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Act.33-4 娘とその父母

二人の少女の問題を個別に視てきたあとは、この二人の問題がどのよう
に対比されるかを視ていこう。

先にも触れたように、今回のエピソードは、亜美ちゃんのストーリーと
レイちゃんのストーリーが、交互にバランス好く描かれている。さらに
ごていねいなことに、エピソードの中盤において、対照的な問題を抱え
る二人の少女は、それぞれの親に対する対応を巡って劇しく衝突する。

しかもこの場面もまた、レイちゃんが自身の思い込みを亜美ちゃんにも
圧し附けたために、亜美ちゃんが珍しく声を荒らげるという形で衝突が
設けられている。

レイちゃんの言う「自分の考えを圧し附けてるだけ」「親なんて勝手
という浅薄な素描は、亜美ちゃんの母親に対しても自分の父親に対して
も公平ではない。これは子どもの論理である。ましてやそれを、他人が
たいせつに想う人に対して粗雑に適用することは不遜の窮みである。

たしかに親は子どもに対して「自分の考えを圧し附け」「勝手」な振る
舞いをするものだ。その限りではレイちゃんの言い分は間違っていない
が、親の気持ちや立場を慮らない一方的な意見である。それはやはり、
親対子という一方的な責任関係において、無責任な子の立場に安住する
見解であり、公平なものの見方ではないのである。

これは、今回のエピソードを一通り観たあとでは、さらに幼児的な印象
が強調されてしまう。それはやはりその直後の火野親子の対決が、レイ
ちゃんの幼児的なダダこねにすぎない印象を与えてしまうからだ。

しかし、本来レイちゃんが「自分の考えを圧し附けてるだけ」「親なん
て勝手なんだから
」と嘯けるのは、彼女がこれまでたった独りで生きて
きたからだ。母親の愛を確信している亜美ちゃんとは違い、レイちゃん
は父親の愛をまったく信じてはいない。彼女の父親とは、公人としての
都合だけで動く、冷酷非情な人間なのである…少なくとも、レイちゃん
にとっては。

そして、レイちゃんは、子どもに圧し附けを行う親というものを、自分
の父親しか識らないのである。愛情のない「圧し附け」を慮る必要など
はないのだし、自分の都合を圧し附けるのは「勝手」なだけである。

そういう意味では、火野隆司が本当にレイちゃんの思うとおりの人間で
あるのなら、レイちゃんの言い分はさほど幼児的なものではない。そし
て世の中にはそういうタイプの人間もたしかに存在するのだし、子が親
を選べない以上、それがこの世の真実であると考える子がいても、「幼
児的」の一言で片附けることはできない。少なくとも公平ではない。

それは、人それぞれが生きる現実の違いでしかない。

しかし、直後のシーンによって、それがレイちゃんの見誤りにすぎない
ことが早々に明かされてしまって、しかもその見誤りには何の理もない
印象になってしまったからこそ、遡ってこの場面のレイちゃんのセリフ
が幼児の戯言にしか聞こえないのだ。

この間の事情は最前語ったばかりなので無用な重複は避けたい。しかし
ある意味、今回のエピソードでレイちゃんに課せられた課題が、父親の
真の姿に気附くことである以上、出発点が彼女の未熟さに基づく誤解と
なるのは避けられないことである。

さらに言うなら、子の未熟な誤解を正すことによって親との和解に至る
という筋道はさほどおもしろいものではないだろう。亜美ちゃんと母親
の物語との対比でいうなら、どうしてもレイちゃんの側の物語は深みを
欠く嫌いが否めないと思う。

だとすれば、母親の気持ちや立場を理解し、それを配慮する亜美ちゃん
の態度は幼児的ではないのだろうか。たしかに、ある意味で亜美ちゃん
は親子関係の観点ではレイちゃんより大人である。それは、最前も視て
きたとおり、水野冴子が自分の娘に、対等な人間としての自由と責任を
与えてしまったからだ。

だが、それをして、レイちゃんより亜美ちゃんのほうが成熟した考え方
を持っているとはいえないだろう。親と子というバランスの破れた関係
において、親が子に対等な一人の人間としての自由と責任を与える場合
には、子の未成熟な部分を常に親が補弼・教導し、子の未熟さからも何
かを学び取りフィードバックする必要がある。教育論的なタームでいえ
ば「学びあい」というやつだ(笑)。

だが、水野親子の場合、親が子のそばにいてやれないという、現実的な
欠落を埋めるためにこういうスタイルが採られている。子が一人の対等
な人間であれば不都合ではないという理由で、こういうスタイルが採ら
れているのだ。それはやはり、いびつなことでしかないのである。

母親を喜ばせたい、期待を裏切りたくないという気持ちを実現するため
に、亜美ちゃんは、己一身の自由と責任において、母親の意見に逆らわ
ないという選択を下した。「何でも話す」「秘密をつくらない」という
約束は、母親の聞きたがる話しかしない、隠さなければならないことは
しないという来し方を強いてきた。

それはつまり、母親の考えを全面的に信頼して受け容れるということで
あり、過ちを犯さないために、最初から何もしないということである。
水野亜美という人物は、まさにそのとおりの人物としてオレたちの前に
現れたはずだ。いかにその動機が真正なものであれ、水野冴子の試みは
結果的に娘に対して成長ではなく歪みをもたらしたのである。

そうした歪みを丹念に解きほぐすプロセスがこれまでの三二話を通じて
語られてきたのであれば、そのような今現在の水野亜美として母親の前
に立つ亜美ちゃんは、これまでの方法論によって母親との関係性を保つ
ことはできない。

かつての亜美ちゃんなら、いかに母親が彼女の現状を誤解していようと
も、その動機の真正さに鑑みて、誤解を正そうともせず転校話を無批判
に受け容れたことだろう。これまで散々論じてきたとおり、亜美ちゃん
は母親にありのままの自分を理解してほしいのではない、自分が母親の
望むとおりの自分であると母親に信じてほしいのである。

しかし、これまでのドラマによってかけがえのない絆を得た今、それを
無惨に断ち切ろうとする母親の意志、自身に対する無理解とは、いずれ
対決せざるを得ないのだ。母親の落胆と友との別離、これを天秤に掛け
ていずれかを選び取り、その判断を揺るぎない自身の意志として母親に
ぶつけなければならない。

これまでは、自分の周りには棄て去って顧みないものしかなかったから
こそ、母親の存在が絶対だったのだから、それと同じくらい大事なもの
ができてしまったのなら、遅かれ早かれ対立は免れないのである。

今回のエピソードで亜美ちゃんに課せられた課題とは、例によって複雑
怪奇なものである。母親との対立それ自体が問題なのではない、母親と
対立すべきなのにしないこと、できないこと、これこそが厳しく問われ
ているのである。

読者諸氏は、こうしたレトリックに既視感を覚えるはずだ。この課題の
構造は、Act.16においてなるちゃんとの間で問われた課題と、類似性を
持っているのだ。水野亜美という一人の少女は、常に「為すべきことが
できない」という不全の型を持っているのだ。

そして、今回のエピソードに至って、彼女の抱えているすべての不全の
マトリックスは、母親との関係性のうちに内在していることが暴露され
たのである。

これまでの水野亜美物語を振り返るなら、今回のエピソードで語られて
いるのは、うさぎに寄せる亜美ちゃんの想いの再話である。未分化な同
性愛的エロスとして出発した亜美ちゃんとうさぎの関係性は、結果的に
母親への想いの転移という形に収束した。

つまり、亜美ちゃんがうさぎとの関係において悩んできた悩みは、その
まま母親に対する想いと母型を一にするのである。亜美ちゃんがうさぎ
に愛されたいと望む限りうさぎの無理解を正す勇気を持てなかったよう
に、母親に愛されたいと一筋に望む亜美ちゃんは、母親の無理解を正す
勇気が持てないのだ。

しかし、亜美ちゃんはかのAct.28においてうさぎと対決し、その問題を
解決したのである。Act.16において、他者恐怖を克服してなるちゃんと
対決し、同じ問題を解決したのである。そしてその嬉しさを、母親にも
伝えたいと望んだのである。

ただ一つ、それら同型の課題と今回の課題が違うのは、相手が唯一絶対
の存在である母親だということだ。うさぎやなるちゃんとは、関係性の
歴史も違えば、その深みや深刻さの度合いも違う。

言い方を換えれば、これまでの水野亜美物語を美しく完結させるために
は、絶対の本丸である母親との関係において、これまでの物語で語られ
てきた成長を糧にして、苛烈な対決を経験する必要があるのである。

この二エピソードが、見かけ上の凡庸さを上回る緊張感を漲らせている
のは、水野亜美物語に限っていえば、これまでの三二話を強烈な稠密さ
で再話しているからだ。水野亜美の来し方をすべて肌身にまざと識って
いる舞原賢三の演出は、寸分の狂いもなくこれまでの物語をコンデンス
し、劇的な結末を用意している。

何度でも繰り返すが、連続テレビドラマという枠組みのなかで水野亜美
物語がこのような美しい終結を迎えたことは、物語作法上の一つの希有
な奇跡である。

この一事をもってしてでも、おそらくオレは死ぬまでこの作品の素晴ら
しさを伝え続けたいと望むだろう。業晒しなマネだとわかってはいても
番組終了の後々までも未練たらしく本稿を書き綴っているのは、オレが
そんな奇跡に魅入られた青頭巾の一人だからだ。

その一方で、今まさに火野レイの物語は決定的な齟齬を迎え、これまで
語られてきた彼女の物語はあらぬ方へと迷走を始める。結果として実現
したものが劇的現実なのだと、オレは常々口にしてきた。しかし、物語
の結末を見届けた同じ目でこのエピソードを振り返る場合、あまりにも
まざまざと眼前に演じられる運命の転換点、それに圧倒されてしまう。

結果として実現されてしまった作品を、「こうであればよかったのに」
と悔やむのは愚かな行為である。物語とは、結果としてそのように語ら
れたものでしかないのだから。しかし、それを識りながら、オレは火野
レイの物語がこの時点で踏み出した一歩の行く手、そのほんのちょっと
した狂いを悔やむ。

真っ赤なハイヒールの爪先がほんの数度を違えた角度を憾む。

それは所詮、愚かなことでしかない。

何かを愛することが愚かな行為でしかないように。

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