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Act.34-1 父母とその娘

自らの親について、何ら屈託なく語れる人は、幸福なのかもしれない。

ましてや、「無力な子ども」でしかない年齢においてそうできる人は、
確実な幸福の一つを手にしている。

子は常に、親の過ちの犠牲者である。親は必ず過つのだし、その過ちが
どんなものであれ、「無力な子ども」に抗う術などはない。親は子に、
どのようなひどいことでもできるのだ。

特段世相に敏感でなくとも、親が子に与え得る不幸のバリエーションが
どんな人間の想像力をも遙かに超えて豊かなものとなっていることは、
だれにも否定できないだろう。

その子は長じて後、あたかもそれが当然の復讐ででもあるかのように、
親を不幸にする。子が親に与え得る不幸のバリエーションもまたどんな
人間の想像力をも遙かに超えて豊かなものとなっている。

人の親たる者にとって子から蒙る不幸が耐え難いのは、それが己の過ち
によるものであると常に意識せざるを得ないからである。どこにも責任
の持って行き場はない。

それは、親という存在が、成熟した人としての自己責任において自らが
生み育てる命に対してすべてを引き受けると肯った存在だからである。
それが血肉を分け与えた我が子であるとはいえ、己一身ならざる一個の
見知らぬ他者に対するすべての責任を負うと肯った存在だからである。

子がもたらす不幸はすべて己の手でこしらえた罪障の酬いである。他者
を不幸にする子もまた不幸なのであり、その不幸をこしらえたのもまた
己の過ちなのである。親から子へ手渡される不幸はこのようにして増大
していく。

この世に満ち盈ちている不幸は、このようにしてつくられるのである。
この現実は、子に対しても親に対しても不条理だ。人の生きる現実は、
かくしてひとしなみに不条理なのである。

親たる者と子たる者が共々に立たされている岸辺から、昏い深淵を覗き
込めば、このような絶望的な不幸の連環が見えてくる。

ひるがえって、そこから果てしない蒼穹を仰ぎ見れば、これらのすべて
が逆転した幸福の姿が見えてくる。人は人との関係を幸福なものとする
力を秘めている。過ちを贖う智慧を持っている。課題を解決する能力を
持っている。昏い深淵に映ずる不幸の連環の、いくつめの環からでも、
やり直すことができるのだ。

そして、幸福という言葉が無前提に快い状態を指すものではなく、苦闘
によって勝ち取られた何かの価値についてのタームである以上、人間は
常に自らの手で幸福を掴むチャンスに恵まれているのである。

「親と子の和解」が文芸の重要なテーマとなっているのは、人の不幸の
大きな部分がこのようにして一方的に親から子へと受け渡されるもので
あり、己一身の責任において生きる人の子たる者は、いつかその不幸の
連環に何らかの決着を附けねばならないからだ。

それは自己救済であり他者救済である。親から受け渡された不幸に打ち
のめされる者は、いつかその不幸を自身の手でだれかに受け渡すことに
なる。概してそれは自分より弱い者に対する加虐の形を採り、親の犠牲
者である子の立場に安住することで、自身の犠牲者を生み出すことをも
意味する。

自らの現状にまつわる責任を引き受けない者は、当然のように、他者に
対する責任などは引き受けない。暴力的で一方的な関係において蒙った
不幸に打ちのめされ、子の立場に安住する者は、自身の置かれた不条理
な状況を自身の責任において生き抜こうとはしない。人の生きる現実の
不条理を己以外の特定のだれかの責任に帰すことで、己の人生を己自身
の責任において引き受けることを放棄する。

さらにいえば、不条理が不条理を生む凶暴な現実の連環のうちにあって
自身の現状の責任主体となることを拒む者は、当然、他者の不条理に対
する責任にも鈍感である。

そのようにして未成熟なまま生きる者は、世に満ち盈ちる夥しい不幸に
ささやかな何かを附け足す者となる。それは絶対の敗者である。不幸に
泣くばかりではなく、自身もまた不幸をもたらす者となること、それは
絶対の敗北である。

人が人によって育てられ人によって生かされる存在である以上、自身の
現状には必ず他のだれかの影響がある。むしろ、他者の影響の下にこそ
自分という存在の現状がある。自身に纏わるそれらすべての状況を、己
一身の責任として引き受けることが不条理ならざるはずはない。しかし
人はこのような不条理な責任を引き受けずして、自身の生を始めること
はできない。

親という存在は、そうした不条理を引き受けたからこそ己に対して絶対
の責任を持っているのである。そういう人がいたからこそ、今の自分と
いう存在が在るのである。

大人になるということは、その理に豁然と気附くことを謂うのだろう。

今現在不幸である子が親を理解することは難しい。それは成熟と未成熟
の問題というよりも責任関係の問題だ。子は自身の不幸を親という他者
の責任に帰すことで辛くも不幸に耐えている。

そこで親の真情や都合を理解してしまったら、自分が何の酌量の余地も
なく、ただ平等な不幸を生きるだけなのであり、だれもがそうしている
とおり、自身の手でその不幸を解消しなければならないという剥き出し
の真実と向き合わざるを得なくなる。

これは「無力な子ども」に能く為し得るところではない。だが、子ども
としての猶予には特定の年限があり、特定の年齢に達したら否応もなく
それまでの貸借関係を清算し、その貸借対照表をセットポイントとして
すべて自分自身の責任において生きていく必要がある。

子ども時代に与えられる猶予期間とは、そうした不条理と戦う力を身に
着けるための時間なのであって、その現状が不条理だから責任を問われ
ないということなのではない。人にとって死が平等に不条理であるのと
同じくらい、生もまた平等に不条理なのであり、それが平等である以上
その不条理を受け容れずしては、人としての生も死も始まらない。

…ここで一応断っておくが、これは実写版美少女戦士セーラームーンと
いう特撮ヒーロー番組についてのレビューの文章である(木亥火暴!!)。
その冒頭に、このような坊主の法話じみた抹香臭い説教を掲げた意味に
ついては、論を進めるうちに理解していただけることだろう。

さて、前回のAct.33が「事件編」「問題提示編」なら、今回のAct.34は
その「解決編」に当たるということは前回も確認した。その「解決編」
を踏まえたうえで、前回提示された問題がどのようなものであったのか
を振り返るのも悪くはないだろう。

前回のエピソードが「問題編」となるのは、一繋がりのエピソードの核
となる課題を提示しているからであり、さらには、そうした課題を出来
させるに至る重要な情報が隠されているからでもある。

ミステリ論の微妙な機微に立ち入るつもりは毛頭ないが、このように、
ある状況を整合的に解釈するために必須の重要な情報が隠蔽されている
ことで生じる課題を、ミステリの見地では「謎」と表現する。そして、
真犯人なり作者なりが読者を騙す目的で仕掛けたミスディレクションの
匠は「トリック」と表現される。

これを大雑把に括れば、情報の隠蔽によって生じる「謎」と、意図的な
詐術である「トリック」が、重層的に読者の知的好奇心を刺激する文芸
ジャンルがミステリだが、一般の文芸ジャンルにおいても「謎」の構築
はリーダビリティを獲得するための重要な手順の一つである。

前回の例でいえば、たとえば水野親子の課題が成立するのは、水野冴子
という人物の真実が隠されているからである。オレたち視聴者は、水野
冴子という人物がいかなる人間で、いかなる想いを抱えているのかを、
未だまったく識らされていない。

その前提のうえで起こった事件は、「母親の無理解によって、水野亜美
が仲間たちから引き離される」という耐え難い悲劇であった。この悲劇
が悲劇たり得るのは、この課題から予想される「水野亜美が仲間たちと
引き離される」という事態が悲劇的だからではない。

これまでオレたちが視てきた水野亜美の成長の物語を、その端緒となる
不全をつくった母親その人が全否定し、長い荊の道程を踏み越えた末に
ようやく掴み獲った仲間たちとの温かい絆を無惨にも断ち切ろうとする
という残酷な状況こそが、胸も潰れぬばかりに悲劇的なのである。

さらに悲劇的なのは、この母親は彼女なりに娘のためを想ってそうする
のであり、自分の圧し附けが愛娘に対していかに残酷な行為であるのか
をまったく認識していないということだ。さらに、それが認識できない
ほどにこの人は己の娘を理解していないのだし、その人に愛されたい、
その人の愛に応えたいという一途な想いそのものが、娘の不幸のすべて
の端緒となったのだという事実である。

愛し愛されている母と娘の間で、それだからこそこのように残酷なすれ
違いが生まれ得るのだという事実の否定し得ない劇的リアリティ、これ
こそが、これまで語られてきた水野亜美物語の感動と迫真性を背景に、
耐え難いまでの悲劇性を醸成するのである。

ある意味で、この二話の結末において、水野亜美の転校が回避されると
いうことは、お約束の範疇の事柄だ。どんな鈍感な視聴者だって、その
くらいのことは予想できるだろう。そして、それが親子の間の無理解が
端緒となっている以上、転校を回避する要件となっているのが水野母子
の相互理解であることもお約束という以上の事柄ではない。

しかし、この二話のエピソードにおいて語られている水野亜美サイドの
物語は、こうした表面上の課題要件の単純さを遙かに超えて受け手の胸
を打つ。それは、前回の「問題提示編」において、隠されている情報が
構成する「謎」が、水野亜美物語全体の根幹を成す大きなものであった
からであって、表面上課されている「転校の強制」という課題を遙かに
超えて、相互理解の課題が重要かつ困難なものとなっているからだ。

それは偏に、水野亜美の母親である水野冴子という人物のリテラシーに
関する問題である。これまで亜美ちゃんが物語の神様に散々苛められ、
その度ごとに一歩一歩蝸牛の歩みで果たしてきた成長、これはもとより
母親に対してつまびらかに語り得る事柄ではない。

それは、水野家のルールが禁ずる「秘密」そのものなのだから、事実と
して已むに已まれぬ秘密をつくってしまった以上、それを語ることは、
すでに算え得る選択肢ではない。この場で言われる「秘密」という言葉
が「語り得ない已むに已まれぬ事情」を意味するのであるなら、それが
出来した瞬間にきれい事のルールは破れざるを得ないのである。

その前提で、今現在の亜美ちゃんが、昔水野冴子が識っていると思って
いた水野亜美よりも良い人間となっていること、ひるがえって、今の今
まで気附くことすらなかった亜美ちゃんの抱えていた過去の不全、水野
冴子がこれに気附けるだけのリテラシーを持つ人物なのかどうか、水野
母子の間の課題のすべてはここにかかっているのである。

さらにいえば、結論として水野冴子は良い人間でした、娘の真実を理解
するだけの理解力もある人でした、お母さんがわかってくれたので転校
は回避されました、と語ることそれ自体はたやすい。物語作法上の課題
となるのは、そうした内実をいかにリアリティを持って劇的に開示する
かという、その開示にまつわる手順なのだ。

これを火野父子の間の課題にアダプトしていえば、火野レイの想い描く
火野隆司像は正しいか否か、すべてはその「謎」に収斂する問題である
といえるだろう。

彼女の抱く父親像が正鵠を射たものであれば、この課題の解法は「父親
がより良い人間に変わること」となる。しかし、その認識が誤ったもの
だとすれば、その解法は「火野レイが火野隆司の真実に気附くこと」と
なるのである。

そして火野父子のすれ違いは「都合」という名の男の論理と「気持ち」
という名の女の論理の激突として設定されているのだから、ここで隠蔽
されている情報とは、火野隆司という政治家の私人としての「気持ち」
なのである。

そしてそれが「気附き」の問題となっている以上、それもまた火野レイ
のリテラシーの問題となり、その誤解が幼少時に得られたものであるの
なら、それは火野レイの成長の問題ともなるのである。

この場合、火野父子の間のドラマの成否は、短い芝居でいかに火野隆司
という人物の「気持ち」を迫真性を持って描き得るか、そこにかかって
いるといえるだろう。

火野・水野両親子の個別の課題がこのようなものであり、物語作法上の
課題がそのようなものだとして、さらに今回ローテの二エピソードでは
その二つの物語を並行して描くというスタイルが採用されている。そう
したスタイル固有の課題として、この二つの物語が「たまたま」同時に
語られているのではなく、「必然として」同時に語られているという、
イメージ収斂の仕掛けが必要とされている。

前回のレビューで「この二人の肉親との確執は、対称と対照において、
美しく描かれるべき問題」と指摘したとおり、すでにして火と水の属性
という対照を持つ二戦士の、父親との相克と母親との葛藤という課題、
さらには、反撥に基づいた接近の不可能性という課題と想い合う接近の
不可能性という課題、その解法として対置される、父親を見出す娘の姿
と娘を見出す母親の姿——この二つのストーリーには、このような複雑
な対称と対照が満ち盈ちている。

さらに、Act.33とAct.34を対比するなら、Aパートでは親の圧し附けと
その内心の想い、中盤において亜美ちゃんとレイちゃんの衝突と和解、
Cパートにおいては父親に反撥するレイちゃんと受容するレイちゃん、
母親から逃げ去る亜美ちゃんとその亜美ちゃんを見出す母親の姿が交々
に描かれ、この二話間でも構成上の対称関係が成立することがわかる。

あえていうなら、これらの対称は、二人の少女にまつわる二つの物語が
一つに糾われる過程において、その概念的構成要素に設けられた対称と
対照である。今回のエピソードにおいては、さらにそこに、ビジュアル
としての対称までが設けられ、この美しい物語の解決編を美しい映像の
言葉として結実させている。

言うまでもなくそれは、火野父子および水野母子の問題の解決に際して
配された、「写真」というキーアイテムのことである。

水野冴子が今現在の娘の姿を見出すきっかけとなった仲間たちと撮った
夥しい数のスナップ、そして火野レイの屈折した父への想いを象徴する
アイテムとして心憎いトリックが仕掛けられた母子像、親と子が互いの
姿を見出すことで解決する物語が、すべて一枚の写真に収斂する語り口
の鮮やかさ。

映像作品における文芸は、こうでなくてはならない。レイちゃんが机上
に飾っているものと同じ写真を火野隆司が財布から抜き出し、そこに娘
が隠していた真実が顕れた瞬間の驚き。仲間たちに囲まれて幸福に微笑
む娘のスナップを目にした水野冴子が、過去のアルバムを繙いて今の娘
の真実に卒然と思い当たる一連。それらの描写が原脚本に内在した要素
なのか演出者の補完によるものなのか、そんなことはどうでもいい。

映像作品は文章要素を後附けるだけのものではない。映像の言葉として
それ自身が十全の効果を発揮しなければならない。

妻と娘を棄てる前の火野隆司の緊張した面持ちと、母子との距離。同じ
スナップがラストで白い折り目を加えて顕れる瞬間の豊穣な余韻。木訥
で不器用な男の若き日の「気持ち」と、その父を切るに切れなかった娘
の想い。それを言葉や芝居で語るのではなく、一枚の写真を媒介にして
語る語り口。

同じように、日々数を増していくスナップに顕れた娘の幸福そうな笑顔
と、それをきっかけに繙かれるアルバムのページを繰る水野冴子の面上
に浮かぶ優しい表情、そこに流れる優しい時間。一枚一枚のスナップに
附された、娘との時間をあらためて愛おしむかのような書き込み。

火野隆司の「気持ち」と、水野冴子の人物像。最前視てきたこの物語に
おける課題の解決は、このような表現として提示されているのである。

映像の言葉とは、このようなものなのだと思う。

だからこそ、火野父子の場合も水野母子の場合も、ラストの対決場面の
セリフは必要最低限の数語でしかないのであり、葛藤それ自体の核心を
言葉で解きほぐす遣り合いではないのだ。

この二話のエピソードは、親と子の和解をテーマとする家庭劇である。
労り合うだけでは足りない、ぶつかり合うだけでも足りない、親の世代
が持ち越した不条理に苦しめられる少女たちが、親たちの犯した過去の
過ちをわが身のものとして受容し、真に親の付属物ではない一個の人間
として立つまでを描いた凡庸な物語である。

この物語においては、冒頭で陳べたように、自己救済は他者救済となる
のである。レイちゃんも亜美ちゃんも、自身が成長を果たして己を救済
することで、その父親と母親をも救済しているのだ。

己を不幸のうちに放置しないための戦いがなにゆえに要求されるのか、
その答えの一つが、今ここに美しい映像の言葉として表現されている。

凡庸で非凡な映像作品というのは、こういうものをいうのだろう。

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