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Act.33-2 娘とその母親

それでは、亜美ちゃんのほうから視ていこう。亜美ちゃんと母親との間
の葛藤が、母親が娘の真の姿を見誤ったことに起因する問題であること
はすでに指摘した通りだが、それは亜美・レイの立ち位置を再確認する
冒頭の一連においてすでに予告されている。

この場面において水野家のキッチンのホワイトボードには、模試の成績
を褒める言葉が残されており、それによって、この母子の間には微妙な
距離があることが暗示される。それはつまり、模試の成績のように数字
に顕れるものしか母親には伝わっていないということだし、母親の興味
の在処はそんなところにしかないのではないか、という不安を視聴者の
胸に醸す。

しかし、亜美ちゃんが母親に本当にいちばん伝えたい事柄というのは、
たとえばそれは、うさぎをはじめとするたいせつな仲間ができた嬉しさ
であったり、Act.16のラストでなるちゃんといっしょに作ったクッキー
に込められた嬉しさであったりするわけだが、すれ違いの生活のなかで
そんなデリカシーが母親に伝わっていたとも思えない。全国模試の成績
と不格好なクッキーとでは、あまりにも落差がありすぎる。

ここで視聴者は一様に不安に駆られる。水野亜美の母親とは、いったい
どんな人なのだろう、本当に娘をわかっていないのだろうか、娘が勉強
してさえいれば満足な冷たい人なのだろうか、という興味を煽られる。

果たしてそんな不穏な予測を裏附けるかのように、娘を勤務先の病院に
呼び附けた水野冴子の開口一番のセリフは「あんまり時間がないの」と
いう冷たいものであった。「時間がない」。これは、水野母子の間に横
たわる最大の問題である。互いに互いを想い合う母子が、相互の理解を
深め、孤独を癒すためには、決定的に時間が足りない。

さらには深夜の補導に言及した母親は、「よくない友人の影響」という
冷たい言葉で、これまでのドラマでようやく自身の生を生き始めた亜美
ちゃんの苦闘、愛すべき仲間たちとの交わりを全否定するような形で、
他の一流進学校への転校を勧める。

この転校話が今回ローテの二話の課題となるわけだが、それを提起する
この場面における水野冴子の描き方は、亜美ちゃんにとってもオレたち
視聴者にとっても、あまりにも残酷なものであった。例によって、この
場面の会話を再録し、詳細に視ていくことにしよう。

交番からね、電話があったわ、夜のこと。

ママね、塾にも電話してみたのよ。最近休み多いって聞いて、びっくり
しちゃったわ。

二人の間には秘密をつくらない。何でも話す。話せないときは伝言板に
書く。それがルールだったわよね。

(眼鏡を外して)ママも悪かったわ。やっぱり、亜美には向いてなかっ
たのね。前から考えてたんだけど、転校したほうがいいと思うの。

中学までは、「普通の学校」もいいんじゃないかと思ってたんだけど、
やっぱり、いろいろ影響されちゃうものね。

違う! 学校は全然関係なくて…

じゃあ、なに?

それは…

(ポケベルが鳴り、一瞬職業人の顔に戻る)ごめん。大丈夫。勉強に集
中して、ね(眼鏡をかける。娘の肩に手を置いてその直後、厳しい顔に
戻り、同僚に黙礼をしてその場を去る)。

必死に弁解しようとする亜美ちゃんの言葉を真に受けたふうもなく、ポ
ケベルに呼ばれて席を立ち「勉強に集中して」と肩を叩くことで、視聴
者はこの母親が、仕事一点張り、勉強一点張りの冷淡な人なのだと受け
取りかけてしまう。

これは、水野冴子を演ずる筒井真理子が醸し出す「できる女」風の柄も
手伝って、優しい微笑みをも冷たい無理解の壁と思わせる。そのような
印象は、水野冴子の初登場場面を自宅ではなく彼女の職場に設えたこと
でも強調されている。

仕事が忙しく時間のとれない母親が、大事な話をするために娘を職場へ
呼び寄せるというシチュエーションは自然だが、職業人としての緊張を
強いられる場を舞台にとることで、家庭人としての温かみの印象が薄め
られている。このような場面設定において、視聴者は初めて亜美ちゃん
の母親である水野冴子という人物を識るのである。

亜美ちゃんを孤独のなかに置き去りにして、シリーズの出発点における
ような畸型的な不全を抱える少女をつくり出した母親。その名声によっ
て、図らずも娘の他者不信を育ててしまった母親。うさぎに対する一方
的で哀しい想いの雛形をつくった母親。なるちゃんの厳しい誠意に応え
るやり方を教えてこなかった母親。

亜美ちゃんの不全に纏わる問題は、すべてこの母親に責任がある。

この登場時以前から、視聴者は水野亜美の母親にあまり好感情を抱いて
はいない。だからこそ、未知の人物である亜美ちゃんの母親には好人物
であってほしいという切実な願いがあったはずだ。亜美ちゃんがあれほ
ど一途に恋い慕う母親が、第三者の目から視て冷たく非情な女であった
としたら、これほど陰惨は話はない。

さらに、この会話は「あまり時間がない」という母親側の事情に制約さ
れており、母親の詰問に亜美ちゃんが抗弁しようとした矢先にポケベル
が鳴ることで、母親の一方的な圧し附けという印象が強調されている。

これも脇道だが、水野冴子の芝居のうえでアクセントとして使われてい
る眼鏡が、これまでのドラマにおける水野亜美のそれと近縁の意味附け
を施されているのがおもしろい。

できる職業人としての顔から母親の顔に戻るきっかけが、眼鏡を外すと
いうアクションであり、そこに「ママも悪かったわ」と自身の非を認め
るセリフが被ることで、眼鏡を外した水野冴子が家庭人としての間合い
で娘と接していることがわかるだろう。

これは眼鏡という小道具一般の使い方としてオーソドックスなものでは
あるが、娘である亜美ちゃんにおける使い方に若干偏跛な味附けが施さ
れていたこと、他方その母親における使い方がオーソドックスなもので
あることの対比によって、陳腐な印象を免れていると思う。

おそらく大して視力の悪くない亜美ちゃんが眼鏡を掛けるようになった
裏には、優秀な母親と同化したいという至極単純な無意識の願いがあっ
たのだろうと思わせるが、母親の眼鏡が厳しい現実社会と立ち向かう気
合いのような性格をもっているのに対し、娘のそれが現実社会の厳しさ
から自身を守るバリアのような性格となっていたのが皮肉である。

母親の眼鏡は対象をより厳しく見つめようとするための道具であり、娘
のそれは他者の無遠慮な視線から裸の目を隠すための道具である。ここ
には、「視る・視られる」関係の対照がある。

母親を前にした亜美ちゃんは、もう眼鏡を掛けていない。母親もまた、
自宅で娘を前にするとき、眼鏡を掛けているとは思えない。家庭におけ
る水野親子は、視ることの緊張からも視られることの恐怖からも解放さ
れて、優しい間合いで相対しているのだろう。

水野冴子が初登場時に眼鏡を掛けていたのは、そこが彼女の戦場であり
聖域である職場だから表向きの顔をしていただけなのである。

ママも悪かったわ」というセリフがきっかけで眼鏡を外すのは、妙な
駆け引きのゆえではない、この瞬間に、自分が今娘とプライヴェートな
会話を交わしていることを「思い出した」のだ。つまり、水野冴子は初
登場の瞬間からこの今まで、眼鏡を「外し忘れていた」のである。だか
らこそ「ママも悪かった」のだ。

だとすれば、この会話はやはり間違っているのである。娘の今後の去就
を決するような大事な話を、「あまり時間がない」タイミングで「眼鏡
を外し忘れる」ような慌ただしさのなかでしてはいけないのだ。さらに
言えば、「何でも話す」のが水野母子の間のルールであるはずなのに、
こんな大事な事柄について、娘の意見をちゃんと聞く余裕もなく、自分
の都合で話を切り上げるのはなお悪い。

そしてそれは、偏に水野冴子が忙しい人間だからであって、冷たい人間
だからではないのだが、そんな微妙な呼吸を、視聴者がいきなり気附け
るものではない。水野冴子の登場場面がこのような場面設定に基づいて
いるために、視聴者は水野冴子に対して好感情を持つことができない。

冷たく、無理解で、一方的な圧し附けを強要する人として、水野亜美の
母親は視聴者に印象附けられる。視聴者の切なる願いは、残酷なかたち
で裏切られたのだ。やはり、母親がこういう人だからこそ、亜美ちゃん
はこういう辛い生き方を強いられてきたのだ。こういう人を一筋に慕う
亜美ちゃんはなんと可哀想な娘であることか。

しかし、その母親が別れに際して娘を振り返り、「ドクターになるんで
しょ、ママと亜美の夢だもんね
」と微笑みつつ光のなかに吸い込まれる
描写が附されることで、こうした距離や無理解が決して冷たいものでは
なく、お互いを想い合いながら共に過ごす時間を持てない母子が交わし
た約束、そのための過渡的なすれ違いにすぎないことが保証される。

亜美ちゃんにとって母親は光に包まれた憧れの存在であり、その母親の
後を慕ってドクターへの道を進むことが、母子の間で共有されている夢
なのである。ママのような素晴らしいドクターになること、娘が自分を
誇りに想い自分を目指してくれること、こうしたイメージを共有するこ
とで、細やかな理解や通い合いを許されない母子はお互いを想い合って
いる。

模試で立派な成績を残すこと、勉強に集中すること、これを願うことは
型通りの教育ママの圧し附けなのではなく、二人の間で共有されている
たいせつな夢、たいせつな約束を応援する母親の思い遣りなのである。
亜美ちゃんにとって光り輝いて見える憧れの人、このような人が冷たい
俗物でなどあろうはずがない。

水野冴子の初登場場面は、「事件編」「発端編」としての本エピソード
の性格上、周到にトリッキーな計算が施されている。「解決編」である
Act.34の結末から遡って解釈するならば、この場面で描かれているのは
水野冴子の人物像ではなく、端的なかたちに抽象された水野母子の抱え
る問題像の呈示である。

仕事が忙しく時間のとれない母親が、どのようなプロセスによって娘と
の間に距離をつくっていったのか、その典型を端的なかたちで抽出して
いるのがこの場面なのである。母親にも娘にも相応の理がある。その理
をぶつけ合うことでわかり合うことも可能だろう。だが、この母子の間
には、決定的に時間が足りない。そんなすれ違いを、コンパクトに凝縮
して見せたのがこの場面なのだ。

さらには、初登場の場面をこのようなものとすることで、視聴者に水野
冴子を「悪い母親」と印象附けている。これは見せかけの紅い鰊に過ぎ
ないのだが、「悪い母親」の「一方的な圧し附け」が今回のエピソード
の課題をつくっており、「解決編」に当たるAct.34において水野冴子の
真の人物像を呈示し、母子の間の相互理解によって和解が為されるとい
う落とし所を用意することで、この最初のミスディレクションが劇的な
仕掛けとして効いてくる。

この冷たい会話によって不安を掻き立てられた視聴者は、もっともっと
水野冴子のことを識りたいと欲する。この、冷たい、無理解な人物であ
るという印象が、何かの間違いであることが明かされることを性急に欲
する。あるいは、気の短い視聴者なら、水野冴子がその間違った考え方
に基づいてこれまで娘に強いてきた辛い想いの酬いを早急に受けること
を望む。

だが、今回のエピソードでは、それ以上水野冴子の内面が描かれること
はなく、視聴者の抱くそんな欲求の解消は次回に持ち越される。転校先
の面接を受けるため、娘を待つ無言の姿が映し出されるだけである。

そして、亜美ちゃんにとって母親と過ごす時間は何にも代え難いたいせ
つなものであるはずなのに、本エピソードのラストにおいて亜美ちゃん
は母親との約束をすっぽかし、子どものようにその場を逃げ去る。

友と母親との板挟みに悩みながらも、母親が自分のためを想って勧めて
くれた転校話を断れない。断れなかった以上、母親の希望に添って転校
することは、二人の間の大事な「約束」であったはずだ。その約束を、
どうしても亜美ちゃんは履行することができない。かといって、こんな
ディレンマを自身の力で解決することもできない。

亜美ちゃんは、大好きなママを置き去りにして「子どものように」その
場を逃げ出すのである。この場面において「無力な子ども」として描か
れている亜美ちゃんの哀しみは、視聴者の胸をエモーショナルに締め附
ける。ある意味、これまで描かれてきた亜美ちゃんの物語の本丸は、こ
の母親との直接対決であるはずなのだ。

亜美ちゃんに纏わるすべての出発点がこの母親であり、すべての終着点
がこの母親なのである。その母親との直接対決を描くこの二話において
「発端編」に当たる本エピソードのラストで、亜美ちゃんは母親の前の
「無力な子ども」としての姿をオレたちの前にさらけ出す。

これまで、この母親のいない場所で演じられてきた水野亜美物語をつぶ
さに視てきたオレたちにとって、その姿は特別な感慨をもたらす。亜美
ちゃんは今、すべての出発点にいるのだし、すべての終着の直前にいる
のである。

この母親ときちんと向かい合わない限り、水野亜美の物語に円満な解決
は訪れない。そしてその解決は、目睫の間に控えているのである。

さて、オレは先ほど、「亜美ちゃんの不全に纏わる問題は、すべてこの
母親に責任がある」と断定した。あえて附言するなら、これは当たり前
のことを再確認したに過ぎない。

親子の間の事柄については、親の側に一方的な責任がある。これは以前
触れたような「絶対的な責任関係」というものだ。親が子に対してある
程度横暴な権力を揮ってもかまわないのは、親が子に対して責任を持つ
のであって、その逆では決してないからだ。

人と人の間の事柄では、責任を負う人間に決定権がある。親子関係とい
う特殊な人間関係においては、絶対的に親の側に責任が問われるのであ
るから、最終的な決定権は親の側にあるのである。

さらに言うなら、これは親が子に対してイノセントな関係など成立しな
いということでもある。限界のある人間のすることであり、人間と人間
の間の事柄が相対的な妥当性という尺度でもって事の良否を量るしかな
いものである以上、親が子に対して行う事柄には、必ず誤りがあるはず
なのだ。そして、親という存在は、自分が子に対して行った誤りの責任
を常に意識せざるを得ない立場にある。

つまり、子に対して完璧に正当な親というものは存在しない。親は、子
に対して常に疚しさを覚える存在である。それもやはり、以前指摘した
通り、責任関係と責任能力の間には絶対的な不整合があるからである。

では、水野冴子の場合にはどうだったのだろうか?

これはあえて言うまでもない。水野亜美という少女が人としての深甚な
不全を抱えていた以上、水野冴子のものの考え方の是非がどうあれ、結
果として絶対的に誤っていたのである。

親が子に対して課せられる一方的な責任は、企図の良否において問われ
るのではない、あくまで結果において問い直されるのだから。

ならば、水野冴子はどこで誤ったのか、これを考えてみよう。

まず、水野母子の間には、決定的に「時間がない」。これは現在の水野
家がおそらく母子家庭であるからではないのではないか。もちろん、女
手一つで子を育てるには、経済的な基盤が必要である。普通一般でも、
母子家庭では母親が働いて生活の糧を得ているのだから、専業主婦より
も子どもとの時間がとれないのは仕方がない。

しかし、水野冴子の場合は経済的な理由だけで働いているのではない。
彼女は有名な医師であり、自分の仕事にやり甲斐と使命感をもっている
ことは明らかだ。それはつまり、水野冴子にとって、医師として忙しく
立ち働くことは自己実現の手段であるということだ。

娘との時間をたいせつに思い、経済的に自立するだけなら、もっと暇な
病院に勤務することも可能だろう。あるいは、経済的には普通一般の医
師よりも恵まれているのだから、自身で開業して仕事量をコントロール
するという選択肢もあるだろう。

しかし彼女は、自身の能力や業績によって救われるはずの命を抛って、
娘との時間を選ぶことができないタイプの人間なのである。自身に課せ
られた使命や、それを達成することによる充実感、こうした社会的価値
に敏感な人間なのである。

ならば、有能な医師としての自己像と母親としての自己像のギャップを
現実的な手段によって調停する必要がある。それこそが、亜美ちゃんと
母親の間で交わされるホワイトボードの会話、突き詰めていえば「ルー
ル」の存在である。

二人の間には秘密をつくらない。何でも話す。話せないときは伝言板に
書く。これが水野母子の間の「ルール」であると水野冴子は言う。

一見してこれは有効で進歩的な手法であるかに見えるが、オレは現実的
な欠落を、ルールとコミュニケーションによって解消しようという発想
自体に危うげなものを感じる。

一口で言って、こういう発想は「ニューファミリー・エイジ」に特有の
傾向だろうと思う。ルールで律する。話し合いで解決する。これは親が
子に一定の人格を認め、一定の責任を問うやり方である。ニューファミ
リーという考え方においては、親と子が名前で呼び合ったり、親子の間
の問題を対等なディスカッションによって解決しようとする。

親子という理不尽で暴力的な関係を、理によって調停しよう、親と子が
対等の人間同士として相対しよう、こういう考え方が基本理念である。

しかし、前述したようにオレの考え方では、親子の関係は理不尽なまで
に一方的であり、責任関係と責任能力は絶対的に整合していない。親が
子に一定の人格と責任を認めるというのは、極限すれば、こうした関係
の理不尽さに対する忌避感から発した「逃げ」であると思う。親と子は
年齢的にも血縁的にも法的にも絶対的に対等ではあり得ないのだから。

自己責任と約束に基盤を置くということは、つまり子どもに対して約束
と責任において、大人のように振る舞えと強要することである。約束も
責任も人を束縛するものであり、心のなかでどう思ったとしても、その
責任を果たすためにどんな困難があったとしても、それを抑えて約束を
履行せよと迫るやり方である。

大人同士の間の社会的な関係であるなら、それも必要不可欠な約束事で
ある。だが親子関係という一方的で理不尽な関係性において、心のなか
で思ったことや、責任を果たすための困難をなおざりにして、親と子が
真に理解し合えたと言えるだろうか。

違う。

親と子の関係においては、社会の要請するルールや約束事、それを履行
するためにこぼれ落ちる、想いや痛みをこそコミュニケートすべきだ。
子がその想いや痛みを圧殺して、責任ある個人として対等に親に伝える
ことなどその虚ろな残滓であるに過ぎない。

家庭のなかにルールと責任を持ち込むのは、親子という未分化で野蛮な
関係性を、「個人」という近代的な概念のなかに封じ込めてしまおうと
するまやかしに過ぎないのだ。

亜美ちゃんが母親に対して言いたいことを言えなくなったのは、ルール
がそれを禁ずるからだ。秘密をつくらない。何でも話す。そのルールを
遵守することが辛い局面が、子どもの現実には必ずある。子どもたちは
それをこそ親たちに伝えたいのであって、対等な個人として自己主張を
したいのではない。

ルールとコミュニケーションで時間の欠落を補おうとするとき、ルール
がルールである以上、子どもの弱い心を圧殺してしまう場面が必ず出来
するのだ。水野冴子が一人の対等な人間として亜美ちゃんを認めたから
こそ、亜美ちゃんは幼児ならだれでも抱いて然るべき甘えやわがままを
自己責任において圧殺せねばならなかったのだ。

それは、子どもが子どもであるうちは理不尽なことである。親が親とし
て感じる親子関係の理不尽さを忌避するために、大人の視点から公平な
ルールを設定することは、実は子どもに対して絶対的に理不尽な行為な
のである。なによりそれは、大人が設定したルールであり、子どもが望
んだことではないのだから、野蛮な圧し附けであることに代わりはない
のだ。すでにして自家撞着しているのである。

理知的で有能な職業人である水野冴子は、子どもに対して公正であろう
として逆に理不尽な親子関係を構築してしまった。簡単に言ってしまえ
ば、水野家の悲劇はこういうニューファミリーのスケッチにスッポリと
納まってしまう。

さらに言えば、水野冴子が常に娘のことを気に懸けているというのは、
言葉のあやであるに過ぎない。有能な職業人なら、職務中は仕事のこと
しか考えていないものである。職務に没頭している間の水野冴子が亜美
ちゃんのことを常に考えていると想像するのは馬鹿げている。彼女は、
おそらく職務中は職務対象のことしか考えていない。忙しい有能な職業
人である以上、水野冴子は一日に精々二、三分くらいしか娘のことを想
い出さないのだ。

そしてそれは、理不尽窮まりないことに、彼女にとって「疚しいこと」
なのである。四六時中娘のことを気に懸けてやれないダメな母親として
彼女は「疚しさ」を感じているはずなのである。

娘に公正に接したいと望む欲求は、こうした疚しさを動機にもっている
のだろう。ダメな母親としての疚しさが耐え得ないものであるからこそ
せめて公正な親でありたいと望むのだ。

社会的に尊敬される職業人であることと、人の子の母親であることを両
立するなら、こうした疚しさを逃れることはできない。

しかし、窮めて頭の良い人間である水野冴子は、こんな理不尽な疚しさ
と折り合いを附ける術を見出してしまった。ほんの無力な子どもにすぎ
ない娘に、自由と責任を負わせることによって。

亜美ちゃんが母親に逆らわないのは、母親に強圧されたからではない、
自身の「自由と責任」において、母親の気持ちを理解し労るからこそ、
逆らえなくなってしまったのだ。自らの途を自らの才能と努力によって
伐り拓いてきた水野冴子という成人女性にとって、これは比類なく公正
な関係である。

だが、本当にこれが彼女の「ダメな母親」としての疚しさを贖ってくれ
ていたのだろうか。

それもまた違うだろう。こういう自己欺瞞の機序は、愚かで鈍感な人間
にしか通用しないが、彼女はそのどちらでもない。この「公正な親子関
係」において、亜美ちゃんの想いや痛みが常にこぼれ落ちてしまってい
たように、母親の側の已むに已まれぬ疚しさと慈愛もまたこぼれ落ちて
しまっていたはずだ。

次回の「解決編」において語られるのは、こうしてこぼれ落ちてきた、
母と子の想いと想いがようやく巡り会う奇跡についての物語であるはず
である。

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