« Act.40 小さな場所で空騒ぎ | トップページ | Act.42 此岸のヒーロー »

Act.41 ヒーローの正義

世の中はわからんものだ。

人一倍飽きっぽいはずのこのオレが、世間様のほうではとっくに飽きて
忘れ去ってしまったような番組のレビューを未だに執念深く続けている
などとは、このレビューを始めた頃には想像だにできなかった。

この番組のスタンダードを確立した田崎は、今や狭い東映の垣根を出て
渋谷に繰り出し、平成三部作で完結したガメラをまったく新たなかたち
で再生させようと目論んでいる。

さらに感慨深いのは、今回のエピソードの主役の黄川田将也が、あろう
ことかあの月九に出演を果たしたと思ったら、白倉プロデュースの仮面
ライダー THE FIRST
では他ならぬ本郷猛役を演じるということだ。

たぶんセラムン終了後の一連の成り行きはタチの悪い冗談なのだろう。

一方の渋江譲二は、高寺プロデュース「だった」仮面ライダー響鬼で、
主役の響鬼に次ぐNo.2のライダーを演じており、さらにこの番組は不可
解な紆余曲折
を経て結局白倉にバトンが渡されるかたちに落ち着いた。

こんな滑稽なスラップスティックの舞台裏は、たぶん多くの人々の関心
が続いている間は決して明かされることはないだろう。東映という一私
企業内部の人事問題であり、こうした問題の真相が、裏をとれるような
コンクリートなかたちで外部に公開されることは当分あり得ない。

これについては思うところもあるのだが、あまりにも当レビューの趣旨
から外れる問題ではあり、且つはボリュームも長大になってしまうので
別の機会に譲りたいと思う。つか、それをやってるといつまで経っても
最終回に辿り着かねぇんだよな(木亥火暴!!)。

さて、本題に入る…っつっても、竹光ローテなんだが(木亥火暴!!)。

とはいえ、竹光さよならローテの一本であるこのエピソードには、オレ
は格別悪印象をもってはいない。もちろんお馴染みの竹光調は健在で、
風雲急を告げる場面ではどこからともなくヘリ爆音が響くし、カットが
変わるといきなり夜になっているし、クライマックスの戦闘はよくまあ
小綺麗な遊園地のごくごく近間でこんな小汚い場所を見附けたもんだと
その執念には最早敬服する(木亥火暴!!)。

それでもそんなに悪い印象を覚えないのは、あと一話我慢すれば竹光の
名前を見なくて済むようになるからではもちろんなくて(木亥火暴!!)、
竹光調のトレードマーク的な部分以外では、そんなに間違った演出では
なかったというところが大きいだろう。

その竹光調がそもそも番組のカラーにマッチしていないということは、
すでに最初の竹光ローテのレビューで指摘したことではあるが、不可解
なライダーとのバーターやつなぎの鈴村を酷使してまでこの番組と距離
をとろうとしている以上、それをこれ以上言い募ってみても仕方がない
だろう。当の本人にもこの番組と相容れないという自覚があるのだから
そのうえで撮らざるを得ないのは現実的な都合というやつである。

だとすれば、言っても仕方のない部分をも含めて論じたところで、公平
な論評とはなり得ないということになる。このエピソードは、あくまで
シリーズ四九本のうちの一本として時系列に沿って視られるものなのだ
から、そのような前提で検証することがつくり手に対する誠意といえる
だろう。

つまり、このエピソードはまぎれもなく佐藤健光のタッチで撮られては
いるのであり、オレが竹光調の問題点として指摘しているような事柄は
何一つ改善されていない。だが、それを「仕方のないこと」として一旦
捨象して視るなら、佐藤演出の埒内では健闘している部類のエピソード
だと思う。

たとえば今回のストーリーの主要な舞台となるのは児童館だが、元気な
悪ガキが右往左往する場所であるだけに、いかにも絵面が雑然としてい
て汚いのはたしかである。おもちゃが散乱した不安定な構図の館内風景
はもとより、狭いスペースに物干し竿の建て込んだ中庭、そこから覗く
向かいの建物の前に雑然と放置された……ママチャリ(木亥火暴!!)。

カメラが外へ出てからも、振り返る元基の視線の先に「十番町児童館」
の看板よりも悪目立ちしてでかでかと映る「そろばん 長者丸珠算塾
の赤錆にまみれた電柱広告とか(木亥火暴!!)、背後の民家の軒下にぶら
下がる物干し竿とか、なんだかわからないが朱の錆止めを塗った鉄骨組
の構造物とか、とにかく、カメラを振るとそこに汚いものが映っている
竹光イズムは健在…というより、パワーアップしている(木亥火暴!!)。

まあ、このエピソードのレビューだけいきなり覗く読者がいるとも思え
ないから、それが撮影の問題ではなく演出の問題であるという前提を今
さら詳説したりはしないが、初老の域に達した職業人が頑固に堅持して
いるもの、それはやはり変わるものではなかったということだ。

この感覚が番組の世界観に不似合いであるということは最早オレの立論
の大前提なのだから、去りゆく人の背に向けて今さらそれを攻撃したり
はしない。こういう嗜好の人なのだという前提で語るまでだ。

さらに、ヘリ爆音のセンスにしたところが、公式サイトの記述どおり、
若い衆にからかわれたお爺ちゃんが片意地になっちゃっただけなのだと
すれば、なんか大真面目に批判するのも気が退けてくる(木亥火暴!!)。

これを「老害」の一言で斬って棄てるのはたやすいが、今回のように、
ズレてるなりに真面目に撮っているのであれば、そのズレを受け容れた
うえで作品を検証するのでなければ見えてこないものもある。

少なくとも、今回のストーリーはこれまでの竹光回に比べそれほど雑に
語られているわけではない。大筋を進めるためのエピソードなのだから
お話の軸が元基とまこちゃんの関係一本に絞れていない憾みは残るが、
そのような過渡的プロセスとしてのエピソードを無難に語る演出だった
と思う。

またこれは脚本の指定か演出の裁量なのかは不明だが、クライマックス
でプリムンが攻撃を一瞬躊躇う仕草の謎解きを次回のアバンに持ち越す
センス
は悪くないと思った。

先ほど「カットが変わるといきなり夜に」と指摘したが、これも本当は
画面ヅラの印象がそう見えるだけで、迷子の捜索から妖魔出現にかけて
の場面は、一応フィルターをかけて日が暮れかけていることを表現して
はいる。単にそのフィルター越しに見える映像に映っているじっさいの
影の位置がとても夕方のものに見えないので、夕暮れの表現として失敗
しているだけの話だ。

また、お話のシチュエーション設定として児童館のボランティアという
かたちをとっているのだから、主人公たちが児童館で働いている時間帯
の埒内で話を纏めたほうが、一本のストーリーとしてスッキリすること
はたしかで、夜にまでズレ込むとどうしてもボランティアを放り出して
話が進んだような印象
につながってしまう。

ギリギリ日中の話で収まっていれば、ボランティアの「間の」出来事と
いう時間枠が成立するが、これが夜になってしまうと、すでに中学生の
ボランティアの時間帯をはみ出しているので、たとえば総出で探しに出
たはずの迷子をきちんと送り届けていない
などというどうでもいいこと
が気になってしまう。

それがあるシチュエーションの「間の」ストーリーであったなら、エピ
ソード終了時に視点が当初のシチュエーションに戻らなくても、それは
その後に続くべき成り行きが省略されているだけなのだから、特段描く
べき事柄がなければ省略したってかまわない。おそらく迷子の少年は、
あのあとうさぎたちが無事に児童館へ送り届けたのだろうし、画面上で
それが描かれていなくても、そうだろうと補完できる。

はっきり言って迷子の少年など、うさぎたちとまこちゃんたちの動向を
スプリットさせるための口実にすぎないのだから、本来はどうでもいい
要素ではあるのだ。精気を吸い取られてバタバタ倒れる人々の描写も、
今回登場した最強妖魔に付随する要素なのだから、今回のお話のなかで
回収すべき要素でもない。わざわざ視点を児童館に戻して話を終わらせ
なければならない理由は一つもない。

だがこのエピソードで日が暮れてしまうと、児童館のシチュエーション
とクライマックスの戦闘がハッキリ隔絶した印象を受けてしまう
。それ
は後半の一連がボランティアの時間帯を逸脱しているためで、時間帯を
逸脱するということは、時間帯によって規定されるシチュエーションが
すでに終わってしまっているということである。つまり、ラストシーン
から児童館に戻る往還の運動性が打ち消されてしまっている
ため、児童
館のシチュエーションを、一方的に放り出したような印象につながるの
である。

クライマックスの時制が夜であることは、今回の物語の筋道に直接関係
していないのだから、これはおそらく脚本の指定ではなく演出の裁量と
考えるほうが自然だろう。ある意味「カットが変わるといきなり夜に」
という指摘は外れてはいないのである。

脚本上想定されていたのは、児童館のすったもんだの「間の」出来事と
いう時間枠だったと考えたほうがスッキリする。クライマックスの戦闘
は、夜景をバックにしたほうがガソリン爆破が映えるから夜になったの
である。

理詰めに考えればそういうことになるが、これは別の言い方をすれば、
竹光演出の力点はクライマックスのプリムン出現、そしてプリムンの力
に懼れ戦くうさぎの姿にあったということだ。「これが、星を滅ぼす力
なんだ
」というラストの言葉から逆算すれば、正気に戻ったうさぎの前
にはプリムンの超越力による破壊の惨状が残されていなければならない
はずだ。しかし、今の段階ではプリムンの極性は善でも悪でもないのだ
から、その超越力の暴走は他者の生命財産を奪うような方向で描かれる
わけにはいかない

そういう意味では、燃えてもどうということもない廃材置き場で派手な
ガソリン爆破の余燼が燻ぶっているというシチュエーションはちょうど
その条件に適っている。そこからさらに逆算して、ガソリン爆破や炎の
映える夜に持っていったのであれば、演出の計算として間違っていると
はいえない。真面目に撮っているというのは、そういうプラスのポイン
トがあるということだ。

たとえば児童館でうさぎたちが着る着ぐるみも、ピンクのうさぎや青い
ペンギン、緑のカメだったりする辺り、各人のモチーフカラーとネタが
ちゃんと押さえられている
。もっとも「新種のカメ」云々というセリフ
があって、それが元基を釣るネタとして話にからんでいる以上、珍しく
脚本で着ぐるみまで指定していたのかもしれないが(笑)。

とりあえず、竹光にも竹光なりに番組に対する惜別の情くらいはある
いうことなのだろう。

では竹光演出に関してはこのくらいにして、本筋のほうを視ていくと、
元基とまこちゃんの関係を軸に、レイちゃんの美奈子への想い、ネフ吉
の亜美ちゃんへの想い、プリムンとうさぎの関係性、それぞれの要素を
少しずつ進めている無難なエピソードではあった。

しかし、柱となっている元基とまこちゃんの関係については、Act.31
テーマの立て方に問題があるため、「一人でいいんだ」を出発点とする
気持ちの変遷に今ひとつ気持ち好く乗れないという憾みはある。

じっさいあの「一人でいいんだ」発言以降、まこちゃんのポジションが
なんとなく座りの悪いものとなってしまったことは否めない。今回の話
でも、美奈子の曲を聞きながら宿命に想いを致すレイちゃんの言葉に、
ガチガチの前世肯定派として言葉を返すまこちゃん、という構図には、
どうにも違和感を感じてしまう。

今さら「レイちゃんとまこちゃんのポジションが逆転しているのでは」
と指摘するのは、あまりにも今さらすぎるが、レイちゃんの現状がこう
なった経緯についてもまこちゃんの現状がこうなった経緯についても、
同じような不可解な割り切れなさを残しているために、この両者が対峙
して重要なテーマをぶつけ合うシチュエーションには、かなりの違和感
が伴う。

簡単におさらいすると、レイちゃんが今このような人物像になっている
のは、美奈子との対決の描写を悉く失敗しているからであり、さらには
レイちゃんを演じる北川が泣きすぎたからである。

一方、まこちゃんが今このような人物像になっているのは、その人物像
を確立するのが遅きに失したから
であり、パブリックに共有されている
木野まこと像に設定されている欠落を、小林靖子の脚本で安座間美優が
演じている人物にアダプトする道筋の附け方をしくじったからである。

要するに、現時点でのこの二人の人物像はかなり重大な失敗の積み重ね
として今このようにある
のである。

無論、実写版美少女戦士セーラームーンという番組は、独立した一本の
テレビシリーズなのだから、先行するアニメ版やミュージカル版に過剰
に拘束される必要はない。テレビシリーズ独自の物語が推移した結果、
一般に共有されているキャラクターイメージと乖離するのも、或る程度
已むを得ないことだろう。

だがこの二人の人物像の変遷を視る場合に重要なのは、シリーズ全体を
通観した場合、失点をリカバリーするためにさらに失点を重ねるという
悪循環の結果として、パブリックイメージとの乖離がもたらされた
とい
うことである。要するに、状況に流されてしまっているのだ。

その間の事情については、これまでに何度も強調したとおりであるが、
今回のエピソードに直接関係をもつまこちゃんの「一人でいいんだ」に
関しては、Act.31で視てきたように、ドラマの流れ方から視れば肯定的
に捉えられる実感的結論であるのが自然なのに、新たな問題設定として
描かれてしまったため、「前世から決まっていることなんだからしょう
がない」という、明らかに否定されることを前提とした消極的な姿勢
意味附けられてしまった。

Act.31の時点では、まだその実感的結論が肯定的に意味附けられる目も
あったのだが、今回その問題をあらためて語るに際して、結局他者との
距離感をうまくとれないという、思春期一般の不全であって個別の呪い
でも何でもない障碍に対する言い訳として安直に意味附けてしまった。

これはつまらない。

レイちゃんにかけられた呪い、亜美ちゃんにかけられた呪い、美奈子の
生を蝕む呪い、そうした個別性の高い呪縛と比較した場合、やはりまこ
ちゃんの不全の設定は明らかに安っぽい。単に、稚なくして両親と離別
した可哀想な子のひがみ根性、という安いレベルに堕している。

さらに、それを出発点として、憎からず想う相手と真正面から対峙する
のを恐れる言い訳にしてしまうのでは、木野まことの人物像全体が安く
なってしまう。「あたしたちがここにいるのも、全部前世から決まって
たせいだし
」という言葉を今この時点で口にされると、これまでの物語
が「宿命を超えた現世の結び附き」をドラマティックに語ってきた経緯
までを粗雑な一言で一蹴されたようなショックを覚える。

木野まことというのは、それほど暗愚な人物なのか。これはさらに後の
Act.45の自爆攻撃などにも響いていて、それが美奈子の気附きの契機に
利用されているため、ダシにされている感は否めない。Act.46に至って
は、生気を抜かれて倒れる元基を目にしたことで、ようやく「戦士の力
に目覚めたのは、一人じゃなかったから
」というふうに方向転換して、
結局「私が間違ってました」式の安直な気附きがもたらされる。

結果的にいうなら、木野まことの物語は最初から最後まで揺らぎ続けた
挙げ句、着地点を見失って失敗していると思う。この番組の木野まこと
に魅力を感じるとしたら、それは演じている安座間美優が可愛いからで
あって、それ以上でも以下でもないだろう。

こうした仕掛けがつまらないというのは、最終的な解が「私が間違って
ました」である以上、間違っていることがアカラサマな問題設定では、
おもしろい筋道を作れないからである。

じっさい、今回のストーリーではAct.31のときほど元基とまこちゃんの
やりとりにおもしろみがない。「うさぎとかめ」の童謡もその後に生き
るような小道具ではないし、あえて「お父さん」を持ち出しているのに
それが元基を指向する描写として効いていない。

「うさぎとかめ」の童謡なんか、世の中の大多数のお父さんが子どもに
歌って聞かせるだろうから、それを元基が歌ったからといって、何ほど
もまこちゃんの元基への好意を深めるものではない。セオリーからいえ
ば、もっと個別性の高い曲を歌わせることで、父親と元基に対するまこ
ちゃんの感情を重ね合わせる
ところだが、「うさぎとかめ」ではあまり
にありきたりすぎて、父親を想い出すところから元基に向かうベクトル
が成立しない。

この場面は、元基とまこちゃんがいっしょにいることで少しだけ仲良く
なるという以上の内容を語るものではない。ドラマ的な仕掛けで距離が
縮まるという描き方ではなく、仄かな好意を抱いている男女をしばらく
いっしょに置いて何となく語らわせて仲良くさせているだけ
である。

本当なら、Act.20のうさぎと衛のデートのように、二人の距離が縮まり
ながらも、妖魔の出現と正体バレ、宿命の開示という段階を経て、折角
二人の間に漂った好いムードが雲散霧消する、という劇的効果を狙った
ものだろうが、その狙いがうまくヒットしていない。

要するに、「今みたいな敵と闘わなくちゃならなくて」という理由が、
元基の想いに応えられない理由として明確ではないし、視聴者から視れ
ばそれが本当の理由ではないことがあまりにも明らかだからである。

この場面でただ一つ興味深いのは、元基の「正義の味方みたい……って
いうか、そうなのか?
」という問いに、まこちゃんが「そんなんじゃ、
ないけど
」と答えるダイアログだ。

今現在のまこちゃんのスタンスでは、セーラー戦士団は正義の味方では
ない。宿命に殉じ、プリンセスを護る四戦士は、正義というパラダイム
で闘う者では決してない
のである。セーラー戦士としての在り様が正義
「だから」まこちゃんは闘っているのではなく、前世の宿命を受け容れ
たから闘っている
、それがまこちゃんの認識なのである。

このまこちゃんのスタンスは、本質的には正義とは無縁の私闘を闘った
ヴァニーナイツたち
に近い。自分たちの出自を意味附ける宿命と無縁の
だれが死のうが苦しもうが、主人であるアレストホルンを護ることのみ
がヴァニーナイツの使命であって、その埒内で闘うことしかできない。
それは名実共に正義の戦いではなく、一個の私闘であるにすぎない。

ある種ヴァニーナイツという作品の醸し出すハードなイメージは、この
ような基本認識に基づいている。仮面天使ロゼッタでは直球ド真ん中の
ヒーローの復権を謳った畑澤和也がヴァニーナイツで描いたのは、英雄
=ヒーローのモチベーションは、実は私闘でしかあり得ないという剥き
出しの真実であった。

詳細の明言は避けるが、このような比定は実はごく自然なものであり、
むしろヴァニーナイツのほうが裏セーラームーンとでも呼ぶべき性格の
作品である以上、一度はこうした近縁性が語られるのも避け得ないこと
だろう。

とまれ、この番組においては、ヴァニーナイツ的な私闘としての性格は
超克されるべき過渡的な意味附けにすぎない。まこちゃんの認識がどう
あれ、実態としてセーラー戦士たちの戦いは、「愛と正義のセーラー服
美少女戦士」を旗印に戴く正義の戦いなのである。そうでないとすれば
この番組よりヴァニーナイツのほうがよっぽど優れた「リアルな」作品
ということになるだろうが、オレの考えはそうではない。

まこちゃんの認識は超克さるべき迷妄として設定されているのであり、
正義の味方「ではない」というまこちゃんの言葉がたまたまそのような
近似の印象を惹起しただけで、まあこれは余談の類である。

両親との別れが発端だとしても、「いつも最後は一人」というひがみの
ゆえに「一人でいいんだ」という結論にしがみつき、それを正当化する
ために「前世から決められていたこと」という決定論を盲信するという
のは、自己言及的な持ち合いの論理である。障碍を受容するためにその
障碍を設定した何かを持ち出して疑問を順送りしただけのことである。

それが最終的に「私が間違っていました」式の気附きによって覆るので
あるなら、宿命論・決定論を否定するための出来レースのダシにされた
だけの話である。

こういう筋道上の問題点がなければ、うさぎ・なる組とまこ・元基組に
スプリットした流れで正体バレという対称が設けられ、両者ともに宿命
のゆえに現世のたいせつな相手を痍附ける対称が成立するという、番組
全盛期を思わせる構成の妙が奏功したと思うのだが、もはや大筋の流れ
に内在する歪み
が、そのようなエピソード単位の美しさの成立を阻んで
いるのだろう。

それに、こうした対称が有意に成立するには、今回のエピソードはまこ
ちゃんと元基にウェイトがかかりすぎている。さらには、まこちゃんと
元基をくっつけようと画策するうさぎという、久しぶりに他人のために
奮闘するうさぎ像が描かれていながら、結局ラストではプリムンが登場
してうさぎ自身の問題に話の中心が戻っていく。これが、やはり大筋を
決する重要な要素だけに、まこちゃんと元基のエピソードの余韻を打ち
消して場を浚ってしまう。

エピソード単体として視た場合に、やはり初期のような美しく完結する
ドラマ性を追求できる状況ではなくなっているのである。

そして、このクライマックスで痍附いたなるちゃんが、次回のうさぎと
の対話によって、銀水晶の力が脅かすたいせつな人々の象徴として重要
性を増してくるという具合で、一本一本のドラマ性よりも続き物として
の流れ
が重視されている。

その流れ自体がプリムンという爆弾を抱え、これまでのシリーズの歪み
が一挙に凝縮してくるという甚だ気の滅入るものであるだけに、ラスト
一クールを振り返るのは辛い作業である。

滅びに向かうこのような憂鬱な流れのなかで、一縷の望みとなっている
のは、地上に放逐されたネフライトのその後を描く一連である。

Act.36で棄て駒として自刃させられたネフライトは、続くAct.37で人間
として再生を果たし、Act.38で元基と出会い、寄る辺ない身をクラウン
のバイトとして過ごすようになった。Act.40では無様なその姿をかつて
の主人の前に晒し、四天王としての誇りを口にする。

ベリルへの復讐を切望し、「四天王としての誇りを棄てろというのか
と衛に詰め寄るネフライトは、すでに前世の地球国四天王としての意識
を取り戻しているようだ。だとすれば、ネフライトはダークキングダム
の四天王として裏切られたことばかりではなく、地球国四天王の一人で
ある自分がベリルに蠱惑され挙げ句に虫けらのように使い棄てにされた

ということに二重の屈辱を感じているのだ。

つまりこの傲岸不遜で暴力的でキレやすい単純な若者は、操られていた
からではなく、元からそういうイヤな奴だったのである(木亥火暴!!)。
なんつか、禄な家来がいなかったんだなエンディミオン(木亥火暴!!)。

とまれ、地球国四天王として、そしてダークキングダム四天王として、
前世の因縁、さらに今生の因縁のゆえにベリルを憎むネフライトを諫め
る衛の言葉は、人として再生したネフライトが前世からの繋がりを断ち
切り新しい生を始めることを予感させる。

四天王たちについて、ダークキングダム四天王としての存在自体が前世
に呪われていると以前指摘したが、ベリルの裏切りというかたちで放逐
されたネフライトには、その呪縛を脱却し新たな今生の生を始める契機
が与えられたのである。

その予感を裏附けるかのように、今回のエピソードでネフライトは水野
亜美と出会い、未生のままに終わったあの恋を、もう一度始める機会を
与えられる
のである。

無論、ダーキュリーであった過去の記憶を持たない亜美ちゃんは、ネフ
ライトとのあえかな通い合いを覚えていない。ネフライトもまた、あの
ときのままの彼ではない。しかし、自身の惨めさに苛立ち癇癪を起こす
ネフライトを、またしても亜美ちゃんは優しく気遣ってしまう。

その姿に地下深い暗闇のなかで得た忘れられない記憶の姿を重ねたネフ
ライトは、さらなる惨めさを覚え苛立つ。自身がなにゆえダーキュリー
を忘れ難く想うのか、それはネフライトにとっては、人に明かせぬ恥辱
を伴う甘やかな痛み
である。夢幻のごとく消え去った女怪の喰い破った
心の孔は未だ塞がってはいないのである。

あの女とこの女は同じ女ではない、それはネフライトとて識っている。
しかし、おそらくネフライトがあの女に視たつれない優しさの正体こそ
邪法でさえも消し去ることのできなかったこの女の存在なのである。

しかし、今現在の亜美ちゃんがネフライトに優しく接するのは、彼女が
優しい少女であるからでしかない。屈辱に打ちひしがれるネフライトに
とっては、亜美ちゃんへの想いを自覚することさえ辛い記憶の蒸し返し
にすぎない。彼が前世の呪縛から解き放たれるには、まだまだ人として
の時間が必要
なのである。

そしてそれを見守るオレたち視聴者にとって、毎回少しずつ挿入される
ネフライトのシークェンスは、奇妙な疼きとして胸に刺さる棘である。

それはネフライトと水野亜美の未生の物語が、このシリーズが達成した
最良の何かを、今なお胚胎する可能性
だからである。これまでの物語が
語った美しい夢を根こそぎ否定しにかかっているたまらなく憂鬱な現状
のなか、あの美しい挿話群の記憶を裏切らず喚起するただ一つの要素だ
からである。

ある意味で、今この時点でオレたちが最も共感し得る人物こそ、裏切り
の屈辱と今はない幻の姿への憧憬に苛立つネフライトなのだ。

果たして、ネフライトに新たな物語への道は拓けるのか。

その結末を、オレたちはすでに識っている。

|

« Act.40 小さな場所で空騒ぎ | トップページ | Act.42 此岸のヒーロー »