« Act.32-3 春にして君へ還る | トップページ | Act.33-2 娘とその母親 »

Act.33-1 美しい対称

久々の再開となる本レビューだが、正直なところを言えば、膨大化する
物語要素、深化する人物描写、現場事情に対する関心の高まり、こうし
たものに振り回されてまごまごと足踏みしているうちに、肝心要の番組
のほうが大団円を迎えてしまった。

従来、基本的な語りの時制をリアルタイムの視聴時に置いて進めてきた
本レビューだが、こうした事情が自他に対して明白な現状において、そ
のような虚構の時制を堅持することは、結末から遡った予定調和のそら
ぞらしいフィクションであるとの誹りを免れまい。

すでに番組は終わってしまった。オレが結末までの物語の成り行きを、
すべてこの目で視ていることは大前提だ。奇跡の物語が語られる現場に
リアルタイムで陪席すること、さらにリアルタイムで考察を紡いでいく
こと、物語の進展を、識っていることと識らないこと、生起したことと
未だ可能性に留まることの間の峻別が明確な、「現在」という特権的な
時制において解釈していくこと、このようなスリリングな経験を喫する
機会は、すでにして、永遠に喪われてしまった。

忸怩たるものがある。

三〇分の物語について語る言葉を語るのには、三〇分では事足りない。
オレ自身にだって生活というものがある、この夏は私生活上の激動の波
があった。そんな言い訳を連ねてみても、喪われた好機は戻らない。

人の生き様は、おおむねトレードオフの連続だ。あれもこれも獲得する
ことはできないから、あれかこれかの二者択一を迫られる。残念ながら
オレという一介の私人は、またとない奇跡的な経験を喫することよりも
市井人としての現実的な都合を優先せざるを得なかった。

一定のスパンの時間が経過したことでオレの語る言葉における「現在」
という時制の虚構性がますます大きくなってきた。それは一種の悪循環
だったのだ。識っていることと識らないことが自明な「現在」から取り
残されてしまえば、その虚構の「現在」を維持するために、未知の事柄
と既知の事柄を峻別するのは、語り手に課せられた誠意と、さらには、
より良い嘘を堅持したいと望む矜持でしかない。

これがオレには過剰に重くなってきた。それが本稿が中断をみた大きな
理由の一つでもある。すでにして、Act.32のレビューにおいてそうした
営為は破綻を喫している。

アップロード後に気附くようでは、すでにオレにはその良質の嘘を吐き
通す資格などない。これは、オレという語り手が衝き当たった限界だ。
この嘘は、もう潮時だ。

だとすれば、次善として目指されるべきは、一度始めた試みを結末まで
やりぬくこと、これ以外にはあるまい。ならば、一握りの愛すべき読者
を前に真摯な姿勢を貫いたままこの試みを完遂するのであれば、たとい
形式上の約束事に則ったまでとはいえ、質の悪い嘘を吐き続けることは
許されまい。

向後の本レビューは、その時制をFinal Act 以降の現在に置くしかない
だろう。すべてを識ったうえで、過去としての物語の語られた時点を振
り返る形で論考を進めざるを得ない。オレの当初の目論見からすれば、
これはたいへん遺憾な状況と言わざるを得ない。据え物斬りなら馬鹿に
でもできる。生きて動いて反撃してくる相手を前にしないと、真剣勝負
など成立しない。

一度公に晒した言葉の重みが語り手に牙を向いてくるような状況にあら
ざれば、言論の勝負はぬるいものとなる。公に表現活動を行う者の営為
を語る場面で、批評の言葉への反撃を実作をもってする機会を与えない
ことは、行為として卑劣ではないけれど勝負として十全ではない。

オレが本レビューにおいて望んだのは、酬われることがあろうとなかろ
うと一方的に挑む真剣勝負であって、他者の営為に対する批評行為それ
自体ではない。後手の優位に胡座をかいた、批評の権力を望んだのでは
ない、賢しらな批評の言葉が実作の奇跡によって打ちのめされる可能性
もある真剣勝負を望んだのだ。そんな経験のもたらす興奮は、千万金を
積んだとて軽々に得られるものではない。

オレが物語の「現在」から見苦しく取り残されたことによって、本稿は
送り手との真剣勝負としての興奮を喪った。オレが最後まで本レビュー
を語りきったとしても、それはすでに在り来たりの批評の言葉であるに
過ぎない。

だが、この奇跡の物語の語り手たちが、一度始めた語りの営為を見事に
完遂した現状において、この時点までにこれまでのことを空嘯いた男と
して、ただ負けを認めて沈黙するわけにもいくまい。現実に破れた流残
の語り手の言葉ですら、最後まで聞き届けてやろうと思う奇特な読者が
まだ残っているのであれば、オレが自分の始めた歌を最後まで歌いきる
ことができるかどうかを見届けてほしい。

読者諸兄姉の寛大な理解を乞うものである。

さて、いよいよ大注目の舞原ローテである。前回ローテのAct.2728
渾身の力作を見せ附けた舞原監督、どうしたってあれほどのテンション
が二度は続くまいと思ったが、いや、なかなかそんなものではない。

今回のエピソードの筋立てそれ自体に関しては、いろいろと思うところ
もあるにはあるのだが、今はそれをさて措くとして、演出という側面に
限って視れば、舞原演出の冴えは今回も衰えを見せていない。

シリーズ前半の核となる水野亜美物語、そのさらに深奥に潜む母親との
葛藤、また、Act. 8で種が播かれてから延々半年も放置されていたレイ
ちゃんの父親との確執。それらの懸案事項に一挙に片を附ける注目編と
いうことで、今回ローテの二エピソードもまた、前回の舞原ローテ同様
最重要のエピソードである。

その前編となる今回のエピソードだが、エピソード単体として視た場合
のドラマの組み立てに過不足はないかに見える。オレが感じる問題とは
単独の挿話という性格を離れた大筋のうえでのバランスについての疑問
である。しかし、それを視ていく前に、優れた一本のドラマとしてこの
エピソードを検証するのが先決だろう。

それでは、順を追って視ていこう。公式サイトの作成者に喧嘩を売られ
という経緯もあるので(木亥火暴!!)、前ローテの川口に続いて、今回
初登場のベテラン・小林カメラマンの手業についても、及ばずながら、
少しばかり検証を試みてみよう。

それを視ていくには、今回アバンの短い芝居場の組み立てが端的に小林
カメラマンの手法を呈示していると思われるので、ここを視てみること
にする。

前回のエピソードを引き受けて落とし所を用意するアバンの芝居では、
前回の力強いラストの再現から、ルナの頭ごなしの禁止のセリフをズリ
上がりでかぶせて、二人の前途に立ちこめる暗雲を予感させる。

いきり立つルナのアップからうさぎに切り返し、ローポジに構えた広角
レンズの絵づくりで、うさぎとルナたちの間に挟んだテーブルを実際以
上に広く見せ、左右と頭上に空間をつくってうさぎを小さく見せること
で、孤立無援のうさぎがぽつねんとうなだれる様子や、ルナ+三戦士と
の「距離」を誇張した形で呈示する。

うさぎの視線を追って「広大な」テーブルを挟んだ向かい側に切り返す
と、興奮するルナの背後には三戦士が渋い表情で控えていて、こちらの
ほうは画面横幅いっぱいに三人を入れ込みノーマルで撮っているから、
うさぎの絵との対比上、手前に迫り出すような見え方になっている。

要するに、吊し上げる側と吊し上げられる側の対比を、誇張して描いて
いるのである。うさぎは叱られることを予期して…というかすでに叱ら
れているわけだが(笑)、自然後じさるような姿勢になっているわけで、
ルナと三戦士は萎縮したうさぎに詰め寄るような見え方になっている。

この切り返しを、もじもじと俯くうさぎがおそるおそる上げた視線の間
でカットバックしていることも相俟って、頭ごなしに叱られるうさぎの
居堪れなさが誇張されて視聴者に伝わってくる。

このあとカメラは、レイちゃんの詰問にモゴモゴと煮え切らない返事を
返すうさぎの背後に、こっそりにじり寄るようにモゾモゾと回り込み、
ゆっくりとルナと三戦士に寄ってから、ふたたびうさぎ視点を代替する
ような位置にまで回り込んで停まる。

この場面の実際の撮影の段取りを考えると、カメラはテーブルの正中線
の位置からゆっくり回り込み、うさぎの真横の位置に差し掛かった時点
で、おもむろにパンしてうさぎをフレームから外し、大凡カメラ一台の
奥行きの分ともう少しだけルナと三戦士に寄り、次いでやはり大凡カメ
ラ一台の奥行き分だけ回り込んで、うさぎの肩越しぎりぎりの位置に停
まったのである。

回り込みつつ、うさぎの横でゆっくりパンすることで、レンズの筒先か
らうさぎを遣り躱し、カメラの物理的な長さの分だけ対面に寄り、さら
にその分だけうさぎに近附くのがこの場面の据え振りのポイントだ。

「流れるようなカメラワーク」とはよく遣う言い回しだが、このカット
のような遣り方の場合、カメラは本当に流れの中の木の葉や小舟のよう
なイメージで動いている。

こうしたカメラワークが視聴者にどのような印象を与えるかといえば、
たとえば視聴者は、叱られているうさぎの側に立つ人間として、ルナや
レイちゃんに気附かれないように、こっそりと息を潜めてうさぎの背後
に回り込んだような気にさせられる。うさぎの側杖を喰ってこっちまで
叱られるんじゃないかというようなハラハラ感を無意識に覚える。

社会人の視聴者なら、同僚が叱られている打ち合わせの場に遅れて入室
したときの居堪れなさを想起して、やりきれないだろう(木亥火暴!!)。

これに続いて、興奮するルナのセリフが終わってから一拍間を置いて、
亜美ちゃんがうさぎに助け船を出すタイミングで切り返し、亜美ちゃん
の肩越しにうさぎをとらえることで亜美ちゃんがうさぎに親和的なポジ
ションにあることを暗示し、そこから徐々にうさぎに寄っていくことで
うさぎが意を決してみんなに真情を語るムードを高めていく。

だから、みんなにも内緒にしないで…」というセリフのきっかけで、
レイちゃんをはじめとする友人たちのリアクションをナメていき、亜美
ちゃんの正面に返った段階で、笑顔とともに「じゃあ、あたしも信じな
いことにする
」という亜美ちゃんのセリフが語られる。

ここからうさ→まこ→レイの順で切り返していき、せっかくまこちゃん
も亜美ちゃんに同調してくれたのに、この三人のなかでいちばんの難敵
であるレイちゃんが「あたしは感心しないわ」と言い放って、フレーム
アウト気味に席を立つ。

ふたたび雲行きが怪しくなり、うさぎのリアクションをインサートして
ヒキの絵につなぎ、「…今、男なんかに…」というレイちゃんのお説教
が語られるのだが、そう語りながらもレイちゃんはまこちゃんの背後を
回り込み、カメラはそれに寄っていく。

亜美ちゃんとまこちゃんの間にレイちゃんが立ち止まり、うさぎのリア
クションから切り返して、レイちゃんは二人にささやきかけるように姿
勢を落とし、カメラもレイちゃんに附けながらさらに寄っていく。

そこで「大事なプリンセスに何も起きないように」という大オチのセリ
フがあって、三人が茶目っ気たっぷりにうさぎを見返ることでこの短い
笑劇のサゲとなる。

伸び上がるレイちゃんを追ってさらにバストショットまで寄り、そびら
を返してレイちゃんがフレームアウト、まこちゃんが立ち上がって逆方
向に歩み出すのをフォローし、そこからティルトして亜美ちゃんの笑顔
をとらえ、うさぎに切り返してから、感極まって友に抱き附くうさぎの
背後をフォローする。

この短い場面のもたらす奇妙な臨場感は、こういうカメラワーク、こう
いう視線の文法で醸成されているのだ。

冒頭でうさぎが叱られている場面の居堪れなさは、カメラワークによっ
て過剰に誇張されており、そもそもうさぎが考えるほど三戦士はうさぎ
たちに対して無理解ではないことを予め暗示している。

うさぎに最初に賛同する亜美ちゃんのポジションも、的確に見せられて
いるし、レイちゃんがお説教口調で立ち上がるくだりは、それが大オチ
のための仕込みの小芝居であることを、役者の動きとカメラワークが、
予め仄めかしている。

そして、このような意味合いでカメラワークを云々する場合、忘れては
ならないのは、カメラの動きが先にあるのではなく、役者の芝居がまず
ありきの話だということだ。当たり前の話だが、何もないところからカ
メラの魔術が帽子から鳩を出すように意味をつくり出すのではない。

役者の芝居という事象を映像の次元で最大限に効果的な意味構造とする
ためにこそ、カメラワークの匠はあるのである。そして、このアバンの
ような表現の場合には、役者の芝居というものが独立してあり、それを
どう撮るかで映像が成立しているというだけでもないのだ。

芝居の組み立てとカメラワークの手法は、密接な連携上にあり、こうい
う撮り方をするという前提で役者の動きが附けられている部分もある。
それは、映像作品における芝居は、舞台演劇のように、今この場に揺る
ぎなく現前する他者の肉体性を根拠とするものではなく、撮影された画
面のうえにしか存在しないものだからである。

舞台演劇の観客は、原理的には多種多様な方向から芝居を視ることが許
されているけれど、映像作品の観客は、カメラの視たものをカメラが視
たようにしか視ることが許されない。もっと厳密にいうなら、カメラの
網膜に当たるフィルムやビデオに写されたものしか視られない。

「役者の芝居」という舞台演劇と同じ事象を視るジャンルであっても、
映像作品のカメラはまず観客に先駆けてその事象を視てしまうのであり
己が視たとおりに観客に見せる媒介者なのである。

舞台演劇の場合、演者と観客は原理的に断絶した存在である。舞台上の
演劇空間はそこで完結しているのだから、その空間をどこからどのよう
に視るのも観客の自由だろう。しかし、映像作品の場合、カメラという
媒介者が観客に先駆けて一義的に芝居を視て、その視点を観客に強要す
るのである。

映像作品の芝居は、見方が固定されていることではじめて成立する芝居
なのであり、観客に先駆けて芝居を視るカメラという媒介者もまた、そ
の見方そのものによって芝居の一部を構成するのだ。

映像作品における優れた演技表現というのは、カメラワークとは無関係
に独立して存在するものではないのだろう。そして、映像作品における
優れたカメラワークというものも、演技表現とは無関係に独立して存在
するものではない。

話を戻すが、このアバンの芝居がこのようなものとしてあるためには、
脚本の解釈と身ぶりの表現、そして人の動きとカメラの動き、こういう
複雑な要素の有機的な綜合として意味構造が構築されねばならない。

それを作業の実態に即していえば、カメラマンのオペレーションと役者
の芝居、そしてもちろんそれをすべて統括する監督の演出が有機的に意
味性を志向しなければならない。

このアバンは一種の笑劇となっているが、それをそのようなものとあら
しめる意図は脚本に内在するものであろうし、このようなものとして演
じさせ、映像として実現しようとする意志は監督のものであろう。さら
には、それをどう撮るかというのはカメラマンの領分であり、それぞれ
がまったく独立して存在するものではもちろんない。

この検証が、小林元というカメラマンの個人名に収斂していく考察であ
るかどうかはともかく、あらためてこのような問題に思いを致させる技
倆であることは間違いないだろう。

こうして散々寄り道した挙げ句ようやく本編を視ていくわけだが、一年
間の特撮シリーズとしての突出した到達点を示しているのがAct.28だと
すれば、今回ローテのAct.33、34は、この番組が斬り拓いた特撮ドラマ
の水準のメルクマールとなる作品であると言えるだろう。

人間の生きる現実を視聴覚のパラメーターで再構築した映像作品の分野
においては、意味性というパラメーターは必ずしも絶対の尺度ではない
だろう。たとえば、タルコフスキーの映像詩を意味性の次元で捉えよう
とするのは、あまりにも貧しいアプローチである。しかし、ことドラマ
という分野に関しては、意味性とそれを表現する具体的映像表現の稠密
な関連性、さらには個々のそれが時系列に沿って重層することによって
成立する全体の意味構造が重要なファクターとなる。

この間の機微を突き詰めて言うなら、ドラマとは意味性と実感のせめぎ
合いがもたらす感動を指向する分野である。そして、それが意味と実感
の問題である以上、ドラマのもたらす感動は、世界の識られざる秘奥を
解き明かすという類のものではない、手垢の附いたありふれた要素を、
いかに強烈な実感として表現し得るか、ということに尽きるだろう。

今回ローテの二話で語られているのは、「親子の和解」というきわめて
ありふれた題材である。そして、その到達点に至る経緯もまたきわめて
ありふれたものとなっている。

親と子の間に、無理解がある。わかっていると思っていたことが、実は
わかっていなかった。それを互いが歩み寄ることによって、対等に理解
し合うことで物語の落とし所が用意されている。極限すれば、こんな話
が特撮ヒーロー番組でなければならない理由はない、ごく普通のホーム
ドラマで語り得るテーマであり物語である。

しかし、どんな容れ物でも語り得るテーマである以上、どんな容れ物で
語ってもかまわないのだし、一方、その容れ物で語る以上はその容れ物
が要請する必然に沿って語られていなければならない。

今回の物語は、この二軸の綜合として視ていく必要があるだろう。普遍
的な物語要素がいかに巧みに語られているかという問題と、それがいか
に特撮ヒーロー番組の物語要素として活きているかという問題だ。

このような視点に則って、アバン明けからの流れに沿って視ていくこと
にしよう。

前回の「をとこ祭り」からの引きであるダークキングダムの描写はさて
措くとして、アバンからの流れを受けてレイちゃんと亜美ちゃんが帰途
に就くという、実質的に本ローテのドラマの開始点となる一連から視て
いくとしよう。

この一連の描写上の約束事を一言で言うなら、それは「美しい対称」と
いうことになるだろう。二人が並んで歩く夕景を正面から捉えたカット
から始まり、別れの言葉を切り返して、少し崩した線対称で上手と下手
に別れて去っていく二人の姿を押さえ、この一連が「対称」において描
かれる流れであることを視聴者に印象附ける。

このあと、右から左方向へ向けて入室していく亜美ちゃんの描写と、左
から右方向へ向けて入室していくレイちゃんの描写が切り返され、無人
の居室で独りで灯りを点け、不在の母親に向かって語り掛ける、という
対称が描かれる。親の不在による孤独を託つ二人の少女の日常が、対称
の構図において対照の意味附けに基づいて描かれる。

一見して、亜美ちゃんもレイちゃんも母親が不在の家へ帰るという意味
では対称を成しており、二人とも不在の母親に向かって「ただいま」と
言っているのだが、亜美ちゃんは恰もそこに母親がいるかのように笑顔
で「ただいま」と言っており、母親の手料理をレンジで温める場面も、
「レンジでチンして食べてね」系の冷たさを強調するのではなく、自分
のために母親が料理を残してくれたことの嬉しさを前面に出して演技が
組み立てられている。

忙しくすれ違いの多い毎日のなかでも、娘のために夕食をつくっておい
てくれる母親に対する愛情と感謝がこの演技の核である。

一方、レイちゃんの母親はすでにこの世の者ではないのだし、当然彼女
のために手料理を用意してくれてなどいない。亜美ちゃんは、その場に
いない母親に対して「ただいま」と呼びかけることによって、どこか他
の場所にいる母親との絆を再確認しているのだが、レイちゃんの場合は
もうすでにこの世にいない母親の、温かい温もりの実感を忘れないため
の呼びかけだ。

さらには、母親とすれ違いの孤独を託つ亜美ちゃんにとっての自宅は、
同じ場を共有することによって母親と自分を繋ぎ止めるものだが、レイ
ちゃんにとっての自宅は、父親から棄てられたという事実を再認識させ
る冷たい場でしかない。

それをもう一歩踏み込んで言うならば、レイちゃんが母親に執着するの
は、この世に遺されたもう一人の肉親である父親に意識を向けないため
の方便という性格もある。この一連の場面において描かれているのは、
亜美ちゃんの母親に対する想いと、レイちゃんの父親に対する想いの対
照なのだと言い換えてもいい。

さらにはその想いは、一方はこの場に不在の母親に対する希求として、
他方はこの場に不在の父親に対する反撥として、対照的な極性として描
かれていながら、さらにそのもう一歩を踏み込めば、対照的な意味合い
ではあれ、表面上「いっしょにいられなくてもかまわない」と強がって
いる片親の肉親を強烈に求める感情が描かれているという意味で、この
二人の想いは共通している。

ビジュアリックな構図としては美しい対称を成していながら、鏡のなか
で右と左が入れ替わるようなミラー対称、その左右入れ替わりのギャッ
プが対照として意味性を強調するような配置において、この一連の描写
は組み立てられている。

後に視ていく物語において明らかなように、亜美ちゃんと母親との間の
確執は、母親の自分に対する愛情が疑い得ないゆえに、その思惑がいか
に不当なものであれそれを裏切れないことに起因するものであり、レイ
ちゃんと父親との間の確執は、かつて父親に棄てられた恨みのゆえに、
父親の自分への愛情が真実のものであることを認めたくない、父親の愛
情に応えたくないという葛藤である。

さらには、非常に単純化して言えば、亜美ちゃんの場合は母親が娘の真
の姿を見誤ったための葛藤であり、レイちゃんの場合は娘が父親の真の
姿を見誤ったための葛藤である。

このように、この二人の人物の間には、片親の肉親との葛藤という同じ
テーマをめぐって、整合のとれた対称と、ねじれてギャップを持つ対照
が周到に準備されている。

この二話のエピソードにおいて、亜美ちゃんとレイちゃんの物語がバラ
ンス好く並行して語られているのは、たまたま亜美ちゃんとレイちゃん
の肉親との葛藤を同時に語っているエピソードだからではない。物語の
見かけのうえでの体裁を整えるための、バランスのためのバランスなの
ではない。

この二人の肉親との確執は、対称と対照において、美しく描かれるべき
問題だからこそ、最大限の配慮をもってバランスのとれた配置が図られ
ているのである。

そしてこの一連は、今回のエピソードの出発点となる立ち位置を再確認
させるために挿入されたものだ。筋立てという意味での出発点となるの
は、この直後に語られる深夜の出動である。

うさぎを衛との甘い夢に浸らせ、まこちゃんに自転車を引っ繰り返させ
ることで、亜美・レイの二人だけが深夜の妖魔出現に対処する、という
シチュエーションを設け、「正義の戦士が補導される」という、一見し
てパロディ的な事件が起こる。

余談に渉るが、このレイちゃんの戦闘のバックに流れる曲は、シリーズ
全話を通してここにしか使われなかった劇判だが、なんとなく某GSア
ニメ
と共通するイメージで笑ってしまった。

あっちのアニメのヒトとセーラーマーズは、ロングヘアでハイヒールを
履き霊感を持つという共通点がある……というか、同じステロタイプに
連なるキャラクターであるわけだが、こうも正面切ってそこを強調され
ると、ちょっとどうリアクションしていいのやら(笑)。案外、この楽曲
がこの場面以外に使われなかったのは、そういう理由だったりすると、
さらに笑っちゃうんだが。

さらに余談に渉るが、まこちゃんを来させないためのアリバイとして、
マンション裏の自転車を引っ繰り返させるのは、何の描写上の必然性も
ないのにダイエー前の歩道にギッシリと立て込む小汚いママチャリを、
好んで画面に入れ込みたがる某監督
への当てこすりと視るのも、ちょっ
と愉しいかもしれないな(木亥火暴!!)。

竹光ローテで散々くさしたママチャリが、舞原ローテでも小道具として
使われたのは、汚いものを出すにはそれなりの必然性が必要なのだとい
うアピールともとれる。あの高丸雅隆にすらネタにされる男、佐藤健光
の面目躍如たる微笑ましいエピソードである(木亥火暴!!)。

さて、仕掛けとしては、中学生のスーパーヒーローを親と絡ませるのに
警察の補導というアイディアを使うのはありふれた思い附きだ。ただ、
中学生のヒーローが夜歩きで補導されるというネタを使うのなら、カラ
オケボックスを秘密基地にしているという設定もまた、風営法とか青少
年保護育成条例の絡みで、不必要なアクチュアリティとして意識されて
きてしまう。

次回のAct.34で、亜美・レイを見守るために、どこでもいいから泊めて
と頼むまこちゃんに、元基が「中学生はダメな時間」と殊更がましく口
にするのは、こうしたリアリティ上のエクスキューズだろう。

警察からの連絡が発端となって、ついに登場する火野隆司と水野冴子だ
が、この二人とレイ・亜美の葛藤の物語については、おおまかに言って
このAct.33が事件編、Act.34が解決編という分け方になるだろう。

そうして、結論から先に言えば、亜美ちゃんとママとの筋立てが満点に
近い出来だとすれば、レイちゃんとパパの筋立てはかなり問題を含んで
いるというのがオレの見解だ。

本来的には、亜美ちゃんと水野冴子、レイちゃんと火野隆司の関係を、
映像のつながりに沿って交互に視ていくのが、こうした手業を検証する
ための最良の方法なのだろうが、レビューという読み物の構成上の問題
として、それでは息が長すぎる。

結果的に一〇〇〇行以上になるであろう文章を一息に読めと言われても
少し体力的に厳しいだろうから(笑)、亜美ちゃんの場合とレイちゃんの
場合に分けて追っていき、最後に総括するというスタイルを採用したい
と思う。

|

« Act.32-3 春にして君へ還る | トップページ | Act.33-2 娘とその母親 »