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Act.43-2 オレには埒もない、それでもオ(ry

冒頭の会話だけでこんなに語ってしまうオレが愛おしい(木亥火暴!!)。
それを白倉にこじつけるオレのセンスはもっと愛おしい(木亥火暴!!)。

というわけで、薄気味の悪い自虐ネタはこのくらいにして、本編を視て
いくことにする。登場人物たちの行動原理が整合のとれていないものに
なってしまったことはすでに指摘した。なかでもきわめつけの不整合で
ある銀水晶≒プリムンにまつわる問題をまたしても蒸し返すエピソード
であるだけに、衛とうさぎの束の間の逢瀬を描いた主筋もまた不可解な
夾雑物に水を差されている。

前回のエピソードで明かされた衛の動機とは、「オレがメタリアをなん
とかする
」というものであった。「なんとか」と表現されている以上、
この時点では衛にも何らかのアイディアや成算があったわけではないと
思われる。

じっさい衛がメタリアと同化できたのは、そのセリフの直後に埋め込ま
れた呪いの石によって生命力が空っぽになってしまったからであって、
その結果として、偶然「なんとか」なっただけという見方もできる。

この辺の、深く先々まで考えているわけではないが、まあ「なんとか」
なるだろ的な大雑把なポジティブシンキングは、エンディミオンとして
覚醒したあとの貴種流離的な地場衛像には合致している。

ここ数話の流れにおいて、劇的な動きを見せている登場人物たちを視る
と、主役である女性陣の描き方には不可解な点も多々あるが、男性陣の
描き方は総体的にかなりいいし、どうにも扱いあぐねているような印象
のクンツァイトを除けば、劇的な変貌を見せたキャラでも、その変貌に
は一本筋がとおっているように感じられる。

とくに覚醒後の地場衛は最も描写の振れ幅がないキャラであるだけに、
視聴者が信を置けるステディなヒーロー像として好感がもてる。まさに
衛なら「なんとか」してくれるのではないかという期待をもたせるので
ある。まあ、その「なんとか」というのが吾妻ひでおのマンガの「次の
朝、お母さんはなんとかなっていました
」式であったのはご愛敬という
ものだが(木亥火暴!!)。

じっさい、このエピソードの物語作法それ自体を視るのなら、それほど
悪い出来というわけではない。問題は、そのような一般的な作劇を許容
しない設定面の構造的矛盾である。

わかりやすくいうなら、ここに至るまでの前半からの三クールは、脚本
と演出と芝居の三者がガッチリ巴で勝負を決するセメントマッチだった
のだが、シリーズを締め括るために語られたこの一クールの主役とは、
どうやらプロデューサーである白倉であるということになるだろうか。

エピソード個別の脚本や演出よりも「だれかが決めたこと」という概念
的な要素群が屹立し、シリーズのムードを強固に支配しているのがこの
クールの特徴である。たとえば前回と今回を比較する場合、エピソード
構築法の自然な要請として前回のエピソードが辿り着いた結末が、今回
冒頭から「なかったこと」にされているのは、自然な話の流れで構想が
転がっていくのではなく、従来の流れを批評的に読み解く視点に立って
第三者的な思想の観点から物語要素を決定している者の介入のゆえ
では
ないのだろうか。

だがまあ、これはいっさい論証抜きの「意見」である。オレという特定
の読み手がこの一クールのシリーズ構成術にハッキリ白倉伸一郎という
特定個人の個性
を感得したという感触を語っているのである。つまり、
当たっているか外れているかという観点でしか評価しようのない話では
あり、その前提で聞いてほしい話である。

本放送時にこのエピソードを観たときの個人的な印象は、正直、あまり
良いものではなかったのだが、それは別段、エピソード単体の責任では
なく、エピソード単体のドラマ性がもたらす感興を純粋に楽しむことが
もはや許されていないから
である。

今回のエピソードの要諦を簡潔にまとめるなら、決死の覚悟を秘めて敵
陣深く入り込んだ衛が、残されたうさぎを気遣い無理を押してうさぎの
許に舞い戻り、束の間の逢瀬でうさぎを慰めるとともにある種の約束を
取り交わし、その代償として自らの一命が賭けられたベリルとの約束を
破る羽目になる、というところだろう。

これだけを視るなら満更悪くないストーリーである。

日没までの僅かな時間を恋しい人と過ごすという儚さ、うさぎとの約束
とベリルとの約束が対比させられ、「もう少しだけ」うさぎといっしょ
にいてやりたい、いっしょにいたいという、刹那に燃え立つささやかな
想いのために命を抛つ衛の姿がもたらす悲愴味や哀感、ベリルとの約束
を識らぬうさぎが、一途に衛を信じて約束どおり微笑みを湛える寂寥感
溢れる結末は、一本の語り物としてよく出来ている。

また、こうした寂寞の抒情味を描出する鈴村演出も悪くない。おそらく
復帰後の鈴村演出回では、このローテの二本がベストだろう。

演出による積極的な作劇を行わない鈴村演出は、脚本自体が明確にお話
を語りきっているようなエピソードに向いている
。七つ道具を一式抱え
てお得意からお得意へ飛び回る御用職人を思わせる鈴村は、物語に深く
関与して新たな意味性を創出するタイプのクリエイターではない。

要するに、演出に鈴村を投入するということは、シリーズ統括の視点で
視れば「外注に廻す」という意識が必要だということだ。内製から外製
にシフトする場合には的確な指示書とダメ出しの作業が必要なように、
だれが視てもわかるように明確に語りきったホンが必要だ。

無論、言葉どおりの「外注」という意味なら、鈴村に限らず白倉以外の
スタッフは全員外部業者なので、契約形態の話ではなく特定のスパンに
おけるプロジェクトのコアメンバーとしての意識の在り方
の話である。
その辺、東映特撮という業務の拡がりの範疇では、鈴村はつねに遊撃手
的に位置附けられているようで、どこの現場でも中の人間ではなく外の
人間として自他共に位置附けている節がある。

その意味では、今回はうさぎと衛の儚い逢瀬、次回は忠臣ゾイサイトの
自己犠牲、という結末に向けて明解にお話が組み立てられていて、鈴村
演出にも迷いがない。

だが、そのドラマ的感興の成立を阻むのは、ドラマ単体として視るなら
添え物にすぎないはずの「衛がうさぎに逢いに行くに至る理由」を描く
部分である。衛とうさぎの逢瀬に主眼を置くなら、そのための理由附け
は添え物にすぎないし、結末に至る道筋を敷く過渡的要素にすぎない。
じっさい、エピソード構築上の書き手の意識としてはそのようなドラマ
を想定してホンを書いているのではないかと思う。

つまり、ドラマの構成上、睡眠中にプリムンが発現するとか、うさぎの
強い感情が銀水晶に影響を与えるなどというような事情は、衛をうさぎ
に逢わせるための口実
なのだし、銀水晶絡みのゴタゴタにひとまずケリ
を附け、今後他の叙述要素を進めるために引き合いに出されたというに
すぎない。

しかし、前回でそれなりの決着をみたはずのプリムン≒銀水晶の問題を
ふたたび蒸し返したために、必要以上にその要素が突出して感じられ、
衛とうさぎの逢瀬のウェイトが相対的に軽くなってしまっている。また
その二人の会話で語られる内容も、本来なら実はどうでもいいことで、
二人の間を堰く尤もらしい事情であるなら何でもいい、という言い方も
できるのだが、ここも語られている内容のウェイトが高すぎて、それを
語る場面のドラマ的感興のウェイトが軽くなってしまっている。

これはエピソード構築法の問題というより、素材のもつ意味性の問題と
なる。本来ならお話をかたちづくるための材料にすぎないはずの設定が
必要以上に意味性を主張しているために、ドラマの感興をスポイルして
しまうのである。

この場面のセリフを再録して、少し細かく視ていこう。

うさぎ、よく聞け。今日メタリアの力を強めていたのはプリンセスじゃ
ない。おまえだ。おまえの怒りや憎しみの感情が幻の銀水晶に伝わった
んだ。

おまえは、ベリルや前世を引きずった人間たちのようになるな。どんな
ときも笑ってればいいんだ、バカみたいにな。得意だろ?

バカみたいはよけいだよ。でも、衛はまだ帰ってこれないんだよね?

安心しろ。オレの気持ちがおまえから離れることはないから。心はいつ
までもおまえといっしょだ。

この一連の会話に、漠然とした違和感を感じた諸兄姉は少なくないので
はないだろうか。何かが胸に引っ懸かる。オレは、その違和感がそれに
続く感動的な衛とうさぎの束の間の戯れと別れの場面にまで持続して、
素直にドラマに入り込めなかった。

純粋にこのダイアログだけを視るなら、前半でベリルが独語ちた「プリ
ンセスが心をとるなら、妾は命を
」というセリフと対応して「心はいつ
までもおまえといっしょだ
」というセリフが語られ「命は」という言葉
が呑み込まれる。衛の決死の覚悟や命を削る呪いの緊迫感が、うさぎに
それと悟らせないダブルミーニングで表現されている巧みなものだ。

にもかかわらず、オレたちは相変わらず何かに引っ懸かっていて、その
悲愴味に浸ることが許されない。そんなヒロイックな衛の行動に繋がる
道筋に、ついつい想いが及んでしまう。そこには拭い去れない違和感が
蟠っている。

微笑むつつ姿を消す衛と切り返してハッと息を呑むうさぎ、やがてその
表情が微笑みに包まれて…という沢井の絶妙な表情芝居も、それを盛り
立てるドラマ的な緊張が途切れているので十全に活きていない。

何がこうも引っ懸かるのか。それは、衛がうさぎの許へ舞い戻る口実が
「プリンセスを鎮める」というものであり、じっさい前半で提起されて
いた課題が睡眠中のプリムンの出現であるにもかかわらず、本当の課題
が実はうさぎのなかの悪念と銀水晶の照応であった
という筋道上の混乱
があるからである。

だとすれば睡眠中のプリムンの出現はどう扱われるべきなのか、ハープ
の音とメタリアの力が呼応するような描写は間違いなのか、そもそも、
最初からうさぎの感情に呼応して銀水晶の力が高まりをみせるからそれ
を抑えねばならないという話で、プリムンがメタリアの力を強めている
なんて話はこれまで出ていなかった、だいいちその話は前回終わってる
んじゃなかったのか等々、ただ一言のセリフでこれだけの疑問が湧いて
出てしまうのである。

ことに、大きく括れば、前回の話においても銀水晶の力を抑えるという
ことは、強い感情を抑えるという意味では今回と事情が同じであって、
嫉妬や憎悪というネガティブな感情だからどうとかいう話ではなかった
はずである。ネガティブな感情が作用したからメタリアの力が増したと
いうのであれば、ポジティブな感情が作用したらメタリアの力は衰える
のか
。いや、銀水晶の力とメタリアの力はうさぎの「強い」感情に照応
しながら「一方的に」増大するのであって、その感情の極性はこれまで
いっさい問題とされてこなかったはずだ。

つまり、嫉妬や憎悪がどうのという話は実質的には無意味な修飾要素で
あり、じっさいには、今回の課題の構造は、前回とまったく同一なので
ある。そして、ちょっと表向きの言い回しを変えただけでまったく同じ
設問をくり返し、「結局無理」という身も蓋もない結論で再度軌道修正
しているのである。

そして、「結局無理」からの落としどころが「笑っていればいい」なの
はどうなのよ、それで済むんだったらこの二話の話はなんだったの、と
いうのが最大の引っ懸かりで、それを用いた仕掛けであることがラスト
のうさぎの微笑みに素直にイレ込むことを阻害しているのである。

ドラマの観点でいえば、この場面でこのセリフが口にされたのはうさぎ
を打ちのめすショッキングな新事実を衛の口からうさぎにぶつけるため
である。その意味において、「プリムンのせいだと思ってたら実は自分
に原因があった」というのは、本来、意外性をねらうためのハッタリで
あって、大した意味はないはずなのだ。

にもかかわらず、それは視聴者にとって「新たな矛盾」として感じられ
てしまうのだ。この間の事情においては、「意外性がある」ということ
は「矛盾がある」ということとほぼイコール
だからである。つまり、無
矛盾で意外性をねらえるほど柔軟な設定ではなくなっているのである。

個別のエピソードの劇的情感のために、無闇に設定要素に触れるとさら
なる矛盾が生じるのである。これでは地雷原を歩かされているのと同じ
で、危なっかしくてドラマなんか語ってはいられない

普通なら、大筋の設定要素はもう少しゆるやかなものであるべきで、お
話をつくる場面で設定要素があまりにも神経質に意味性を主張するよう
では、それを決めた人間以外にはプロットが立てられなくなる。

戦隊などでも、設定面の重要な展開に触れる節目のエピソードはメイン
ライターに振られるのが常道だが、この番組においては、その辺の作業
系統が階層的に非常に浅い。シリーズ構成とメインライターが同一人物
であり、他の書き手が一人も介在していない。製作ライン的には、小林
靖子の直上の階層が白倉伸一郎であり、文芸面の人材はこの二人だけで
ある。

他の書き手が介在しない以上、通常各ライターに短いプロットを渡し、
基本設定やシリーズ構想に沿ってダメを出すシリーズ構成の肩書は有名
無実であって、要するに、システマチックな箱書きができない小林靖子
が「結果として書き上げたホン」を最大限に尊重するための仕組み
、と
いうにすぎないだろう。

プロデューサーが文芸面で大きな役割を果たす東映特撮でも、その関与
の度合いは、番組によって、個人個人によってまちまちというのが実態
であるようだが、少なくともこの番組では、最初に白倉がプロット出し
をして、それに基づいて書かれたホンを最大限に活かし、それを受けて
次のプロットを出す、以下そのくり返し、というような作業形態だった
のではないかと思う。

以前オレが白倉について「自分の個性を滅却した存在感」と評価したの
は、そのような作業形態を想定したからである。この想定では、白倉は
小林靖子の黒子に徹して物語を書く動因を与え、結果を起点として次の
たたき台を用意するという、理想的な援助者として機能していた。

だから、この一クールの在り方は、その作業形態が突如として一変した
のではなく、この作業形態上における重点が小林靖子の生成物から白倉
伸一郎の志向に遷移しただけなのではないかと思う。

白倉が起案したと思しき新設定は複雑かつ曖昧であって、意図的に設け
られた矛盾を孕むものであり、当人以外は意味性を十全に把握できない
し、柔軟な変更も加えられないような種類のものである。

たとえるなら、シリーズ統括者と十分に認識を共有したシリーズ構成を
兼ねるメインライターにしか扱えない類の設定である。ならばこの番組
における小林靖子はまさにそのような立場であるはずだが、残念なこと
シリーズ統括者と「十分に認識を共有」してはいなかったのではない
だろうか。

おそらく白倉と同格者である井上なら、白倉のネタ出しを批評的に捉え
直すこともできたであろうし、納得の行かない部分についてはとことん
まで詰めることが可能だっただろう。だが、小林靖子にはその種の批評
的視点はない
し、有り体にいえば興味もないだろう。基本的には物語る
対象に関して事前に前提を詰める作業が不得手ではないかと思う。

小林靖子の紡ぎ出す物語は、結果としてそのようなものに「なってしま
う」のであって、そのような結果を想定して事前にコンセンサスをとり
それを目指すような性格のものではない。いわば、シリーズ構成といい
メインライターといっても、作家性の高い一作業者の域を出るものでは
なかったのかもしれない。

そして、このラスト一クールに関しては、シリーズの大筋を舵取りして
自らのイメージする地点へ誘導し、そのようなかたちで物語を終わらせ
ようとする明確な白倉の意志が感じられる。それは、前半の三クールに
おけるシリーズ構成術が、起点のプロットからの逸脱を、物語の生理に
基づいて、新たな文脈として意味附けて活かす性格であったのに対し、
ラスト一クールにおけるそれは、起点からの逸脱を物語の生理とは別の
原理に基づいて補正する性格のもの
だからである。

物語の生理が第一原理として働くのであれば、前回のエピソードの直後
に今回のエピソードが続くことはあり得ない。なぜなら、前回の結論が
志向する結末を回避するために、今回のエピソードが語り直されている
からである。そして、前回の結論が志向する結末を忌避する動機とは、
物語の生理という文脈上から発生しようがないものだからである。

前回の結論が志向する結末、それを便宜上仮に戦隊的結末と呼ぶなら、
それは数々の困難を乗り超えて仲間たちが協力し合い、究極の力でラス
ボスを倒すという方向性である。物語という原理は、別段にこのような
終わり方を忌避するものではない。

その結末を忌避する動機とは、その種の終わり方を批評的に視る原理
母体としている。それは一般的に視てかなり奇異な思想の産物でなけれ
ばならない。なぜなら、この種のジャンルにおいて、そのような結末は
一種大前提であって批評の対象ではないからである。普通一般における
この種のジャンルにおいては、このような結末をどのように意味附ける
かが問われるのであって、このような結末を採択しているか否かという
事実自体が問われることはない。

オレの識る限り、この種のジャンルにおいて、それを自己の問題として
認識しているクリエイターはただ一人であって、そのただ一人の人間が
まさしくこの番組に関与している
以上、オレにとってそれが白倉の意志
に基づくものであることはあまりにも自明である。

ただ一人という断定に語弊があるなら、たとえば以前のレビューで少し
触れた畑澤和也の名を挙げてもいい。彼がヴァニーナイツで描いた結末
は、この番組の先駆と視ていいだろう。以前触れたように、この作品と
実写版セーラームーンは微妙にねじれた類縁性をもっている。

その間の事実関係は残念ながら事情があってつまびらかにするわけには
いかないが、オレの認識としてはヴァニーナイツは裏セーラームーンで
あり、それもアニメ版の無印と呼ばれている第一シリーズを起源として
いるように見える。そして、アニメ版と直接の関係性をもたないことが
公式に明言されている実写版は、奇妙なことに、この腹違いの姉妹とも
いえるヴァニーナイツと多くの類似点をもっているのである。

あまり世評も芳しくない作品ではあるが、実写版セーラームーンの世界
に興味がある諸兄姉なら、一度は観ておくことをお奨めする。現在でも
大手チェーンなら全話VHSをレンタルしているはずなので、その気に
なれば試聴は可能である。

※2007年現在では、視聴はほぼ不可能に近い。CSでのリピートが待たれるところである。

…つか、観ろ。話はそれからだ(木亥火暴!!)。

事実関係の問題として、白倉がヴァニーナイツという番組の存在を識っ
ていたと仮定するなら、話は一挙に簡単なものとなるのだ。白倉の認識
として実写版セーラームーンがヴァニーナイツを母型としているという
ことなら、数々の疑問は一気に氷解するのである。

ヴァニーナイツという作品にそれほど魅力があったかのかどうか、それ
はオレにはわからない。だがもし、白倉がこの作品の存在を識っていた
のであれば、白倉にとって非常に魅力的に映ったであろうことは想像に
難くない。

しかし、それは現時点では到底採択できない結論である。「あの作品が
こうであるから、それを参考にしたこの作品もこうなったのだ」という
のでは、何を説明したことにもならないということが一つ(笑)。白倉が
識っていたか否かなど、白倉にしかわからないことであり、白倉にしか
わからないことで、白倉が真正直に真実を語るわけがない(木亥火暴!!)
ということが一つ。さらには、今さらそれを問うたところで、その真偽
を論証する術がないということが一つである。

この二つの作品間の関係を論じるには、客観的な類似点を比較検証する
方向性しかないが、それは何の論証にもならない。さらにそれが実効性
のある切り口となるためには、実写版セーラームーンが始まる「前に」
ヴァニーナイツとこの新番組の、セーラームーンという物語原型を起源
にもつ実写作品という「事実関係上の近縁性」が周知されていなければ
ならないが、そんなことは今さら望むべくもないことである。

ゆえに、現時点ではこれはオレ個人の「予断」であるにすぎない。この
曖昧きわまる記述の真意は、特定少数の人間にしかわからない。だが、
それが印象論として説得力があるかどうかくらいは、ヴァニーナイツを
じっさいに観てもらえばわかる。

※仮面ライダー電王の公式ブログに、白倉Pがセラムン以前からヴァニーナイツに注目していたととれる記事あり。

とまれ、脱線はこのくらいにして本題に戻ることにしよう。

今回のエピソードに関してこれまで陳べてきたことを纏めるなら、それ
はシリーズ構想と個々のエピソードのドラマ性の乖離ということになる
だろう。エピソード個別に視るなら、小林脚本にも鈴村演出にも瑕瑾は
ないが、白倉的なシリーズ構想はそうした個別のドラマ性とはあまりに
相容れないもの
となってしまっている。

このような条件においてなお佳作たり得るエピソードとは、プリムン≒
銀水晶とは直接の関係をもたず、これまでのシリーズにおいて、大筋の
意味附けが大きく失敗していない要素を扱ったものに限られるだろう。

だとすれば、今回のエピソードでメインの衛たちの逢瀬の話と併行して
描かれている要素である四戦士の確執というテーマも、あまり期待でき
ない。そのなかで唯一、四天王たちそれぞれの末路を描くパートだけが
向後に期待を繋いでいる。先ほども衛の人物像にからめて触れたことだ
が、やはり小林靖子の筆致は男性キャラを描く場面では相変わらず冴え
ていて揺るぎがない。

たとえば、冒頭近くのジェダイトとゾイサイトの会話は、シリーズ後半
になって俄然男ぶりの上がったゾイサイトの苦衷と焦慮を描写すること
はもちろん、前回のエピソードで前世の主君を裏切り、呪いの石を埋め
込んだジェダイトの心境を語るものとしても緊迫感がある。

Act.37ではベリルの裏切りに痍附き、Act.38では前世と現世の板挟みに
悩みエンディミオンとベリルとの間で揺れ、Act.40ではベリルの猫撫で
声に口唇を噛んで表情を歪めていたジェダイトだが、ベリルの空々しい
託せるのはおまえだけだ」という言葉に腹を括ったのか、前回のエピ
ソードでは、ベリルかエンディミオンかという二者択一に最悪のかたち
で答を出してしまった。

かつての主君の命に関わる謀略に荷担するという後戻りできないかたち
で、ジェダイトは己の迷いに決着を附ける。この選択には十分意外性が
あった。ゾイサイトの言葉によれば、前世において「四天王で最も若く
マスターを兄のように慕っていた
」はずのジェダイトがベリルに附く。
意外な落としどころである。

ジェダイトを阻止しようとゾイサイトが奏でるピアノの音に蘇る前世の
記憶。腕相撲でネフライトに易々と敗れたジェダイトに替わりエンディ
ミオンが続いて挑み、一気にネフライトを破った瞬間のその笑顔。息を
呑んでそれを見詰めるジェダイトの憧れに盈ちた無邪気な眼差し。だが
ジェダイトはその兄とも慕うエンディミオンの胸に、己が手で命を奪う
呪いの石を埋め込んでしまう。

現時点でのジェダイトは、一度は自分を裏切った海千山千のベリルに、
性懲りもなく丸め込まれた愚かな少年にしか見えない。本来なら四天王
で最も若いジェダイトにこんな罪業は似合わない。ベリルの底意を十分
に識りながら、明確な殺意をもって前世の主君であり最も近しい人間に
敵対したのである。

ジェダイト必滅の運命は、すでに決してしまったのである。このくらい
悪辣な行為に荷担してなお何の業罰も蒙らずに物語が終わるのは、世界
広しといえども唯一武侠映画を算えるのみである(木亥火暴!!)。

マスターへの忠義一途に尽くし、四天王たちの魂の救済に奔走するゾイ
サイトは激しい怒りを込めてジェダイトの妄動を糾弾する。ジェダイト
であれクンツァイトであれ、四天王たる者がマスター・エンディミオン
を害すること、これは両者にとって最悪の悲劇である。

ゾイサイトが願うのは、マスター・エンディミオンの安寧と宿命の回避
ばかりではない。四天王がマスターと共にあった幸福な時代、あの至福
の時間の回復
こそがゾイサイトの悲願である。

だが、男たちはすでに後戻りできない別々の途を辿り始めてしまった。

かつて「主のために死する剣」をもって任じたクンツァイトは、その主
への復讐に燃え、ベリルへの憎悪を胸に刻むネフライトは、人界に墜ち
たことでこの争いから脱落してしまった。残るジェダイトは不可解にも
ベリルの裏切りと内心の夜叉を承知のうえで彼女の側に附いた。

ゾイサイトは今や絶望の淵に立たされている。彼を除いてだれ一人主君
の楯となる者はない。クンツァイトは復讐に逸り、ネフライトは四天王
としての力を喪い、ジェダイトに至っては積極的に主君を陥れている。

待て、ジェダイト。自分のしたことがわかっているのか。マスターはお
まえの主だぞ。

今は違う。オレの主はベリル様だ。そう決めた

今までどおりベリルに惑わされ使嗾されているのではない。ジェダイト
はベリルの心底がどうあれ「そう決めた」のである。なぜそうなるのか
視聴者にはわからない。なぜ最もイノセントなはずの年若いジェダイト
が、われから望んで卑しい悪の走狗と成り下がるのか。

このジェダイトの回心の機微を描き、追い詰められたゾイサイトの最期
を描くのが次回のエピソードのキモである。そして、ジェダイトの突然
の回心の機微が理解できない時点でも、それが不自然には思えないのは
なぜなのか。

それは、シリーズ構想上、四天王の末路なんてある意味でどうでもいい
から
である。ここには悲劇を志向する操作が及んでいないからである。
さらに、クンツァイトの復讐の動機を除いては、四天王の描き方はこれ
まで大きな破綻を見せたことがないからである。

四天王たちの描き方は、従来どおり物語の自然な生理に基づいている。
次回のエピソードからは、ゾイサイトを始めとして次々と四天王たちが
己の生き様に結論を下し、己の死に様を決定附ける。

ゾイサイトのシビレる死に様はもとより、クンツァイトも己の迷妄から
立ち戻って死に花を咲かせ、ベリルに殉じたジェダイトも少年から男へ
の脱皮を鮮烈に印象附けた。ある意味で生も死も意識することなく呆気
なく消滅したネフライトでさえ、その呆気なさが言葉にできない余韻を
遺した。

宿命に踊らされる男たちのドラマ、こればかりは物語の結末に至るまで
奇跡的に保たれたのである。

両義性も混沌も糞喰らえだ。いつの時代もオレたちが欲しているのは、
鮮烈な物語に打ちのめされる圧倒的な体験なのである。どこかのどなた
さまの、見せかけばかりの警世思想ではない。

豊穣な可能性をもつ物語を圧迫してみじめに窒息させるような、そんな
独り善がりの思想にはだれも共鳴しない。しないからこそ、この物語は
美しく幕を引くことに失敗したのである。

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