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Act.37 夜歩く

中盤以降の高丸演出のおもしろみは、高丸なりに考え抜いてディテール
を掘り起こすことで、脚本の意図を超えたリアリティを探り当てる部分
にあったと思う。

それは一種、「がんばってるなぁ」というような、額に汗して苦心惨憺
取り組んでいる姿勢に対する好評価でもあって、多少マヌケな凡ミスが
あっても
好意的に視ることができるようになった。さらに、小林靖子の
高丸演出観がガッチリ固まってからは、高丸調前提の脚本との相互作用
で、纏綿たる抒情の描出に強いという独自の持ち味を確立した。

じっさい、ツーショットの会話で情感を表現する場面では、舞原演出の
冷たく張り詰めた硬質な緊張よりも、高丸演出の爽やかな優しさに魅力
を感じる場面も多々あったように思う。

これを高丸雅隆の本来の才能の開花ととるか、ただのフロックととるか
という設問は、もはやナンセンスでしかないだろう。舞原にしたところ
が、この番組を離れたあとの彼が、これ以上の傑作を連発する保証など
いっさいない
。多くの人間と多くの要素が絡み合う映像制作の分野は、
それら多様な要素の綜合としてのダイナミズムでしか語れない。

たとえばウルトラマンティガであれほど凄みのある傑作を連発した川崎
郷太
のその後を思えば、一人の映像作家がコンスタントに良質の作品を
提供し続けるためには、才能などさほど大した力をもたないことを思い
知らされるだろう。

一握りの天才でもない限り、フリーランスの世界で生き抜く者同士の間
では、天賦の才能など我も彼も十把一絡げのレベルである。我も人なら
彼も人という前提で、一個人にはコントロール不能な複雑な要素の絡み
合いのさなかにおいて、そのときどきになにをどうしたのかという営為
だけが映像作家のその後を決定するのだと思う。

映像文芸とは、選れて一回性の強い文芸ジャンルなのである。

たとえ高丸雅隆が今後どのような駄作を連発しようと、この番組で成し
遂げた何事かの価値は変わらない。こうした良質な高丸調のテンション
は次回の最終ローテまで持続していて、最後まで視聴者の期待を裏切ら
ずに、よい花道を歩んだように思う。

さて、概観はそのくらいにして早速今回のエピソードのレビューに入る
が、今回の話には一本のエピソードらしい話の骨格がなく、ドタバタと
ギャグを除けば「うさぎが失踪し、夜の公園でハープを奏でるプリムン
が見附かる」という、一種背骨らしい背骨のないエピソードだった。

大筋に影響のある要素としては、ラストでプリムンが呟く「私が、世界
を滅ぼした
」という一言だけで、それ以外は前回のその後を受けた要素
が三々五々描かれるという、独立したエピソードとして視ればきわめて
まとまりに欠ける話である。

位置附け的には、Act.25のセレニティ覚醒というイベントを受け、その
事後報告と状況説明に終始したAct.26と類縁のエピソード構成となるだ
ろう。シリーズ構成上のブリッジとなるエピソードで、叙述要素として
は、レイちゃんと美奈子、衛とベリルの会話による状況説明がメインの
回となっている。

ラストの衝撃の告白をも含めて、このエピソードの主筋は前世の因縁に
まつわる状況説明のみで構成されているのである。

普通に考えれば退屈なエピソードになるはずで、プリンセスムーン登場
を受けていよいよ前世の悲劇の真相が語られ、銀水晶とメタリアの相関
が提示されるということで、説明要素もこれまでになく多くなっている
わけだから、全編ほとんど説明的なセリフで埋められている。

そうした性格は今回のエピソードのみに留まらず、次回のエピソードも
過去の回想を踏まえた状況説明に終始して、総集編と呼ぶにふさわしい
構成であった。

前回のレビューで陳べたとおり、鈴村参入以前の中盤の脚本は、明らか
演出者のタッチを想定して書かれている節があるが、今回ローテの二
話はだれを想定してアテ込んだともいえない内容である。

この後の舞原ローテも、どちらかといえば高丸演出に相応しい内容だっ
たし、結果的にAct.3540までのローテーションは、竹光と鈴村が入れ
替わっただけのかたちで一巡したが、脚本執筆段階ではもっと流動的な
話になっていたのかもしれない。じっさいAct.41から最終話までの打順
かなり従来ローテから変わっているので、中盤の好調の一因となった
アテ書きが終盤の変則的ローテ調整でうまく機能しなくなったのだろう
と思う。

ちょっと意地悪な言い方をすれば、全体構成やダイアログの相関に智恵
を搾る必要がなく、場当たり的な映像のおもしろみだけで押し通すこと
ができるという意味で、今回は高丸監督にとって気楽なローテだったと
いえるのではないだろうか(笑)。

そういう意味で、今回のエピソードで印象に残るのは、たとえばうさぎ
の失踪を受けてルナに呼ばれた亜美・まこの身代わり奮闘記だったり、
たとえばレイ・美奈の対話の絵面的なおもしろさだったりで、ここぞと
いうようなドラマ的なポイントはほとんどない。

まあ、それで一向にかまわないエピソードではあった。人によっては、
亜美ちゃんがうさぎを探し回るシーンで声高に名前を連呼して歩くのは
ベタにすぎて、「高丸センス健在なり」と感じるかもしれないが、まあ
そこまでうるさく論っていてもキリがない(笑)。

初期の頃なら、そんな些細な事柄一つとっても演出センスの欠如という
ふうに解されたのだろうが、今現在のように大筋間違った解釈もなく、
独自の強みも見せるようになってみれば、ある種こういうユルさや隙の
一つもないと、高丸演出回を観た気分にならない(木亥火暴!!)。

要するに、だれの演出であろうが観客の主観というファクターが大きな
意味をもつ分野では、どこをつついても瑕瑾のない完璧な映像作品など
あり得るわけもないのであって、映像作品というものは総体としてある
一定の満足が得られればそれでいい
のだと思う。また、観客がそういう
振れ幅を好意的に許容できるかできないかという部分では、つくり手の
姿勢やその見え方という要素も大きいのではないかと思う。

今回のような段取り話であっても、高丸雅隆がいっさい手を抜かず愛情
をもって演出している
ことは、観ているこちらにも伝わってくる。内容
的には初期の高丸演出回の雰囲気に近いが、変に衒った悪ふざけという
のではなく、番組のトーンに沿ったコミカルのラインをうまくつかんで
いる
という安心感がある…というか、そっち方面のラインは主にこの人
が試行錯誤して決めちゃったわけだが、その試行錯誤によって「なにを
やってはいけないのか」がわかっているという安心感があるわけだ。

じっさい、うさぎの替え玉に仕立てられた亜美・まこのすったもんだや
レイ・美奈のナコナコネタの演出は、初期の高丸演出とどこも変わって
いないのだが、今回のようにまったくお話に芯がないエピソードのネタ
として注力する分には、多少やり過ぎていても一向に不愉快ではない。

むしろ先ほど陳べたように、そういうギャグが印象に残らなかったら、
このエピソードはまったく記憶に残らなかっただろう。ずいぶん以前に
田崎が演出したAct.7 について同じようなことを陳べたが、話を進める
ための段取りのエピソードでは、小ネタの部分でチャームをつくらない
と、一本のエピソードとしての見応えがない。

仲間内では、身代わりネタはもっと引っ張ってもよかったのではという
声まであったくらいだから、ようやく高丸演出のベタなギャグセンスが
作品世界内でうまく機能するようになってきたわけだ。

このネタは、ただのギャグとして切り出してしまえばどうということも
ないものだが、亜美ちゃんなりまこちゃんなり、育子ママやシンゴなり
のキャラに即したリアクションがおもしろみとなっている。

要するにキャラ転がしの一種なのだが、替え玉バレサスペンスの際どい
瞬間の間の取り方とか、亜美・まこが鉢合わせした際の表情芝居とか、
ルナの周りに散乱するカンペとか、こういう馬鹿馬鹿しい細部にむやみ
にこだわる高丸イズムも、こういうエピソードでこの程度であれば好感
がもてる

亜美ちゃんがうさぎの部屋で育子ママと絡むというシチュエーションに
おいて魚眼のアップが多用されているのは、近々のエピソードであまり
魚眼を使っていないことも併せて、おそらく意識的にAct.3 のリベンジ
を試みていると視るべきだろうが、Act.3334のドラマで亜美ちゃんの
家庭的な欠落が埋められたあとならギャグとして笑うことができる。

レイ・美奈の対話の場面でも、いきなりミニチュアセットを舐めながら
ヘリの爆音をOLして二人が登場するという絵面のつくり方も、底意を
含めて
おもしろいし、カットが変わるとレイちゃんのナコナココスプレ
がだんだんエスカレートしていく辺りの飛ばしのセンスもおもしろい。

ここはもう、ヘリの爆音やカットが変わるといきなり夜になっている
うな部分も含めて、竹光センスの悪意的なパロディととっちゃおうじゃ
ないか(木亥火暴!!)。やるなぁ、高丸雅隆(木亥火暴!!)

舞原がAct.33のママチャリ倒しで竹光いじりをやってるのを見て、自分
もやってみたくなったんだろうか。Act.0 も踏まえてみると、高丸って
竹光いじりばっかやってるような印象だなぁ(木亥火暴!!)。

「…で、おまえは本当にこれをおもしろいと思ってるのかぁっ?!」と
胸ぐらを掴まれたらもちろんヘラヘラ笑って胡麻化すが(木亥火暴!!)、
笑いというものは、そのネタ自体のセンスもさりながら、受け手の側が
「ノってやろうか」と気楽な姿勢になっていないと発生しないものだ。
そしてこのドラマにおいては、締めるべきところをきっちり締めたうえ
でないと、気楽な気分には浸れない。

中盤以降の高丸演出はその辺のバランスがしっかりしているので、少し
野暮ったいナンセンスな笑いを安心して楽しむことができる。その辺は
たとえば、Act.1920のラブコメとシリアスの匙加減からも窺えるし、
さらにはそれ以後の二回のローテで、悪ふざけばかりが取り柄ではない
ところを証明したからこそ、オフビートなおふざけを好意的に楽しめる
土壌が培われたのだと思う。

まあ竹光いじりの真意を枉げてとったのはシャレの範疇だが、状況説明
の縦糸に絡ませる小ネタが、キャラ転がしやレイちゃんのナコナココス
プレなどセルフパロディ的なものなのは、他の監督の演出回も含め隅々
まで番組に目が届いていることが窺えて好ましい。

ヘリ爆音をミニチュアセットにかぶせて「なんか怪獣出てきそうな感じ
だよねぇ〜」的にいじって見せたのも、前半でハマチや安座間が沢井の
うさぎを真似ている流れを受けて、監督まで他の監督の真似をしてみせ
るというシャレ
になっていて悪くないと思う。

そういう意味では、Act.0 であれだけコッテコテの悪ノリ気味に竹光を
いじっておきながら、実は悪意「だけ」はなかったりするのかもしれん
なぁこの男、とちょっと思ったりもするのだが、だったらやっぱりバカ
だな(木亥火暴!!)。

それでは、高丸演出に関してはこのくらいで切り上げ、構造らしい構造
のないエピソードではあるが、少し全体構造について触れることにしよ
うか。

全話DVDの巻末座談会では、印象深いエピソードとしてAct.36以降の
一連のプリムン絡みの数話を挙げていた沢井だが、前回陳べたとおり、
オレはその一連をネガティブに視ている。そのネガティブな影響は早速
今回のエピソードにも顕れていて、本来なら物語のキーアイテムを探る
立場にあるはずの主人公のうさぎがほとんど不在のまま、エピソードの
進行が終始している。

主人公その人をキーアイテムに設定してしまったために、物語は対象と
なる何かをめぐって主人公が活躍する構造から、主人公をめぐって脇役
が活躍する構造
にシフトしてしまった。これは最初っから主人公が立ち
まくっているような番組なら、クライマックスの設定として効果的かも
しれないが、レギュラー廻しの手法で前半から脇役のほうが立っていて
うさ・まも絡みでうさぎの活躍が掣肘される流れが多かった
この番組で
は、ますます主人公の活躍が抑えられることになって、効果的ではない
と思う。

もちろん話の前面に出て動き回るばかりが美味しい役どころといえない
わけで、プリムンのキャラクターが強烈なだけに、今回のエピソードも
ラストでプリムンが美味しいところをさらったという見方も、できない
でもない。

オレが殊更に指摘するまでもなく、うさぎのプリムン化は亜美ちゃんの
ダーキュリー化に対応しているわけで、Act.28までのダーキュリー編に
おいて美味しい役どころを演じたハマチを羨んでいたであろう沢井が、
ついに自分にもダーキュリー的な演じ甲斐のある役どころが廻ってきた
ことを喜ぶのはわかる。

しかし、ラスボスとしてのプリムンは美味しい役どころであるが、主人
公としての月野うさぎは従来にも増して貧乏くじを引かされた
といえる
だろう。うさぎ=プリムンという構図には、亜美ちゃんとダーキュリー
の場合と同様の同自性の混乱があるからだ。破滅をもたらすラスボスが
主人公の月野うさぎの別人格と設定されてしまった以上、プリムンが前
面に出る限り、同一人物であるうさぎは後景に退かざるを得ない。

結局うさぎは、最後まで意志的に何事かを成し遂げ得なかったわけで、
悲劇の宿命に踊らされただけという印象が強い。かなり以前に指摘した
とおり、月野うさぎは他者のために動いてこそ魅力的なキャラクターで
あって、他者に気遣われる立場になってしまうと途端に生彩を欠く。

そういう意味では、プリムンの誕生を受けた直後のこのエピソードが、
プリムンをめぐる周囲の動きだけで構成されていて、ある意味うさぎと
いうキャラクターがまったく不在のままで成立しているのは、シリーズ
の今後の展開を象徴している

今後の展開においてうさぎは、自身の裡にあるプリムンを解放せぬよう
堪えに堪える役どころであって、このような受動的な立場にある人物を
動かしてエピソードを構成するのはきわめて難しい。そして「堪える」
という内向的なアクションのもたらすストレスを解消する劇的なカタル
シスとは、「堪えきれずに爆発する」というかたちでしかないわけで、
今後の作劇の基本型は「主人公の忍耐が破れ、破壊的なイベントが起こ
る」という後味の悪いものになってしまう。

その後味の悪さは観客にさらなるストレスを与え、そのストレスをまた
忍耐の破綻→力の暴発というかたちで回収していくくり返しによって、
力の暴発の最終的なプラトーである星の破滅が決定附けられてしまう。

ネットでこの最終盤の流れが「鬱展開」と揶揄的に語られているのは、
話の流れがシリアスであるとか基調が暗いというだけの理由ではない。

主人公の営為が破綻して破壊的なイベントが起こるというきわめて後味
の悪いルーティンが確立され、作劇上のストレス→カタルシスの力学的
構造がさらなるストレスを増殖させていくという、ストレスフルな作劇
に終始し、しかも主人公がその爽快感を欠く循環構造を、自らの意志的
行動によって打破できなかったことが、そのようなネガティブな印象を
与えるのである。

さらには、プリムンの強烈なキャラクターが物語の前面に出てくること
とその相対においてうさぎのキャラクターが弱められることによって、
主人公の非本来的な一部としてラスボスがあるのではなく、ラスボスの
非本来的な一部として主人公のうさぎがあるような転倒した印象
が生起
してくる。

こうした印象の転倒が意図的な仕掛けとして活きていたダーキュリーの
場合と比べて、プリムンの設定にはどうにもならない破綻がある。

その意味では、物語冒頭においてうさぎが失踪し、ラストにおいてプリ
ムンが出現する今回のエピソードの構造は、月野うさぎの主人公として
の能動的役割が消失し、ラスボスであるプリムンの一部として吸収され
対象化されていく流れを象徴したものといえるだろう。

さてそれでは、気が進まないながら、そろそろ今回語られた前世の悲劇
の真相について視ていくことにしようか。

今回の状況説明によって明かされた過去の悲劇のストーリーは、ラスト
の衝撃の真相を除けば、ほぼ原作のとおりである。エンディミオン王子
に対するベリルの歪んだ愛とクインメタリアの力が出会ったことで破滅
に至る悲劇の幕が開き、禁じられた愛の糾弾を旗印にベリルが月の宮殿
に攻め入ったことでセレニティの力が暴走、月と地球をもろともに破滅
させたというストーリーが語られる。

そして、例によって前世の悲劇のストーリーを語るこの物語の語り口は
至極わかりにくいものである。これはそのストーリー自体が込み入って
いてわかりにくいからでもあって、ここで少しそれを整理してみようと
思う。

まず、大前提として「月人と地球人の恋は不吉」という禁忌があった。
だからセレニティとエンディミオンの恋は「禁じられた恋」であった。
これが「迷信」にすぎないことは、以前詳細に陳べたとおりである。

なぜなら、セレニティによる星の滅亡という真相が語られたうえでも、
その禁忌には何ら論理的根拠も宗教的根拠もないからである。逆にいえ
ば、そんな迷信さえなかったら星が滅ぶことはなかったのだから、この
禁忌を破滅と結び附けるのは自己言及的な循環論理である

エンディミオンに横恋慕していたベリルは、月人と地球人の恋によって
禁忌が破られたゆえの天変地異を偽装して民衆を煽動し、叛乱を起こし
たということになっている。つまり禁忌の侵犯による天罰など嘘っぱち
だったのである。

かつて月と地球が滅亡したのは、月人と地球人が恋の禁忌を犯したから
ではない。銀水晶の力をもつプリンセス・セレニティが恋をしたから、
その恋が迷信によって禁じられていたから、星が滅んだのである。

そして、ベリルがエンディミオンを愛し彼に象徴される美や権力を望ん
だのであれば、星の滅亡はベリル=メタリア陣営の目論見によって実現
したのではなく、あくまでだれが望んだことでもない不測の事態にすぎ
なかった。禁じられた恋が招く天罰としての破滅ではなく、恋の禁止に
基づく悲恋の運命が、誤算としての破滅をもたらしたのである。

えてして迷信とはこういうものではあるが、このストーリーでは原因と
結果が逆転して循環論法的に宿命を形成しているのである。

つまり、このストーリーを前提にして「前世の宿命」を語るのならば、
ベリルによる衛の略取のみならず、それ以前のルナたちの反対や美奈子
の妨害もまた前世の宿命の完遂に至るプロセスの一つだったということ
になる。だれの行動が正しかったということもない、だれもかれも皆、
宿命の蜘蛛の糸に踊らされていたにすぎないのである。これまでの物語
の流れそのものが、前世の宿命をなぞったものにすぎなかったというこ
とになる。

こうした構造が露わになってしまえば、破滅を回避するためにやらねば
ならないことは、本来一つしかない。プリンセス・セレニティとプリン
ス・エンディミオンとしての前世を背負ううさぎと衛の現世における恋
を成就させること
、これしかない。

ならば、衛を略取したベリルの妄執こそが世界を破滅に至らしめる愚挙
であり、その間の事情を明解にしてしまえば、実は物語の結末における
破滅は回避可能だったのである。ごく普通に、悪の首魁であるベリルを
倒し、四天王の安全を確保したうえで衛を奪還すればセレニティによる
力の暴走は回避可能であった。

しかし、なぜか今回の開示においてその間の事情は曖昧なまま放置され
衛の手でプリンセスを抹殺せよとベリルが迫ることで、悲劇の回避に至
る道筋が閉ざされる。さらに、本来銀水晶の力は制御不能のものではな
いはずなのに、メタリアの力の増大が銀水晶のせいだとすることで、
水晶が存在する限り物語が完結しない
ということにされてしまった。

本来的には、銀水晶の力とメタリアの力に相関があるのであれば、極性
が逆でなければならないはずだ。力というのは相克・相成するもので、
相成する一方で極大に向かう力というのはあり得ない。それは一種超越
的に直観されるバランス感覚であり、この物語においては、力は無前提
の力でしかないのだから、相成によって増大する一方の力というのは、
永久機関に類似の詐術でしかないのである。

力の極性を無効化する手続によって二項対立の構図を回避したのであれ
ば、メタリアと銀水晶の力に相成による極大化の相関をもたせるのは、
ご都合主義というものだ。普通一般には、二項対立の構図を採用するか
らこそ、力同士が相克・対消滅するという前提で、極大へ向かう相関を
設定できるのである。

なぜなら、二項対立として設定されている二つの力が相関によって極大
へ向かうとしても、極性が逆であることで対消滅によって差し引き計算
のバランスが保たれるという直観が働くからである。メタリアと銀水晶
のように、極性が設定されていないのに相関して極大へ向かう力は無限
増殖であって、物語における超越力の設定としては人間の本然的な直観
に背くのである。

ここにはなぜか、回避不能な悲劇へ導こうとする意図がある。本来的に
は十分回避の方法があるにもかかわらず、このような不自然窮まる力学
構造を設定してまで、作劇的に脱出不可能な陥穽へ物語を導こうとする
意志がある。

このような不自然な力学的構造の導入は、結果として星の破滅と再生に
よって超越力を蕩尽するという、これまた不自然窮まる落としどころに
決着せざるを得なかった。メタリア自体は衛の挺身によって滅びている
のだが、そこで突然メタリアと銀水晶の相関は途切れ、対消滅ではなく
一方的な蕩尽というマッスの問題に帰着する。二つの力は、個別のプロ
セスで解消され、やっぱり相関のない無前提の力でしかなかったことに
なってしまう。

ここは非常に歯切れの悪い成り行きである。超越力一般に対する受け手
一般が共有する本然的な直観を無視して、便利に使っただけという印象
に堕している。しかもそれは、物語を円満に着地させるためではなく、
不自然な状況を招来させるために不自然な手法が採用されているのだ。

物語上の困難は解決を前提としたフィクションでしかないはずなのに、
困難を設定する過程で解決への道筋をすべて潰しているのである。問題
と解決の構図上に、克服を前提とした課題を設定するのではなく、解決
を拒絶するための困難
を設定している。パズルには解法があるからこそ
頭を悩ます価値があるのであって、最初から解決の方図がない設問など
だれも望みはしない
のである。

いろいろと考えてはみたのだが、なぜここで物語が挙げて悲劇の方向へ
流れていったのか、その理由がわからない。いや、もっと正確にいえば
悲劇を回避しようという意志をつくり手が放棄した理由がわからない。

前回語ったようなプリムンの設定に内在する滅びの不可避性、これは、
一種作劇上の課題であったはずだ。前回も留保を附けたように、滅びの
結末を回避するという一点において、打てる手はあったはずだ。それを
今回のエピソードにおける状況説明で早々と潰している。

その存在に内在する不可避性を補強するようなかたちで物語上の困難を
設定している。初見当時の感覚でいえば、オレはさらに不安を覚えた。
なぜなら結末を強力に拘束するプリムンというキャラクターを設定して
おきながら、物語を悲劇に誘導するのはあまりにも易道だからである。

公式サイト担当者が語る「どんな展開であれ、一方では『明るく楽しい
セーラームーン』をなるべく守ってもいきますので、よろしくお願いし
ます!
」という口約束の「一方では」「なるべく」という留保の言葉が
なんと黒々と大きく見えたことよ(笑)。

少なくとも、当レビューにおける「鬱展開」の意味とは、今後何話にも
わたって批判的な言辞を長々と書き連ねなければならないという予感

指すものである。

それから、今回は衛とクンツァイトの対決がちょっとした山場になって
いたが、結局当レビューで提示したようなクンツァイトの真意について
の疑問はスルーされたようで、衛の過去の「裏切り」については、詳細
はわからないままである。

クンツァイトが衛を敵視する理由、「裏切り」と表現される事柄が詳細
に提示されない限り、今ひとつクンツァイトの側の動機に感情移入でき
ない憾みは残る。エンディミオンがセレニティを愛するのは禁忌の侵犯
ではあっても、四天王たちに対する裏切りにはならない。ことに、今回
明らかにされたような事情で滅びが招来されたのであれば、四天王側に
エンディミオン個人を恨む動機はない。

これは、クンツァイトの恨みが筋違いだといっているのではなく、彼が
敬愛する主君を恨むに至った、回心の心理の機序が理解できないという
ことだ。それが「私は、それに関わった者すべてを消す」「当然私自身
」という目的に結実する機序も想像できない。

それは一方ではクンツァイトが何を賭けて復讐を目論んでいるのかが、
この期に及んでもわからないからでもある。あの滅びに関わった者すべ
てが憎いというほどの、何が喪われたから憎しみが生まれたのか。これ
は受け手の想像に任せる部分ではなく、送り手がハッキリ描くべき事柄
である。

そうでなければ、この物語におけるクンツァイトは、受け手から共感を
受ける人物ではなく不可解さで興味を惹く人物でなければならないが、
これまでのシリーズの流れを視るに、そのような人物として設定されて
いたとしても、すでにそうした役割を演じるべき時期をすぎている。

今回の描かれ方を視るに、すでにクンツァイトにまつわる事情はすべて
説明が済んでいるかのような扱いになっている。おそらく、事実関係の
レベルではこれ以上の説明が為されることはあるまい。

しかし、事実においてクンツァイトの動機は未だ不可解なものでしかな
いし、受け手に開示された情報の範囲内では、彼の心理を類推すること
は不可能である。この時点で、クンツァイトは観客にとってあまり魅力
的な人物ではなくなってしまった
。ダークキングダム城内の衛に力押し
で撃ち掛かっては、ベリルの魔力で押し留められる情けない人物に成り
下がってしまった。

これまで数々のドラマを惹き出してきたトリックスターの凋落は、観客
にとって残念な成り行きではあるが、彼に替わってドラマを与えられた
のが、ベリルへの忠誠を裏切られた挙げ句、人間界に独り取り残された
ネフライトである。

裏切りと憎しみ、復讐という要素は、そのままネフライトにスライドし
て受け継がれていく。さらに、あろうことかネフライトは水野亜美への
歪んだ想いをもクンツァイトからぶん獲ってしまう
のである。

物語はあらゆる意味で悲劇的な流れを辿り始めた。シリーズ前半の奇跡
のドラマは、仕組まれた悲劇のなかに解消されようとしている。こんな
流れのなかで新たに始まったネフライトのドラマは、円満具足な着地点
を見出すことができるのか。

まあ、それはおいおい視ていくことにしよう。

さて、最後に小ネタを少々。前回までの小林カメラマンに替わって今回
から上林秀樹が入っているが、東映制作の一般ドラマを数多く手がけた
ベテランということだ。小林カメラマンがAct.33から四話で交替、上林
カメラマンが今回からAct.42までの六話を担当ということで、かなり目
紛しくカメラマンが替わっている。

この辺は白倉が一般ドラマで培った人脈ということなのだろうが、その
ツテがなかったら、この番組のようなイレギュラーな枠のクオリティを
維持するのはたいへんな苦労だっただろう。ハードワークには慣れっこ
の東映特撮とはいえ、いのくま・松村のクレジットを頻繁に見るにつけ
最早東映特撮の人材だけで廻していくのは難しいだろうと感じる。

その上林カメラマンの手腕だが、アバンばかり例に引くと手抜きと思わ
れるかもしれないが、じっさいファーストシーンというものにはカメラ
マンの特色が出るもの
なのかもしれないと思う。このアバンの絵面は、
すべて手前を寄り目でナメて、割合近い間合いで奥行きをつくるという
構図になっている。

なぜ近い間合いになっているかといえば、それはもの凄く極端な寄り目
で手前の画を押さえているからで、人物がちょっと動くとすぐにカメラ
の真ん前に来て極端なアップになってしまう。

ここだけではなく、全般に手前を極端な寄り目で押さえる傾向があるよ
うで、セラルナの後頭部ナメなんか画面のほぼ半分がお提げというほど
もの凄い寄り方をしている。じっさいにはそれほど他のカメラマンと絵
面が違うわけではないが、ことあるごとにとにかく寄る、近い間合いで
煽る、なにかをナメる撮り方の印象が強い。カメラが常に役者の真ん前
に来ていて、撮影姿勢が極端な前進守備という印象だ。

そういう意味では、先ほど触れた亜美ちゃんの魚眼ショットも、このよ
うな手前ナメ主体の撮り方の延長にあるからこそ違和感がないという見
方もできる。

東映特撮と一般ドラマのカメラマンの違いといえば、やはりフィルムと
ビデオの違いといえるだろうが、ここまでトラックアップ主体で寄り目
の撮り方をするのは、やはり古株のテレビドラマの人だからだろうか。

まあ、この問題に深入りするとえらい苦労をするということはわかって
いるので、この辺にしとくけどね(笑)。

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