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Act.34-3 母親とその娘

一通り火野父子の行く末を見届けたあとは、水野母子の番である。

とはいえ、今回のエピソードでは、火野父子の問題と比べて、水野母子
の問題はさほど入り組んだものではない。なぜなら、物語の課題として
謎をかけられているのは、この物語の主要登場人物である亜美ちゃんで
はなく、今回初めて登場したその母親だからである。

火野・水野親子の問題に関しては、すでにその課題の本質を「娘が父親
の真の姿に気附くこと」「母親が娘の真の姿に気附くこと」と指摘した
が、語りの作法上、その両者の対照は、かなり大きなプロセスの違いを
孕んでいる。

今回初めて登場した父親の複雑な真情を娘と視聴者が理解するプロセス
に比べて、今回初めて登場した母親がこれまでの物語をとおして詳細に
語られてきた娘の現状に気附くプロセスのほうが、圧倒的に明快なのは
当然なのである。

水野母子のドラマは、水野冴子の気附きのプロセスに関するリアリティ
が描写上の課題となるが、気附きの対象となる娘の現状は、今さら語る
必要がないことである。文字どおり「気附きました」というプロセスを
いかにリアリティをもって描くか、語るべき内実はそれだけだといって
差し支えない。

つまり母親の気附きのストーリーに関しては、「何を」はいっさい省略
してかまわない、「どのように」だけが問題となるのである。これは、
特定の時点における事件について、「いつ」「どこで」「だれが」「何
を」「どのように」のすべてを語る必要がある火野父子のストーリーに
比べて圧倒的に単純だ。

さらには、今回のエピソードで亜美ちゃんが何らかの障碍に衝き当たる
のだとしても、それを主要な問題として語ることは、これまでの物語の
無用なくり返しにすぎない。前回指摘したように、水野冴子との関係性
が水野亜美のすべての課題の母型であるとすれば、水野母子の間にある
問題は、すべてこれまでに何らかの形で語られてきた事柄の変奏でしか
ないからである。

それだからこそ、水野冴子との対決がこれまでの水野亜美物語の総決算
となり得るわけだが、言葉を換えれば、今回のストーリーは亜美ちゃん
本人の悩みを中心とした物語としては成立しないということだ。

無論、これまでの亜美ちゃんの生活のなかで唯一絶対の存在だった母親
との葛藤が悩みを生まないはずはない。ただ、それはすでに物語の主要
な内実として語るべき事柄ではなくなっているのである。

今回のエピソードで描かれるべきなのは、悩みのプロセスではなくその
結論である。悩みを抱えた内面を描くのではなく、プロセスは省略して
視聴者の想像に任せ、その悩みに対して、亜美ちゃんがどのように答え
を見出したかという行動を描けばそれでいいのである。

つまり、あらゆる意味で、水野母子の物語は単純明快な一筋道なのだ。
このエピソードは、これまで長きに渉って語られてきた水野亜美物語の
荘厳なエピローグでしかない。

亜美ちゃんは、アバンで数カット街角を彷徨する姿が描かれただけで、
クラウンにおける二人きりのパーティーの場面まで、いっさい劇中に姿
を現すことはない。それは、亜美ちゃんの葛藤を主要な叙述対象とする
ことができない以上当然のことである。

それまで筋立ての表面で動いているのは、クラウンに泊まり込んだレイ
ちゃんであり、このパーティーの場面に続くのがレイちゃんとパパとの
和解のストーリーであるため、今回のエピソードがレイちゃんを中心と
したものという印象はさらに強められている。

それは、今やすでに亜美ちゃんの抱える悩みの解消プロセスそれ自体が
ドラマを紡ぎ出すことなどないからだ。レイちゃんのそれとは違って、
亜美ちゃんの悩みはすでに語り尽くされ答えが用意されているからだ。

親子の問題に関しては、「ちゃんと話す」ということ、それ以外の解答
などあり得ないのだし、それはレイちゃんの場合も同じである。だが、
亜美ちゃんがその解決を目標に「どう話すか」をめぐって悩んでいるの
に対し、レイちゃんの場合は、それが唯一の解決であることに気附いて
すらいない。

今回のエピソードにおいては、レイちゃんの場合はその解答に逢着する
ための試行錯誤が描かれているが、亜美ちゃんの場合はそれを実行する
までの「逡巡」が描かれているだけなのであり、ここに視るべきほどの
ドラマはないだろう。

無論、本放送時ならともかく、全話DVDの特典映像によってうさぎと
水野冴子の対話が丸ごとカットされた経緯が明らかにされた今は、本来
原脚本で火野・水野両親子のストーリーがほぼ等分に描かれていたこと
は疑い得ない事実である。

火野父子の場合はレイちゃんの心の変遷を軸として、水野母子の場合は
水野冴子が見失った娘を再び見出すまでの気附きを軸として、両者等分
に物語が構築されていたのである。

だが現状の作品を視る限り、この量的なバランスは火野父子側に破れて
いる。火野父子のストーリーがエピソードの芯となっていて、その周縁
に亜美ちゃんが見え隠れする構成となっているように見える。

そして、冒頭で消息を断った亜美ちゃんは、あたかもレイちゃんの葛藤
に救いの手を伸べるかにクラウンを訪れ、レイちゃんの物語が終息した
後に、亜美ちゃんのこれまでの物語すべてを優しく受け入れるかのよう
なエピローグがある。

いわば、水野母子の物語は、メインで叙述される火野父子の物語の修飾
音のような形で、定点だけが配置されているのである。

うさぎと水野冴子の対話がカットされたことで、このようなバランスの
破れが生じ、オレが前回展開したような水野冴子をめぐる「悪い母親」
問題が曖昧となってしまったわけだが、おそらく、それこそがあの場面
が丸ごとカットされた理由ではないかと思う。

水野母子の物語の無事円満な着地が物語作法上の奇跡であるというオレ
の印象は、このような実作における取捨選択の過程を垣間見ることでも
補強されるのである。うさぎが亜美ちゃんを探して水野宅を訪れ、水野
冴子と交わす会話。そして「それ以外のところ」とうさぎに示唆された
彼女が呆然と呟く「知らないわ」というセリフ。

このシーンがカットされた本当の理由は、舞原本人に聞かないとわから
ない。実際に撮影されている以上、脚本段階ではとくに不要だとは感じ
なかったということだろう。その後に、不要と判断して積極的にカット
したのか、必要ではあるけれど重要性の低い要素として泣く泣くカット
したのか、そこまでは他人であるオレにはわからない。

ただこのシーンがもし完成作品に反映されていたら、水野冴子が今現在
の亜美ちゃんをまったく理解していない、仕事の忙しさにかまけて娘を
見失っていたという事実が必要以上に強調されてしまうように思える。

それはつまり、彼女が「悪い母親」だったという事実の再確認である。
前回のレビューで指摘したように、「悪い母親」の過失によって、娘は
人として畸型的な不全を抱える少女となってしまったのだという事実が
あまりにも冷酷に暴露されてしまう。

それはたしかに事実だろう。その事実を観客に明示するには、彼女が今
現在の娘を見失っていて何一つ理解していないということ、さらには、
その事実に気附かされて呆然とする様子、こういう描写が必要なことも
たしかである。

しかし、それを観客に明示してしまえば、ラストの和解の意味性が少し
冷たいものに見えてくる。「お母さんが悪かったわ、ごめんなさい」。
こういう言外の謝罪の意味を匂わせたものとなってしまう。

そして、たしかに亜美ちゃんは母親の犠牲者ではあるのだろう。母親の
何かが間違っていたからこそ、亜美ちゃんは現実に一人の不幸な少女と
して生きてきたのだから。

しかしその一方で、亜美ちゃんはその母親を絶対視し、尊敬し、一途に
愛してもきたのである。

その人が「私が悪かった、ごめんなさい」「あなたの育て方は間違って
いたわ」と亜美ちゃんに謝ったのであれば、責任関係の帳尻は合うかも
しれないが、一途に母を愛し信じてきた亜美ちゃんのこれまでが酬われ
ない。

逆説めいて聞こえるが、水野冴子はたしかに間違った母親ではあったの
だが、その間違いに気附かされ酬いを受けて「ぎゃふんといわされる」
ことは、決してこの物語のカタルシスにはなり得ないのである。

カットされたシーンのラストで呆然とする水野冴子の姿、それは、亜美
ちゃんが最も望んでいなかったものである。こういう衝撃を母親に与え
たくないから、亜美ちゃんはどんな辛いことがあっても、母親の前では
懸命に明るく振る舞ってきたのである。

ならば、この物語の解決はどこを目指すべきなのか。それは、水野亜美
の母への愛が幸福なものとなること、これに尽きるだろう。至極曖昧な
言い方に聞こえるかもしれないが、これまで亜美ちゃんは母親を愛する
ことで、その愛のゆえにこそ辛い想いをしてきたのである。

本当の自分の姿を視たら母親が失望することになるのではないか、その
恐怖のゆえに、母親が思うとおりの自分であろうと懸命に努力し続けた
のである。心の奥底に圧殺された「本当の自分」の醜い姿に怯え続けた
のである。

Act.16の辛い視線のドラマの原型はここにある。亜美ちゃんがだれかを
愛するとき、愛する人の思うとおりの自分でありたい、心の奥底で蠢く
醜い姿を見られまいと狂おしく願うのは、この母親への愛ゆえなのだ。

無論母親も娘を愛してはいるのだし、母親は母親なりに娘を労っている
のではあるけれど、その愛と労りがかえって娘を追い詰めていることに
まったく気附いていない。その愛と労りこそ娘に恐怖を与えていること
に気附いていない。さらにはその娘自身が、自分の愛が自分自身を追い
詰めていることに無自覚である。

愛し合い労り合っているのに、この母子は不幸なのである。こんなにも
母親に愛されているのに、この娘は不幸なのである。こんなにも母親に
労られているのに、この娘は恐怖に震えていたのである。

だが、うさぎたちとの出会いを通じて、これまでの物語を通じて、亜美
ちゃんの今は変わった。それを母親は識らない。それ以前の亜美ちゃん
が辛い想いを必死で堪えていたことも、それ以後の亜美ちゃんが過酷な
試練を経て仲間たちとの幸福な関係を築くに至ったことも、ひとしなみ
に識らない。母親にとって、オレたちがこれまで視てきた長い長い物語
は存在しないのである。

水野母子の間の問題がこのようなものであってみれば、火野父子の場合
とは落としどころが変わってくるのも当然である。周囲の仲間たちとの
感動のドラマの果てに、自力で成長してきた亜美ちゃんにとって、母親
の過ちはすでに罪ではあり得ないのだ。

仮にこの母子の間に罪がつくられたとするなら、客観的にいって、水野
冴子は加害者であり、水野亜美は被害者である。先ほど指摘した「私が
間違っていました」式の謝罪は、このような加害・被害の関係において
成立する決着の附け方である。そして、そのプロセスを前提として子に
よる親の「赦し」の問題が生起する。

だが、水野母子の場合は、水野冴子の過ちはすでに水野亜美の「赦し」
によって決着する問題とはなっていないのだ。娘に求められている決着
とは、これまでの物語を経て今在る自分を母親の前でありのままに晒す
ことであり、母親に求められている決着とは、自分の識らないところで
成長した娘の姿を、そのままに受け止めることなのである。

……なんだ、メタルダーのお説教ソングかよ(木亥火暴!!)。

いや、まさにそのとおりなのだ。ささきいさをが切々と歌いかける如く
真の愛を乞う者はすべからく、偽りのないありのままの姿を白日の許に
晒す必要があるのである。

そして、その課題はすでにAct.16において解決済みであり、レイちゃん
がうさぎについて語った言葉が、そのまま母親に対しても当てはまる。
うさぎの理想なんて裏切っちゃえばいいのよ」。母親が何を想い、何
を求めていようとも、己の想いや願いを伝えないままに母親に盲従する
のは、真の愛でも労りでもない。

よしんば水野母子の問題において最初に過ったのが母親であるにせよ、
今現在の水野冴子が娘の姿を見失ったのは、娘が母親の望むままの自分
であろうとしたからでもある。ここでは、当たり前の意味での罪も過ち
も問うことはできない。そこは、いつとも識らずこの母子が迷い込んで
しまった共同謀議の迷宮なのである。

このような迷宮の直中で母親の不在に耐えている亜美ちゃんにとって、
それがいかに歪んだものであろうとも、母親との関係は、最後の最後に
残った、変わりたくない、変えたくない何ものかである。

その意味では、今回亜美ちゃんが直面した母親との対決は、レイちゃん
の場合と違って、直截に親との関係性を見直す契機となっているのでは
ないのだ。母親との関係がこのようなものであったとして、亜美ちゃん
自身は何ら苦痛を覚えてはいない、むしろ、母親との関係をそのような
ものとして保っていきたいという動機すら持っているのである。

それが亜美ちゃんの前に課題として立ちふさがるのは、母親の無理解が
原因で仲間たちとの別離が突き附けられたからである。ここにおいて、
母親との関係と仲間たちとの関係が、直接的なかたちで天秤にかけられ
てしまったのだ。

亜美ちゃんはそうしなければならないから母親と対決したのではなく、
これまでの物語を経て変わってしまった現在只今の亜美ちゃんが、最早
そのような関係のままに在ることができないから、母親との対決が不可
避となったのである。

亜美ちゃんは、母親との関係に決着を附けるためではなく、仲間たちと
の関係を大切に想うからこそ、居心地のよい、しかし善意の欺瞞で粉飾
された母親との関係を見つめ直すのである。

そして、カットされたうさぎと水野冴子の対話をここで想起するなら、
母親の思いたいとおりに思わせておきたいという亜美ちゃんの願いは、
やはり潜在的には母親その人を痍附けるものでしかない。

最も近い位置にあるべき母親が、娘の本当の顔を識らないという事実を
不意に識らされること、これ以上の「罰」はあるだろうか。娘を孤独の
なかに置き去りにした「罪」、本当の姿を識ろうとしなかった「罪」、
その酬いこそがこの「罰」である。

亜美ちゃんが母親との関係を見つめ直そうとしない限り、それがいかに
居心地のよいものであっても、彼女と母親との関係は、無限に猶予され
た「罰」によって決算されるべき偽りのものでしかないのだ。そして、
すでに罪と罰の裁きで決着すべき問題ではなくなったはずの関係性が、
このように、一方的な母親の罪の裁きに直結してしまうこと自体が不当
なのである。

あえてくり返すが、舞原がうさぎと水野冴子の対話をカットした真意は
オレにはわからないことだ。しかし、これをカットしたことによって、
このような冷酷な構造を露わにすることなく、荘厳なエピローグが成立
したことは事実だと思う。

なぜなら、あの場面をカットしたことによって、水野冴子がつくった罪
も蒙った罰も、作品のうえでは実現しなかったことになるからである。
現実の作品として残ったのは、水野亜美の毅然とした宣言であり、水野
冴子の母親らしい優しい受容だけである。

本来的には内在するはずの、罪と罰の応報原理は極力そのニュアンスを
払拭されている。物語現実として実現されたのは、水野亜美が果たした
成長の完遂であり、母親によるその受容のみである。オレにはそれが、
この物語が責任の追求や過ちの暴き立て、謝罪の言葉によって決着する
べきではないという、演出者の強い意志表示のように思えてしまう。

そこにあるのは、罪を贖う一人の人ではなく、オレたちが愛する一人の
少女の今を温かく受け容れる一人の母親の姿である。水野亜美が求めて
已まなかった母性の自明性、触れ合う肌と肌の温もりの実感が保証する
無前提の受容。実現さるべきゴールとはこれだったのだということが、
卒然とオレたち視聴者に諒解される。

それによって描出されたのは、激しい対立を調停するための和解ではな
く、愛し労り合う者同士が、これからをより良く生きていくための和解
である。

結果としては、何一つ変わってはいない。転校という事態は回避された
ものの、水野亜美は相変わらず勉学に励んでドクターを目指すのだし、
水野冴子の忙しさはいささかなりとも緩和されるわけではない。

二人はこれまでどおりに生きていくのだ。

これまでどおりのこれからをより良いものとするためにこそ、これまで
どおりで何不自由なかった親子は対決したのである。

さて、そういう次第でこのエピソードそれ単体から水野母子の筋立てを
抽出して検証することは難しい。うさぎと水野冴子の会話をカットした
ことで、亜美ちゃんの失踪をめぐる水野冴子のリアクションにいっさい
明確な言葉が伴わないことになり、一種のアリバイとしての情景描写と
なってしまったからだ。

今回と前回のエピソードは、遊園地の対話を頂点とする水野亜美物語の
美しい帰結点として機能している。脚本を具現化する実践に際して採択
された取捨選択によって、本来あった個別の物語は大きな物語の流れの
なかの巨大な一要素として意味附けられた。

この辺りの事情は、このエピソードの核心を遊園地の対話に据え具体的
に検証していくことで明らかにされるだろう。それでは順を追ってこの
流れを視ていこうか。

今回のエピソードでは、水野母子のストーリーにまつわる亜美ちゃんの
登場場面は、アバンの一カットを除けば、クラウンでのレイちゃんとの
からみ、遊園地の対話、そしてエピローグの三場しかない。

このうち、クラウンのくだりは本来亜美ちゃんにとって積極的な意味を
もつシーケンスであるはずだ。なぜなら火野父子サイドのストーリーに
対しては、クラウンのパーティーが課題の解決に寄与するような積極的
な意味性をもたないからである。

レイちゃんにとってこの場面のもつ意味とは、亜美ちゃんの「ちゃんと
話そうとする
」姿勢にふれ己を顧みる契機となることだけで、そのあと
のパーティーは、モヤモヤとわだかまる内心の葛藤に踏ん切りを附ける
ための莫迦騒ぎであるにすぎない。火野父子の因縁は、直截には仲間と
の絆とは意味的な関連をもたない課題であるからだ。

対するに、水野母子のストーリーでは、母親との絆と仲間たちとのそれ
が直截天秤にかけられており、Act. 5でパジャマパーティーへの参加を
拒んだレイちゃんに亜美ちゃんから持ちかけて二人きりのパーティーを
経験することは、亜美ちゃんの成長を表すとともに、亜美ちゃんが仲間
たちとの絆を再確認する契機となっている。

それは、バックに流れているのが、亜美ちゃんの心情とオーバーラップ
する浜千咲の楽曲であり、後述するように、ラストカットが水野母子の
ストーリーと直結することからも明らかなのである。

しかし、最前ふれたような事情で今回のエピソードの中心がレイちゃん
のほうに振られているため、この場面ではレイちゃん主観のストーリー
ラインに客体として亜美ちゃんが介入してきたような印象を覚える。

そのために、本来亜美ちゃんの課題解決にとって意味をもつシーンが、
レイちゃんの側の課題解決に寄与したような印象につながる。意味的な
筋道でいえば、表現内実が偏心しているわけだが、結果論でいえばこれ
が全体の物語にとって些かも瑕瑾となっていないとオレは思う。

なぜなら、この場面を亜美ちゃんの課題にとって意味のあるものとして
演出することは、端的にいって「くどい」からである。

母親との関係性において亜美ちゃんの課題解決のプロセスを描くことは
「必然的に」これまでの物語の無用なくり返しとならざるを得ない。こ
れはすでに指摘したことだ。

それはつまり、これまでの水野亜美物語のすべての決算である母親との
ストーリーにおいては、課題解決のプロセスはすべからく省略の技法、
仄めかしの話法で描いて差し支えない、そのプロセスは後景に退くべき
であるということだ。

無論、そうでなければならないということではない。これまで語られた
水野亜美物語のリフレインを前面に謳ってフィナーレを飾るという選択
肢もあっただろう。要するに、そうであるかないかという選択が隔てる
のは、粋を通すか野暮に渉るかの分かれ目にすぎないのである。

つまり、これは「センス」の問題なのだ。

オレがこの番組における舞原演出でいちばん買っているのは、そういう
曰わく言い難い、物語を語るうえでの「センス」の部分であり、それを
表現し得るだけの実践的な理詰めの選択眼なのである。

たしかに、この場面がレイちゃんの葛藤にとって意味のある何かとして
描かれているのは、実は「そんな気がする」だけのことであって、意味
性の次元においてはズレをもっているのだ。本来この場面は亜美ちゃん
が仲間との絆のたいせつさを噛み締める契機なのであって、レイちゃん
にとっては「なんとなく気が紛れた」という以上の意味はない。

本来この場面が志向する亜美ちゃんの物語は後景に退き、表面上はレイ
ちゃん主観のストーリーが墓畔の対話までリニアルに流れていく。オレ
にはこの場面において亜美ちゃんを客体として描き、亜美ちゃんのため
に用意された意味性を裏面に回す「センス」が粋なものに思える。

それが単に「なんとなく気が紛れた」「吹っ切れた」という程度の意味
にしかすぎないにもせよ、亜美ちゃんのために用意された場面の意味性
がレイちゃんにとっても意味をもっているように「見える」ということ
は、やはり「センス」の問題としかいいようがない。

それは必然的に導き出される筋道ではなく、結果としてそのようなもの
となってしまった断片に、積極的な意味を見出そうとする「眼」の所産
である。意味性の次元ではズレをもつこの場面の描写には、人間の現実
についてのリアリティが感じられる。

リニアルに続いているレイちゃんの物語において、レイちゃんが何某か
の「踏ん切り」を附けている裏で、その場面の本筋として亜美ちゃんが
何某かの感触を噛み締めているという描き方。オレには、現実とはその
ように知覚される何かであるというリアリティが感じられるのだ。

ひいては、亜美ちゃんが自身の物語において解決をめざすプロセスが、
レイちゃんに対してもポジティブに働きかけるという成り行き、これを
このように描くことは、意味性の次元において整合を期すことよりも、
物語として豊穣であるとオレは思う。

そして、この場面がこのようなものになったことで、これに続く遊園地
の対話が、それ単体で成立してしまう場面であるという事実がより明確
になったと思う。つまり、前回の問題提起編から直結する形で、無前提
で遊園地の対話が描かれても不自然ではないということだ。

亜美ちゃんの葛藤を描くことがすべて何らかのくり返しになってしまう
以上、今回描かれるべきなのは水野冴子の側の心情のみであって、原理
的にいって亜美ちゃんは、今回の冒頭で姿を消したまま、遊園地の対話
の場面だけが描かれても、まったく不自然ではないのである。

さらにいえば、うさぎとの対話が削られた以上、水野冴子固有の物語も
また生起することはなかったのであるから、この間の事情はもっと明確
になってしまっている。すなわち、水野母子の物語にまつわるすべての
付加要素を削ぎ落として考えると最後に残るのはこの遊園地の対話のみ
なのである。

前回と今回のエピソードで描かれた水野母子側の物語とは、これ以外は
あり得ないという、水野亜美物語の窮極のハッピーエンドなのである。

このギリギリの着地点は、なんという奇跡なのであろうか。

ある意味では、今回描かれた水野母子側のストーリーは、物語性を解体
されている。水野冴子と水野亜美の間に横たわるのはやはり過去の過ち
なのであり、この二人をめぐる物語はどうしたってそれについてのもの
とならざるを得ないはずなのである。

このレビューの冒頭に掲げた一節を思い起こしていただこう。火野父子
の物語で論じたような筋道は、水野母子の物語においても成立するはず
なのであり、この母子の物語を加害・被害の天秤で断罪することも十分
以上に可能なのである。

それを回避してハッピーエンドを用意することは、ある意味、物語性を
放棄することにつながるだろう。事実今回の物語においては、これまで
水野母子を呪縛してきた問題の構造は有耶無耶にされているのだ。これ
を剔抉せぬことには、水野母子の物語は語り得ないはずなのである。

しかし、この物語において追求されているのは、そのような薄っぺらな
公正の感覚ではない、愛と幸福の問題なのだ。それはなにより、物語と
いうツールのもつ機能に関する問題でもある。

物語が成立するためには、うさぎと水野冴子の対話はカットされてよい
要素ではなかった。あの要素があればこそ、物語の「筋道」が成立する
のである。そして、その筋道が潜在的に志向するのは、やはり子による
親の裁きの問題であり、赦しの解決なのである。

うさぎと水野冴子の対話が削られたことで、水野母子側の物語は、物語
であることをやめ、水野亜美物語の大きな流れのなかの一つの「場面」
として屹立することとなった。その「場面」とはすなわち、「ハッピー
エンド」という虚構である。

ハッピーエンドという虚構はご都合主義の産物なのではない、それは、
悲劇的結末を出て創造的な語りの営為なのだということが、この作品を
見ればわかる。今回のエピソードで突出しているのは、水野亜美物語の
結末が断罪と赦しの筋道によって締め括られることを、物語を放棄して
まで拒絶する頑固なまでの意志である。

そして、断罪と赦しの構造を回避する意志は、独り演出者の意志である
のみならず、それが二重写しとなって、劇中の亜美ちゃん自身の意志と
して見えてくる。応報原理による冷酷な秩序回復の意志ではなく、愛に
基づいて対立関係を超克し、幸福を追求する意志。ハッピーエンドとは
こういう意志の所産であるべきだ。

ひたすらに追求する者に応える形でもたらされるものこそが、ハッピー
エンドであるべきだ。

このレビューも、ようやく遊園地の対話に辿り着いた。長い、長い水野
亜美物語もこの場面で終わるのである。この場面を詳細に視て水野母子
についての検証を終えることにしよう。

クラウンでのパーティーを終えて、前回の冒頭と同じような構図でレイ
ちゃんと別れた亜美ちゃんは、自宅へ向かうのかと思いきや、なにゆえ
か長い陸橋上を歩いている。それはどこなのか。

風の音。そして、それに乗って微かな歓声が聞こえてくる。亜美ちゃん
の視線の先には、ジェットコースターのコースがある。それは、かつて
Act.21において、まこちゃんと共に乗ったものである。そうだ、ここは
ダーキュリー編の舞台となった「木馬遊園地」なのである。

ここでカットして火野家のストーリーが続き、そちらのほうが一段落し
たタイミングで、問題のメリーゴーランド前のシーンにつながる。

メリーゴーランドの前に佇み、回り続ける木馬を見つめる亜美ちゃん。
こちらに手を振る少女の姿に、「ママ!」と手を振る稚ない自分の姿を
重ね合わせた亜美ちゃんは、「ちゃんと、話せる」と自分に言い聞かせ
そびらを返して数歩を踏み出す。

その瞬間、視線の先に母親の姿を見出し、息を呑む亜美ちゃん。

ママ…

よかった。ママにもあなたが見つけられて

どうしてここに?

昔の写真見て、想い出したの。ここが好きだったわね。あの頃は、まだ
パパもいっしょだった。

(テレティアが鳴り、ルナがうさぎたちの苦戦を伝える。テレティアを
畳む亜美ちゃん。すべてのSEが消え)ママ、ごめんなさい。あたし、
今はまだ、勉強よりももっとやりたいことがあるの。友だちといっしょ
に。ママに、嫌われても。

(静かに歩み寄り、亜美ちゃんを抱きしめて)いってらっしゃい

その瞬間、SEが戻り亜美ちゃんはうさぎたちの許へと駆け出す。娘の
後ろ姿を見守りながら、水野冴子はバッグから取り出した一葉の写真に
視線を落とす。

天使の羽根を背中に着けて木馬にまたがる、稚ない亜美ちゃんの姿が、
そこにある。

書き出してしまえば、たったこれだけのシーンである。たったこれだけ
で、必要にして十分に水野母子のドラマが完結しているのである。

再々言及しているように、今回のエピソードにおける水野母子サイドの
シーケンスは最小限のものにすぎない。しかし、それでいて火野父子の
それと比べても退けをとらぬだけの濃密な内実が描かれていることは、
だれの眼にも明らかである。

その秘密の幾許かの解明を、及ばずながらここで試みるとしよう。

このシーンで印象的なのは、うさ・まこが苦戦している場面からカット
した瞬間、のどかに流れるメリーゴーランドの伴奏曲だ。そして、この
木馬遊園地のシーンについてだれでも気附くことは、最初から最後まで
劇判の楽曲がいっさい使われていないということだろう。

レイちゃんの墓畔の対話では、大詰めのやりとりには劇判が附けられて
いないものの、全体としては、適宜情景に沿った劇判が使われている。
それは、火野父子の対話が静謐の領する奥津城で交わされ、水野母子の
それが遊園地の雑踏のなかで交わされているという対照のゆえである。

ドラマ的に必要なSEがない墓畔の対話では劇判で間を補ってやる必要
があったのだろうが、メリーゴーランド前の対話ではすでに生音として
の楽曲が鳴り響いている。陸橋上のシーンで、風の音から歓声へつなぎ
生音で視線を誘導するやり方は、このシーンが生音だけで成立すること
から逆算した手法だろう。

無論、すでに生音として音楽があるから音楽を附けなくてもかまわない
ということではない。大前提として回想が重要な意味をもつ場面の舞台
に、メリーゴーランドすなわち回転木馬を用いるというビジュアル上の
しかけがあり、その伴奏曲を一種のアンビエント・ミュージックとして
用いるという聴覚上のしかけと連動しているのである。

いうまでもなく回転木馬には回想の枕詞(笑)である走馬燈とのイメージ
連鎖があって、その伴奏曲はとくに始まりも終わりもない多幸感溢れる
フレーズの循環によって構成されている。そして、そこにある多幸感は
所詮遊具の賑やかしに使われる電子音のまやかしにすぎない。

回転という運動は永遠を志向し、回り続ける回転木馬と循環する楽曲は
いついつまでも限りなく続く幸福を思わせてくれるけれど、所詮遊園地
の遊具は時間がくれば停まってしまう。その瞬間、永遠に循環する音楽
だって停まってしまう。永遠に続くしあわせなど、最初から嘘なのだ、
まやかしなのだ。

だが、稚ない日々に木馬上で覚えた幸福感だけは本物なのだし、そこで
父母に手を振った一瞬だけは永遠なのだ。だれしも、遊園地の安っぽい
アンビエント・ミュージックを耳にして幸福な過去を想わぬ者はない。

この場面が生音だけで構成されているのは、生音として響くこの楽曲が
最適な劇判となり得るからなのである。そして、このメリーゴーランド
の楽曲は、かのダーキュリー編においてすでにオレたちの耳に馴染んだ
同じものである。

この同じ場所をクライマックスの舞台にとり、同じ楽曲をフィーチャー
して用いるしかけは、今回のエピソードそのものを水野亜美物語全体の
コーダに位置附ける道具立てとしてうまく機能している。

この木馬遊園地とメリーゴーランドがオレたちの前に初めて現れたのは
ダーキュリー編の開幕にあたるAct.21においてであったが、この不可解
なシーケンスの挿入がオレたちを戸惑わせるものであったことは、あの
ときのレビューでふれたとおりである。

クンツァイトの妖術で正気を喪ってしまった亜美ちゃんが、奇矯な言動
でまこちゃんを振り回すというこのエピソードで、まこちゃんの手料理
の粥を平らげた亜美ちゃんは、唐突に「遊園地に行きたい」とせがみ、
異常なほどに歓声をあげ、嬉々としてまこちゃんに手を振ってみせた。

そして、その奇態な言動と遊園地という場の持つ意味については、その
エピソード内はおろか、ダーキュリー編に決着が附いたAct.28において
すら明かされることはなかったのである。

あのときオレは、妖術によって正気を喪った状態だからこそ、友の俤に
仮想上の母を視て、正気ならば許されない控えめなわがままをぶつけた
のでは、と憶測した。今となってみれば、それが一種の幼児退行だった
ことが明らかとなったわけで、あのとおりのことが、ずっと昔、実際に
あったのである。

その頃は「まだパパもいっしょだった」のであり、亜美ちゃんにとって
最も幸福な時期だったのであろうことは想像に難くない。そして、これ
まで亜美ちゃんの口からは一言も父親に言及したことがなく、母親の口
から今回初めて「パパ」という言葉が出たのであるから、水野家の父親
は死によってではなく母親との合意に基づいて二人の許を去ったのだ。

なぜなら、片親である理由が死別なら子どもが親に気を遣う理由がない
からだ。じっさい、レイちゃんが父親に対するとき、二言目には母親に
言及するのに対して、亜美ちゃんの口から父親に関する言葉が出たこと
は一度もなかったのである。まるで、母親が独りで亜美ちゃんを生んだ
かのように、水野母子のストーリーにおいて、これまでいっさい父親は
存在しなかったのである。

意識して避けているのでもない限り、父親の話題がいっさい出ないのは
片親の子どもの境遇をドラマで描く話法として不自然だろう。だとすれ
ば、亜美ちゃんがこれまで一度も父親の話題にふれなかった理由は一つ
しかない。それを口にすることで痍附く人がいるからだ。

つまり、亜美ちゃんは母親の不在を嘆くことを自身に禁じている以上に
父親の不在を嘆くことも叶わないのだ。ならば亜美ちゃんが木馬遊園地
に抱く思い入れとは、独り母親との過去のみならず、喪われた水野家の
幸福の姿でもあったということだ。

さらには、水野一家が欠けることない幸福を享受していた木馬遊園地の
記憶、それをたいせつに胸に秘めていることもまた、亜美ちゃんのほう
から母親に明かすことはできないということになるだろう。父親に言及
し、木馬遊園地の記憶にふれることは、自分の意志によってその父親と
離別した母親を暗に責めることとなる。

木馬遊園地にまつわる亜美ちゃんの胸奥の秘密は、母親である水野冴子
が独力で探り当てねばならないことなのだ。今回のエピソードで、脚本
に描かれながらも現実に生起しなかった水野冴子の気附きのドラマは、
ここから逆算したアリバイの描写へと解消されている。

クラウンでレイちゃんと二人だけのパーティーを愉しむ亜美ちゃんの姿
とカットバックして描かれる水野冴子サイドの情景には、彼女のセリフ
はいっさいない。

「心配しないで下さい…」と始まる携帯メールにかぶる形で現在の亜美
ちゃんの声。「伝言」というイメージ連鎖でキッチンのホワイトボード
へとつなぎ、稚ない亜美ちゃんの姿と共に「ママへ 亜美もがんばって
ドクターになります
」という声をオーバーラップさせる。

朝日に包まれたキッチンに佇む娘の後ろ姿と、深夜の薄闇の空舞台との
対比は、水野冴子がおそらく初めて経験する「娘の不在」という情感の
仄めかしだ。これまでは、母親が娘から離れているのであって、その逆
ではなかったのだ。

クラウンのパーティーを挟んで、先に詳述した「写真」をキーアイテム
とするシーンにつながるわけだが、このシーンでも机上のスナップから
アルバムへつなぎ、現在の姿から過去の姿へと遡るイメージ上の段取り
が踏まれている。

アルバムのページを繰るごとに水野冴子の胸裏に蘇るなにものか。写真
に添えられた彼女自身の手になる文字の連なり。

ラストカット、「我が家の天使『亜美』」と題された写真に辿り着いた
瞬間に、カメラは稚ない亜美ちゃんの背中の羽根にズームアップして、
クラウンで微睡む二人を包んだ羽根枕の羽根に重なる詩的なイメージの
美しさと、描写としての的確さはどうだろう。

いわば、この一連の場面は、例によって舞原が得意とする「それとして
描かれざる回想場面」の一つなのである。火野父子のシーケンスでは、
今現在の父子関係を調停する鍵として、レイちゃんの脳裏で再生される
稚ないレイちゃんの映像の連なりが扱われていたが、水野母子のシーケ
ンスでは、幼時の映像そのものではなく過去の姿を今に伝える「写真」
を媒介にして、今現在の水野冴子視点の実景としての映像によって回想
が扱われているのである。

「心配しないで下さい。少し考えたら帰ります」という携帯メールが、
ドミノ倒しのような美しいイメージ連鎖によって水野冴子を木馬遊園地
へ連れていく。そこには、彼女のたいせつな天使がいる。彼女への想い
と自身のたいせつなものに引き裂かれた稚ない天使がいる。

よかった。ママにもあなたが見つけられて。

昔の写真見て、想い出したの。

なにげない一言である。亜美ちゃんにとっては、普通の説明に聞こえる
言葉にすぎないだろう。だが、オレたち視聴者は水野冴子がついに娘を
「見つける」に至る過程を映像の言葉として語られている。

亜美ちゃんにとって、ここで母親と顔を合わせることは、少し疚しい。
なぜなら「あの頃は、まだパパもいっしょだった」からだ。だからこそ
母親のほうからそれにふれなければならなかったのである。その場所で
胸に刻んだ決意の言葉を聞かされるばかりではなく、その場所に赴いて
娘の姿を見出す必要があったのである。

母親からの巣立ちを告げるその言葉はそこでこそ聞かれる必要があった
のである。水野冴子は、ほかでもないその場所で今現在の娘を見出し、
優しく抱擁し、仲間たちの許へと送り出す必要があったのである。

オレたちは、亜美ちゃんがこの木馬に乗っているのを、二度見ている。
一度目はAct.21においてまこちゃんとここへ来たとき、そして二度目は
ACT.22でダーキュリーとしてうさぎに宣戦布告したときだ。ごていねい
なことに、この二度の騎乗のみならず今回の回想中の亜美ちゃんまで、
数種類ある木馬のなかで正確に同じ個体に騎乗しているのである。

今となってみれば、ACT.21で亜美ちゃんが視ていた者の正体が水野冴子
であり、腰に黒いレースの羽根を生やした悪魔の正体が水野家の天使で
あったことは明らかである。

このようにして、あの悲劇は意味附けられたのである。

かのAct.28において、常世の闇から帰還した亜美ちゃんを迎えた言葉は
なんだったか。「おかえりなさい」。それを口にしたのは、まこちゃん
であった。それは、Act.21において木馬上の亜美ちゃんがその名を呼び
手を振ったのがまこちゃんだったからなのだ。

オレたちが視た木馬上の亜美ちゃんの素型が、水野家のたいせつな天使
であるのなら、その正体を明かした今、「いってらっしゃい」の言葉は
ほかならぬ母親その人の口から発せられるべきなのである。

この言葉はエピローグにおいてもう一度くり返されるが、一度はいつも
どおりに長期に亘って家を空ける母親に向けて娘が発する言葉として、
そして二度目はドクターを目指す意志を再確認した娘に向けて、母親の
口から発せられる。

ママ、わたし、今やってることが終わったら、やっぱりドクターめざす
と思う。

あなたが決めればいいわ。いってらっしゃい。

かつてまこちゃんの「おかえりなさい」に対して「ただいま」と答えた
亜美ちゃんなのだから、娘を送り出す母親からの言葉に対してこう答え
るのは当然なのだ。

いってきます。

娘を送り出す母親の言葉と、母親から巣立つ娘の言葉の応酬。この凡庸
な言葉を交わし合うことで、水野母子はようやくお互いの呪縛から解き
放たれたのである。

これまでの亜美ちゃんの成長物語で繰り返し描かれた、同性の友人から
の抱擁だが、かつてのそれは同世代の美少女同士の対立と宥和のドラマ
として描かれることで、同性愛的なエロティシズムを匂わせていた。

しかし、少女が少女をめぐって相争う物語であるAct.16の落としどころ
が、「ママへ」とカードが添えられたクッキーであることで、そうした
情感が母親へ向かうものの変奏であることが仄めかされたことは、以前
つぶさに語ったとおりである。

そしてやはり、水野亜美とその母親にまつわるエピソードは、母親から
の不意の抱擁によって決着をみた。うさぎからの働きかけで始まった、
いま一度の生を生き始める水野亜美の心の彷徨は、ここに完結をみた。

一筋に追い求める同性の相手からの抱擁を力に換えて再生の途に就いた
亜美ちゃんの物語が、真に求める相手であった母親による優しい抱擁で
完遂されるのは、当然すぎるくらい当然の成り行きなのである。

そして、母親へと向かう情感のドラマが母親からの巣立ちの言葉で締め
括られるのは、もっと当然なことなのである。

これは余談に渉るが、Act.33のレビューをアップした後、本エピソード
のレビューが遅れに遅れたことは幾重にも陳謝したい。分けても申し訳
ないと思うことは、今となってはどうしたって「いってらっしゃい」と
いうセリフを聞くと、弓削智久の胴間声がそれにダブって聞こえちゃう
ということである(木亥火暴!!)。

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