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Act.33-3 娘とその父親

一方、レイちゃんと父親の断絶は、距離がもたらしたすれ違いによるも
のではない。水野親子の場合には、お互いを想い合いながら、共有する
時間の絶対的不足のゆえの無理解が問題の中心となっていた。しかし、
火野親子の場合は、接近する父親を娘が拒むという形で断絶が設けられ
ており、それが父親と在りし日の母親との関係の問題と関連附けられて
いる。

レイちゃんと火野隆司の間の断絶に関しては、終始父親のレイちゃんに
対する接近が描かれており、レイちゃんがそれを拒む形で、断絶が形成
されている。それは父親が赦せないからだということになっている。

この問題はAct. 8の段階では、未だ具体的な関係性の問題としては立ち
現れていなかった。大分前の話になるので、念のため、その部分を少し
引用しよう。

レイちゃんは、その異能を疎まれて父親に棄てられた子どもではあるの
だが、父親の愛情を求めるゆえに苦悩しているのではない。これを額面
どおりに取っていいかどうかはさておくとして、レイちゃんが父親につ
いて抱いている感情は、現時点では、その冷酷さと偽善、身勝手さに対
する憤りであるかに見える。

(中略)

父親に棄てられたことは自身の異能を見詰める契機にすぎず、異能ゆえ
の迫害ということでは、周囲の人間と父親は同列である。彼女にとって
父親にまつわる問題というのは、「親子ごっこ」や「理想の親子」を演
じる偽善性、そして母の臨終を看取らなかった冷酷さであって、あえて
父親との関係性でいえば、血に繋がる父親に対する軽蔑それ自体と、血
縁の逃れ難さそのものが課題の中心だ。

しかし、今回の成り行きを視る限り、やはりレイちゃんと父親の間に横
たわるのは棄児の孤独の問題だった。そしてそれは表面上、取り返しの
附かない過去の事件についてのイントレランスの問題、それを逆に謂う
ならば「赦し」の問題の体裁をとっている。

レイちゃんが唯一の肉親である父親を憎んでいるのは、レイちゃん自身
の言によれば、母親「と」自分を棄てたからであるということになって
いる。母親の臨終に駆け附けなかった父親の冷酷さが赦せない、母親を
孤独な死に追いやった父親が赦せない。このように、レイちゃんが亡き
母親に代わって父親の非を鳴らすかたちで断絶が設けられている。

レイちゃんが主張する恨みとは、飽くまで母親のものであって、自身の
ものではない。父親と母親の不幸な関係に関して、不当な冷遇を受けた
被害者である母親を擁護する者として自身を位置附けている。

普通一般の「親子もの」のセオリーでいうならば、これは半分真実で、
半分嘘だ。父母の直接的関係性に対して、子がとやかく言うべき筋合い
などはない。夫婦の間のことは夫婦にしかわからない。たとえその子で
あったとしても、夫婦の間の真実の関係性を当人以上に深く理解し得る
ものではない。

子が父母に対して主張できるのは、父母の直接的関係性に接して子たる
自分が如何なる被害を蒙ったか、如何なる悪影響を受けたか、このこと
でしかない。

だとすれば、レイちゃんの父親に対する恨みや憎しみは、すでに出発点
からして筋違いのものである、もしくは、自己欺瞞がある。この問題の
解決が父殺しの悲劇を回避してもたらされるのだとすれば、この問題が
どのように決着するかは、問題が提起された瞬間からすでに決まってい
るのである。

ここでは仮にその問題像の類型を、「山岡雄山型モデル」と呼ぶこと
にしよう(木亥火暴!!)。

劇画「美味しんぼ」の読者なら、母親を巡る山岡と雄山の葛藤が結局は
如何なる形に収束したか、その間の事情は御存知だろう。山岡士郎の母
に対する執着は、母に対して一見峻烈を窮める雄山の態度を誤解させ、
自分こそが母親の唯一の庇護者であり、父である雄山を母子共通の敵と
認識することで、士郎は自身のマザーコンプレックスを肥大させた。

精神分析の手法に頼らずとも、士郎が母親への幼児的な独占欲や、その
母親の伴侶たる父親に抱く憎しみを、「父による母の迫害」という幻想
を育てることで正当化していた筋道は明らかだろう。

父親である雄山は士郎にとって厳父であり、対するに母親は幻想のなか
で母性の権化として女神の位置にまで高められた。父親に対する劣等感
と母親に対する独占的愛情、こうしたフロイト的構図において、父親へ
の憎しみを正当化し母親を独占し得るストーリーにしがみ附く。

これは非常にティピシャルなマザーコンプレックスの類型である。

このタイプの迷妄は、子が一人の人間として成長し、母親への幼児的な
独占欲を脱却し、父親への劣等感を克服し、自分と対等な一人の男と女
として客観的に父母を見つめることでしか払拭できない。男女としての
父母の円満な関係を見つめ直すことで、父子の葛藤は和解へと導かれる
のである。

山岡士郎と海原雄山の場合、和解へ一歩を踏み出すそのきっかけとなっ
たのは、士郎と栗田ゆう子の結婚であった。一人の女性との結婚がきっ
かけとなって、士郎にも雄山を対等の人間として認識し、ゆう子に対す
る感情から雄山の母に対する感情を類推することができるようになるの
かもしれない。

これを非常に平凡な言い方でいえば、結婚によって士郎が一人前の男と
なったということだな。子が人の子であるうちは、なかなか親の世代の
感覚は実感できない。結婚や出産という人生の一大イベントは、月並み
な言い方になるが、たしかに人を育てるのである。

さて、話をレイちゃんに戻そう。ここまでの説明で、レイちゃんと火野
隆司の関係において、「山岡・雄山型モデル」のバリエーションが視ら
れることはおわかりいただけるだろう。

ただし、士郎と雄山の場合とは違い、レイちゃんの場合にはレイちゃん
という女性が士郎の位置附けになるということだ。フロイティズムは男
児をモデルにとる傾向があるが、これは修正フロイティズムにおいて、
女児にアダプトする試論がさまざま試みられている。

まあ、そんな高踏に構える必要もなく、この場合の修正要項は明らかだ
ろう。レイちゃんの場合には、士郎が母親を欲したように独占的に父親
を欲しているのであり、父親の独占を妨げる母親はすでに病死している
のであるから、憎しみの対象にならないのである。

しかし、士郎の場合と同じように、火野隆司と火野リサは真実愛し合っ
ていたのであり、そこから弾き出されているのは娘である火野レイ一人
だったのである。大人の男女として伴侶と愛し合っている火野リサが、
火野隆司と離れて暮らしていてもその心が満たされていたのに対し、父
親と男女として愛し合うわけにいかない娘は、その不在によって棄児の
孤独を覚えざるを得ない。

火野隆司と離れて暮らしているという状況は同じでも、本質的に火野リ
サと火野レイは同床異夢なのである。それはレイちゃんにも無意識裡に
わかっていることであり、だからこそ「母親は孤独のうちに惨めに死ん
だ」という幻想に執着するのである。

自分を置き去りにしておいて、母親だけが父親と心を通わせていたとい
う事実が許せない。レイちゃんの父親に対する憎しみは、窮極するとこ
ろ、母親とたしかな絆を結んで愛し合いながら、自分を愛さずに棄てた
一人の男に対する憎しみである。同じ一人の男を愛しながら、愛されな
かった、選ばれなかったほうの女の抱く憎しみである。

その背景には、無意識裡における、「父親を巡る母親との争い」という
構図がある。こうした構図が横たわる以上、母親の死後になって、父親
がいくら衷心から娘を求めようとも、その愛を受け容れるわけにはいか
ないのである。剰え火野隆司は、火野リサの訃報に接して、レイちゃん
を身近に引き取るどころか、関係性の定かではない神社に預けるという
冷酷の挙に出る。

これによってレイちゃんは、父親から二重に棄てられたのであり、それ
が母親の死によってもたらされた遺棄であるゆえに、さらに二重に父母
の間の愛情に基づく関係性から弾き出されてしまった。

レイちゃんが父親にぶつけている恨み言は、言うまでもなく自分一身に
纏わるものである。「可哀想」なのも「惨め」なのも、母親ではなく、
レイちゃん自身だ。父親が臨終に駆け附けなかったことで淋しかったの
は母親ではなくレイちゃん自身だった。

淋しさを共有する仲間であり、自身のただ一人の庇護者である母親が死
んだことで、無力な一人の幼女に過ぎないレイちゃん自身が、耐え難い
心細さを覚えたのである。

ここでオレたちは、火野リサが臨終に際して娘へ差し伸ばした手、その
左手の薬指に光る結婚指輪を想い出す必要がある。医療に詳しい知人に
聞いたところ、集中治療室ではいっさい装身具の類を身に着けさせない
ものだということである。

高圧電流を使うこともあるし、免疫力の弱っている患者にとっては、装
身具に付着した雑菌が危険だからということらしいが、それでもあえて
この場面で火野リサの指に光る結婚指輪を強調しているのである。

これを物語の嘘と解釈して火野夫妻の間の愛情の単なる強調ととるのも
いいし、あえて臨終の床において特例的に指輪を身に着けさせてもらっ
たと視るのでもいいだろう。

肝心なことは、火野リサの死はレイちゃんが思い込んでいるようなもの
ではなかったという目配せである。「ママはパパに棄てられて、淋しく
惨めに死んだ」というのは、レイちゃんにだけ都合の好いフィクション
なのである。剥き出しの真実としては、「パパとママは離れていても愛
し合っていて幸せだったけど、私は愛されていなくて淋しかった。ママ
が死んだ途端に愛されていない私は棄てられた」ということだ。

つまり、レイちゃんの父親に対する憎しみは、存外、クイン・ベリルが
エンディミオンに抱く感情と類縁のものなのである。

断っておくが、オレはこれがレイちゃんの心の真実だと主張しているの
ではない。精神分析一般がそうであるように、これは深層心理に内在す
る問題の構造モデルであるということだ。深層心理の事柄を、表層意識
のレベルの問題と混同してはいけない。

精神分析のアプローチにおいては、男児は母親の恋人であり父親の敵対
者であり、女児はその逆と考えるのだということであって、それが表層
レベルに表出する場面においては、母子相姦、父子相姦というほどには
生々しい具体性を伴っていないものなのである。

だから、レイちゃんと父親の問題を最大限簡潔に集約すれば、「愛して
ほしいときに愛してもらえなかった憎しみ」という簡単な言葉になる。
それが母親の代弁者という体裁をとっていたり、父親の弾劾という形式
になっていたりする、その間の深層心理内の機序がこのようなものだと
いうことだ。

そして、愛されずに棄てられた無力な一人の幼女だったレイちゃんは、
母の愛情が疑い得ないものであった亜美ちゃんとは違って、愛されずに
一人でいることを大前提とした生き方を選んだのである。

他者と戦い抜く強さ、人との間の一線を超えない節度、こうしたものは
愛されずに棄てられた少女が、この現状を大前提として生きていくため
に選んだ生き方であったはずだ。

そしてオレたち年寄りの特ヲタは、こういう類型の少女がどのようなも
のであるべきなのかをよく識っているはずだ。スケバン刑事シリーズ
はじめとする、早見裕司のいわく「少女ヒーロー」たちがそれである。

この「少女ヒーロー」というタームを一口で説明するなら、「少女であ
りながら、成人男児としての義侠を原理として行動するヒーロー」のこ
とである。その裏には、腐りきった現代においては、自身は性を超越し
ながら性的な魅力を強烈に具える少女という非凡な存在のみが、純粋な
義侠を体現し得るというパラドックスが提示されている。

スケバン刑事シリーズを例にとれば、その主人公である歴代の麻宮サキ
は、過酷な出生の秘密を抱え、超人的な戦闘能力を持ち、義侠に溢れた
言動で腐りきった大人たちはおろか同世代の少年少女をも一喝する、緊
張感に満ちたヒーローである。そういう意味で、少女ヒーローは同世代
の少年少女の日常とは断絶した非凡な存在であり、非凡なヒーローとし
て強さと峻厳な優しさを体現する異人である。

少女ヒーローという意味では、セーラー戦士たちはみな少女ヒーローで
あるが、現代の少女の具えるアクチュアリティをかなり色濃く強調され
ている。ある意味、セーラー戦士たちは、現代人としての平凡さを強調
して描かれている、現代的な少女ヒーローなのだ。

しかし、そのなかで最も旧来の少女ヒーローと類縁の立ち位置にあるの
は、火野レイと愛野美奈子であるとオレは感じていた。

京極夏彦ではないが、異人たる者は、その過去として強力なネガティブ
要素を抱えていなければならない。麻宮サキたちの母親や出生の秘密、
これはシャレにならないくらい強力なネガティブ要素である。死刑囚の
母親がいたり、子どもの頃から鉄仮面に素顔を隠して十と七歳とか、ま
あ普通一般の少年少女には想像も附かないような過酷な過去があったり
するもんである(笑)。

そういう意味では、冷酷な権力者の父親に幼時に棄てられたレイちゃん
と死病を抱え命を削りながら戦う美奈子、こうした強力なネガティブ要
素を抱えているこの二人だけは、スケバン刑事の血統に連なる少女ヒー
ローの資質を持つと考えていた。

オレが最前「レイちゃんとパパの筋立てはかなり問題を含んでいる」と
指摘したのは、そういう思惑からなのだ。今回のこの筋立てにおいて、
オレは決定的な失敗が演じられたと思っている。最終回までをこの目で
視たオレには、ここで失敗したために火野レイという人物は、この先に
用意されている峻厳なドラマを演じるに当たって、間違った迂路を辿っ
てしまったのだと考えている。

北川景子個人のファンである火星人の立場として、こういうことを言わ
ねばならないのは甚だ残念なのだが、それはやはり北川景子という女優
の演技にすべての原因があったのだと思う。

最終回から遡って判断するなら、残念ながら北川景子の演技設計…その
表現が、駆け出しの新人女優に対して重すぎるというのであれば、火野
レイという人物に対する役柄解釈、これは完全に間違っていたと判断せ
ざるを得ないだろう。

終盤における火野レイ像があれほど迷走した裏には、それを演ずる北川
景子の役柄解釈に決定的な齟齬があったと視るしかない。小林靖子とい
う書き手は、最初に自らが机上で措定した人物像を、実在の演技者が演
ずることによって蒙る変質、これをたいせつにする書き手である。

このような姿勢あればこそ、遠藤嘉人演ずるゾイサイトがあれだけ魅力
的なロールに化けたのであるし、シリーズ構成者にして全話脚本担当者
にとって有意な姿勢であるとは認めるが、それがいつでもポジティブな
方向にのみ働くとは限らない。

北川景子がこのようなものとして火野レイを演じたからこそ、小林靖子
はその解釈と北川個人の資質に寄り添う形で火野レイという人物を変質
させていった。それは、オレの視点では残念な失敗である。

北川景子にはAct.10において鈴村監督の演出を拒み「レイちゃんのこと
は自分がいちばんよくわかっているから」と自身の解釈を通したという
逸話があった。たしかに、その時点において、すでに北川はAct. 3から
算えて二カ月分相当の収録を経験しており、まったく初参加の鈴村監督
よりも、役柄の理解は深かったといえるだろう。

しかし、おそらくその時点におけるレイちゃん像というのは、クールな
言動で内面の情動を容易に明かさないキャラクターであり、役柄を掴む
ということは即ち「ハードボイルド」な感覚を身に着けるということで
あったと考える。

ここで謂う「ハードボイルド」というのは、内藤陳のアレではなく(笑)
文学概念上のそれのことである。おそらくそれをいちばん端的に表す例
としては、先に名前の出たオレの個人的な友人である早見裕司がシリー
ズ構成・脚本を担当した、テレビアニメ版「吸血姫美夕」における主人
公美夕の描き方が挙げられるだろう。

このアニメにおいては、美夕の内面はほとんど…いやいっさい表立って
描かれることはない。そのセリフの意味すらも明確でない場合が多い。

セリフを書いた当人の早見に訊ねても「美夕の考えてることが、オレに
なんか理解できるわけないじゃないですか
」という薄らとぼけた返事し
か返ってこないところを視ると、脚本を書いた当の本人からして、具体
的な意味を考えていなかったということになる(木亥火暴!!)。

悪い言い方をすれば投げっぱなしジャーマンな描写だが(木亥火暴!!)、
これを一口で謂うならば「ハードボイルド」だというのがオレの考え方
である。それが「ハードボイルド」である以上、意味の次元の整合性を
超え、そのセリフが美夕の言葉としてリアルに感じられるか否かという
一種のリアリティに関する直観の問題がプライオリティとなるのだ。

文学概念上の「ハードボイルド」とは、外面についての第三者視点にお
ける客観描写に徹することで内面をも描き、万人が共有可能な文芸上の
具体的リアリティを獲得するための叙述手法である。その前提において
は、ある特定人物に関する描写で外面の描写上のリアリティに連続性が
確保されているのであれば、それに基づいて受け手の側が内面の連続性
を類推すべきなのである。

ここで話を北川とセラムンに戻すなら、北川景子演ずる火野レイの内面
が、具体的なセリフによって説明されていないとしても、その外面描写
に一人の物語内人物としての一貫性が獲得されているのであれば、それ
をこそ足掛かりにして内面を類推すればよいということになる。

その意味では、初期話数における北川レイちゃんは、そんなに間違った
演じ方をされているとは思えなかった。たかまる初ローテの小腰を屈め
て逃げる体たらく
竹光初ローテの小娘の口喧嘩については、各々の演
出者の不慣れということもあるだろうから、その限りではないが(笑)。

元々北川景子は芝居が臭い嫌いはあったが、日頃クールなレイちゃんが
内心に秘めた激情を爆発させる、というシークェンスにおいては、左程
間違った演技プランとも思えなかった。たとえばAct.16における大爆発
Act.28クライマックスの演技だって、臭かったといえば臭かったが、
日頃のクールさが確保されておればこそ、そのバランスのうえでは北川
の力み返った大芝居もそれほど浮いたものには見えなかった。

ハードボイルドという流れでいえば、具体的なセリフによって押さえら
れていない火野レイの内面、演出者と役者に委ねられた外面描写、それ
が北川景子の大きな表現を好む演技の資質と相俟って、この番組独特の
リアリティと微妙に整合していたように感じられる。

しかし、物語最終盤における火野レイ像は、オレの感覚では「どうして
こうなっちゃったのよ?」と目を覆いたくなるくらい悲惨なものと成り
果ててしまった。なぜか。そのきっかけとなったのが、この舞原ローテ
の二話であったように感じられてならない。

それをもっと具体的に特定するのなら、北川演ずるレイちゃんと、升毅
演ずる火野隆司の、最初の直接対決の場面の演技プランが、まるっきり
間違ったものであったからこそ、これがレイちゃんの本当の姿として、
書き手にも役者にも演出者にも固定されてしまったのではないか、とい
うのがオレの考えだ。

無論、如何にベテラン俳優とはいえ、升毅に責任を問うのは酷だ。彼は
ここまでに描かれた三二話のセラムンの物語を識らない。識らなくても
当然だ。ゲスト俳優を一人呼ぶのに、これまでのバックナンバーを全部
観てから来いというのは非常識だ。せいぜいAct. 8の録画を観ておいて
もらったほうが芝居がしやすいだろう、その程度の話である。

だから、当たり前の話ではあるが、このローテにおける升毅の演技は、
升毅個人の引き出しからの一類型が念頭にあったのだろうし、北川との
掛け合いにおいては、舞原監督の演出を参考に北川景子の芝居に合わせ
ているはずだ。

現状の作品に顕れている北川景子の芝居を舞原賢三が肯定し、その前提
において升毅が演じているからこそ、火野隆司という人物はこのような
人物として固定されているのだ。そして、オレ個人の感覚では火野隆司
の人物像はこの現状でおおむね間違っていない。逆に謂えば、火野隆司
という人物は、この場において娘がどのような言動をとろうとも、この
ようなリアクションをする人物であるということだ。

オレが「升毅に責任はない」というのは、このような人物を演じた升毅
の演技のことではなく、このような人物を演じるに当たって掛け合いの
相手の演技に違和感を感じなかったことをいうのである。

オレが間違っていると感じるのは、火野レイの人物像のほうなのだ。

ここを泣きの芝居で通した北川景子は、所詮素人で所詮子どもなのだか
らともかくとして、玄人で大人のはずの舞原賢三までそれを潔しとした
というのがどうにもわからない。

オレの感覚では、この場面のレイちゃんにこういう芝居をさせるのは、
千慮の一失である。

先に触れた「山岡・雄山型モデル」を前提にすれば、ここでレイちゃん
が泣くのは、自分が辛いから泣くのである。たしかに、これまでのエピ
ソードにおいても、レイちゃんの涙もろい部分は描かれてきたが、それ
は北川景子個人が沢井の演技でもらい泣きをしてしまったというインプ
ロヴィゼーションの部分であったり、他者を思い遣って感窮まる類の涙
である。

自分が辛かった、自分が可哀想だった、自分が惨めだった、このような
感慨の下に流される涙は子どもの涙である。少なくとも、レイちゃんは
激情家であったとしても、子どもではない。過剰に大人として描く必要
はないだろうが、父親の前で拗ねて泣くような類の子どもではない。

視聴者の前で初めてレイちゃんが父親と直接対決をする場面。それは、
物語内において初めてレイちゃんの真情のコアが発露する場面である。
その場面において、現状のようにダダ泣きの芝居を演じることは、火野
レイという人物の真の姿は、父親に棄てられて拗ねて泣いている淋しい
駄々っ子だということになる。レイちゃんの今までの大人びた外面は、
すべて見せかけに過ぎなかったということになる。

事実、今回ローテ以後のレイちゃんを視るに、従来までのクールな義侠
の人という印象は、きれいサッパリ拭い去られている。それは違うだろ
うというのがオレの感じ方だ。たしかにこれまでのレイちゃんの物腰に
は、見せかけや仮面という性格はあったのだろうが、人間の在り方にお
いて、これまでの私は全部嘘だった、本当ではなかったということには
ならないはずである。

しかし、従来の在り方がまったく間違ったものでした、間違いが正され
たので変わりました、という類の人物像の変質は、どうにもこの番組の
リアリティと整合しないと感じられるのだ。だったら、亜美ちゃんは、
Act. 5の直後にでもさっさとなるちゃんと打ち解けて、優等生的な美少
女キャラになれば好かったのだし、あんなに長々引っ張って成長物語を
描く必要はなかったということになりはしまいか。

それは半分本当で半分嘘、くらいが適切なバランスである。好むと好ま
ざるとに関わらず身に着いてしまった生き方のスタイル、それは、火野
レイという人間の連続上の真実の一端ではあるはずだ。たしかに、父親
との直接対決というコアな課題解決を経て、火野レイの本質的な何かが
変質する必要はあっただろう。

しかし、それがこれまでのスタイルの全面的な放棄という短絡的な形と
なるのは、まったく頷けない。それがこのような遺憾窮まる形になって
しまったのは、やはりこの場面で最初から最後まで火野レイがダダ泣き
の芝居で通してしまったからなのだ。

父親の前で火野レイが泣くということ、それはすでにして負けていると
いうことである。これまでの人生において、どんな辛い局面でも泣かず
に立ち向かってきたであろう火野レイが、誰を差し置いてもこの人物に
だけは負けたくないと望むであろう父親の前で、最初から最後まで涙の
訴えを通すこと、自分や母親の辛さを感情的にぶつけること、これは、
オレの感覚ではみっともない負けである。

父親を拒み、周囲と戦い抜くことが、これまでの火野レイを支えてきた
スタイルであるにも関わらず、この場面で泣くということは、すでにし
て自分個人に対する父親の愛を求めており、かつてそれが得られなかっ
た恨み言をぶつけていることが最初からバレてしまっている。

さらには、平手で拍たれて「勝手にママを不幸にするな」と一喝された
瞬間を泣きの頂点に設定する以上、先の「山岡・雄山型モデル」で解釈
するなら、母親の代弁者をもって自認することで辛くも支えてきたプラ
イドが、父母の間のたしかな愛情を見せ附けられることで崩壊し、母親
からも棄てられた孤独に泣いているという見え方になる。

これは、耐え難いまでに惨めな敗北である。

この場面のレイちゃんは、父母から棄てられた過去の辛さに泣いている
一人の幼児であるに過ぎない。この対決を通していちばん視聴者に伝わ
る理とは、父親が一喝した「勝手にママを不幸にするな」の一言であり
レイちゃんの言葉は拗ね坊の思い込みにしか聞こえない。客観的に謂え
ばたしかにそれはそうなのだが、レイちゃんがそう思い込んでいたこと
に何ら理が感じられない見え方になっているのはどうなのだろう。

火野夫婦が真実愛し合っていたかどうかというのは、彼ら当人にしかわ
からないことではあるが、それを逆に謂えば、子を含めて他人がそれを
無前提に真に受ける必要などないということでもある。もっといえば、
火野リサが火野隆司をどう思っていたかなど、火野リサ本人にしかわか
らないことであり、彼女はすでに冷たい土の下で眠っている。

ここを、レイちゃんの主張にも理があるような見え方に演出することも
十分に可能だったはずだ。思い込みとはいえ、レイちゃんにはレイちゃ
んの理があり、父親には父親の理がある、そうした相応の理が、現在の
火野レイと火野隆司という二人の人間をつくっているはずだ。

間違っていたというのなら、火野レイも火野隆司もちょっとずつ間違っ
ていたのであり、それを煎じ詰めれば不幸な行き違いであったとするの
が、この番組なりのリアリティの在り方ではなかったのか。

そういうふうな見え方に演出するのが公平であり「問題提示編」におけ
る描き方として妥当である。それなのに、現状のこの場面は、最初の最
初からネタが割れてしまっている。どう視てもレイちゃんが父親の真情
を誤解していることが対立の要因であることが疑い得ない。これはもう
すでに対決ではあり得ない。

それは、それが大泣きの芝居であるがゆえに、レイちゃん自らが自分の
言葉の理を信じていないかに見えるからであり、さらにいえばそれは、
自らの態度によって自身の来し方を全否定することに等しいからだ。

亜美ちゃんなら、それでいい。亜美ちゃんは、レイちゃんと同じような
孤独に接して、レイちゃんとは違う選択肢を選んだ少女なのだから、無
力な幼女としての正体を暴露することは、一種のイニシエーションの一
環である。

しかし、レイちゃんは違うだろう。闘争か逃走かの場面で、闘争を選ん
だ少女として、この場面では飽くまで対等に父親と対決すべきなのだ。
ここで彼女が父親と泣かずに対等に対決できていれば、彼女は最終盤に
至っても少女ヒーローであり続けられたことだろう。

それがその実、淋しい一人の幼女に過ぎない正体を他ならぬ父親の前に
タメも何もなく無様に晒すのでは、それはもう今までとは違う人物だと
しか言い様がない。ここの芝居場は…いや北川景子個人の演技は、決定
的に間違っている。

それは、たとえば北川景子という実際に火野レイと同年代の特定の少女
にとっては、リアルなことなのかもしれない。「私だったらこんなとき
泣いちゃうだろう」と想像したのかもしれない。しかし、おそらく劇中
の火野レイという人物にとってそれはリアルなことではないのである。

火野レイという人物は、当たり前だが、北川景子という特定の少女が経
験したこともない迫害の来し方を強いられてきた、非凡な少女である。
それを、日常人である自分に引き寄せて解釈するのは筋が違う。

自身の異能を迫害する周囲に対して常に戦闘を挑み、生の感情を表出す
ることを厭い、人と人との間には自ずからなる境界線があると弁えるに
至ったような、歳には非凡な少女の来し方に想いを致すべきなのだ。

それが想像できないのであれば、自分から突き放して演じるべきだった
のだ、過去の少女ヒーローたちがそうであったように。スケバン刑事な
どの少女ヒーローが少女ヒーローたり得たのは、それらの非凡な少女を
演じるのが、ほぼずぶの素人のアイドルだったからなのだというのがオ
レの考えである。

彼女たちは、事務所がとってくる普通の仕事の一つとして、過剰に思い
入れることもなく、下手は下手なりに淡々と役柄を演じた。ある意味、
人生経験の引き出しのない実年齢の少女たちが、非凡な来し方を強いら
れた非凡な少女ヒーローを演じるには、そういうやり方しかないのかも
しれないとさえ思う。

演技経験のない歳若いアイドルが演じる少女ヒーローたちは、当然たど
たどしい挙措動作で、舌足らずなセリフ廻しであり、アクションだって
下手糞だ。そうした未熟な演技が実際の見え方として顕す効果は、一種
の「よそよそしさ」である。

堅い演技に拙いセリフ廻しは、日常の延長としての感情移入を阻むよそ
よそしさを醸し出す。しかもそれを、美貌と少女としての性的魅力だけ
は具えた当代の一流アイドルが演じることで、つくりものめいた異人性
が完成するのだとオレは思う。

だが、セーラームーンにおける演技のリアリティは、かつてのスケバン
刑事とは違う。沢井を牽引力とする生々しいリアリティが演技スタイル
の主流となっており、少女ヒーローとしてのセーラー戦士たちの醸し出
す「平凡さ」の印象は、こうした演技スタイルと密接な関係がある。

こうした演技上のリアリティに関して、我関せずで棒読み演技を通して
いる小松彩夏は、北川景子よりもよっぽど少女ヒーロー然としている。
小松彩夏の演じる芝居には、この番組なりのリアリティがまったくない
が、役柄がヴィーナス・愛野美奈子である限り、結果として有効に働い
ているとオレは思う。

だが、北川景子はそうではない。身近に沢井やハマチという刺激がある
せいかもしれないが、どうも渾身の演技を演じようという欲があるよう
に見える。そのときどきのレイちゃんの心情を、自身に引き寄せて推し
量り、大きく大きく表現しようという力みが窺える。

おそらく北川景子が間違ったのはここなのだと思う。「私だったらこう
する」という想定は、役柄と役者の地が一体不可分の場合には有意であ
るが、その両者に懸隔がある場合は有効ではない。挙措動作としての芝
居に大袈裟な臭みがあるというだけではなく、役柄解釈の方向性に間違
いがあったのだとオレは感じる。

そして、またも最終回から遡っていうならば、レイちゃんと美奈子の対
決の芝居場は、少女ヒーロー同士の頂上決戦であるべきだ。それがどう
にも締まらないものになったのは、北川景子の芝居に「よそよそしさ」
がなくなってしまったからだと思う。

平凡な少女に共感可能な感情を大きく大きく表現するスタイルは、少女
ヒーローとは無縁の方向性である。だが、愛野美奈子が非命に斃れると
いう筋書きを前提としていうなら、愛野美奈子と火野レイだけは平凡な
少女であってはいけなかったのだ。

北川レイちゃんの人物像が大きく揺らいだのがこのローテであることの
傍証となるのは、たとえば父親との対決の芝居場を、まったく別の演技
プランで演じたとしても成立してしまう、ということが挙げられる。

オレたち視聴者は、実際の作品として実現したものしか観られないわけ
だから、ここでレイちゃんが泣いているのが自然に見えるが、たとえば
ここをまったく泣かずに通したらどうだったのか?と考えるのもおもし
ろいだろう。

これが、見事に成立してしまうのだ。

それどころか、現状の芝居では整合しないAct.34の筋立てが、この場面
で泣かないことによって無理なく整合してしまうのだ。亜美ちゃんの例
に倣って、この場面の会話を再録して、順を追って考えてみよう。

警察の世話になったそうだな。

関係ないでしょ。

ある。おまえは私の娘だ。いっしょに来なさい。話を聞く。

話すことなんてないわ。今さら親子だなんて言わないで。私のことを、
神社に預けたのはだれよ。私のことを見捨てたくせに。ママのときだっ
て、(次第に涙声になって)ママを独りにして、いちばんいてほしいと
きにいてあげないで……最低よ。

仕事だ。ママのときも、おまえのことも。何度も言っただろう。

仕事のせいにしないで。どうせ、ママも私も、どうでもよかっただけで
しょう。

もうこの話はいい。おまえはパパといっしょに食事をすれば、それでい
いんだ。

絶対いや。ママだってそう言うわ。パパなんかと結婚して、あんなふう
に死んじゃったママがかわいそう、みじめよ。

(娘を平手で拍つ)勝手にママを不幸にするな。おまえに何がわかる。

(激しく泣きながら)そうしたのはパパよ。(妖魔の気配に)…二度と
来ないで。

あらためて文字で視ると、この場面のセリフの意味性が、少し変わって
感じられることに気附くのではないだろうか。北川の芝居を抜きにして
考えると、言葉のうえでは、実際の芝居よりももっとレイちゃんが自分
の主張を信じているように見える。

火野隆司が主張しているのは、典型的な男の論理である。彼は彼で嘘な
ど言っていないのである。火野リサの臨終に立ち会わなかったことも、
レイちゃんを神社に預けたことも、すべて仕事のせいであったと「何度
」説明しているのである。

それがレイちゃんに通じないのは、レイちゃんが求めている「気持ちの
部分」がスッポリ欠け落ちているからだ。レイちゃんは、火野隆司の公
人としての都合の話はわかったから、その気持ちの部分を答えてほしい
と迫っているのだが、それがまったく父親に通じていない。

火野隆司が感情的になるのは、娘が自分たち夫婦の結婚生活を誹謗した
瞬間だけだ。おそらく、彼自身にも亡き妻に対する後悔はある。真実に
愛し合っていたからといって、死に目を看取らなくてもいいというもの
ではない、それは彼にとって癒えざる悔恨となっている。

それを実の娘にまで非難されるのは耐えられない。

言葉ではなく手が出てしまう部分に、火野隆司という男の不器用な側面
が視てとれる。「もちろんオレはこのうえなくリサを愛していたよ、お
まえのことだっていつも心配してたんだよ、つか、オレは愛してるんだ
よ二人とも、わかってくれよダーリン」と、ペ〜ラペラと歯の浮くよう
な言葉を並べ立てられない木訥な人間だということだな(木亥火暴!!)。

しかし、これでよくまあ、政治家という「雄弁は金」の職業が務まるも
のだと心配してしまうが、要するに火野隆司という人物は木訥でシャイ
な典型的な日本のお父さんという人物像だということだな。

とまれ、このような父親側の真情は、現状の芝居でも十分に表現されて
いると思うのだが、レイちゃんの真情のほうは少しニュアンスが変わっ
てしまっているのではないかと思う。

たとえば、平手拍ちを喰って呟く「そうしたのはパパよ」というセリフ
など、現状の芝居では、「勝手にママを不幸にするな、おまえに何がわ
かる
」という父親の言葉を受けて解釈すると、「おまえに何がわかる=
おまえには何もわかっていない」にウェイトがかかったリアクションに
見える。

「おまえには何もわかっていない」という父親の主張を一旦受け容れた
うえで、「ママが不幸だった」という誤解をするほどにレイちゃんがね
じくれてしまったのは、また、ママの真の気持ちを理解できなかったの
は、父親の冷酷な仕打ちのせいだ、というふうなニュアンスで聞こえは
しないか。

今現在、父親を憎み、その愛情を撥ね附けていること、それ自体がレイ
ちゃんにとっては辛いことなのだ、そういう自分にしてしまったのは、
他ならぬあなたではないか、という響きに聞こえないだろうか。

だが、文字面だけを視る限り、ここでレイちゃんが「そうしたのはパパ
」と言っているのは、「勝手にママを不幸にするな」に対応する言葉
のように感じられる。

つまり、レイちゃんは、「おまえには何もわかっていない」という父親
の言葉に真っ向から反撥し、ママが不幸だったというのは、自分一人の
思い込みなどではなく事実なのだ、自分たちを棄てて生きてきたあなた
にこそ何がわかるのか、と主張しているのではないだろうか。

こうした印象の違いは、何によってもたらされたのか。

それはつまり、この場面で娘が父親に殴られて泣いているからだ。一般
的に、子どもが親に殴られて泣いているのは、叱られているのである。
叱られているということは、子どもが何か大人の基準で間違ったことを
して、親がそれを罰しているのである。

ここの芝居場がこのようなものである以上、どうしようもなくそうした
印象が強力に迫ってきて、セリフそれ自体の意味とは違うニュアンスの
言葉として聞こえてきてしまうのである。

レイちゃんの言葉に理のない印象を覚える理由、母親を不幸にしたこと
で父親を責める言葉の意味が変わって聞こえる理由、それは、この場面
でレイちゃんが泣いているからなのだ。

親の前で子どもが泣いている以上、客観的な見え方として、親のほうが
大人の基準では妥当なことを言っているのだし、子どものほうはダダを
こねているのである。そして子どもがダダをこねる場合、その言葉に理
があるかないかなどは基準にならない。

この場面の芝居において、レイちゃんが最初から最後まで冷静に、抑え
た芝居で通していたらどうだったろうか。そうだったと仮定した場合、
レイちゃんのセリフは、男の論理ですれ違う父親に対する苛立ち、挑発
の言葉としてあらためて活きてくる。

自分を神社に預けたことを「見捨てた」と表現し、母親の臨終に立ち会
わなかったことを「最低」と罵るのは、そのときの父親の気持ちはどう
だったのかを引き出したいからそう言うのである。愛しているというの
なら、どうしてそんな冷酷なことができたのか、それをこそ問うている
のである。

それに対して「仕事だ」と答えるのは、言葉のうえでは間違っていない
が、論点がずれている。妻と娘を愛しながらも、仕事に打ち込まざるを
得なかった若き日の真実の気持ち、辛さ、哀惜、孤独、そして愛、これ
をこそ語るべきだった。

ここがすれ違ったからこそ、レイちゃんの言葉は「どうでもよかったん
でしょう
」と畳みかけるのだ。火野隆司のようなタイプの人間は、態度
に気持ちが顕れない。だからこそ明確な言葉で気持ちを表現すべきなの
だが、さらに悪いことに、こういう人間は気持ちを言葉で表す術を識ら
ないのだ。

もうこの話はいい」となるのは、自分にできないことを求められ、そ
れによって娘が苛立つ悪循環となるから、「パパといっしょに食事をす
る」という結果だけを求めることになるのだ。

しかし、そういう父親の気持ちの見えなさによって娘はさらに苛立つの
だし、苛立ちが頂点に達したからこそ「ママがかわいそう、みじめよ
という侮辱につながるのである。この言葉は、レイちゃんが自分の主張
を確信しているという前提で発せられた、侮辱のための侮辱なのだ。

レイちゃんは父親の現実的な都合を聞いているのではなく、気持ちの部
分が識りたいのである。だがこの父親に何を訊ねても現実的な都合しか
返ってこない。だから、母親を独りで死なせたのも、自分を神社に預け
たのも、「都合」のせいなんでしょうと侮辱しているのだ。

そして平手拍ち。ある意味、レイちゃんが望んだのはこれだ。言葉の前
に出てしまった殴打には、少なくとも気持ちが籠もっている。それだか
ら、この一瞬に泣く必要などはないのである。侮辱は挑発であり、挑発
は暴力によって応じられたのだ。「あんたにだって感情はあるんじゃな
い」くらいの間合いで芝居をするべきだった。

ここで描かれているのは、棄てた父親と棄てられた娘の葛藤であると同
時に、火野リサの立場に立った火野レイの女の論理と、その父親の男の
論理の激突だ。母親本人はそれでかまわなかったのかもしれないが、自
分が母親だったら父親を赦さない。憎しみと同じ激しさで、母親と同じ
強さで、父親を愛しているからこそこの対決はなおざりにはできない、
この一人の棄児の少女は、父親と対決することによって、同じ一人の女
として、母親とも対決しているのである。

そういう緊張が漲っているべきだった。

この場面は、凛とした少女ヒーローとして演じることも、十分に可能な
シーンだったはずであり、逆にそうしないと、この直後の戦闘において
父親の言葉がマーズの脳裏に木霊する理由もハッキリしないのだし、父
親が自分を引き取る意志があることを聞かされて驚くことにも整合しな
いのである。

レイちゃんはあくまで父親のことを、「都合」で動く冷酷な人間だと信
じていたはずなのである。父親を憎み続けるために、子ども騙しの幻想
で自身を欺いているのではなく、自分の味わった辛さと同じくらい母親
の辛さや父親の冷酷さも信じていなければならない。それが疑い得ない
確信であるからこそ父親を憎まざるを得ないのであって、憎しみありき
の自己欺瞞ではないはずなのだ。

だからこそ一瞬の激情に駆られて口走った、妻との愛を仄めかす言葉が
気に懸かるのであり、引き取っていっしょに暮らそうという気持ちに揺
らぐのである。

そして、父親との対決において少女が泣く場合、どうしても父親の善意
をどこかしらで信じていて、その善意に甘える形で暴言を吐くという見
え方になってしまうものだ。それは、殊にレイちゃんのようなタイプの
少女にとって、冷酷であると信じている人間の前でいちばんとりそうも
ない態度であると思う。

棄てられた子どもの甘い自己憐憫の涙、父親の善意をアテにする涙など
お呼びではなかったはずなのだ。そして、こういう機微を十代の少女で
ある北川景子の自発的な読解として期待することには無理がある。

だからこそ、最終的な責任はそれを肯定した舞原賢三にあるとオレは考
える。それと同時に、これを見逃すなと舞原に強いることが酷であるこ
とも十分わかっているつもりだ。

舞原には舞原の判断があったのだろう。オレと舞原は違う人間だから、
オレと同じように舞原が考えるわけではない。オレはオレで、ここで北
川に泣きの芝居を許したことがシリーズ終盤の火野レイ像の揺らぎの大
本であると感じるが、そう感じない人間だっているはずだ。

加えて、これまで舞原賢三は水野亜美物語ばかり描いてきて、美奈子や
レイちゃん主役のエピソードは演出してこなかったという弱みがある。
さらには、方向性が間違っているかどうかはさておくとして、この場面
の北川の芝居が十分に強いものであったことは間違いない。おそらく、
現時点の北川景子から引き出し得る演技としては、これが最高だったの
だろう。

それは、演者である北川景子が、そのような演技をリアルに感じ、それ
以外の演じ方をリアルに感じなかったのだとすれば、いっそ仕方のない
成り行きだったとも言えるだろう。

間違っているベストの演技と、間違っていない次善の演技、このいずれ
を選択するかは、常に悩みどころではあるのだろう。映像作品が人間の
活きる現実を包括的に再構築する文芸である以上、間違っているかどう
かも含めて、考え方の問題であるとさえ言えるのかもしれない。

このローテにおいて、水野亜美物語が奇跡のような円満な着地点を迎え
たのに対して、火野レイの物語が迷走を始めたのは、それはそれで仕方
のない事情であったと思う。

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