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Act.36-1 此の人を視よう

———怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。


              フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

四の五のと百万言を費やすまい、番組後半最大のイベントであり事実上
物語の行く末を決定附けた一手こそ、今回描かれたプリンセスムーンの
登場
であった。結論から先にいえば、オレはこのイベントに対して否定
的な見解を抱いている。

番組終盤の物語を殺したのは、他ならぬこのプリンセスムーンの存在で
あったのだと考えている。藪から棒に登場したこの究極の力が、物語を
逼塞させ、これまで保ってきたテンションを圧殺してしまったのである
と考えている。

オレにはプリムンのキャラクター設定が、選れて白倉的な発想に基づい
ているように思える。揶揄的に謂えば、いかにもインテリが考えそうな
設定であるといえるだろう。だいぶん本筋を外れるが、まずはこの辺の
ところを少し詳しく考察してみたい。

平成ライダーシリーズの方向性を決定附けたプロデューサーといえば、
無論高寺成紀白倉伸一郎の両名だろうが、高寺があくまで善悪正邪の
二項を立てて闘争を描いたのに比べ、白倉のライダーでは、そのような
単純な二項対立が成立しない。力は力でしかないし、闘争は闘争でしか
ない。正義も邪悪も相対的なものでしかなく、悪人を悪人たらしめるの
はあくまでその人格描写であって、存在理由ではない。

ライダーや怪人は超人的な力の象徴であり、本質的にその両者に違いは
ない
。このこと自体は仮面ライダーという枠組みの基本設定であって、
むしろライダーの出自をクリーンに保っている高寺ライダーのほうが、
この枠組みから外れている。仮面ライダークウガでは、アルティメット
への超進化が終盤のカギとなってはいたが、あくまでクウガはその大本
の出自からして対グロンギの戦士であり、ン・ダグバ・ゼバとは対立的
な存在
であった。

アルティメットとダグバが「究極の闇をもたらす者」として等質のもの
とされるのは、グロンギとクウガという対立する二項であっても、超越
力そのものが突出してしまえば存在の枠組みを超えて等質の存在となる

という思想である。それは超変身という便利な成長システムに内在する
危険性として、超越力そのものが突出することを否定的にとらえる考え
方だ。出発点にあるクウガとグロンギの存在理由は、絶対的に対立して
いるのだが、その共通項として超越力がとらえられているだけである。

そして、仮面ライダークウガという作品の最終的なテーマが暴力否定で
ある以上、クウガとダグバの超越力は相殺され、最終的には五代雄介と
ダグバ人間態の生々しい殴り合い
によって最終的な決着が附けられる。

インフレした超越力の陰に隠れがちな闘争の暴力性を、超越力を相殺し
その意匠を剥ぎ取って人間の肉体と表情を見せることで、絶対的に対立
する二項同士の生身の殴り合いに還元し、暴力否定を一種のサタイアと
して表現している。

この決戦の描き方は暴力の剥き出しのリアリティを表現するとともに、
五代雄介=クウガとダグバが絶対的に対立する二項であることをも表現
している。血潮の飛び散る生身の殴り合いに昂然と嗤うダグバと、泣き
ながら拳を揮う雄介を対比させることで、この二者の絶対的相違、善悪
正邪の二項対立を強調している。

キューバの砂浜からの捲土重来を果たした最新作「仮面ライダー響鬼
でも顕著な傾向だが、ヲタクという不健全な映像人としての出自をもち
ながら、高寺成紀というプロデューサーには、特撮ヒーロー番組の健全
性に対する強固な信念
があるように思える。

しかし白倉ライダーでは、この出発点となる絶対的な存在理由の相違が
設定されていない
。正義も悪も視点によって異なる便宜的なスローガン
にすぎず、意図的に正邪の固定的な視点を廃して無名の闘争を戦わせて
いるのである。

そして、正義も悪も相対的な観念にすぎない以上、白倉ライダーの主人
公たちは偶然理不尽に与えられた超越力を「善用」すべく、戦う意味を
探して
彷徨する。すなわち、白倉ライダーにおいては、まず無印の力が
ありきであり問答無用の闘争ありきであって、出発点において意味附け
が放棄されたその力と闘争の意味を、状況の直中において主人公自らが
探っていく必要がある
のである。

このような二項対立解体のプロセスは、アギト、龍騎、555 という流れ
を経て、多方面からの試みによって追求されていく。

仮面ライダーアギトにおいては、「来るべき人類進化のかたち」という
意味附けにより超越力を平準化し、クウガのような無差別殺人ではなく
「超能力者だけが狙われる」というシステムで引きの視点を設け、善悪
二項対立ではなく、超越力をめぐる無名の闘争という前提を早くも確立
している。

しかしまだこの段階では、最終決着におけるハルマゲドンを彷彿させる
白い青年と黒い青年の最終闘争というかたちで二項対立の痕跡が残り、
翔一の闘争も、「真魚ちゃんを護るため」という動機附けによって弱者
防衛の大義の闘争として意味附けられている。ただし、真魚という具体
的近親者個人に対する実感が、「弱者」という一般項に敷衍されている
かどうかという部分で、曖昧な余韻を残してはいる。

続く仮面ライダー龍騎では、アギトにもその萌芽があった「ライダー同
士の闘争」という白倉ライダーを特徴附ける新機軸が中心に据えられ、
それぞれのライダーたちは超越力を背景に個人的な動機に基づいて無名
の闘争をくり返す。

さらにその最終的な決着は、ある兄妹の孤独な家庭事情という、きわめ
て私的な事情に収斂
し、闘争の前提となる超越力は孤独な少女の妄想に
よって生み出されたものであり、他ならぬその少女が犯した過去の過ち
をやり直すための、善悪とは無縁の動機から設定された闘争であること
が明らかになる。

物語開始時点では護るべき対象に見えた少女が、その実すべての脅威の
元凶であり、ライダーたちの闘争もまた、その闘争が設定された動機と
はまったく無縁の動機に基づいて戦われ、最終的にはそれらがまったく
リンクしないというニヒリズム。まさにこの作品で描かれたのは無名の
闘争と謂うに相応しい。要するにこの物語は「もしも一度だけ魔法が使
えたらどうするか」という、どこかで聞いたような条件設定に基づいて
かりそめに絡み合う人間模様をニヒルに描いたものにすぎない。

そして、白倉ライダーの掉尾を飾る仮面ライダー 555に至っては、アギ
トと龍騎で描かれた要素が綜合され、人類対超人類という対立の構図を
設けながら、オルフェノクが人間を襲う理由をオルフェノク適性の選別
と設定し、旧人類抹殺を直接の動機としないことによって、単純な被害
加害の二項の成立を回避
している。

つまり「自分がもし劇中の人物だったら」という感情移入の機序では、
自分がオルフェノク側に位置するのか旧人類側に位置するのかが曖昧と
なってしまうのである。そして人類のオルフェノク化が「進化」として
意味附けられている以上は、新人類と旧人類の対立は善悪の彼岸にある
生存闘争
である。すなわち、設定された各人物の存在理由には、善悪を
隔てる拠り所がない。

さらに「555 ギアを装着できるのはオルフェノクだけ」「オルフェノク
ならだれでも装着できる」という設定によって、ライダーの超越力から
属性を剥ぎ取る
と同時に、ヒーローと敵がまったく等質なオルフェノク
であることによって、対立理由は「支配か共存か」という同一セクト内
のイデオロギー対立に還元されてしまう。

この状況下で実現するのは、お得意のライダー同士の闘争はもとより、
各ライダーギアの装着者がさしたる必然性もなく入れ替わったり、装着
者が次々と死亡しギアが装着者を乗り換えていくような、超越力のニヒ
ルな相対化
である。ライダーに「なる」というG3システムの発想を、
「なる」の部分の意志的要素を剥ぎ取ることで、ライダーのヒーロー性
すらも相対性のなかへ解消されてしまう

この曖昧な世界観において、オルフェノク滅亡の危機というイベントを
新たに設けることによって、新旧人類の闘争もまた単純な勝ち組負け組
の二項対立ではなくなってしまう。

すべての二項対立を解体し、剰えヒーロー性まで解体することで、仮面
ライダー 555という作品は、新旧人類の闘争と破滅という大風呂敷を拡
げた世界観をただの心象風景とした、モラトリアム青年たちの絡み合い
によるニヒルな青春群像劇となった。

このような試みは、必ずしも肯定的に評価できるとは限らないだろう。
じっさい、オレ個人の感覚として白倉ライダーはつまらない。これは、
その思想の是非はともあれ、娯楽作品としては致命的な瑕瑾である。

白倉の思想は、ある意味「ヒーローかくあるべし」的思い込みに基づく
高寺の思想よりも高踏であり健全であるとオレは思うが、健全な思想が
健全な娯楽作品をつくるのではない。娯楽要素がまずありきで、それを
健全なものとするために、健全な思想に基づくコントロールが要求され
るのだ。

おおむね白倉作品は、高踏で健全な思想に縛られている、もしくはその
思想を出発点とする弊を蒙っているとオレは感じるのだ。娯楽をつくる
ことと思想を体現することは、まったく別のプロセス
である。

もっというなら、白倉ライダーは出発点となる思想は戦後知識人の良識
として健全
だが、娯楽作品として視た場合は不健全である。なぜなら、
白倉の思想には、娯楽作品が不健全へ傾く情熱とそれを引き戻す良識の
せめぎ合いとバランスの所産だという視座が欠けているからである。

たとえば、大多数の特ヲタが好むのは高寺ライダーだろうが、大多数の
特ヲタは高寺成紀個人が嫌いである(木亥火暴!!)。対するに、大多数の
特ヲタは白倉ライダーを批判的に視ているが、白倉伸一郎個人には割合
好感をもっている…いや、そこ、野暮は言うなよ、ただの諧謔だ(笑)。

これをヲタクの近親憎悪やインテリ志向と断じてしまうのは簡単だが、
もう少し細かくいうなら、高寺成紀という個人には、ヲタクという嗜癖
に基づく母集団に通底する愚かさが垣間見えるから嫌うのであろう。

嗜癖というものは、本質的に愚昧なものだ。理屈抜きの陶酔的な嗜好が
動機となっているのがヲタクだが、この世の中で「理屈じゃないんだ」
というフレーズほどアタマが悪そうに見えるものはない(木亥火暴!!)。

そうした愚昧を「熱さ」と言い換えてもいいだろうが、高寺ライダーに
あって白倉ライダーにないのがこの「熱さ」だろうし、高寺成紀にあっ
て白倉伸一郎にないのもまたこの「愚昧さ」である。

二項対立解消に代表される白倉的良識は、嘘を吐かない誠実さといえる
だろうが、嘘を吐かない消極性ともいえるだろう。むかしどこかのだれ
かがいったとおり、嘘を吐かないほうが気楽に生きられるものである。

善悪正邪の対立という枠組みは、たしかに嘘なのだし、そのような単純
な二元論がこれまでどれほどの歴史的悲劇を生み出したかを想うなら、
戦後知識人にとって、「正義」の二文字は重い十字架である。「正義を
行え」という言葉は、軽々しく口にできるものではない。

しかし、だからといって正義と悪という二項対立から身を引くのもまた
戦後知識人的怯懦と詰られても仕方がない。現実世界はたしかに相対的
な差異の戯れにすぎないが、それを意味附けぬままに放置しあるがまま
の状況のもつれを突き放して描くなら、それはもはや物語ではない

人には、自身の信じるもののために身命を賭して戦わねばならなくなる
局面があるはずだ。正義とは無謬の真理ではあり得ないが、自身がそれ
を信じその信念のために殉じるという、人として欠くべからざる極限状
況におけるアティテュードを謂うのである。

そうした極限状況において、己に理があるなら相手にも等分の理がある
というのは、当たり前の大前提であって結論ではない

そこで立ち止まって何事をも為さないのであれば、物語は成立しない。
その等分の理の激突において何事かを選び取り、たとえその選択が過ち
であろうともその信念に殉じることこそ正義である。個人の行いの問題
である以上、国家共同体の正義もまた個人の行いの問題に還元してはか
られるべきなのだし、すべての正義は必ず誤謬を含んでいる。

その意味においてこの現代にあっても「正義」という認識の枠組みは、
十分にアクチュアルなものである。正義とは人が意志的に行動する際に
必要な枠組み
であり、闘争とは最も意志的な行動が要求される極限状況
なのだ。事情の然らしむるところや状況の要請にしたがって行動するの
であれば、それは多様な選択肢を許された日常であるにすぎない。

人の行いとしての正義と形骸化し固定された正義がどう違うのか、そこ
を語るのがこの種のジャンルにおける良識なのであって、正義という言
葉の胡散臭さから身を引き極限状況を忌避して、日常的な相対性に寄り
添うことが物語における良識なのではない。

白倉ライダーがつまらないのは、極限状況の切迫に欠けるからであり、
物事を相対化して視る余裕をもった日常性が支配しているからだ。極限
状況において迫られる選択はいずれをとっても過っているのであるが、
過ちを犯すまいとすれば意志的な選択を回避する怯懦に堕してしまう。

人の行いは必ず過つのだから、意志的に行う行為は後ろ指を指されずに
措かないもの
なのだ。本レビューのタームでは、これを責任関係と責任
能力の不整合と表現している。自身の行動を事情と都合のゆえに帰する
ことは意志的な行動に伴う不条理な責任の放棄であり、多義性への拡散
はすなわち責任主体の拡散でもある。

信念をもって意志的に選択しなければ、それはたまたま状況判断が誤っ
ていただけで意志や信念の問題ではなくなる。意志的に過ちを遂行する
愚昧から身を引いていられる。この留保が白倉ライダーのつまらなさの
根本原因であり、無意識に感得する怯懦なニヒリズムの根元である。

この種の番組の「熱さ」とは、必ず過つ人としての限界をさらけ出し、
それでも自身の信じるところを貫いて行動する「愚昧さ」を謂うのだ。
それが高寺ライダーにあって白倉ライダーにはないものである。

過たないための怯懦は、すでにして、それ自体が過っているのだ。この
不条理な責任関係から、人智によって離脱することは不可能である。

高寺ライダーの主構造は、必ず出発点に正邪善悪の二項対立を大前提に
置く愚昧さに立脚している。正邪善悪の二項対立がまずあって、正義と
は悪とはという設問を回避して、戦う人々の信念のあり方やその行動が
描かれていく。そしてクウガにせよ響鬼にせよ、その信念や行動の根底
には、非常に日常的な生活実感のようなものが据えられている。

生活実感に基づく敷衍というのは、戦時中の戦意高揚教育同様、たしか
に危険な無定見さをもっているのであり、それを批判するのは簡単だし
知的な作業である。しかし、こうした批評的な視点からは物語は生まれ
ない
のであり、物語のつくり手が過ちから身を引こうとする限り、物語
の熱さは生まれない。

無論、特撮ヒーロー番組における正義は須く過ちを内包しているのだ。
無謬ではあり得ない信念に自らの責任において身を投ずるからこそ熱い
物語が成立するのであって、すべてを相対化し積極的な価値判断を留保
してしまうなら、それは物語ではなくメタ批評であり、物語の殺害だ。

白倉ライダーにおいては、すべての登場人物は対比列伝よろしく相対化
されヒーローと悪役の行動の間に根本的な物語上の価値的相違はない
主人公の側に属する者も、敵の側に属する者も、それぞれの動機とその
ときどきの都合で動いているだけで、その動機には個人的な事情以上の
意味附けが施されることはない。

その行動の善も悪も、善を目指し悪を目指す意志の不在と一義的な意味
附けの回避によって、個人の責任に帰着することはない。それよりなお
重要なことは、このような世界をつくることによって、物語の語り手も
また劇中のいっさいに対する意味的な責任を放棄していることである。

ヒロイックな行動の大義や名分は周到に相対化され、個人の事情に還元
されていく。世界構造は正邪の二項対立を許容せぬよう設計され、馴れ
合いと離反の間を往来することでストーリーが構成されている。

白倉ライダーは、愚昧を許容しない良識によって相対化された世界内を
個人が銘々の都合で右往左往する群像劇であって、特撮ヒーロー番組と
しては、周到な計算に基づいて殺された物語なのである。

それゆえ、白倉ライダーをイケメン萌えで語ることは、ある意味逆説的
に正しい。物語世界内の人物たちの行動を価値判断する基準は、受け手
個々人の曖昧な好悪の感情でしかないからである。

だからこそ、白倉ライダーの主人公たちの、戦う意味を探る彷徨、自分
探しの放浪は、実感をもって決着しないのである。津上翔一の居場所の
探求の終着は、本当にレストランの料理人だったのか。城戸真司の死に
は犬死に以上の何らかの納得のいく実感があったのか。乾巧の自分探し
の遍歴は本当に何かを見つけたのか。

都合と事情によって流された物語に、実感をもった決着はあり得ない。
相対化とは曖昧化である。意味附けが曖昧な筋道に、実感は伴わない。

そんなことは、当たり前だ。

どんな愚昧な観客であろうとも、責任を負わない語り手の言葉など真に
受けることはない
のだから。

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