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Act.34-2 父親とその娘

それでは、美しい対称と対照を実現した今回ローテの事跡にならって、
今回のエピソードについては、レイちゃんと父親の問題のほうから視て
いくことにしようか。

実は、前回のエピソードについて、あえて指摘を持ち越したことが一つ
ある。それは、レイちゃんの変身解除が、一つのエピソード中で二回も
描かれているということだ。

この番組では、セーラー戦士への変身プロセスについては毎回描かれて
いるものの、これまでのエピソードにおいて変身が解除されるプロセス
が描かれたのは、Act.22のうさぎの例を除けば、このAct.33の一例のみ
なのだ。しかも、一エピソードで二回も描かれているというのは、三〇
分番組の映像の経済から考えれば明らかに過剰である。

さらにはそれが、量のパラメータの過剰ではなく数のそれである以上、
感覚的な判断というより、知的な判断に基づく理由があるはずだ。なぜ
なら、ある映像セグメントが分量として多いか少ないかを判断する基準
は長短を判別する感覚となるが、回数として多いか少ないかを判断する
基準は「くり返しの意味性」を解釈する知性となるからだ。

たとえば、その映像セグメントを一〇秒で描くか二〇秒で描くか、これ
を意味性の観点から決定附けるのは難しい。一〇秒と二〇秒を隔てるの
は、所詮は意味性によって規定できない時間というパラメータに対する
無意識裡の感覚でしかないからだ。

一方、同様な映像セグメントをくり返すか否か、くり返すとしたら何度
くり返すのかという設問は、意味性の観点から決定附けることが可能な
ものである。

なぜなら、そもそも「同様の映像セグメント」であるか否かという弁別
がすでに徹頭徹尾意味性の次元の問題だからである。ここで問題として
いるのは、「レイちゃんの変身解除」と明確に名指すことのできる映像
セグメントである。それが一本のエピソードで二回も挿入されている、
そのことの是非は意味性の次元において判断可能な事柄なのである。

これがたとえば竹光演出回であったならば、このような映像経済の破綻
は単なる「やりすぎ」の一つにすぎないといえるかもしれない。変身を
解除する映像がこれまであまり描かれてこなかったというなら、そんな
絵面を一回入れるのもおもしろいだろう、一回だけではさびしいから、
もう一回入れよう、そういう場当たり的な計算だろうという解釈も成り
立つかもしれない。

あるいは「え、二回も入ってたっけ、全然気附かなかったよ、あはは」
的なスズヤン口許アップ方式の腰砕けなオチも、十分以上に予想される
だろう(木亥火暴!!)。

しかし、ことこの番組における舞原賢三に関していえば、意味性の観点
における映像の経済について、厘毛の齟齬すらも激しく否むかのような
潔癖さが視られると思う。

別の言い方をするなら、エピソード構造のクリアランスをかなり厳しく
設定しているように見受けられる。個々の要素の嵌合を最大限密に構築
し、息詰まるほど緊密で最適な構成が目論まれている。

それが実現しているかどうかは、個々の作物ごとに視ていくべき事柄だ
が、少なくとも、企図の時点ですでに他の演出者とは映像の経済感覚が
違うということだ。これまでの演出回を視る限り、一回で十分な要素を
無意味に複数入れた事例は一度もないのである。

これは回数の事例ではないが、たとえば今回の例でいえば、レイちゃん
と亜美ちゃんの身の上を案じて、陰ながら二人を見守るまこちゃんが、
クラウンの休憩室で亜美ちゃんの合流をうさぎに連絡する場面。前景に
うさぎと話すまこちゃんを押さえ、同時に後景で元基がそっとおむすび
を差し入れる様をとらえている。

さらに、亜美・レイが帰宅の途に着いた後、妖魔の出現に際してハッと
まこちゃんが目を覚ますワンカットでは、画面手前に元基の心尽くしを
平らげた皿が置かれている。必要にして十分なバランスで要素が配され
無駄というものがない。

そんな男が満を持して放った完成作品に顕れた過剰には過剰であるだけ
の理由がなくてはならない。そして、映像作家の信頼性というものは、
なくてはならないはずの理由がちゃんとあると信じられるか否かという
部分にも顕れるのであるし、舞原賢三はそうした信頼に応え得る演出家
である。つまり、この過剰には、何らかの演出上の意味性が込められて
いると視るべきだ。

何らかの意味性といっても、それはさして複雑なものではないし、本筋
上それほど重要なものではないだろう。戦士としての武装を解除し普通
の少女へ戻る、そういうストーリーであることの仄めかしという以上の
意味などはない。しかしそれが問題提示編であるAct.33に配されている
ことで、一種の「予感」の描写となるのだとオレは考える。

それは一つの暗喩である。逃走か闘争かの場面で闘争を選択した少女が
戦いの姿から武装解除することについての。この父子間の問題は、互い
に相戦うことでは決して解決しない問題なのである。さらには、娘が父
に対して武装しているのであってその逆ではない以上、ここで一方的に
武装することはおよそ馬鹿げた態度でしかないのだ。

レイちゃんとパパとの確執は、父の前の娘として、娘の前の父として、
さらには亡き母の前の父子として、すべての武装を解除して立つことで
しか解決し得ない。その暗喩として二度の変身解除は機能している。

さらにはそれが、今回の課題の発端となる場面と、父との葛藤が心中で
最高潮に達した場面において配置されることで、「予感」として効いて
くるのであるとオレは考える。

それを喩えるなら、たとえば厳冬の凍て附く寒さのなかで、必ず訪れる
べき春の伊吹を感じること、たとえばいつ果てるともなく降り続く雨に
打たれながら、明るい陽射しの訪れを垣間見ること———この嬉しさが
「予感」のもたらす効果である。

無論、これには逆の極性もある。たとえば永遠を思わせる夏の移ろいを
仄めかす秋の先触れ。たとえば華やかな婚礼の宴の晴れやかさに翳りを
もたらす一滴の血の不安。

オレの謂う「予感」とは、明示的な手法ではない、暗示によって無意識
に働きかける手法である。厳しい冬には優しい春が続くことを明示的に
告げることではない、已まない雨はないと言葉で告げることではない。

明示的に語られているドラマツルギー的課題の頂点において結末を暗示
することで、対比の対象が暗示に留まるがゆえにこそ名状し難い感銘を
もたらす対照の効果である。

一種古典音楽的とも言えるようなこうした手法が、意図的に駆使された
ものであるかどうか、オレにはそれを断定できない。オレの識る限り、
映像作品における演出手法として、こういう効き方がターム化され認識
を共有されたことはないからである。

だとすれば、オレが今このように個人的に感じているこうした効果を、
送り手もまた想定していたと考えることは、一種の超越を前提に置くと
いうことになる。それをこの場で明言することは避けたいと思う。だが
ごくごく個人的な感じ方としては別であると、至極わかりにくい言い方
をしておこうか(笑)。

そして、これまでの物語をとおして武装せる人・戦う人として描かれて
きたレイちゃんの武装解除を「予感」として描出するこの描写は、オレ
たちに一種特別な感慨をもたらすことだろう。これもまた、レイちゃん
が果たすべき大きな飛越の一つだ。

一歩また一歩と蝸牛の歩みを刻みながら成長する亜美ちゃんと違って、
レイちゃんは大きな飛越によって成長する。大きな成長を果たすのでは
なく、大きな飛越によって少しずつ成長するのだ。

問題提示編において「予感」として暗示されたレイちゃんの武装解除は
いかにして実現されたのか。解決編におけるレイちゃんの物語は、この
ような内実として規定できるだろう。

ただし、前回のエピソードにおいて山場となる父子対決の場面の組立が
若干齟齬を含むものであったがゆえに、今回の物語がレイちゃんの武装
解除をめぐるものであることは、至極わかりにくくなっていると思う。

それは、あの場面の北川の演技が、あまりにも内心の激情を露わにした
ものであったために、武装せる言葉として成立していないためであると
オレは考える。激情を露わにするということは、それだけで相手に弱い
内懐を晒しているということだ。冷静さを欠くこと、涙を見せること、
これは真剣勝負の武装とはほど遠い態度である。

そのため、レイちゃんが父親に対して肉親としての甘えをぶつけている
ような見え方となっていること、本来的には抑制の効いた挑発の言葉と
して見えるべきであると感じた筋道などについては、前回つまびらかに
論じたとおりである。

いわば、前回のこの段階において、早くもレイちゃんは武装を解除して
いるような見え方となっている。距離の問題としていえば、課題を設定
しようもないほどに、レイちゃんはパパとの間合いを近くとっている。

そして、この場面の父子対決が、この両者の間に葛藤と接近のドラマが
あった後の結節点ではなく、スタートラインにすぎない以上、大前提と
してなぜかレイちゃんは父親に対して最初からものすごく近い間合いに
おいて武装を解除していることになってしまう。

これを「失敗」と断じることについては異論もあろうけれど、あらゆる
側面から検討してみても、オレにはそのようにしか受け取れないのだ。
それは、火野レイの個人史から導き出されたオレの基本認識とも相容れ
ないものである。

この物語の出発点以前のレイちゃんが生きてきた世界は、自身を異端視
して迫害する世界である。彼女を取り巻く世界は、異分子である彼女に
兵を構え攻撃し排除しようとする世界である。稚ない火野レイは母親の
死後、そのような敵意に満ちた世界に単身で放り出され、数々の辛酸を
味わってきた。

無力な子どもが敵意に満ちた世界を生き抜くこと、これを軽々に扱って
はならないだろう。多くの子どもたちは、この現代においてもそうした
過酷な世界において早すぎる死を死ぬのである。他者に殺されるか自身
を殺すか、その違いでしかない。

そのような過酷な世界を生き延びる子どもとは、うまく逃げ延びること
ができた子どもか、戦い抜いて負けない強さを獲得した子どもだけだ。
亜美ちゃんは醜悪な現実から目を逸らし逃げることで生き延びた子ども
なのだし、レイちゃんは逃げ場のない苛烈な現実を戦い抜く強さを獲得
することで生き延びた子どもなのだ。

そのような来し方を前提にするなら、レイちゃんにとって父親はそんな
過酷な現実を招来するに至ったすべての元凶である。レイちゃんが迫害
する世界と戦う人であるとするのなら、血縁の逃れ難さゆえに父親こそ
が最大の敵となるはずだ。他者よりも他者として遇するべきなのだ。

ある種、火野レイという物語内人物の生き方のスタイルが、最も峻烈に
顕われる対象こそ父親であるはずだ。そうでないとすれば、自分を迫害
する他人に対しては武装し距離を置いているけれど、自分を棄てた父親
に対してだけは反撥しながらも内懐を晒して愛を乞うているということ
になってしまう。

だとすれば、父親に対する態度こそ内懐を晒した火野レイの真実である
と規定される以上は、極論すれば、それ以外の他者に対する態度は見せ
かけであり、この人物の真実ではないということになる。本心では他者
の愛情や真心を求めていながらも、いくら求めても得られないからこそ
戦闘的な姿勢を装っていたのだということになる。

引いては、これまでのレイちゃんは非本来的な在り方に頽落していたの
であって、それは克服さるべき課題であるということになってしまう。

それも一種、この年頃の女の子としては自然な姿ではあるだろう。他者
に身構え弱い心を鎧うことを、自分の殻に引き籠もる非本来的な態度で
あると規定することは、この年代の少女一般の現実として自然である。

クールで戦闘的な姿勢は見せかけだけで、その武装せる内面には、他者
の愛を求めて泣いている孤独な少女がいるのであると規定することも、
リアリズムではあるだろう。

しかし、その一方でレイちゃんは非凡な来し方を力強く生き抜いてきた
非凡人でもあるのである。そのような歴史を、一方的に「克服さるべき
課題」として全否定することは「成長」という言葉のはき違えではない
かと感じるのである。そのような来し方によって獲得されたこれまでの
生き方のスタイル、そのスタイルとの連続性もまた、尊重されねばなら
ないと感じるのだ。

これは、たとえば水野亜美の成長物語と比較すればわかりやすい。亜美
ちゃんは、これまでのドラマを通じて少しずつ変化し成長してきたのだ
けれど、どれだけ物語の出発点から遠く離れた到達点に達しようとも、
水野亜美とされる人格の背骨の部分は変わっていない。

それは亜美ちゃんの成長物語が、「そのように生きたい」と彼女が望む
生き方のスタイルを、一つ一つ獲得していくプロセスで構成されている
からであり、さらに、水野亜美という人物を構成する要件が、行動の型
ではなく内面によって規定されているからでもある。

亜美ちゃんが「そのように生きたい」と望む生き方のスタイルが、この
不易の内面から発するものであるゆえに、亜美ちゃんはどんどん「亜美
ちゃんらしい人物」として成長していくのだ。つまり、この物語内世界
を生きる水野亜美という人物には、強固な一貫性が確保されている。

しかし、前回も触れたように、火野レイという人物を構成する要件は、
その内面ではなく、行動の型によって規定されているのである。いわば
火野レイという人物はすでに生き方の型を確立した物語内人物であり、
その外面において大きな飛越を果たすことで、内面の変革が達成される
タイプのキャラクターなのである。

また、亜美ちゃんの成長を語る場合には、「欠落の充足」という形式を
とるために比較的到達点がわかりやすいのに対し、レイちゃんの場合に
は、欠けている何かが補われるというわかりやすい形にはならない。

そこを見誤ると、Act.23の「カラオケ嫌い」「仲間への信頼」のよう
な皮相的な話に堕してしまう。

今現在確立している行動の型では成し遂げられない何かを為すために、
その型によって規定されている自己像からの大きな飛越を果たすこと、
それによって一回り大きな人間となること、おそらくレイちゃんの成長
のパターンとはこれなのだろう。

そのような飛越によって蒙った変質をこれまでの在り方と調停し、それ
によって自身の在り方をポジティブに再構築するというプロセスこそが
火野レイという人物の成長のパターンであるというのがオレの考えだ。

これがオレの基本認識である以上、レイちゃんがこれまでの来し方を、
一種の過てる態度として全否定するのであれば、それはすでに火野レイ
という人物である必要はなくなるのだ。

では、父親と和解を果たす以前の火野レイの生き方が非本来的なもので
あったとするなら、それをまったく捨て去った後の火野レイという人物
の新たなる真実の姿はいかなるものであるというのか。

そして、物語の終局までを通観した視点でいうならば、そのような真実
などは、結局存在しなかったのであるとオレは思う。使命感という観点
では最もヴィーナスに近い存在であるはずのレイちゃんが、前世否定の
急先鋒に立つという成り行きは、一種おもしろい対照ではあるけれど、
オレはそれにまったく説得力を感じなかった。

少なくとも、今回のエピソード以前のレイちゃんだったら、前世の使命
に傾倒する美奈子の考え方を最も理解し得たはずである。もっといえば
今現在は前世の使命に意義を見出せなくなったとしても、それに意義を
感じる人間の心情は理解できるはずである。過去の自分なら理解できた
ことがすでに理解できないとすれば、それはまるきりの別人である。

畢竟するところ、三四話ものエピソードにおいて一貫性をもって描かれ
てきた行動の型や、その積み重ねとの連続性を全否定した後に、物語内
人物の新たなる真実として提示し得る物語的内実が存在し得るなどとは
オレには思えない。この点は、以前論じたまこちゃんの「仕切り直し」
とは大いに異なる部分である。

こうした齟齬はなにゆえに起こったのか。それはこの舞原ローテにおけ
る火野レイの描き方に失敗があったからであるということはすでに指摘
した。それをさらに突き詰めるなら、間違っていたのはあの父子対決の
場面だけなのであるということも前回指摘したとおりである。

なぜなら、努めて前回のエピソードから受け取る印象を払拭して今回の
エピソードを視る限り、今回の火野レイ側の物語は、武装解除の物語と
して破綻を来していないからである。逆にいうならば、そのような物語
として破綻していないからこそ、前回とのつながりで視た場合に今回の
物語の細部のニュアンスがわかりにくくなっているのである。

たとえば火野隆司の秘めたる内心のインフォーマーとして扱われている
秘書の西崎との会話、これは前回のエピソードも含めて、おおむね噛み
合った芝居となっている。また、今回大詰めの父と娘の墓畔の対話は、
ダイアログ・演技ともにガッチリ噛み合ったものとなっている。

だが、前回の流れで今回のエピソードを観ると、火野父子サイドの物語
は、実際には噛み合った芝居となっているのに、各シーンの総体として
どのような心理の流れが想定されているのかが見えにくいため、芝居の
意味合いが若干わかりにくいものになっているのだと思う。

前回指摘したように、火野父子の物語の中心主題は、娘が父の真の姿を
見誤ったための葛藤である。だとすれば、物語を構成する課題も解決も
父に対する娘の認識の変遷をめぐるものでなければならない。

だが、出発点におけるレイちゃんの父に対する認識がどのようなもので
あったかが曖昧な描き方となってしまっているために、解決編において
レイちゃんが何をどのように認識すれば解決がもたらされるのか、引い
ては場面場面の芝居場においてレイちゃんの認識がどのように変遷して
いったのか、これが見えにくくなってしまっている。

そのような観点において、順を追って具体的にエピソードを検証してい
こうか。

火野父子の物語の実質的なファーストシーンとしてアバンに設けられて
いる、母の墓前でレイちゃんが涙する場面、これはもちろん、間違って
などはいないのである。だれかの前でレイちゃんが弱い涙を見せるのだ
としたら、それは亡き母親以外には考えられない。

稚な児の頃に喪った母の前だからこそ、いっそ稚な児に戻って弱い心の
裡を晒すことができる。少女ヒーローに限らずヒーロー全般に共通する
要件として、母を亡くしたヒーローは、母の幻の前でだけその年齢相応
の子どもとして振る舞うことが許されるのである。

この場面でレイちゃんは何を泣いているのか。

ここでレイちゃんの脳裏に蘇る記憶は、母の臨終に際して泣きじゃくる
己の姿である。同じ映像を用いた前回のエピソードでは、その回想場面
を「ママをあんなふうに独りで…絶対、許せない」というレイちゃんの
セリフで〆ることによって、父の冷酷に憤り、孤独に死んだ母の無念を
想って泣く涙と意味附けられている。

前回のエピソードにおいてそのような意味附けがなされている、という
前提に立ってこの場面を視るなら、この回想が泣きじゃくる稚ないレイ
ちゃんのアップで終わっているのは意味深長だ。

前回の回想場面で涙ぐんでいたのは、今現在のレイちゃんである。死に
ゆく母に必死で呼びかける稚ない彼女が泣く寸前で回想は終わり、現在
のレイちゃんが涙ぐむカットにディゾルブしている。そして、現在只今
の、思春期を迎えた一人の少女であるレイちゃんが、父への憤りと母の
無念を胸に噛み締めて泣くのは自然だろう。そういう繋がりにおいて、
今現在のレイちゃんがセリフで語った動機に基づいてレイちゃんの涙は
意味附けられている。

一方、今回の回想場面において激しく泣いているのは、稚ない頃のレイ
ちゃんであって、それとオーバーラップするように現在のレイちゃんが
泣いている。しかし、普通に考えれば、あのくらいの年齢の幼女が母の
死に接して、死にゆく母親自身の心情を思い遣って泣くことなどあるの
だろうか? 父親の冷酷を詰って泣くことなどあるのだろうか?

絶対にないとはたしかに言い切れないけれど、お母さんがかわいそう、
お父さんはひどい、そういう感情がもしあったとしても、母に死なれた
幼子が泣くのは、まず母の死が辛いからであり自分が淋しいからだ。

その幼児とオーバーラップする形で今現在のレイちゃんが泣いていて、
前後の脈絡から判断して、そこにある種の対照としてのねらいが視られ
ないのであるなら、それは、レイちゃんが死せる母の前で流す涙の意味
は昔も今も同じであるという仄めかしだ。

さらに、後半に至っても場面場面で度々インサートされるレイちゃんの
回想シーンは、同じように見えても、少しずつ母の死に立ち会った火野
レイの心情を解き明かすかのように進んでゆき、ついには墓前のクライ
マックスにおいて「パパ」という呼びかけの一言を開示することで、母
の死を境にして火野レイの心の深奥で圧殺されていた父への思慕を暴露
することとなる。

冒頭で少し触れた「くり返しの意味性」は、こういう局面で勘案すべき
事柄なのである。「同様の映像セグメント」が、場面場面において少し
ずつ変化していき、ニュアンスを変えていくこと。火野父子の物語は、
回想シーンという手法によって段階的に開示される「火野リサの臨終」
というストーリーに沿って組み立てられているのだ。

前回のレビューではこのローテの二作をミステリになぞらえたが、火野
父子の物語は、実際にミステリ的なアプローチによって観客の前に提示
されているのである。火野レイの心中に秘められた「火野リサの臨終」
という過去のストーリーの真相を探ることで、現在を生きる火野父子の
間のわだかまりが解消される構成となっている。

前回のエピソードにおいて提示された、父の冷酷に憤り、孤独に死んだ
母の無念を想って泣く涙、というストーリーでは、「母に取り残された
己の淋しさ」という幼時の感情が隠されているのだし、そのさらに先に
ある父への呼びかけもまた隠されているのである。

机上に置かれたスナップ写真を折り畳み、母子像から離れて立った父の
姿を隠していたように、火野一家をめぐるレイちゃんの記憶の中では、
父を求める感情が厳重に封印され心の秘奥に押し込められているのだ。

前回のレビューで触れたように、たしかな絆で結ばれた火野夫妻の関係
性から、父に棄てられ母に置き去りにされた娘のレイちゃん一人が弾き
出されていたのだとしたら、母の臨終の記憶から父への思慕を抹消し、
残されたスナップ写真から火野隆司を追い出したレイちゃんの行為は、
一種の「呪(しゅ)」に当たると言えるだろう。

母と娘の姿を対として囲い込むことで、父母に棄てられた娘という現実
を変容し、父を求める自分の姿を記憶から抹消することで、棄てられた
主体を自分ではなく母親に掏り変える。このようなやり方は一種呪術的
な記憶操作
といえるだろう。

レイちゃんは自身に対して「呪」を用いて、「母を棄てた父を許せない
から父を拒む」というストーリーを組み上げた。その物語に基づいて、
「父は冷酷な人間である」という大前提を創り上げ、さらにそこから、
「父は自分を愛していない」という出発点が導き出される。「愛しても
いないのに、世間体を取り繕って円満な父子を演じたがる」という現実
解釈が導き出される。

しかし、このストーリーの真相は、まったく逆なのである。母の臨終に
際して稚ないレイちゃんが父を呼び求めたことが明らかにされた以上、
求めても得られなかったからこそ、「父は自分を愛していない」という
出発点がまず確立されたのだということがわかるだろう。

応えられなかった愛というトラウマが、まずありきの話なのだ。放恣な
妄想が許されるのなら、父の不在によって孤独を託つ稚ないレイちゃん
は、その孤独を分かち合っていた母の臨終に際して、心細さを覚えると
ともに、母に先立たれた今なら今度こそ父が孤独の淵から己を救い出し
てくれると淡い期待を覚えたのかもしれない。

実はレイちゃんは、これまで父の不在が淋しくなかったと一言も言って
いないのである。母と二人きりの生活がそれなりに充足していたとは、
一言も言っていないのである。母の心情に仮託してはいたが、父が家庭
を顧みなかったことで火野母子の生活は淋しいものだったと自身の過去
を素描しているのである。

母が死ぬまで、レイちゃんはずっと父の愛を乞い求めていたのである。
求めても得られない父の愛を断念するために「私には母がいるから」と
言い聞かせてきたのである。そしてその母は、彼女の目前で彼女一人を
現世に取り残して息絶えてしまう。

死にゆく母への呼びかけがついに空しくなったとき、稚ないレイちゃん
が父の名を呼ぶのは悲痛である。すでにして火野リサと火野レイの母子
は火野隆司に棄てられているのである。そこからさらに母にも去られた
レイちゃんは、自分を棄てた父にもう一度呼びかける。こんな耐え難い
孤独の裡に独り置き去りにされたなら、あの冷たい父とて見過ごしには
すまいという淡い期待を抱いて泣きながら呼ぶのだ。

母の死の瞬間まで心に秘め隠してきた父への思慕をこの今に解き放った
のである。しかし、それが酬われることはついになかった。心の奥底で
父の愛を信じたがっていた彼女の望みは、叶えられることはなかった。
父母からの二重の遺棄によって、二重の愛の断念を、この稚ない少女は
体験したのである。

だからこそ、レイちゃんは父の愛を信じられないのである。

人の愛を信じられないのである。

火野レイは、この瞬間に、火野隆司の娘であることを、やめた。

レイちゃんが父の愛を信じないのは、今現在の自分自身が抱いている父
への愛を認めたくないからなのである。もし父の愛が真実のものである
のなら、なぜあのとき自分の愛に応えてくれなかったのか、まったく理
解できなくなるからだ。

引いては、「応えられない愛」を出発点として、孤独の裡に生きざるを
得なかったこれまでの自分の生がまったく無意味なものとなってしまう
からだ。

稚ないレイちゃんが苦渋の果てに受け容れた現実とは、「父は自分を愛
していない」という冷酷なものだった。だからこそ、父への愛は諦めね
ばならないのである。現実に身近に父がいてくれない以上、父への愛は
諦めなければならない。身を切るような愛を諦めるには、身を切るよう
な理由附けが要るものなのだ。

レイちゃんが秘書の西崎が明かす父親の真情を耳にして動揺するのは、
そのような機序に基づくものとして視れば自然である。レイちゃんが己
にかけた「呪」、それは愛の断念を受け容れるためのストーリーであり
親に遺棄された一人の稚な児が生きていくためには、そんな辛い諦めが
不可欠だったのである。

歴史的な観点でいうなら、レイちゃんが戦う人・武装せる人としての生
を選んだのは、まず第一に周囲の迫害が理由としてあげられるだろうが
それと同時に「愛の断念」がまず出発点としてあるからだ。

「今さら」その諦めを反故にされたら、自分のこれまでの辛い生き様の
意味は何だったというのか。自分が父への愛をとうの昔に諦めた以上、
父の自分への愛など、「どうして」信じられるというのか。これまでの
来し方の意地も気概もすべて放擲して、天下りに恵んでもらった愛に、
賤しい野良犬のように尻尾を振って擦り寄れとでもいうのか。

よしんばあの瞬間にも、離れた場所ではあれ父は妻と娘を愛していたの
だとしても、娘が最も愛を欲していた瞬間に愛すべき相手に愛を伝える
ことができなかった。そして、伝わらない愛は愛ではない、愛は伝えて
こそ愛なのである。

火野隆司がいかに妻と娘を愛していようと、その愛を伝えられなかった
ことで、彼の娘は生血の乾かぬ癒えざる痍を負ったのである。いかなる
妥当な理由があったとしても、娘を棄てた父は罪をつくったのである。

これは、水野冴子の場合とまったく相同の理に基づく罪であり、一人の
個人としての責任能力とは絶対的に整合しない理不尽きわまる責任関係
の許でつくられた罪なのだ。

だとすれば、父が自身の愛を動機として娘に接近することは、手前勝手
の誹りは免れまい。火野父子の問題に関して、オレは一貫して「娘が父
の真の姿に気附くこと」を解法として提示してきた。だがそれは、父に
理があって娘に非があるという単純な話ではない。その先にあるのは、
愛に基づく理解を基調とした「赦し」の問題なのである。

父親としての火野隆司がつくった罪を、己と何ら変わりない一個の人と
して火野隆司を視ることで、優しく理解し、人としての限界を許容し、
己もまた子としての立場を脱却し、一個の人として接することで、愛に
基づいた赦しをもたらすのである。

子が一人の子であるうちは、一度つくられた親の罪は決して赦されない
のである。このような理不尽な罪に苦しむ親を救済するのは、親と同列
の一個の人となった子の赦しのみなのである。だからこそ、人の子は、
いつまでも子であることは許されないのである。人となって理不尽な罪
を赦さねばならないのである。

オレが先ほど「絶対的な責任関係」と規定した親子関係は、子が一個の
人として立つことで、一旦解消されねばならない。どんなに虐げられた
過去を持つ子であろうと、永遠に一人の子であり続け、親の罪を指弾し
続けることは間違っている。一個の人として親の所行を客観視し、子と
してではなく人として親子関係のわだかまりを調停しなければならない
のである。

火野父子の問題についていえば、稚ない火野レイの火野隆司に対する愛
は、母の死とともに一旦死んだのだ。今現在、火野父子間のわだかまり
が調停されたとしても、あのときに死んだ火野レイの愛が生き返るわけ
ではないのだ。一度滅びた愛の残滓は憎しみに変容し、これまでの火野
レイを支えてきたのだが、さらにそれが火野隆司との和解を経て滅び、
あらたな愛として生まれ直さなければならない。

火野父子の問題に関して、レイちゃんに課されている課題はそのような
ものなのだ。親と子の間の問題は、最終的には新しい世代である子の側
の責任において調停されねばならないのである。

父親が心ならずもつくった罪を赦すこと、これが課題として設定されて
いる以上、今回のエピソードで描かれたレイちゃんの物語は至極正統的
な成長物語としての骨格を具えているのである。

そのような視点で今回ローテの二話を子細に視ていくなら、最初の父親
との対決場面以外、レイちゃんの物語は完全に整合しているのである。
西崎との会話やそのリアクション、亜美ちゃんとの衝突と和解、妖魔と
の対決におけるエコーと混乱、それらすべての要素を、整合的に解釈し
得るストーリーは成立するのである。

さらには、クライマックスの墓前の対話では、北川景子の演技も升毅の
演技も寸分の狂いもなく噛み合っている。ここで対峙しているのは、父
に棄てられた娘と娘を棄てた父であるのと同時に、対等な一個の男と女
でもあるのである。

この場面には、父娘和解のカタルシスばかりではなく、一個の男と女の
間で交わされた情の通い合いのあえかなエロティシズムも漂っている。

もちろん、北川景子の芝居は一つ一つのプロセスを確かめながら演じる
かのように大きなものではあるが、それが噛み合ったものである限りは
それなりに好ましいものであるとオレは思う。

しかし、性急に墓畔のクライマックスを視る前に、その段取りとして、
どのような手順が踏まれているのかを視てみよう。まずは、火野隆司の
真情のインフォーマー役である西崎の登場場面を振り返ってみようか。

おそらくは火野隆司のごくごくの側近である西崎にとって、娘を想う火
野隆司の愛情の真正さは疑いようのない自明のものである。彼にしてみ
れば、レイちゃんは少しばかり父親の気持ちを誤解しているだけなので
あるから、ついつい要らぬお節介を焼いてしまい、こっそり己のボスの
真情をレイちゃんに打ち明けてしまう。

前回のエピソードの登場場面は、このような前提において、父親を切り
捨てることで安定していたレイちゃんの生活を掻き乱すきっかけとして
機能しているので、ここが噛み合っていることはわかるだろう。

交番からの連絡を口実にして、レイちゃんと話し合おうとする火野隆司
のメッセンジャーとして登場した西崎は父親との面会を拒むレイちゃん
に追いすがり、「先生はたいへん心配してらして、レイさんを引き取る
ことも考えている
」と言わでもの一言を附け加える。呆然と立ちすくむ
レイちゃんの心情を曲解して、「やっぱり、親子ですからねぇ」とダメ
押しの一言を漏らす。

しかし、この最初の西崎との会話によってレイちゃんの心裏に掻き立て
られた波紋は、父親へのさらなる不信と混乱である。西崎のリークに対
するレイちゃんの解釈は、前回指摘したように「男の都合」というもの
である。幼時に自分を遺棄したのも、今自分を引き取ろうというのも、
いずれも同じ身勝手な「男の都合」のゆえであろうと解釈している。

この時点におけるレイちゃんの耳には「やっぱり、親子ですからねぇ
の一言は、愛情の問題ではなく血縁の問題としてしか響かない。そして
二重の遺棄を経験したレイちゃんには、逃れがたい血縁が無条件の愛を
保証してくれるなどとは信じられない。血縁の紐帯は、父親の「都合」
を理も非もなく強制してくる呪いとしか感じられない。

それは、このときの西崎のリークが父親の「意志」に関する情報にしか
すぎないからである。父親が娘をどうしようとしているのかという意志
は、「都合」の範疇の問題でしかない。あのときのレイちゃんの気持ち
やこの今のレイちゃんの気持ちにはお構いなしに、「男の都合」で妻子
を振り回す身勝手な男、という父親像が強化されただけだ。

だからレイちゃんは逆上して西崎を追い返し、先ほど触れた最初の回想
シーンがインサートされて、父親に対する憎しみのストーリーを再確認
するのである。

一方、今回のエピソードでも同じように西崎は火野隆司の真情をリーク
するのだが、「お嬢様と会う口実が欲しいだけ」「ここだけの話、なん
とかお嬢様とうまく話したくて、いろいろ考えたみたいですよ
」「交番
から連絡があったとき、むしろ喜んでるのが見えました
」と畳みかける
西崎の言葉は、火野隆司の「都合」の陰の「本音」を明かすものだ。

それは、レイちゃんが知らなかった父親の姿である。いつもレイちゃん
が対峙している傲岸で高圧的な火野隆司ではなく、その仮面の陰に隠れ
た「気持ち」を露わにした姿である。これが直前に明かされることで、
ラストの墓前の対話が成立するのだ。

不意に父親の真情を知らされたレイちゃんの脳裏には、またしても母の
臨終の記憶が蘇る。ここでまた回想がインサートされるのは、くり返し
のためのくり返しである。

稚ないレイちゃんの、死せる母に対する呼びかけで回想は途切れるが、
その先にあった父親への呼びかけに想いが及ぶことでクライマックスが
成立しているのだから、この回想の挿入は、その先へ想いを及ぼそうと
するレイちゃんの気持ちにタメを設けるための、くり返しのためのくり
返しになっているのである。それは、この回想が途切れるのが、妖魔の
気配という外的な要因のゆえであることからも明らかだ。

そしてさらに、この西崎との会話の直前には、亜美ちゃんと二人だけの
パーティーが設けられ、「父親との対話」という落とし所へ向かう道筋
が用意されている。「そうやって、ちゃんと話そうとするのえらいと思
うわ
」という言葉があり「私のはぶつけてるだけ」という言葉がある。

このように亜美ちゃんとレイちゃんの間のわだかまりを深夜の二人きり
のパーティーで決着させるやり方は、遠くAct. 5でレイちゃんが参加を
拒んだパジャマパーティーの一件をオレたちに思い起こさせるだろう。
これもまた心憎いレファレンスとして、特別な感慨をもたらすものだ。

だが、現状では「ちゃんと話そうとする」ことと「ぶつけてるだけ」の
違いが、よくわからないものとなっていると思う。この両者が違うもの
だという前提で考えるなら、やはり、前回の父親との対決は「ちゃんと
話そうとする
」態度とは対照的なものでなければならなかった、という
ことがわかるだろう。

さらには、それが反省の言葉としていわれている以上は、「ぶつけてる
だけ
」の言葉は、「ちゃんと話そうとする」言葉に比べ、相手に対して
不当なものであるということだ。

この場合の「ちゃんと話そうとする」こととは、自分の考えを相手にも
わかるように伝え、そのうえで相手の言葉にも耳を傾けることである。
それとの対照でいわれる「ぶつけてるだけ」ということが、現状では、
「感情を」「ぶつけてるだけ」というふうに見えるのだが、一面では、
生の感情をぶつけることもまた、自分自身の真実を無防備にさらけ出す
という意味で、「ちゃんと話すこと」と同義だという考え方もできる。

くだくだしいくり返しは避けるが、この場面の対決が、現状の芝居では
レイちゃんのほうでも父親に対し自身の偽らざる真情を伝え相手の真実
を引き出そうとしているように見えるというのは、前回指摘したとおり
である。それは、一種乱暴ではあるが、双方向のコミュニケーションを
前提とする態度であり、手段の是非は問われても、動機において当不当
の問題は問われないだろう。

だが、「ちゃんと話すこと」と「ぶつけてるだけ」の対照において考え
るのなら、この場面においてレイちゃんは、自分自身の練り上げた愛の
断念のストーリーを確信していて、その一方的な断罪の言葉を、父親に
対して「ぶつけてるだけ」と考えれば、この違いははっきりするのだ。

この対決におけるレイちゃんの言葉は、自分の想いをわかってもらおう
とする言葉でもないし、父親から想いを引き出そうとする言葉でもない
のである。拒絶と断罪を一方的に「ぶつけてるだけ」。

レイちゃんのなかでは、父親との物語は愛の断念によって終わっている
のであり、今さらその古痍を弄ばれるのは望むところではない。たしか
にレイちゃんは親子関係において痍を負っているのではあるが、父親を
切り捨てることによって、辛くも現状の安定を得ている。

非常に実も蓋もない言い方をすれば、今のレイちゃんにとって実際的な
問題と感じられるのは、「関係性を断ち切った人間が、しつこく復縁を
迫ってくる」という現状なのであって、心に負った痍そのものではない
のである。レイちゃんにとって、父親との関係性はむかし愛を断念する
ことによって一旦終わっているのだし、それはもうすでに整理を附けた
事柄にすぎないのである。

親はなくとも子は育つと謂うとおり、親が子に対してつくった罪をその
まま背負っていく限り、子は子として自身の新たな生を伐り拓いていく
ものなのである。かつて父親に棄てられた経験は、たしかに彼女にトラ
ウマをもたらしたのだろうが、仮にそれが彼女が考えるとおりの経緯で
あったなら、そのトラウマの克服として彼女が選択した行動は正しい。

問題なのは、その過去の悲劇の真相は、どうやら彼女の考えているよう
なものではなかったということなのである。そして、その真相が彼女に
理解されていないということは、実は彼女自身の生き様とは何の関係も
ないことだという言い方もできるのである。

火野隆司が火野レイを棄てたことが事実である以上、その背後にあった
火野隆司の真情など、事実として棄てられた娘にとって、どうでもいい
ことなのである。父親に棄てられ、母親に去られた孤独で辛い数年間を
独りで生き抜くために、「被害者」である稚ない少女が心を殺して受け
容れた「現実」、その陰にあった「加害者」の真情を今さら理解せよと
迫ることは、理不尽以外のなにものでもない。

レイちゃんが父親の真情を理解するということは、十全ではないにせよ
今ではすでに居心地よく感じられているこの世界を、たった今から違う
目で見なさいと強制することに等しいだろう。そしてそれをしなければ
ならない理由とは、かつて冷酷にも自分を棄てた憎い父親に対して公正
であるためでしかない。

だとするなら、火野父子の間の物語は、実はレイちゃんの救済をゴール
とするものではなく、火野隆司の救済をゴールとするものであることが
わかるだろう。火野隆司の癒えざる悔恨が救済されることにより、その
救済をもたらした火野レイにも救済がもたらされるという構造なのだ。

レイちゃんが抱えている問題は、最終的には、レイちゃん本人の苦悩の
解決が課題となるのではなく、レイちゃんがその過去の痍を癒すために
切り捨てた父親の救済という課題に収斂したのである。それはつまり、
レイちゃんが被害者の立場に固執して父親を赦さないのは、公正な態度
ではない、その事実が課題を構成しているということなのだ。

ならば、今回のドラマにおいてレイちゃんにもたらされるのは、今現在
の辛さの救済ではなく、自身に苦痛をもたらした仇敵の救済を通じて、
より良い人間となることなのである。それを、このレビューのタームに
倣って「飛越」と呼ぶなら、たしかにこの時点までレイちゃんの物語は
一貫性をもって語られていたのである。

パジャマパーティーの喧噪の果てに、レイちゃんと亜美ちゃんは稚ない
獣のように肩を寄せ合って眠る。そのころ、彼女たちの父親と母親は、
「写真」という媒介を通じてそれぞれの娘たちに想いを致す。

前回のエピソードで衝突した二人がこのように優しい和解を果たすこと
で、さらに各々の父母との和解の道筋を準備する作劇作法は見事の一言
に尽きるだろう。これは関東キー局エリア限定の話になるかもしれない
が、このような流れを描いた直後に、父親と稚ない娘の温かい触れ合い
をモチーフとする森永ビスケットのCMが挟まることすら演出の一つに
思えるくらいである。

こうした手続を踏んだうえで、いよいよ父親と娘は亡き母親の御霊の前
で和解を果たすのであるが、レイちゃんのほうで会見の場を教会に指定
したのは、「ちゃんと話す」という並々ならぬ意志の顕れである。

なぜなら、そこで父親と話す以上、すべての経緯を亡き母親が見守って
いるからだ。

レイちゃんが抱いている愛の断念のストーリー、この欺瞞性には自身が
すでに自覚的であるのだし、「勝手にママを不幸にするな」と一喝した
父親の心情にも嘘がないなら、父娘共に亡き母親の前ではすべての虚飾
が許されないのである。

父を問い質す言葉を疚しく感じないなら、それは偽りない自身の真情の
表出なのだし、母親の霊前で父親の言葉に欺瞞が宿るなら、それは結局
これまで思ってきたとおりの父親であるということだ。半面、僅かでも
父親の言葉が信じられると思うのなら、ここで語られた父親の言葉なら
信じたっていいのである。

墓前に跪く父親がレイちゃんと同じ写真を手にしているのを認めた瞬間
に、レイちゃんは父親の言葉を信じられるようになっている。かつて父
親に棄てられた娘は、母親の前で、母親の力を籍りて、一人の男として
の父親の真の姿と対峙する。

しかし、「対話」という言葉を字義どおりの意味にとるなら、この場面
の言葉のやりとりは至極物足りないものでしかない。言葉によっては、
何も解決されていないのである。

どうして、どうしてあの日、病院に来なかったの。

しつこいなおまえは。なにか理由があれば赦せるのか。

———理由によるわ。

仕事だ。本当に忙しかった。おまえを預けなければならなかった理由も
ほかにない。

じゃあ…

わかれとはいわん。

この数行のやりとりを額面どおりに受け取るなら、結局火野父子の間の
わだかまりは、言葉によってはまったく解消されていない。レイちゃん
がおそらく期待したであろう「赦せる理由」を、父親はまったく提示し
てはくれない。この時点ではかなり父親に歩み寄っているレイちゃんの
心情を考えれば、妥当な理由さえあれば父親を赦したいと思っている。

非常に現実的なことをいえば、この場面を言葉で解決するなら、それは
プレゼンテーションの問題となるのである。よしんば若き日の火野隆司
が「本当に忙しかった」として、それを理由にして妻子を遠避けていた
のだとしても、それには彼なりの事情があったはずなのだ。

火野隆司の職業人としての半生が、まったくくだらない無意味なもので
ない限り、火野隆司が自身をまったくくだらない無価値な人間と蔑んで
いない限り、彼には彼なりの理があったはずなのだ。

この限りにおいて、火野隆司がかつて妻と娘を棄てた裏には、彼の立場
として無理もない「理由」があったと納得できれば、娘にとってもそれ
は慰めとなったのかもしれない。それをミステリ的な文脈でいうなら、
父親の側の事情として意外性のある「真相」を提示することで、かつて
の悲劇の全体像を明らかにすることである。

ストーリーの全体像が明らかになることで、レイちゃんが父親の立場と
真情を理解する助けとなり、それが「赦せる理由」となるという落とし
どころを用意することも十分に可能だったはずだ。

だが、この物語においてはそのような解法はもたらされない。

セリフのやりとりだけを視るなら、父親は歯痒いくらいにいっさい自己
弁護をしてくれないのである。さらには、「わかれとはいわん」という
言葉で「じゃあ」と言い募る娘を制して、その歩み寄りを拒絶すらして
いるのである。

言葉による相互理解という意味では、この対話は決裂している。意味的
な面で視るなら、単に前回の対決の内容をなぞっただけなのである。

ある種、予定調和的な作劇の観点で視るなら、この墓畔の対話はあまり
にも意外な展開となっている。おそらく、視聴者の期待としては、この
場面で妻子を棄てた火野隆司の側の「無理もない事情」が言葉によって
提示されるものとばかり思い込んでいたはずだ。

ところが、この物語ではそんな現実的な意味での「無理もない理由」は
解決への力など持たないのである。「理由があれば赦せるのか」という
言葉は、「わかれとはいわん」という言葉は、父親が明かす「真相」の
提示が解決とはなり得ないという宣言だ。

つまり妻子の遺棄という行為は、理由の如何によって赦される事柄では
ないと、他ならぬ火野隆司によって規定されてしまったのである。なら
ば、火野隆司はレイちゃんから赦されることを求めてなどいないのだ。

母親の墓前に呼び出したレイちゃんの意図が、過去に対する「赦し」に
まつわるものであることは、十分に理解されているはずだ。それは火野
隆司の口から「なにか理由があれば赦せるのか」という言葉が出ている
以上、明らかである。そのうえで、火野隆司は娘による「赦し」を拒絶
しているのである。

この場面でレイちゃんに伝わったこととは、「わかれとはいわん」と口
にした火野隆司の視線が母親の墓標に這い寄ることで、彼の心に燻ぶる
悔恨が未だ癒えていない、自分と同じように父親もまた苦しんでいる、
という事実のみだ。仮に、現実的な意味で「無理もない理由」があった
のだとしても、彼自身がその妥当性を信じられないということだ。

打ちひしがれた父親の姿を視るにしのびず、そびらを返してレイちゃん
はその場を立ち去ろうとする。

レイちゃんの失望はオレたち視聴者の失望でもある。レイちゃんが視た
父親の真の姿は、あまりにも痛ましいものだった。彼女の父親は、娘に
赦しを求めてはいないのであり、それ以前に、愛する妻を棄てた自分を
自身が赦せずに未だに苦悩しているのだ。

一葉のスナップ写真に写しとられたそれなりに幸福な家族図を、自らの
手で棄て去った悔恨を未だに癒せずにいるのである。一人の男のこんな
苦悩を、その娘が癒すことができるのか。彼もまた、同じような苦悩に
苛まれているからといって、それは和解への決定打とはならないのだ。

このままで終わるなら、この墓畔の対話は悲劇の完遂という以上の意味
は持たないだろう。レイちゃんは、もう父親を一方的な悪役として憎む
ことすらできない。母親の辛さ、自身の辛さ、それに加えて父親の辛さ
をも抱え込むだけの話である。

かつて父親がつくった罪のゆえに、幸福だった火野一家が迎えた悲劇、
母親の死が遺された者に与えた悔恨、この絶望からの火野父子の再生は
言葉を超えたところでもたらされるのだ。

歩み去るレイちゃんを呼び止めた父親の言葉は、一見して何ということ
もないものである。

レイ。取材があるんだ。親子で食事をする。出席しなさい。

これは火野隆司がレイちゃんに接近する際の常套句であって、言葉自体
はどうという意味も示していない。しかし、直前の場面で西崎によって
この父親の言葉の裏には偽らざる愛情が隠されていることが識らされて
いる。

この一言に同期するように、幾度もくり返されてきた回想の「その先」
がついに提示され、死せる母を呼び続けた稚ないレイちゃんが振り返り
不在の父親を呼び求める姿がインサートされる。

この場面における真の対決は、実はこの後の数カットなのである。

振り返り父親の顔を見据えるレイちゃん、その視線を受け止める父親。
この場面の辻褄は、この芝居場だけで成立しているのである。

前回散々くさした形になった北川景子の演技であるが、この墓畔の場面
における芝居は全体に出色の出来である。無論、それを相手どる升毅の
演技はさらに素晴らしい。このクライマックスにおける火野隆司のリア
クションは、娘の視る「父親の真の姿」を凝縮したものでなければなら
ない。この場面の父子の間の通い合いがドラマ表現として表出するのは
この二人の表情芝居を通してなのである。

父親の一言をきっかけに、回想の締め括りと西崎のリークの綜合として
一瞬の間合いの芝居が生起する。父親を求める娘の気持ちと娘を求める
父親の気持ちが、この一瞬にカチリと音と立てて噛み合うのである。

父親を求める娘の気持ちが、折り畳まれた写真の仄めかしによって、心
の奥底に押し込められたものであることはすでに指摘した。その気持ち
を「もう整理の附いたこと」と殺してしまうことで、火野レイの現在が
あることも指摘した。

さらには、西崎のリークによって、火野隆司の娘を求める気持ちに偽り
のないことが明かされた。過去の悲劇が横たわる父親と娘の間の深淵、
それを橋渡しするのは、互いを求める現在の気持ちなのである。

過去の悲劇の全体像を明らかにすることで解決がもたらされるのではな
く、現在の気持ちの真正さを明らかにすることで解決をもたらすやり方
は、きわめて小林靖子的である。

わかれとはいわん」の一言で終わった問答に、終わってしまった過去
の再解釈により良い未来をつくりだす力などはないという力強い信念が
うかがえる。

振り返ったレイちゃんが父親の顔を見据えるのは、これまで何度となく
くり返された同じ言葉を、父親がどんな顔で言っていたのか、これを見
据える態度である。西崎の語る父親像が真実のものであるのかどうか、
これを見定める態度である。

これに応えて升毅が演じる表情は、語らずして一人の男としての父親の
真情を雄弁に表現している。理も非もなく、ただただ本心の愛情から娘
を求める一人の男の顔である。自分を赦せずにいるために、本心からの
愛情を言葉にできない打ちひしがれた男の顔である。自分の愛情には、
どんな理もないのだという諦めと、それでも娘を求める気持ちに引き裂
かれた惨めな男の顔である。

だからこそ、父親の言葉に対する娘の言葉が、

たぶん、もうすこし時間がたったら…

という、表面的には噛み合っていないものになっているのである。本心
を隠した父親の言葉に本心の部分で答えることによって、逆にこの会話
は噛み合った会話となるのである。

たぶん、もうすこし時間がたったら。この言葉は、すでにして「赦し」
をめぐる言葉ではない。たぶん、もうすこし時間がたったら、火野隆司
と火野レイは、過去の悲劇によって一度滅びた関係をやり直せる。新た
な関係を始められる。

かくしてレイちゃんは、またしても飛越を果たしたのだ。

過去の悲劇をめぐる「赦し」はすでに課題の中心ではあり得ない。罪も
憎しみも、過去の彼方においてきてしまおう。母親は死んでしまったが
彼女と彼女の父親は生きている。生き残った人間には過去を乗り越える
義務がある
のだ。

たぶん、もうすこし時間がたったら。この言葉は、これから始まるはず
の新しいなにかの予兆である。かつて喪われたなにかの回復ではなく、
これから始まるまったく新しいなにか、その予感である。

この場面のクライマックスは、たった三つの言葉のやりとりと、それを
口にする者の表情によって成立している。「そうか」と答える父親の、
なんともいえない戸惑いと戦き、それを受けた娘の優しい微笑み。

過去の悲劇にまつわる罪と憎しみ、そして「赦し」の問題をすべて超越
して、優しい愛情に基づいて父親の「気持ち」を受け容れたレイちゃん
の飛越。これは火野レイに固有の成長物語であると同時に、一種、女性
なるものの慈愛によって一人の男が救われる救済の物語でもある。

この場面の締め括りとしてレイちゃんが墓園を歩み去り、亡き母の墓前
に父親が独り残されるという構図は、豊穣な余韻を奏でている。父子の
和解が課題でありながら、この解法は、ある意味火野隆司の父親性から
の解放を示唆している。

この場面の対話が、すでに火野リサの墓標の前にある父の許に火野レイ
が訪れて去るという動作を与えられているのは、火野リサと火野隆司と
いう対がまず前提としてあって、そこに娘である火野レイが往還すると
いう形で火野一家の関係性が規定されているということだ。

火野隆司は、父親として失敗した男である。火野リサの夫として魅力的
な男ではあっても、火野家という家庭を維持することに失敗した家庭人
なのである。

そういう意味では、レイちゃんにとって火野隆司は、肉親としての自明
性に基づいた父親ではない。一般的な意味における父親は、漫然と家庭
内に居場所をつくるという行為によって、肉親としての自明性を獲得す
るものであるが、火野隆司という男は、家庭に居場所をつくれなかった
父親なのである。

この場面において火野リサの墓前の立ち位置をつねに火野隆司が占め、
そういう設定の場に火野レイが往還する動作となっているのは、決して
偶然ではない。そういう立ち位置にある火野隆司を火野レイが受け容れ
て、まったく新たな形の父子関係が構築されることを、この場面の構図
が示唆している。

すべてのドラマが終わったエピローグ。レイちゃんは「しゅっしゅっ」
と音を立てて巫女装束の袴の紐を引き締め、襟元を正し、机上の写真に
微笑みを投げ掛けて自室を後にする。

それは紛れもなく新たな生活に向けて一歩を踏み出す姿である。

Act.33においては、「ただいま」と呼びかけた同じ写真でありながら、
今では白い折り目を加えて、父の姿がそこにある。今までとは異なる、
まったく新しい生活が始まるという予感。

まさしく、火野レイという人物は刹那において飛越するのである。

これは余談に渉るが、Act.33のレビューをアップした後、本エピソード
のレビューが遅れに遅れたことは幾重にも陳謝したい。分けても申し訳
ないと思うことは、テレ朝の「富豪刑事」を観たあとでこのエピソード
を再見しても、初見時の感銘を思い起こすのがかなり難しいということ
である(木亥火暴!!)。

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