« Act.37 夜歩く | トップページ | Act.39 十番町の初夏を愛す »

Act.38 月ぞ悪魔

Act.35の鈴村復帰以降のローテ調整が、脚本執筆段階では流動的だった
のではないかという憶測は、今回のエピソードを視るとますます信憑性
が高くなってくるように思える。

なぜなら、今回のエピソードは心象世界におけるうさぎとプリムンとの
語らいを枠物語とした総集編だったが、総集編ということならわざわざ
高丸なんかにやらせなくても、鈴村展弘という立派な総集編監督がいる
じゃないか(木亥火暴!!)。

…一応断っとくけど、これ、他意のないギャグだから(木亥火暴!!)。

まあ、つまんないネタはさておき、プリムン登場後の新たなステージへ
向かうための状況説明のエピソードに続くのが、うさ・まも関係の変遷
を振り返る総集編というのは、流れとして少し盛り上がりに欠ける嫌い
もないわけではない。

前回が前世の悲劇の真相を明かすエピソードで、今回はそれを受けてこ
れまでを振り返り整理するエピソードということで、ハッタリに満ちた
プリムン爆誕以来、二週にわたって事件らしい事件が起こらなかった
いうことになる。

まあ、じっくり腰を落ち着けてこれまでの落ち穂を拾う解説エピソード
もたまには必要だが、この総集編をこのタイミングでもってくるのは、
ちょっとどうなのだろう。

プリムン誕生→前世の悲劇の真相開示→現世の恋の再確認という流れで
置かれると、こういう総集編は嘘も隠しもないただの総集編にしかなら
ないのではないか。もちろん、そういう狙いなのかもしれないが、二人
のこれまでの経緯をただの既成事実として語ってしまうのでは、物語の
積み重ねがもったいない。

新しいステージへ向かうためにこれまでを総括するというのは、一見、
当たり前の手続のように思えるが、後半の軸となるうさぎと衛の関係を
この時点で総括してしまうと、新たな展開においてこれまでの積み重ね
がものをいうというタイプの話がつくれない

新展開の前段階で総括された事柄は、向後の展開を受けてさらなる変遷
を蒙るものだ。しかし、今回総括された事柄の結論は、いかなる変遷を
蒙ろうとも堅持されねばならない究極の結論でなくてはならなかった。
すなわち、「絶対、星なんか滅びない」という結論である。

世界の命運を賭けた宿命の恋を完遂する決意は、この一言に集約されて
いたはずだ。前世にいかなる悲劇があったとしても、今生の二人は前世
の悲恋の主人公たちとは別人である。過去の悲恋が星の滅亡という悲劇
に決着したとしても、今生の恋は過去のくり返しでは決してない、違う
生を生きているのである。

だからこそ、「信じるか。オレは信じない」「おまえといっしょに証明
する
」「絶対、星なんか滅びない」という力強い誓言によって、今生の
二人はすべてを踏み越えて相抱擁するのである。この誓言は宿命の呪縛
を出でて完遂されねばならない物語の呪縛
である。物語内要素でしかな
い宿命の呪縛よりも、物語を語る行為それ自体にまつわる呪縛のほうが
強力なのは、理の当然なのである。

ならば、その誓言に帰着する恋の来歴は、悲劇に向かおうとする物語に
おいて、悲劇的結末を回避する力として作用するのが、本来的な作劇の
セオリーである。なぜなら、「絶対、星なんか滅びない」という言葉の
もつ強力な確からしさが、結末における滅亡の回避を劇的なレベルで保
証するからである。

この誓言が破られるのだとすれば、それは語り手の裏切りであり、物語
は完膚なきまでの悲劇として決着しなければならない。この言葉が発さ
れた以上、滅びの結末を避け得ぬ絶対の悲劇か、それを敢然と回避する
ハッピーエンド以外の結末はあり得ない。そうでなければ、この誓言を
帰着点とする一連のドラマの積み重ねはその場限りの嘘になってしまう
からである。

あの得恋の高揚と揺るぎない約束の言葉が、非情な宿命の力によって嘘
にされてしまうのであれば、確かなものなどこの世にはないのであり、
どんな幸福も快楽も所詮一時の気慰みでしかない。人は困難に打ち勝つ
ことなど叶わず、人智の与り知らぬ大きな力に弄ばれるだけのちっぽけ
で哀れな存在にほかならない。

悲劇とは、将にこうした極性をもつ悲愴なドラマである。人の世の哀切
を極端に誇張して語ることで、宿命という巨大な力に対する人間の卑小
さ無力さを強い共感をもって実感させ、哀しみの涙で胸奥に蟠る憂いを
洗い浄める物語形式である。

悲劇的結末を志向するということは、このような情感を狙うということ
である。人が己の無力さに涙し、意志的な営為があえなく破綻する瞬間
の自棄的な快味に身を委ねるカタルシスを狙うということだ。それは、
この物語がこれまで描いてきた美しい嘘を、本当の嘘にしてしまうこと
でしかない。

衛の誓言とプリムンが内包する破滅の宿命を天秤に掛けたうえで、なお
悲劇的結末を志向するのであれば、これまでの物語で描かれてきたポジ
ティブな主題はすべて否定されてしまう。結末が物語の意味を拘束する
のであれば、これまでの物語で描かれてきた一連の積み重ねは、否定の
対象を特定するための積み重ね
でしかなかったということになる。

またしても井上敏樹を引き合いに出すが、井上敏樹の作劇においては、
結末が物語全体の意味性を拘束することはない。彼の作劇では積み重ね
によって生起する物語の意味性が意図的に無効化され、物語で描かれた
すべてのイベントは、常にその場限りの感興でしかない。「オレはもう
迷わない」と決然と言い放った主人公は、その舌の根も乾かないうちに
もうウダクダと迷っている。これは井上敏樹個人のドラマ観、人間観が
そのようなものなのだから仕方がない。

人間にとって意味がある時制は現在でしかない。このような認識は井上
も小林も共通しているが、その顕れが違っているのである。小林靖子の
場合は現実レベルで現在に特権的な意味を認めているのだが、井上敏樹
の場合は作劇レベルで今この瞬間にしか意味を認めていないのだ。

どちらが正しいということでもない、それは作劇観の違いにすぎない。
ただ、井上流作劇法では過去にいかなることが起こっていようと、さら
には結末がどのようなかたちに終わったとしても、語りの時制における
現在は、過去にも未来にも拘束されない無制限の自由をもっている。

そうした無前提の自由のなかで今現在の在り方を決定するのは、意味性
ではなく井上敏樹という物語の神の「俺イズム」という感じ方である。

そしてその俺イズムは井上敏樹という個人の自分史と密接に結び附いて
おり、余人と論理的に共有可能な理由附けは与えられていない。諸処で
為された井上の発言から感じ取れるのは、このような一種「流行作家」
的なポジションを進んで担おうとする先鋭な意識である。

かつて森田芳光が「流行監督宣言」を行い、日本映画のフロントライン
に立つことによって、彼個人の作劇上の自分史を日本映画史の流れへと
重ね合わせ、停滞した日本映画界を強引に前へ進めようと目論んだよう
に、ある種「流行作家」のポジションを担う井上敏樹は、特撮ヒーロー
番組というジャンルにおいて、井上個人の自分史を戦略的な「外し」の
センスとして展開しているように思える。

常套的な作劇術を「ダサい」「古い」「昔は凝ってたけどもう飽きた」
と論理的な批判もなく斬って棄てる乱暴な言動は、自分個人の感じ方が
特撮ジャンルにおける最先端の作劇センスなんだという肥大した自意識
の発露のように思える。

それはそれで役割論の範疇の事柄だし、先父伊上勝の影響力が未だ残る
時期に東映特撮に乗り込んで実績を積み重ねた彼にとって、そのような
役割を担う必然がある。荒川稔久や小林靖子ら後輩の面倒見の良さは、
彼個人の性格もあるだろうが、こうした役割意識と無縁ではあるまい。

メリもハリもなく急展開ばかりがのべったり転がり続けるような、現在
の目で視れば退屈でさえある伊上流作劇術の骨格は、ある意味ではその
息子にも受け継がれているのだろう。今という時制において新しい表現
に拘る井上敏樹にとって、意味性も積み重ねもセオリーも、なんら拘束
要素ではあり得ない。

しかし、小林流作劇術はこのようなものではない。彼女はなにもないと
ころから痙攣的になにかを捻り出すような井上敏樹的なハッタリを得手
とするタイプではない。過去に語られたなにかを前提とし、それが作劇
上の拘束要素として作用するからこそ、物語というたしかな輪郭をもつ
意味構造を構築し得るタイプの作家である。

今回のエピソード執筆の時点では、プリムン登場以来当レビューで詳説
してきたようなネガティブ要素を、無意識裡に感得していたのかもしれ
ない。それこそが「文芸的な勘」というやつだ。

プリムン登場以前の物語は、明らかに前世の宿命を回避する結末を強力
に志向していたはずだ。現世の二人を囲繞する数々の障害を蹴散らして
二人が相抱擁するに至る決め手を衛の誓言に設定した以上、それは物語
のハッピーエンドを先取りした成り行き
である。

この先いかなる艱難辛苦が二人を悩まそうとも、二人の愛が物語のメタ
的な次元において肯定されている以上は、ハッピーエンドの結末が必ず
成就されなければならない。嬉しい実感、努力が酬われる希望、どんな
困難をも乗り越え得る人間の可能性、そうした実感を決して裏切らない
誠実さ
こそが小林脚本の「男気」である。

しかし、そのような結末を目指すべき物語の直中に、結末を強力に拘束
する破滅の使徒が唐突に降臨してしまった。この困難は、小林流作劇術
では決して乗り越えることができない。なぜなら、プリンセスムーンと
いうキャラクターは、星の破滅をもたらさない限りまったく存在意義の
ない物語要素
だからである。

それがほかならぬ主人公のうさぎの今後を決定附ける物語全体の核心的
キャラクターである以上、黒木ミオやセラルナのように脇に廻して適当
に胡麻化すというわけにもいかない。物語終盤の展開がプリムンを軸に
したものである以上、その物語要素を十全に活かすなら、星は必ず滅び
なければならない。

ここにおいて、劇的力学の必然として悲劇的結末が決定附けられ、さら
には従来の物語を裏切らないためのハッピーエンドもまた実現されねば
ならないというダブルバインドが立ち塞がってくる。

ここまでいえば、この番組がなぜあのような不可解な結末を迎えたのか
だれにだってわかるだろう。大前提としてこの物語はハッピーエンドで
終わらねばならないのだが、それと同時に悲劇的結末もまた実現されね
ばならなくなってしまったのである。この二つの結末がもろともに実現
されねばならないということは、プリムンの誕生時点ですでに語り手に
感得されていたようだ。

なぜなら、心象世界内においてうさぎとプリムンが語らうというかたち
で現世の恋の経緯を振り返るストーリーがこのタイミングで語られるこ
とは、衛の誓言を不確かに揺らがせるばかりでなく、うさぎとプリムン
の二者の内的葛藤によって破滅を回避するという選択肢をも潰してしま
からで、ここにも悲劇的結末へ向けて播かれた種があるのだ。

普通一般にこういうかたちのエピソードを設けるのは、たとえばプリム
ンによる破滅の脅威がクライマックスに達したタイミングで、うさぎと
プリムンという同一人物内の二者の葛藤によってプリムンの怒りを宥め
破滅を回避するため
である。本来なら最終回のAパートにでも置かれる
べき物語要素なのだ。

プリムンの抱える恨みは、「生まれ変わっても、この星でいっしょには
いられない
」というものであり、当レビュー流に言い換えるなら、設定
された困難を解消できない苛立ちである。しかし、今回語られたような
うさぎと衛の恋の変遷は、そのような困難を二人で乗り越えてきた歴史
である。その恋の帰着点として衛が発する誓言は、恨みの権化としての
忿怒相であるプリムンの心をも宥め、その行動を拘束するだけの説得力
をもっているはずだ。

現世におけるエンディミオンである衛が、現世におけるセレニティであ
るうさぎとの恋を貫くために力強く発した誓言、それは忿怒相としての
プリムンを宥め、慈愛のセレニティを呼び戻す力があったはずだ。その
言葉に至るまでの艱難辛苦の道のりを振り返ることで、その言葉に物語
の積み重ねに基づく大きな力が宿ったはずなのだ。

だが、今回のエピソードにおいて、うさぎとプリムンの内的対話という
仕掛けも、物語の積み重ねによって力をもつ衛の言葉も、単なる回想と
いう以上の扱いを受けない
。悲劇を回避する切り札が、単なる総集編の
ための口実という無造作な扱いで使い捨てられ、本来もっているはずの
力を削ぎ落とされている。

それを検証するために、この辺りで今回のエピソードの枠組みを詳しく
振り返ってみよう。

まず、前回の引きを受けたアバンから、駆け寄ろうとする四戦士を制し
プリムンは何処へともなく消え失せ、ビルの屋上に姿を顕わす。ここで
先ほど引いた「やはり生まれ変わっても…」という独白を漏らすカット
は、強い風に靡く髪という絵面と生音を切ったセリフの附け方の対照に
よって夢幻的に美しく表現されている。

目映い光芒を放って再びプリムンが消失すると同時に、何処ともしれぬ
白い空間に移動し、そこへうさぎが歩み寄ってくる。この場限りの表現
として視れば、こういう仕掛けは同一人物内に同居する別人格の描き方
としておもしろいが、こうした意匠がある種の矛盾を内包していること
も事実である。

つまりこの描き方では、何処ともしれぬ心の次元の空間があって、そこ
で現実に表出するうさぎとプリムンの人格が交替しているような見え方
になるからだ。そうだとすればうさぎとプリムンは相互に入れ替わる際
互いと対話がもてることになってしまう。さらに、プリムン出現時に
も心象世界レベルではうさぎの意識が途切れていないことになる。

しかし向後のエピソードを視るに、最終回まではうさぎとプリムンの間
でコミュニケーションがもたれた節はない。それができるのであれば、
うさぎには常にプリムンを説得する機会があったわけだが、そのような
かたちで二者の内的葛藤があったような描写はいっさいなかった。

それを許してしまえば、今後描かれるようなプリムンによる問答無用の
破壊行為や一途に破滅を志向する作劇に無理が生じてくるからである。
今後のエピソードでうさぎが堪え忍ぶのは、自分自身の感情の高ぶりで
あって、プリムンという別人格の暴走ではないのだが、実は、この図式
には微妙な胡麻化しがあって、本来的な課題であるはずのうさぎとプリ
ムンという二者の直接的な葛藤は曖昧に回避されている
のである。

さらに、うさぎの感情の高ぶりが引き起こすのは銀水晶の力の高揚なの
だが、この力の高揚がかつては癒しの効果をもっていたのに、プリムン
登場以後は破壊の力と位置附けられ、うさぎの感情の高ぶりと星の滅亡
が関係附けられているが、これもまた一種の胡麻化しである。

近々のレビューで強調しているように、銀水晶の力自体には極性がない
という意味附けになっているのだから、本来うさぎの感情の高揚は星の
滅びと直接の関係をもっていない
はずなのだ。その滅びをもたらすのは
うさぎの人格を圧倒して顕現するプリムンという別人格の感情もしくは
意志なのだが、作劇上無視できないはずのそのような事情の弁別もまた
曖昧に混同されている。

こうした曖昧さや意図的なミスリーディングは、星の滅びという悲劇的
結末へ向けた強引な舵取りによって生じた歪みである。数十の挿話群が
総体として向かいつつあったのとは逆の方向へ急激にハンドルを切った
ことで、積み重ねられた意味性が荷崩れを起こしているのである。

また、この心象世界から現実の世界に戻る際の描写も少し問題含みで、
プリムンに時計を渡したあと、うさぎはこの世界からフェードアウトし
て、一人残ったプリムンが来るべき悲劇への不安を述懐して消えると同
時にビルの屋上にうさぎが出現する。

これではあの心象世界が、うさぎとプリムンとは離れて存在する次元で
なく、プリムンの心象世界であるような印象につながってしまう。その
ような印象は、前回詳しく触れたような「うさぎがプリムンの非本来的
な一部」という印象につながり、うさぎのキャラクターをさらに弱めて
しまう。

つまり、最後の最後で現世の人格を突き破ってプリムンが本来的な人格
として出現しても不自然ではない
という予兆が、このときすでに兆して
しまっているのだ。うさぎという現世の人格は、それを押し留め得るだ
けの強いキャラクターではないかもしれない、そういう予感が植え附け
られてしまったのだ。

さらには、ここで語られるうさぎの回想は、まったくプリムンに対して
影響力をもっていない。引いては、うさぎにとって意味のある「絶対、
星なんか滅びない
」という言葉もプリムンは信じない。それは、困難を
克服し得る人間の可能性を信じないということであり、現世の衛を信じ
ないということ
だ。

この何ものをも信じない人をどのように回心させることができるという
のだろうか。おそらくこの対話が、破滅の危機の直中でもたれたのなら
劇的力学からいって、うさぎの回想は、引いては衛の誓言はプリムンを
動かさずにはいないだろう。登場直後のこのタイミングで語られるから
こそ、滅びを回避する切り札としては無効化されてしまうのだ。

本来なら怒りに狂える人を呼び覚ますための切り札である言葉が、プリ
ムンが何ものをも信じない人であることを説明するための前提になって
しまったのである。

このようにして、ある結末へ向けて動いていた物語は、そこへ向かおう
とする推進力となっていた意味性の積み重ねを次々と無効化し、今この
瞬間から新たな積み重ねを始めることとなった。さらには、その新たな
積み重ねもまた最後の最後の瞬間に無効化され、描写の積み重ねによる
実感がいっさい削ぎ落とされ、意味的に去勢されたニヒリスティックな
ハッピーエンド
が実現する。

オレには、この番組においてまで、なぜこのような不経済な作劇が要求
されねばならないのか、それが理解できない。描写の積み重ねが総体と
して蓄積した意味性を、その都度その都度無為に蕩尽する浪費的な作劇
など、井上脚本作品だけでたくさんだ。そんなことがしたいのなら小林
靖子に書かせる必要はない。

これを演出法に喩えるなら、たとえば野長瀬三摩地や飯島敏宏に実相寺
の真似事をやらせてもつまらないガラクタしかできないだろう。ドラマ
性を追求する作風と、ドラマ性から遁走する作風では、作劇の方法論は
本質的に相容れないのだ。

誤解のないよう言い添えておくと、オレがここで論じているのは、特定
個人の容喙によって、これまでこの番組が築き上げてきたものが台無し
にされたという、事実の側面に関する批判ではない。

小林靖子の本来的な作風である合理的な意味感覚に基づく蓄積的な物語
が、ここへ来て白倉+井上ラインの作風である意味性の拒絶に基づいた
蕩尽的な方向性への揺り戻しを蒙っている、という印象を語っているの
である。下世話な喩えを用いれば、堅実にこつこつ貯めてきた虎の子が
突如として銀座の一夜の豪遊にむなしく蕩尽され、剰え今度は計画的に
借金までして翌日の豪遊に備えているような、一種陰惨な印象について
語っているのである(木亥火暴!!)。

それが本人の発意に基づくのか他人の容喙に基づくのか、そんなことは
どうだっていい。要するに、三十数話のエピソードの積み重ねによって
蓄積された意味性を一挙に蕩尽し、必要不可欠とは思えない悲劇的結末
への布石を準備し始めたこと、これがそのような印象を与えるのだ。

くり返しになるが、井上敏樹ならそれでもいい。先の喩えでいうなら、
井上敏樹は確信的に宵越しの銭をもたない作風を標榜しているのだから
借金はあっても貯金はない。だが、小林靖子はおそらく体質的に意味性
の蓄積に基づく作劇法以外のセオリーをもち得ない。

蕩尽的な祝祭性は、宵越しの銭をもたないような切っ離れの良さがあれ
ばこそ軽快な娯楽として成立するが、否応なく何ものかを蓄積せざるを
得ないような体質においては、経済の破綻がもたらす自棄的な快味しか
もたらさない。それは、たとえば「嘆きの天使」の類型に連なる破滅の
物語がもたらすビザールな感傷に近い。

要するに、小林靖子的な語りの体質においては、意味性の蕩尽がさらに
もたらす意味性が重くなりすぎてしまうのだ。これまで語ってきた物語
の積み重ねを振り捨てたなら、プリムンの存在が強いる悲劇的結末など
真に受けず無視してしまえばよかった
のである。

意味性の蓄積に基づく作劇とは、つまり出発点における多様な選択肢を
どんどん限定していく方法論である。語りの作法が本質的には意味性の
コードに基づくものである以上、物語の進行に伴って「こうであらねば
ならない」方向性が自ずから決定されていく。このような成り行きは、
人間が言葉という意味性を頼りに生きる存在である限り、一種万古不変
のプロセスである。そこには、ある意味何の新味もない。

意味性からの遁走は、こうしたプロセスにおいて敢えて多様な選択肢を
堅持しようとする試みである。非意図的にこれが成立している例として
は、たとえば大映ドラマがそれに当たるだろう。強引な作劇感覚による
選択肢の多様性が突出した結果、場面場面の痙攣的なインパクトのみが
ドラマ的内実となり、描写の積み重ねによる意味性が崩壊している。

ある意味井上脚本作品はこれと類似の構造をもっているが、大映ドラマ
が波瀾万丈の劇的起伏を目指すことでメロドラマ的な泥臭さを醸し出し
ているのに対して、井上脚本作品は定石外しの新鮮味をねらっている。

ごく当たり前のことだが、定石はだれにでも予想が附く筋道だから新鮮
味がないのである。そして、定石がなぜだれにでも予想が附くかといえ
意味性の成立する筋道が自ずと限定されるから演繹可能なのである。

逆にいうなら、積み重ねに基づく意味構造を目指すなら定石は外せない
のだし、定石を外すならば意味性の成立を諦めねばならない。かくして
だれしもが予想可能な退屈な筋道から遁走するために、この種の物語は
絶えず降り積もる意味性を蕩尽し、非日常的な祝祭空間を現出させる。

大映ドラマしかり、井上脚本作品しかり。さらにいうなら実相寺作品は
意味性からの遁走の極みである。実相寺作品には徹底して意味がない
描写が意味性を顕わそうとする局面では、必ず注意深く意味性の崩壊が
目論まれ、映像作品を成立させるコードからも遁走が仕組まれている。

意味性と無縁なのではなく、映像作品のコードのなかでどのような局面
で意味性が発生するのかを知悉したうえで、そこからの徹底した遁走が
図られているのである。

実相寺は映像の連結が意味を生起させるコードに無頓着なのではない、
あの時代の映画人らしくコードに対する意識と知識はあって、そのうえ
で反・意味とでも表現すべきスタンスを頑なに堅持しているのだ。

対するに、井上敏樹はむしろ意味性やコードに対して無頓着である。彼
の文学性は緻密な論理や明解な理論に裏附けられたものではなく、多分
に感覚的なもののように感じられる。文芸的な勘はあるが理論も思想も
ないのではないだろうか。なぜなら、「外す」という方法論は勘働きを
恃む多分に感覚的なものだからである。

そうした感覚的な井上流作劇術は、一般的な作劇作法のファッションは
別にして、特撮ヒーロー番組のジャンルにおけるファッションリーダー
的なポジションにあると思うのだが、それは前述のとおり彼が斯界にお
いてそのような役割を担う意識をもっているからである。

割に広く識られているとおり、非意図的な諸要素の綜合として生起する
社会的潮流を意味するトレンドと違って、ファッションというのは特定
のだれかが意図的に決めているものだ。井上流作劇センスが「新しい」
のは、彼がフロントラインにいるファッションリーダーだからであり、
その前提を外してしまえば、井上流作劇術には何の意義もない。

たとえば、彼の父である伊上勝と井上敏樹を平等に過去のものとして俯
瞰する視座
に立てば、両者の軌跡は驚くほどに似通っていると感じられ
るのではないだろうか。井上敏樹が特撮史上に名を遺した傑物の不肖の
ドラ息子であった時代は、おそらくシャンゼリオンの当時に終わった。

たとえば、今現在の視聴者が井上脚本作品に感じるおもしろみというの
は、伊上脚本作品がリアルタイムで通用していた時代に一般的な視聴者
が感じたおもしろみと、驚くほど近いのではないだろうか。ある種、父
の時代の作劇法は波瀾万丈の起伏を旨とする大映ドラマに近いとは思う
けれど。

ただまあ、率直にいってオレ個人は井上脚本作品にまったく興味を覚え
ないので、同じように興味を覚えない伊上脚本作品に類似の構造を見て
しまうだけなのかもしれない。一種、バイアスのかかった意見なので、
その辺はご斟酌いただきたい。

さて、このような井上イズムが白倉伸一郎の思想形成に大きな影響力を
もっていることは、複数のインタビューや対談から伺い知ることができ
るように思う。少なくとも、特撮ヒーロー番組に対する白倉の思想は、
井上敏樹の思想と同一文脈上にあり、持論の多くを共有している。

ある種、井上敏樹と二人三脚でキャリアを積んできた白倉のこれまでを
思えばそれも当然である。これまでの論旨では、文芸の勘、理論という
点について、意図的に白倉と井上を対照的なポジションに規定して語っ
てきたわけだが(笑)、そうした措定的な対照はあるにせよ、思想的文脈
とある程度の持論を共有していることによって、この二人の組み合わせ
がある特定の作風を成立させてきたことは疑いない。

そして、井上が白倉に対して影響力をもっている以上、井上の妹分的な
ポジションである小林靖子が、白倉プロデュース作品においてこの両者
からの有形無形の影響から逃れ得ないことも、ある種仕方があるまい。
ただ、本質的に小林靖子は井上+白倉的な作劇思想とは相容れない個性
であるとオレは考える。

この三人が組んで創り上げた仮面ライダー龍騎という作品は、オレ個人
の感覚として平成ライダーのなかでいちばん気持ちが悪い。井上+小林
という相容れない個性に基づく作風の不協和音と、小林脚本作品それ自
体に内在する、井上的な外しの方向性を目指しながらも小林的な論理的
作劇法から逃れられない中途半端なキメラ性が、なんとも居心地の悪い
印象を与えるのだ。

井上流の外しの美学は、井上脚本レベルの盛り上がりだから成立するの
であって、小林脚本のドラマ性は少し重すぎるように感じるのである。
さらにそれより多くの例では、箱書きができないという小林靖子の弱点
が、平成ライダー的なシリーズ構成術によってモロに際立ち、意味性に
基づく選択肢の決定という従来の小林的ストーリー構築法が破綻して、
芯も骨もないエピソードがダラダラ続いていたように思う。

小林靖子的なダイアログの熱さは、意味性の積み重ねを外しては成立し
ないのだし、仮にそのような熱いダイアログを湛えたドラマが成立した
としても、前作仮面ライダーアギトと同一線上の物語枠でその種の熱さ
が突出することは、劇的なカタルシスが保証されない「本当らしさ」の
行き場のない暴発でしかない。

だが、龍騎の場合はまだいい。そもそもの出発点から井上+白倉ライン
の物語枠において小林的な作劇法は破綻を運命附けられていたのだし、
結果的に井上がかなりの部分を補填することによって、平成ライダー的
な文脈上のシリーズとして一応の完結をみたからである。

いわば、小林靖子が自身の芸域を拡げるために井上の胸を籍りたような
かたちで決着したのだし、意味性から遁走する井上+白倉的な物語枠に
おいては、意味性の突出すら十分に吸収可能なインプロヴィゼーション
にすぎない。

話をセラムンとAct.38に戻すなら、この時点で物語が抜き差しならぬ転
回点を越えてしまったのは、龍騎の場合とは逆のパターンの事情のゆえ
ではないかと思う。Act.35までのこの番組は、きわめて小林的な話法に
よって貫かれていた。この物語枠のなかにきわめて井上+白倉的な思想
の所産であるプリムンが投入されたわけだが、小林的な話法の埒内では
この非自己的な異物を自己化できないのである。

この喩えでいくなら、強力な非自己の介入に対処するために、自己が非
自己に同化しようと試みた結果として意味性の蕩尽というカタストロフ
が起こったのである。これまで積み重ねられてきた物語が指向する方向
性のままでは、プリムンの存在は自己化できないからである。

そのため、プリムンの介入が想定されていなかった時点における物語は
この時点で一旦杜絶し、ここから新たにプリムンの存在を前提とした物
が始まり、その結果として実現される悲劇的結末を最終的に反転し無
効化することで、杜絶した物語の回復が目指されているのである。

このエピソードの時点ですでにそのようなトリッキーな結末が想定され
ていたのかどうかはわからない。ただ、今回総ざらえされたような経緯
を一旦無効化しなければ、プリムンを中心とする物語は進められないと
いう認識はあったのではないかと思う。

なんにせよ、単なる総集編にすぎないエピソードの読解で先走りすぎた
感もあるし、とりあえず今回のレビューはこの辺で手仕舞いとすること
にしようか。語り残した事柄が、人界に放置されたネフライトと元基の
出会いのみということでは、はなはだバランスを欠いた構成となるし、
それについてはある程度物語が進展した段階で、あらためて触れさせて
もらおうと思う。

|

« Act.37 夜歩く | トップページ | Act.39 十番町の初夏を愛す »