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Act.43-1 セカイの中心で我意を叫ぶケダ(ry

そういうわけでふたたび「銀水晶の力を抑える話」である。

比較的わかりやすかった前回の話と比べ、そのちゃぶ台返しに相当する
今回のエピソードは奇妙な論理が横溢している。

前半の最初のクラウンの会話でこれまでの状況説明が為され、銀水晶の
力でも、生気を抜かれた人々を回復させることはできないということが
語られる。

銀水晶のなんでもパワーでサクッと回復しちゃったらお話にはならない
ので、この辺をどうこういっても仕方ない話ではあるのだが、メタリア
の力が枯らした花をプリムンの竪琴が再生できるなら、メタリアの力で
倒れた人々をプリムンの力で回復させることができると、普通なら考え
られるはずだ。

だが、クラウンの会話によれば、銀水晶の力をもってしても倒れた人々
を回復させることはできず、メタリアを倒す以外に方法はないだろう、
そのために最強妖魔を探すことが先決であるということになる。とどめ
にレイちゃんが「メタリアが消えれば、銀水晶の力を使っても問題なく
なる
」という不可解な一言を漏らす。

もうこの会話がすでにわからない。

いったい、何の話をしてんの?

これまでの世界観では、セーラー戦士たちの大同目的とは、世界征服を
目論むダークキングダムを潰滅することであり、よりグローバルな意味
では星の破滅という前世の宿命の再現を阻止することである。それは、
もっと直截にいうなら、クインベリルとクインメタリアを倒すことでは
なかったのか。

それなのに、この会話では「倒れた人々を元に戻す」という目的のため
に最終目標のはずのメタリアの消滅を図る、そのためにまず最強妖魔を
探すという計画が語られている。さらには、メタリアを消滅させること
で銀水晶の力を問題なく使えるようになるというねらいも語られていて
これでは何のために彼女たちが闘っているのかサッパリわからない。

これはつまり、「最強妖魔は銀水晶でしか倒せない」、「銀水晶は必要
な力であり、だから存在している」、「必要なときまで銀水晶の力は使
わない」という前回ラストの結論が根こそぎ否定されたということだ。

前回の結論に沿うなら、最強妖魔を倒すには銀水晶を使う必要がある。
それなのに今回は、前提として最強妖魔どころか一足飛びにメタリアを
消滅させなければ銀水晶は使えないということになってしまっている。

だったら、そのメタリアをどうやって消滅させるつもりなのか。銀水晶
以外の方法で最強妖魔、いや、メタリアそのものまで消滅させることが
できるなら、銀水晶は何のために存在する力なのか。さらに、メタリア
を倒したあとで、何に銀水晶を使うつもりなのか。「必要なとき」とは
いつのことなのか。

ご覧のとおり、文句の附けようがない、完璧な堂々巡りの論理である。

もっと悪いことは、この会話はギャグのつもりで書かれたものではない
ということだ。この場面には笑える要素が一つもない。それは演出者が
ギャグを理解していないからではなく、この場面が笑い事として書かれ
ていないからである。つまり、この矛盾せる循環論理がつくり手に認識
されていない、もしくはその矛盾を剔抉して解消するつもりがない、と
いうことである。

少なくとも、「ダークキングダムを潰滅させる」というより高次な目的
が、「昏倒した人々を回復させる」というより低次な目的の過渡的手段
に内包されてしまっていて、決め手となる力をもたない脇役的キャラク
ターがそれを実現しなければならないということになっている。ちなみ
に、この場合に「高次」「低次」といっているのは階層の別を示す言葉
であって、「大事の前には小事を云々」という価値的高低を指すもので
ないのは、あらためて補足するまでもないだろう。

これはやはり、完全に作劇の階層構造が間違っている。

これを別の作品で喩えるなら、カビビンガの人喰いカビを撃退するには
滝和也ショッカー大首領を倒さねばならないといっているようなもの
である。メ・ギノガ・デの毒に倒れた五代雄介を蘇生させるために一条
刑事がン・ダグバ・ゼバを倒さねばならないといっているのと階層的に
は同じである。

過渡的な困難を克服するために最終目的を達成してしまったなら、その
瞬間に物語が終わってしまう
ではないか。それを脇役たちが成し遂げて
しまったら、主役のやることがなくなってしまうではないか。普通なら
そんな階層構造の混乱した馬鹿げた作劇は避けるのが当たり前だ。

この矛盾がどのような結果を生んだかは、Act.46を視ればわかる。

真の力に目覚めたヴィーナスの攻撃でメタリアの精が抜けた最強妖魔は
五人揃ったセーラー戦士たちの通常の攻撃で消滅し、倒れた人々はプリ
ムンの楽の音で回復したのである。セーラームーンが加わったとはいえ
たしかに今回の前提となっている「倒れた人々を回復させるためにメタ
リアの消滅を図り、まず最強妖魔を追う。然る後に銀水晶の力を使う」
という筋道のとおりになっている。

だが、最強妖魔はメタリアの精が抜けたから倒せたのだし、倒れた人々
を回復させるために便利にプリムンの力が用いられている。最強妖魔を
倒すという目的は達したものの、メタリアは消滅させられなかったので
あり、メタリアが健在であるにもかかわらずプリムンの楽の音で被害者
は回復している。また、プリムンの力が平和裡に活用されていて、今回
の話の前提となる、プリムン≒銀水晶の発動を抑えねばならないという
問題がどこかへ行ってしまっている。

もう、何が何だかサッパリわからない。

メタリアの力が最強妖魔の形態をとっている間だけ銀水晶の力は妖魔の
力に対抗できなかったということなのか。では、最強妖魔からメタリア
を追い出したヴィーナスの力は銀水晶より強力なのか。メタリアの精が
抜けたあとの最強妖魔はいったい何なのか。自然発生妖魔自体メタリア
の力の増大による非意図的生成物ではないのか。

その自然発生妖魔の一種である最強妖魔がメタリアのヨリマシとなり、
さらにそのメタリアの力が銀水晶の力と等しいという理由で最強妖魔の
口からうさぎの声が洩れるという描写がある。その最強妖魔の存在が、
銀水晶の力による人々の回復を妨げているということなら、廻り廻って
銀水晶の力が銀水晶の力を抑えているということになる。

さらに、銀水晶と相同の存在であるメタリアが抜けたあとの最強妖魔は
セーラー戦士たちの攻撃に敗れて消滅し、最強妖魔が消滅することで、
銀水晶の癒しの力が人々を回復させるとなると……みんな、大丈夫か、
ちゃんとついて来てるか?(木亥火暴!!)

要するに、これがアリなら何でもアリだということだ。

他のどんな筋道よりも、この筋道は混乱に盈ちていて超越力が恣意的に
意味附けられている。ある意味、最終兵器の銀水晶が発動してめでたし
めでたしというご都合主義的解法よりも、もっとタチの悪いご都合主義
である。なぜなら、現状における銀水晶の扱い方は、「わからないよう
に混乱させることでズルしている」からである。

ヴィーナスの力がメタリアを追い出したことについては、プリムンの力
なら難なく最強妖魔を消滅させられたが、あまりにも強大な力であるが
ゆえに制止された、真の力に目覚めたヴィーナスの力は「ええ具合に」
強くも弱くもなかった(木亥火暴!!)、またはものの弾み(木亥火暴!!)、
もしくは転んだ瞬間の打ち所が悪かっただけ(木亥火暴!!)、と解釈でき
ないこともない……よな?(木亥火暴!!)

だが、そうすると、そんなに強大な破壊力を具えるプリムンなら、その
破壊の力に比例して癒しの力も強大なはずで、最強妖魔を消滅させられ
るくらいの力があるなら、最強妖魔の存在に癒しの力を妨げられたのが
不自然である。

要するに、どう解釈しても矛盾が残るのである。

じゃあ、思い切って百歩も万歩も譲ってみようか。そんな細かいことを
いったって、何だかハッキリわからない力と何だかハッキリわからない
存在についての差し引き計算なんか合わなくて当然だ、肝心なことは、
物語の描写として不自然であるかどうかなんだ。

まあ、そういう大前提で考えてみようか。そうすると、そもそも何だか
ハッキリわからないが不自然な感じを受けて気持ち悪いから細かいこと
を考えているのだ
という事実にハタと逢着するのである(木亥火暴!!)。

以前少し触れたが、人間には物事のとらえ方の大本となるマトリックス
のようなものがある。大きいか小さいか、強いか弱いか、どちらが先か
後か。大小強弱の釣り合いの感覚、因果の序列の感覚。何だかハッキリ
わからないものを扱う場合でも、このような先験的な感覚に逆らうよう
な扱い方は、ハッキリ不自然な印象として残る。

もちろん、じっさいにはそのような自然なとらえ方に逆らう現象という
のは存在する。量子力学や先端物理学の思考モデルが、門外漢には理解
しにくいのは、そのような人間の自然な思考の型に逆らうような極小と
極大のレベルの奇矯な事物のふるまいの記述であるからだ。

だが、物語というものはそうではない。先端物理学の知見を用いる場合
でも、それを語るナラティブは自然な思考の型に沿って展開される必要
がある。先端物理学の知見を専門家以外には理解できないようなかたち
で語るのでは、それはすでに物語と呼べないだろう。

文芸とは、プランク定数やハッブル定数の支配する世界ではなく、日常
的な条理の支配する巷を描くものである。自然なもののとらえ方という
万人にゆるやかに共有されている最低限の条理を無視したら、そもそも
語り物が成立しないのだ。

物語において、超越力のような何ら明確な規定がなされていないものを
扱う場合には、受け手が共有できるかたちで自然な筋道を附けてやらね
ばならない。そうでなかったら、何だかわからない力なんだから何でも
アリだということになる。

これだって、何でもアリでどこが悪い、所詮ファンタジーなんだから、
条理も筋道もアルカイダ、と開き直ることもできよう(笑)。

しかし、魔術や超能力などの超越力、すなわち架空の力学を前提とする
ファンタジーという文芸ジャンルが、実はガチガチの考証派のジャンル
であるというのは、ファンタジーの歴史を辿れば自明のことであって、
「ファンタジーなら何でもアリなんですよ」「何でもアリだから何でも
できるんですよ」と、つくり手自らが誤解している作品ほどつまらない
ファンタジーはない。

そんな初歩的な誤解をするつくり手は、ファンタジーだの幻想文学だの
という前に、そもそも物語の語り手としての研鑽を積んでいないとしか
言い様がない。超越力がアリとされる世界観においては、普通の日常を
描く場合なら自然に感得可能な筋道上の必然性を、つくり手の側で規定
してやる必要があるのだ。

たとえば主人公が魔法を使える場合、その魔法の性質や限界が何ら規定
されていないとしたら、彼もしくは彼女をピンチに陥れるにはどうすれ
ばいいのか。クリフハンガーの言葉どおり、崖からぶら下げるか。魔法
で助かりました。吊り天井の罠に落とすか。魔法で助かりました。恋人
が殺されました。魔法で生き返りました。

これでは物語が成立しない。なぜなら、何ができて何ができないという
ことが明確に規定されていない超越力がアリなら、物語がどう転んでも
不自然に感じる
からである。何でもできるなら物語上の困難はいっさい
設定できないし、何かができない場合はなぜそれができないのかという
理由附けがないため不自然に感じるからである。

主人公を崖から落として読者をハラハラさせておきながら、その解決が
呪文一発空を飛んで危地を脱するなどというストーリーだったら、普通
の読者はバカにするなと怒り出すだろう。また、魔法を使わずに他人に
助けられたとしても、なんで魔法で切り抜けなかったんだと、これまた
怒り出すだろう。要するに何をどうしたところで物語は成立しない。

何でもアリというのはそういうことだ。人間の物語はできることとでき
ないことが明確に規定されているからこそ成立するのだ。生身の人間は
空を飛ぶことができないのが「当たり前」だからクリフハンガーが成立
するのである。日常的な感覚として共有されている「当たり前」を前提
としないジャンルでは、何をもってその作品世界の「当たり前」と規定
するかが作劇上重要
なのは当然なのである。

少なくとも、ファンタジーを文芸として語る場合には、この前提を共有
していないと、ジャンルの体系を一から浚って説明するという、不毛な
労力を強いられる。

ファンタジーの巧拙は、その世界内で通用する拘束要素の体系の美しい
整合によっても量られるのである。この前提を共有しないなら、それを
ファンタジーという文芸ジャンルとして論じることができなくなる。

それが証拠に、超越力の位置附けを曖昧な混沌に放置したことで、この
物語は筋のとおったストーリー展開が不可能となっている。たとえば、
最前指摘した「銀水晶が人々を蘇生させられない」という物語上の困難
の提示は普通なら当たり前のエピソード構築法であるが、設定面の混乱
を受けて、合わせ鏡のような自己言及の重層のゆえに不自然な感を受け
てしまう。

物語を構成するそれぞれの要素が個別のものであること、甲と乙が対立
的な概念であること、甲と乙が相同であること、等質であること、同一
であること、この辺の事情を安易に錯綜させると、何を語っても不自然
なものになってしまう。

やはり、この概念的混乱には白倉が重要な役割を果たしていると視るの
が妥当だろう。白倉の作劇思想には混沌と多義性を混同しているという
致命的な欠陥がある
。さらに、白倉のイメージする混沌は太乙的な全体
性とは懸け離れたものであり、意味成立を阻むという恣意的操作の屹立
したノンセンス
であるというもっと大きな欠陥がある。もっといえば、
文芸的な素養のない白倉が唯一もち得ている井上的方法論は、本質的に
白倉的思想の理想的な実現のツールとしての適性がない

それは井上敏樹の責任ではなく、同床異夢に気附かない白倉の文芸的な
鈍感さにすべての責任がある。白倉が「テレビ番組」「特撮ヒーロー番
組」を文芸の文脈で語る限り、その素養の欠落は指摘されずにはおかな
いだろう。白倉は白倉的課題への文芸的アプローチの死屍累々の歴史を
いっさい識らないとしか思えない。

単純で美しい物語の一義性を否定するために意味成立を阻むための恣意
的操作を加えるというアプローチは、早々に放棄された原始的な方法論
なのである。なぜ放棄されたのか。それは、そんなベタなことをしたら
物語が破綻するから
であり、人々が本質的に求めているのはまず第一に
意味構造としての物語であって思想の実践ではないからである。

何かのために物語を破綻させるのは、本質を見失った愚か者の発想だ。
破綻させずに何かを成し遂げねばならないからそれは難しいのだし、試
みる価値があるのである。そうでなかったら今ごろストーリーテリング
の主流はダダやシュールレアリスムになっているはずだが、むしろ逆に
それらは意味構造としての文芸のエレメントの一つとなっている。

とまれ、意味成立を阻む操作としての矛盾せる設定は順調に物語を破壊
している。オレが今回のエピソードを観て感じたこと、それは、もはや
大筋の流れを条理に沿ったかたちに軌道修正することは不可能であると
いう残念な結論だ。

これ以降、劇中の人物が何のために今このような行動を起こしているの
かをまともに考えることは空しくなる。それは必ず矛盾しているのだし
それは必ず滑稽なノンセンスである。もちろん、人間のふるまいは矛盾
に盈ちているのだし、一義的なものでは決してない。だが、現実世界に
おける人間の営為はノンセンスな混沌ではなく多義的なのである。

人間のふるまいを視る場合に重要な尺度は、多義的な視点なのであって
混乱や意味否定ではない。ある条理そのものが矛盾し混乱しているので
はなく、同時に真である複数の条理が一人の人間に混在しているという
だけのことである。条理そのものが矛盾・混乱している場合は、一般的
にオーセンティックな意味での狂人と呼ばれるのであり、物語は狂人の
痙攣的なご乱行をおもしろおかしく描く暇つぶしでは断じてない。

同様に、社会的現実もまた混沌の直中にあるのではなく、複数の条理が
同時に真であるという多義的な状況のなかにあるのであり、これを混沌
と表現することは、複雑で錯綜した概念構造は皆ひとしなみに出鱈目で
ノンセンスであるという雑駁な基本認識を露呈する。

白倉のいう混沌がそのような多義的状況を指すのであれば、その場合、
重点がかかるのは「同時に真である」条理の混在という部分であるはず
なのだから、言説自体の埒内では無矛盾で成立する複数の条理を規定し
なければ、世界の記述として説得力がない

一義的な条理に後附けで矛盾を生じさせるという操作なら、だれだって
簡単に可能だからであり、それは「思い附き」の域を出ないからだ。

もしかして白倉の脳裏には中里介山大菩薩峠国枝史郎の諸作のよう
な、一方的にスプロールする物語構造のような原イメージがあるのかも
しれないが、そうだとすれば、やはりそれはその種の物語の本質的構造
を見誤っている。

それらの物語群は意味否定の混沌に回帰しているのではなく、意味性の
自律運動に基づいて、カスケード的な複雑系を現出しているのであり、
自律運動の方向性が開放端になっているだけで白倉の思想とはまったく
極性が違う。

味噌と糞はやっぱり違うものなのである。

今回以降のストーリーがなぜ破綻しているのかといえば、設定面に内在
する意味否定の操作によって、どんなドラマの成立も不可能になったか
らである。うさぎ≒プリムン≒銀水晶≒メタリアという曖昧に遍在する
「わたし」一者しか存在しない世界内で、闘争の物語はおろか普通一般
にいうドラマすら成立し得なくなった。要するに、この作品世界は曖昧
に揺らぐ主人公の心象世界にすぎないからである。

それは白倉が最も忌み嫌う「わたし」という一元的原理ではないのか。

わたしのなかの日常、わたしのなかの慈愛、わたしのなかの怨念、わた
しのなかの邪悪。この世界には、だれだともわからない、世界によって
規定されることのない、貌のない「わたし」の諸相しか存在しない。束
の間惹かれ合い、葛藤し合う、「わたし」という曖昧な一者。

世界はわたしを愛し、わたしに愛され、わたしを踏みにじり、わたしに
よって滅ぼされ、そして。

わたしによって再生される。

最前の矛盾せる論理が、あの最終回を先取りしていることはいうまでも
ないことだろう。銀水晶の力を使うことなく敵は倒れ、メタリアを倒し
た「あとで」、銀水晶は世界を滅ぼし再生するために使われる。つまり
Act.46は最終回の雛形であって、メタリアもろとも最強妖魔を倒してい
れば、話はそこで終わったのだ。しかし、メタリアのヨリマシが地場衛
に替わったから星の破滅というオマケが附いてきたのである。

「わたしを愛し、わたしが愛する者」である地場衛は、メタリアという
「わたしのなかの邪悪」と一体化し、それを殺すことで、うさぎという
「わたしのなかの日常」は消失して、プリムンという「わたしのなかの
怨念」が、その殺害を自身に強いた世界に復讐を果たす。

しかし、月のプリンセスの衣裳を纏ったうさぎという「わたしのなかの
慈愛」が世界の非道を赦すことで、「わたし」と世界は和解を果たし、
世界は再生し、銀水晶は消滅する。そして銀水晶という非日常への媒介
物を喪うことで、「わたしのなかの日常」は回復されるのである。

これはつまり「セカイ系」と呼ばれるジャンルそのものの構造ではない
のか? 数々の可能性の芽を摘み、徹底して施された意味否定の操作が
実現したのは、つまるところ若者世代の大好物の「セカイ系」の甘やか
な心象世界だったのか。

笑っちゃうね(木亥火暴!!)。

骨太な人間ドラマの意味性を否定するために、白倉が大真面目に加えた
操作によって実現したのが「セカイ系」だという事実、これは嗤われて
然るべきだ。なぜならそれは、白倉の心性に潜む情緒的な思想の動機が
「セカイ系」と根を同じうしているという事実の表出だからである。

思想には必ず情緒的な動機がある。だからそれ自体は恥ずべきことでも
何でもないが、それが「セカイ系」なのはちょっと恥ずかしい(笑)。

白倉の思想を特徴附ける奇妙な傍観者性、もしくは非当事者性、意志的
選択の不在という性格の正体は、これなのかもしれないな。世界とは、
「わたし」によって視られ、操作を蒙るものである。世界をかたちづく
るもの、それは秩序であり、秩序とは「わたし」を見据え、操作しよう
と「わたし」を侵犯する力である。しかし、「わたし」は「わたし」の
外部からの視線も操作も拒絶する。ゆえに「わたし」は、反秩序として
の混沌が世界を領することを好む。

しかし、その混沌を正当化する論理とはその実「わたし」の視線と操作
による秩序立てに他ならない。忌避される秩序とはその実「わたしでは
ないだれか」の秩序でしかない。ここでいう混沌とはその実「わたしで
はないだれか」からの視線も操作も拒絶する恣意性の屹立でしかない。
秩序という言葉に置換されているのは「わたし」を見つめ拘束しようと
力を及ぼしてくる第三者的な既製原理の謂いなのである。

白倉の思想が宣揚する混沌とは何か。それは「わたし」が世界を見つめ
論評するのであって、世界が「わたし」を見つめ論評するのではないと
いう拒絶の意志である。この白倉的な「わたし」という一元的原理は、
容易に「セカイ系」へと接近するのである。

この感覚は、いってしまえば非常に若い。自分たちが意志的に承認した
わけでも実感的に理解したわけでもない既製の一般原理を一方的に強制
される若者の不安や反撥に近い感覚である。この感覚は、昨日今日発生
した現代的風潮ではなく、自分ではないだれかがつくった既存の世界を
一方的に受け渡される若者という世代層一般に万古不変に存在する感情

である。

だから、「混沌をあるがままに」云々という白倉のメッセージをうんと
簡単にいってしまえば、「おとなのいうことなんか信用するな」という
ことである。尤もらしい理論武装は、そのメッセージの尾崎豊的な若さ
を剥き出しにしないための虚勢でありカモフラージュにすぎない。

若者は、自分たちにとって快い世界の招来を切望してはいるが、他人の
つくった手垢の附いた世界なんか引き受けたくないものであり、それで
当たり前の存在なのだ。若者がいつか「おとな」と呼ばれる存在になる
のは、いやいやながらもお下がりの世界を引き受け、引き受けたからに
は自己責任に基づいて世界と関係していくからである。

だが、白倉ヒーローは世界なんか引き受けない。世界は未だ「おとな」
のものであり、所詮は他人事である。彼らは「わたし」というそれだけ
は自分のものである実感を頼りに世界を手探りし、「わたし」の問題を
中心とした闘争を闘い、「おとな」のものである世界はその結果として
勝手に変質していくのである。このような世界認識はまさに「セカイ」
と呼ばれる概念と通底している。

それは、「おとな」の世界への参画を未だ拒絶されながら「おとな」の
世界原理を強制される若者の感情にマッチした作劇である。若者はいつ
だって「おとな」たちがつくった未だ発言権を認められない世界を圧し
附けられる存在なのだし、是非はともあれ感情の問題としてそれがいや
でないはずがない。

白倉自身が平成ライダーを愛好する若い世代から支持を受け、ヒーロー
視される理由の一半はこの辺にあるのではないかという気がする。白倉
のヒーローは「おとな」たちのつくった世界に無関心であり「おとな」
たちの正義に無関心であるのに、彼らの活躍によって「おとな」たちの
世界は大きな変質を余儀なくされるのだ。

そしてそのような作品をつくるために、白倉は「おとな」たちに対して
ときに嘘を吐き、ときに恫喝し、ときに恭順したフリをしてみせる計算
尽くの「したたかな子ども」を演じている。

若者はいつでも「おとなを翻弄する子ども」を英雄視するものなのだ。

……まあ、これは「印象批評」だから論証はしないがね(木亥火暴!!)。
オレは別段、白倉から×もらっても恥ずかしくないから(木亥火暴!!)。

さて、久しぶりに大好きな白倉をお腹一杯語ってカラダがあったまった
ところで、本格的にエピソードを視ていこうか(木亥火暴!!)。

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