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Act.44-1 抗争の刺客

さて困った。

前回ラストの小競り合いを引き継いで、アバンからすでにイヤな対立
激化している(笑)。なぜ「イヤな対立」であるかというと、それは政治
的な臭いがする
からである。

その根底には、レイちゃんの美奈子への思い遣りがあるのであり、前回
の戦闘場面でも「もう戦いには出てこないで。いったでしょ」「だから
いったのよ
」と病魔に冒された美奈子を再三気遣っている。その戦闘を
終えた時点でいきなりレイちゃん対美奈子の対立の構図となって、レイ
ちゃんが美奈子のリーダーとしての資質を疑うというかたちになる。

これが何とも「クーデター」的なイメージで後味が悪い。もちろんレイ
ちゃんの底意としては、リーダーとして不適格の烙印を押すことで、他
のメンバーに気附かれずに美奈子を戦線から離脱させようという善意が
あるわけだが、クラウンでの「総会」で大勢が逆転してレイちゃんが逆
に放逐される、という成り行きが、どうにも「対抗勢力を鎮圧」めいた
政治臭を醸し出す。

前回ラストの時点で、美奈子が戦士の力に目覚めていないという疑惑が
唐突に暴露され、結論からいえばたしかに美奈子は戦士の力に目覚めて
いなかったのだから、レイちゃんのほうが「仲間だったら嘘は吐かない
」と美奈子の痛いところをグイグイ突いていたはずだ。だがクラウン
の総会では、いつの間にか論点が前世の使命を巡る認識にすり替わって
いて、レイちゃんを弾劾する話になっている。

悪いことに、これが妙に政闘の論理としてリアルなのである(笑)。

わたしがリーダーなのは、前世から決まっているの」という美奈子の
自己弁護をレイちゃんが「前世のために闘ってるんじゃないわ」と一蹴
する、その言葉尻をとらえて美奈子がレイちゃんの前世の使命に対する
認識を論点にすり替えたのだとしたら、まさしくこれはセクト内の勢力
争いのレトリックそのものだ。

弱みを突かれてリーダーとしての資質を疑われた者が、主導権が自分に
所在する正統性を主張する。対抗勢力がその正統性に疑義を挟んだこと
イデオロギー的な歴史認識を厳しく問い、逆に不適格者としてセクト
から排除する。これは政治闘争そのものだ。あの国やその国でじっさい
にちょっと前まで、あるいは今現在も闘われている政治闘争の論理その
ものである。

だからここは描写として良くないんだ、という結論にはならないだろう
が、なんというか、クラウンに参集したメンバーが妙に遠く感じられる
描写ではある。

美奈子が大勢を味方に附けて造反者のレイちゃんを排除したように見え
るのが、何とはなくうそ寒く感じられるのだ。前世肯定派のまこちゃん
は美奈子寄りだし、ルナはレイちゃんのラジカルな前世否定に賛同する
わけにはいかない立場である。残る亜美ちゃんは対立的な場面において
どちらの言い分も理解しようとする、悪くいうなら旗幟不鮮明な性格の
ゆえに、ハッキリどちらかに附くということができない。

これは前回ラストの対決場面と今回クラウンのそれとの構図の違いにも
表れていて、前回は四戦士から離れて立った美奈子に対して、他の三人
を背後にとったレイちゃんが、不敵な表情を浮かべ挑発的に糾弾すると
いう構図になっている。しかし、今回のクラウンでは、新来者の美奈子
とレイちゃんだけの会話でレイちゃんの排除が決定され、その間、他の
三人は着席したままで、レイちゃんが戸口へ向かってからようやく立ち
上がって美奈子と横並びの位置関係になる。

ここは鈴村の手柄といってもいいだろうが、セーラー戦士たちの内訌に
おける各自それぞれの立ち位置や前回と今回のシチュエーションの違い
を、ビジュアルとしてわかりやすく映像化している。

レイちゃんの排除それ自体には「やりすぎ」の声も上がったが、大勢の
認識としては美奈子寄りであり、レイちゃんがなにゆえ前世を忌避する
のか理解に苦しんでいる。それはもちろん美奈子が前世に囚われていて
現世を生きようとしないことに対する苛立ちがレイちゃんの前世忌避の
動機となっていて、それは他のメンバーに明かせることではないからで
ある。ある意味、美奈子はレイちゃんがそれを明かさないことに乗じて
言い募っている
のだ。

そういう意味で、アバンにおいて美奈子を糾弾するレイちゃんの「その
間に、やることがあるでしょう
」「仲間だったら、嘘は吐かないわ」と
いうダブルミーニングはダイアログとして冴えてはいるのだが、最初の
最初からセクト内抗争的な性格になって、例のまこちゃんの自爆攻撃に
繋がる流れが控えているわけだから、あまり良い印象ではない。

ぶっちゃけ、セーラー戦士団が極左テロ集団か組織暴力団みたいに見え
てしまう
んだな(木亥火暴!!)。

それに、今日になって初めてクラウンに来た美奈子が「ここにいる必要
がないわね
」と言い放つのは、ちょっと図々しいだろう(木亥火暴!!)。
しかもその直前、レイちゃんとまこちゃんが前世を巡って議論している
最中に、レイちゃんに追求されまこちゃんが口ごもったのを後押しする
かたちで登場するのが、なおさら悪役度を高めている(木亥火暴!!)。

レイちゃんの舌鋒は若干鋭すぎるし、ラジカルに前世を全否定しすぎて
いるが、元基のことで追求されて口ごもるということは、明らかにまこ
ちゃんのいう「前世を受け容れているんだよ」というセリフは、その場
しのぎの詭弁
である。その辺の脈絡をよく識りもしないはずの美奈子が
いきなりまこちゃんの詭弁を「そのとおりよ」と後押しするのは、自分
に都合が良ければだれとでも合従連衡かよ
、というツッコミを逃れられ
ないだろう(木亥火暴!!)。

要するに、論旨の内容はどうでもよく、自分にとっての利害という基準
で他者を量る人間だという印象が、初っぱなから強烈に印象附けられて
しまうのだ。文脈はどうでもいい、「前世を受け容れているんだよ」と
いうフレーズが、大筋自分の考えに合致するものだから賛同したという
見え方になる。その場において自分の側に附きそうな人間を無定見に後
押ししたわけで、この遣り口がはなはだ悪役くさい(木亥火暴!!)。

そこから、新参者のくせに大勢を味方に附けて造反者を尋問するような
ノリになるわけだし、戦士の力に目覚めていないというのが事実であり
それを理由に糾弾してきた者を排除するということなら、レイちゃんを
排除することには名分がない。リーダーのポジションを守るという個人
的な動機
で対抗勢力に反撃したような見え方になる。

もう、悪役街道まっしぐらだな(木亥火暴!!)。

そして、レイちゃんの孤立と美奈子とまこちゃんの接近という事態は、
Act.41から続くレイちゃんとまこちゃんの対立の延長上にある状況では
ある。レイちゃんの視点でいえば、まこちゃんの言葉に苛立つのは本当
は美奈子の姿勢に想いが及ぶからである。その意味では、レイ対まこの
対立構図のなかに美奈子が割って入った場合に、このような事態が出来
するのは当然の帰結ではある。

ただし、レイちゃんが指摘したように美奈子が今を受けとめていないと
して、まこちゃんの「一人でいいんだ」も詭弁であるとして、その前段
の「わたしが前世を受けとめていないなら」もまた事実なのである。

以前陳べたように、まこちゃんとレイちゃんの対立には違和感を覚える
し、今回の美奈子の役回りが政治闘争におけるまるっきりの悪役である
というのも芸がないと思うが、ここで提起されている問題そのものは、
それなりに筋がとおっていると思う。

きちんと過去に決着を附けない限り現在はない。そのような機微を語る
ために、前世を全肯定することも全否定することも同様に誤りであると
する視点はバランスがとれている。問題は、そのような構図を現出する
ための手順が野暮ったい
ということだが、その一方で、これまで美奈子
とレイちゃんの対立が巧みに描かれたことは一度もないのだから、その
ような意味では一貫しているという言い方もできる。

いつもどおりの上っ面のぶつかり合いと作為的な理由附けがくり返され
ただけ、今さら何を事新しく騒ぎ立てる必要があるのか、と。

物語が語り終えられた時点では、すでに語られたものがすべてである。
「たら」も「れば」もあり得ない。要するに、この二人は顔を合わせれ
ば感情的にぶつかり合う喧嘩友だち「だった」ということである。

今さら、「本当は」も「本来なら」も「べき」もへちまもないのだ。

ただ、ときどきファン同士のコミュニケーションにおいて上記のような
筋道を挙げて「今さらどうしようもないんだから、文句をいうな」的な
趣旨の意見を目にすることがあるが、これは本末転倒である。「今さら
どうしようもない」結果を出してしまったことは、本来批判されて然る
べきなのだが、批判しても済んでしまったことそれ自体が変わるわけで
はないと諦める者が、その自由意志においてあえていわないというだけ
の話である。

「今さらどうしようもない」「済んでしまったこと」に対して何も発言
しなければ、それを肯定したことになる。その結果「今さらどうしよう
もない」「済んでしまったこと」が拡大再生産される
のである。それに
対して何かをいったところで何も変わるわけではないと思うなら、そも
そも作品に対して何かを願うこと、願いを込めて何かをいうこと自体が
無意味である。

今、この場において、将に「済んでしまったこと」に対して意見をいう
のは、決して無駄なことではない。今、この場において立ち会った作品
に対して何かをいうということは、今、この場ではない将来のどこかに
おいて立ち会うかもしれない、この作品と同じくらい自分を惹き附ける
かもしれない作品に対し、それがどんなに僅かでも自分に許される限り
の参画を果たす行為である。

少なくともオレはそのように信じるからこそ、もう済んでしまった番組
に対してコメンタリーしているのである。そのように考えているから、
今さら「たら」も「れば」もあり得ない、このようなものとしてすでに
描かれてしまった二人の少女のこれまでを惜しむのである。

やはりこの番組で最も惜しまれる描写上の失敗は、レイちゃんと美奈子
の対立構造を、後半の作劇上の軸として確立することができなかったと
いうことであり、これは幾度悔やんでも悔やみ足りない。

非常に感覚的な言い方をするなら、この二人の少女が惹かれ合いながら
も対立する芝居場の空気感、語り口の生理、そうした名状しがたい独特
のドラマの場が、ついに成立することなく終わったのである。

たとえば、タイムレンジャーの竜也と直人やドモンとアヤセという対立
関係を思い浮かべてもらえばわかりやすいだろうが、彼らの場合、対立
軸となる要素も対立の芝居場の空気感も、それぞれの関係に沿って明確
に確立されていた。個々の人物固有の信念や性格、動機に基づく言動が
無理なく描かれ、そのうえでそれらの総合として在る人物同士の対立が
自然に確立されているのである。

竜也なら竜也、直人なら直人として物語世界を生きる人物の、彼が彼で
あるがゆえに、それと相容れない個性と激しくぶつかる行動原理が無理
なく設定され、さらには二人の人物が相対峙する場面のドラマ的な場が
独特の空気感を伴って成立していた。

今さらおさらいするまでもなく、レイちゃんと美奈子の場合、まず彼女
たちの行動原理が曖昧であり、それゆえに対立軸も明確ではない。現状
で判断するなら、思春期の少女にありがちな、「虫が好かない」という
無前提の反感とより解釈しようがない。

この辺の事情は、最低限、「未熟な成人」として括ることが可能な戦隊
ヒーローと、「未熟な少年」として括られるセーラー戦士たちとの年齢
的な差異も考慮に入れる必要があるかもしれないのだが、要不要の問題
をいうなら、物語の足を引っ張るような無駄なアクチュアリティは不要
である。

作劇の観点からいうなら、戦隊ヒーローとセーラー戦士の人物像構築に
関しては、年齢的な事情の違いなどない。ローティーンの少女の人格が
未だ固まりきっていない、未熟なものであるというアクチュアリティを
過剰に考慮するなら、このような形式の物語を語る場合には、人物像の
同一性を確保することができなくなってしまう。

オレがこれまでレイちゃんをはじめとするキャラクターの描写に対して
度々指摘してきたのも、このような同一性に関する問題である。まして
レイちゃんや美奈子に関しては、ある種非凡な事情を抱えるヒロイック
なキャラクターなのであるから、人物像の同一性、さらには行動原理の
一貫性が重要なファクターとなる。

その人物像の同一性や行動原理の一貫性が、結果的に何一つ見出せず、
これまでの言動が一種の激しやすい気性一本に拠っていたと意味附けら
れてしまったのが、レイちゃんの描写における最大の問題点であろう。

体質、気性、性格傾向、このようなアプリオリな属性は出発点にすぎな
いのであって、両親からの二重の遺棄や迫害から得た憎悪によって人格
と行動原理がかたちづくられ、それが他の戦士たちとの出逢いや父親と
の和解によってどう変わるのかという、流れを貫く同一性・一貫性こそ
が作劇的に重要なのである。

彼女たちの人物像が劇的に変貌するのだとすれば、それは作劇の流れと
行動原理のぶつかり合いにおけるダイナミズムとして無理なく表れねば
ならない。大人ぶってみたところで所詮は中坊なんだから、という意識
をわずかでも抱いたなら、彼女たちの描写は失敗する。

この作劇的要請に関しては、年齢的なアクチュアリティなど、いっさい
言い訳にならない。中坊を主役に据えたヒーローものだから行動原理が
コロコロ変わるのだというなら、それは必要とされるリアリティの位相
を意図的にずらす同人誌的特撮パロディの発想である。

他方、レイちゃんと比較すれば多少同一人格としての行動原理が明確な
美奈子ではあるが、美奈子がレイちゃんに反感を抱く機序は、必ずしも
明確ではない。

それは、「これこれこうだから反撥を覚える」というような理由が明確
ではないという意味でいっているのではない。特定のキャラの人物像が
直観的に明瞭に語りきられている場合、そのようなキャラ同士の対立に
必然性があるのなら、受け手はその間の機序をあえて言語化するまでも
なく、そのようなものとして包括的に感得し得心するのである。

だが、おそらく現状のレイちゃんと美奈子の関係は、この二人の人物像
と関係性に類縁の現実の人間関係を体験した人間にしか自然に得心でき
ないだろう。つまり、レイちゃんと美奈子「のような」現実の人間は、
劇的必然性などなくても対立することはあるのだし、そのような実例を
現実に見たことのある人間にとっては、それだって十分に本当らしいと
いうだけの話である。それはドラマを検証する視点とは関係ない個別性
の高い実感なので、この際、脇へ除けておこう(笑)。

いや、話の腰をボッキリ折ってまでこういう先手回しをわざわざするの
は、こういう話をすると必ずといっていいほど「いや、オレの学生時代
にこれこれという知人がいたんだけど…」という昔話を始める輩がいる
からなんだが(木亥火暴!!)。

少なくともこの作品のこの二人の関係においては、「何だかわかんない
けど顔を見ると腹が立つ」ではお話にならないということだ。以前にも
触れたように、この二人はセーラー戦士団では最も強いキャラクターを
もつ組み合わせである。親に遺棄され憎悪を抱えて生きてきた少女と、
死病に蝕まれ命を削りながら闘う少女。こうした強いキャラクター同士
の対立する理由が、「何となく虫が好かない」という「だけ」であって
いいわけがない。

やはり、互いに相容れない者同士の峻烈な生き様が、どうしようもなく
惹かれ合い、ぶつかり合うのでなければドラマが成り立たない。しかし
今現在このように描かれているレイちゃんと美奈子の人物像には、明確
な対立軸が想定できない。

こういうふうにいうと、「いや、レイちゃんは美奈子の身体を気遣って
いるし、美奈子はレイちゃんの実力を買っている。その一方で、前世と
現世を巡って対立もしているじゃないか」と思われる方もあるだろう。

だが、そういう条件附けをいったん取り払ったらどうだろう。この二人
の人物に惹かれ合いぶつかり合うような接点が見出せるだろうか。現在
二人が対立しているのは、美奈子の病状を識っているのがレイちゃんだ
けであり、そこからたまたま前世肯定なり否定なりの立場が出来したと
いうだけのこと
である。

しかし、「どうしようもなく」惹かれ合い、ぶつかり合う関係性という
のは、彼女たちを彼女たちと規定する人物像が不可避的に対立軸を抱え
ているということだ。レイちゃんがレイちゃんとして在る限り、美奈子
が美奈子として在る限り、この二人が相反する感情によって不可避的に
分かち難く結び附くのでなければ、為にする作劇でしかない。

ところが、レイちゃんと美奈子には本来対立軸などないのである。レイ
ちゃんのスタート当初の人物像から考えれば、美奈子とは言葉を超えた
信頼関係を築くことはできても、対立関係にはなりにくい。そこを本筋
に捉えるならば、表面上の遣り合いくらいはあって然るべきだろうが、
本質的な対立関係とはなり得ない。

立場を異にする者同士の無言の理解というような関係性に発展すること
はあっても、事ここに至ってまでも政治闘争を争い合うような対立関係
を想定するのは不自然である。それなのにこの二人は出逢いの当初から
不自然にいがみ合っており、いがみ合う理由が薄弱であるために子ども
の口げんかのような無様な醜態を晒している。

つまり、「ライバル関係」という前提ありきで接点を設けたため、各自
の人物像と齟齬を来しているのである。今現在この二人が対立している
のは、対立するような現実的理由を設けたからであって、互いに相容れ
ない存在同士だからではない。そのため、とにかく対立させようという
作為が露骨で、不自然な感は否めない。

具体的にいえば、レイちゃんがそれほど前世の宿命を忌避するに至った
機序が不明である。Act.36のラストの「こんなことも前世から背負って
きたことなの?
」という美奈子への問いかけの「こんなこと」が現実の
映像表現として不十分となってしまったこともあるし、所詮それは前世
の宿命に拘る美奈子に対するカウンターとしての意志
でしかない。

また、美奈子が手術を拒む心理が前世の使命によって正当化されないと
いう部分についても以前触れたとおりなので、美奈子の病態を気遣うが
ゆえという理由でも今ひとつ得心がいかない。美奈子の病と前世の宿命
の間には、結局因果関係がなかったからである。

つまり、第三者の視点から視て、美奈子が死病を押して闘い続けるのは
前世の使命と直接関係がない。それなのに、もしレイちゃんが美奈子の
身体を気遣うあまり、彼女を突き動かす前世の使命を否定するに至った
のだとしたら、その対立は表面的な事情に基づくものであり、この二人
の本質的な部分がぶつかり合っているわけではないということが直観的
にわかってしまうのである。

もちろん、劇中で設けられた現実的理由が本質を突いたものでなければ
ならない理由はない。だが、本質から外れた事情で設けられた対立は、
過渡的ないがみ合いに過ぎないのであり、本質的な対立とはなり得ない
のである。本質的な対立が成立しない以上、その対立を経由した本質的
な和解や相互理解もまたあり得ない。

しかも、レイちゃんが前世を否定する理由がそれだとすれば、前世それ
自体に対するレイちゃん独自の立ち位置が見えてこない
。対立ありきの
話であって、そこから導き出された立ち位置にすぎないのだ。

他人がこれこれこうしている理由が前世だから前世を忌み嫌うというの
では、他人に対する反感という現実的事情を抜きにした前世それ自体に
対する独自のアイディアが何一つないということになる。

その意味で、レイちゃんが前世を全否定すればするほど彼女の人物像が
安っぽい浮薄なものに見えてしまう。後半の軸となるべきレイちゃんと
美奈子のドラマを構築することに失敗しているだけでなく、レイちゃん
の人物像を、そのドラマによってさらに軽佻に揺らがせてしまっている
のである。

これはやはり、うさぎ≒プリムン≒銀水晶をめぐる概念的混乱に次ぐ、
後半の大きな失敗に算えられるだろう。

さらに、この二人の対立に便宜的に巻き込まれてしまったまこちゃんの
描き方も感心しない。「一人でいいんだ」という結論が嘘も隠しもなく
前世を根拠にした現状肯定だったということについてはもういうまい。

しかし、いかなる理由があれ人間が「一人でいい」なんてことがないの
は普通の常識をもつ視聴者ならわかるわけで、まこちゃんの現状が批判
を前提とした間違ったものであることは、視聴者にはバレバレである。
いってしまえばこれは思春期の愚昧であり、雑な言い方をすれば「愚か
だから過ちに気附かなかった」式の課題設定なのである。

ここから出発して、Act.46の自爆攻撃からの気附きに至るわけだから、
登場人物の愚かさでドラマをつくっていることになる。これがどうにも
薄っぺらい。

オレが従来の小林靖子的人物描写に感心するのは、「愚かだから気附き
ませんでした」式の課題設定をしない部分で、批判を前提とした過ちを
描く場合でも、そうすることに無理がないと思わせる説得力をもたせる
部分であった。愚かだからそうするのではなく、ほかに方法がないから
そうせざるを得ない、そう考えぬわけにいかないというような理由附け
をきちんと行うからこそ、そのような理由附けを超える予想も附かない
智慧によって過ちが正された瞬間のポジティブなカタルシスが得られる
のである。

しかし、「愚かだから間違っていました」式では、視聴者ははじめから
落としどころがわかっている。そのわかりきった落としどころに、いつ
登場人物が辿り着くのかを苛々しながら物語を見守ることになる。これ
ではポジティブなカタルシスは得られない。ある意味「ざまあみろ」式
のネガティブなカタルシスと原理は同じで、不愉快な状態が解消される
ことでネガティブな快感が生じるのである。

これはあまりにも智慧のない作劇である。ある意味、作劇のテクニック
としては常套手段であるこの種のカタルシスをなにゆえオレがかくまで
否定するのかといえば、それが貧しい物語的感興であり、文芸とは極性
を異にするバラエティショー的発想の作劇だからである。

物語のカタルシスというものが、病的な状態からの回復を主要な原理と
していることはいうまでもない。たとえば夜も眠れないほど虫歯が痛む
というとき、一服の鎮痛剤が魔法のようにその劇しい痛みを消し去った
としたら、これほどの快感はないだろう。物語というものは、基本的に
それと同じ原理によって受け手に快感をもたらすものである。

普通の英和辞書を引けば簡単にわかることだが、カタルシスというのは
排便や下剤を意味する言葉である。ウンコが出てすっきりした感じその
ものを指す言葉
である(木亥火暴!!)。もっと抽象的にいえば穢れたもの
を排出することであり穢れによってもたらされた病的な状態が緩解する
ことである。物語というものは、観客の心理に病的な状態を現出させた
うえで、それを緩解させることで快感を生じさせる意味構造なのだ。

その意味では、物語というそれそのものが快感原理に基づいているもの
なのだし、快感原理というものが欲動のダイナミズムを言い換えたもの
にすぎない以上、それ自体を是非で括るのは愚昧な謬見である。人間の
精神活動は、必ず何某かの快感原理に基づいているのであり、「おもし
ろい」という快感を忌避するなら物語など成立しない。

物語における誠意とは、不可避的に具えざるを得ない「おもしろさ」を
どのように意味附けるかということであり、意味性一般が無謬ではあり
得ない以上、物語る主体として何を選択するのかということを自己責任
において明確に表明することである。

つまり、良質な物語における良質なカタルシスは、物語る主体が責任を
もって支持し得る結論を揺るぎなく提示するものでなくてはならない。
その意味で、「まあこの話では、とりあえずまこちゃんはこういう結論
に辿り着いたわけさ」的な曖昧な留保は、オレの感覚では語りの怯懦と
いうにすぎない。物語に内在する快感原理を重要視するなら、意味性を
忌避するのではなく、結論において提示される意味性に責任をもつべき
であり、結論の提示が目的ではなくても最低限責任のもてる結論を模索
すべきなのである。

また作劇技法の問題としては、病的状態からの回復という機序にも巧拙
というものがあって、ただ観客を不快にしてその不快を取り除けば良い
というものではないと考える。不快な輩が酬いを受ける「ざまあみろ」
や愚かな人間が過ちに気附く「わたしがバカでした」式のカタルシスを
煎じ詰めれば、それは不快をもたらす存在に対する応報の原理である。

観客にとって不愉快な人間がわかりやすく懲らしめられたり、観客から
視て明らかに愚かな人間がその愚かさに気附くという筋道は、要するに
その人物がその言動の不快さに相応しい酬いを受けたことによる快味を
もたらす作劇手法である。

だがこの方式では、不快でなくなったという以上の快味が得られること
はない。その貧しい快味を得るためにまず強烈に不快にさせられたわけ
で、快味が得られたといってもその原因が取り除かれただけであるから
差し引き勘定ではどうしたって損をしていることになる。

なぜなら、応報の感覚というものは個々人によって振れ幅が異なるもの
であり、必ずやりすぎるかやり足りないかどちらかでしかないからだ。

理不尽に殴られたから殴り返す。スカッとする人もいるだろうが、人に
殴られる理不尽さに対する憤りを、同じように人を殴ることで解消でき
るのかという問題は残るのである。その視点においては、殴られたこと
の応報が殴り返すであるのは、「やりすぎて」いるのである。

その一方では、理不尽な暴力に晒されることで自分が不公正に扱われた
という憤りを覚える人間もいる。自分を取り巻く世界がそのような不公
正に晒されていることに深く憤る人間もいる。そういう人間にとって、
一発殴られたから一発殴り返すのでは「やり足りない」のである。拳の
もたらす一発の殴打の痛みや屈辱が問題なのではないからである。三倍
殴り返すとか、極端な場合には殺してしまわないと気が済まないという
物騒な人もいる。

応報の力学においては「ちょうどいい」ということなどないのである。
カタルシスの機序を応報の力学に置く限り、病的な状態がちょうどよく
回復されることなどあり得ない。やりすぎてもやり足りなくても、それ
は不快な穢れとして観客の胸裏に留まり続けるのだ。

それはしょうがないんだとするならば、物語の具える意味性には責任を
もたないが、応報の感覚にだけは責任をもつということになる。「オレ
なら三倍殴らないと気が済まない」「三倍殴ればスカッとする」という
ことには責任をもつが、その状況を現出するに至った意味的な内容には
責任をもたないということである。

意味的な価値判断を捨象して快感のポテンシャルのみを提示する。これ
はつまり、白倉が忌避するコマーシャリズム的な文脈における快感原理
の図式「そのもの」ではないのか?

オレはとうていこのような雑駁な認識に基づく物語を評価することなど
できない。カタルシスには「浄化」という意味もあるのであって、物語
によって観客の心理にもちこまれた穢れを巧みに浄めなければ、良質の
カタルシスは得られないのである。その場面において、観客の裡に普遍
的に内在する問題性に対し、語り手が自己責任で意味性を提示する必要
があるのである。

良質なカタルシスとは、穢れが排出されることで、穢れがもちこまれる
以前の状態よりも、観客の心理が浄化されなければならない。過渡的な
プロセスとしての病的な状態の現出が、病的状態の不快を超えて贖われ
なければならないのだ。それは、物語という意味構造が、観客に内在す
る普遍的な問題性に主体的な姿勢で言及することでしか達成されない。

話を、今この場における事例に戻そう。「わたしが間違ってました」式
のカタルシスがなにゆえに良くないのか。これを応報原理とは別の観点
から視てみよう。

たとえば、視聴者のなかにも現実世界の人間関係に疲れていて、「オレ
なんか、わたしなんか、一人でいいんだ」と考えている人間がいるとし
よう。そんな視聴者に対して、まこちゃんの「一人でいいんだ」という
過渡的な結論が共感を呼ぶかといえば、そうではないだろう。

なぜなら、まこちゃんがそう考えるに至った経緯に説得力がないからで
あり、かつは物語のなかで明確に「間違っていることにいずれ気附かさ
れる迷妄」として意味附けられているからである。明確に、もしくは漠
然と「一人でいいんだ」と考えている視聴者には、自分のそんな考えが
他人から視て「説得力のない」ものだとは思えないし、いずれ「わたし
が間違っていました」と気附かせてもらいたいなどと思っているわけで
もないのだから、共感を覚えないのは当然である。

そのような視聴者は、まず第一に自分の考えが無理もないものであると
他者に慰めてほしいのであり、間違っていることに気附かせてほしいの
ではなく、そんなことを考えなくても済むような幸福な状態になりたい
のである。

「わたしが間違っていました」式で扱われているカタルシスの機序とは
実は「間違っている」考えそのものとはまったく関係ないのだ。わかり
きった落としどころに落ち着くまでの苛立ちを収めることで貧しい快感
が生じるのであって、考えそのものは間違ってさえいればどうでもいい
のである。つまり、登場人物への感情移入を基本原理にしているのでは
なく、あるもどかしい状況に対する傍観者の苛立ちを基本原理に据えて
いるのだ。

オレの考える良質なカタルシスとは、同じような悩みを抱える観客が、
ストレートに感情移入できる「無理もない」と思える段取りを組んで、
その登場人物が「そんなことを考えなくても済むような」落としどころ
を用意することである。

良質なカタルシスとは、観客のなかにある普遍的な一部と呼応して病的
な状態に陥れ、その病的な状態から回復させることにより、観客の自身
を取り巻く現実世界に対する見方を変容させてしまうもの
である。一編
の小説や一本の映画に触れることで世界が変わって見えた経験は、だれ
しも覚えがあるだろう。それが物語のもつ最大の効用である。

それは一種、語りの作法の観点からいえば、物語の外の現実に対峙する
ことであり普遍的な問題性に対して信念を表明する行為である。「一人
でいい」なんて考えるのは馬鹿馬鹿しい、間違っているという前提で、
その問題をそっちのけでストーリーを構築するのでは、だれも登場人物
に感情移入などはしない。

こうしたまこちゃんの悩み、過てる過渡的な結論は、だれしも思春期に
覚えのある迷妄である。そんなのが間違っていることは、大人ならだれ
だってわかっているのである。それを粗雑に扱って「間違っている」と
いう前提で雑駁なカタルシスを仕組むことは、大勢の視聴者が抱いてい
る思春期の記憶をニヒルに弄ぶ行為である。

そしてまた、こうした機微を初めて目にする子どもたちに対しては実感
を伴わない言葉として「一人でいいなんて間違っている」という教条的
な結論を圧し附けることになる。試みに想像してみるがいい。「一人で
いいなんて間違ってるんだよ」と賢しらげに嘯く子どもは、十中八九、
そのような迷妄に陥る心理に対して理解がない。人に去られる淋しさに
耐えかねてそのような「間違った」考えに縋り付く他者の痛みはわから
ない。わかる者とわからない者、この二項対立は埋まらない

物語とは、そんな淋しさをいっさい味わったことのない人間にも、同じ
ような痛みを感じさせ、それを救済してみせることで、二項対立を解消
する効用をもっている。物語とは優れた作品であることそれ自体が力を
もつ意味構造なのである。「わたし」が「あなた」ではなく、いわんや
「彼」や「彼女」でもないという主観の断絶を贖うという優れた効用を
もつ意味構造なのである。

もしも物語が現実世界に対して悪しき影響をもたらしているとすれば、
それは優れた作品が軽んじられているからである。オレが白倉的な作劇
思想を忌避するのは、ごくごく一般的などこにも新味のない物語でさえ
もち合わせているこのような効用に対していっさい理解がないからだ。
さらには、物語の扱うものにしか興味を示さず、優れた物語とは何かと
いうアイディアがないからだ。

彼の抱える問題性が、オーセンティックなスタイルの文芸によって十分
に追求可能であることに気附かず、新たな改革という名の脱構築が必須
であると強弁する困った「若さ」を忌避するのである。

文芸に脱構築の大鉈を揮いたいのなら、最低限オーセンティックな文芸
の文脈を共有していただかないことには、無神経な破壊行為にしかなり
得ないだろう。

だからこそ文芸の人としては、スケジュール管理も予算管理もできない
うえに作業メソッドもマーケティング理論も社会人としての常識もない
でっかいメガネのプロデューサーにも及ばないのである(木亥火暴!!)。

いやまあ、これは完璧に脇道に逸れた(木亥火暴!!)。

そもそもこの辺のまこちゃん絡みの問題については、白倉の責任はほぼ
皆無といっていい
だろうから、こういう脇道は誤解を招くじゃないか、
いやだなぁ(木亥火暴!!)。

とまれ、残念ながらオレとしてはレイ・美奈・まこの三者を使った前世
を巡る後半の展開については、ドラマ的にはまったく評価していない。
現状としてはやれるだけの手当をしたということはわかるのだが、小林
靖子的作劇としてはダメな部類だろうと思う。

描かねばならない要素を、いろんなものを犠牲にしてようよう纏めたと
いう程度のもので、それが感動を呼ぶまでには至らない。最大の悪影響
としては、美奈子の死に明確な意味がなくなったということが挙げられ
るだろう。

まこちゃんの気附きが「わたしが間違ってました」式であるなら美奈子
の気附きも同じである。間違っている者同士の合わせ鏡によって過ちに
気附くという安直な落としどころを用意したため、シリーズ全話を通じ
た美奈子の姿勢が「間違ってました」というふうに見えるため、折角の
見せ場である美奈子の病死が薄っぺらなものになってしまった

もともとこれまでの美奈子の描写は視聴者にとって微妙なものだったの
で、切実な感情として「生きてくれ、美奈子」と祈るほど緊迫した情感
が生まれない。無論視聴者とて美奈子に好意を抱いてはいただろうから
好きなキャラクターが死んでしまうという哀しさは覚えるが、劇中での
生き様を通じた「惜しさ」「辛さ」が立ち上がってこない

別段小松彩夏が好きでもない視聴者なら「ああ、結局死んだのね」程度
の感想しか覚えないだろう(笑)。

これほど鮮烈に生き急いだ人物が、生きようと望んだ刹那に命絶えると
いう悲劇があっていいのか、というほど切迫した感情がないのである。
隣の可愛いみよちゃんは元気そうに見えたのにある日突然死んじゃった
という種類の哀しさというか、そりゃあ年頃の少女が病気で急死したら
哀しいよな
という種類の哀しさしか覚えないのだ。

これはつまり、美奈子が死病を押して闘い続ける姿勢に、視聴者が納得
できるような意味附けができなかったからである。客観的に視てそれが
間違った姿勢であったとしても、「無理もない」と視聴者が思わずイレ
込んでしまうような鮮烈な動機を設定できなかったからである。

それが憎悪でもいいし、使命感でもいい、自身の存在意義を勝ち取る戦
いであってもかまわない。だが、結果的に出来した意味は、死病の運命
に焦りを覚えた、現世を生きようとしない一種の怯懦であったというの
なら、視聴者にはそれほど共感できないだろう。

たしかにそんな感情は視聴者にだって理解できる。しかし、それは一種
後ろめたさを伴うバツの悪い同意でしかなく、積極的に「それが間違っ
ているとしても、美奈子の想いはたいせつにしてやりたい」とイレ込む
ような性質の共感ではない。

だれしも現実に美奈子の立場に立たされたなら見苦しく取り乱すだろう
が、劇中人物として物語の世界を生きるのなら、せめて雄々しく残され
た時間を生き抜きたい。それが当たり前の感情だ。それは下世話な本音
ではなく、切実な願いの感情が優先されるべき問題なのである。そんな
血を吐くような共感を呼ぶべく物語を語るべきだったのだ。

一種、生き急ぎ死に急ぐ美奈子の鮮烈な生き様は、現世対前世のお説教
に安易に利用すべきではなかった
のだ。死病に斃れることが予め定めら
れている少女の非情な生き様を、正しいとか正しくないとか論評すべき
ではなかったのである。「わたしが間違ってました」と思い知らされて
呆気なく死ぬ少女の死の、なんと間抜けで無意味なことよ。

美奈子の死が哀しいとしたら、それは無意味な死を死なされたからだ。
ここで唐突に、うつくしく女ぶりを演じてみせる最大の見せ場を奪われ
た陽菜を想い出してもいいだろう。美奈子にとってのそれは死であり、
死がひとしなみに無意味である現実に対して、精一杯美奈子の死を意味
附けてみせること
こそが、語り手に求められた誠意ではなかったか。

これはたとえば、ブラックコンドル結城凱皇帝黒岩省吾の無意味な死
とはまったく意味が違う。彼らが「無意味な犬死に」をすることは作劇
的に重要な意味をもっている。何かを得て平和裡に安閑と余生をすごす
ことはアンチヒーローに相応しい末路ではない、途半ばの若さのままに
無念の死を死ぬべきである
という井上敏樹の強烈な美学がそこにある。

そのような男の美学が、観客の心理に普遍的に内在する照れくさい憧れ
と響き合うからこそ、その死が徹底的に無意味であることが、最大限の
意味性をもつのである。

しかし、愛野美奈子という本来アンチヒーロー的な強烈な生き様を期待
さるべき少女は、普通の少女として普通に病死してしまった。これは、
あらゆる意味での「無駄死に」である。だれも歓迎していない美奈子の
死という結末が不可避のものであるのなら、熱いドラマによって華やか
に死化粧を彩ることこそ、せめても手向けの香華だったのだ。

タイムファイヤー滝沢直人の強烈な生き様とその末期を描ききった小林
靖子なら、その辺の機微はわかっていて然るべきだったのである。だれ
がなんといおうと、個人の信念の問題としてそのように描くべきだった
のである。

少女たちはすでに後戻りできない別々の迂路を辿り始めてしまった。

その途は男たちのものほど輝かしい場所に続いているわけではない。

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