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Act.35 六月一二日では遅すぎる

今回のレビューの結論を先に陳べれば、鈴村の復帰、それこそが今後の
シリーズの変容を象徴する出来事
であったということだ。本レビューが
これまで執拗に追求し続けてきた突出せるドラマ的表現、それは前回の
エピソードで頂点を極め、そして終わってしまった。

誤解のないよう附け加えるなら、別にオレはそれが鈴村の責任であると
いっているわけではない。鈴村は鈴村で、東映特撮におけるアベレージ
の技倆をもつ演出者であることは間違いない。ただし、Act.16をもって
一旦オレたちの前から去り、あらためて戻ってきた鈴村展弘は、あまり
に「東映特撮におけるアベレージの技倆をもつ演出者」でありすぎた。

そして、Act.16の時点であれば、若輩ながら鈴村も「セラムンの舞原」
に伍して健闘しているような印象を覚えたのだが、Act.35での復帰は、
ある意味で遅すぎたのだ。

オレたちはすでにシリーズのラストまでをこの目で見ている。最終回は
おろか、その後に発売された二本の番外編までを見ている。その前提で
シリーズ全体を概観するならば、鈴村展弘はシリーズ最後半の幕引きを
務めた演出者という印象が強い。それと同時に、Act.35以降の一五本の
エピソードが「普通の東映特撮」として終始したような印象も覚える。

無論、それがいけないということではないだろう。それを批判的にとる
のは、これまでのシリーズ三四話において演出者と脚本の凄まじいまで
の勝負、物語という得体の知れない怪物が、それに携わる人間を全面的
に変える奇跡
を見慣れてしまったオレたちの貪欲さのゆえにすぎない。

この番組が「普通の東映特撮」として終わったことを否定的にとらえる
のは、特撮ファンであることの自己否定だ。オレたちは、こういうもの
で「しかない」東映特撮を愛好する者なのだから。

ある意味、「風呂敷を畳む」というのは将にこういう作業なのである。
拾える伏線は拾い、死に筋の伏線は忘れ、必要な要素を後附ける。物語
の性質によっては、これまで語られた要素が一本の流れにあざなわれる
ことで怒濤のクライマックスが形成されることもあるが、すれっからし
の観客にとって、それはやはり退屈な成り行きでしかない

殊にオレたちのような古手のヲタクの予想をも遙かに超える化けっぷり
を見せ附けた作品が、物語としての結構を保つために「普通」の次元に
トーンダウンしてしまう成り行きが、退屈ならざるはずがない。

既存の物語枠である「美少女戦士セーラームーン」というパッケージの
お尻の体裁を整えることは、だれもが予想するとおり退屈な作業でしか
ないのである。十分なテンションを保ちつつ観客に驚きを与える手筋は
すでに火野・水野親子の和解のドラマをもって杜絶してしまったのだ。

未だ語られざるまこちゃんのドラマ、宿命をめぐるレイちゃんと美奈子
の葛藤のドラマ、これらは、不幸にして十分なテンションを具えること
はなかった。結果として、この番組の最大にして最高の成功したドラマ
要素は、水野亜美をめぐる成長物語でしかなかった。

銀水晶の謎、ダークキングダムとの決着、うさぎと衛の恋の行方、そん
なものがどうだというのだ。それは単に「セーラームーン」という特撮
ヒーロー番組が具えるパッケージとしての約束事にすぎない。しかし、
パッケージという枠組みがなかったら、水野亜美物語の突出したドラマ
表現が実現しなかったのも、当然すぎるくらい当然の事実である。

これまでにも、水野亜美物語に迫る到達を示した特撮番組のエピソード
が皆無だったわけではないが、それは全パッケージのなかのごく一部の
特異例でしかなかった。この番組は、そのような特異例がパッケージの
大部分を占める、特異例中の特異例
であるにすぎない。

この物語が「東映特撮ヒーロー番組」というパッケージの下に成り立つ
ものである以上、パッケージをそれとあらしめるルーティンワークは、
どうしたって必須なのだ。

そして、この番組のリアリティが東映特撮としてのルーティンのレベル
を大きく超えてここまで突出してしまったのは、小林靖子の脚本の力も
あるだろうが、それよりも非東映作品を数多く手がけてきた演出家たち
がローテの中核だったという事情のゆえが大きいだろうと思う。

舞原をはじめとする外様演出家たちが映像として実現した非東映特撮的
リアリティとの相互反応として、小林靖子が本来もっていた無印の文芸
的素養が、東映特撮という土俵のうえでここまで突出したのだとオレは
考えている。

さらに、小林靖子の才能はかなり受け身の形のものであるというのが、
さまざまな周辺情報から得たオレの感触だが、そういう意味では、この
番組に接した演出家たちが変容したのと同じくらい小林靖子もまた変容
したのではないだろうか。

小林靖子という作家は自身のなかに確固とした独自の絵としての全体像
を構築するタイプの脚本家ではない。彼女はあくまで、映像作品として
実現したものを大前提として想像力をインスパイアされるタイプの作家
なのである。その資質が過去の同人活動歴に関連しているかどうかまで
は言明できないが、これがきわめて二次創作に近縁の作法であるという
ことはいえるだろう。

小林靖子の描いた絵が舞原を刺激して数々の傑作群が生み出されたこと
は間違いないが、舞原の描いた絵もまた小林靖子を刺激しこれまでとは
まったく別の人間に変えたのである。ジャンル脚本家の小林靖子が引き
出したのは、ジャンル演出家という肩書をもった舞原の裡に潜む無印の
映像作家的資質であった。「東映特撮」というナラティブの括りが外れ
たところで突出したこの無印の資質は、同様に小林靖子の無印の資質を
も引き出していく。

結果として実現したのが物語の奇跡であったとしても、その事実を一本
の東映特撮ヒーロー番組という括りでとらえ直すなら、それは女児向け
玩具販促のパッケージとしては畸型的な逸脱だったといえるだろう。

期せずしてなのか狙いなのかまではわからないが、鈴村展弘の復帰は、
このある意味畸型的に逸脱したシリーズを本来の軌道に戻し、東映特撮
ヒーロー番組というパッケージの体裁を整えるうえでは、好適な役割を
果たしたといえるだろう。

鈴村はきわめて「普通の仕事」をしていた。鈴村展弘という演出者は、
この作品の経験を経ても何も変わることはなかった。変わってしまった
人々の後を引き受け常態に戻すために帰ってきたのだから、それも仕方
のない成り行きだろう。

世間では、DVDの映像特典における、いかにも軽薄才子然とした挙措
振る舞いのゆえもあってか、鈴村を悪し様にコキ降ろす向きもあるが、
オレ自身はあまり悪印象はもっていない。

ある意味、舞原賢三と高丸雅隆がこの作品においてポジティブな記憶を
遺したのに比べ、それと真っ向から勝負する機会に恵まれなかった鈴村
は気の毒だとすら思う。以前オレは「舞原や田崎に伍して『あの鈴村』
と語られるほうがかっこよくはないか
」と彼の離脱を惜しんだのだが、
結果的に実現したのは皮肉きわまりない成り行きだった。

ここで憶測を逞しくするなら、『宇宙船』誌に発表されているデータを
通覧すると、鈴村ローテが妙に不規則に挿入されていることにあらため
て気附かされる。一見して、だれのローテを引き継いだということでも
ないし、従来の打順のどこかに編入されたという形でもないので、明確
な規則性が見出せないように見える。きわめて不可解な形で鈴村ローテ
が点在している。しかも最終ローテは高丸ローテを挟んで連続していて
明らかに無茶なオーバーワークだ。

それが不可解に感じられるのは、設問の立て方が間違っているからだ。
なぜ鈴村ローテがこのような形で点在しているのか、と問うのではなく
この鈴村ローテがなかったらどうだったのかを考えるべきなのだ。

Act.35は本来のローテでは、竹光演出回に当たるはずである。そして、
最終回までのスタッフデータが出揃った今や、鈴村がローテーションに
加わったことで実質的に目減りしたのが竹光演出話であることは明らか
である。

今回鈴村が加わり、最終回までに六話を担当したことで、従来のローテ
どおりだった場合と比べて、舞原も高丸も均等に一話ずつ目減りしたに
すぎないが、竹光の場合は四話も目減りしている。どちらから言い出し
たことであるのかはわからないが、鈴村展弘がこの番組に復帰した目的
が、佐藤健光の担当エピソードを四話減らすためであることは、間違い
ないだろう。

無論ベテランフリーランサーと制作会社の関係で、「いやになったから
やめる」というような、子どもじみた諍いがあったといっているのでは
ない。このOAの前後に、東海テレビ制作の帯ドラマ「愛のソレア」へ
竹光参加の情報が流れているから、そのプリプロの関係でローテどおり
のスケジュールを組めなかったのかもしれない。

しかし、九月末放映開始のドラマのプリプロのために、すでにローテに
組み込まれた番組の六月初旬放映分エピソードの現場を蹴るというのも
時期的に少し微妙な話である。しかも竹光はこの直後、ライダーで中途
半端に二話を担当し、この番組でもAct.4142の二話を撮り上げている
のだから、とくにスケジュールが合わなかったというより、やはり担当
エピソードの本数を減らすほうに主眼があったのではと思えてしまう。

本来ならこの番組で六話分を担当するはずだったところを、ライダーで
二話、この番組で二話の合計四話でお茶を濁している
。たぶん時期から
視て、ライダーの二話は鈴村のシフトに伴う穴埋めだろう。

そこに佐藤健光のこの番組に対する関心の薄れを視て取るのは簡単だ。
この事実と、全話DVD特典の監督回り持ちのインタビューやSpecial.
act のスタッフ総出のカメオ出演に佐藤健光の顔だけがないという事実
を関連附けることも簡単だ。ひるがえってAct.0 におけるキューティー
ケンコーの描写の底意が、好意的なツッコミなのか悪意的な揶揄なのか
を判断するのも簡単なことだ。

番組も剰すところ三分の一となったこの時期にきて、番組と佐藤健光の
関係は芳しいものでなくなったということはいえるだろう。もっとも、
竹光ほどではないにせよ舞原も高丸も一話ずつ担当エピソードが減って
いて、その減った話数相当分が番外編の二話に回されているという事実
を考えると、それ以外にも理由があっての鈴村復帰だろうとは思う。

ただ、それが鈴村展弘が「ぜひこの番組をもう一度やらせてください」
と意欲を見せたからではないことだけはたしかだろう。鈴村展弘が復帰
したのは、なにかしらの現実的な不都合を調整するためなのである。

思えば、鈴村展弘がこの番組に初めて見参した事情もまた、パイロット
監督である田崎竜太のフェードアウトで空いた穴を引き受け、佐藤健光
のレギュラー入りを円滑に進めるための間繋ぎ役というかたちだった。
それを思えば、この時期にきての鈴村再投入が、竹光の退場に連動する
ようなかたちであるのは、ある意味当然といえば当然である。

鈴村展弘が帰ってきた。このエピソードにおける最大のトピックスは、
やはりそこだろう。しかし、その帰還のあり方は、オレたちが期待した
ようなかたちのものというより、最初の関与のあり方がそうであったの
と同じくらい便宜的なものでしかなかった。

鈴村展弘という演出者は、要するに、この番組において自身の名の下に
積極的になにかを創り上げるためではなく、多分に穴埋め的な便利屋と
して送り込まれてきた人材
なのである。

鈴村展弘という人材に一瞬の夢をみた者としては、彼の復帰によって、
番組後半の流れが現実にそうであったのとは別の飛躍を果たしてくれて
いたら、これに優るロマンはなかった。そうであったとすれば、Act.34
までの流れで特撮史上に刻まれた伝説は、もはや不滅の神話の域にまで
達していたことだろう。

しかし、現実にオレたちが味わったのは、祭りのあとの手仕舞いの寂寥
である。水野亜美物語の完遂をもって、この番組の奇跡のときは終わり
を告げてしまった。祝祭劇の神秘力を喪ってなお、宿命づけられた終局
を迎えるために番組は続いていく。

それが不満なのではない。

ただ寂しいだけだ。

すべての物語が終わってしまった時点でこの番組を振り返るとき、鈴村
展弘の復帰は、奇跡の魔法を霧に散らす十二点鐘を思わせる。夜の甘さ
にむすばれた幸福な夢を驚かす鶏鳴の声を思わせる。

舞原や高丸と同じ土俵で勝負できなかった、もしくは勝負させてもらえ
なかった鈴村は、ことこの番組に限っていえば可哀想な演出者である。
鈴村演出の六本のエピソードは、この番組が「仮面ライダーブレイド」
や「Sh15uya 」と選ぶところのない「東映特撮ヒーロー番組」の一本に
すぎないという事実を暴露するためにあるのだ。

とまれ、ここで先走ってシリーズ全体をすべて総括することもない、話
を今回のエピソードに戻して、レビューを進めることにしよう。

今回のエピソードの要諦を手短にまとめるならば、ドラマとしては可も
なく不可もなく、悪い演出ではない。だが、竹光ほど間違ってもいない
代わりに舞原ほど突き抜けてもいない、高丸ほど細部を掘り起こそうと
する山っ気もない。きわめて普通。

……さて困った、これではレビューが終わってしまう(木亥火暴!!)。

テクニカルな部分を細々と掘り下げるのは今さらの感もあるが、滑らか
なカメラワークや弛みのないカット割は、さすが鈴村といえるだろう。

回り込みながらの切り返しや、視線の流れを誘導する手際、ディゾルブ
で中を抜く手法も的確であり、チケット売場でのうさ・まこの出し入れ
の演劇的な手法もおもしろく、セリフのずり上がりも多用されていて、
きわめてテンポ良く物語が語られていく。

情感の盛り上げでいっても、数々の苦難を乗り越えてようやく結ばれた
うさぎと衛、そのたいせつな想い出が、忘却のオルゴールの魔術で一枚
一枚無惨に燃え上がる演出は、衝撃的かつ効果的なビジュアルだ。

ことに前回のエピソードでは、メインの火野・水野親子の和解のドラマ
の陰に隠れるかたちではあれ、二人が晴れて恋人同士として向かい合う
姿が描かれている。辛く苦しいこれまでを乗り越えて、季節もすでに夏
へ向かい始めた今になって、渡せずじまいであったマフラーがようやく
衛の手に渡っている。

このタイミングでこれまでのすべてを忘れ、やっと結ばれた二人が引き
裂かれることがいかに残酷であるか、それが燃え尽きる記憶という映像
表現によって効果的に提示されている。

さらに、うさぎの涙に接して美奈子が漏らす「わかるのね、忘れていく
ことが
」というセリフのアルジャーノン的詩情、「ごめんなさい…」と
呟く謝罪の淋しさ。ここで描かれているのは、うさぎの辛さではなく、
うさぎの辛さを視る美奈子の、一人の少女としての情感である。

ここが今回の脚本の白眉だと思うが、そこを見逃さずに盛り上げている
以上、今回のエピソードがドラマとして悪い出来だとはとてもいえない
だろう。いや、むしろ出来の良い部類に入るエピソードである。

オレがこのエピソード以降の鈴村演出エピソードに不満を覚えるのは、
出来が悪いからでもないし、鈴村当人が悪いわけでもない。あえていう
ならば、この番組が類稀なテンションを喪ったあとに復帰した事実に、
物足りないものを感じるからだ。

さらにいえば、先ほど挙げた「燃え上がる記憶」というビジュアルは、
たしかにこの場面に限って視るなら効果的な映像ではあるが、Act.10
「燃え上がるプリンセス」のビジュアルのバリエーションでしかない。
また、シリーズ前半の担当エピソードでは無意識に多用されていた口許
アップも、このエピソード以降は意識的に用いられており、竹光のヘリ
爆音のように、一種の自己言及的な手法
となっている。

要するに、鈴村展弘がかつてシリーズ前半で模索した「鈴村調」とでも
いうべき手業、自身の抽斗の範囲内で演出をこなしているように見受け
られるのだ。しつこいようだが、それが悪いというわけではない。単に
それは、ごく普通の東映特撮のレベルに留まるというだけの話だ。

脚本に内在するドラマを流麗かつ忠実に引き出すこの演出は、まぎれも
なく東映特撮の血を受け継いでいる。東映特撮が数十年の経験と蓄積を
経て確立したある種の洗練、鈴村展弘はそれをうまく盗み、己のものと
している。

しかしそれは同時に、小林靖子がデビュー以来慣れ親しんだナラティブ
の生理
でもある。鈴村演出が体現している東映特撮の生理は、ある意味
小林靖子の期待の地平上にあるものだろうし、本来の小林脚本は、その
ようなナラティブを前提に紡ぎ出されたものである。

おそらく、この番組は本来このようなものであったはずなのだ。本来そ
のようなものであるべき物語と、本来そのようなものであるべき語り口
の綜合として、番組の基調はオレたち特ヲタにとってなじみ深いものと
なった。もしもこの番組が、最初からこのようなものだったとしても、
オレたちはそれなりに好意をもって迎えたはずだ。

粒ぞろいの美少女たちが、肌も露わなコスチュームをヒラヒラ靡かせて
悪と戦う「東映特撮ヒーロー番組」。東映スーパー戦隊の少女版、それ
以下でも以上でもない番組。それのどこに不満があるというのか。

だが、そうでなかったからこそこの番組はオレたちを興奮させたのだ。
「東映特撮ヒーロー番組」という容れ物が垣間見せた予想外の可能性が
オレたちを興奮させ、夢をみさせたのだ。東映スーパー戦隊の少女版と
いうコンセプトやディテールが力をもっていたのではない、そのような
コンセプトの下に予想されるプロダクトの域を逸脱し、超越するクリエ
イションの凄みがこの番組のもつ力だったのである。

だから、オレが鈴村展弘にみた夢は、プロダクトのパッケージについて
のノウハウを熟知する若いクリエイターがこの番組に接することでどの
ように変わるのか、そのようなドラマティックなプロセスに対する期待
だった。

番組中盤までの小林脚本は、もはや、従来の東映特撮ヒーロー番組的な
ナラティブを前提にしたものではない。このような脚本を前にして東映
特撮で育ってきたクリエイターがどのような健闘をみせるのか、オレの
興味の焦点はそこにあったのである。

東映特撮ヒーロー番組というパッケージが純粋な血統から外れた演出者
たちの力でここまでの可能性を見せたのであれば、ひるがえって、その
パッケージを生み出した東映特撮、その直系の血を引く演出者が、ここ
まで突出した物語の影響でどのような変容を見せるのか。

しかし、結局その妄想は実現しない空夢に終わった。

たとえば、舞原が、高丸が、次々と見応えのあるエピソードを連発して
いた中盤の盛り上がりの一角を鈴村が占めて、異様なテンションを持続
した脚本にとことんいじめ抜かれていたらどうだったろう。手業の抽斗
では到底対処しきれないドラマ的内実を前にして、どう足掻いてみせた
ことだろうか。

新人監督・鈴村展弘が東映特撮という狭い世界で蓄えた抽斗にスッポリ
納まるような作品に、昔日の興奮はない。

それでもこのエピソードには、まだドラマが残っていた。因縁浅からぬ
間柄のゾイサイトとヴィーナスの結託、共に主を気遣う二人のすれ違い
と離反。後半を彩る最後の輝きであるゾイサイトの物語、そして美奈子
の孤独な戦いの物語が、今まさに始まったのだという手応えがあった。

少なくとも、このままの流れでドラマが展開していたら、後半の印象も
いくらか違ったものとなっていたことだろう。

だが、他ならぬこの鈴村ローテにおいて、物語はオレたちの予想を遙か
に超えるおそるべき迷宮への一歩を踏み出す
。この破壊的な一歩のゆえ
に、物語のテンションは反転し、身動きのとれない自縄自縛の陥穽へと
突入するのである。

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