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Act.32-3 春にして君へ還る

オゲレツな冗談はさておきつ。

それではそろそろ、アバンの「をとこ祭り」における衛の覚醒を受けた
今回最大の山場であるうさぎと衛の再会に触れることにしよう。前述の
とおり、今回の衛の覚醒は至極呆気ないものであって、そのことから逆
に、衛の覚醒のきっかけとなるのが勢揃いした四天王との出会いという
シチュエーションの問題であったことがわかった。

その呆気なさと対をなすかのように、衛を心配するあまり、遠いロンド
ンへと想いを馳せるうさぎの願いは、その一途な願いのゆえにうさぎが
陥った危機を、当の衛が颯爽と現れて救うことで呆気なく叶えられる。

本来的にこの呆気ない再会は、うさぎの想いの一途さが視聴者の感動を
呼んでいたら、一種うさぎの切ない願いに天から天降った機械仕掛けの
神が応え、恋しい人を呼び寄せたような見え方になっていたはずだ。

しかし、先にも視てきたとおり、どうもオレには中盤のうさぎの奮闘が
中途半端なものに見えたし、そうした印象は過去の空港での別れの描き
方が失敗しているせいもあるのではないかというのも、先に触れたとお
りである。

さらには、正味な話、リアルタイムで観ていたとき、わざと時制を混乱
させて衛の身柄を隠す話法のせいもあってか、まさかラストでいきなり
何の脈絡もなく衛が現れるとは思わなかった

どうも中盤以降の流れを語る場面では批判的な口振りになってしまうの
だけれど、衛が「誰にも言わないで」帰ってきた理由がよくわからない
のだな。

援助者の日下家に無用な心配をかけないために、黙って帰ってきたとい
うのならまだし話はわかるのだが、すでにエピソードの発端において、
ただの友だちにすぎない元基ですら衛の失踪を知らされているのである
から、公式の庇護者である日下家にはとっくに伝わっていて然るべきで
あって、おそらく元基に衛の失踪を伝えたのは日下家の人間であろう。
まったくこれは逆効果である。

それがためにうさぎが要らぬ心配に衝き動かされたことで今回の騒動が
持ち上がったわけだし、それよりオレが個人的に気に懸かるのは、この
成り行きはあまりに日下陽菜の存在を無視した行動であって、Act.26
おける陽菜の女ぶりを二重三重に貶める行為
となっていることだ。

これからわかるのは、すでにもう、小林靖子の念頭に日下陽菜の存在は
ない
ということで、有り体に言えばなかったことにしたいくらいなので
はないかということだ。おそらく、普通一般の視聴者よりもかなり陽菜
の存在を重く視ているオレとしては、それが残念でしかたがない。

Act.26の無用な繰り返しになってしまうかもしれないが、第一部後半に
おける日下陽菜の絡ませ方は、愛欲の三角関係を正面から扱ったもので
ある。そして純潔な少女の繰り広げる愛のドラマにおいて、三角関係の
生々しさを回避し、その恋情をラブロマンスとして円満具足に着地させ
るためには、関係する三者のいずれをも不当に扱ってはならないという
大原則
があるというのが、ドラマに対するオレの考え方だ。

個別のキャラとしての日下陽菜に対する好悪の感情はヌキにいっても、
主人公たちの関係に対してこういう絡み方をした人物の処遇に関して、
物語の神である作者の恣意も万能ではない局面がある。なぜなら、人間
というものには、恋愛という極限のエゴのぶつかり合いにおいてすら…
いやそれだからこそ、公平さを望む強い感情があるからだ。公平さとは
ある人間たちの営みを見守る第三者が、納得してそれに美しさを感じる
ための大前提となる基準なのである。

無垢なる第三者の犠牲のうえに成り立った幸福をも享受できる人間は、
おそらく人生における強者である。しかし、強者が強者であり得るのは
圧倒的多数の弱者を大前提にするからであり、弱者が圧倒的多数である
世界において、しかもその世界に向けて語られる物語においては、その
種の強さは醜さでしかない。

そして、オレたちが魅せられたこの作品の世界は、極度に抽象されたも
のではあれ現実としての強固なリアリティを具えながら、同時に窮めて
美しい世界でもあるのである。

しかし、第一部最後半で語られた日下陽菜の物語は、主人公のうさぎと
衛を、この作品世界に似つかわしくない醜い勝者に仕立て上げる方向で
決着してしまった。醜い恋の勝者など、現実世界には腐るほど存在する
のであり、この類稀な美しい物語を用いてまで屋下屋を架す必要など、
微塵もないだろう。

今回のラストの成り行きを視る限り、衛は正面きってうさぎとの関係を
突き詰めるために戻ってきたのだから、ほんの束の間うさぎが気を揉む
くらいは罪のない行き違いにすぎない。しかし、本来うさぎと同じくら
い大切に扱われるべき陽菜
に対してはどうだったのか。

今回ラストの成り行きは、何ら確たる約束もないままに、衛の旅立ちを
見送ることが許されなかったうさぎにとっては公正なものではある。

しかし、Act.25の水増し修羅場描写によってAct.26の女ぶりを貶められ
た日下陽菜の立場においては、今回の無断帰国事件であっさり無視され
たことがさらにそれを二重に貶め、不公正な形になっていると思う。

現実的なことをいえば、日下陽菜という人物は第一部終盤の山場を盛り
上げるための道具立て
にすぎず、それを演じる松下萌子のスケジュール
もその近辺しか押さえていなかったのだろう。日下陽菜の行く末を憂う
オレのような視聴者は少数派…つか、希少動物にすぎず、あれはあの場
限りの方便でしかなかったのかもしれない。

一種、いつまでもそれに拘泥するのは、無粋なないものねだりなのかも
しれないが、今回のような衛の旅立ちと帰還をめぐる筋立てにおいて、
陽菜の存在を忘れろというのも無理な相談だろう。

そういう意味で、冒頭の「をとこ祭り」を受けた流れが衛の失踪という
ことになるのであれば、それがストレートに衛の帰国につながるという
筋道を思い附けなかったのである。うさぎと衛の恋が日下陽菜の悲恋に
呪われているというオレの意見が気に入らないのなら、うさぎと衛の恋
を見守るこのオレこそが日下陽菜に呪われているのだと言い換えたって
かまわない。

あのような不幸な立場にある女性を不公正に扱う恋物語は、オレの感覚
では美しくない
。それがたとえ美しくない恋であろうとも、恋は尊い恋
に違いはないが、恋物語は美しくなければならないのだ。

その一点に拭い去れない憾みは残るものの、唐突な衛の出現からラスト
の抱擁に至る流れは、こうした呪いをダイアログと映像の力で忘れ去ら
せるだけの力を持っている。

くだくだしい繰り返しばかりのレビューになって申し訳ないが、前述の
とおり、今回のうさぎの奮闘そのものは、視聴者の感動を呼ぶものでは
ないし、うさぎの一筋な純愛も感動を呼ぶような性質のものではない。
今回のうさぎは、恋ゆえの愚昧を体現した哀れな存在にすぎない。

ラストにおいて出現する衛は、恋の愚昧に翻弄される女主人公を、文字
通り救済する颯爽たるヒーローなのだ。そしてそのヒロイズムは、冒頭
の「をとこ祭り」において垣間見せる英明の天稟、君主としての威厳に
基づくものとは微妙に違う。苦悩の日々を通じて、前世がただ当たり前
の意味で過去であるにすぎないことを悟った男の成長によるものだ。

妖魔に襲われたうさぎの窮地を救うばかりなら、それはただに腕っ節が
強くて要領のいい一人の武人であるにすぎないが、この場面で衛が本当
に成し遂げた救済は、世界が武器を構えて二人を堰くこの状況において
女が安んじて縋れるだけの力強い言葉を発したことによるものだ。星の
滅亡という窮極の障碍によって打ちのめされている女を、その宿命に伴
うすべての責任を全うする決意を表明することで救済したのだ。

オレとおまえの関係は星を滅ぼす。

前世を繰り返したくない者にとって、オレたちは不吉な存在だ。

信じるか。

オレは信じないそう決めた。だから帰ってきた。

おまえといっしょに証明するために。

絶対、星なんか滅びない

これは、星を滅ぼす可能性を持つ関係に対して、当事者が発し得る最も
力強い言葉
だ。賭けられているのは、一つの星の運命なのである。大切
な人々の生きる愛しい世界がかかっているのである。

星なんか滅びたってかまわないというのならいくらでも言えるが、滅び
の宿命を前にして、愛する女とともにその宿命が回避可能であることを
証明すると宣言すること、これはできることではない。「信じない」と
いう否定形で表現されているが、これは絶対の信念の表明である。

前世は過ぎ去った過去にすぎない。前世においてどんな悲劇が演じられ
ようとも、それが過去にすぎない以上、現在や未来がそれと相同のもの
でなくてはならない理由などこればかりもない。それは当たり前のこと
ではあるが、その当たり前のことを信じ抜くためには力強い信念が必要
である。

前世は繰り返す。宿命は逃れられない。

前世がしんじつ存在するなら、それはただに過去であるにすぎず、した
がって繰り返すことなどあり得ない。さらには、未だ起こっていないこ
とがすでに確定していることなどもあり得ない。前世も宿命も、今この
現在におけるうさぎと衛の恋を縛る直接の理ではない。

話はもっと現実的な問題なのである。

前世を抱えた転生人を呪縛するのは、前世と相同の問題性が現在も立ち
はだかっていること
であって、それを「前世は繰り返す」「宿命は逃れ
られない」と表現することは、人は困難を克服できないと言っているの
に等しい

こう言い換えてみれば、たとえばルナが「二人の関係は不吉」「禁じら
れた関係
」と禁止することがどういう意味なのかがわかってくるだろう
と思う。つまり、ルナは繰り返す前世や宿命の不可避性を問題にしてい
るのではなく、「困難なことはするな、危ないことはするな」と言って
いるのである。賭けられているものが重すぎるから止めろと言っている
のである。

前世の問題でも宿命の問題でもないのだ。

うさぎと衛の恋が成就するためには、オレやあなたやあなたの大好きな
人々の住まうこの星の滅びがリスク要素として賭けられているのだ。

それはオレやあなたにとって不当窮まりないことである。しかし、赤の
他人であるオレやあなたのために、命懸けの恋を諦めさせられるとすれ
ば、それはうさぎと衛にとって不当窮まりない成り行きである。これは
要するにディレンマであって、どちらも正しくないのである。

この世界が全きこの世界としてあるために、二人の無辜の男女が生木を
割かれねばならないのであれば、この世界は正しい世界ではない。こう
した機微はSFの古典であるアーシュラ・K・ルグインの「世界の合い
言葉は森」でも語られている。一方、たかが二人の男女の愛欲のゆえに
滅びていい世界でもないことも明白だ。

ある意味で、うさぎと衛はヒットラーを凌駕する世界の敵なのである。
ジョニー・スミスなら、苦悩の末に二人の暗殺を決意するだろう(笑)。

オレがこの作品の劇中を生きる者であるなら、躊躇いなくこの二人の恋
を禁ずることだろう。赤の他人のうさぎや衛の気持ちなどどうでもいい
ことで、オレにはオレの大事なものがある、大切な人がある、それは、
オレにとって赤の他人に対する公正さよりも大事なものだ。

正義も公正も、生きていればこその方便だ。それがいかに当事者にとっ
て不当なことであろうとも、彼らに対して公正であろうとすれば、自ら
にとって不当な事態が出来するのだとすれば、これはもう理の問題では
なく、利の問題だ。

等分の理に基づいて、己の利を図るための闘争が行われるというだけの
成り行きだ。そしてこの現実の理をもって測るなら、そこで闘争しない
ことは誠実な生き方ではない。たとえそれが、当事者たちにとって不当
な結果をもたらすにせよ、自らの不当な破滅を回避するために、あえて
無名の闘争を戦うこと、これは非情な義務である。

オレがかなり以前に出現を予告したカルネアデスの舟板は、実はこんな
ところを漂っていたのである。こうした課題設定に対して、当事者同士
が「頑張って何とかしましょう」というのは、はなはだお気楽な解答の
ようにも思えるかもしれない。頑張ってもどうともならなかった場合の
リスクが大きすぎるのであって、普通一般にそういう場合、そんな重い
博打は止めておくのが智慧というものである。

かつて、星の滅亡に比べればものの数ではないリスクのゆえに、あたら
生木を割かれた男女の数は、それこそ星の数ほどあるのである。今さら
その不公正を過剰に重く視るべきではない。人の歴史のなかで、数限り
なく存在するこうした悲恋の死屍累々に対して、うさぎと衛の恋のみが
優遇されねばならない道理はない。

だが。

さらに考察を突き詰めるなら、この立論は前提からして間違っている。

この物語は現実そのものではなく、極度に抽象されたフィクションなの
である。うさぎと衛の関係が抱えるディレンマは、現実における具体的
な何かの比喩であるととらえるべきではない。それが世界律としてある
世界の理
を想うべきなのだ。

うさぎと衛は、世界の破滅というリスクを顧みずに自らの愛欲を貫こう
としているのではない。それはまったく逆であって、うさぎと衛という
ごく普通の市井人の恋に、世界の命運が無理矢理関係を迫ってきている
のである。うさぎと衛は、世界の命運を正すためにこそ、過去世の悲恋
をやり直そうとしている
のである。

これは言葉遊びではない。劇中の悲恋のディレンマをわが身に引き附け
て、自分ならこの恋を禁ずるだろうと想像するのは、世界の繁栄を自明
のことと認識する、この現実の大前提を引きずった考え方
だ。

この物語の劇中世界はそうではない。この世界は、まず、大前提として
破滅に脅かされる世界なのである。かつて銀水晶の力によって繁栄して
いた古代王国は、他ならぬその銀水晶の力によって滅びを喫した。

これが一人の王女の悲恋による破滅だとしても、その世界の繁栄もまた
その王女が巫女として操る銀水晶の力によって得られていた以上、所詮
はその世界は自らの命運を王女個人のか細い肩に委ねるといういびつな
形で成立していた
ということになる。

そうであるならば、かつて古代王国が迎えた滅びは、たとえそれが王女
個人の感情問題に帰着するにせよ、その時代における人間存在の可能性
の限界
であるということだ。

恋もすれば嫉妬もする一人の少女の心を縛り附け、その犠牲の下に成立
していた幸福なのだから、その少女の不幸は、いつか世界に跳ね返って
くる
のが当然だ。

そして、その滅亡せる古代王国の呪いが、この繁栄を謳歌する現代社会
にまで連なる歴史のなかに常に潜んでいたというのが、この物語世界の
大前提となる世界律なのである。それはつまり、この世界における平和
と安寧は、無前提に与えられているものではなく、いつか訪れる破滅の
試しに際して、果敢に戦い取られねばならないもの
だということだ。

前世は繰り返す。宿命は逃れられない。

このフレーズが、人は困難を克服できないと言っているのに等しいこと
は先に触れたとおりだ。そうだとすれば、この世界は必滅なのであると
いうのが、この物語世界の成立要件なのである。前世が繰り返し、宿命
が逃れられないものなのであれば、前世がそうであったようにこの世界
もまた滅亡する。

滅亡とは、克服し得ない困難の窮極だからである。

その滅亡が、うさぎと衛の恋の行方に委ねられているのは、一種の方便
にすぎない。うさぎと衛が、覚醒した後もプリンセスとエンディミオン
その人とは別人とされているのは、こうした機微に基づくデリカシーで
あると思う。

うさぎと衛がプリンセスとエンディミオンその人であるのなら、前世で
成就しなかった悲恋を、滅びた古代王国とは縁もゆかりもないこの現代
社会において延々繰り返すハタ迷惑な存在にすぎないが、うさぎと衛は
プリンセスとエンディミオンの前世を不可避的に担わされた現代人なの
である。

たとえ、互いに惹かれ合う道筋が、前世の宿命に導かれたものであると
しても、今この場で互いを想い合う気持ちは、この現世の二人のもので
あるべきである。そうした現世の二人に対して、理不尽に圧し附けられ
たのが世界の滅びという重い枷なのだ。これは、破滅の宿命が無前提に
ある世界律が、この現代の繁栄に対して突き附けた試しなのである。

うさぎと衛の恋は、こうした前提においてとらえられるべきだ。

うさぎと衛は、この現代世界を代表して過去からの呪いと対決する役割
を圧し附けられた、試しを受ける者である。いにしえの古代王国滅びて
後、数え切れない時が流れた今も、世界の繁栄は一人の少女の心を縛り
附けることでしか成立し得ないのか
、これが今試されているのである。

そして、この試しは、回避することでは正当に応えられたことにはなら
ないのだし、そもそも回避することは不可能なのだ。

ルナやアルテミスやヴィーナスがこの二人を堰こうとするのは、現実的
な意味合いにおけるリスク回避であって、それはそれで「前世の悲劇を
繰り返さない」ための一便法である。やって失敗する可能性のあること
は、失敗した場合のリスクの軽重でもって測られるべきだ。だからこそ
二人を堰こうとするルナたちの言葉にも相応の理がある。

しかしこの悲恋をめぐるディレンマの本質は、そうした現実的な尺度で
測るべきではないのである。不可避なのは破滅の宿命ではなく、破滅を
賭けて試される審判の宿命
なのだ。それをこの二人が演じることは、当
不当の問題ではなく、人という存在一般が試される場面において不可避
的な「召命」の問題なのである。

「試し」というものは「受ける」ものであり、「試され手」は不可避的
に「選ばれた者」なのだ。だからこそ、うさぎと衛の選択に委ねられた
ものの重さを、この二人の個人の問題に還元すべきではないのだ。

このような考察を前提にするなら、今回ラストの衛の言葉は「応召」と
いうニュアンスを持つ決意の表明として見えてくる。ただに愛欲の問題
ではない、前世だ宿命だというのであれば、それと戦い困難を克服する
ことこそが自らに課せられた宿命だ。この現世を生きる地場衛という男
は、そうした使命をわが身に引き受けるべくして在る存在なのだ。

そうした己の在り様を受け入れ、自らの愛する少女とともに、目も眩む
ほどに重いものを賭けた戦いを戦い抜く決意を固めること、このような
決意の下に、愛する少女に対して「星なんか滅びない」と保証すること
は、一人前の男にしかできないことだ。

決して失えないものを賭けた戦いを不可避的に受け容れる以上、決して
負けない決意が必要とされるのだ。勝ちもあれば負けもあるのが勝負と
いうものであるのなら、決して負けないとは軽々に言える言葉ではない
し、決して負けないことを前提に勝負をするには、いかなる苦痛も堪え
忍び首が飛んでも動いてみせるだけの強固な信念が必要だ。

愛する少女を救済するために、このような決意を固め、決して負けない
と保証する、そこから決して後戻りしない。オレの考える「男」という
ものはこういう存在である

四天王との邂逅を経て、衛は唐突にこういう男になった。

このような唐突さは、本来であれば語りの飛躍であり短絡ではあるが、
物語においては、唐突であることそれ自体が腑に落ちる場面というもの
もあるのだ。

もう一度繰り返そう。

たしかに、すべての男は歯痒いくらいにゆっくりとしか成長しないが、
男という存在は、一瞬の刹那において成長するものなのだ。古人はそれ
をして、もっと端的な言葉で表現している。

士別三日即更刮目相待

今回のエピソードでは、いつものように女なんぞに目を暮れている場合
ではない。いやしくも一人の男子たる者として、男たちの絢爛の男ぶり
をこそ、刮目して賞玩すべきなのである。

…まあ、そんなことをそら嘯いて気張ってみたところで、やっぱ少女者
の哀しい性で、なぜかしらいつもいつもエッチな美奈子のコスチューム
に目が釘附けになってたりするわけだが(木亥火暴!!)。

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