« Act.39 十番町の初夏を愛す | トップページ | Act.41 ヒーローの正義 »

Act.40 小さな場所で空騒ぎ

そういった次第で、中身のないエピソードが続く。

前回も中身のないストーリーだったが、今回はさらに輪を掛けて中身の
ないエピソード
である。中身の抜け方は前回と同様で、前回から引いた
アバンの部分が発端であり、エピローグがそれを受けた結末である。

それ以外は、総て中身を水増しするためのアンコにすぎないと断言して
もかまうまい。必要なドラマは、アバンとエピローグの数分だけだ。

より好意的にこれを視るなら、美奈子が引退を決意したことを耳にした
レイちゃんが、マーズ・レイ子となって美奈子と張り合う辺りまでは、
実のある物語要素と視ることができるだろう。しかし、この道具立てで
行くのなら、マーズ・レイ子と美奈子の張り合いを軸としてストーリー
を構築するのが筋なのに、なぜか途中から全員入り交じりの底抜け脱線
ゲーム
に話がシフトして、ここに多くの尺が割かれている。

そもそもマーズ・レイ子というキャラは、戦士の覚醒にからめて美奈子
がデッチ上げた架空のアイドルなのだから、美奈子自身の問題に関する
ドラマでマーズ・レイ子を扱うこと自体は「てにをは」が合っている。

だが、ライバルの出現に負けじ魂を刺激された美奈子にレイ子が「そこ
まで言うなら、勝負して決めてもいいわよ
」と受けるのであれば、その
後のストーリーは一種の芸能バックステージ物になるのが当然だろう。

美奈子の負けじ魂は、自身のアイドルとしての存在価値に関するもので
あるはずで、素人のレイちゃんなどに負けるはずがないという自負心の
ようなものが芯になっていたはずだ。だとすれば、その決着は芸能人と
しての勝負
で附けられねばならないはずだが、実際には何を賭けたもの
でもない、何ら意味のない総当たりゲームの勝敗にすり替わっている。

美奈子とレイ子は、単に抽象的な勝ち負けを競っているのではないはず
で、美奈子が一度は棄てようとしたポジションをレイ子が襲おうとして
いることで、逆に美奈子が切り棄てられたような見え方となり、痍附け
られたプライドを回復するために勝敗を争うのではなかったか。

要するに、自身の意志で引退するにもせよ、ポッと出のレイ子などには
負けない実力を証明したうえでないと、プライドを保ったまま引退でき
なくなってしまう。そのための勝負であるはずなのだ。

自身の存在価値とは無縁の勝敗を争ったところで、どうせ引退するなら
何の意味もない。単にその場の悔し紛れという見え方になってしまう。
そういう意味では、Bパートはまるまる「てにをは」の狂った筋立てに
なっていると思う。

翻って、美奈子がレイ子に張り合う動機も、自分以外の人間がチヤホヤ
されているのにヤキモチを焼いたから、という印象になってしまう。

これは、アリかナシかでいえばアリだが、はっきり言って、安い

一見して前回のエピソードよりも話が繋がっているように見えながら、
このような安さがあるから、今回のエピソードのほうがより空疎な印象
を与えるのである。

そもそも美奈子が引退を決意したのは、戦士としての使命と愛野美奈子
としての生き様のいずれか一方を選ばざるを得ないという境地に達した
からだが、そのような重みが中盤の物語からはいっさい感じられない

重い話を軽やかに流したという印象でもない。智恵のない作劇によって
重いテーマが安く貶められたという悔いが残るばかりである。まずは、
その辺りの心境を明かすセリフを拾って詳細に検討してみよう。

あたし、決めた。もう、歌はやめる。

あたしに残った時間、どんどん少なくなってる。もう、よけいなことに
使ってる余裕ないよ。

ちょっと待ってくれ。君にはセーラーヴィーナスじゃない、愛野美奈子
としての時間をもってほしいんだ。

どうして。前世の使命を果たすために生まれてきたんだから、そのため
に生きなきゃ。セーラーヴィーナスじゃないあたしなんか、いないんだ
よ。

わかったような、わからないような、というのが正直なところである。
これが美奈子にとって、一種の非本来的な状態なのはわかる。美奈子が
アイドルの道を選んだのは半端な気持ちではなかったはずだし、戦士の
使命とアイドルの道は、本来美奈子にとってイーブンの価値をもつ生き
様であったはずだ。

「戦士とアイドルの両立」という言葉を遣うと途端に子どもっぽい印象
になってしまうが、前世のセーラーヴィーナスと等価の存在である現世
の愛野美奈子を象徴するのがアイドルとしての貌であり、アイドルの道
も戦士同様、いわば命懸けの覚悟で歩んでいたはずではなかったか。

今回のアバンで提起された美奈子の課題は、自分にとっても大切なもの
であり自分を取り巻く大勢の人々にとっても大きな力をもつ歌の仕事の
重要性を見失っている非本来的な現状の打開
である。それは残り少ない
命を何のために使うのか、最優先事項を何に求めるべきか、そのような
葛藤がベースとなっている設問である。

ある意味、戦況の劇化に伴って美奈子の過去世と現世のバランスが崩れ
てしまい、現在から遡って過去を変えることができない以上、過去世の
因縁を全うすることをもって現世の生き様のバックボーンと代えようと
考えたといえるだろう。

しかし、それは一種の易道である。すでに意味附けられた過去世の自分
が現世の自分よりもたしからしく見えるのは仕方がない。現世から過去
世を顧みるとき、自身が今ここに在ることの揺るぎない理由附けがそこ
にあるかに見えるのは仕方がない。それが、今現在の自分が選び取った
アイドルとしての在り方よりも、シリアスで意味深いものに見えるのは
仕方がないことである。

しかし、それはやはり易道なのだ。過去世のセーラーヴィーナスは所詮
現世の美奈子とは赤の他人
なのだし、過去世のヴィーナスはヴィーナス
自身の生き様でもって自身の生を意味附けたのである。すでに選び取っ
た現世の美奈子の生き様よりも、過去世のヴィーナスの使命が重いなど
ということはないはずなのだ。

未だ意味附けられていない不確かな自分の生き様を棄てて、揺るぎなく
意味附けられた過去世の使命に殉じるのは、悲愴な覚悟に見えて、その
実は一種の逃避だろう。「セーラーヴィーナスじゃないあたしなんか、
いない
」という言い種は、自身の存在理由を自身の力で勝ち取ることを
諦めた人間の言葉
である。

だれかに必要とされること、自身が意義ある何ものかであること、その
ような保証が無前提で天下りに与えられるはずはない。自分という存在
はだれにも必要とされていないかもしれないし、その存在にはまったく
意義などないのかもしれない。

だれかから必要とされるには、必要な人間になるしかないのだし、自身
の存在意義は、与えられるものではなく自身で創り出すものなのだ。

美奈子の歌手としての活動は、そんな個人の営為だったのではなかった
のか。自身の価値を自らの力で創り出し、だれかから必要とされる人間
になるための営為だったのではなかったのか。

それをいっさい放擲して過去世の使命に殉じることは、すでに創られた
価値に自らを重ね合わせることであり、他者の営為によって築かれた意
義を掠める行為に他ならない。過去世のヴィーナスにとってそれがいか
に重く意義ある使命であったとしても、それに盲従することが現世の美
奈子の存在を意味附けるのではない。

そのような過去世を抱える人間として、いかに現世の生をよく生きるか
が、現世の美奈子の存在意義を決定附けるのである。

彼女は単に、宿痾の進行と戦いの激化という現状の直中にあって、前世
のセーラーヴィーナスとしての使命を負う現世のアイドル愛野美奈子と
いうデリケートで峻烈な生き様に疲れたのだ。そして、現世の自分が自
由意志で選んだ先の見えない道を諦め、前世のだれかが予め決めた既定
の意義に身を委ねようと考えたのである。

さらに「あたしに残った時間、どんどん少なくなってる。もう、よけい
なことに使ってる余裕ないよ
」という言い分がよくわからない。これは
レトリックであって、わからないというより不審を覚えているだけなの
だが、残り時間が少なくなっているのなら、後半でレイちゃんが言って
いるように「残り少ない可能性でも手術する」のが適切な選択である。

病を抱え力の衰えた美奈子が戦列に加わっていたとしても、それは必要
不可欠な戦力とはいえないわけだし、実も蓋もない言い方をするなら、
戦闘中にいつ昏倒するかわからない戦闘要員など邪魔でしかない。それ
より、一旦戦列を離れてでも病の克服に取り組むほうがよほど戦力的に
メリットがあるといえるだろう。

つまり美奈子が手術を拒むのは、客観的に視て適切な選択とはいえない
のであって、それには戦略的な意味とは別の情緒的な動機があるのだと
視たほうが自然だということである。

万に一つの可能性しかない手術を受け容れることで、闘病によって喪う
限られた時間を惜しむのは、数字のうえの可能性を超えて生き抜こうと
する戦いを信じていないということだ。生への希望を信じて裏切られる
絶望のほうが、このまま座して死を待つ絶望よりも辛い
ということだ。
そして美奈子は自身の決意が「より辛くない選択」「自由意志の放棄」
という性格をもつ怯懦なものであるという事実から目を背けている。

アバンのやりとりで提示された美奈子の決意には、このように意識され
ざる内面の怯懦、自己欺瞞という課題が内在している。この発端を受け
た物語において、友の力で美奈子の在り様が変わるのであれば、こうし
た課題を克服する筋道であらねばならない。

マーズ・レイ子への対抗心が梃子になってストーリーが進むのならば、
美奈子が「負けたくない」と思うその対象の価値に気附く物語であるの
が自然なのではないのか。現世の自分が選んだものの、棄てようとして
棄て得ない切実さに気附く物語であるべきではなかったか。棄て得ない
という事実から遡った実感によって、自己欺瞞に気附く物語であるべき
だった
のではないか。

せっかくマーズ・レイ子や芸能界の育て親たる菅生社長を再登場させた
のだから、そのような自己回復の物語を描くことは十分可能だったはず
なのだ。それなのに、マーズ・レイ子に対する対抗心は単に特定人物の
言動に対する反撥という安直な意味に貶められ、子どもの口喧嘩レベル
の張り合いに堕してしまった。

そして、このような苦言は過去にも呈したことがある。Act.18のアバン
で描かれた、この二人の最初の激突の場面について、オレは同様の意見
を陳べた。今回描かれたこの二人の衝突も、その場面とまったく同様の
欠点をもっている。つまり作劇上有効な活用が期待される対立を、なぜ
か無意味な感情的反撥として無駄に浪費しているという共通点がある。

どういうわけか、小林靖子のなかでは火野レイと愛野美奈子は「互いに
想い合いながらも顔を合わせれば喧嘩ばかり」というルーティンな関係
としてイメージされているようなのだ。キャラクター造形上の想像力と
して、それがいけないというわけではないが、この二人の場合は否定的
な結果しか生まなかった。

火野レイと愛野美奈子は、ある意味で似た者同士であって、その似通い
方が情緒的な反撥を生む類のものであることは、感覚的に理解できる。
だが、このような感覚的な人物把握のゆえに、本来作劇上重要な意味性
を生起するための対立であるはずが、いつの間にか感情的な反撥にすり
変わってしまう
局面が多々生じている。

こういう関係性は、たとえばレイちゃんとまこちゃんがそうであるなら
さほど問題はなかっただろう。それは、この二人なら作劇上さほど重要
でない日常描写の場面で、そのような感情的反目を描くことができるか
らである。しかし、レイちゃんと美奈子は、対立することが作劇上重要
な場面でしか対話をもたない
のである。

たとえば今回、レイちゃんがマーズ・レイ子として美奈子の前に立ちは
だかったのは、美奈子を案じたアルテミスがレイちゃんに持ちかけて、
菅生社長と図って美奈子の引退を思い留まらせるための狂言であった。
ここに感情的な要素は微塵もないはずだ。レイちゃんサイドの思惑とし
ては、美奈子の負けず嫌いを利用して芸能活動に対する意欲を取り戻さ
せるのが目的だったはずだ。

だから、そもそもレイちゃんの側には美奈子と感情的に張り合う動機は
ない。さらに美奈子が勝負に乗ったのも、レイちゃん個人に対する反感
が動機ではなく、菅生社長がど素人のマーズ・レイ子を自分よりも上の
器と視ているのが気に入らないだけだ。

現状の底抜け脱線ゲームの「てにをは」が間違っているのは、あまりに
明白だろう。このゲームには、美奈子の意欲を取り戻す効果もなければ
レイちゃんより美奈子の器量が上回っていることを証す効果もない。

さらには、ゲーム中のレイちゃんと美奈子は、明らかに本気でゲームの
勝ち負けを競っている
。美奈子の場合は前後の脈絡を見失って「単なる
負けず嫌い」が暴走したのだと視ることもできるが、仕掛ける側のレイ
ちゃんまで本気で勝負しているのでは、そもそも何のための勝負なのか
を覚えている人間が一人もいない
ということになる。

そしてもっと間違っているのは、こうした流れの行き着く先が、美奈子
と仲間たちとの距離が縮まるという落とし所になっていることである。

今回のストーリーでは、アバンで提起された美奈子の課題とはまったく
関係ない結果が得られているのである。美奈子がアイドルを引退しよう
と決意したのは、別段仲間たちと距離があったからではない。その決意
は仲間の大切さを実感することでは翻らないのである。

百歩譲ってこの課題を仲間たちとの関係性で打開するのであれば、仲間
たちが前世のセーラーヴィーナスではなく現世の美奈子を大切に想って
いること
を美奈子が実感するような筋立てでなくてはならない。

しかしこのエピソードで美奈子が実感したのは、美奈子以外の四戦士は
現世の四人の少女として大切な関係性を築いているという事実であり、
それは美奈子の抱える課題とは無関係な実感である。四戦士と美奈子の
間には、「限られた命」という無視できない立場の違いがあるからだ。

たしかに美奈子の決意には現状からの逃避という側面があるが、それは
美奈子が弱い人間だからではなく、数カ月を経ずして己の命が尽きてし
まうという焦りのゆえである。このような固有の条件を外してしまった
ら、そもそも美奈子の課題は成立しない。

生死の狭間にあって、現在と過去のいずれかを選び取るかという厳しい
二者択一を強いられていない以上、四戦士の現世における生き様がどう
あれ、それが美奈子の心情を動かすものではない。

さらに百歩を譲って、アバンで提起された課題を今回のストーリーでは
回収しないつもりであったとしても、その課題と引退の決意とが密接に
結び附けられており、今回の結末でその決意が覆されるという落とし所
を用意している以上、課題自体が未解決なのにその課題と関連附けられ
る行動だけが変わった
という気持ちの悪い矛盾が生じる。

つまり、今回のエピソードでは課題とその解決だけが提示されていて、
課題から解決を導く物語の芯の部分が、丸ごと間違っているのである。

もっと悪い言い方をするなら、作家が本来あるべき物語から逃げている
というのが偽らざる感想である。前回指摘したとおり、今回のゲームの
場面は、演出に下駄を預けることができるバラエティ描写であり、脚本
の練り込みがさほど必要ではない。

本来なら、たとえばドラマの役柄をめぐるオーディションとか競作CD
の売上競争などのように、美奈子とマーズ・レイ子のガチの芸能対決で
勝負を決する話を練り上げ、美奈子とレイちゃんの息詰まる心情芝居を
描くべきであったのが、その対決の真芯に当たる部分をどうとでもなる
バラエティ描写
でお茶を濁している。

ラストで美奈子とレイちゃんが交わす真情溢れる会話は、本来こうした
練り込みを経たうえでなら、さらなる感動を呼んだことだろう。現世の
愛野美奈子として生きよと切なる願いを込め、あえて憎まれ役を買って
出たレイちゃんが、畳みかけるように「わずかな可能性があるならそれ
に賭けるべき
」と語ったのであれば、視聴者は比類なき感動を覚えたこ
とだろう。

だが、そのためのドラマは結局描かれなかった。レイちゃんの忠告は、
ドラマによって補強されていないスタンドアローンの言葉にすぎない。
印象論ではあるが、オレにはこれがただの間違いだとは思えない。今回
のエピソードがこのような実のないものになったのは、はっきり言って
書き手の精神的な体力が保たなかったからではないかと思う。

シリーズも四〇回を算えるまでになった今ならば、フィーリングだけで
話が書ける。ノリで一本凌ぐことができる。本来ならもの凄くしんどい
彫琢を経て、ラストの我知らぬ泪に行き着くドラマを練り上げるべきで
あったのに、すでに小林靖子にはそこまでの体力がなかった。しんどい
練り込みの作業ができず、骨と皮に出来合いのアンコを詰めてシナリオ
を書き上げてしまった。演出家に「あとはよろしく」と下駄を預けて、
本来あるべきドラマを流してしまったのだ。

ここで踏ん張りきれなかった小林靖子を責めるのは酷だろう。これまで
陳べてきたとおり、今やシリーズ前半の息詰まる人間ドラマを生み出し
てきたテンションは、すでに途切れている。前半の流れが目指していた
方向性を、無理矢理ねじ枉げる異物が投入されてしまっている。さらに
もっと悪いことに、この時点で小林靖子は、すべてのキャラを「なんと
なく書ける」ようになってしまっている。

以前、特撮誌のインタビューで、小林靖子はいちばん書きやすいキャラ
として木野まことの名を挙げ、書きにくいキャラとして水野亜美の名を
挙げている。これが当レビューのキャラ描写に対する評価と真逆である
ことは、ここまで附き合ってくれた読者にはあらためて言うまでもない
だろう。要するに小林靖子という書き手は、気楽にノリで書いたものが
傑作になるタイプの脚本家ではない
のである。

たとえば浦沢義雄と井上敏樹はある意味でタイプの似たような脚本家だ
と思うのだが、基本的に両者とも構造ではなくパラフレーズで勝負する
タイプの書き手である。つまり、おもしろいセリフやおもしろい場面を
閃きで書く才能がある。このタイプの閃き型の書き手にとっては、ノリ
や気分が作品のクオリティを左右する重要な要素となる。

しかし、小林靖子の才能は見応えのあるドラマを作る才能であり、一つ
一つのセリフや場面のおもしろみでは浦沢や井上に遠く及ばない。ノリ
や気分で書いた場合は、ただ凡庸な書き手に留まるのである。

最近では、横手美智子が小林靖子に類した作劇スタイルを見せることが
あるが、ある種、横手の場合は三人一組のユニットであることもあって
、そうした作劇術を意識化しているように見える。だが、小林靖子の
作劇は横手ほど明晰に意識化されていないように見える。乱暴に言って
しまうなら、それが小林脚本の文学性なのではないかと思う。

※ウィキの記述にもあるが、横手三人組説については、2007年現在ではフィクション視する見方が有力である。

唐突に「ブンガク」などというクサいタームを持ち出したが、この現代
にあってなお成立する「文学性」とは、物語の反プロダクト性なのでは
ないかとオレは考えている。要するにこれこれのアウトプットを作ろう
と意図してそのとおりのものが出来上がるのは、すでに文学ではない。

文学とは非意図的な生成物である。無論、セオリーや手法という意識化
されたツールを介して生み出される意味構造なのではあるが、そのなか
に意識化されざる強烈な何ものかが投影されている場合、人はその実感
に文学を感じるのだと思う。

オレの感触では、小林靖子の作劇手法は十分にシステマチックなもので
はない。彼女の作劇の現場にはある種の混沌があるように感じられる。
システムやセオリーではなく、ある種の実感に基づいて試行錯誤をくり
返した結果のアウトプットではないかと思う。テレビシリーズの脚本家
という職種としては、作業実態に一種の前近代性があるのではないかと
思う。それはコンテンツのクリエイターと呼ぶより、文学の作家と呼ん
だほうがしっくりくる。

文学というのは、一種言語化以前の何ものかを扱う分野であり、言語化
されたツールが手懸かりとはなるが、最終的には混沌の直中にどハマり
して足掻くことでしか意義ある作品が生み出せない。マンガに出てくる
作家大先生が屑籠いっぱいに反古紙の山を築くのは、まんざらゆえない
ことではない。文学とは、所期の結果を得るためのプロセスではなく、
言語以前の何ものかと格闘して予期せざる何ものかを生み出す作業だか
らこそ、無駄が多くシステマチックな作業ではあり得ないのだ。

小林靖子の最良の作物からオレが文学の臭いを嗅ぎ取るのは、要するに
それが所期の結果として得られたプロダクトではなく、何某かの混沌の
なかから掴み取られた非意図的な生成物としての側面をもっているから
だろうと思う。

前半の傑作エピソードに対するレビューでオレは「もの凄くよじれて整
合している」というような言い回しを頻発したが、よじれた要素が互い
に整合するという事態とは、全体性を伴って現前する劇的現実の在り方
なのである。リニアルな筋道なら意図的に生成可能だが、複数の要素が
よじれて整合する全体性は、直観的かつ非意図的に掴み取られるもので
ある。

たとえばオレがこのレビューで目論んでいるのは、他者の生成物を合理
的な意味性に基づいて読み解く行為だが、その対象自体はこのレビュー
の読解の過程を逆に辿ることで生み出されたものではない
。傑作と評価
するに足るようなエピソードは、混沌のなかから掴み取られたある種の
全体性、個別の要素にバラして組み直すことで復元することができない
パリティの破れを具えているのである。

今回のエピソードの話題に戻るが、このエピソードがなにゆえ失敗して
いるのかといえば、そのようなしんどい格闘を経た形跡が視られない、
というより、今の小林靖子にはそれだけの粘りがないからだと思う。

今回のエピソードは、所期の筋道から外れてよじれてはいるが、よじれ
たままバラバラに分裂している
のだ。前半の佳作だったら、所期の筋道
がよじれていきながらも不可解な迂路を辿って見事に整合するという、
巧んで得られることのない全体性があった。それがいかによじれていて
も一本の挿話が一つの総体として整合しているのであれば、それは最早
否定できない劇的現実として現前する。整合するという前提では、その
よじれ自体が有無を言わさぬ劇的リアリティを生起するのである。

今回のエピソードは、そのような作物となる前に杜絶した未生の試みの
ように見える。ただよじれているだけなら、失敗した物語にすぎないか
らだ。そこからさらに戻ってくるためには、混沌の直中に身を置いて非
効率的な格闘を演じる必要がある。人には先験的に現実をまねぶ能力が
あるとオレは考えるが、そのような先験的な能力によって言語化以前の
混沌のなかから物語を生還させる力
こそが、作家の資質であると思う。

まことに残念ながら、今回の物語は意味以前のよじれの波からの生還が
適わなかった一種の蛭子のようなものだと思う。ただ間違っているだけ
ではなく、もっと違った何ものかになる可能性を秘めたものの出来損な
い、物語生成以前を思わせる無惨さを感じるのだ。

そして、これまでの四〇話をすべて独りで書いてきた小林靖子は、なん
となくキャラクターを書けてしまうようになった。今回のエピソードは
納得行くまで物語を練り込む作業を回避して、なんとなくキャラクター
を動かして書いてしまった話なのである。そのように「書けてしまう」
ことが作家にとって危険な陥穽であると認識されていないのなら、最早
この先の希望はない。

このエピソードは、一本のドラマとして視るならば、真面目に読解する
だけの意味はない
。そこそこの見応えがあるのは、舞原演出がそこそこ
健闘しているからだ。このエピソードそれ自体がもつ意味よりも、それ
が力作となり得ず破綻した機序
のほうが、オレにはよほど重大な事態で
あると思える。

後半の一方の核となるべき美奈子の物語がこのような無惨な破綻を喫し
たことは、暗い見通しをさらに暗くする暗雲だ。最早小林靖子には前半
でオレたちを唸らせたような物語を紡ぐことはできないのだろうか。

そのような脚本の不調の下駄を預けられた舞原演出は、思い切ったコメ
ディ演出で健闘してはいるのだが、それこそ小林靖子の不得手なその場
その場の痙攣的なおもしろみを添えるだけが目的であってみれば、舞原
の健闘もなんだかもの悲しく映ってしまう。

たとえば美奈子が菅生社長と待ち合わせるレストランはAct.35でうさぎ
と食事した同じ場所なのだが、胸に支える言葉を呑んだ会話という類似
もあるが、そうした拘りがそれほど効いていない。そういう意味では、
優れた脚本あっての舞原演出であって、こういうエピソードなら高丸が
撮っても、おそらく竹光が撮っても同じようなデキになるだろう。

公式サイトには「実写版は、このエピソードのために企画された!」と
いう仰々しい言葉があるが、おそらくそれは嘘ではないだろう。普通に
考えれば、非本来的な状態に陥った美奈子が仲間たちの力で自己回復を
果たすエピソードが、力作ならざるはずがないからである。

この番組が普通のテンションのシリーズであったなら、小林靖子個人が
突出して突き詰めた作品でなかったなら、そのレベルの埒内ではあれ、
このエピソードが後半の山場になっていたかもしれない。

しかし、事実として今現在の小林靖子には、このようなエピソードしか
書けない
のである。それは、前半の作品群が異様なレベルを達成したの
と同じ根をもつ事情である。普通なら盛り上がるべき局面で、小林靖子
ただの作業要領の悪い脚本家の一人になってしまった。

ある意味で、それは仕方のない成り行きであり、前半の奇跡の作品群を
満喫したオレたちに廻ってきたツケである。

テレビシリーズとは、本来意図的に生成されるコンテンツとしてのプロ
ダクトである。その土俵のうえで、それとは相反する文学の営為を表現
できるのは、番組に名を冠するような一握りのビッグネームだけだ。

オレたちの胸を打った前半の佳作エピソード群は、だれが企んだもので
もない非意図的な生成物
なのだ。それを生み出した人が書けなくなって
いる、それはただダメだと斬って棄てればいいというものでもないし、
ここが間違っていると指摘して直るものでもない。

あとから顧みて「こうすればもっと良いものができたはずだ」と言うの
であれば、これまでオレたちを惹き附けてきた傑作群は、「できたはず
などなかった」レベルの作物であって、「どうすれば」それを生み出す
ことができるのか、だれにも語ることなどできないからである。

|

« Act.39 十番町の初夏を愛す | トップページ | Act.41 ヒーローの正義 »