。

こういうつながりになっているために、まこちゃんがつくるカレーは、
普通家庭的な女の子がつくるような、芋や人参やぶつ切り肉がゴロゴロ
入った具だくさんの「ライスカレー」というより、料理を趣味とする女
の子がつくる「カレーソース」のようなものとなっている。

これは、以前の彼を思えば高丸監督も進歩したもので、各種スパイスの
小皿を並べ立てまこちゃんの料理風景を押さえているばかりではなく、
ちゃんと芋が苦手という流れも受けているわけだ。しかし、一見、前後
との整合性がとれた描写ではありながら、実はこの場面でまこちゃんの
つくるカレーが本格的なカレーソースだというのは、よく考えると座り
が悪い

そもそもまこちゃんがカレーを差し入れることになったのは、元基が利
き腕を負傷して、煮炊きに不自由であるからだが、カレーソースという
のは、それだけ飯にかけて喰っても味気ないものである。

チキンカレーなりシーフードカレーなり、調理した具と合わせたうえで
飯にかけて食すのがカレーソースのポジションである。つまり、これを
美味く食すには、もう一段階調理の手間が前提となってくる。そういう
意味では、どんなに本格的で美味いカレーソースをつくったところで、
負傷した独身男への差し入れとしては相応しいものではない。

さらにまこちゃんは「一度に大量につくるから」と言っているが、日本
式のライスカレーのルーは、たしかに具とダシの絡み合いが重要な煮込
み料理なので、大量につくって寝かせておいたほうが美味しくなるが、
本格的なカレーソースは、新鮮なスパイスのハーモニーが重要なソース
づくりの業であるから、大量につくってもスパイスの配分が難しくなる
だけだし、寝かせておくとスパイスの香気が抜けるばかりで、美味しく
なるわけではまったくない。

一度に大量につくれば美味しくなり、負傷した独身男に差し入れるのに
相応しいのは、実は芋や人参がゴロゴロ入った具だくさんカレーのほう
なのだ。だから、この場面のカレーはむしろ野暮ったい日本式カレーで
あったほうが、実際には辻褄が合っているんだが、なぜか、ことさらに
芋が苦手だというくだりが微妙に近接した位置に挿入されているので、
芋を入れなくても不自然ではない本格カレーソースになってしまった。

さらに、そのカレーの流れでデートの申し込みがあって、それもまた、
なぜか「苦手の克服」という曖昧な括りで芋やカレーと関連づけられて
しまうので、何だか隔靴掻痒の気持ちの悪い堂々巡りになっているよう
な印象を覚える。

引いてはまこちゃんの料理の方向性も、温かい家庭料理を指向するもの
ではなく、たとえば日下陽菜が調理学校で習うような本格料理を指向す
る趣味性のほうが強いということになってくる。まあ、彼女は幼くして
両親を亡くしているのだから、それはそれで矛盾してはいないが、元基
の言う「家庭的」という表現とはちょっと違うような気がする。

もちろん、こんなのはただの言い懸かりだ(木亥火暴!!)。

元基とのデートに至る段取りに過ぎないカレーづくりや、苦手の克服の
例示に過ぎない芋のことで、こんな海原雄山もどきの蘊蓄にまみれた、
細かい難癖を附ける必要などはない。

しかし、何というのか、このエピソード全体の何となく座りの悪い印象
というのは、こういうところにも顕れているんじゃないかという気がす
るんだな。また、過去に比べて進歩したとはいえ、高丸雅隆の現時点に
おける智慧の限界
もこの辺りにあるんだろうなぁ、という、意地の悪い
揶揄もそこにはある(笑)。

戦士の覚醒と苦手と芋とカレーとデートが、妙な因縁で妙な絡まり方を
しているので、元基とのデートの結末から戦士の覚醒に至るまでの流れ
がわかりにくくなっている…つか、何となく、そこにまで芋とカレーが
混ざってくる
ような気がしてしょうがない(木亥火暴!!)。

誤解を招くといけないから言い添えておくが、オレ個人としては今回の
エピソードは、それなりにおもしろく観られた。先に述べたように、川
口カメラマンの映像もいいし、コミカル演出とラブシーンに強い高丸雅
隆の持ち味も、ここに来てようやく落ち着いて観られるものになってい
ると思う。

分けても元基の告白の場面は、演じる黄川田将也の面目を一新するよう
な名場面になっていて、正念場の雰囲気を察知して何とか紛らわせよう
とするまこちゃんを「ごめん、ちょっと聞いて」とそっと制する呼吸、
さらに、告白を受けて舞い上がり、自虐的な言辞を不必要に重ねるまこ
ちゃんを「もう、わかったから」と窘める思い遣り、道すがら他の三戦
士と鉢合わせて「ふられちゃった」と微笑む表情…これまで元基をうざ
い三枚目
と疎んじていた視聴者ですら、思わず「いい奴だなぁ」と感じ
入ってしまう。

このデートの筋立てだけがメインだったら、このエピソードはまんざら
悪い出来ではなかったと思う。やはりAct.21を引き合いに出さざるを得
ないのだが、あのエピソードでも、奮闘するまこちゃんの姿を、映像の
もたらすおもしろみとして楽しませてくれた。

今回のエピソードは、ルナ橋で見返る姿を皮切りに、新緑に包まれたテ
ラスの会話、料理描写等々、そこここに従来エピソードのまこちゃん描
写の研究の成果
が見られるうえに、Act.21同様に、映像の美しさやおも
しろさで見応えをつくっている。意地悪は意地悪として、映像作品に求
められる智慧というのは、現時点の高丸雅隆レベルで必要にして十分な
ことはたしかなのだ。

気持ち悪いのはむしろ脚本の責任で、元基とのデートをメインに据えて
視た場合の、エピソードを通じたテーマの解釈に纏わる曖昧さが、この
単純なエピソードをわかりにくくしていると思う。

実際には、このエピソードの主構造は、まこちゃんの戦士としての覚醒
を語ることであって、元基とのデートはその一部に過ぎない。そのはず
なのだが、コミカルに描かれるまこちゃんの悪戦苦闘は、一本の筋道と
してのまとまりに欠けるし、むしろ、Act.21以来の懸案であった元基と
の関係を進める口実として戦士の覚醒の筋立てが選ばれているかのよう
にさえ見える。

さらに、元基を憎からず想いながらも、早々にデートを切り上げたがる
戸惑いや不安、元基の告白を受けても自己卑下に紛らわせて応じられな
い焦れったさ、こうした要素は、別段にまこちゃんの本質的な課題とい
うのではなく、この種の女の子に附き物の逡巡である。

それを「いつも最後は一人」「どうして」と受けるのは、まこちゃん本
人が自分という個人に固有の呪いであると解釈するのは自然でも、すで
に大人である物語の語り手や観客からすれば、思春期の女の子に一般的
な、他者や自分の感情に対する不器用さ
に過ぎないことは明瞭だ。

少なくとも、今回のデートで描かれたような不適切な態度なら、それが
たとえうさぎであってもレイちゃんであっても亜美ちゃんであっても、
程度の差こそあれ似たようなことをしてしまうだろう。これを、他のメ
ンバーのそれと同様に、克服すべきまこちゃんの個人的な課題と目する
ことはできない。

元基の誠実な告白に応え得なかったこと、この躊躇いが彼女の課題なの
か。それとも、望まずして憎からぬ相手を痍附けてしまう不器用さが課
題なのか。それはいずれも違う。

そうだとすれば、強敵に追い詰められた彼女の回想中にかつて彼女から
去っていった人々の姿が去来するのは、どうにも辻褄が合わない。両親
とは死別したのだし、憧れの先輩にはふられたのだし、元基に至っては
自分からふったのだ。

これらの人々がまこちゃんの許から去っていったのは、単一の理由では
あり得ないうえに、まこちゃん個人の課題が原因でもない。要するに、
いつも最後は一人きりだというのは、やっぱり結果に過ぎないのだ。

人はいずれ去っていくのだし、それには単一の理由などない。「どうし
て」と問われても、それはそういう巡り合わせだったのだとしか言い様
がない。それは課題ではない、どうしても一言で表現すべきなら、それ
は「さだめ」だとしか言い様がないし、繰り返すけれども、それは単に
物事の結果を表現した言葉であるに過ぎない。結果としてあるものは、
克服の対象ではない。

このデートのくだりにおいて、何らかの課題を探すのであれば、元基の
好意に応え得ないまこちゃんの内心に潜む何かの克服になるだろうし、
傷心を抱えて元基が去ったことそれ自体は課題ではあり得ない。

つまり、このデートそれ自体は、課題の克服や戦士の覚醒という問題と
は、何の関係もない。元基とまこちゃんの関係が、少しだけ進んで少し
だけ後退したというだけのことだ。

あたかもそこへ従来のまこちゃんの能力では手に負えない強力な妖魔が
出現し、他の戦士が間に合わないという条件の下で、独力の戦いにおい
てまこちゃんは戦士の真の能力に覚醒するのだが、「一人きり」という
結果が共通しているだけで、この戦いもデートの問題とはまったく関係
がない。

戦士としての覚醒というテーマと元基とのデートの問題は、実はまった
く関係ない
のだ。苦手と芋とカレーで無理矢理絡み合わされただけで、
覚醒の問題がなくても、元基とのデートはあのようなものであったのだ
ろうし、元基とのデートがなくても、まこちゃんの覚醒はあのようなも
のであったはずである。

そこが、さも関係あるかに見えるのが、このエピソードの座りの悪さの
原因といえるだろう。実際には、まこちゃんにまつわる二つの無関係な
筋立てを語っているにも関わらず、デートのカタストロフの後に「いつ
も最後は一人
」「どうして」というまこちゃんの問いかけを挿入するこ
とで、「一人でいいんだ」に決着する戦士の覚醒に関する課題設定とイ
メージ的に関連を持たせてしまった。

そのために、あたかもこの二つの別々の筋立てが、まこちゃんの抱える
課題という一本の包括的なテーマによって貫かれているかのような印象
を与えてしまっている。自らも好意を抱いている元基を心とは裏腹な言
葉で痍附け、悄然と去らせてしまったデートの結論までが、「一人でい
いんだ
」になるように見える矛盾した結末となっている。

戦士としての覚醒の問題、前世の問題に関しては、彼女は独力で何かを
成し遂げる必要があったのだろうし、未だ細目は伏せられているとはい
え、それはそれで理解できる。この場合、まこちゃん本人にさえ「よく
わからない
」としても、物語の流れとしていかに唐突であれ、「一人で
いいんだ
」という結論は妥当なものなのだろうと思わせる。

しかし、定石から言って元基とまこちゃんの関係は今始まったばかりな
のだし、未だ死に筋ではない。元基の告白に不適切な対応をしてしまっ
たのは、思春期の少女一般に普遍的な課題設定である。それが不適切で
ある以上、そのままで良いという落としどころには、絶対にならない。

物語においては、人は犯した過ちを必ず償わねばならない。元基に対す
るまこちゃんの対応が間違っていた以上、いずれまこちゃんはその間違
いを正さねば、物語が成立しない。

まこちゃんは誠意のこもった元基の告白に、自分の心を偽った言葉で応
えたのだし、去りゆく元基の背に苦痛を覚えている。得失恋いずれに決
着するにせよ、いずれ、いつかのエピソードにおいて、まこちゃんは、
この場面で犯した過ちを償って、元基との間に良好な関係を打ち樹てる
必要がある。この意味において、まこちゃんは「一人でいい」というこ
とには断じてならない。

それなのに、二つの別々の筋立てを不用意に一本化することによって、
本来、戦士として覚醒する際に前世に関する何かをまこちゃんが掴んだ
ことの顕れである「一人でいいんだ」という結論が、それとはまったく
関係ない元基との関係にまで適用されるような印象
を与える。

また一方、このまこちゃんの覚醒以前の、レイちゃんや亜美ちゃんの覚
醒を扱ったエピソードも、何かを克服することで成長するという建前か
らすれば、ちょっとピントの外れた筋道になっていた。オレとしては、
戦士の覚醒というのは戦隊におけるパワーアップ同様シリーズ構成上の
ルーティンに過ぎないと考えているので、それはそれで大きな瑕瑾とは
考えない。

しかし、「一人だけ遅れている」まこちゃんの覚醒を扱った今回のエピ
ソードは、ある意味他の二人とはレベルの違う重要なテーマであるよう
な気がする。それはつまり、唐突に「仲間を信じること」なんて欠落を
持ち出して茶番を仕立てたレイちゃんの場合や、ダーキュリーとしての
戦闘力が真のマーキュリーの能力だとこじつけた亜美ちゃんの場合とは
違って、実際には欠落の克服によって覚醒したのではないからだ。

今回のクライマックスで、まこちゃんはギリギリまで追い詰められるこ
とによって、森の力の助力を得て前世にまつわる何かを掴んだからこそ
覚醒した。欠落を克服したから覚醒したのではなく、覚醒したから現世
の欠落を受容できた
のであって、順序が逆になっている。

そして、まこちゃんの欠落や覚醒が他の二人とは違って強く前世と関連
附けられているのは、一人だけ完全覚醒を果たしているヴィーナスに向
かって「そうだろ?」と問い掛けることからも明らかだ。

それを受けるヴィーナスの表情が暗いものであるのは、彼女の前世は、
現世における彼女の死の宿命と密接に結び附いているからだが、それは
まこちゃんの知るところではない。孤独のさだめを「一人でいいんだ
と肯定的に受け容れられるようになったまこちゃんの晴れやかな笑みと
死の宿命を想う美奈子の暗い表情の対比。

これは、前世の宿命を巡る葛藤が今まさに幕を上げる合図だ。

その意味では、たしかに「いつも最後は一人」という現世における欠落
を描く必要はあったのだろうが、元基との関係性の問題は抗い難い宿命
によって決定的な蹉跌をみたのではなく、思春期の少女一般の問題とし
て解決さるべき課題であることは最前指摘したとおりだ。そこに前世の
宿命という解釈を措定することは、やはりドラマとしての「てにをは」
が間違っていると思う。

|

« Act.29-30 またおまえは騙されたわけだが | トップページ | Act.32-1 不実はさいなむ »