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Act.34-4 美しい対照

今回、あまりにも消耗したので、僭越ではあるが少し跋文めいた形式で
〆をとらせていただき、併せて残りを簡単に拾わせてもらうとしよう。

今回のレビューがこれほどまでに長引いたため、かれこれオレは、この
エピソードを一〇〇回近く観ていることになるだろうか(木亥火暴!!)。
いや、じっさい前回のエピソードも含めれば優に一〇〇回以上くり返し
視聴しているはずだ。

ときには自分に課したレビュー作成のプレッシャーで、このエピソード
はおろか、他のエピソードを見返すことさえ気が重かった時期もあった
が、意を決して見始めると、果然物語に引き込まれて飽きるということ
を識らなかった。それほどこの二話のエピソードは、創作物として豊穣
な内実を湛えている。

予め言ってしまうが、オレはこの前後編が番組全体の山場で、向後最終
回までは、それほど粘着質な検証が必要なエピソードなど存在しないと
考えている。それだけに、この二話のエピソードのレビューが納得いく
だけの内容のものでなければ、大風呂敷を拡げた意味がない。

リアルタイムで視聴したときには、このレビューがこれほど難物だとは
まったく予想もしなかった。火野父子サイドのストーリーについては、
漠然とした違和感を覚えたにとどまり、それは北川景子の芝居に原因が
あるのではないかと曖昧に予感していたにすぎない。

また、水野母子のストーリーに関しては、いわゆる「ウェルメイド」な
印象を覚えたために、検証それ自体はシンプルな一筋道であろうと予想
していた。解決編における水野冴子像の開示をわかりやすく検証すれば
それで満足のいくレビューが書けるものと予想していた。

ところが蓋を開けてみれば、火野父子サイドのストーリーの問題点は、
書いても書いても終わりが見えなかったのだ。漠然とした観想を言葉に
まとめるのにこれほど苦労したのは、このレビュー始まって以来の経験
である。

水野母子の問題も決して単純な一筋道とはいえないだろう。レビューが
遅れたことで、うさぎと水野冴子の対話のカットという重要な取捨選択
のプロセスを識ってしまったことも大きいが、このストーリー構造が、
水野母子の間に横たわる問題の核心を迂回して成立しているのは、実現
された作品にすでに顕れている事柄である。

なぜこれほどまでに、オレは苦労したのだろう。打ち明けてしまえば、
Act.32のレビューをアップしたあとの、オレ個人の実人生は順風満帆な
ものではなかった。図太い神経を鈍った鑢で削るような、消耗の日々が
続いていた。だが、そんなことは単なる愚痴であって、このレビューの
遅れの真の原因ではない。

これまでの経験でいえば、完成度の高い作品のレビューは、長くなって
もそれほど苦労はしない。すでに完結している単純で美しい論理を言葉
に後附けるための労力が必要とされるだけだからである。失敗している
作品のレビューもまた、長く書こうが短く書こうが書き手の手心一つと
いう意味では、さほど難しくはない。

いちばん苦労するのは、今回のエピソードのように完成度が高いうえに
問題点を抱えている作品の場合である。それはつまり、例解のない試み
に対して、「設問と解答の構造」という措定をツールとしてアプローチ
しなければならないからだ。

そのプロセスは、対象とする創造物の創造の現場に遡って立ち会う行為
に近似している。その地点では、創造者と検証者を隔てるのはその固有
のスタンスそれ自体でしかない。

「オレならこうする」ではダメだということなのだ。本稿の読者がオレ
に期待するのは、一定の妥当性を持つ検証プロセスであってオレ流二次
創作ではないからだ。

これまでオレは、ある意味で自惚れていたのだろう。これまでの考察を
通じて、ある程度小林靖子の骨法や舞原賢三の手の内を読んでいる自負
があったし、この二話のエピソードだってその延長上でしかないもので
ある。しかし、今回実現されてしまった物語については、従来どおりの
アプローチで語り得る内実が餘りに貧しいものであることを認めざるを
得ない。

この二話のエピソードで描かれている物語は、型どおりの意味でリアル
な印象は受けない。火野隆司は現実の政治家としてリアルな描かれ方を
しているわけではないし、水野冴子が木馬遊園地で娘と出会う流れも、
ご都合主義の誹りは免れない。

もっともっと「リアル」な物語は山ほどあるだろう。この番組を育てた
田崎が、古巣の東映を出てまでシブヤを目指したように、アクチュアリ
ティの誘惑は、虚構の語り手に対して強力な魔魅を持つのだ。

しかし、この番組の目指す、あるいは実現した「リアリティ」が、その
ような種類のものでないことは常々このレビューで語ってきた。絵空事
の嘘で語る物語の真実、それこそが凡百のリアリスティックな物語群を
遥かに出てリアルなのである。痛みだけがリアルなドラマより、遥かに
このドラマはリアルなのだとオレは信じる。

そして、今回のレビューで語ったような事柄は、そのレベルで突出した
リアリティを持つ二筋の物語を「ウェルメイドに」語ろうとする行為に
よって生じたよじれを持つ構造なのだと思う。

それを一言で言い表すなら、このレビューの読者には耳にタコのお題目
である「対称と対照」というタームである。

本来的なオレの企図としては、火野父子のストーリーと水野母子のそれ
を割って語るのは本意ではなかった。この二筋の物語を別々に検証した
ことによって、手で触れるようなコンクリートな言葉として捉え損ね、
このレビューから零れ落ちたものは餘りにも多い。

それは、この二話のエピソードで描かれた二組の親子の物語は、対称と
対照にしたがって一体不可分の構造として描かれているからである。

オレがこの二話のエピソードを、火野・水野両家のパートに分けて検証
したのは、単にそれら全体を総合として語り得る表現のセオリーを持ち
得なかったからにすぎない。本来、この二話のエピソードはそのように
して検証さるべき総体なのである。

そして、そのような総体として語ることが困難であるのと同様、それら
を個別に語ることにも、ある一定の困難がある。だから、自らそう規定
するのも僭越なのだが、この二話のエピソードに対するこのレビューの
アプローチは一種の力技なのである。本来分割すべきではないものを、
無理矢理二つに分けることでこの言説は成立している。

それは、このレビューの言説が、ドラマツルギーと意味性を足掛かりに
して成り立つ文章表現である以上、已むを得ない限界である。早い時点
で指摘したとおり、この二話のエピソードは、「たまたま」火野・水野
両家のストーリーを語った物語なのではない。この二つのストーリーを
一体不可分のものとして語る物語なのである。

その試みが成し遂げるのは、意味性を超えた何かである。その「何か」
が観る者に訴えるのは、映像作品だけが具えることができる、或る比類
なき効果である。それは純粋音楽のもたらす快味に似ているのだろう。
意味性ともまったくの無縁ではないのだろう。それを掴まえる言葉を、
オレは識らない。

すでにして、ダーキュリー編のクライマックスを遙かに超えて、膨大な
ヴォリュームを具えるに至った本稿でさえ、その全貌を剰すところなく
表現することは到底できない。

この二話のエピソードは、一年放映の一話完結三〇分特撮ヒーロー番組
という、オレたちが専ら相手どっているジャンルでなければ成立しない
傑出したなにものかである。このようなレビューを続けている者として
オレは、そのような視点においてこの物語が成し遂げた何事かについて
語らねばならないはずなのである。

これは別段、このエピソードそれ自体の出来や小林・舞原の才能を褒め
讃えているのではない。文字どおり百万言を費やして語ってきながら、
オレにはこの二話を総体としてどのように意味附けるべきなのかが皆目
わからない。たかが「トクサツ」、そして、たかが「ホームドラマ」で
あるにも関わらず。

虚心に認めるなら、これは一種の敗北宣言だ。いつもなら感じるような
独り善がりな満足感すら覚えることはない。読者をうんざりさせるほど
大量の言葉を紡いでおきながら、まだ何も語っていないかのようにすら
感じるのである。

その意味で、この二話のレビューの完遂は、困難なものであると同時に
苦いものであった。語ろうとする言葉の餘りに煩瑣な増殖と、語り得る
内実の餘りの不自由さに、苛立つこと頻りであった。

多角的な視座を保持するために、餘りにも多くのくり返しや重複の愚を
犯さざるを得なかった。読者にとっても負担の大きなレビューとなった
ことと思う。

語り残したことどもも多い。ダークキングダムサイドの動きや、二人を
見守るうさ・まこのシーケンス、シリーズ大筋の流れにもまったく言及
していない。亜美・レイの物語を総体として語るのなら、仲間たちとの
交流についてもふれる必要があるだろう。

ただもう、オレはこのエピソードについて、何かを語ることにほとほと
疲れてしまったのである。ここまで附き合っていただいた読者には申し
訳ないが、あとはあなたのご賢察に任せる。オレにはこれだけ語るのが
気力・体力ともに精一杯なのだ。

だから、ひとまずここでこの長いレビューを終えさせてくれ。

次回からは、肩の力を抜いて気楽に能書きを愉しんでくれ。

ご精読とあなたの厚意に感謝する。

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