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Act.32-1 不実はさいなむ

ルックとカメラマンの問題が長引いて、シンプルなエピソードの割には
意外に手間取った前回だったが、あらためて注意を喚起しておきたいの
は、このような問題に関しては、当事者に聞くまで決して本当のことは
わからない
ということだ。

かつてAct.9 で検証を試みたように、カメラそれ自体のオペレーション
であるカメラワークなら、カメラがどのような角度でどのような位置に
据えられているのか、さらにどのようにカメラが動いたか、その動き方
から判断して手持ちかレール移動かクレーンなのか、このような客観的
な見え方の問題
になるので、比較的判断しやすいといえるだろう。

しかし、今このようにある映像がどのような撮影プロセスによってかく
あるのか、という画調の問題は、実現された映像から逆算して推定する
ことがかなり難しい
。「このような絵面」として実現された調子を規定
する要素がかなり複雑多岐にわたることと、実際にそれを取り扱う人間
でないと実感することが難しい機材やフィルム、ヴィデオの持つ具体的
特性が密接に関係してくるからだ。

これはむしろ写真撮影の実態に近い問題なので、それなりに自身も写真
撮影の経験や心得のある人間でないと、写真のタッチと撮影技法の実際
の関連を推定できないのと同様のネックだろう。

自信たっぷりに断言した「羅生門」のくだりも、意外と当事者に聞いて
みると「言われてみればそうなってるね」でチョンと柝が鳴ったりする
ものだ(木亥火暴!!)。

たとえば、以前、実相寺作品に頻出する画面周囲の夢幻的なボケ足効果
の撮影法について、周縁部にワセリンを塗布したガラス板をカメラ前に
置くだけと解説を受け、あまりの単純さに驚いた経験がある。長い間、
オプチカルか現像による後処理だと思い込んでいたので、「ワセリンで
行こうか」の一言で現場で決まる一発撮りだとは思わなかった。

オレたち無責任な観客が、スナック菓子の袋を抱え一杯のビールに喉を
鳴らしながら気楽に愉しんでいる映像作品に顕れた、素人の肩にカメラ
を担わせただ撮らせただけでは実現しない美しい映像の数々は、一〇〇
年の歴史を持つ映像文芸の製作の現場において、試行錯誤の末に発見さ
れた貴重な智慧の精髄だ。

それが智慧の名に値する発見である以上、結果から逆算してその実態を
解明することは容易な作業ではない。解明を望む欲求は、そうした智慧
に対する敬意に基づいて
実践に移されなければならない。

現場のことは現場に聞かないとわからない。このレビューにおいて試み
られている技術的検証が、その限界内における素人判断の憶測に過ぎな
いことは、幾重にも確認しておきたい。

またこのレビューにおいては、推測によっては断定し得ない事柄につい
ても、オレがこの場で論じておくべきだと判断した事柄については憶測
を逞しくするものであるというスタンスに関しても、この際強調してお
きたい。

オレのレビューは、映像作品における尊い智慧に対するトリビュートを
動機として生み出されているものである。智慧の欠落や怠慢を嘲笑する
のは、そうした智慧に対する崇敬のゆえであることは理解していただき
たい。同時に、比較的低い確度でしか提示し得ない事柄に関しても、他
者の智慧を可能な限り後附けて理解しようと望む動機に発するものであ
ることもまた理解していただきたい。

さて、長々見苦しい言い訳をしてスッキリしたところで(木亥火暴!!)、
そろそろ本編のほうを視ていこう。とはいえ、たかまるだろうが川口だ
ろうが、今回のエピソード、カマトト根性悪の黒木ミオと強力タッグを
組んでうさぎを陥れるのが、これまた仮面ライダー龍騎で根性悪ぶりを
剰すところなく見せ附けたサイ男では、検証のモチベーションも大いに
下がろうというものである。

そもそも、大筋のうさぎの奮闘にしたところが、衛の失踪でパニックに
陥ったうさぎが、ロンドン行きの切符を手にするために珍騒動を繰り広
げるという、まあ、見たまんまのドタバタにすぎない。

以前にも少し触れたとおり、うさぎは他人のために動いてこそ魅力的な
キャラクターなのであって、恋しい人が心配だからという自分の気持ち
を理由にドタバタを演じても、あまりおもしろいものではない。ユウト
が嫌がらせで風に放ったチケットを、何とか掴もうと必死に手を伸ばす
姿から一途な恋心が伝わってはくるが、それはさほど感動を呼ぶもので
もない。

ある意味、ここが効いていないのは、遡って衛とうさぎの別れの場面で
言葉としての約束や互いの想いの確認が交わされなかった
からだとオレ
は感じる。あの空港での別れが恋のプラトーとして効いていないから、
離れて生きる愛しい人への一途な想いが描写として効かないのである。

第一部を通じて演じられた衛とうさぎの恋の決算が、あの別れの場面に
集約されていたならば、衛の許へと導いてくれるチケットを一筋に求め
るうさぎの行動が感動を呼んだことだろう。一枚のチケットに賭けられ
ている劇しい想いの頂点がどのようなものであるのかを、視聴者が実感
として体験しているから
だ。そのような体験が、あのタイミングで実現
されなかった以上、今の時点におけるうさぎの想いは視聴者にとっては
他人事でしかない。

そして、しつこいようだが、それをまた遡って考えれば、やはり日下陽
菜と地場衛の関係に円満なエンドマークを附すことができなかったため
であり、連続ドラマというものは、そのような力学に沿って波紋を広げ
ていくものなのだろう。うさぎと衛の宿世の恋は、現時点ではまだまだ
日下陽菜の悲恋に呪われている

ましてや、今回のうさぎの奮闘は、黒木ミオとユウトの策謀に乗って騙
されただけなので、最初から話の先が見えている。

ミオ&ユウトの陰謀にしたところが、生放送の本番で見切れてしまった
のはうさぎのドジにすぎないし、犬のためにゴン太屋の自然食を買いに
走らせられたことも、まあごく当たり前のレベルの付き人の苦労にすぎ
ない。この程度の苦労でロンドン行きのチケットが購えるのなら、それ
こそ安いものであろう。下世話に換算しても、中学生のバイトの一日の
日当としては大盤振る舞いの部類である。

これでは、失敗を重ねて悪戦苦闘するうさぎのドジぶりで笑わせるのが
ねらいなのか、サイ男のワガママに振り回され堪え忍ぶうさぎの一途さ
を描くのがねらいなのかがハッキリしない。その両方、というのなら、
作劇の方向性が散漫にすぎる嫌いはあるだろう。

引いては、アイドルに妖魔を乗り移らせてまでミオが企んだのは、この
程度の嫌がらせだったのか、という底の浅さを感じてしまう。うさぎを
仲間から引き離して妖魔に襲わせるほうに眼目があるかといえば、それ
も違うだろう。要するに、ベリルに連動して嫉妬の炎を燃やしたミオが
大した目的も目論見もなしに意地悪を仕組んだというそれだけである。

竹光ローテということもあり、これまで意図的にオミットしてきたミオ
エピソードには、こうした無定見な悪意という共通項がある。黒木ミオ
はクイン・ベリルの深謀遠慮によって使嗾される存在ではなく、ベリル
の抱いたネガティブな感情に連動して、無定見な悪意に基づく嫌がらせ
を自前の意志で行う存在のように見える。

そして、ミオはベリルその人の窶しではなくその分身であるが、かつて
ベリルとミオが同一画面上において絡みの芝居を演ずる場面がなかった
以上、この二人の意識のあり方がどのようなものなのか、どのようにし
て棲み分けられているのかが、今ひとつハッキリしない憾みはある。

現状の描き方から推測するなら、これまで描かれてきたミオの謀略が、
ダークキングダムを率いて世界の総攬を目論むクイン・ベリルの大望と
は無縁の卑小な嫌がらせにすぎないからには、エンディミオン=地場衛
をめぐるベリルの愛憎の妄執に基づく悪意だけを受け継いだ人物という
ことになるだろう。

ミオがらみのエピソードがつまらないのは、要するにこのためだろう。

ベリルその人ならともかく、さらにその愛憎そのものを共有するならば
ともかく、愛憎の落とし子としての悪意のみを受け継いだ小悪魔が卑小
な策謀によって純然たる嫌がらせを仕組む。

そしてその悪意の対象であるうさぎは、じれったいくらいお人好しで、
ミオの悪魔的な本性に一向に気附く気配がない。これでは美奈子ならず
とも、歯がゆい苛立ちを覚えざるを得ないだろう。

ミオの策謀はシリーズの大筋とは無関係だし、ミオという人物自体が、
どうもうさぎとの関係性によってドラマを転がす存在ではないらしい。

以前の竹光ローテに関するレビューで「今後、ベリルの分身である黒木
ミオがうさぎの素直さに打たれるという落とし所に向かうかもしれん」
と書いたが、どうやら今回の扱いを視る限り、その線は早々に放棄され
ている
ように見える。

今回のうさぎが美奈子の制止を顧みなかったのは、以前のエピソードの
ように純真にミオの言葉を信じたからではなく、衛の安否を気遣う焦り
のゆえに一心にロンドン行きのチケットを欲したからだ。

美奈子がミオの策謀からうさぎを守ろうとする流れは同じでも、それが
うさぎに通じないのは、うさぎとミオの間の関係性の問題が理由となる
のではない。ミオの悪巧みは、クライマックスでうさぎと衛が再会する
に至る流れのきっかけとなっているにすぎず、うさぎとミオの関係性の
問題などいっさい語られてはいない

ミオの登場エピソードにおける卑小な陥れを、大筋に連なる流れとして
語るためには、ミオの一方的な悪意がいかなるものであってもうさぎが
ミオを信じ抜くという成り行きが繰り返し描かれねばならない。しかし
正味な話、それを語ることにはさしたる重要性もないのだし、この段階
になってそんなどうでもいい脇筋を加える余裕もないだろう。

煎じ詰めれば、現状における黒木ミオはうさぎに意地悪をするためだけ
に存在するのだし、それをうさぎサイドに立ってドラマを観ている視聴
者の観点でいえば、視聴者を不愉快にするだけのために存在するキャラ
クター
だ。

たしかにこういう構図のストーリーは大昔の連ドラや少女マンガの定番
ではあったが、今時の視聴者はこの手の筋書きに接しても、昔の市井人
のようにマゾヒスティックな共感を覚えたりはしないものだ。

それは、たとえば、井上ライダー定番のイライザキャラのルーティンを
視れば明らかである。井上ライダーにおいては、視聴者が強烈な苛立ち
を感じるような不愉快な人物がその不愉快さを強調して描かれる場合、
エピソード後半もしくは次回という早いタイミングでひどい目に遭い、
視聴者が「ざまぁみろ」と溜飲を下げる流れが繰り返される。

ヒットメーカー井上俊樹は、今時の視聴者が昔の日本人よりも気が短く
て攻撃的だということを熟知している。主人公がいじめられっぱなしで
延々半年も一年も我慢した揚げ句、ようやく最後半に至って敵役がその
酬いを受けるような筋書きに、今時の視聴者が共感を覚えるとは思って
いない。

それゆえ、井上ライダー定番の「ざまぁみろ」を落とし所とするような
雑駁な情感処理を、「泥臭い」という一言で斬って棄てるのは公平では
ないだろう。それはつまり、今時の視聴者の情感の機序そのものが雑駁
になっていることの顕れでもあるからだ。

やられたらやり返す、不愉快な人物は速攻で懲らしめる。現代のテンポ
で生きているギスギスした日本人の視聴者に対しては、こういう素早い
レスポンスが必要とされるのだ。その伝で言うなら、去年のライダーと
戦隊は、不愉快な人物の応報を引っ張りすぎたのが敗因だろう。

カイザ=草加雅人アバレキラー=仲代壬琴も、スタイルの格好良さや
斜に構えた言動で魅せるダークヒーローというには、その言動の日常的
なレベルの不快さが目立つ、どちらかといえば嫌われ者キャラというの
が正確なところだった。

しかし、草加雅人は、井上ライダーにしては素早いサイクルの「ざまぁ
みろ」が描かれず、仲代壬琴は、荒川キャラには珍しい剥き出しの狂気
をギラつかせながら、ダークヒーローとしての最期を全うした。

この二番組にアンチが多いのは、日常的なレベルの反感を煽るタイプの
嫌われ者キャラをダークヒーローと位置附け、視聴者に与える不快感を
早いテンポで回収せずに一年間のシリーズを引っ張ったため、気の短い
現代の視聴者の反感を買ったからではないかというのがオレの意見だ。

思わぬところへ長々と寄り道してしまったが、要するに黒木ミオがらみ
のエピソードは、その場限りの感興で見せる一編のバラエティ編と解す
にはおもしろみや魅力に欠け、視聴者が覚える苛立ちに早いサイクルで
カタルシスを与えるという現代的な作劇上の手当もしていない。

引いては黒木ミオというキャラクターも、憎々しさばかり突出した印象
となっていて、「可愛い女の子が実は根性悪」という「可愛い女の子が
実は
」の部分のギャップがあまり感じられない。

ミオを演じる有紗の、派手で大作りな顔立ちと体型の割には意外に立派
な巨乳
はこの種の根性悪キャラに相応しいが、裏も表もない憎まれ役に
ピッタリだと評されても、このお年頃の女の子としては、ちょっと複雑
な心境
だろう。

なんかこう、自分もセーラームーンに出て女の子の憧れの存在になれる
かもしれない、と期待してオーディションを受けたのに、いざ受かって
みれば、松下萌子も裸足で逃げ出す損な憎まれ役だと知らされたときの
有紗の心境を考えると、可哀想だが笑ってしまうな(木亥火暴!!)。

ただ、オレの先入観なのかもしれないが、今回の黒木ミオはこれまでに
比べて割と可愛く撮れているような気がする。佐藤ローテの二話では、
派手めな顔立ちの攻撃性ばかりが強調されていたような印象だが、今回
のエピソードでは、肌理の細かい素肌感や大作りな目鼻立ちならではの
華のある表情を引き出して、不快は不快だが「可愛い女の子が実は」の
部分のギャップを、それなりに印象附けていたような気がする。

たとえば、うさぎを拾った車内の会話では、外面如菩薩のつくり笑顔で
うさぎから話を引き出しながら、嫉妬の悪意に強張る芝居で間をとる流
れを、さほど憎々しさを強調せずにきれいに撮っている。言動そのもの
が十分以上に憎々しいのだから、撮り方や芝居の附け方までそれを強調
することはない
のだ。

また、ユウトがうさぎを連れ出す駐車場の場面での美奈子とのやりとり
では、美奈子の詰問に対して「はい?」と空とぼける表情が、なんとも
いえない味を出している。たぶん、黒木ミオというキャラが本来ねらう
べきなのは、こういう味なんだろうと思わせる。

つくり笑顔の空々しさもさりながら、ドラマの流れを無視してみれば、
それ単体では魅力的な表情であることで、こういう種類のアクチュアル
ないやらしさを具えるキャラクターは活きるのだろうと思う。

たしかに、それはマストではない。キャラクター描写の手法の振れ幅の
なかでは、美奈子サイドから視た場合の憎々しさばかりを強調して描く
ことも間違ってはいない。

好感度や将来性の観点から視ると、女優としての有紗の柄はどうなんだ
ろうと思うが、普通一般の基準でいえばそれなりに整った容姿を具えて
いるのだから、少なくとも「可愛い女の子が実は」の部分のアリバイは
あるわけだ。だとすれば、ミオのキャラクターの本質を、そのブリッコ
根性悪の憎々しさに視るとすれば、そこだけを強調したからといって、
間違っているとはいえないだろう。

ただ、前述のような経緯で、ミオがらみのエピソードは視聴者に不快感
しか与えない
。だとすれば、憎々しげな敵役として憎ませるばかりでは
なく、キャラを立ててそれなりの魅力を引き出してもらわないと、敵も
味方も魅力的な人物揃いの物語のなかに一人だけ不愉快な奴が混ざって
いるような見え方
となって、観ていて辛い。引いては演者である有紗に
対しても、歳若いだけに可哀想だ。

何よりも、憎々しいキャラクターがその不快な悪事の酬いを受けること
を期待するネガティブな動機で視聴者の興味を引っ張るのは、この美し
いドラマには不似合いな品性である。

そういう意味では、この美しいドラマに不似合いな品性を持つ竹光監督
回でミオが初登場したのは象徴的な事件であり、その美しさをようやく
受け容れ始めた高丸雅隆監督回でミオがらみのエピソードの中心が偏心
してきているのもまた、象徴的な事件といえるだろう。

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