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Act.36-2 悲劇の爆誕

———君は言う「善行のためには戦いを犠牲にせよ」と。
   私は言う「善戦のためには万物を犠牲にする」と。

              フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

美少女戦士セーラームーンのAct.36に至って登場したプリンセスムーン
の設定は、まさに白倉的思想の所産そのもののように思える。以下の話
はそういう前提の立論なので、間違ってたらごめんなさいということで
はなはだ心許ない話ではあるのだが(木亥火暴!!)。

元々の「美少女戦士セーラームーン」という物語世界には、基本的に善
なる力の源である銀水晶が根底にあって、それと対抗する悪の力として
クインメタリアや邪黒水晶などが対置されている。「基本的に」と留保
を附けるのは、銀水晶という大本の超越力は、善美それ自体の具える力
ではなく、善美な属性をもつ力にすぎないからである。

善だから力があるのではなく、力の基本的な属性が善なのだ。それゆえ
銀水晶を力そのものと視て自身の野望に利用しようとする輩が頻出し、
じっさい銀水晶はある程度までそうした邪悪な望みに力を籍す。非本来
的な状態に頽落した銀水晶の力を、うさぎ=セーラームーン側のドラマ
によって本来的な状態に呼び戻すことで、銀水晶は強大な力を発揮し、
悪を浄化する。

あるいは、銀水晶と対置される邪悪な属性をもつ力が銀水晶の力を相殺
し、非本来的な状態に貶めることで、銀水晶を遙かに凌駕する破壊力で
世界を潰滅の危機に陥れるが、これもやはりセーラームーン側のドラマ
によって銀水晶の本来的な状態が回復され、対立する力を圧倒する威力
を発揮して悪を浄化する。

これが既存のセラムン世界の力学的構造である。だから、本来銀水晶の
力は万能であり、その基本的な属性は善である
。それが何らかの事情に
よって一旦非本来的な状態に頽落することはあっても、銀水晶の力は人
を救い人に救われ、最終的に邪悪に対する善美の勝利を謳うのである。

ところが、今回登場したプリンセスムーンの力、すなわち銀水晶の力の
属性は善でも悪でもない。白倉的な無前提の超越力である。しかもこの
銀水晶の力は、最初から劇中で最強の超越力と位置附けられている。

セーラー戦士たちが究極の敵手と目するクインメタリアと対等以下では
決してない無敵の力を、突如降って湧いて出た見知らぬ人格が意のまま
に操るのである。しかもこの人格は、前世のプリンセスセレニティとは
どうやらまったくの同一人格ではない

セレニティとエンディミオンの悲恋を一種の神話に準えるなら、ここで
出現したプリンセスムーンは、一種の忿怒相としての神格である。物語
の前半で登場した癒しの女神としてのセレニティではなく、悲恋に斃れ
た恨みを呑んで世界に復讐する応報の神格である。

これはつまり、クインメタリアの邪悪な力と質的な差異が存在しない力
であるということだ。クインメタリアと銀水晶は質的に対置されるもの
ではなく、並列のものにすぎないということになる。

前半の銀水晶が癒しの力であったのは、それを操るセレニティが癒しの
相であったから
にすぎないということになる。力そのものに善悪の極性
はないということになる。それはいつもの白倉節だ。

同じようで違う力が二つあることで二つの力は相対化され、善悪正邪の
二項対立はいつものように解体されるのである。それと同時に、銀水晶
の善なる力によって悪しきクインメタリアの力を打倒するという、物語
の大枠の構造まで解体されてしまう
。銀水晶の力の増大がクインメタリ
アのそれと呼応するという関連は、当初の段階とはまったく別の様相を
呈し始める。

すなわち、クインメタリアの復活を阻止するためにはまず銀水晶の力を
抑制しなければならない。しかし、それでもクインメタリアが復活して
しまった場合、それに対抗できるのは銀水晶の力のみである。さらには
それ以前に銀水晶の力そのものが世界を破滅させるのであって、世界に
対する脅威のレベルからいえば、クインメタリアよりも銀水晶のほうが
うえである。そのうえそれが月野うさぎという一人の少女のネガティブ
な感情に連動することで、まったく制御不能のものとなってしまう。

では、この条件下で世界に対する脅威を完全に払拭するためには、どう
すればいいのか。実はどうしようもないのである。当初の目的であった
クインメタリア打倒そのものは、まったく主要な課題ではなくなった。
それに代わって、他ならぬ月野うさぎ本人のネガティブな感情が銀水晶
に連動して世界を滅ぼすという新たな危機が浮上した。これは、うさぎ
がこの世に生きている限り、まったく回避不能の破滅である。

ここに至って、個別のドラマを繋ぎ止めていた大枠の物語構造は崩壊し
て、主人公はほんの少しでも他人のために心を動かすことを禁じられて
しまった。うさぎの仲間たちは、これ以後うさぎの心が波立たないため
に奔走するという、至極生彩のない行動を余儀なくされる。それが問題
の根本的解決になどならないことは、劇中人物たちにも観客にもわかり
きっている。

こんな八方塞がりの状況でドラマがつくれるものならつくってみろ。

別の観点からこの条件附けを視てみよう。ドラマの観点からプリンセス
ムーンの設定を考えるなら、このような設定であることの当然の帰結と
して、世界は破滅せざるを得ないのである。

プリンセスムーンは主人公月野うさぎの前世の姿であるセレニティの別
人格であり、基本的に主人公と同一人物である。そして、主人公に世界
を滅ぼす力が与えられた場合、ほぼ確実に世界は滅びる宿命にあるので
ある。なぜなら、世界の滅亡が回避されてしまったら、それはあまりに
も当たり前すぎてお話にならない
からである。つまり、あえて主人公に
そのような力を持たせる意味がなくなるのだ。

横山光輝の「マーズ」辺りが代表的な例だが、主人公が世界を滅ぼす者
とされるサタイアは、滅びが実現してこそ活きてくるのである。少なく
とも、ドラマツルギーに対して誠実であるならば、それ以外の選択肢を
選ぶことはできないだろう。

そのような力をもちながら世界を滅ぼすことがないとすれば、「なんだ
やっぱり正義の味方なんじゃん」でオシマイの話である。主人公が正義
の味方「だから」それだけの力をもちながら破滅を回避したというので
あれば、単にとんでもなく強い力をもったヒーローだというだけのこと
である。それ以前に、そのような傍迷惑な力をもったヒーローそれ自体
がすべての脅威の元凶なのだから、それが回避されたらヒーローの行動
の物語内の価値は行って来いでチャラになってしまう。

たとえば「マーズ」の例なら、マーズが最終的に爆弾を起爆しなかった
とすれば、そもそもマーズ本人が地球に敵対的な破壊兵器なんだから、
その活躍のドラマ的価値は行って来いでチャラになってしまう。滅びが
実現するからこそネガティブなかたちでヒーローの価値が決定附けられ
るのである。

ならば、プリンセスムーンの設定とドラマ的リアリティの綜合として、
今後のストーリーラインの方向如何に関わらず、物語世界は滅びざるを
得ないのである。このような設定とこのようなリアリティは、つくり手
の意志がどうあれ、その結末を強固に束縛するのである。

まして、プリンセスムーンの場合は、これこれこのような手順を踏めば
銀水晶の力が封印されるというような、拡げた風呂敷を畳む手順が定め
られていない。銀水晶は一方的に力を増大させ、それに伴ってうさぎの
感情と連動することで、うさぎが心を動かさないこと以外に破滅を回避
する手だてが恒常的に喪われてしまった。

怒るな、憎むな、このような無理難題以外に破滅回避の方図がないので
あれば、どうしたって世界が破滅するのは必然なのである。そうでない
とすれば、世界に代わって月野うさぎという人間が滅びる以外に解決の
方策はなくなってしまうのである。

一縷の望みは、今挙げたような封印の手順の提示である。それによって
うさぎの感情との連動が解除されれば、あとはいかにして最終決戦の場
で封印した力を再度解放するかという手順をめぐる問題になる。

ただしそれでも、一般的にはクライマックスを形成するはずの「主人公
の手による世界の破滅」という大仕掛けが、単なる脇筋の一本に堕して
しまうという憾みは残る。そしてそんなことを脇筋で語るのは少しばか
りケレン味がすぎるだろうし、なによりそれは悪趣味な扇情性である。

もう一つの解法は、プリンセスムーンの超越力が銀水晶の本然に照らし
て非本来的な状態に頽落したものだという留保を提示することである。
プリンセスムーンの邪悪叱正の忿怒相を、プリンセスセレニティの抜苦
与楽の慈悲相へ変じ、一人の少女のささやかな心の波立ちなど受容する
慈愛の菩薩界にセレニティが移行すれば、物語は円満具足に着地する。

しかし、それが提示されずじまいなら、論理的にいって確実に破滅は到
来する
。このドラマのこれまでのリアリティのあり方からいって、それ
以外の道筋はあり得ない。

だとすれば。この先のこの物語は、無意味だとわかりきっているのに、
主人公がひたすら我慢し続けるという、どこがおもしろいのかサッパリ
わからない辛気くさい話
になってしまうということだ。

そして物語にエンドマークを打つためには、世界か月野うさぎか、その
どちらかが滅びなければならないとわかりきっていながら、最後までを
見届けるのは苦痛以外の何ものでもない。

さらに、プリンセスムーンの登場によって破滅の結末が決定附けられて
しまったことで、うさぎと衛の今生での恋もまた着地点を喪った。

Act.32の結末において衛があれほど力強く肯った「星なんか滅びない
という言葉が、滅びの宿命と真っ向から対立するのである。その誓いを
衛が全うできないことは、プリンセスムーンの登場によって決定附けら
れてしまった
のである。

うさぎと衛の恋物語全体におけるあの誓言の重みと、破滅の宿命の決定
という矛盾は、首尾結構の整った恋物語を回復不能なまでに解体する。
普通に考えれば、この恋は悲恋に終わらざるを得ないのだし、その事実
はイコール前世の宿命に対する全面的な敗北を意味する。

この成り行きは、これまで描かれてきた感動のドラマのいっさいを無効
化する、おそるべき悲劇であり敗北である。

では、滅びによって締め括られる悲劇的な物語を、白倉プロデューサー
は望んだのだろうか。おそらくそうではあるまい。彼には、リアリティ
と設定の結び附きがつくり手の意志を超えて物語を束縛するという力学
想定できなかったのではないかと思う。

おそらく彼には、小林靖子が何故に滅びの結末を回避できなかったのか
が理解できていないだろう。そして、滅びの結末がこの物語の実現した
感動の極性を正しく反転させ、絶望的な敗北をもたらすことも理解でき
ていなかったのではないだろうか。

白倉伸一郎は、単に善なる力としての銀水晶の勝利を、そのままに描き
たくなかっただけなのだとオレは思う。

邪悪の力であるクインメタリアに対して、善なる力である銀水晶が勝利
するという、大本の枠組みに内在する力学構造が、白倉的良識にとって
は到底容れ難いものだったのではないか。それはすなわち、ものすごく
ありふれた二元論的ハルマゲドンの劣化コピー
であるからだ。

その感覚自体はオレにも理解できる。だいぶん以前、このレビューでも
万能の善なる力が邪悪な力を打倒するという予定調和的な筋道に対して
疑倶の念を表明している。おそらく、オレがそう表明した動機と白倉の
拘りはそう大して変わりないものだろうと思う。オレ自身もまた、白倉
同様、戦後民主主義的なリベラリズム、良識に基づく教育が思想の根底
にあることは否めないからだ。

ただ、オレが白倉的良識を批判する根拠が一つだけある。それはつまり
白倉には娯楽物語の力学に対する勘が決定的に欠けていると感じられる
ことである。白倉伸一郎は、思想の人ではあっても文芸の人ではない。
オレにはそう感じられてならないのである。

銀水晶の万能性が気に入ろうが入るまいが、プリンセスムーン的な発想
によって二項対立を解消してしまったら、物語は自縄自縛の縊死を遂げ
るしかなくなる
のである。超越力を無効化する手順として、決して選ん
ではいけない選択肢だったのである。

すべての闘争物語を裸に剥いて平準化するなら、だれかが他のだれかと
闘うことでしか成立しない物語であって、同一人物内の二者の葛藤など
どうしたって闘争物語にはならない
のである。闘争物語の闘争性を否定
する手順としては、どうしたって白倉的アプローチよりも仮面ライダー
クウガのほうが物語文芸として優れているのである。

なぜなら、クウガのつくり手は、闘争物語における闘争性の否定はあく
まで闘争物語のダイナミズムの土俵を踏み外しては成立しない
という、
ごくごく当たり前の事実に対する勘働きがあったからである。

つまり、クウガもまた潜在的には「究極の闇をもたらす者」であって、
ダグバと同様世界を滅ぼす力をもっているが、ダグバがいるからこそ、
五代雄介の内的な葛藤が物語として成立するのである。これをたとえば
クウガこそがグロンギの領袖であって世界を滅ぼす者だとしてしまった
ら、五代雄介が自殺するか世界が滅びるかの二者択一でしかなくなって
しまう。

特撮ヒーロー番組において善悪正邪の二項が立てられているのは、それ
が外部の悪であろうと内部の悪であろうと、闘争物語は他者との闘争と
いうかたちでしか、ドラマとして表現できない
からである。暴力と闘う
者はその闘争に際して己もまた手を汚すわけだが、その内的葛藤をドラ
マとして表現するための手法こそ、ドッペルゲンガーという仕掛けだ。

ダグバという対立項はクウガという闘争者のもつ暴力性を純化して外界
に投射した生霊なのだ。純粋な利他心から出でた弱者防衛の大義の闘争
ですら、無謬のものではあり得ない、煎じ詰めれば同じ暴力でしかない
のだという留保は、他ならぬ二項対立の図式によって成立しているので
ある。これが文芸的な勘働きというものだ。

そこを踏み外して闘争物語自体を解体してしまったのなら、闘争を俎上
に載せて語ること自体が不可能になってしまう。闘争とは無縁の地点に
ある者が、闘争をダシにして日常的な内実を垂れ流していることにしか
ならないのだ。

プリンセスムーンの設定は、この物語における闘争の構造を完全に解体
してしまった。この設定がオレたち特ヲタに連想させるのは、五星戦隊
ダイレンジャー
の終盤で物語全体の構造をワヤにした大神龍だが、あの
世界観においては自縄自縛の八方塞がりがかえって味になっていた。

東映スーパー戦隊というリアリティレベルのまったく異なる枠組みで、
しかも、なかんづく辻褄の合わない出鱈目な勢いだけのダイナミズムを
身上とするダイレンジャーならそれでもいい。そのような拘束要素を、
勢いと熱さで軽々と突破してしまうだけのいい加減さが、あの番組には
あったからだ。

さらには、白倉が共に特撮ヒーロー番組のノウハウを学んだ井上敏樹の
ドラマであれば、いかなる設定も結末を束縛したりしないだろう。井上
スタイルとは外しの美学であり不真面目の美学である。かくあるべしと
語り手を拘束する物語の力学を暴力的に破壊する不真面目さ、そのよう
な校則違反の不良学生のような、幼児的なまでに斜に構えた反骨の美学
こそが井上節の真骨頂である。

しかし、この番組はそうではない。それ以前に、大多数のドラマはそう
ではないのである。意図的に井上節を盗もうと無理をした龍騎のときの
小林靖子
と、この番組の小林靖子の語り口の違いに気附かなかったのだ
とすれば、決定的に文芸の本道に関する勘働きが欠けている。

プリンセスムーンの設定を考案したのがオレの目串どおり白倉だったと
すれば、彼はこの設定によって善悪正邪の二項対立が回避され、いつも
の白倉ライダーのようなニヒリスティックなすったもんだの末に、決定
論的な結末が有耶無耶の多義性に拡散すると考えたのではないか。

これまでのシリーズの積み重ねをその目で見ておきながら、この時点で
いきなり物語のテイストを白倉ライダー調に変え得ると考えたのであれ
ば、それはずいぶんと愚かな考えだが、破滅が決定附けられたことや、
衛の誓言が無効化されたことを十分に認識しながら、番組の描いたこれ
までを有耶無耶の多義性に拡散したいと望んだのであれば、それはすで
に思想自体が間違っている。

オレはこれまでこの番組における白倉のディレクションには、おおむね
好意的な感触を覚えていたのだが、プリンセスムーンの投入にはどうに
も割り切れない引っ懸かりを感じる。これが白倉の種出しでないのだと
すればそれを明らかにしてほしいと思うし、だれであれこのイベントを
企んだ者には、その真意を明らかにしてほしいと望む。

もしもこのイベントが、オレの憶測どおりの経緯で企まれたものである
なら、それはあまりにも文芸というものを識らない浮薄な暴挙である。

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