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Act.32-2 五匹の子豚

さて、それではこのエピソードは丸々つまらないのかといえば、そうで
はない。少女者にはいささか以上に物足りなく感じられても、前回のラ
スト、そして今回のアバンから続く四天王+エンディミオン揃い踏みの
をとこ祭り」が今回最大の見せ場といえるだろう。

これまで、地場衛もしくはタキシード仮面として、個別に四天王の誰彼
と対峙する機会はあったものの、その四天王が一堂に会したうえで、衛
がかつて彼らの主君であったエンディミオンとしての記憶を取り戻すと
いう筋立ては、ドラマティックなイベント性を具えている。

そもそもエンディミオンとそれに傅く四天王という図式は、プリンセス
とその四守護神との対称において設定されたもの
であるだけに、今回の
衛の覚醒は、Act.25においてついに登場したプリンセス・セレニティの
覚醒に対応している。

あのときは、地場衛としての生き様に決着を着けるべく、うさぎの危機
に身を投げ出した衛の姿に一瞬エンディミオン王子がオーバーラップし
それが契機となってプリンセス・セレニティの覚醒がもたらされた。

この場面の劇的な緊迫感は、うさぎと衛の宿世の恋が退っ引きならない
段階に進んだそのタイミングにおいて、現状では最大の障碍である陽菜
と衛の婚約関係が明かされ、その絶望の直中で、うさぎのために衛が命
を抛つという前世の悲劇が再現された、そのような生死を賭けた激情の
ダイナミズムにおいてクライマックスの興奮が形づくられていた。

一方、今回のエンディミオン覚醒に至る流れは、ついに地球国四天王と
その主が、ほかならぬダークキングダム城内において一堂に会すること
で、否が応でも「劇的な何かが起こらずは措くまい」という視聴者の期
待を煽る。

大本となるネフライトとゾイサイトの対話が、「前世の記憶」という通
底音を奏で、「物陰から窺う」という演劇的な位置関係にジェダイトを
配すことでベリルの監視の目を象徴し、こうした緩い緊張が張り詰める
場へ唐突に衛を放り込み、その衛を敵視するクンツァイトが悠然と入室
してくることで、緊迫の構図は粛然と完成する。

このプロセスは、四天王と衛の今ある現状を端的に剔抉して剰すところ
がない。

この揃い踏みシーン以前の流れで、衛は従来どおり喪われた記憶に悩み
前世の呪縛に悩んでいる。今ある己が前世の影にすぎないのであれば、
今ある地場衛としての生を生きて、今ある月野うさぎとして生きている
少女を愛し、今この場でこのような悩みを悩んでいる地場衛という存在
の意味など、本当にあるのかという悩みを悩んでいる。

こうした衛の悩みに応えるような形でうさぎもまた、今回のエピソード
のキーアイテムとなるマフラーを手にして、ルナの言う「プリンセスと
王子の恋は不吉
」という、このレビューのタームでいうなら「迷信」に
想いを致し、「失恋するって最初から決まってたんだな」という諦念を
漏らす。

このうさぎの独白が表すのは、人が「前世」や「宿命」という概念を欲
する動機のあり方そのものだ。人は、うまくいっている事柄がこのまま
うまくいき続けることを望み、それが正当な成り行きであると信じたが
ゆえに、「それは最初から決まっていたことなのだ」と思いたがる。

うまくいかない事柄が自分一個の責任に帰することを認めたくないため
に、自身の正当な振る舞いを遥かに凌駕する強固な力が働いたがゆえの
失敗である
と信じるためにこそ、「それは最初から決まっていたことな
のだ」と思いたがる。

前世は繰り返す。宿命は逃れられない。それは、今このようにある自分
が今ある自分の将来的な帰趨に関して、全面的なフリーハンドと責任を
担っていることを認めたくないために、人が措定するフィクションだ。

そして、人の生きる現実は、たしかに自分一個の責任として引き受ける
にはあまりに過酷な場面に盈ちている。前世や宿命というフィクション
を望み、卜占を恃む心の弱さを嗤うことができるほど強い人間など尠い
だろう。

人は何の留保もなしに、過酷で不当な未来を、自分一個の責任において
生き抜いていかねばならない。これは剥き出しの真実だ。しかし、赫奕
たる真実は、常に弱い心を灼き焦がし痍附ける。人の人生には、灼熱の
真実を優しく包み込み口当たりよくする甘いオブラート
も必要なのだ。

セラムンの元々の物語構造には、こうした甘いオブラートが過剰に盛り
込まれている。いわく前世の悲劇、いわく幸福な未来の先取り。しかし
剥き出しの現実においては、前世などは存在しないのだし、未来は確定
していない。

過去・現在・未来という時制を生き抜いていく人の現実において、人に
与えられている確からしい時制は現在でしかない。相同な似姿として現
在を規定してくれる過去などないのだし、遡って現在を保証してくれる
確定した未来などあり得ない。

それは、単におのおのの時制の意味附けをすり替えただけのレトリック
にすぎないのだ。確定した未来とは現在の異名にすぎないのだし、過去
は過ぎ去ったからこそ過去なのであって、それが繰り返すのは、現在に
おいて同じ行為を繰り返すから、同じ結果としての未来が訪れるにすぎ
ない
。それはただに蓋然性の問題なのであって、決定論を支持する論理
ではないだろう。

フレッド・ホイルが自身のユニークな時間理論を撤回した現在、過去か
ら未来へ向かう時間の矢は、不可逆的なものでしかない。過去とは物事
がすでに確定した時制であって、未来とは未だ確定していないからこそ
未来なのだ。人の意識が存在し得るのは、確定と未確定の狭間にあり、
高さも幅も奥行きもない点としての時制である現在でしかない。

人は永遠の現在において、変え得る事柄を変え、変え得ない事柄を変え
ることはできないというだけのことで、過去も未来もすべて現在という
特権的な時制を生きる自分一個の責任
だ。

うさぎがこの時点で衛への想いを遂げることができないのは、過去から
持ち越された現実的な障碍を、この現在において克服できなかったから
であり、決まった宿命だからではない。現在につながる因果を持つ過去
が現在に対して影響を及ぼすのは当然だが、過去そのものが現在や未来
を決定附けるわけではない。

つまるところ、前世がどうだとか宿命がどうとかいう理由でこの現在に
おける不幸があるのだという理由附けは、千万歩を譲ったとしても「障
碍が多いから失敗した」という筋道にしかならない。決定論で語られる
過去も未来も、常に現在という時制に差し戻されるのである。

長々と一般論に偏して語ってきたが、これは決して寄り道をしているの
ではない。

前世がアリとされる物語世界においては、それはただ自身の知られざる
履歴であるにすぎない。前世というものがある、したがって現世がかく
あることには理由がある、という現実の真理を語っているのではない。
それは一つの比喩にすぎないのだ。

うさぎの前世が月王国の王女であろうとも、それは要するに、今現在の
うさぎが知らなかった因縁が、うさぎにはあったというだけのことだ。
これは決して突飛なことを語っているのではない。たとえば一般ドラマ
において、自身が父母の時代の愛憎の確執を受けて生まれた不義の子で
あると知らされる、という筋書きに相同の筋道にすぎない。

現在を生きる自分という存在が与り知らぬ過去との因果が、この現在の
自分を規定する要素の一つなのだと不意に知らされる、そうした現実的
な機微のアナロジーでしかない。人は過去と無縁では生きられないし、
今現在の自分とは無関係な他者の過去の影響下において生きている。

これもまた真実だ。

前世をアリとする物語世界のデリカシーはここにあるのだと思う。

前世というフィクションは、現在の幸福の意味附けや将来への期待とし
て機能することまでは許されても、決して現世の不幸の理由附けであっ
てはならないのだ。なぜなら、人には不幸に甘んじるべき理由などない
のだし、不幸を肯定する理由など探すべきではない
からである。

ここで話を「をとこ祭り」の現場に戻すと、この場面のネフライトは、
前世の記憶をベリルの気を惹く口実としか捉えていないが、ゾイサイト
のほうでは、不朽の忠誠を胸に四人が真心からエンディミオンに傅いて
いた昔を想い出させようと目論んでいる。さらに、現状で最もベリルに
近いジェダイトは前世への興味をまったく示さず、現世におけるベリル
への一途な忠義
のゆえに二人を物陰から窺っている。

しかし、あくまでベリルへの想いに囚われるネフライトに前世の記憶は
蘇らず、ならばじっさいにかつての主君に見えてみよと、ゾイサイトは
衛を召喚する。一人の部屋で悶々と前世と現世の板挟みに悩んでいた衛
が唐突にこの場に現れ、さらに唐突に前世での因縁ゆえに衛を敵視する
クンツァイトが現れる。

こうして役者が揃い、四天王と地場衛は、前世と現世に挟まれた曖昧な
自身の存在に翻弄される現状と否応なく向き合わされる。

思えば、四天王たちはうさぎたちよりももっと哀れな存在だ。彼らは、
転生に伴って前世の記憶を喪ったのではなく、自身の仇敵によって前世
の記憶を封じられベリルへの思慕という歪んだ感情を植え附けられた。

彼らにとっては、前世とは悲劇であり、現世とは偽りである。普通一般
の善でも悪でもない日常人として転生したセーラー戦士たちとは違い、
邪悪としてねじ枉げられた現世は肯定されるべき在り方ではない。その
意味では、ベリルの前世における愛欲の妄執とあくなき権力への欲望の
走狗として転生させられた四天王は、ベリルの前世の付属物にすぎず、
存在自体が前世に呪われている

四天王たちが前世の呪縛を脱するためには、その前に現世の偽りを打破
する必要がある。タキシード仮面との遭遇で早々に覚醒したゾイサイト
や、登場時点ですでに記憶を取り戻していたクンツァイトは、たしかに
ベリルの洗脳は脱しているが、前世の滅亡の悲劇に囚われている。一人
は主の覚醒を望み、一人はその抹殺を望む。

一方、未だベリルに縛られているネフライトとジェダイトが前世の呪縛
から解き放たれるには、前世の記憶に目覚めることで、ベリルの洗脳を
破る必要があるが、これは一種の堂々巡りといえるだろう。この現在に
まで尾を引く前世の悲劇の円環のなかで、四天王たちは哀しい堂々巡り
を繰り返している。

四天王たちは、現世におけるベリルの走狗としての偽りを打破すること
で、前世の悲劇に直面してしまう。この現世において、よく自身の生を
生きている者はだれもいない。それは、彼らの現世における生が、邪悪
な者の反魂の外法によるかりそめのものでしかないからだ。

彼らが前世の呪縛を破り、この現在をよりよく生きるためには、現世の
偽りを脱し前世の悲劇を克服し、現世における新しい生き様を見出さね
ばならない。前世においてエンディミオンに傅いていた幸福な頃を想い
出せばそれで済むのではない、その幸福な記憶は裏切りと滅亡の悲劇へ
とつながる道だ。クンツァイトは前世の記憶を取り戻したからこそ邪悪
な復讐鬼に生まれ変わった
のだから。

このような現状において初めて一堂に会した四天王たちは、各自の立ち
位置に基づいて劇しく罵り合い、互いの信じるものをぶつけ合って対立
する。そして、この場に居合わせる衛もまた、この集会の直前までは、
前世に囚われた悩める存在であったはずだ。

しかし、この場に現れたのと同じくらいの唐突さで衛はエンディミオン
として覚醒を果たし、四天王を一喝する。クンツァイト、ゾイサイト、
ネフライト、そしてジェダイト
。一人ひとりに呼びかけ前世に囚われる
迷妄を叱咤する、この場面の盛り上がりは最高だ。

ある意味、悩める青年としての地場衛は鬱陶しい市井人であった。彼の
抱える事情が明らかになるにつれ、そのウジウジと悩み続ける姿は陰鬱
に沈み、登場時の颯爽たる怪傑としてのタキシード仮面の俤は貶められ
ていった。

従来の、ムーンのピンチに小気味よくカットインして危地を救う役回り
は、今やすっかりヴィーナスの独壇場だし、悩める弱い人間として痛む
心を仮面とマントに包み隠したタキシード仮面は、最早万能のヒーロー
ではあり得なかった。

Act.25のクンツァイトの斬撃によって、謎のヒーロー・タキシード仮面
は死んだのである。

しかし、この今にエンディミオンとして覚醒した瞬間の地場衛は、紛れ
もなく一個のヒーローである。一癖も二癖もある四天王たちを向こうに
回して、頭ごなしに一喝して断固として道を示す。この瞬間の高揚は、
やはりAct.25のプリンセス登場場面に匹敵するものだ。

その威厳に打たれた四天王それぞれのリアクションがまたいい。ハッと
期待に胸躍らせる
ゾイサイトの表情もいい、「隠れているのはわかって
いるぞ」という含みの間を持たせて呼ばれたジェダイトが、思わず叱ら
れた小学生のような気を附けの姿勢で
出てくる呼吸も、おのおののキャ
ラクターを短い芝居で剔抉している。

前世などと、どうしてそんなものに囚われる。

どうしてそこから出ない。

ゾイサイト、おまえが言ったな、オレはオレだと。

そうかもしれない。

莞爾と微笑むゾイサイトの表情が、やはり素晴らしい。あれほどまでに
待ち望んだマスターの覚醒を目の当たりにして、ゾイサイトの現世は
始まった
のだ。彼の敬愛措く能わざる主君マスター・エンディミオンは
最早前世の記憶ではないのだ。この現世に生きる地場衛は、マスター・
エンディミオンその人でもある。

今回の「をとこ祭り」は、ゾイサイトのひたむきな想いがついに勝利を
迎える祭典であり、アバンが明けてベリルに拷問を受けるゾイサイトは
苦痛の直中でも勝利に酔って昂然と宿敵を嗤っている。従来の、不健康
で畸人めいたゾイサイトの姿からは想像も附かなかった「男ぶり」が、
この短い場面には横溢している。

そして、衛の覚醒は現状のセーラー戦士や四天王たちを含めてすべての
転生人のなかでも最良のあり方である。

なぜなら、この瞬間の地場衛=マスター・エンディミオンは、「本当の
自分」が地場衛であるのかエンディミオンであるのか、そんなことには
最早拘泥していない
からだ。この今を生きているオレという主体がオレ
であり、それが地場衛であるかエンディミオンであるかなど、もうどう
でもいい。

ある意味、これはもの凄い達観である。

現実世界にも、「本当の自分」というフィクションを信じる者は、大勢
いる。前世という装置は、ある種こうした「本当の自分探し」に対して
甘いご託宣を提供する方便でもあるだろう。

「本当の自分」というフィクションを信じたがる者たちは、もう半歩前
に進めば転生というフィクションを受け容れる。

今ここにあるオレこそがオレであって、それがどこの誰であろうがどう
でもいいという覚悟は、普通一般の人間にとってさえたやすく受け容れ
得る結論ではない。

まして、自身の出自を保証する記憶をハナから持たない衛にとっては、
「本当の自分探し」はないものねだりの青い鳥症候群ではない、もっと
切実な自己回復の欲求であったはずだ。その記憶の欠落を埋め合わせて
くれる「本当の自分」や「前世の記憶」の問題は、決して「どうでもい
いこと」ではなかったはずだ。

だが、自分が何者であるかを悩み続けた若者は、ついにその悩みに答を
出したのだ。エンディミオンとしての前世に覚醒した瞬間、最早それは
どうでもいいこととなったのだ。それは、エンディミオンとしての記憶
が蘇ったから、自分探しが完了したということではないだろう。

彼は自分が前世においてエンディミオン王子と呼ばれる存在だったこと
をすでに知っているのだし、今まで悩んでいたのは、それを知ったから
なのだ。その悩みは、論理的にいえばエンディミオンとしての記憶を取
り戻すことでは解消しない
はずで、むしろそこから始まるべき悩みだっ
たといえるだろう。

覚醒のレベルでいえば、衛=エンディミオンの覚醒の度合いはセーラー
戦士たちとそうそう変わるものではないだろう。エンディミオン王子と
しての前世のすべてを想い出したというより、相争う四天王たちを前に
して彼らに対する友愛の感情を取り戻したのではないか。それは現世の
地場衛には欠けていたもの、つまり家族としての感情だろう。

一介の市井人として転生した自分とは違い、宿敵の邪法によって呪われ
た忌まわしい生を享け、苦悩にひしがれ、牙を剥いていがみ合うかつて
の兄弟たちよ、おまえたちはなんと哀れな今を生きているものか。

呆気ないほど唐突に訪れた衛の覚醒は、こうした現場に居合わせること
を条件として完遂されたのである。これまでの衛が過去を喪い、市井に
埋もれていたのは、かつて最も近しい間柄であった四天王たちが、宿敵
ベリルの掌中に握られていたからだった。

これまでのドラマにおいて、彫琢の粋を凝らして高密度で描かれてきた
四天王たち。この愛すべき闇のはらからを前にして、彼らへの想いゆえ
に、過去なき現在を力強く受け容れ、自身の現世を生き始めた地場衛=
エンディミオンは、この瞬間に高貴なヒーローとして生まれ変わった。

こうした印象は、クライマックスで再登場するエンディミオンの勇姿に
よってさらに補強される。燦々と降り注ぐ陽光の下で、エンディミオン
王子として剣を揮い、うさぎのピンチを救う彼の勇姿は、市井人として
の苦悩によって圧し潰されたタキシード仮面のヒーロー性の紛れもない
復活だ。

さらにそれは、マスター・エンディミオンとしての特殊能力や戦闘力を
身に着けたことによるものではなく、地場衛の男としての成長によるも
であることが、ラストのうさぎとの対話によって明らかにされる。

たしかに、すべての男は歯痒いくらいにゆっくりとしか成長しないが、
男という存在は、一瞬の刹那において成長するものなのである。

…ああそうそう、成長ということで想い出したんだが、アバンでうさぎ
がまこちゃんの覚醒に触れて「一人だけ遅いことを気にしてたから」と
言ったときは、ちょっとドキッとしてしまったな。まあ、この年頃の女
の子には「一人だけ遅いと気になる」ことがたくさんあるので、いろん
な意味にとってしまったんだが(木亥火暴!!)。

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